2021年3月31日水曜日

桜リグレット


 

春はリセットの季節だ。卒業、入学、就職を始め日本の社会はこの季節を起点に回っている。

 

そんな節目の時期に桜の花が彩りを添える。誰もが持っているさまざまな節目の記憶には桜が寄り添う。

 

だから桜には単なる美しさだけでなく、切なさが付いて回る。花の盛りが短いという理由だけでなく、人々の記憶に寄り添ってきたことが切なさを呼ぶ。

 

10年以上前にもこのブログで桜の切なさを書いたことがある。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/03/blog-post_23.html

 

先週末、快晴の花見日和だったから自宅近辺の桜の名所を散策してみた。賑わう人々の表情も自然と柔和になっているようで青空の下、穏やかな空気が漂う。

 



 

チコちゃんに叱られるぐらいボーっと佇んでいた私は、幾度となく見知らぬ人たちに声をかけられた。

 

サインを求められたわけではない。シャッターを押してくれと頼まれただけである。持ち前のサービス精神でバッチリの構図を探して撮影してみた。

 

いい人である。さすがだ。

 

頼んでくるのは家族連れだ。中学生ぐらいの兄妹のいる4人家族や三世代ファミリーからも頼まれた。

 

オバチャンやお婆さんは物凄く嬉しそうな表情、子供世代は鬱陶しそうな表情である。そんな絵に描いたような家族像を眺めてホッコリした気分になった。

 



 

ホッコリした気分がずっと続けば良かったのだが、こちらは一人きりの散歩である。だんだん疲れてくるし、だんだんと妙におセンチな気分になってきた。

 

桜をめぐる思い出が次から次に甦ってくる。人生の節目節目で感じたこと、考えたことを懐かしく思い出す。と同時に既に自分がその頃とは違う次元に生きていることを実感する。

 

人生には第一幕から最終幕までどれどけの区切りがあるのか分からないが、かつて桜を見ながらいろいろ考えていた頃の自分は、もう手が届かないぐらい遠い存在になっている気がした。

 

人生の章立てにおいて、違う章にいつの間にか移ってしまっている感覚とでも言おうか。何だか“置いてきぼり感”がのしかかってきた感覚に陥り、ちょっと息苦しくなった。

 

そんな感覚になるのも桜の魔力だろう。誰もが思い描いていた人生を歩めるはずはない。要所要所で折り合いを付けながら選んだ道を歩く。選んだ道が正しいかは最後まで分からない。

 

そんな葛藤は誰にだってあるが、満開の桜には普段は封印しているそんな感傷的な気分を呼び起こす不思議な力が宿っているように思える。

 

ベンチに腰を下ろし、青空と桜のコントラストを眺めながら妙に気持ちが落ち込んだ。孤独感とは違うのだが、置き去りにされてしまったような切ない気分だった。

 

以前から桜より梅のほうが好きなのだが、その理由もきっと桜が持つそんな魔力のせいなのかもしれない。

 

梅は楚々としているというか、淡々と佇んでいる感じだ。桜には襲いかかってくるような怖さがある。

 

そんな鬱々とした気分でしばし時を過ごす。とはいえうららかな春の休日にそんな気分は似合わない。普段の脳天気な自分を取り戻さないといけない。

 

鬱々した気分を退治するのは脳内回路をエロ方向に切り替えるのが手っ取り早い。

 

おもむろにスマホを取り出し、近々会う予定の女子にLINEを送る。

 

「今度はTバックで来るように。短めのスカートでね!」

 

バカである。

 

でも、切なさに対抗するには刹那的な時間を過ごすのが効果的である。ウジウジ考えている暇があったら煩悩の海に沈んだ方がマシだ。


そういうことである。

 

意味不明な話になってしまった。。。

 

 

 

 

2021年3月29日月曜日

男の後ろ姿 白髪問題

この1~2年の自分の変化のひとつが白髪である。一気に増えた。加齢を痛感する。

 



 

と、悲しそうに書いてはみたが、白髪混じりのオジサマになったことを喜ばないといけない。ハゲチャビンになることに比べればラッキーだ。

 

ひとえに自分の努力の賜である。15年ぐらい前、薄毛が激しく進み、カツラ屋に行って型まで取って発注したあげく、ギリギリで踏みとどまってキャンセルし、それ以来は自助努力を続けてきた。

 

飲み薬や塗り薬、サプリやシャンプーまで研究してきたせいで、なんとかハゲ散らかさずにここまで来た。


毛髪活性化をめぐる涙ぐましい努力の話は7年前にも書いているが、この時に載せた画像に比べるとかなり白髪が増えていることが分かる。


http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/10/blog-post_15.html

 

白髪が増え始めた頃、鏡で見える前側はマメに抜いていた。この5年ぐらいで少なくとも1000本は抜いたはずだ。

 

本末転倒である。必死に減らさないように高いコストをかけて頑張っている一方で、白くなったら抜くなんて実にもったいない。

 

抜いていたのは前側だけだから、後ろ姿は冒頭の画像のような感じである。このぐらい白と黒が混ざり合えば悪くない。ぽつんぽつんと白いのが悪目立ちしていると抜きたくなる。

 

前側と後ろ側で白髪の交ざり具合が異なるのもヘンテコなので、いよいよ前側の白髪を抜くことを辞めた。

 

ついに戦い終了だ。お爺さんへの第一歩を歩み始めた気がする。

 

白髪もそうだが、自分の後ろ姿にはなかなか意識が向かない。コロナのせいで銀座あたりの飲み屋さんで綺麗どころに見送られることもなくなったから、後ろ姿に気を配る場面も減った。

 

男の背中には物語があると言われる。哀愁とともに語られることが多いが、果たして自分はどうなんだろうか。

 

憂いも哀しいこともないから、哀愁が漂っているはずはない。とはいえ、昔より疲れが溜まりやすくなったから弱々しい場面も多いのかも知れない。

 

平日の朝、仕事に向かう人波の背中はどれも皆ドンヨリした感じに見えるが、週末の繁華街の人波はどこか楽しそうだ。

 

気分は背中に表れるわけだから、哀愁を漂わせていることはちっとも自慢にはならない。不幸自慢みたいなものだ。

 

一昔前はそんな哀愁漂う男にも憧れたが、いま思えばそんな状態はイヤだ。この歳になってウジウジしていたらガン細胞が喜んで活性化しそうである。

 

こんなご時世でもあるし、陽気な背中を目指したいものだ。楽しいことを考え、バカみたいなこともいとわず、脳天気に過ごしていれば、後ろ姿もきっとドンヨリはしないはずだ。

 

ついでにこれまた7年前に書いた男の背中をめぐる話を載せてみる。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/06/blog-post_6.html

 

われながらなかなか面白いことを書いていた。やはり7年も前だと書く内容が今よりも若い気がする。

 

この頃は銀座で飲み歩いて女性陣の画像をバシャバシャ撮るのが普通のことだったわけだから、コロナ禍ですっかり変わった世相に今更ながら驚いている。

 

徐々に以前の日常に戻るためにリハビリに取り組み始めようと思う。



2021年3月26日金曜日

この新しい朝に

今年も春がめぐってきた。新型ウイルスに見舞われてから2度目の春だ。当初予想されたような凄惨な状況は免れている。

 



 

これは国の政策の効果などではなく、純粋に日本人の真面目な努力のおかげだ。心底皆様にご苦労様と言いたい気持ちになる。

 

高齢者や持病を持つ人以外は死に至るケースが希だと分かってきてもキチンと感染予防に努める国民性は世界に誇れるものだと思う。

 

その一方で、いろんな意味で追い込まれている人たちも物凄い数にのぼる。たとえ暮らしは傾かなくても、精神的なダメージや夢をあきらめたり目指す道を断念せざるを得なかった人は多い。

 

個人的にはたいした影響を受けずに済んでいる。幸運だと思う。

 

あの「311」の大震災の時、何ら被害を受けなかったことで、何か息苦しいような、肩身が狭いような感覚に陥ったが、いま苦境にある人を想うと似たような気持ちになる。

 

無事だった自分には何が出来るのか、そんなことが頭に浮かんでも具体的な行動につながらない。おのれの凡人ぶりを痛感する。

 



 

先日もウナギの白焼きを前に一人ポツんと座敷にふんぞり返っていたら得体の知れない居心地の悪さを感じた。

 

広いスペースを占有して呑気に酒を飲んでいる姿はヘンテコだ。そんなことに気付いて申し訳ないような落ち着かない気分になった。

 

とはいえ、そんなネガティブな意識では逆に家に引きこもることになって悪循環に陥ることも確かだ。

 

いま必要なのは良い意味での居直りかも知れない。私の「一人お座敷ウナギ」だって飲食店にとっては悪い話ではない。そう解釈する方が前向きだろう。

 

ただただ活動しないことを良しとする闇雲な同調圧力は愚の骨頂でしかない。前を向き始めないとダメな時期だと思う。

 

やる事の無い人、やる気を起こしたくない人、ただサボっていたい人にとっては、誰もが横並びで自粛する社会は居心地が良いのだろう。でも世の中、そんな連中が中心になったらロクなことはない。

 

というわけで、やたらと前振りが長くなったが、私が敬愛するハマショー師匠が今の世相に対する素晴らしい応援歌を出した。今日はそれが書きたかったわけだ。

 

わがオジサマバンドの仲間がラーメンブログを書いているのだが、ハマショー師匠の新曲をラーメンそっちのけで書いていたから私も刺激を受けてしまった。

 

http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/archives/1078440745.html

 

もともとシングル盤が売れるようなポジションのミュージシャンではない。アルバム発売予定もない今の時期にあえて新曲を発表したところに世の中へのメッセージ性を感じる。

 

歌詞の中に直接的な表現は無いのだが、コロナ禍の社会に対するストレートな応援ソングだ。

 

♪人は弱くない キミも弱くない ただ少し疲れているだけ♪

 

そんな視点で前に進む人たちの背中を押してくれる歌詞だ。繰り返し展開される「長い坂道の上には青空が広がっている」というサビの部分はハマショー師匠ならではのメロディーラインでファンとしてはシビれる。

 

https://youtu.be/-bRRaRjVxik

 

イマドキの音楽は、いわゆる打ち込み全盛だ。そんな中でハマショー師匠の“昔ながら感”は逆に新鮮だ。演奏に関しても人のぬくもりが伝わってくる「音」が良い。優しさを感じる。

 

若い世代にこそ聴いて欲しい曲だ。ある程度の年齢になれば、何とかなるさ的な達観も持てるが、2030代ぐらいだとトンネルの出口が見えないような気持ちになりがちだ。

 

いつか必ず出口は見える。そんな気持ちで今という世相と向き合いたいものだ。

2021年3月24日水曜日

ローテーション

ローテーションと聞けば、まもなく開幕するプロ野球の投手陣のことか、AKB48のヒット曲などを連想する。私の場合、それに加わるのが「寿司、ウナギ、焼鳥」という外食ローテ-ションである。

 

一人暮らしだから外食の頻度は高い。数え切れないほどの外食ジャンルの中でも保守的な中高年である私は上記3つのいずれかで済ますことが多い。

 

寿司、ウナギ、焼鳥。お供は日本酒か焼酎か、はたまたホッピーだ。ワインなんてしばらく飲んでいない。オジサマの完成形である。

 

お寿司屋さんは季節の変化をしっかり味わえるのが良い。ウマいものを食べながら四季を感じるのは日本人ならではの贅沢な時間だ。

 




 

新富町の「なか山」での一コマ。ホタルイカ、白エビ、カツオなどなど。こういうものを並べて一献傾けていると日頃の憂さも忘れる。

 

旬のモノは身体に良いという迷信?を信じて沈思黙考しながらウマい酒に酔うのはオトナのタシナミだと思う。

 

そうは言っても、時には女性連れのこともある。そんな日は脚ばかり眺めながらヤボなことばかり考える。そんな煩悩に浸るのも私のローテーションみたいなものだろう。

 



 

前回、海老の握りばかり食べているようなことを書いたが、ウマい赤身や穴子に煮蛤、コハダ、白身の昆布締め、ウニも好きだ。余裕があればワサビをしっかり入れたかんぴょう巻きもムシャムシャ食べる。

 




 

酒中心になることが多いせいで、帰宅後しばらくすると小腹が空いてウーバーでマックのフィレオフィッシュを宅配してもらう困ったクセがあるのだが、それさえ無ければ寿司で過ごす時間はヘルシーである。

 

ウナギはしょちゅう食べるものではないのだろうが、好きだから頻繁に食べてしまう。何でもない日がハレの日みたいな気分に変わる。

 



 

自宅から徒歩圏内にある「築地宮川本廛」での一コマだ。私にとってウナギは最高の酒のアテだ。鰻重が来る頃には既に空腹じゃなくなっているのが問題だ。

 

夜のウナギ大会ともなれば、白焼きはもちろん、うざく、う巻きといった一品で冷酒をクイクイ飲むのが楽しい。肝焼きも欠かせない。

 




 

こういうのをチマチマ食べていると、楽しみで仕方なかった鰻重がキツく感じてしまう。若い頃なら余裕だったのに歳月の流れがちょっと憎い。

 

さて、焼鳥に移る。最近は自宅から徒歩圏の新富町「義常」に行く機会が多い。ウナギもお寿司も近場でウマい店があればそこが中心になる。

 

ここの焼鳥は総じて美味しいのだが、アレコレ用意されている一品料理をツマみながらホッピーや焼酎系のジョッキをグビグビやるのが楽しい。

 



 

この画像はレバーソテー。ホッピーやサワー類にはこういう料理が最適だ。ナンコツ唐揚げあたりも加われば実にハッピーな気分になる。

 

先日行った際、つまみの他に焼鳥は4本だけにして、初めてご飯モノを注文してみた。そぼろご飯である。

 

そぼろご飯自体は珍しいものではないが、個人的にはあまりウマいものに当たった記憶がない。ボソボソしてたり、味が中途半端だったり冷たかったり等々、良い印象がなかった。

 

隣のお客さんが食べているのを見て、ウマそうだったから挑戦したのだが、これが妙に美味しくてビックリした。

 



 

上に書いたような悪い部分がすべて無い。ジューシーで味わい深く一気にファンになってしまった。

 

値段は500円ぐらいだったと思う。すっかり高値になってしまった鰻重に比べたら驚異的なお手軽さである。

 

そぼろご飯が今後のローテーションの柱になることは間違いなさそうだ。

 

2021年3月22日月曜日

海老の握り

寿司ネタで何が一番好きか。人によってさまざまだ。私自身もたぶん数年単位で好みは微妙に変わる。

 

いま一番好きなのはエビの握りだ。エビより海老と書いたほうがシックリくる茹でた海老の握りである。

 



 

若い頃は茹で海老よりも生モノが好きだった。甘エビ、ボタンエビ、シマエビ、オニエビ、ブドウエビ等々、いろんなエビを食べてきた。

 

生のエビの甘みは独特だ。あれはあれで魅力的だ。茹で海老は安い回転寿司屋やスーパーで売っている寿司盛り合わせに入っているペラッペラの謎エビ?のせいで世間での地位はかなり低い。

 

その昔、それこそ握り寿司が誕生した江戸時代には茹で海老は寿司におけるスター級の存在だった。

 

冷蔵庫など無い時代である。生モノは食べないから、いわゆる仕事を施したタネで寿司は握られていた。

 

マグロのヅケ、穴子や煮ハマグリ、コハダ、白身の昆布締め等々、手間を加えたものばかりだが、当然、エビも茹で海老が標準だ。

 

そうなると色合いも美しいし、海老様が寿司ネタの中でスター級になるのも納得だ。浮世絵にだって海老の握りは出てくる。

 



 

ちゃんとしたお寿司屋さんで出てくる茹で海老は、テキトーな店で出てくるものとは段違いで美味しい。

 

ペラッペラの紙みたいな怪しい謎エビ握りを子供の頃や若いうちに食べてしまうと「茹でエビ=ダメな握り」と刷り込まれてしまう。もったいないことだ。

 

茹でた車海老はほんのりとした甘みの他にコクというか香ばしい旨味に満ちている。丁寧に仕込んでいる店の海老握りは日本食の奥深さを感じられる一品だと思う。

 





 

若い頃、北海道を旅した時に確か札幌で入ったお寿司屋さんで海老をめぐって不快な思いをしたことがある。

 

東京人としては「海老の握りください」といえば茹でたタネの寿司が出てくると思うのが普通だが、その時は甘エビが出てきた。

 

仕方なくそれを食べてから「次は普通の海老を」と注文した。すると店の大将が「今のが普通のエビだよ」と返してきた。

 

しかたなく「茹でたヤツを・・・」と言い直したら「なんだそれ、そんなもん無いよ」と小馬鹿にされてしまった。

 

30年以上前の話だ。若かった私はショボンとしてしまったが、今だったら四の五の言い返してドタバタしたかもしれない。

 

まあ、北海道と東京では寿司の流儀が違うわけだから、そんな場所でわざわざ茹で海老を頼もうとした私に問題があったわけだ。

 

でも、あれから30年以上が経って少しは寿司のウンチクが分かるようになったから、あの時の寿司屋のオヤジに茹でた車海老のウマ~い寿司のウンチクでもしっかり語りたいと思う。


寿司に限らず、日本料理の世界では海老は縁起モノである。曲がった腰やヒゲが長寿を表すという意味で大事にされてきた。

 

他にも何度も脱皮を繰り返すことから「再生」のシンボルという見方もある。目が飛び出ているから「目出たい」という意味合いもあるらしい。

 

寿司屋で食べる茹で海老は色合いも鮮やかなのが良い。確かに何となくメデタイ感じに見える。

 

どう転んでもオッサンまっしぐらな私である。海老のめでたさにあやかった方がいいから、これからも茹で海老の握りをバンバン食べようと思う。

2021年3月19日金曜日

豚肉で幸せになる

何だかんだと豚肉ばかり食べているような気がする。大衆的なやきとん屋も高級なトンカツ屋も好きだ。牛丼より豚丼が好きでチンジャオロースよりホイコーローや酢豚を選ぶ。

 






 

若い頃までは牛肉がとにかく好きだったが、いつのまにか牛より豚だ。鶏肉も好きだが、空腹が極まると頭に浮かぶのはいつも豚肉だ。

 

ラーメンを食べる時もチャーシューが主役だ。もしチャーシューが無かったら麺を完食することはないかもしれない。

 




 

自宅にはチルド麺がいくつもストックしてあるが、気に入ったチャーシューをトッピングして食べるのが主目的だから、チャーシューが無い時は食べない。

 

セブンイレブンあたりで人気のチンするだけのラーメンも時々買う。別盛りで容器に収まっている麺とスープをセットでチンするだけでそこそこの味が楽しめるのだが、それを食べる時も別途用意してあるチャーシューを追加投入する。

 

最近のお気に入りが有楽町の交通会館内にある全国物産店「むらからまちから館」に置いてあるチャーシューだ。

 



 

鹿児島産チャーシューのスライス版とブロック版をまとめて買ってストックしてある。たいしてウマくないチルド麺だろうと、このチャーシューをドカドカ入れるだけで別モノに変身する。

 

この商品はわざわざ買いに行く必要があるが、ネットスーパーで取り寄せるチャーシューにもお気に入りがある。

 

Amazonフレッシュで買い物する際についつい買ってしまうのが江戸清という肉屋さんが作っているチャーシューのブロックだ。

 



 

ちょっと脂っぽい部位に当たっちゃうこともあるのだが、少し甘みがある味付けでラーメンに加えたくなる。

 

冷凍で届くのだが、3回分ぐらいに小分けにカットして保存してある。これもどうでもいいラーメンでも一気に満足出来る味に変えてくれる。

 

われながら不思議なのは、時々無性に食べたくなる「サッポロ一番」にはチャーシューをナゼか乗せない。

 

きっとあれはあれで私の中で味が完結しているのだと思う。チルド麺のラーメンの時は気が狂ったようにチャーシューや刻みネギを入れる。クセみたいなものだろう。

 



 

チャーシュー以外にも豚しゃぶを蕎麦つゆで食べるのも大好きだし、中華料理屋さんにウンパイローがあれば必ず食べる。

 

とくにオチもまとめもないまま書き殴ってしまったが、豚肉の話のシメはやっぱりこのチャーシューメンの画像だろう。

 



 

職場の近くにある喜多方ラーメンの店「坂内」のヤケクソみたいな一品だ。これを見るだけで心の中に幸せが広がる。

 

これを知ったのは最近のことだが、若い頃に出会っていたら週に7回は食べていたような気がする。

 

いや、今だってその気になれば週に5回、いや3回は食べられるはずだが、さすがに身体に悪いから我慢している。

 

2021年3月17日水曜日

なごりガニと温泉

 毎年今の時期になると「なごり雪」が頭に浮かぶ。いつも鼻歌でフフフンとうなっている。名曲中の名曲だと思う。無形重要文化財にして欲しいぐらいだ。

 

♪きみの唇がさようならと 動くことが   こわくて下を向いてた~~♪

 

映画を観ているようなドラマチックの歌の世界が大好きだ。

 

なごり○○というタイトルは演歌を中心にいくつもある。なごり酒、なごり歌、なごり路、なごり雨、なごり船・・・等々。

 

変わったところでは、替え歌大王の嘉門達夫の名作「なごり寿司」がある。銀座あたりで思わせぶりなオネエサンに寿司を奢らされたオジサマがたにとっては涙なくしては聴けない名曲だ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=a_f2k6Xln-A

 

と、意味不明な前振りを書いたが、先週末私も「なごり」を楽しんできた。その名も「なごりガニ」である。

 

日本の冬の味覚の王様といえばズワイガニだろう。私は圧倒的?に毛ガニ派なのだが、さすがに禁漁間近だとズワイをしっかり食べたくなる。ズワイガニは320日頃に禁漁になるから今がまさにラストチャンス。

 



 

ズワイといえば北陸あたりがイメージされることが多い。越前ガニなどはバカ高いことで知られる。

 

同じ日本海を歩いているカニなのに山陰で揚がるほうがちょっと手軽だ。そちら側では松葉ガニという名前でブランド化している。

 

今回出かけたのは米子から近い皆生温泉だ。以前にも何度かカニ攻めに出かけている。

 

羽田から米子まで1時間程度で飛んで、空港からタクシーで20分ぐらいで到着する。実にラクチンにカニ三昧を楽しめる。

 



 

泊まったのは皆生シーサイドホテル。松葉ガニ尽くしの宿泊プランが良さそうだったので選んだ。

 

海沿いの大浴場も気持ちよかったが、貸し切りの家族風呂や露天風呂もあって、やたらと保温性が高い上等な泉質のお湯を堪能できた。

 

何はともあれ夕食はカニである。カニ好きじゃなければ間違いなく飽きちゃうぐらいカニばかり出てくる。

 



 

刺身、茹で、焼き、鍋、天ぷら、雑炊の他、カニ味噌やカニ茶碗蒸しまで全部楽しめた。

 

カニの姿盛りの甲羅の中にもミソがたっぷりあって、冷酒をカピカピ飲みながら冬の名残りを存分に楽しんだ。

 





 

カニ以外の前菜や地魚の刺身などには目もくれずカニばかりをむさぼった。タグが付いている上モノのカニはさすがに身入りが違う。ギッシリだ。

 



 

カニ酢がいらないぐらいカニそのものの味を満喫する。焼いたら焼いたで甘みが増すし、鍋のカニは出汁の旨味をまとってこれまた最高だった。

 

カニづくしの場合、たいていは食べ疲れて最後の雑炊が億劫になるのだが、今回はシメの雑炊のウマさに卒倒した。

 



 

カニすきを食べ終わった鍋にそのままご飯を投入、最後に余熱で生卵をとき味を調える。焼きガニや茹でガニの食べきれなかった余りの身も雑炊に加える。

 

鍋の出汁自体が非常に美味しかったせいか、気が狂いそうになるほどウマい雑炊だった。一口だけ食べるつもりが何かの中毒患者のように完食。幸せだった。

 

到着日は17時ぐらいに現地に着いて、翌日は11時発の便で羽田に戻ったので、まさにカニと温泉だけの時間を過ごした。ANAマイルの特典航空券サマサマである。

 




 

朝ご飯はそれなりに品数も用意されていたが、面白かったのが、生卵お代わり自由という仕組みだ。卓上にTKG用の醤油が4種類も用意されているのがニクい。

 

こうなると鮭や海苔などを突っついている場合ではない。醤油を吟味して2種類選び、TKGをしっかり2杯楽しんだ。

 

朝風呂、朝飯をのんびり楽しんで空港に向かう。その名も米子鬼太郎空港である。土産物も鬼太郎推しだ。

 



 

鬼太郎モノなんていったい誰が喜んで買うのだろうなどと不謹慎な気持ちで搭乗開始を待つ。

 

スムーズに機内に案内され離陸を待つ。なぜか私の手元には週刊誌と一緒に「一反もめんのマグカップ」があった。無意識のうちに買ってしまったようだ。妖怪おそるべし。

 

 

2021年3月15日月曜日

音質は大事だ

若い人と話していると「音質」へのこだわりが無い人が多くて少し驚く。たまたまかもしれないが、そういう話を立て続けに聞いた。

 

どうやらスマホですべて完結する習慣や海賊版ソフトで音楽を聴く習慣のせいで音質のことはあまり気にしない傾向にあるらしい。

 

私が若い頃は家のコンポやカーオーディオの音質にやたらとこだわった。あの執着心は若さゆえのものかと思ったが、時代が変われば若者の意識も変わるのだろう。

 



 ウオークマンの一号機が世に出た当時、私は中学生だった。早速手に入れて使いまくったが、当時はレコードの時代であり、カセットの時代だった。

 

カセットテープを聴くために必死に音質にこだわったわけだから今思えば何ともいじらしい世界である。

 

若い頃はカーオーディオを何十万もかけて新調したが、しょせんはカセットテープを聴くための努力だった。

 

その後、CDの時代が到来したときも、やはりウン十万かけてカーオーディオを専門ショップで音質向上に必死になった。

 

家庭人だった頃に建てた家でもホームシアターをせっせとオーダーして割と高価なスピーカーを天井に5個も埋め込んで臨場感を楽しんでいた。

 

10年以上前にはこのブログにもせっせとホームシアターの自慢話を書いていた。何とも懐かしい。十年ひと昔である。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2007/11/blog-post_14.html

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/08/100.html

 

今はしがないジプシー、ボヘミアン生活なので、自宅の音響にさほどこだわっていない。それでも簡易的なホームシアタースピーカーをテレビにつないでいるため、それなりに迫力のある音で映画や音楽を楽しめる。

 



 

クルマに関しては、カーオーディオは昔より進化しているので、カスタマイズしなくても上質な音が楽しめている。

 

いま乗っているクルマには米国の人気メーカー「Harman Kardon」のスピーカーが10個も付いているし、前に乗っていたクルマにはBang OlufsenだったかBowers&Wilkinsだったか欧州製ハイエンドスピーカーが装備されていた。

 

やはり心地よく音楽を聴くにはそれなりの音質が必要だ。自分で撮った怪しい動画の音声?ならともかく、音楽はスマホのスピーカーではダメだ。

 

さきほどのクルマのスピーカーのようにマニアックなものでなくても、イマドキの音響機器は低価格帯でも結構なレベルの音質がウリだ。

 

私が散歩するときに使っているのが「TaoTronics」という聞いたことがないメーカーの安いBluetooth対応イヤホンだ。

 



 

3500円である。居酒屋で飲んでももっと取られる。そんな低価格なのに耳元で音量調整や早送り、巻き戻しも出来る。

 

音質もちゃんとしている。昭和の人間の感覚からすれば、ちゃんとしているどころかしっかりと高音質だ。

 

この種のイヤホンもハイエンドメーカー製ならウン万円単位の商品も珍しくないが、それらは一体どれほど音質が優秀なのか気になる。

 

気になるのだが、今使用している低価格モノで充分なので、つい高級機を買う機会がない。富豪を目指すなら高級イヤホンの一つや二つ、悩まずに買わないとダメである。今度買ってみようと思う。

 

家で時々使っているBluetoothスピーカーも「Anker」という聞いたことのないメーカーのスピーカーでそこそこ満足している。5千円もしないで買える。

 



 

SONY製のもっと高いスピーカーもあるのだが、音質はあまり違わない気がする。10万クラスのスピーカーなら随分違うのかもしれないから、やはり頑張って買ってみようか。


まあ、いずれにせよ、昔より“そこそこスピーカー”の質が上がっていることは確かだ。

 

音質にこだわるなどと大袈裟に書き始めた割には安価な商品で満足しているシャバダバな実情を書いただけになってしまった。

 

とりあえずスマホのスピーカーで満足するよりは一応こだわっているということである。

 

 

 

 

2021年3月12日金曜日

コンビニさまさま

相変わらず無軌道な食生活が続いている。青汁や各種サプリでバランスをとっていると思い込んでいるから、普段口にするのは好きなものばかりだ。

 

ウーバーイーツも我が日常のライフラインみたいになり、気分に応じてあらゆるジャンルの食べものを取り寄せる。

 



 

こんな鳥の丸焼きを頼んで一人黙々と食べていると、さすがに自分の健康面が心配になる。

 

とはいえ、たとえ自炊するにしても怪しい農薬や添加物だらけのテキトーな食材を買って塩分多めに味付けすればヘタなデリバリー飯より不健康だろう。

 

結局、何が良いのかはよく分からない。

 

さてさて、コンビニ弁当といえば、我々の世代から見れば「ダメな食べ物」というイメージが強い。

 

今はだいぶ進歩したからそんなことはないだろうが、その昔は大の大人はそんなモノは食べないという不文律みたいな風潮はあった。

 

弁当はともかく、イマドキの「コンビニ飯」の進化には驚かされる。オリジナルの冷凍食品の中にはビックリするほどウマいものは多いし、レトルト系にしてもセブンイレブンの「金の~~」シリーズなどはかなり満足出来る。

 



 

レンジでチンするだけの焼き魚の味も結構なレベルだ。レンチンの焼き魚なんて気持ち悪いし、ウマいはずがないと思うのが普通の大人の感覚だ。

 

私もそうだったのだが、試してびっくり、ちゃんと美味しい。きっと料理下手な奥さんが作る焼き魚よりマトモだ。

 

コンビニの食べ物の中でも特筆すべきはスイーツの進化だ。町のケーキ屋さんという存在が遠からず絶滅しちゃうと思えるほどレベルの高い商品が多い。

 




 

自宅の目の前のビルにセブンイレブンがあるため私は基本的にはセブンイレブン支持派だ。とはいえ、ウーバーイーツで配達を頼めるコンビニはローソンしかないので、そちらのスイーツもよく食べる。

 

ウーバーでローソンのスイーツを頼む場合、注文したはずの商品が欠品のケースが珍しくない。仕方なく多めに注文するのだが、欠品がない時は、幸か不幸か当然すべて届いてしまう。

 

シングルオジサマなのに冷蔵庫の中がスイーツだらけというシュールな事態になることも多い。

 



 

コンビニスイーツの中で最近のお気に入りはセブンイレブンの「バニラ香るチーズテリーヌ」なる一品だ。

 

ハヤリのバスクチーズケーキの変化球バージョンみたいな雰囲気だ。バニラアイス的な味とチーズケーキ的食感がミックスされたような官能的な味わい。

 

実に身体に悪そうな濃厚な感じが悪魔的で良い。紅茶とともに楽しめば退屈なステイホームの時間が魅惑のカフェにいるような気分になる。ちょっとオーバーか。

 

ステイホームなどしていない私が言ったところで説得力は無いが、どうでもいいカフェでウマくもないケーキとお茶で1500円ぐらい取られるなら自宅でコンビニスイーツを食べているほうが幸せだ。

 




 

最近のコンビニは、私のような絶滅危惧種の喫煙者にも優しい。喫煙室を用意している店舗まであるわけだから有難いったらありゃしない。

 

コンビ黎明期を知る世代の人間として、日々進化するコンビニの革新性や柔軟性には感心する。

 

現状に満足せず、絶えず創意工夫を心がけている姿勢には学ぶ点は多い。

 

なんだか大袈裟な結論になってしまった。世のオジサンオバサン世代は、ついつい「コンビニなんて・・・」と斜に構えて見てしまいがちだが、そういうクセは直したい方がいいと思う。

2021年3月10日水曜日

江戸東京博物館 浅草「ヨシカミ」

今年の大河ドラマは渋沢栄一の生涯だ。主人公が二枚目過ぎるのと、前半特有の若者時代のストーリーの退屈さには目をつぶって毎週欠かさず観ている。

 

渋沢栄一の残した言葉に次のような“格言”がある。

 

「もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である」

 

中高年世代にとっては実に含蓄のある言葉だ。胸に刻まないといけない。

 

私が大事にしている言葉の一つが「足るを知る」である。上の格言とは相反するが、両方とも生きる上で必要な心がけだ。要はどっちも大事である。

 

足るを知ることは、無闇に人をうらやんだり、不平不満ばかり言い出すチンケな人間にならないための思考法だ。この考え方を否定する人はヤボな人物に多い。

 

とはいえ、人間として向上心を忘れては元も子もない。「満足イコール衰え」もよく分かる。

 

仕事はもちろん、遊びにおいても忘れてはならないのが“プチ欲求不満”を維持することだと思う。それが張り合いにつながるし、創意工夫にもつながる。

 

何だか説教くさい話になってしまったから軌道修正。

 

歴史モノがそれなりに好きな私にとってワンダーランドみたいな場所に散歩に行ってきた。

 

両国にある江戸東京博物館である。東京人なら何度も足を運ぶべき場所だと思う。入場料600円の割には実に勉強になるし面白い。

 





 

精巧に作られた江戸の町のジオラマは圧巻。ミニチュアサイズで復元されている江戸城の美しさも必見だ。

 

江戸から東京へと変わっていく都市の変遷だけでなく、様々な文化の足跡が学べてとても楽しい。いま自分が生きている都市の歴史をストレートに学べる。

 

身体のことを考えて最近は意識して歩くようにしているのだが、ここをじっくり見て回ると立ちっぱなしの効果もあって、かなり効果的だ。

 



 

この日、足腰と頭が結構疲れたから、昔ながらの江戸前寿司でも食べに行こうと少し足を伸ばして浅草まで出かけた。

 

中途半端な時間だったので、お目当てのお寿司屋さんは開いておらず、何を食べようかしばし悩む。

 

結局、浅草イコール洋食という私の強固な思い込みのせいで、昼から通しで営業していた人気店「ヨシカミ」に足が向いた。

 



 

絶品タンシチューである。濃い目の味付けがまさに昔ながらの東京の洋食だ。白ご飯が一番合うのは分かっているのだが、欲張りな私は白ご飯は半分だけもらって、別途チキンライスを注文。

 



 

目の前で調理されるチキンライスを眺める。プロの手付きにほれぼれする。あんな鍋の振り方をマスターできたら自宅で毎日チキンライスを作りたくなるはずだ。

 



 

ほのかな甘みがあって、ケチャップが強すぎず実にバランスの良い味わいだった。浅草イコール洋食という私の固定観念が一層強まる結果となった。

 

私にとって東京は単なる地元だ。日頃、東京を特別な意識で捉えることはないが、こんな過ごし方をしてみると“我がふるさと”みたいな感覚が強まってなかなか面白かった。