2017年8月30日水曜日

寿司屋のカウンター


緊張感もなく暮らしている昨今、自分のユルユルぶりを痛感するのがお寿司屋さんで過ごす時間だ。以前はもっとキリっとした客だったはずだが、今ではフニャフニャである。


30歳ぐらいの頃から「寿司屋のカウンターでの過ごし方」は私にとっての大きな課題だった。いま思えば「大人の階段」だったのかもしれない。

物事がスイスイと動く時代の中で、「頃合い」「加減」「塩梅」「間合い」「空気感」といった、いわば大人の男としての“機微”の部分を学んだのが寿司屋のカウンターである。

なんだか大げさな書きぶりになってしまった。

少年時代はミーハー雑誌の影響でカリフォルニアが最高などと洗脳され、バブルの頃にはイタリアンだカフェバーだとカタカナ的なモノの洪水の中で育ってきた私である。

そんな私の指向は20代後半の頃から変わっていった。今は無き某寿司店の大将にいろいろなことを教わり始めたことがきっかけだった。

今よりも無知無教養だった私は、その店に通う常連さん達からも学ぶことは多かった。

あれから20年以上が過ぎた。恥ずかしい経験も重ねた。自分なりに勉強もして散財もして、場数も踏んで、今ではいっぱしのオジサマである。

当然、知識も経験も豊富にはなったが、その一方でいつの間にかカウンターに座っても緊張感もなしにユルユルするようになってしまった。

ユルユルになると自分なりに大事にしていたこだわりも無くなる。自分を律していたルールも守らなくなる。

昔は注文ひとつするにもイキがっていた。「そんなものは邪道だ」「女子供じゃあるまいし」などと勝手に気取っていた。

今では「コーンマヨ軍艦」が本気で食べたいと思うぐらいユルユルである。

これまで散々「シメはコハダに限る」「煮ハマは江戸前の華だな」「トロなんて食うもんじゃない」「かんぴょうに何故ワサビを入れないんだボケ」「シンコは2枚漬けぐらいがウマい」などと分かったようなことを語ってきた。

そんな呪縛のような信念?の一つが「イクラやウニばっかり食べるヤツは寿司のことが分かっちゃいない」というもの。それこそ寿司に詳しくない人をクサすような場面でエラそうに語ってきた。


ウニやイクラが死ぬほど好きな私である。なのにイキがってウニ、イクラを「女子供が食うもの」などと一段下に見るような物言いを繰り返してきたわけだ。

バカみたいである。女子供の皆様ごめんなさい。

まあ、職人さんが寿司ネタに仕事を施したかどうかという点で、他のネタとは差別されがちなのもウニ、イクラを取り巻く現実ではある。

とはいえ、ウマいものはウマい。好きなモノを多めに食べるのも別段おかしなことではない。他人からとやかく言われる話でもない。

というわけで、最近の私はウニやイクラばかり食べている。確実にヤボだと言われるほどバンバン食べている。


昔だったら変な自意識が邪魔をして頼むにしてもチョットだけだったのだが、今やヘタすればそればかり食べている。

ヤボの極みである。

夏の盛りを過ぎると生イクラが出回る季節だ。どこの店に行ってもブリブリ食べてしまう。

先日も下町の某寿司店で、生イクラをツマミで冷酒をクイクイして、その後、軍艦握りでも4貫食べてしまった。

昔の私の自意識であれば許しがたいヤボさである。


こちらは目白にある「鮨おざき」での一コマ。オープンしてまだ2ヶ月だが、バタバタ感は無く、じっくりとウマい魚を食べさせてくれる。

ウニの品揃えにこだわりがある店で、たいてい4~5種類の極上ウニが用意されている。ウマいイクラとウニをツマミに様々な冷酒をカピカピできるのは最高だ。

種類や産地の違うウニを少しずつ味比べする。面白いもので醬油に合うウニと塩で食べた方がウマいウニに大きく分かれる。そんな発見が出来るのも「ウニ祭り」状態のおかげである。

先日は5種類のウニがあったので、ツマミで3種類、握りで2種類を食べた。

「ウニばかり食べるのはヤボ」という私の信念?からするとスーパーヤボ野郎だが、一応、産地と種類が違うからセーフである。

まあ、単なる言い訳だ。

お寿司屋さんには他にウマいものが揃っているのに、ウニ、イクラばかりに目が向くのは、この歳になってオムライスやクリームコロッケに大興奮するのと同じかもしれない。

要は大人としての自制心が弱ってきて、単なるワガママが加速しているわけだ。見方によっては立派な老化現象かもしれない。

歳を取ると子供に戻っていくと言われる。でも、たかだか50歳を超えたぐらいで“赤ちゃん返り”しているようでは問題だ。

そういえば、先日も何十年ぶりかで「ミルキー」と「チェルシー」を食べて物凄く美味しく感じた。

どうも最近は味覚の幼稚化が猛スピードで進んでいるような気がする。大丈夫だろうか。

2017年8月28日月曜日

リア充アピール


SNSの世界では誰もが「リア充アピール」に必死だ。善し悪しではなく、単純にそういう時代になったんだなあと思う。

私自身、このブログで日々雑多なことを書き殴っているので、世の中に溢れるリア充自慢をアーダコーダ言える立場ではない。

やれ、ヨーロッパで靴を買っただの、カリブの海は素敵だの、銀座のクラブですべった転んだの、見る人が見ればイヤミオジサンみたいだ。

とりあえず自分のことは棚に上げる・・・。

誰だって腐っている日々より充実している日々をアピールしたいのは自然なことだろう。

でも、あまりに「頑張っちゃってる感」が強烈だとゾワゾワする。無理したりウソをついてまでキラキラアピールするような風潮はブキミだ。

インスタ映えという言葉も飛び交っている。せっかくだから綺麗な画像を載せたいのは当然だ。でも、代行業者まで使ったり、それ用のセミナーまで人気だと聞くと何だか寒々しい。

マウンティング社会の象徴だ。もっと気を抜いてノホホンとしていたほうが楽しいのに実に御苦労なことだ。

視野が狭くて何事にも必死になることは若さの特徴だ。そんな若さゆえの情熱が変に力んだリア充アピールにつながってしまうのだろうか。

私がFacebookを始めたのは7年ぐらい前になるが、あの頃は良い意味で今よりもガサツだったと思う。

私の場合、同年代の男性ばかりとつながっているので“キラキラ攻撃”はさほど目にすることはない。

でも、Facebook上の「友達」がどこかの誰かの投稿に「いいね」をすると、その内容がいちいち表示される。そこでは結構なキラキラが溢れていて感心?する。

女子の自撮りもスンゴイことになっている。まさに命がけみたいな感じ。誰に何をアピールしているのか謎だ。美女だったら目の保養になるけど、、、まあそれ以上は言わない。

そんなことを50を過ぎた「古い人」が論評すること自体が筋違いなのだろうが、SNSのような世界はもっとユルい気分で向き合ったほうが賢明だと思う。

笑っちゃうようなドジ話や微笑ましい話、単純に嬉しかったことや悲しかったことを普通に表現すればいいのに「オッシャレ~!」を意識しすぎるとちょっと痛い。

見ているほうだって、高級フレンチのメインディッシュより、ゲテモノを食べちゃった武勇伝画像のほうがワクワクする。

ナイトプールで気取っている姿よりも洗濯機が壊れてコインランドリーで苦戦している画像の方が生々しくて楽しい。

まあ、あくまで個人的な意見だが、もっと「ヌルい感じ」が主流になって欲しいと思う。

人間の日常なんてそんなにキラキラしていない。キメッキメだとウザったい印象になっちゃう。

リア充自慢が時代を席巻しているのは、一種のブームだろう。ブームには終わりも来る。移ろいやすい世間の空気は、時代遅れになったものをカッチョ悪いものと位置づける。

ということは、遠からずキラキラのリア充自慢がカッチョ悪いものに変わるかもしれない。

そうなったら次に来るのは「自虐自慢ブーム」「ヘタレっぷりアピールブーム」だろうか。だとしたら面白い。悲惨ネタ、しょぼくれネタを競い合うようになったら、今よりSNSが面白くなるのは確実だ。

「2年前に賞味期限の切れたカップ麺を食べてみた」、「80過ぎのオバアサンに痴漢の濡れ衣を着せられた」、「オカマに追い回された」といったファンキーな話が中心になったら楽しいだろう。

画像だって同じだ。「「酔って転んで顔面を強打した流血姿」、「ゲリラ豪雨でおろし立てのスーツがぐちょぐちょになった画像」、「女子に逃げられてラブホをバックに困惑している自撮り画像」、「キメッキメで化粧してオシャレ全開だったのに鼻毛がドカンと出ちゃってた自撮り画像」あたりが主流になったら素敵だと思う。

2017年8月25日金曜日

付け合わせスパゲッティ


夏痩せする人がうらやましい。憧れる。今までの人生で夏に痩せたことは一度もない。私の場合、たいてい夏になると太る。

水ぶくれだろうか。そうでもない。暑いからイライラする。イライラすると脳が疲れる。疲れた脳は身体が血糖値不足だと錯覚する。だから食べたくなる。

冷やし中華もそうめんも、ツルツル入っちゃうから食べ過ぎる。おまけに腹持ちしないから割とすぐにお腹がへる。

暑いから普段は食べないアイスクリームやかき氷に手を出す。ワシワシ食べてしまう。口の中が甘くなるとしょっぱいもので口直ししたくなるから余計なものまで食べてしまう。

言い訳ばかりするのがデブの悪いクセだ。


先日、ドカ食いをした。男同士2名でバリバリ食べた。その時の伝票がこれ。人数は「2」なのに大量に注文した品が記録されている。

飲み物は別として、海老のカクテル、エビフライ。カツレツ、チキンコキール、チキンサラダ、タンシチュー、ナポリタン、オムライスである。

場所は銀座の老舗洋食屋「煉瓦亭」。洋食好きな私としては大量にあれこれ食べられたからハッピー全開だった。

男2人で夕飯を食べに行く場合、一般的には酒が基本である。だから居酒屋的な店が多くなるし、そうじゃなくても寿司屋や焼鳥屋のようなツマミ系?の店になる。

この日は中高年の分際で大食いの男性が一緒だったので、ついつい酒よりメシという流れになった。

意外と楽しかった。今ほど酒に馴染みのなかった若い頃を思い出した感じ。ひょんなことで気分が若返ることを再認識した。

「男の子の食事」といえばガッつくことが基本だ。洋食屋さんで“お子ちゃま的味覚”を刺激するようなメニューばかり注文するのは至福の時間である。




エビフライ、ナポリタン、オムライスである。普段、鮎だの松茸だの、ダシがどうした、旬こそ最高だなどと分かったようなことを書いている中高年にとっては、もはや禁断の味と表現しても良い。

私は結局こういうものが大好きだ。心がホッコリする。ニッポンの洋食屋さんのメニューなら取っ替え引っ替えしながら毎日毎日連続して食べられる。

可愛いコちゃんとムフフな場面を迎えた時とエビフライにタルタルソースを塗りたくっている時の私の顔はきっと同じだ。喜色満面ってヤツだ。

さて、この日、すべての料理に満足した一方で、今後の私の食生活を左右しかねない「危険なモノ」の存在に心を奪われた。

「付け合わせスパゲッティ」である。画像には撮っていないが、メイン料理の横にチョコっと添えられるアイツである。


思い起こせば私はアイツが昔から好きだった。でも、好きとか嫌いだのを考える相手ではなかった。思い入れを感じたことはなかった。

この日、何かの付け合わせにアイツがいた。色も味も薄い。常温だしボソッとした食感でウマいなあと感じる味わいではない。

でも止まらない。大事に大事に少しづつ食べた。ちょこっとしか無いから何だか愛しい。やる気のない雰囲気、いや、はかなげな感じが魅力的だ。

そういえば、これまで長年生きてきた中で、付け合わせスパゲッティを食べ残したことはなかったかもしれない。洋食屋ではもちろん、いろんな弁当に入っているヤツも必ず大事に食べた。

崎陽軒のシウマイ弁当に入っている甘いタケノコと同じで、アイツがいることで全体がキリっと締まるような気がする。

でも誰にも注目してもらえない悲劇的な存在がアイツだ。決して自己主張することもなく、強めに味付けしてもらえることもない。ただただ、皿の上の賑わいのためだけに存在する。

炭水化物が好きなタンスイカブラーとしてはアイツを日陰者にしておくのは忍びない。

ネットで調べたらアイツのファンは意外に多いみたいで、レシピもたくさん紹介されている。今度作ってみよう。

何はさておき、まずはアイツの地位向上を考えていきたい。だいたい正式な呼び名が存在しないことが可哀想だ。

ナポリタンと呼ぶには何かと足りないから一文字減らして「ナポタン」や「ポリタン」はどうだろう。ちょっと可愛いイメージで子どもを中心に人気を集めそうだ。

まあ、そんなことより、近いうちにどこかの洋食屋さんに相談して、アイツを付け合わせではなく、ちゃんとした一皿として提供してもらうことを実現させたい。

一皿まるごと全部アイツだ。想像するだけで興奮する。具も無ければ色も薄いアイツがドッサリ盛られているわけだ。

半分ぐらい食べたら飽きちゃいそうだ。それでもガッついて食べてみたい。

2017年8月23日水曜日

モンクストラップ


靴好きを自認する私にとっては「日本人にヒモ靴は合わない」という真理?は悩ましい問題である。

正統派のコンサバ靴といえば、当然ヒモ靴である。よく分からないがそれが常識である。

ところが、日本人の日常は家の中はもちろん、外でも靴を脱ぐ場面が多い。料理屋さんやお座敷スナックだって靴を脱いで上がる。

外食分野に限らず、たとえば街のお医者さんに行っても靴を脱いでスリッパというパターンは珍しくない。

当然、いちいちヒモをほどいたり結んだりしないスリッポンの靴の方が合理的である。

でも、ダンディーぶって生きている私としては痩せ我慢して正統派のヒモ靴を愛用している。好きで履いているクセに時々「なんだかな~」とタメ息をついてしまう。

靴を脱いで座敷に上がってしこたま飲み食いしたとする。帰り際、立ったまま上半身を折り曲げて靴ヒモを結ぼうとするとコケそうになる。おまけに姿勢を戻すとクラクラする。

ドカっと腰をおろして紐を結ぼうとしても、ふくらんだ腹が圧迫されてウゲっとなる。そういう時に限って老眼が邪魔をして何度もヒモを結び直すからウゲウゲである。


スーツにスリッポンという組み合わせに何となく抵抗感があるので仕方がない。だからモンクストラップの靴を履くと少しホッとする。

バックル付きの靴であるモンクストラップの語源は教会の修道士(monk)の靴に由来する。信心深い私にもうってつけである。

もちろん、モンクストラップだって、しっかりとバックルを締める作業は紐を結ぶのとたいして変わらない。

ただ、ズルしてバックルベルトを締めなければスルッと足が入る。反則ワザの極みだが、時々そういうズボラな靴の履きかたをしている。

上の画像はスペイン靴の「ヤンコ」のモンクストラップだ。ヤンコの靴は造りもしっかりして人気だが、個人的には色気?が足りないような気がする。

この靴もそんな意味不明な理由によって我が家のシューズクロークでは“3軍”に降格した。誰にも会う予定が無い日とか、真っ直ぐ帰宅する日に限って履くことが多い。

バックルの位置が上の方にあるので、だらしなくベルトを外しても、座っている時以外はズボンの裾がそのヘタレた姿を隠してくれる。

不思議とそういうだらしない履きかたをすると1日中気合いが入らない。やはり外に出たら7人の敵がいる男としては、足元がキリッとしていないとダメである。

でも、お疲れ気味の中高年生活をしているとグダグダした感じで過ごしたい時もある。そういう時はモンクストラップをだらしなく履いてしまう。

そういうカッチョ悪いことは内緒にすればいいのに、最近このブログのネタが枯渇しているので、ついつい恥をさらしている・・・。



さてさて、黒い靴もバーガンディーの靴もモンクストラップは揃えているが、伊達男を気取りたい私としては、ベルトが二つある「ダブルモンク」がお気に入りだ。

ベルトなんて1カ所あれば充分なのに、あえて2カ所だ。ムダこそが美徳である。このムダのおかげで「足元にちゃんと意識を向けている男」という自意識が成立するような気がする。

ダブルモンクでも座敷飲みの後、酔っ払って上に位置する方のバックルを外しただらしない状態で履いてしまうことがある。その靴がお気に入りの靴だったりすると心の中で葛藤が生まれる。

「酔っ払っても足元はシュっとしてろ!」、「てやんでい、エドワードグリーンの靴がナンボのもんじゃい!」という「真面目」と「ヘタレ」が脳の中でせめぎ合う。

そういう時、やはり“1軍”に在籍している大事な靴であれば、「真面目」が「ヘタレ」を制圧して、フラフラしていてもバックルをしっかり締める。

2軍、3軍の靴だと扱いがぞんざいになってしまう。バックルを外したままのダメオヤジ状態を受け入れてしまう。

身につけるモノで気持ちの入り方が変わるのは老若男女をとわず一つの真理だと思う。高い安いに関係なく自分が愛着を感じているモノを身につけることは気分をアゲておくためには必要だろう。

中高年になると放っておけばズボラ全開状態でもヘッチャラになる。鈍感力も結構だが程度問題だ。若い時ほど身だしなみに敏感になる必要はないが、ズボラ過ぎるのも情けない。

少しぐらい自意識過剰と言われようともそれなりに自意識を持つことを忘れてはダメだと思う。

モンクストラップのベルトは、いつも私にそんなことを思い起こさせてくれる。

とかいいながら、最近はズボラ状態が増えた。もっともっと1軍入りするような靴を新調すべきなんだろうか・・・。

2017年8月21日月曜日

一線を越えたいのに・・・


「一線は越えていない」「オフホワイト」など、有名人の不倫騒動から流行語が生まれている。「ゲス」という言葉もすっかり下半身関係専門の言葉みたいなイメージになった。

俗に「人の不幸は蜜の味」と言うが、最近の不倫バッシングはまさしくそれだろう。

「ウマくやってたヤツがバレちゃって修羅場」。これはハタから見ていたらウッキウキのネタだろう。

ウッキウキのネタだから、ひやかしたり小バカにして終わらせれば済む話。無関係な人間が正義感ぶってご立派な倫理感を押しつけたがる風潮は気持ち悪い。

お笑い芸人やミュージシャンに聖人君子を求めてどうするんだろう。あの人達がモテるのは当然だし、そういうことをしたくて日々奮闘しているのが現実だろう。

バッシングするなら、逆にヒューヒュー!とハヤしたてたほうが収まりが良い。そんな暴論は今の窮屈な世の中では受け入れられないと思うが・・・。

そんな問題ではなく、今日書きたかったのは「一緒の部屋に泊まったのに未遂だった」という“宮迫流”の言い逃れ、いや、言い回しについてだ。

一般的には、そんな主張は信じてもらえない。それが現実だ。私だってそう思う。

でも、しかし、しかしである。ホテルの部屋で二人きりになることに成功しても未遂のままフテ寝することは起こりえる。

声を大にして言いたい。あり得る!

恥を忍んで書くが、私もそんな悲劇に見舞われたことは何度もある。最近では昨年もあった。ここ5年ぐらいでも2~3回はあったかもしれない。

そういう女性達は私から見ればサイテーである。こっちが鬼畜なら、あっちはヒトデナシ。妖怪人間ベムに出てくるベラに見えてくる。


もちろん、強引に密室に連れ込んだわけではない。あくまで流れの中での話である。にもかかわらず未遂で逃げ切るわけだからハチャメチャだ。

もちろん、私の詰めの甘さも問題である。でも、あれってどういう心理なんだろう。私の行動パターンを見抜いてナメてかかっているのだろうか。

私は荒くれ者ではない。拒否反応バリバリの女性を力任せに組み伏せるようなタイプではない。あんなもの無理やりやったってちっとも楽しくない。

そんな紳士ぶり?を見透かされて究極の思わせぶり攻撃を食らったのだとしたら、自分が実に可哀想である。

そんなフラチな女性にあたったら、毎晩のようにワラ人形に五寸釘を打ち込んで呪いをかける。ウソです。いや、ホントです。

未遂で逃げたくせに次の機会に期待を持たせるようなことを言う女子もいる。私はそういうのが一番嫌いだ。

ニンジンぶら下げられた馬じゃあるまいし、先延ばしにして引っ張るようなヤツを諦めずに口説き直すことは無い。それこそ、股間がかゆく、いや、沽券に関わる問題だ。

恥の上塗りついでに書いてしまうが、温泉旅行に連れ出したのに未遂に終わるというスペクタル悲劇の主人公になったこともある。シェイクスピアも真っ青な悲劇だ。

思い出すだけで血圧が上がる。悪夢だった。てっきりそういうモードだと信じて疑わなかった私からすれば、現地で相手が未遂狙いだと判明した時の衝撃はメガトン級である。

マジでクラクラした。違う意味でクラクラするつもりだったのに「ゲッ!マジ!ドッヒャ~!!」という言葉が私の頭の中でリフレインする。

相手にその気が無いと判明すれば、しつこく口説くのもヤボだ。もうその時点で胸糞悪い。仕方ないからその後はシレッとした顔で普通に過ごす。まさに苦行だった。

宿代を払って泊まらずに先に帰ろうかと思ったが、それもさすがにシャクだ。とはいえ、その場に居続ける気分の悪さは堪ったものではない。

朝飯なんかまさに地獄の時間である。ヤボになるのもイヤなので、もはや敵にしか見えない妖怪人間を相手に楽しげに会話なんかしちゃってフツーに過ごした。

我ながら見上げた根性である。いや、実にだらしない。張本さんを見習って一喝すべきだったかもしれない。荷物ごと追い出したって許される次元だろう。

私に悲惨な体験をさせた女性陣は、いま思えばあまり人相が良くなかった。ついでにいえばメンヘラ系だったかもしれない。

要はそんなのにウツツを抜かした私の責任である。

何でまたそんなのに手を出した?と聞かれれば答えは一つだ。

「男だから」。その一言である。

健全な男だったら、イケそうだと思えばいく。それが自然の摂理。チャンスがあれば突撃するのは当たり前の話。

ごく一部の清廉潔癖だけが生き甲斐のカタブツはさておき、たいていの男だったらそれが普通だ。そんな素振りを見せないタイプの男だって同じ。

イマドキの不倫スキャンダルをエラそーに非難する男だって基本は一緒。“据え膳”を前に鼻の穴をふくらまさずに平常心でいられるヤツなどいない。そんなもんだと思う。

世間に名の通った有名人ともなれば、まず間違いなくエネルギッシュな人間だ。グラビアで活躍するような美女とお近づきになったら、そりゃあ攻めるのが普通だろう。

バレたら負けだが、それだってあくまで嫁さんとの揉め事でしかない。テレビがダラダラと騒ぐ話ではない。

男女関係の話でマスコミに追われる芸能人はつくづくお気の毒だ。本心からそう思う。

バレないようにアレコレと工夫することはボケ防止や脳トレにもつながるはずだ。メゲずに頑張って欲しい。

2017年8月18日金曜日

ガヴィアル 100時間 プレミアムフォンドボー


前回、レトルトカレーの話を書いた。高いの安いのウマいのマズイの等々、あくまで主観的な話ではある。

たった1人前で1千円、2千円クラスの商品も存在するが、味に関してはあくまで「普通に美味しい」ということを基本認識にすることが大事。過剰な期待は禁物だ。

茫然自失、阿鼻叫喚?レベルにウマいレトルトカレーはなかなか無い。「普通に美味しい」という範囲の中でそれなりに優劣がつくのが現実だろう。

名門ホテルや有名レストランの名前で出しているようなレトルトカレーも多いが、期待して食べても大半は「普通」という印象で終わる。

銘柄肉、ブランド肉を冠している商品も同じ。ツッコミを入れたくなるほどミミっちい肉片だけでごまかしている商品も少なくない。

結局、具材よりもカレーの味そのものが、いかに自分の好みに合っているかがカギだと思う。

私の場合、朝食にレトルトカレーを食べることが多い。朝カレーだからヒーフーするような辛いのは選ばない。必然的にマイルド系を選ぶ。

ついでに言えば、ご飯に合うカレーが基本だ。流行のマッサマンカレーやバターチキンカレーも美味しいレトルトは結構あるが、今回は日本のコメとの相性を重視してアーダコーダ書いている。


今のお気に入りがコレ。「ガヴィアルの欧風カレー」だ。神田に実在する店らしいが行ったことはない。したがって味の再現度合いは分からない。

甘めの味付けを最初に感じて、後から少しカレーっぽい風味がついてくる。飽きやすい味ともいえるが、ヘタに辛さを強調されるより優しい味が嬉しい。

3~400円で買える点も悪くない。500円超えが珍しくないイマドキの「本気レトルトカレー」の世界では優秀だと思う。


「100時間かけたカレー」も私のお気に入りだ。ウソっぽいというか、あざとい感じのネーミングに思えたが、食べてみると丁寧に味付けされた印象で好きになった。

ジャケットのシェフのイラストが素敵だ。昔懐かしい帝国ホテルの村上料理長を思わせる風貌がニクい。何だかウマいものを作ってくれそうだ。

この2つのカレー、なんだか味が似ていると思ったのだが、MCCという同じ会社の商品だった。原材料欄を見たら両方とも砂糖が投入されている。

カレーに砂糖?と思ったが、私の味覚はそんなMCCの戦略にまんまとハマったわけだ。やるなあMCC、頑張れMCC!って感じだ。


こちらは大手・エスビー食品の「プレミアムフォンドボーディナーカレー」だ。大手企業のレトルトは定価100~200円台に数多くの商品を揃えているが、こちらは440円である。

日本中で乱立状態のレトルトカレーを横目に大手老舗が手掛けた「本気レトルト」とでも言おうか。

スーパーによっては300円台後半で買える。大人気のセブンイレブン「金のカレー」とどっこいどっこいの値段だが、個人的にはこっちの方が好きだ。

旨味たっぷり。ビーフシチューを思わせるコクの深さが、そこら辺のレトルトとは段違いだと思う。イマドキのご当地カレーの価格設定を考えれば実に優秀だ。

ネーミングやジャケットに惹かれてついつい中途半端なご当地カレーを買ってしまう(私である)なら、黙ってこれを買ったほうが満足感はあるはずだ。

今回紹介した商品はレトルトカレーの品揃えの多い店だったら比較的簡単に見つかる。前回(8月16日)書いた高級レトルトは取り寄せる手間が必要だからチョット面倒くさい。

割と簡単に見つかって値段もぶっ飛ぶほど高額ではないという点では、今日の3つは今のところ私の定番である。

2回に渡ってレトルトカレーを熱く語ってきたが、考えてみればレトルト頼みの食生活は問題である。ちょっと侘びしい。いい歳してレトルトの味を必死に研究しているのはビミョーである。

いや、今のレトルトにそんな先入観は不要かもしれない。各メーカーの本気度合いを考えれば「侘びしいモノ」というイメージはもはや時代錯誤ともいえる。

核家族化、少子化に続く高齢化社会の先に待っているのは必然的に孤食化時代だろう。そう考えるとレトルトを極めようとする私の姿勢は時代の最先端という見方もできる。

などと、相変わらずもっともらしい屁理屈をこねて自己正当化を図るのが中高年の悪いクセである。

2017年8月16日水曜日

2千円のレトルトカレー


いつの間にか世の中に溢れかえっているレトルトカレー。その種類は2千種類を超えるらしい。

ボンカレーぐらいしかなかった時代に育った私からするとオッタマゲである。

その昔、お正月のお茶の間にはククレカレーのCMばかり流れていた記憶がある。「おせちもいいけどカレーもね!」と叫ぶキャンディーズに萌えた。


昔のレトルトカレーはニッポンの家庭のカレーを踏襲していた。イモやニンジンも入っていたからイヤだったが、いつの頃からかそっちのほうが非主流派になってくれた。

いまではご当地カレーなどが百花繚乱である。100円ショップで買える安いモノから高級品までより取り見取りである。

シングルライフを謳歌する私にとってレトルトカレーは欠かせないライフラインだ。カレーに限らず、シチューやハヤシなどウマそうなものを見つけると買いたくなる。


品揃えの多いデパ地下あたりのレトルト売り場に行くと妙に興奮する。気になった商品をついつい買っちゃう。

昭和の頃はそれこそ非常食的な位置付けだったレトルト食品だが、今では“ご馳走”と呼べる商品がテンコ盛りである。

ふるさと納税の返礼品もご当地カレーが人気らしい。私もアレコレ取り寄せている。数多くの返礼品の中から市場価格を調べて、高価なヤツばかり試している。


屋久島の高級ホテルが出しているレトルトカレーもその一つ。普通に買うと1つ1千円ぐらいだ。ふるさと納税によって実質タダで入手するにはこういう路線のレトルトを選びたくなる。

ふるさと納税に限らず、機会があれば高価格路線のレトルトを買ってきたが、この「サンカラカレー」は高級路線の中でもトップクラスの味だと思う。

ただ、「高けりゃウマい」とは言い切れないのがレトルトカレーの難しさだ。カレーはもはや国民食だから誰もが自分の好みがある。当然、好みの路線から外れていたら高くてもマズく感じる。

私の場合、甘味を重視する。甘口という意味ではない。辛さやスパイシーさの中に甘味も同時に感じられるようなカレーに出会うと嬉しくなる。


さてさて、私が調べた限り世の中で一番高価なレトルトカレーがこれ。「常陸牛カレー」である。

常陸牛カレーという商品はいくつもあるが、磯山商事という会社の製品は2160円である。

牛丼を5人に奢ってもおつりが来る。内容量250グラムのうち150グラムがサイコロステーキのような肉だ。それも安いレトルトにありがちなクズ肉っぽい感じではない。確かに他のカレーとは一線を画す。


味わいも深みがあって万人ウケする感じ。もう少し甘味が欲しいが普通に美味しい。肉を食べている満足感もある。1000円ぐらいだったらリピートしそうだが、さすがに牛丼5人分という価格設定はビミョーだ。

値札を付けたまま贈答用に使うのはアリかもしれない。買うのではなく、プレゼントされたら凄く美味しく感じるはずだ。

いっそのことパッケージに定価を印刷表示しちゃった方がいいのではないか。贈答需要を考えれば面白いと思う。


肉肉しいレトルトカレーとして「爆肉カレー」という商品も印象的だった。なんとも魅力的なジャケット写真である。

実際にそれなりに肉がゴロゴロしている。1000円クラスの商品だが、カレーの味が好みに合っているならオススメだ。個人的にはやはり“甘味”がもう少し欲しい印象だった。600円ぐらいならリピートしたくなる感じ。

それにしてもレトルトカレーはジャケットデザインが決め手だ。いわゆる「ジャケ買い」需要が大きい。もちろん、ネーミングも大事だが、箱から出しちゃえばどれも素っ気ないレトルト袋だ。デザインが売れ行きを左右するのは間違いない。

すっかり有名になった「横須賀海軍カレー」もネーミングとジャケットデザインが人気のポイントだろう。今では似たような商品が無数に登場している。

なんだか長くなっちゃったので、次回はもう少しお手頃価格のレトルトカレーについて引き続き熱く語ろうと思う。

2017年8月14日月曜日

銀座のざわめき


武井咲ちゃん主演のドラマ「黒革の手帳」が好評らしい。過去に何度もドラマ化された松本清張モノである。銀座のママさんが丁々発止するストーリーだ。


私も毎週録画して観ている。先月、このブログで、主演が若すぎるし悪者感に乏しいと書いたが、決してそんなことはなかった。かなり堂に入った悪女ぶりである。

長年に渡ってシタリ顔であの街で飲んできた目で見れば、ツッコミどころは多いが、そんなことに関係なく全体的に面白い。ストーリーを知っていても次回を観るのが待ち遠しい。

武井咲ママの店が入っているビルは8丁目の某ビル。私も時々訪ねる建物だが、ドラマでは外観だけを使っている。あのビルにあんなに若くて美人のママはいない。

まあ、そんなことはどうでもいい。数え切れないほどのクラブがひしめくあの街で私が覗いたことがある店は限られている。

最近はすっかり新店開拓もサボっているので最新事情などは知らない。飲みに出る頻度も以前より減ってしまった。

先日も「同伴しなくていいから食事だけ付き合って~」と囁かれて、結局まんまと店まで連行された。そんなのばっかりである。

私を手玉に取るのはアノ街のオネエサンにとっては超簡単だろう。男気っぽい部分をくすぐられたらイチコロである。自分の単純さにいつも呆れる。


まっすぐ帰宅して引きこもっていれば、少しは老後資金を貯められるのにマヌケな話である。

最近はこっちが歳をとったせいで、銀座で飲む時の「背伸びした感じ」から縁遠くなっている。

適度な緊張感というか快適なアウェイ感は、あの街で飲む時には程よいスパイスなのだが、それを感じにくくなっている。

ここ20年ぐらい、割とちょくちょく出かける時期と足が遠のく時期が周期的に入れ替わっていたから、今の状況もいつ激変するか分かったものではない。

さて、ご多分に漏れず、夜の銀座にも確実にカジュアル化の波は押し寄せている。善し悪しはさておき、今の時代ならではの特徴だろう。

ホステスさん達も昔見かけたような異次元チックな人が少なくなった。「普通っぽい」というパターンがいつのまにか主流派になっているように見える。

トーテムポールみたいな髪型で物凄く着飾った“ヘビ女ゴーゴン”みたいな女性を見る機会がなくなったのがちょっと残念である。

私の場合、どちらかといえば、銀座には「非日常的なモノ」を求めているので、普通っぽい路線だとあまり嬉しくない。

ドッヒャ~と言いたくなるような見た目の女性に相手してもらう方が意外に落ち着く。純情な私は普通っぽい女性が出てくると逆にドキドキして困る。

カジュアル化の流れを受けて、銀座のクラブにも重厚感あふれる老舗と、とっつきやすい雰囲気の新興店という二極化が進んでいるような気がする。

支持する客層によって店の路線も変わるのだろうが、個人的には重厚感のある老舗についつい惹かれる。

もともと、モダンでスタイリッシュとやらが好きではないから、旧態依然とした雰囲気が漂う店に行くと妙にホッとする。

「派手さ」とはちょっと違う「華」がある感じとでも言おうか。そういう店には長年そこで働いてきた重鎮の黒服やバーテンさんがいて、独自の雰囲気を醸し出している。

笑い方に例えるなら「ギャハハハ」ではなく「ムフフフ」といった感じだ。意味不明でスイマセン。

働いている側だけでなく、そこに集う客もそうした雰囲気作りに一役買っている。ムフフフ的空間が好きな客が集まるわけだから、必然的に空気感も決まってくる。

こうなると、ざわめきやグラスの響きなどがうまく混ざり合って心地良いBGMになる。

付け焼き刃的に高級感を演出しようとしても無理が出る。やはり老舗に漂う雰囲気は簡単にマネできるものではない。

夜の世界に限らず、どんなジャンルでも同じだろう。簡単にマネできないのが長年に渡って培われた「気配」や「空気感」だ。

形には見えないそんなものに価値を見出す人が多いことも、老舗を老舗として成り立たせている理由だろう。

なんだか堅苦しい言い回しになってしまった・・・。

何だかんだ言っても、上手に私を手玉に取ってくれる魅力的な女性が一人でもいる店だったら、老舗だろうが新店だろうが、お化け屋敷だろうが、いそいそと通ってしまう。

それもまた現実だ。

2017年8月9日水曜日

中年の女性


「オバサン」。今の世の中、この言葉をむやみに使うとトラブルの元らしい。こんなことで気を使うのはメンドーだが、それが現代ニッポン社会のマナーなんだろう。

一昔前は40歳を過ぎたら総じてオバサンだったし、ふた昔前なら30代半ばを過ぎれば基本的にオバサンだった。

確かに篠原涼子や井川遥をオバサンとは呼びにくい。「大人の女性」とか「アラフォー女子」と表現するのが無難だろう。

サザエさんの母である「礒野フネ」は原作での設定は48歳だ。私が大好きな森高千里と同じ歳である。キョンキョンや鈴木京香より年下だ。時代の変化と共に女性の年齢イメージ、オバサンのイメージは激変している。


私自身、自分がハタチぐらいの頃は30歳を過ぎた女性に対して“現役感”をイメージすることは難しかったが、今では成人式は30歳ぐらいにすればいいと本気で思っている。

ジャニーズのアイドルだって40歳前後がごろごろいる。飛んだり跳ねたりしているあの人達をオジサンと呼べないように、男女問わず年齢から連想する概念が変化している。

自分自身が成長していないせいなのか、私の場合、20代後半ぐらいの頃から現在に至るまでいろえろと仲良くしてもらった女性は20代から30代半ばの人ばかりだ。

その年齢層をターゲット?にしてきたつもりはない。いい歳して若い女性ばかり追っかけているつもりもない。何となくそういう結果になった。

しっとりした中年女性とネンゴロ?になる機会をいつも夢見ているのにチャンスがなかったのが現実だ。坂本冬美や市川由紀乃みたいな雰囲気のある女性に魅力を感じるが、なかなかああいう雰囲気の人はそこらへんを歩いていない。



半世紀も生きてきたくせに自分に何かが欠けているように思えるのは「対女性問題」に関して年齢相応に正しい進化を遂げていないことも理由なのかもしれない。

50歳を過ぎたのに若い女性相手に鼻の下を伸ばしていてはカッチョ悪い。まあ、それはそれで男のサガみたいなものかもしれないが、何事にも頃合いというものがある。

今のまま私が進化しないでいると、遠からず自分の娘と同年代の女性相手にムホムホ言い始めることになってしまう。それはさすがにマズい。せめてコッソリと世間の目から隠れないといけない。

和服姿に日傘の似合う凜とした艶っぽい中年女性と冷やし白玉汁粉を食べに行くような重厚感のある男になりたいと思っているのに、そんな女性に遭遇したことがない。いつも昔と変わらない行動パターンに終始している。

まあ、アラフォーや、はたまたアラフィフの素敵な女性は収まるべきところに収まっているのが普通だ。プラプラしている私と知り合う機会がそもそも少ない。森高サマだってあんなにカッチョいいダンナがいる。

個人的な信条として人妻さんとどうこうなる気はまったく無い。不倫は悪という正義論を振りかざす気はさらさら無いが、単純にメンドーだ。ダンナから訴えられたら100%負けちゃう。

不倫に抵抗のないアラフォー、アラフィフ女子が大勢いることは知っているが、そういう人々の日常のウサ晴らしのために安直に利用されるのもビミョーだ。

一応、私も独身だから、時々、席を同じくした中年女性からそれなりに積極的に来られることもある。本当だ。見栄を張るなとかのチャチャ入れは受付けない・・・。

有難いことだが、そういうケースの女性はどこかネジが外れちゃったような人が多い。それこそネガティブなイメージとしてのオバチャン化が進行しているタイプの人だ。冷やし白玉汁粉を食べに行きたい相手ではない。

先日、後輩から「中年合コン」の案内が来た。独身男が少ないから助っ人に来いという誘いである。集まる女性陣は40代、50代だとか。

10年前なら断っただろうが、今の私は「正しい中高年の姿」を求めているから、四の五の言わずに参加すると答えておいた。ひょっとしたら「和服姿に日傘の似合う凜とした艶っぽい中年女性」がいるかもしれない。

いや、そんな人はきっと合コンになど来ない。でも、世の中に絶対はない。家でくすぶっているなら、恐いモノ見たさ、いや、人としての幅を広げるために出かけていった方がいいだろう。

いずれにせよ、素敵な中年女性が増えることは、独身高齢者が増える社会において非常に大事なことだと思う。

2017年8月7日月曜日

白髪という名のそうめん 


「お取り寄せグルメ」。いつのまにかそんな言葉に反応するようになってしまった。快適なシングルライフに欠かせないのが「お取り寄せ」である。

私の場合、最近は“簡便食品の鬼”のようになってきた。マメに寄付しまくっている「ふるさと納税」でも生鮮品ではなく、湯煎して食べられるものや高級レトルト食品を送ってくる自治体ばかり選んでいる。

包丁やまな板を使わずに手軽に美味しいものを食べると、何かに勝ったような気分になる。変な感覚だが、それが私のライフスタイルになりつつある。

さてさて、先日、テレビのワイドショーで取り上げていた「極上そうめん」が妙に気になって早速取り寄せてみた。

ミーハーなオバチャンみたいだが、「富豪記者ブログ」のネタに困っていたから丁度良い素材?である。

1個500円もした烏骨鶏の生卵や1万円のふりかけなど、このブログのネタのために?数々の散財をしてきたが、極上そうめんがあると聞けば手を出さないわけにはいかない。


三輪そうめんの老舗「三輪山本」の「白髪そうめん」なる一品がそれである。ふるさと納税の返礼品にラインナップされていなかったので、残念ながら普通に購入する。

1束90グラムが9束で5千円である。妙に高い。「そうめんは貰い物だから無料」という私の誤った感覚を打ち砕くには充分な価格設定である。

ある意味、それだけ高値だったらマズいはずはないという解釈も成り立つ。ただし、そうめんはそうめんである。正直言ってウマいマズいの格差はあるのだろうか。


で、食べてみた。悪くない。いや、確かにウマい。でもそのウマさはあくまでそうめんのウマさである。味わいがどうこうではなく食感を楽しむ食べ物である。

「白髪(しらが)」というネーミングを食品に付けちゃうセンスはどうかと思ったが、茹でる前の現物を見ると確かに白髪みたいである。そのぐらい細い。

極限まで細く作る技術が凄いらしい。日本の職人技の有り難さである。そう思えば高値設定も納得してしまう。

食感は「フワっとしている」の一言である。半世紀も生きてきたのに知らなかった食感だと言っても大げさではない。世界中の麺類を食べてきたが、この食感はまるで別モノだ。

フワッとしているのに溶けていく感じではない。嚙めばしっかりそうめんのツルリ感があって、喉ごしも爽やかである。薬味は最小限にして繊細なそうめんをしっかり味わいたくなる。

パスタの細麺として「エンジェル・ヘア-」が知られるが、髪の毛つながりでも全然違う。もっともっと細い。イタリアの赤ん坊より日本のジジイの毛のほうが繊細である。

茹でる際には簡単に折れちゃいそうでビビるが、鍋に投入した途端に柳の枝のようにしなやかに踊り出す。

茹で時間はわずか30秒である。キッチンタイマーでちゃんと時間を計っていないと大変だ。折れないようにビビった後は茹で過ぎないようにビビる。ビビってばかりだから口にした時の喜びも大きい。

ちなみに公式通販サイトでは売り切れだったから、その他のサイトをいくつも探し回ってようやく入手した。

世の中にはこんな高値のそうめんを手に入れる人が大勢いるらしい。そっちのほうが驚きである。

今日は、あまり一般的とは言えないそうめんの話をダラダラ書いてしまったので、ついでに「特製そうめんつゆ」について熱く語った過去ネタを一つ紹介したい。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2015/04/blog-post_24.html

市販のゴマだれに不満をお持ちの人にゼヒ読んでいただきたい。

そろそろそうめんに飽きてくる時期だから、こんなアレンジで新しい味を発見することをオススメする。

2017年8月4日金曜日

野球と老後


「野球ありき」。いまハヤリの「加計ありき」みたいな言い回しだが、昭和の頃、スポーツと言えば野球一辺倒だった。

今でこそスポーツ紙はサッカーや水泳、卓球、テニスにゴルフ、そして船越英一郎などで盛りだくさんだが、昔は野球が支配的だった。

いま、テレビ(地上波)のゴールデンタイムで野球を見かけることは無い。巨人戦が人気番組だった時代を思うと隔世の感がある。

すっかり野球熱は廃れてしまった。そんな印象を持つ人は多い。私もその一人だったのだが、先日、ひょんなことで「ヤクルト対中日」を神宮球場で観戦して、野球熱の“進化”に驚いた。


最下位争いをしているチームの戦いだから球場はガラガラかと思ったのだが、ほぼ満員。平日なのにビックリである。

印象的だったのは球場の一体感である。ヤクルトファンが団結して盛り上がっている。ライトスタンドなどに陣取る熱烈応援団だけが盛り上がっているわけではない。球場全体だ。

入場の際に強制的に配布されるヤクルトのユニフォームに袖を通した観客が個々の選手に合わせた歌や合いの手で大騒ぎ。得点のたびに専用の小さな傘を上下させて東京音頭を熱唱する。

昔からの光景とはいえ、その昔は名物オジサンさんが音頭を取った応援団に指示されて盛り上がっていた。

今は若い女性連れやグループが自然発生的に盛り上がり、球場全体に「野球が好き、スワローズが好き」という一体感が漂っていた。

昨今、「カープ女子」だの「オリ姫」といった特定チームを熱く応援する女性が話題だが、ヤクルト戦を見ていても、女性観戦率は高く、時代が大きく変わったことを痛感した。

フェス感覚とでもいえばいいのだろうか。単なる試合観戦ではなく、一種のエンターテイメントを楽しむ感覚が強いようだ。

イニングの合間にみんなで踊ったり、花火が打ち上がったり、演出も数多い。コンサートやライブのノリだ。

私が野球少年だった頃からウン十年。巨人一辺倒だった野球界も様変わりした。

各球団がテレビの放映権料をアテにしない経営革新を行い、趣向を凝らした地域密着型の娯楽産業に変えていった結果が今の野球熱の姿だろう。

北海道を本拠地に大胆なイメチェンをはかった日本ハムファイターズなどは、いわゆるCI戦略の大成功例だ。

ファイターズをめぐる今では信じられないエピソードがある。

もう40年ぐらい前の話だが、当時のファイターズは東京ドームの前身である後楽園球場が本拠地だった。

後楽園といえば天下の巨人の本拠地だ。あくまで巨人優先で、不人気だったパリーグのファイターズは二の次みたいな扱い。

それを裏付けるように後楽園の巨人戦の年間指定席を購入するとファイターズの試合がオマケでついてくるという物凄い“格下扱い”が罷り通っていた。

当時、熱狂的巨人ファンだった私の祖母が後楽園の年間指定席を持っていたのだが、巨人戦のチケットが孫に回ってくる機会は限られていた。

もちろん、オマケのファイターズ戦は誰も行かない。おかげで何度か見に行ったのだが、常に観客席はガラガラ。それこそ寝っ転がって観戦するぐらいの状況だった。

あれじゃあ球団経営が成り立たないのも当然だ。あの時代の反省が米・メジャーリーグを手本にした今のフランチャイズ重視型のスタイルにつながったのだろう。

この日は小学校からの旧友3人で試合観戦。「野球を見ながら酒を飲む会」という趣旨である。ビールにレモンサワー、枝豆に唐揚げといった正しいオジサンスタイルで、バレンティンのホームランに歓声を上げる。

知らない選手ばかりなので、スマホでネット検索してその選手の年棒をチェックするという新しい楽しみ方も見つけた。

やはり、安い給料のヤツはダメだし、高い給料をもらっているヤツほどプロっぽいプレーを見せてくれる。さすがにシビアな世界である。

その後、新宿3丁目のバーに移動して二次会。野球の話題で盛り上がりそうなものだが、話題の中心は老後についてである。

結果、旧友達で出資して空室だらけになった地方のリゾートマンションを一棟買いして、老人シェアハウスとして共同生活をするという素晴らしい計画?を大真面目に検討する。

入居条件や入居者の等級付けについて真剣に語り合う。手に職があるヤツは優遇、万引きが得意なヤツも優遇、誰かの代わりに刑務所に入ってくれたヤツは最高幹部として厚遇、孫に大切にされて幸せなヤツは冷遇などの細かいルール作りを議論する。

気付けば日付が変わっていた。

平和である。

2017年8月2日水曜日

草津でハッスル


旅好きな私にとって第二の故郷と呼びたい場所はいくつもあるが、草津温泉もその一つ。


もう40年以上前から通っている。祖父が購入したリゾートマンションに子供の頃は家族と、青年時代は友人達と、家庭人時代は子ども達と出かけた。

先日、1年に1度のヘトヘト小旅行に行ってきた。目的地は草津。子どもサービスに徹する時間である。なんと元嫁サマまで一緒である。

修行みたいなものだ。

離婚した夫婦が一緒に旅をするのはヘンテコだが、何かと子供の事情があるのでそこは割り切って“良きパパ”に変身する。

365日のうちの3日間ぐらいは、四の五の言わずにそんな時間を過ごすのもオトナのたしなみである。

リゾートマンションに泊まればタダだが、いろいろケジメも必要だし、それ以前に手狭だから系列の大型ホテルの2ベッドルームを利用した。

あいにくの空模様だったが、気温は20度ちょっとである。涼しいだけでバンザイである。夏の草津の利点は冷房いらずに過ごせる点だ。

空気も清々しいし、夜になれば長袖が必要だから夏場に温泉を楽しむには最適だ。ましてや泉質は日本有数の素晴らしさである。

ウダウダと書いているが、私の仕事は子供サービスだから悠長に避暑を楽しむ時間など無かった。とくに下の子と頑張って遊んだ。

10歳のダウン症児である。身体はすくすく育ってとくに病気もなく元気バリバリである。とはいえ、言語能力やいろいろな理解力の面で一般的な10歳児のようにはいかない。

目を離せばすぐに行方不明になるし、何かにつけて誰かのサポートは必要だ。老境?に近づいている私にはキツいが、彼と付き合うことは結構良い体力トレーニングになる。

野生児みたいなヤツだから大浴場でもハシャぎたがる。仕方なく人のいない時間をうまく見計らう。人目が無ければコッチのものだ。たしなめなきゃいけない私までザブン、バシャンと大騒ぎである。

健全な散歩に長々と励んだだけでなく、ホテルのゲームコーナーで汗だくになってモグラ叩きゲームと格闘したり、エアホッケーに熱中したり、カラオケボックスにも行った。

念仏を唱えるかのようにマイクに向かって「嵐」の曲をブツブツ歌う息子と「西野カナ」ばかり歌う娘の横で、場を盛り上げていた私の姿は、実にいたましい、いやイジらしかったはずだ。

元嫁サマとも表面上はギスギスせずに過ごした。子供にとっては楽しい夏休みのイベントである。そこは辛抱である。普段は好き勝手に生きているから、この時ぐらいは頑張らないといけない。

だったら離婚なんかするなと言われそうだが、そう単純なものではない。それとこれとは別。人生いろいろである。ケッケッケ。

ボウリングもした。イマドキの世の中は過保護だからガーター防止バーなる小細工もしてくれる。制御棒のおかげでどっちに投げてもガーター溝には落ちない。息子もいっぱしのスコアに大はしゃぎだった。



実用情報を一つ紹介する。これはレストラン「どんぐり」で食べたミラノ風ポークカツレツとビーフストロガノフである。

宿メシが主流の温泉街ではウマい食べ物屋は見つからないが、この店だけは別だ。草津リピーターやマンション族なら誰もが知っている人気店だ。

草津温泉で唯一の美味しいレストランだろう。中心エリアからは少し離れるが、わがリゾートマンションやその系列のホテルからは近い。週末の夜は予約必須だが、湯畑周辺でテキトーな店に行くのなら、こちらに足を向けた方が間違いない。

話を戻す。最終日は渋滞を恐れて早めに東京に戻ってきたので旅のシメとして東京ドームシティに向かう。

ウェイウェイした感じの若者が喜びそうな店「ババガンプ」で夕食。ピカピカ光る容器でジュースが出てきたりするので子供ウケは抜群だ。

寿司屋でシッポリ、ウナギ屋でウッシッシみたいな私の基本パターンとは対極的な店選びだ。ハッスル父ちゃんの面目躍如である。


店に入る前に空高く子供をジャンプさせるアトラクションがあったので息子にやらせてみた。普段は結構なビビり体質なので泣くだろうと思ったが、予想に反して「楽しい楽しい」と大騒ぎである。

私もトライしたかったのだが、体重70キロまでしか受付けてくれない。当然ダメである。親だって空に舞い上がって叫びたい時はある。実に残念だった。

小旅行が終わって帰宅した日、寝付きの悪い私にしては珍しく気絶するように爆睡。結局9時間も寝た。

以上。