2011年4月27日水曜日

グルメぶったオヤジ

おでん、焼鳥といえば、わが国の代表的なファーストフード。安くて手軽というのが普通の感覚だが、銀座あたりだとこの常識が通用しない。

善し悪しはさておき、高級なおでん、高級な焼鳥というジャンルは日本の中でも銀座界隈でこそ成り立つ。そこに価値を見出すかどうかは人それぞれだが、赤ちょうちんやガード下とは違う楽しみ方があってもいい。

銀座のおでん屋には、客単価1万円ぐらいの店がいくつもある。字面だけ見ればバカみたいだ。ただ、その店の空気感とかが好きなら仕方がない。

ちょっとした一品料理の質も当然高いわけだから使いようだ。焼鳥にしても場所柄、上等な素材を丁寧に提供しようとすればそれなりの値段になる。

焼鳥1本500円という店がいくつもある。いまどきの牛丼なら2杯は食える。とはいえ、銀座界隈でしっぽりゆったり焼鳥を味わいたい気分を牛丼の単価と比べても仕方がない。

先月だったか、このブログでも書いた「サソリの揚げ物」なんて一匹500円ぐらいしたから、それに比べれば500円の焼鳥は許せる存在。

上等なカウンター割烹と比べれば、1本500円の焼鳥を5~6本食べた方が経済的なわけで、そこに適度な雰囲気、まともなサービスが加われば充分存在価値はある。

先日、「銀座離宮」という焼鳥屋に出かけた。1本500円パターンだが、一本あたりの量が多め。他の一品料理をアレコレ食べていれば、5~6本で結構腹がふくれる。そういう意味ではもっと高くつく焼鳥屋が周囲には珍しくない。

逆に言えば、高級焼鳥というジャンルにしてはお手軽路線なので、悪く言えば、中途半端な感じもある。

コリドー街に近い場所でもあり、大胆に高級路線に踏み切れなかったのだろうか。オトナ専用の店かと期待していたが、そうでもない。個人的にはもう少し「しっぽり感」が欲しい。




ブツブツ言っている割には、美味しくてバクバク食べた。実に素敵?だったのは、うずらの卵。半熟だ。黄身がビュワンとこぼれ出る。ウヒョウヒョ言いながら食べる。官能的だ。コレステローラーとして生きている私だ。許されるならこれだけで5本ぐらい食べたい。

結局、美味しく食べたわけだから、ああだのこうだの食べ物屋さんを論評する自分が残念だ。

グルメぶったオヤジほどカッチョ悪い存在はないと分かっているのに、ついついウダウダ書いてしまう。田舎者みたいだ(田舎者の人、ゴメンナサイ)。

まあいいか。ウマいものや珍しいものを食べたら、ついつい何か書きたくなってしまうので、これからも書きます。

2011年4月25日月曜日

池袋村 怪談 ホッピー

このブログを始めて3年半が経つ。もともとは、会社のSEO対策の一環として始めた。

「富裕層が興味を引きそうな題材を面白おかしく書いて、上手にわが社の商品に誘導する」という当社システム担当者の壮大なもくろみが背景にあった。

そんなウマく事が運ぶわけもなく、最近では、単純に私自身の身辺雑記に終始している。まあ、それでも何だかんだゴタクを並べてモノを書くことが嫌いではないので、こうして続いている。

「富豪」を名乗る以上、100円ショップで商品を吟味している話とか、吉野屋より松屋が好きだとか、実はペヤングを愛しているとか、閉店間際のデパ地下の割引商品を買いあさっている話は書かないようにしている。

綺麗に着飾った銀座のオネエサンが、休日は、ザンバラ頭でシミのついたジャージ姿で咥えタバコで近所をウロつくのと同様、「扮飾富豪」である私もホッピーをガブ飲みしてゲップを連発する時がある。

わが社のある池袋は、魔界のような街だ。そんな魔界でホッピーをグビグビ呑んで目が座る。

そもそも池袋というエリアは、江戸時代には、ジメジメとした湿地帯で、中心部からも離れており、独自の習俗もあったらしい。「池袋の女を嫁にもらうタタリがある」と恐れられていたことは知る人ぞ知る。

戦後は三業地もあってそこそこ栄えたらしいが、今ではマンションばかりで面影はない。ほんの少し霊感のような感覚がある私から見ると、イヤな気が漂うエリアもあって、まさに魔界だ。

サンシャイン60にしても魔界伝説のイメージしかない。戦犯が収容された巣鴨プリズンの跡地に建つ「墓標」があのビルという話。

あそこで処刑された人は60人だからビルが60階建て、処刑はたいてい明け方だったからビルの名前はサンシャイン。おまけにビルの形自体が土台と墓石を摸しているとか。

周辺の再開発を指示したのが、自身が巣鴨プリズンに収容されていた岸信介元首相で、事業共同体はGHQに解体された恨みを持つ旧財閥系の集合体だというから、さもありなん。

あの周辺はお化け目撃情報も多い。わが社が独身社員用社宅にしているアパートが、サンシャインのすぐそばにあるのだが、幽霊に慣れっこになった社員が何人もいたのは事実だ。

話が大分それてしまった。

池袋村でホッピーをガブ飲みする話だった。

時々ひとりで池袋の居酒屋に行く。残念ながら池袋には気の利いた小料理屋とか居心地の良いオトナの店は見あたらない。

随分探索したが、やはり若者がワイワイ騒ぐセントラルキッチン系の店が大半で、ちょっと高級路線の店は、ヤクザ系か風俗系の人々が占拠していることが多い。

私のお気に入りは、その名も「南国ファミリー」だ。なんでそういう名前なのだろう。実にシュールだ。駅近くの妙な路地にある。

会社の人間と池袋で飲む際にも、ここは使わない。いつも一人酒だ。私にとって内緒の隠れ家みたいなものだ。理由は不明だ。

客層はオジサン中心。でもネクタイ族が中心なので安心だ。池袋にはもっとベタベタなホッピー系飲み屋がいくつもあるが、下手するとネクタイ姿だと浮いてしまうぐらいディープな店もある。

その点、南国ファミリーは安心だ。蛍光灯が光り輝き、疲れたネクタイ族が健全にウサを晴らしている。

時にはフィリピン人ホステスを同伴したお父さんが一生懸命口説いている微笑ましい光景が日々繰り広げられている。

「シャチョウさん、スケベダネエ」とか言うセリフをBGMにカウンターでボーと呑む一時が堪らない。

たいていエッチグラビア満載の週刊誌を持ち込んで、ハイボールかホッピーだ。食べ物メニューが異常に種類豊富でオーダーに悩むところも嬉しい。

だからいつも注文しすぎてしまう。想像出来る居酒屋メニューや定食メニューは何でも揃っている。壮観だ。

しめ鯖やナンコツ唐揚げ、やきとんあたりはいつも注文するが、海老フライトかコロッケとかソースマンを喜ばせるメニューも多い。

時々、生きた毛ガニがあって、一杯丸ごとひとりでホジホジすることもある。この辺は富豪としての矜持?だ。

ササミにチーズをベットリ載せてわさびを塗った一品とか、卵黄をブリブリ混ぜ合わせる馬ユッケあたりをつまみにホッピーを呑むと明日への英気が養われる。大袈裟だ。

10年ぐらい前、「ホッピーとやきとん」というゴールデンタッグに魅せられて、あちこち名店?を巡ったことがある。グルメとか高級料理とは無縁な孤高かつ独特な存在感にはまった。

その後、ふとしたきっかけで足を洗った。「こんなことではいけない」という心の囁きがきっかけだ。自分が身を置く場所として、その手の店が標準になりそうだったので、それはそれでマズいと判断した。

とある店のカウンターでのこと。隣に座っていた一人酒のお父さんが泥酔・熟睡状態で目から涙をこぼしている。おまけになんか唸っている。負け負けモード全開だ。

気付けば、そのお父さんの「負のエネルギー」がこっちに移りそうだったので、慌てて退散した。

一応、それなりの中年紳士を自負する以上、身を置く場所は考えないといけない。明日にも首をつりそうなお父さんが泣いている店はNGだろう。

ホッピーとやきとんに罪はないが、ディープな店のなかには、「気」がダメダメな店もある。「哀愁漂う酒場」と言えばチョット格好良いが、一歩間違うとヤバヤバだ。

「シャチョウサン、スケベダネエ」というBGM?が流れる店ならセーフだ。だから南国ファミリーは貴重な存在だ。

客単価3千円で充分な店だが、注文しすぎてしまう私のお勘定はその2倍、3倍ぐらいにはなってしまう。

そのあたりは富豪だ。

2011年4月22日金曜日

銀座の閑古鳥


スズメやツバメ、カラスの話は良く聞くが、最近の銀座は閑古鳥の話ばかりだ。震災を境に大きく環境が変わり、銀座のネオン街には淘汰の嵐が吹きまくっている。

「飲んでる場合じゃない」、「さっさと家に帰りたい」という一般的な理由の他に、「東京湾大地震が来たら銀座にも津波が来る」という声まであるらしい。

ホステスさんの自宅待機話もよく聞くし、老舗の閉店をメディアが取り上げたりしている。実際にシビアな状況のようだ。

まあ、銀座のネオン街に限らず、どこの世界、どんな分野にも確実に震災の余波はあるわけで、誰にとっても、今の時期をどのように的確に捉えるかが今後の商売の鍵になるのだろう。

銀座のクラブにしょっちゅう出かけるわけではないが、確かに最近は寂しげだ。おかげでハーレム状態だが、店によってはしっかり賑わっているところもある。

一般的には元気がないのは確かで、そこそこ人出があると思っても、よく見ると客引きとか黒服とか、夜の業界人ばかりだったりする。

噂では、お色気攻勢というか、肉弾攻勢が増えているという話も聞くが、残念ながら私にはそういうラッキーは降りかかってこない。どういうことだろう。

ちなみに「特攻隊」と称される肉弾攻勢担当のオネエサンが存在すると言う話はよく耳にする。とはいえ、一度としてそのような経験がない。情けないことだ。

私のようにケチケチとちんまり隅っこで隠れて飲んでいるような客の前には姿を見せない仕組みになっているのだろうか。

話を戻す。

飲食店の世界では、閉店やリストラの一方で、今を商機と捉える前向きな考え方もあるようだ。「こんな時だから攻めに出る」。成功する人って、その辺の判断が的確なんだろう。

確かに銀座のホステスさんで自宅待機やリストラに遭うのは、自分の客を持たない、いわゆるヘルプのオネエサンが中心だ。

しっかり客を持っているホステスさんは、個人事業主として、一種のテナントとして店を間借りしているようなものだから腕次第で荒波を乗り越える。

この図式だと、店自体が閉店した場合、客を持っているホステスさんは困るわけだ。逆に言えば、客を持っているのにテナント契約が無くなってしまったホステスが増殖中という図式も成り立つ。

そうなると当然、そういうホステスさんを集めて新しい店を出そうという動きが出てきてもおかしくない。ピンチをチャンスに変えるこの手の話は、きっと今後の銀座では珍しくなくなるのだろう。

いずれにしても、震災不景気の中で、飲食業界に限らず、あらゆるジャンルで「ウチなんて真っ先に切り捨てられる分野ですから」という弱気発言を耳にする機会が増えた。

もっともに聞こえるが、はたしてそうだろうか。今現在、仕事として成り立って存在しているものの中に不要なものなど無いと思う。

あるとしたら原子力安全院委員会とか原子力保安院だろう。民間企業である電力会社を監視・規制する役目なのに、すべて民間会社に責任を押しつけて、誰も謝らないし、一切責任も取らない。あんなもの不要だ。

話がそれた。

銀座の綺麗どころからも「無くなったって誰も困らない仕事だから・・・」などという投げやりなセリフを聞かされると嬉しくない。

無くなったら私が困る。

「だったら、もっと顔を出せ」と言われそうだからこの辺でやめる。

2011年4月20日水曜日

義援金でトクをする?

高額な義援金を拠出する人は、どう逆立ちしたって、それをしない人より褒められて当然。それ自体は間違いないのだが、金額を自ら発表する風潮は、何かしっくりこない。モヤモヤする。ひがみ根性だろうか・・。

まあ、そんな綺麗事を言っても仕方ない。経営者であれば企業のイメージアップを考えるし、人気商売の人は、当然、その行為をアピールしたいだろう。

もちろん、そうした報道に触発された第三者がせっせと義援金を出すつもりになれば、「発表ブーム」もあながちムダではない。

韓国人は、WBCで敵役になったマリナーズ・イチロー選手を批判したらしい。理由は、韓国同胞の「冬ソナのペ」が出した義援金とイチローのそれが同水準だったからだという。バカみたいな話。

金額の公表は、逆に「それっぽっち?」とか言われかねないから、有名人の方々もお気の毒。つくづく一般人で良かった思う。

さてさて、高額な義援金を出す場合、当人は当然テクニカルな面が関心事になる。すなわち、義援金を出すことで、どういう効果が得られるのかということ。

イメージアップといった観念的なものではなく、いくら節税が出来るのか、自分の税金はどのぐらい戻ってくるのかといった部分だ。


「そんな考えは不謹慎」という声もありそうだが、それこそが綺麗事だろう。高額な支出の裏にまったく思惑がないというケースは奇跡に近い話だと思う。

だいたい高額な出費をただ漫然とアト先考えずに支出するのは天文学的なお金持ちぐらい。そういう次元のお金持ちは一般社会では見かけないから、その手の偉人を尺度に考えても仕方がない。

わが社が発行する新聞は、震災関連の現象面を追う一般メディアとは異なり、こうしたオモテに出てこないテーマにもスポットをあててアレコレ取材している。

表層的な事実を浪花節調に取り上げるよりも、その背景にある問題点や意外な経済的影響を随時掲載している。

わが社でも取材班を被災地入りさせたし、支援チームが飲料水を持参して、被害甚大地に直接届け、現地の生の声を聞き取った上で、義援金の支出先を慎重に検討している。

闇雲に義援金を送って、それが東京電力が本来補償するはずの所に配分されては堪ったものではないし、現地の声に最大限配慮することが大切な取組みだと思っている。

そういうサポートに向けた意識と、被災地以外で求められている情報とは別個であり、編集制作上は、そのあたりの機微を考えながら、実情に応じた紙面作りを展開中だ。

義援金については、寄付金控除との絡み、ふるさと納税制度を利用した場合のメリット、借金してまで支出する場合の税務上の効果、個人と会社の二つのサイフの使い分けによるアレコレ、経営する会社が行う寄付行為にともなう各種の効果など、記事で取り上げるパターンはさまざまだ。

経営者がそれなりの金額を拠出する際には、たとえどういう場面であっても、さまざまな角度から効果を検討する。

「はたしてこの義援金を払うことでどういう効果があるのか」。純粋な善意とともに必然的に脳裏をよぎるこうしたテーマを噛みくだいた記事にすることは専門メディアの役割だ。

現場記者からの報告によると、黒字体質の会社であれば、高額義援金を会社で支出することで、理論上、後継者へのバトンタッチの際に有利になる相続税対策まで実現できるようだ。

節税効果を発揮するテクニックを「不謹慎だ」と片付けるのは簡単だ。もっともらしく聞こえるが、否定ありきの必要はないと思う。

極論すれば、高額義援金の支出で大幅に節税が出来たのなら、浮いた分を更なる復興支援に向けることだって可能になる。

世の中には、壊滅した被災地に取引先があったことに仮装して、インチキの貸倒れを計上しようと企むようなヤカラも存在する。

そうしたインチキは純粋に不謹慎だが、正当な手法で「効果」を追求する分には非難される必要はないと思う。

なんてったってそれだけの支出を現実にしている以上、その行いは尊い。

2011年4月18日月曜日

花が舞う


京都・嵐山に桜を見に行った。舞妓時代から親しくしている祇園の芸妓さんに誘われてふらふらと散策してきた。

京ことばに癒されながら、散りゆく桜を愛でる。白いうなじに花びらがひろりと舞う。

はんなりとしたひと時に心が洗われた。家族には内緒の束の間の逃避行だ。


というのは真っ赤なウソです。ただの願望。


この画像は、東京の千鳥ヶ淵。風に舞う花びらがお濠の水面を桜色に染めて私の頬もピンクに染まった某日夕方のひとコマ。

今年の桜は何かと切ない感じが強かった。例年ならライトアップされている場所も自粛ムードで寂しいばかり。

美しさよりも憂いにも似た感情で桜を眺めた人も多いだろう。私もそんな一人だ。どうも気分が上がってこない。

「スピッツ」のボーカルがストレス障害で休養していたそうだ。結構多くの人が、今年はウツウツとした春を迎えている。

死んだ祖父が晩年、桜を見るたびに「今年で最後かな」と語っていたことを思い出す。ガンと闘っていた知人が哀切の眼差しで桜を見ていた情景も頭をよぎった。

もともと、和花の象徴でもある桜は、古くから一期一会とか諸行無常といった日本人的感性に訴えかける要素が強く、千年以上前から和歌には欠かせない素材。

DNAを受け継ぐ現代人が、ヒラヒラと散りゆく花びらを見れば感傷的になるのも当然だ。ましてや多くの人がモヤモヤ病?状態の今年はそんな傾向が強まったのではないだろうか。

とはいえ、桜が咲いて散っていくタイミングは、日本人的感性では、一種の転機を意味する。新緑が栄えるこれからの季節、前向きになるにはいい機会だ。

なんか、自分に言い聞かせているような書き方になってしまった。

恥ずかしながら私も「モヤモヤ病」だ。震災報道、原発報道、ユーチューブの見過ぎが原因だろう。いかんいかん。

せっかく気分が上向いてきても、不思議と携帯の地震予知メールが鳴り出す。そのせいでまた落ち込む。職場でも一斉に「ブイッ、ブイッ」と不気味な音が響くと憂鬱になる。

まあ、あの警報のおかげで、タバコを消したり、書棚から離れたりする時間があるから仕方ない。いい加減馴れることにする。


先日、気晴らしにサウナに出かけた。そこでもネガティブ思考がむくむくと頭をよぎる。サウナ中に大地震が来たら、サウナの扉が歪んで開かなくなって、フルチンのまま干からびて死んじゃう。

想像するだけで汗がいっぱい出たからサウナに行かなくても平気だと思う。

妙に深い場所を走る地下鉄には乗らない。エレベーターにも乗らない。先日など仕事で訪ねた某所で10階まで階段で上がる始末。

アルコールもバカ飲みが出来ない。酔っぱらった状態で帰宅難民になるのがイヤだから、つい控えがち。実にだらしない。

どうしたもんだろうか?

やはり、ムダな衝動買いに走ったり、ご馳走をここぞとばかり食べまくったり、吉原の超高級店で二輪車に励むぐらいの非日常的行為に励んだ方がいいのだろうか。

考えているより実行あるのみかもしれない。

でも、吉原あたりで地震に遭遇したら格好悪すぎる。もう少し検討してみよう。

モヤモヤ病を克服する魔法を知っている人は是非教えていただきたい。猪木のビンタとかアニマル浜口に気合いを入れてもらいたい気分だ。

そんなこと言いながら、いま私の頭をよぎっているのは、「運転が下手な男は夜の場面もヘタだ」という説だ。ある人から聞いた新しい学説?だ。

なんとなくうなずける理論だと思う。運転が荒いとか、トロい、もしくは運転が丁寧、センスがいい等々、言われてみれば意外とそっち方面と共通するものがありそうだ。

この説を聞いて以来、クルマに乗る際は、普段かけない眼鏡をかけてスムーズにセンス良く運転するように心掛けている私だ。

どうやら充分元気みたいだ。

2011年4月15日金曜日

馬登場

海の汚染が厄介だ。被爆魚を食べたくないのは当然だが、関係のない産地や現段階で気にしても仕方がないレベルの魚まで敬遠される風潮は困ったものだ。

漁に出ることが出来て、市場で取引が成立する魚なら、今まで通り気にせずガンガン食べたい。

今後、汚染が広がって日本中のお寿司屋さんが苦況に陥ることが心配。お寿司屋さんでグダグダと過ごす時間が好きな私としても大いに気になる問題だ。

魚が敬遠されてしまえば、たくあん巻きやカッパ巻き、梅しそ巻きにかんぴょう巻きとかばかりで過ごさないとならない。困った困った。

他に思い浮かぶのはワサビ巻きとか芽ネギぐらいか。コーンマヨもアリだ。なんかベジタリアン専門の回転寿司みたいだ。

ノルウェー産、カナダ産あたりのサーモンが高騰し、マグロも地中海あたりの養殖物が高値を記録しちゃうのだろうか。実に心配だ。

O-157騒動の際も、客の少ない焼肉屋でレバ刺しをムシャムシャ食べていた私だ。ちょっとぐらいの放射能でひるんでいてはいけない。内需拡大、景気刺激策の一環で積極的に寿司攻めを続ける決意だ。

先日、高田馬場の鮨源で馬刺しを食べた。「寿司屋で馬を生で食べる」。これ自体が今の世相なんだろう。

元もとこのお店は客に応じて懐を広くアレコレ提供してくれるのだが、こんなご時世だから牛刺しとともに馬刺しもレギュラーメニューに仲間入り。

何だかんだ言って、美味しければ大いに結構なことだと思う。実際に、馬刺しの概念が変わるぐらいウマかった(ダジャレではない)。


赤身、ロース、霜降り。それぞれ味わったのだが、すべてウマい。マグロで言えば、大トロが好きな人、中トロが好きな人、赤身が好きな人それぞれが満足するレベル。

臭みはまるで無し。変な話、馬肉独特の香りが好きな人には物足りないぐらいクセが無い。もともと牛刺しよりも馬刺しの方が好きな私にとっては実に有難い。

ありそうでない赤身の馬刺しがバッチグーだ。ニンイク醤油、もろみ醤油もいいが、モノ自体が良いから、ショウガ醤油との相性がバッチリだ。いつかレバ刺しも仕入れてもらおう。

馬肉はもともと「蹴飛ばし」と称される精力の源。その昔、吉原大門の門前では、さくら鍋の店が大繁盛だったらしく、世の男どもは遊びに行く前に馬肉を突ついてパワーアップに励んだ。

ウツウツムードを蹴っ飛ばすには馬肉はもってこいだろう。私自身、「みの家」とか「中江」といった下町の老舗さくら鍋屋には何度か出かけたことがある。

馬肉にはビタミンなんとかも豊富らしいが、そんなことに関係なく、ビンビンだった若者の頃に良く食べに行った。ヘルシーだの精力だのスタミナとかではなく、単純に美味しいかったからガツガツ食べていた。

評判の良い専門店が近所にないので、頻繁に行かないだけで、私の行動範囲にその手の店があったら今でも相当頻繁に通う気がする。

鮨源で馬刺しファンが増殖すれば、刺身だけでなく、あれこれと馬肉料理の種類が増えるかもしれない。それはそれで嬉しい。

魚を食べよう、寿司屋に行こうと威勢の良いことを言いながら、結局、馬肉の話に終始してしまった。

でも、「高田馬場」という場所にある店だからお寿司屋さんといえども、「馬」が出てきて当然かもしれない。

2011年4月13日水曜日

災難と保険と落し穴

何かと世の中が殺伐としている。バカも増殖中だ。先日、娘と公園に行った際、公園横に路上駐車したクルマの窓ガラスを割られた。

そんな所に駐めておいた方が悪いのだろうが、駐車時間は30分程度。一応、チラチラと公園から遠目にクルマをチェックしていたのだが、一瞬の犯行だったようで、クルマに戻るまで気付かなかった。


この日はたまたま鬼嫁用のクルマを使っていた。私の不注意が原因だから、私自身が鬼嫁にトンカチで攻撃されかねない。ヘコむ。

後ろの窓ガラスをトンカチか何かで瞬時に割ったのだろう。直径15センチ程度の穴が開き、窓ガラス全体がクモの巣状に粉々だ。

物盗りとも思えないので、きっと、路上駐車を嫌った近所のバカがやったのだろう。温厚で純情な私はただ悲嘆に暮れていたのだが、一緒にいた娘はビビるどころか、激しく怒っている。母親の血だ。

しょうがないから、クモの巣状になったガラスをその場で落として、ディーラーに運ぶ。15万ぐらいの出費とか言われてまたヘコむ。

保険屋さんに「なんとかしろ」と連絡したら、なんとかしてくれた。実損はゼロで済んだ。最近入り直した自動車保険は、免責ゼロにしてあったので保険金で全額カバーされた。やれやれ。

今日の話は、人のクルマを壊すバカの話ではない。鬼嫁が恐い話でもない。保険がテーマだ。

なぜだかわからないが、私は結構な「保険好き」だ。昔から随分色々入っている。ひょんなことで医療保険の保険金をたくさん受け取ったりしたことが保険好きになった理由だろう。

ただ漫然と貯金するのも面白くないので、貯蓄性の高い保険にも加入している。いざとなった時の解約返戻金は結構貯まっている。この金額の範囲内で面倒な手続きなしに瞬時に借り入れることも出来るわけだから、すぐに使っちゃいそうな銀行口座に貯めるより堅実かもしれない。

保険といえば、今回の震災を受けて、生命保険各社が支払手続き簡素化や、そもそも保険に加入しているかどうかの確認作業を迅速に行うことをアピールしている。

保険会社が頑張っていることは認めるが、つくづく怖さを感じるのが生命保険の基本原則である「請求主義」だ。契約者からの請求があって始めて保険金が支払われるというスキームだ。

当たり前のように聞こえるが、今回のような急な災害を想定すると実に厄介。多くの人が思い当たるだろうが、「お付き合い」で生命保険に入る人は多い。自分がどんな保険商品を契約していたか完璧に把握している人は少数派だろう。震災で保険証券が無くなっちゃったらお手上げというケースはザラだ。

これだけなら、まだ各保険会社に問い合わせするという手段があるが、保険契約の存在を知っている人が亡くなり、保険代理店も被災したり、無くなっちゃったケースだと、残された人は保険を確認することにすら思いが至らない。

もっと悲惨な場合を考えてみる。災害で親が死亡。保険金受取人は子ども。当然保険のことは知らない。保険証券も見あたらない。保険料は当然、未納状態になる。保険会社から保険料の未納通知が出されても、通知自体が届かない――。

こうなると、せっかく親が子どものために長年契約していた保険自体が失効してしまう恐れが出るわけだ。まさに悲劇だ。

生命保険が請求主義に基づいている以上、当然起こりえる話。死亡保険金に限らず、ケガや病気をカバーする医療保険だって同じ理屈だ。せっかく何年も保険料を払い続けたのにパーになっちゃうのは悲惨だ。

被災地域の契約者の安否確認を保険会社が率先して行い、実態に応じて受取人に保険金を請求するよう促すことは制度上行われないし、そうした動きもない。

今回のような大災害では、人知れず失効する保険契約はかなりの数にのぼるのではないか。誰が悪いと言える話ではないが、なんとも気味が悪い話だ。

2011年4月11日月曜日

ソースだろう

私はソース太郎だ。ソースか醤油かという論争は目玉焼き業界やアジフライ業界で昔から活発に展開されているが、私は断固ソース派だ。

トンカツを醤油で食べる人がいるらしい。人の道に反していると思う。目玉焼きやアジフライも逆立ちしたってソースがいい。

考えてみれば、アジフライのアジは、あのアジだ。魚のアジだ。アジにソースという組み合わせは根本的に不気味ではある。それでも衣をまとった瞬間、ソースが抜群の相性を発揮する。不思議だ。

海外旅行に醤油を持参する人は多い。でも、私が持参するのは醤油ではない。コンビニで売っている小瓶の中濃ソースだ。これがあれば、世界中の揚げ物を相手にしても無敵だ。ソーセージや目玉焼き方面が登場してもバッチリだ。

醤油の偉大さはもちろん認めている。私が最も好きな食べ物である寿司にしても醤油がなければ、食えたものではない。

一度実験したことがある。極上の本マグロの刺身や握りを醤油なしで口にしてみた。結果は当然散々だった。単純にマズい。

どんな寿司でも醤油の味があって初めてウマいマズいを語っていることに気付いた。醤油は醤油で偉大だ。

とはいえ、醤油とソースのどちらか一方しかこの世に残らないと考えたら、私はソースを選ぶ。

一人暮らしの若い頃、おかずを作るのが面倒で、炊きたてご飯にソースを適量まぶしてワシワシ食べたこともある。

まだソーメンチャンプルーという存在が現地以外で知られていなかった数十年前から、余ったソーメンは油で炒めてソースをかけて食べていた。

私にとって頼もしい存在であるソース。いや、誰にとっても有難いはずのソースだが、そのたぐいまれな偉大さは、国民の間で高く評価されていない。世界に誇るべき存在なのにテキトーな位置付けだ。そんなことで良いのだろうか。

醤油に関しては、日本中でスペシャルな逸品が職人技の集大成のような扱いで神々しく販売されている。気の利いたスーパーに行けば全国各地の極上醤油が百花繚乱だ。

対するソースはどうも分が悪い。どことなくB級調味料のような位置付けだ。決まったメーカーの決まったソースを疑うことなく漫然と使い続けている。

エラソーに書いている私だって、基本的にはそこら辺で打っているそこら辺のソースで満足している。それでもソースが好きだ。

思えば、海外に行っても大きなスーパーで醤油は手に入る。ソースといえば、せいぜいマズいステーキソースぐらいしか置いていない。日本製のあのソースはまず売っていない。

「ニッポンのソース」。我々にとってはごくごく日常の調味料だが、外国人にまだ知られていない日本独自の味と言える。実に貴重だ。

先日、所用で大阪に行った。江戸っ子として「大阪的なモノ」が基本的に苦手な私だが、大阪のソース文化には大いに共鳴する。

粉モンがどうこう言い出せばキリがないのだが、それはさておき、ソースをベットリ塗りたくる大阪の心意気は素晴らしい。

泊まったホテルの地下にお好みチェーン「千房」のゴージャスバージョンである「プレジデント千房」なる店があった。富豪としては行かねばなるまい。それにしても凄いネーミングだ。

で、行ってみた。目の前で手際よくステーキを焼き上げる洒落た高級鉄板焼き店の風情。とはいえ、漂うのはソースが焦げるアノ麗しき香りだ。

いろいろ食べた。お好み焼、モダン焼き、何が違うか良く分からないがソースバンザイだ。ネギ焼きなる一品が醤油ベースの味付けでギョッとしたが、世の中にはソース嫌いもいるだろうから仕方ない。

でも、お好み焼き方面で醤油味に出くわすと、ヘタに関東に媚びを売っているみたいに感じる。どうだろう。

この日、私を感動させたのが「ソバメシ」だ。何年か前に全国的に流行の兆しがあったが、いつの間にか消えて無くなった変な食い物だ。

その名の通り、ソース焼きそばと同様の味付けのご飯がミックスされている実に品の無い?一品だ。

「炭水化物オン炭水化物」といえば、「焼きそばパン」がある。あんなものが日本中で市民権を得ているのだから「ソバメシ」も非難されるいわれはないのだろう。

私のようなソース好き人間にとっては、ある意味究極の食べ物かもしれない。

この日は、目の前でコックさんがうやうやしくソバメシを作ってくれた。背高帽のコックさんが、ご飯と焼きそば、キャベツ、みじん切りにした紅生姜なんかを丁寧に混ぜ混ぜ炒めている。大阪ならでは?の不思議な光景だ。

適度な火加減の目玉焼きがトッピングされて完成。うやうやしく皿に盛られる。目玉焼きをグチャグチャとツブして更なる混ぜ混ぜを繰り返す私。匂い立つソースの香り。

その昔、初めてソバメシの存在を知った時の印象は「汚物かい?」だった。失礼ながらそう見えたのだが、そんな見た目にもかかわらず、ソース好きなら引き寄せられる魅力がある。

「口の中に広がる魑魅魍魎たちにたじろぎながらも味覚中枢は拒めない快感にのたうち回る」。あえて表現するならそんな感じだ。

こんなものを初めて作った人間はエラいと思う。ついでに言えば、こんなものをメニューに加えて堂々と商売道具にした人間も凄いと思う。

とても変チクリンなのにクセになる味だ。ブログ用に画像を撮ろうと思ったが、見た目が汚いのでやめた。

2011年4月8日金曜日

アウトロー

先日、旧友達と大騒ぎをする機会があった。
日々、重苦しい空気が漂う昨今、こういう場面は有難い。

大半のメンバーは結局、始発が出るまで騒いでいたが、私は根性が足りないらしく、一足早く帰ってしまった。反省。

小学校時代からの友人の社長就任祝いという名目だった。先月は別な友人が社長を務めた会社が残念な最後を迎えてしまい「励ます会」があったのだが、やはり人生後半戦に入ると、みんな色々ある。

この日、主役の友人は、学年トップの美男子で兄弟は一流モデル。「格好いい社長コンテスト」があればきっと優勝すると思う。

どちらかといえばマジメな路線を歩んだ男なのだが、カタブツではなく、部活では東京代表として全国大会に出場したほどのスポーツマンでもある。

学生時代には、運動系、学業優秀系、そして私のようなフニャフニャ系とも全方位外交だったので、同窓生の中でも交友範囲は広いようだ。

この日のお祝い会は、我々フニャフニャ系の集まり。主役の当人以外、成績が優秀だった人間は皆無。上の学年から留年してきた友人、下の学年に留年しちゃった友人、途中で学校をやめちゃった友人など、そういう集まりだ。

誰かが表現していたが、「アウトローの集い」だとか。アウトローなどというとトンデモない悪者のイメージだが、そんな大袈裟なものではない。

とはいえ、飛び抜けた不良なんかはいなかったのが母校の校風。そういう意味では、あの狭い世界では、我々フニャフニャ系は確かにアウトローだったのかもしれない。

相も変わらぬバカ丸出しの昔話で腹を抱えて笑う。下品極まりない最低の会話が大音量で爆発する。会場は、やはり旧友が営む浜松町の店だったので、遠慮のカケラもない。

確かにアウトローだ。

中学時代から付き合いのある女子校出身のオバサマがたも数人参加していたのだが、こっちの記憶から消去したような恥ずかしい話もどんどん出てくる。

記憶から消去というか、「封印」していたような話だ。誰がモテたの、誰がエロエロだっただの、当事者以外は逆立ちしたって面白くない話で延々騒いだ。

考えてみれば、男子校のくせして、中学生当時から色々な女子校の人々と遊んでいたこと自体が、確かに不良ではある。子どもを持つ身になって妙に実感する。

15才ぐらいの分際で男女入り乱れてスキー合宿という名目のバカ騒ぎ旅行とかをしていたこともあった。オトナになったいま、そういうことは本気でダメだと思う。

そんなフニャフニャだった我々も本人の意思に反して大人になり、結婚し、子どもを授かり、そして離婚した。

誰それの最初の嫁は色っぽかっただの、誰それのいまの嫁はアーダのコーダの、オトナになったはずなのに話題はロクでもない。

付き合いが古い友人達の特徴は、人の古傷なんかをモノともせず、ずかずかと平気でイジリ倒せるところかもしれない。付き合いが短ければ流血の惨事になりそうな話もびゅんびゅん飛び交う。

ヘタすれば5才ぐらいの頃から付き合っていたわけだから、たとえここ10年ぐらい会っていなくても、瞬時にタイムスリップして古傷に塩を塗りたくってゲラゲラ笑う。

この日、久々にあった友人から、私の恥ずかしい過去の話を切り出された。高校生の頃、変なフォークバンドを作って束の間のボーカリストをやってみた封印ネタだ。

彼は当時、私の思いつきフォークバンドとは違う、もう少し真っ当なロックバンドのギタリストとしてぶいぶい頑張っていた。今も時々ギターを弾いているらしい。


そういえば、別な友人も若かりし頃の音楽活動を思いだし、高価な楽器をオトナ買いしながら、ライブの計画を練っているらしい。

そんなこんなで、オヤジバンド結成計画なんぞを酔っぱらい同士で話し合う。楽器が出来ない私は歌うしかない。「ハマショーなら歌えるぞ」などと調子に乗ってノリノリだ。すぐに調子に乗るところは、ある意味で加齢の成せるワザだ。

でも、世の中に増殖中のオヤジバンドは、こんなノリから生まれるのだろう。ひょっとしてひょっとすると私もオヤジミュージシャンの仲間入りだ。

いつ大災害に襲われるか分からない世の中だ。そんな奇想天外な計画も楽しいかもしれない。

発声練習に励もうと思う今日この頃だ。

2011年4月6日水曜日

昼飯問題

日々、私を悩ませる問題のひとつが昼飯だ。
そんな書き方をすると大げさだ。でも私の人生にとって昼飯問題は非常に重要かつ厄介なテーマだ。

なんたってその日の夜の酒の呑み方に多大な影響があるわけだから安易に考えるわけにはいかない。

朝飯は必ずしっかり食べる。子どもの頃からこれだけは不変だ。食べ過ぎないようにしているが、結構しっかり食べる。

朝から牛丼だろうとパスタだろうと大丈夫だ。私の場合、一日のうち、いちばん空腹を感じるのが朝だ。考えてみれば、前回の食事から10時間とか12時間も間隔が開いてるわけだから、腹が減るのは当然だと思う。

朝しっかり食べると昼時に空腹を感じるのはすっかり午後になってからだ。2時とか、ヘタすれば3時ぐらいに空腹モード。これが問題だ。午後3時にしっかりとした食事をしたら、夜の酒がウマくない。

今日はどこで何を食べようかという発想や店選びもモチベーションが上がらない。やはり夕方以降の6時とか7時過ぎに空腹を感じるようにタイムマネージメントしないとダメだ。

朝にドカ食いして、午後の空腹をしのいで、夜の7時ぐらいに空腹ブリブリになってからウマい酒とウマい肴をワシワシ摂取する。これが最も収まりの良いパターンだ。

朝を少なめにして、ちゃんとした昼時にそこそこ昼飯を取って夜の席になだれ込む。このパターンも悪くない。

ただ、私の場合、「そこそこ食べる」という行為が苦手だ。だいたい、世の中の飲食店の昼飯は量が多すぎる。全部食べれば相当な満腹感だ。外食する場合、軽めに食べるという行為は意外に難しい。

おまけに私自身の食い意地にも問題がある。軽めにもりそばで済まそうと思っても、なぜか「大盛りで」と注文しちゃうし、ライスのお代わりが自由だと聞けば、おかずが無くてもお代わりする。

ハンバーガー1個とか、おにぎり1個とかで終われるような節度を持ち合わせていない。結局、昼飯をパスすることが増える。そのうえで、夕方、歌舞伎揚げとかハッピーターンをボリボリかじったりする。

ここまで書いてみて、実にくだらないことに脳みそを使っているのだと我ながら呆れる。そうはいっても1日1日を大事に生きるためには、夜の酒に焦点を当てながら朝飯、昼飯計画を考えねばなるまい。

ちなみに、「富豪」を名乗る以上、時には贅沢ランチも楽しむ。私の職場は残念ながら池袋というシュールな街なので、地元では昼からウマいものを食べようというモチベーションは起きない。

午前中から都心部に出ている時、うまく昼飯時に当たれば、ホテルランチが多くなる。「生きるために仕方なく摂取する」ようなワンコインランチみたいなのは好きではない。あれなら一食抜いて夜にガッツリいった方がよい。

ホテルランチといっても、ナイフにフォークみたいな大げさな食事を酒抜きで味わってもつまらないので、たいていは、テナントの天ぷらや特製天丼を食べたり、ウナギ屋で特上を食べたりして満足する。

昼の天丼に3千円とか支出するのはバカみたいだが、いつ大震災が来るか分からないし、ひととき優雅な気分になることもモチベーション維持に必要だろう。

まともなホテルのカフェスペースでは、たいてい「正しいニッポンの洋食」風のメニューが揃っている。このあたりも捨てがたい。パスタとは呼べないニッポンのスパゲッティーも妙にウマいし、ピラフ類も魅力的だ。

ちょっと前の話だが、ある週に4日間たまたま昼のホテルメシが続いた。帝国ホテルでは「天一」、京王プラザホテルでは中華の「南園」、渋谷のセルリアン東急、ホテルグランドパレスではカフェレストラン。なんか忙しいビジネスマンみたいだ。さすがに体重が増えた。

このなかで私がいちばんホッコリしたのが、もっともカジュアルな一品、「グランドパレスのピラフ」だ。


大手町周辺で小難しい打ち合わせが終わり、解放された一人の昼下がりだったから、ピラフ食べたさの一心だけでグランドパレスに直行。ここのピラフは、小学生時代から折に触れて食べる機会があり、かれこれ35年は食べている“ふるさとの味”みたいなものだ。

正直、昔の方が思い入れもあってウマかった記憶があるのだが、それでも変わらない味付けで特製ソースの滋味も不変だ。

いつも2つぐらい食べたいと思うのだが、さすがに恥ずかしくてそんな注文は出来ない。とはいえ、いつ震災に遭うとも限らないから、次回こそダブルで頼もうと思う。

2011年4月4日月曜日

支援、自負心、読書

諸外国からの支援申し入れが134カ国と39の国際機関にのぼった(3月30日現在)そうだ。なんかピンとこない数字だが、これって結構凄いことだと思う。一昔前のオリンピック参加国と同様の数字だ。世界の大半の国と言っても大げさではない。

正確な記録は知らないが、20万人以上が亡くなったスマトラ大地震の時でも被災地支援は5~60カ国だったような記憶がある。

1千年に一度という規模も歴史的だが、国際社会の支援という意味でも今回の震災支援の輪は歴史的だ。不謹慎な言い方かもしれないが、日本も捨てたもんじゃないなという印象だ。

とかく、日本人には自国を卑下する習性がある。世界から嫌われているとか、孤立しているとか、ネガティブに自分達の国を捉えがちだ。今回の国際的支援を見ると、こうした自虐感は一種の呪縛だったんだろうと思う。

世界から大事に思われている事実、まだまだ捨てたものじゃないという事実、自虐的解釈ではないこうした感覚も復興へのエネルギーにつながると思いたい。

前向きな気持ちや確固たる自負心抜きに新たな一歩は生まれない。いじけていても屁の突っ張りにもならない。

今回の大惨事をめぐっても世界のメディアは、日本人の忍耐力や道徳心をこぞって賞賛した。この根っこの部分があったからこそ支援の輪が世界中に広がったとも言える。

「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(PHP新書)という本を読んだ。大災害の後だけに各地でベストセラーになっている一冊だ。


筆者は旧皇族の竹田恒泰氏。出自ゆえに、それなりに日本への思い入れが強すぎるきらいもあるが、全体的に客観的なデータが駆使され素直に面白い。単なる情緒的な日本礼賛モノとは一線を画した内容だ。知られざる日本の魅力、日本人の個性が数多く紹介されている。素直に気持ちの良い本だと思う。

被災地だけでなく、国全体のマインドが低下し、重苦しい空気が消えないいまだからこそ、読み応えのある一冊だと思う。右翼、左翼に関わりなく、客観的な海外メディアの報道や世論調査の結果などのデータを示されると、思わずうなずいてしまう。

最近、余震にビビッて睡眠導入剤を飲めない代わりに、随分と深夜の読書が増えた。面白い本だと、逆に目が覚めてしまうのが困る。

いくつか印象的だったものを上げてみる。

●「悪名の棺-笹川良一伝」

 我々の世代にとって笹川良一は、テレビコマーシャルで「一日一善」と叫んでいたオジサンだ。オトナになるにつれ、得体の知れないフィクサーとしてのおどろおどろしい話ばかり耳にした。この本は、そうした伝説に対抗するような「善」の部分にスポットをあてた一冊。昭和裏面史という意味で読み応えアリ。

●「陽だまりの時間」

 「だからあなたも生き抜いて」がベストセラーになった大平光代さんの本。イジメ、自殺未遂、転落、極道の女房を経て、一念発起して司法試験に一発合格した波瀾万丈の人。実は私は「転落した人の再起もの」にはあまり興味がない。とはいいながら、大平さんはその後、ダウン症のお子さんを産んで前向きに子育てに励んでいると聞いて読んでみたくなった。ダウン症つながりだ。

●「潜入ルポ ヤクザの修羅場」

 ヤクザ専門誌?編集者だった筆者が見てきた極道さん達の興味深いエピソードがテンコ盛り。ウケ狙いの任侠モノとは違うかなり突っ込んだルポ。面白くて一気に読んだ。版元が文春新書だけにお笑い系ではないのだが、笑える部分がとても多い。

2011年4月1日金曜日

疑問だらけ

今更ながらのテーマだが、国や自治体の役割ってなんだろう。震災後の対応を見ていて、どうにも腑に落ちないことが多い。

小難しい話になるが、わが国は地理的な特性もあって、歴史上、安全保障上の脅威をあまり経験していない。

さきの大戦は別として、大昔の蒙古襲来とか、江戸末期の黒船来航ぐらいしか教科書でも教わらない。惨敗した大戦にしても、結局のところ占領は短期間だったし、植民地になったわけでもなく、基本的な文化や言語は維持された。

こうした背景もあって国とか地方自治体って何のためにあるのか、国民の誰もがピンとこないまま、なんとなくその存在を認識しているだけだろう。

だから、選挙で代表者を選ぶ時でも、知名度だけが重視され、落ち目のタレントやクラリオンガールが平気で圧勝したりする。

そもそも国や自治体の役割は「国民や住民の安全保障」が根幹だ。すなわち、国民や住民の生命・財産を守ることが基本中の基本であり、最優先事項だ。

みんなが税金を納めている意味もそこにある。所得税や法人税は節税策によって逃れられても、極端な話、消費税がある以上、ヤクザだろうが、アナーキストだろうが、国に税金を納めている。

納税するという行為自体が国や自治体に対して、その役割を委託していることに他ならず、相手側が基本的な役割を放棄したら、詐害行為であり、契約違反であり、裏切りだ。

原発問題は、政府発表の内容より深刻化していることはもはや周知の事実だ。諸外国の報道機関はもちろん、東京電力の影響?が及ばない国内の地域メディアですら、首都圏とは違う角度からその危機的状況を伝えている。

関東の人間が聞かされている内容はかなり恣意的に脚色されていると考えておいたほうが無難だろう。

パニックを防ぐため、無用な不安を煽らないためといった大義名分にも理はある。それはそれとして、中長期的影響に言及しない国や自治体の姿勢は疑問だ。

相変わらず拡散が続く放射性物質だが、政府の発表を要約すると次のような表現になる。

「放射性物質が付いている野菜を食べてもOK」。

「汚染された水を飲んでも問題ない」。

「海に出た汚水は薄まるから魚を食べても問題なし」。

おまけに「プルトニウムを食べても大丈夫」ときたもんだ。

もちろん、本当に微量ならすぐに悪影響が出るわけじゃないだろう。ただし、この状態が一過性で終わらないのなら、累積するわけだから危険に決まっている。

だいたい、安全だの大丈夫だの言われても、それが60才、70才の人の話なのか、幼児や子どもも同列に捉えていいのか、サッパリだ。

過剰な風評被害は害悪だが、それぞれの人がそれぞれの立場に会わせて不安を持ち、心配し、なんとか安全策を探りたくなるのは当然だ。

それにしても、政府発表を聞いていると、いつから日本人は放射能に負けない体質を手に入れたんだか不思議な気持ちになる。おまけに各種の基準値とやらも「緊急時」だから数値を緩和しようという動きが顕著だ。

そもそも何のための基準値なんだろう。メタボの数値じゃあるまいし、安全のための基準ではないのだろうか。

「直ちに」影響を及ぼすことがないのならば、「いずれ」はどういう悪影響が考えられるのか、そして、それを避けるために何をすべきかを示さないのなら意味がない。

この問題に関する国や自治体の仕事はそこに尽きると思う。

放射線などの測定値を各自治体が公表している。場所によっては、1週間も前の数値を発表したところもあるようだ。大事なことは、その数値がどのぐらいになったら何をすべきかを不測の事態まで考慮した上で国や自治体がアナウンスすることだろう。測定だけなら素人だって出来る。

放射能の怖さは十年、数十年単位で悪影響を及ぼす点だ。国や自治体担当者にとっては、そんな先のことはあずかり知らぬという感覚なのだろうか。

いまも放射性物質は飛散し続けている。微量とはいえヨーロッパでも観測されたほど膨大に漏れ出している。

それでも、原発からたった100キロ、200キロしか離れていない関東圏では、春休みの子ども達が公園でさかんに遊び、水を飲みながら事故前と変わらない暮らしを続けている。

当然、「直ちに影響がない」という国の発表を信じているからだ。10年、20年後に深刻な影響が生じても、「直ちに」ではなかったわけだから、国の言い分はウソではなかったという理屈になる。

アメリカの大統領が、わざわざエアフォースワンでの移動中に菅首相に電話会談を求め、原発大国フランスの大統領がわざわざ緊急来日した。また、フランス原子力大手のアレバ社トップも乗りこんできたし、アメリカ海兵隊の放射能専門部隊140名が緊急時のために日本で待機することも決まった。

こうした一連の異例な事態は、政府発表のノンビリした?内容と実際の危機との温度差が大きいことを意味している。

IAEA(国際原子力機関)が福島県の特定エリアに対して、既に避難基準を超える状況だと勧告した。国が出した屋内待避指示圏の外側のエリアだ。これを受けた国の対応は「調査する」というもの。

自国民の念のための安全を考え独自の待避指示を出していた個々の国の指針とはまるで意味が違う。わが国の政府は、その筋の専門国際機関から、避難指示圏の誤りを指摘されているわけだ。

国民の生命や安全を守るという第一優先順位が徹底されていないのなら、もはや国家の体をなしていないというレベルだ。おぞましすぎる話だ。

今日は、とことん重く暗いテーマに終始してしまった。不安を煽るような気持ちはまったくないが、「深度6で壊れる原発」「デタラメだった安全神話」という国の裏切りに無性に腹が立つ。