2011年12月30日金曜日

壺中有天

今日で今年の更新もおしまいです。

秋頃、このブログは今年いっぱいで小休止しようかと思ったものの、思うところあって、来年も継続します。

何だかんだ言って、身辺雑記を書き続けることが好きなんだと思う。自分の考え方の整理に貢献することもあるし、あの時自分は何をしていたのかという記録になるだけでも悪くない。

ある意味、私にとってこのブログが「壺中有天」の境地に近づいているのかも知れない。

「壺中の天」については、4年前に言葉の由来と解釈を書いたので、ご参照いただきたい。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2007/12/blog-post_21.html

簡単に言えば、自分だけの別天地を持つことの大切さを表現した故事だ。

ふさいだ気分で日々を過ごしたり、仕事がまったく上手くいかなかったり、人間関係に疲れたり、はたまた人生の羅針盤に狂いが生じた時、人の心は簡単に折れそうになる。

どんな境遇に置かれても、自分の中で別天地を持つことが自分を救うことになるという解釈は、どんな立場の人だろうと当てはまるはずだ。

同系統の言葉では、「忙中有閑」は、忙しさの中に見つける暇の大切さを説いている。暇が出来たら・・などと考えているようでは何事も出来ないという戒めだ。

「苦中有楽」は、苦しみ抜いてこそ、本当の楽しみを見つけるという教えだ。

「壺中有天」も、そうした教えのひとつに位置付けられている。人生に必要なのは、しがらみ抜きに自分だけが没頭できる世界を持つこと。まさにその通りだと思う。


もともと、この言葉を知ったのは、陶磁器収集に精を出すようになった30代半ばの頃。陶磁器といっても、酒器専門なので、いわば徳利を壺に見立てて、この言葉を面白がっていた。

私にとって徳利集めの楽しさは、それぞれの徳利の口造りの違いを眺めて喜ぶというもの。

手作り特有のひしゃげた感じをウリにする陶器の徳利が好きで、口元を触ったりしながら、覗いても決して見えない壺状の中身の神秘性に魅せられていた。

壺の中に未知の世界が存在しているのかも・・・。などと徳利から注ぐ酒の酔いも手伝っておセンチな妄想に励んでいた。

今思えば、そんな妄想に耽ること自体が、「壺中有天」、すなわち、自分だけが没頭する世界を作って楽しんでいたのだと思う。

趣味でも副業でも何でもいい。自分をほんの一時でも解放することは、誰にだって必要だと思う。

別天地とか自分だけが没頭できる世界と言っても、それは逃げ場所を意味するものではない。単なる現実からの逃避では救いの道にはつながらない。

別天地も一つの現実世界として存在させて初めて本当の別天地になるのだろう。現実を複数共存させるぐらいの気持ちが大事なんだと思う。

なんか重苦しい表現になってしまった。

軌道修正する。

最近は徳利を入手する機会が激減した。何かと最近は散財しているのも確かなのだが、それだけが理由ではない。頑張ってそれなりの良いものを集めてくると、欲しい逸品のランクも必然的に上がってしまい、なかなか気軽に手が出なくなってくる。

うーん、ここが勝負所なんだろうか。そこそこ無理をしないと幸せは手に入らないのも事実だろう。無理をすることで生まれる喜びとか、無理をすることで見える世界を大事にすることは人生を豊かにする。若い時は今以上に「無理をしてでも・・・」という感覚が強かった気がする。

ある意味、今の自分を作ってきたのは、そんな無理の積み重ねとか、痩せ我慢とか、そんな心理だったんだと思う。

すっかり分別ヅラになってしまった自分を俯瞰してみると、無理が少し足りないんじゃないかと思う時がある。一歩踏み込めなくなったというか、保守的な姿勢に陥っているように感じる。

そんな寒い現実に気付くと身震いしたくなる。いかんいかん。そんなんじゃ老けこんでしまう。

新しい年は、もっともっと攻めに転じよう。

来年は1月6日金曜から更新を再開します。よろしくお願いいたします。

2011年12月28日水曜日

イカの謎

食べ物の中で一番好きなのが寿司だ。飲み喰いに行く店で一番好きなのも寿司屋だ。だから、それなりに寿司ネタの魚については学んできた。

もちろん、素人なりの経験がベースなので、エラそうなことは言えないが、以前から腑に落ちないのが「イカ問題」である。

東京の寿司屋でイカを注文することは滅多にない。でも、毎年のように行く函館ではイカを親のカタキのように喰いまくっている。

東京の寿司屋でイカといえば、スミイカがエース級の存在で、函館でお馴染みのマイカ(スルメイカ)は二線級の扱い。塩辛用のためだけに仕入れるなんて話も聞く。

個人的にはイカのネットリ感がそんなに好きではないので、スミイカ中心の東京だと、イカを注文する気が起きない。

高級品扱いのスミイカは何よりネットリした食感がウリ。シャリとの相性が良いから寿司屋業界ではエバった存在だ。それはそれで理解できる。


一方のマイカは、コリコリした食感だから、確かにシャリとの組み合わせでは、スミイカに劣るのだろう。そうはいっても、画像のように生のまま出されるハラワタのウマさは、珍味業界のスーパースターだと断言できる。

私に言わせれば、上等なスミイカがビリージョエルだとしたら、生きたままさばかれる新鮮なマイカは、エルヴィスプレスリー並みの抜きんでた存在だ。

にもかかわらず、東京では、マイカのワタは塩辛のために存在するみたいな空気が支配的だ。一体ナゼだろう。

生きたままさばくという部分が函館ならではの特徴なのだろうか。いくら新鮮でも死んでしまったマイカだと、あの動いているほどの新鮮コリコリ感と生のワタのエロティックスペシャルな味わいは堪能できないのだろうか。

高度に進歩した現在の運輸環境にあっても生きたまま輸送することが難しいのだろうか。

何でも揃う東京というワガママで貪欲なマーケットでも、マイカのワタを生で食べさせる店など聞いたことがない。函館あたりだと7月から12月ぐらいまでは、そこらへんの居酒屋でも生のハラワタを普通に出してくれる。実に不思議だ。


函館では「ゴロ」と呼ばれるハラワタだが、掛け値無しにウマい。珍味という表現は正確ではない。純粋に美味なる存在だと思う。

クリーミーで甘味があって、口の中で溶けていく感じ。上等な生ウニにも劣らない官能的な味だ。

理由は良く分からないが、東京でお目にかかれない以上、わざわざ函館を訪ねる理由になるわけで、函館好きな私にとっては、それはそれで良しだろう。

なんでもかんでも東京で味わえるなら、旅先での食道楽など根絶してしまう。下の画像は、函館のとある郷土料理系居酒屋のメニューだ。私が騒いでいるマイカのさばきたては、ハラワタもしっかり刺身にしてくれてこの程度の値段だ。


こんなメニューの飲み屋さんがごろごろあるから函館は楽しい。今回は、毎回必ず訪ねるお寿司屋さんが、予約がいっぱいで入れず、お気に入りだった海鮮系の割烹も無くなってしまったので、店選びに少し難儀した。

そうは言っても、数え切れないほどこの街を訪ねてきた経験によって、適当に店を決めて旬のウニやさまざまな珍味を食べ歩いてきた。


真イカのワタが生で食べられるのは、それこそ12月までなので、そればっかり食べていたが、旬のウニも連日連夜摂取してきた。

上の画像は、朝市にほど近い立地の「むらかみ」という店で食べた無添加ウニ丼だ。ミョウバンを使っていない生のウニをふんだんに使ったスペシャルどんぶり。悶絶。

ここ「むらかみ」は、ウニ加工会社直営の飲食店だから、ウニの品質の高さが自慢の店。どんぶり横町をはじめとする朝市周辺の飲食店に比べると価格設定は高め。それでも、間違いのない逸品が食べられる。

この日、上の画像のどんぶりはシメの一品として食べたのだが、そこに至る前に熱燗をグビグビしながらアレコレ堪能した。


色合いが不揃いなだけで味わいに遜色のないウニを一折つまみにもらう。贅沢かつ至福な時間だった。ウニにぺたっとワサビ醤油を塗ってぺろっと口に放り込んで、磯の香りが消えないうちに熱燗をキュっと流し込む。グヘヘヘって感じだ。


ウニの佃煮とかウニの醤油漬けとか、自家製の珍味もいろいろあったので、熱燗のお供に注文する。画像は醤油漬け。これまた酒肴として完璧な味だった。日本人に生まれて心底良かったと実感した。

これ以外にもウニクリームコロッケとか、イカとアスパラのウニソース炒めとか、ボタンエビ刺しとか、熱燗のピッチを上げさせるつまみをワシワシ摂取した時間だった。

この日飲んでいた酒の銘柄は「熊ころり」。このネーミングも素晴らしい。北海の珍味を肴にグビグビすれば、熊のように太り気味の私がコロリとひっくり返るほどだった。
下の画像は、店を出た直後の私の画像だ。


まさに雪の上にコロッと倒れて酩酊状態。昼間の酒だったのでいつも以上に幸せだった。

雪見の温泉を山と海で堪能し、痛風の恐怖もものともせずに、ウニやイカワタ三昧だった今回の旅。充実した時間だった。

時が止まればいいと何度も思った。近いうちにまた北の国に戻りたい。

2011年12月26日月曜日

登別と湯の川

久しぶりに北海道に旅行に行ってきた。寒い時期に寒さが厳しい場所に行くのは旅の醍醐味。住んでいる人には悪いが、2,3日覗くには雪もドカンと降ってくれたほうが楽しい。

登別と函館に行ったのだが、普通は12月のこの時期、ガンガン雪が降ることは少ない。運良く今回は一面真っ白というパターンに遭遇したからバンザイ三唱の気分だった。

今回は運良く、どちらもしっかり雪景色を堪能できた。旅の目的は珍味と温泉。雪を眺める風呂の素晴らしさは言うまでもない。

まさに「頭寒足熱」という大自然での温泉の楽しさを堪能してきた。


最初は千歳空港から登別へ。目指す宿は「滝乃家」。老舗だが、3年ほど前に全面改装して、北海道屈指の上質な宿に生まれ変わった人気の旅館だ。

3年前に一人ふらっと寝台特急北斗星に乗って登別に行った際に泊まった宿だ。別な宿を体験したい気持ちもあったが、前回の快適さが印象深かったのでリピーターになってみた。

部屋付の露天に惹かれて前回よりグレードの高い部屋を選んでみた。源泉掛け流しのにごり湯が部屋にいながら味わえるのは贅沢の極み。粉雪が舞う山あいの眺めも風流で、まさに命の洗濯。

どうも最近は命を洗濯しすぎているような気がする。


部屋の食事スペースはリビングエリア、ベッドルームとは仕切られている。特筆すべきは、厨房から部屋の食事スペースに直接出入りできる扉があること。つまり、仲居さんは、ベッドルームやリビングを通らず配膳や片付けが可能というわけ。

隠れ家タイプの高級旅館としては実にセンスの良い発想であり、設計だと思う。

食後、ベランダで葉巻をふかしていたら、さすがに冷え切ったので、部屋専用の温泉に飛び込む。ウヘーとかオウッとかオッサン丸出しの奇声をあげて喜ぶ。

雪を眺めながらにごり湯に浸かり、レミオロメンの「粉雪」をサビの部分だけうなって好きな葉巻をプカプカする。なかなか経験できない極楽時間だ。


上機嫌で宿の庭を眺めていたら、ナマの、いや天然の、いや野生のエゾジカまで登場した。大きなツノを伸ばした結構なサイズのエゾジカが木の芽か何かをついばみにやってきた。

出来すぎだ。庭の一部がライトアップされているせいで、エゾジカが動くたびに薄ボンヤリと浮かび上がった幻想的なシルエットも揺れる。ホントに出来すぎな光景だった。


部屋の風呂だけでも充分なのだが、大浴場も捨てがたい。3種類の源泉が用意され、サウナもある。おまけに、客室の風呂に惹かれて訪れる客が多いため、大浴場も貸切に近い状態がほとんど。

大浴場から露天風呂には、外の階段を下っていく造りなのだが、この階段にも温泉が流され、足が冷たくならないように工夫されている。


谷底のような地形に造られた露天風呂からは雪をかぶった山肌の眺めが楽しめ、近くの川のせせらぎと野鳥の音色がBGM。こんな空間に一人佇んでいると、気の利いた恋愛小説ぐらい書けそうな錯覚に陥る。五感がリセットされた感じがした。

ハード面、ソフト面ともに北海道ではトップレベルの宿だろう。食事も派手さはないものの、ひとつひとつ丁寧に仕上げられ、総合的なコストパフォーマンスも首都圏近郊の高級旅館よりも確実に優秀だ。

チェックアウトが11時なのにメインの大浴場が朝の9時で終了してしまうのは、あり得ないほどのダメダメだが、それ以外は申し分ない宿だと思う。

今回の旅では、2日目の午後に函館に移動した。この日はこの時期の函館名物であるクリスマスイルミネーションを見物しようと、名物ツリーが部屋から見えるホテルに一泊。一足早いクリスマス気分に浸ってみた。


そして翌日、毎年のように訪れる湯の川温泉の「湯の川プリンスホテル渚亭」に移動。
「滝乃家」のようなしっぽり系でもなく、和モダンでもなく、強いて言えば昔ながらの大型旅館。

個人的に何年も前からこの宿がイチオシで、暇さえあれば行きたくなる。日本で一番空港から近い温泉が湯の川温泉であり、その中でも海っぺりの露天風呂の絶景が素晴らしいのがこの宿だ。


過去に何度も、当日や前日に突然行きたくなって函館に飛んだのだが、この宿の空きを確認してから航空券を買うパターンが私のお決まり。

男性用大浴場の露天風呂が海に突き出ているかのような造りで解放感が抜群。津軽海峡の眺め、押し寄せる波の音、群れ飛ぶカモメがいつでも楽しめる。夜になれば沖にはイカ釣り船の漁火がまたたく。

この宿のもうひとつの特徴が露天風呂付きの部屋の数が日本一だということ。なんでも120室ぐらいは部屋に露天風呂が付いているらしい。

ベランダみたいなスペースに無理やり作ってるような部屋も多いが、ちゃんと塩辛い源泉が引かれ、海側客室なら、津軽海峡を一望に湯浴みが楽しめる。


ほろ酔い気味で湯に浸かり、葉巻をプカプカ。口から出るのはジェロの「海雪」とサブちゃんの「北の漁場」、そして「津軽海峡冬景色」だ。演歌調の気分、勇壮な気分になる。

登別の宿がジャズでも流したい気分になるなら、湯の川のこちらは演歌で決まりだろう。

良し悪しウンヌンではなく、山側なら前者、海側なら後者。ノリも路線も目指す方向性も違う宿だが、どちらも素晴らしいと思う。

行ってきたばかりなのに、もう恋しくなってきた。次はいつ行けるだろう。

2011年12月21日水曜日

母校のつながり

最近、何かと母校とのかかわりが多い。母校といっても大学ではなく、幼稚園から高校まで通った学校のほうだ。

規模の小さな学校だったのだが、その分、付き合いも濃く、今の歳になって改めて親しく付き合う場面も増えてきた。

11月以降だけでも、そこそこの人数で集まった会合が3回あった。メンバーは重複していなかったので結構な人数と会った。行けなかった集まりもあったから、たまたまとは言え、かなりの頻度だ。

仕事もまったくバラバラだし、趣味嗜好も違うし、見た目?も随分と違うのに、多感な時期に一緒だった連中だとついつい気兼ねなく盛り上がる。

高校時代に「飲酒喫煙不純異性交遊?」で停学処分になって、髪も坊主にさせられた仲間達とは、思春期だった当時の切ない話題で盛り上がった。

年齢とともに自然に坊主?状態になってしまった友人も当時の坊主強制事件を懐かしくも悔しい思い出として語る。

色気づいていたあの頃、坊主頭から髪が少しずつ伸び始めた段階で、髪型を格好良く仕上げたいというのが、みんなの重大テーマだったりした。

私自身、中途半端な長さの髪にパーマをかけて「江夏投手」みたいなパンチ状態になってしまった。本気で失踪しようかと思ったぐらいだ。

その日の宴会には、当時付き合いのあった女子校出身のオバサマがたもチラホラ参加していた。オバサマもさまざまな事情がある様子だ。

甦っちゃった青春とでも言うのだろうか。ちょっと付き合いきれない感じもある。立ち位置というか目線がビミョーだったり、妙な思い込みに囚われていたりする。年齢的に何かと大変なんだろう。

そんなわけで、2軒目に移動する際、ぶっちぎってしまったのも御愛敬だ。思えば、高校時代はよく「バックレようぜ」、「ぶっちしようぜ」とか言って、予定と違う場所に一部の人間だけで勝手に逃げちゃったりしたこともあった。

この歳になってそんなことでハシャいでいるのも馬鹿げているが、馬鹿げたことが出来るから昔の友は有難いのだろう。

結局、だいぶ遅い時間に銀座でクラブ活動に突入、続いて、綺麗どころを引き連れてカラオケボックスで野球拳。

幼稚園の頃、一緒に風呂に入った旧友の全裸を今になってそんな場所で見るとは思わなかった。なんとも騒々しくもパワフルで愉快な時間だった。

別の日の会合は、これまた異質な顔ぶれだった。売れっ子俳優の旧友が歌舞伎に進出することになって、その後援会組織作りをどうするかとかいう話が一応主題だったみたいだ。

久しぶりに会う面々が多かったのだが、ものの30分も経てば、バカ話の乱発になる。学年で一番エロかった男とも久しぶりに会った。今では3姉妹の父親だ。相変わらず枯れた様子がまったくないことに感心する。見習わねば。

この日は、お大尽な同級生の手配で、銀座の高級寿司店が会場。ずっと他の客がいないから、ダメな店なんだと思っていたが、休業日にわざわざ開けさせて貸切にしていたらしい。たった8人位の集まりに贅沢過ぎ。

貸切だから、ヨソ様を気にせずに好き勝手に時間が過ぎる。ああいうのを談論風発というのか、ワイワイガヤガヤとまとまりのない話が飛び交う。

その後、クラブ活動。大勢で騒ぐ。売れっ子俳優の旧友も大いに酔った様子。商売柄しがらみも多いのだろうが、子ども時代からの同級生と騒いでる分にはお気軽なんだろう。

まあ、彼に限らず、それぞれがそれぞれの世界で、事情や立場を抱えて生きているわけだから、お気軽な関係同士で騒ぐ時間はなかなか得難い。

それこそ、下の毛も生えてなかった頃からの付き合いだ。今の歳になっても子供じみたアホ話で笑えることは心地よい。

いったんお開きになった後、幼稚園から一緒だった政治家男と二人、締めにもう一軒近くの店に立ち寄る。

この政治家男は中学生の時から白手袋して演説の真似事をしていたような変わった男だったのだが、思い描いていた道を真面目に歩んでいるから大したもんだ。

来年の2月、久しぶりに学年全体の同窓会がある。同学年といっても、留年が多い学校だったから上から降りてきた人、下に降りていった人、途中で別な学校に移った人などかなり広範囲に声をかけている。

IT関係の会社を経営している旧友の多大な貢献によってメーリングリストが整備され、随分とスムーズに連絡が飛び交う仕組みが整っている。

おまけに幹事団の旧友達がこれまたエラい面々で、出欠確認や参加者の掘り起こしにマメに動いているおかげで、随分と盛況になる見込みだ。

私も幹事団のメンバーなのだが、恥ずかしい話、段取りが悪く、打ち合わせにも行かず、実働部隊としてちっとも役立っていない。こんなことではイカンと思いつつ、ボケボケしているだけだ。

こういう時に、頼れる人間かどうかが試されるのだろう。実にまずい事態だ。ちゃんと貢献しようと思う。

2011年12月19日月曜日

人を良くする

「食」という文字は「人」と「良」の二つの文字から出来ている。すなわち「人を良くする」源というわけだ。

尊敬する人から最近聞いたウンチクだ。結構気に入った。

その一方で、すべての食べ物は人間にとって害悪だという話も聞いた。もっとも、ただ害があるわけではなく、唾液をはじめとする様々な物質の働きで栄養になったり、プラスの作用をもたらすらしい。

そんなものなんだろうか。

食べ物の大切さに年齢とともに敏感になってきた。とはいえ、別にストイックに食材選びをするわけではなく、時には喜々としてジャンクフードも食べる。

喜んで食べるくせに卑怯な?言い方なのだが、ジャンクフードを食べた後は、身体から喜びの反応は感じられない。

良い素材、良い調味料、適切な調理法で食べれば、食後にわき上がる幸福感が大きい。感覚的なものだが、この違いは大きい。

最近、冷凍食品の進歩に感心して、立て続けに冷凍パスタをアレコレむさぼり食った。なんとも上手く仕上げている。コンビニで売っているパスタをチンするよりウマい。

とはいえ、集中して何度も食べてみると、やはり、いくら温めてアッチチになったとしても、食後しばらくすると、どことなく身体が冷えるような印象がある。

もちろん、気のせいなんだろうが、そんな気になるだけで健康にプラスになっているはずがない。

「人」を「良く」するには、やはり正しい食材を正しく摂取するほうがいいに決まっている。

というわけで、「正しい水炊き」を堪能してきた。新宿にある老舗「玄海」でしこたま肉を喰らいスープを飲み干してきた。


「正しい水炊き」などと表現したが、ここの鍋は野菜が一切入っていない。身体のために野菜は必要だろうが、私にとってはそんなものは正しくない。この店のスープを薄める恐れがあるものはすべて排除すべしだ。

名物の白濁スープにブツ切りの鶏肉だけ。あとは何にも無し。実に潔い。

漉したニンニクを少し投入して、コクを膨らましたスープをグビグビ飲むのがこの店での最上の喜び。

鶏肉はどこでも食べられるが、このスープはなかなかお目にかかれない。この店に今年の夏に出かけた時は、冷房で冷えた身体を芯からリセットするのに役立ったが、冬は冬で単純明快に五臓六腑に染み渡る感じだ。

冬の寒い日にこのスープをすすって、「ウヘ~」とか「オオッ~」など意味不明の音を発しないなら、その人は真っ当なオッサンではないと断言できる。

そういう味がする。私の場合、いつもつぎ足してもらって腹がカポカポするぐらい飲みまくる。酒の肴になる汁モノの極みだと思う。


この日、予約してあった時間は間違えるわ、頼んでおいた基本コースの値段は間違えるわ、店側の対応に正直オイオイって部分もあった。

普通だったらそんな目にあったら私は二度とその店には行かない。はずなのだが、残念ながら、ここのスープの魔力に勝てずにまた行くことになると思う。

しこたま食べても食後が爽快なのが鍋物の良さかも知れない。逆流性食道炎と死ぬまで付き合う予定の私にとっては、食後がシンドイかどうかは大きな問題だ。

別な日に、美味しく、楽しく過ごしたにもかかわらず、とある店の食事がきっかけで、夜中に結構な胸焼け大会になってしまった。

あくまで私の体質と持病のせいなので、店に責任はない。店は専門店として揚げ物を一生懸命に調理しているだけだ。


銀座・交詢ビルにある六角燈がその店。おまかせでどんどん串揚げを出してくる店だ。衣も軽めでそんなにクドい感じはなかったが、結局、夜中に胸焼けちゃんに変身してしまった。

野菜や魚もいっぱい食べたから身体には良いと思ったが、すべてに油をしっかりまとった衣がついている。さすがに胸焼け軍団に所属する私が選んではいけない店なのだろう。

逆流性食道炎の悩みがない人にはオススメできます。

今日は書き出しの部分で四の五の言ったが、結局、ただ、最近行った店の話に終始してしまった。

2011年12月16日金曜日

乱読

活字中毒などというとインテリっぽいが、どんなに夜遅くても何か活字を追わないと寝付けない。もちろん、眠る前の乱読だから、小難しいものはダメ。どこからでもナナメ読みできるような内容が中心だ。





結局、この手の雑学路線が多くなる。和歌集なら文化的なんだろうが、私が読んだ「若衆」の本は、江戸の性風俗でスター扱いされていた中性的演出を施した若い男子をめぐる色恋モノ。

金持ちを中心としたある種ステイタスとしての衆道(同性愛)の相手役としての位置付けはよく知られている。実際には、有閑マダムや禁欲に疲れた年増女性からも引っ張りだこだったらしく、夫婦で若衆の取り合いをするような悲喜劇もあったらしい。

なかなか勉強になった。

そんなことを勉強してどうしようというのだろう・・・。

乱読のターゲットに選ぶのはどうしても下ネタ方面が多くなるのが困りものだ。画像で紹介した本は、確かすべて会社の近くにある古本屋で購入した。

100円、200円程度だと思うと、ついつい余計な雑学本を仕入れたくなる。ただ、タイトルがいかにもな感じでも、読み始めると学者さんが格調高く解説するばかりで、ちっとも面白くなく、純粋に睡眠導入剤になる本も多い。

昔の吉原とか花魁を研究したような新書にも随分チャレンジしたが、たいていは完読できず放ったらかしだ。

下ネタ系、悪所系の文化論みたいなテーマが大好きなのだが、とっつきやすいタッチで書かれている良書があれば是非教えていただきたい。

伝説の俳人「鈴木しづ子」に関する本もなかなか楽しく読めた。にわかブームに乗って私も興味をもっていたのだが、古本屋のおかげでようやくその世界に首をつっこめた。


ダンサーになろか凍夜の駅間歩く

黒人と踊る手さきやさくら散る

娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ

実石榴のかつと割れたる情痴かな

夏みかん酢っぱしいまさら純潔など


ごくごく普通の情緒的な俳句も無数に残しているのだが、「娼婦俳人」「情痴俳人」というレッテル通りの作品がやはり目を引く。

戦後混乱期、俳句の世界にパッと現れ、行方知れずになった伝説の人だそうだ。当時の時代背景を思うと、その刹那的な本能の叫びが痛々しくもある。

敗戦で人生を狂わされ、裸一貫で生きていくはめになって、お節介な社会秩序や綺麗事に過ぎない薄っぺらな道徳にアッカンベーをした女性だ。

こういう存在と作品を知ると、無節操に乱読する習慣も悪くないと思う。ひょんなことでひょんなことを知る。何か役に立つ本を読もうとか、売れ筋の本を片っ端から読んでみようとか、身構えて本と向き合ったってろくなことはない。

漫然と気になった本を手に取り、パラパラとめくって、運良くその本の世界に没頭できればそれで良し。

まあ、そんなこんなで、自宅では、風呂やトイレ、ベッドなど私の居場所すべてが読書スペースだ。

自宅といえども、ちっとも休まらないので、家にいる時はなるべく本の中に逃避行するようにしている。活字の世界が時に私を救ってくれる感じだ。

最近は、色川武太、吉行淳之介あたりの軽めの随筆や紀行文を読んだり、先日このブログでも紹介した壇一雄の「火宅の人」を読了した。

さきほど紹介した鈴木しづ子の俳句もそうだが、昭和の香りがする文体に惹かれているみたいだ。

「火宅の人」では、いくつかのフレーズがが妙に印象的で、読みながら結構な数の付箋を貼ったりした。

含蓄のある?箇所をひとつ紹介したい。

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 男女はお互によく呼応するように生まれついている。しかし、きわめて不安定に呼応するように生れついているだけで、結婚と云う管理の方法も、そのきわめて不安定に呼応する男女の天然の性情に、少しばかりの安定度を持たせたい意味合いからであるだろう。
 なるほど婚姻の制度は、人間社会の安穏に、いささかの貢献をした。しかし、結婚が暗黙のうちに私達に要求する徳義や忍耐は、少しばかり大きめに過ぎるのである。
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2011年12月14日水曜日

深夜の炭水化物

今年、個人的な変化があったとすれば睡眠時間が短くなった点だ。どちらかといえば、いっぱい眠りたいほうなのだが、最近は短い睡眠でもハツラツと行動している。

先に言っておくが、加齢ではない。単純に慣れだ。と思っている。

きっかけは初夏に行ったパリ旅行だ。現地でも時差ボケ、帰国後も結構長く時差ボケだったせいで、ヘタすると3~4時間睡眠で行動する日が続いた。

昼間に15分ぐらいうたた寝はするものの、慣れてしまえばなんとかなった。かえって、長く寝てしまうとダルさが残るようになった。

というわけで、以前は7時間は寝ていたいタイプだったのが、4~5時間で平気になった。自分自身でその程度の睡眠でも平気だと思い込むと不思議に身体は順応していく。

おかげで2~3時間の余裕が生まれた。1日24時間しかない中でこの差は大きい。

2時間、3時間という水準は決して短い時間ではない。勤め人の仕事なんて、正直、1日中難しい顔で座っていても、突き詰めれば2~3時間で済んでしまう程度の分量だったりする。

集中して読書すれば単行本の1冊も読めちゃうし、男女の同衾にしても、それだけの時間があればバッチリだろう。

飛行機に乗れば東京からソウルや上海に行ってもお釣りが来るほどだ。

さて、起きている時間が、毎日2~3時間増えたことで、自分の生活がどう変わったのだろう。

精神修養に費やす時間、自己啓発に費やす時間がまるまる増えたわけだ。事実、中央区あたりで夜の遅い時間まで一生懸命精神修養?に励んでいる。

20代の頃は、六本木でぶいぶい酒飲み大会をしていたのだが、ある時期から銀座に行くことが増えた。銀座のほうが好ましく思うようになった理由のひとつが夜が早いから。

朝型人間としては深夜零時を過ぎても空気がまるで変わらない六本木の宵っ張り具合に疲れちゃうことが多かった。銀座は客層のせいもあって比較的夜はさっさと終わる。

銀座でクラブ活動していれば、同伴だのアフターだの何かと誘われるが、私の場合、昔からアフターにはとくに縁がなかった。

基本的に眠くてしょうがない。普通の世界で生きていればそれが普通だろう。仕事終わりの女性の旺盛な食欲を満たし、帰り道はアッシー君にさせられる。たまったものではない。

でも、世の中にはそれを喜々としてこなす男性が多いから不思議だ。あの人達はいつ寝ているのだろう。

そうはいいながら私も最近はアフターには行かずとも遅い時間までダラ飲みすることが増えた。睡眠時間削減効果?だろう。

最近も旧友6名と飲んだ時に2時半まで歌っていた。

それに懲りずに先週も3時まで騒いだ日があった。そんな時間に野球拳で惨敗した幼稚園からの旧友の全裸を眺めていた。40年という時の流れを妙に実感したひとときだった。

そこまで遅いと次の日が使い物にならないが、寝ないで起きていられるだけで以前よりは進歩?した気分になる。

必然的に深夜に何かしら食事を摂取する機会も増えてしまった。これは問題である。

深夜1時過ぎだ。乾き物をつまむぐらいにすればいいものを、カツ丼とか、パスタを注文してしまう。

酔いも手伝って根っからの炭水カブラーぶりを発揮してしまう。それにしても「深夜の炭水化物」って何であんなにウマいのだろう。うっとりする。

食後は最低でも2時間は身体を起していないといけない。逆流性食道炎と付き合う上での宿命だ。深夜1時半に食べ終えたなら3時半までは横たわれない計算だ。

なので、深夜メシ終了後、とっとと帰っても寝られない。仕方なく読書に精を出したりする。

なんとか眠りに落ちると今度は6時頃に子どもがバタバタする音でうっすら目が覚め始める。7時過ぎにはベッドを脱出。また1日が始まる。そりゃあ眠い。こういうパターンは極力減らさないとダメだろう。

大学生時代は1日10時間は寝ないと調子が上がらない「ロングスリーパー」として暮らしていた。そんな私でも今ではピーク時の半分でなんとなかなる。

5時間寝られればハッピーである。それを計算したうえで行動すればいいのだろう。

ちなみに、たて込んでくると24時間だと何かと時間が足りない。あと2時間ぐらい余計にあれば、すべてうまく回る気がするのだが。

2011年12月12日月曜日

大塚で感激

わが社のある池袋は魔界みたいな場所だから、あまり好きではない。一応、東京の西側エリアでは大都市としてエバっているが、昭和の中頃までは、お隣の「大塚」のほうが頑張っていたらしい。

大塚は不思議な街だ。天下の山手線の駅がある割には、どこか知名度が低く、掴み所がない。山の手なのか下町なのか、住宅街なのか繁華街なのか、どこか曖昧な雰囲気。

その昔、池袋がまだ今ほどのターミナルタウンになる前の話。大塚にはデパートがあり、賑やかな三業地もあって、相当に活気があったらしい。

昭和40年代、「おおつか~、かどま~ん」という結婚式場のテレビコマーシャルがあった。駅前のビルの屋上に金閣寺が乗っかっている趣味の悪い建物があって、あの頃の東京人は皆、大塚と言えばカドマンを連想した。

いまでは、チンチン電車(都電)がシュールに走り回り、中途半端なラブホテルのネオンが光っている。なんか寂しげな空気が漂う。

流行とかファッションとか、そんな次元とは無縁な街だ。ただ、昔の三業地の伝統が影響してか、ぶらぶら歩いてみると、渋い風情の飲食店も結構見つかる。

“チェーン展開型セントラルキッチン系団体さん歓迎路線”の店しか無くなってしまった池袋とは違って、オッサンが覗きたくなる店がゴロゴロ見つかる。

東京の名門?居酒屋として知られる「江戸一」、「きたやま」、「串駒」あたりは、居酒屋ジャンキーには聖地のように扱われている。

行ったことはないのだが、「鮨勝」、「高勢」あたりの江戸前寿司の人気店もある。いろいろ探せばいろいろな穴場が見つかりそうだ。

昔の三業地つながりで言えば、神楽坂あたりも出自?は似たようなものなのだろう。神楽坂はカッチョ良く演出されて手垢がついちゃった感じだが、大塚はボケーッと時代が過ぎたまま放ったらかされている感じだ。

池袋から一駅離れるだけで、随分としっぽりとした風情が漂う。考えてみると、こういう風情が本来の東京の空気なんだと思う。

まあ、なんだかんだアゲてみたものの、率直に言えばビミョーな街ではある。そう言っちゃうと元も子もない・・・。

さて、最近、続けて大塚で飲む機会があったので、この街の独特な雰囲気を改めて実感した。会社から近いし、値段も手頃だし、銀座ばかり行ってないで探索の機会を増やそうかと思った。


冬はアンコウとフグ、夏はウナギを中心に扱う老舗の料理屋が「三浦屋」。まともなあんこう鍋を気軽に食べられる近隣エリアでは貴重な店。

フグの一品料理もアレコレあるから、アンコウ一辺倒で飽きてしまうこともない。使い勝手がいい店だと思う。

アンコウ鍋のスープは赤味噌、白味噌、醤油味から選ぶことが出来る。アンキモも鍋で熱々になったところをワシワシ食べられる。まさに冬の味覚だ。

ヒレ酒をさかんに飲んで、フグ旅理をツマミに、他にもイクラの醤油漬けとかタラの芽の天ぷらとか一品料理をもらって、アンコウを堪能する。

中央区や港区あたりだったらお勘定が心配になりそうだが、なんてったって豊島区である。中央区あたりの小料理屋程度の値段で充分まかなえる。


続いて紹介するのは焼鳥の名店「蒼天」。その存在は随分前から耳にしていたが、なかなか機会が無く、某日初めてふらっと訪ねてみた。

いやはや、聞きしにまさる名店だろう。単純明快にウマいし、鶏のあらゆる珍しい部位が揃っているし、店も小綺麗で居心地がよいし、サービスもキビキビしっかりしている。もっと早く知っていれば良かった店。

白レバ刺しとか、ナマモノ方面に期待を寄せて行ったのだが、今は扱わなくなってしまったと聞き、激しく落胆した。

白レバのパテをメニューに見つけて気を取り直す。おまけにお店の人がメニューには無い「キンカンの燻製」を出してくれて俄然ニコニコになった。


卵になる前の黄身の部分だ。コレステローラーとして大歓迎である。スモークの風味が加わり、大根おろしも加勢して実に素晴らしい酒肴だ。

アルコールもあれやこれや揃っている。芋焼酎は、あらかじめ割水されたマイルドな逸品が用意され、お湯わりを注文すれば炭火で熱する「ちょか」で出てくる。

串焼がとにかくバッチグーだった。この時期にしか入らないらしい野生のキジを勧められて部位ごとに3本もらった。

締まった肉質がタダモノではない。ブヨブヨしてるばかりの鶏皮が嫌いな私が、その引き締まった皮の部分に圧倒されてしゃぶりつくした。

キジ以外にも、頼むものすべてウマくて大満足。最近は新しい店を開拓することをサボっていたので、改めてアンテナを張り巡らせねばと反省する機会になった。

当然、一度行ったぐらいでは豊富なメニューの一部しか味わえていない。近いうちに二度三度と出かけて羽が生えるまで鶏をむしゃぶりつくそうと思う。

2011年12月9日金曜日

親切心、無償の愛、邪念

人には常に親切でいたい。年を重ねるに連れ、そんな殊勝な考えが強くなる。世界中にそんな考えが拡がれば平和だろうと思うのだが、ことはそう簡単ではない。

親切がアダになることだって世の中にはいくらだってある。

以前読んだ昭和の文士の随筆に興味深い逸話があった。妙に私の心に刺さった話だ。

食糧難の時代、赤線に出かけていった男が一袋のジャムパンを持参した。女性の歓心を買おうというより、少しでもその場の空気を和ませようと思っていたらしい。

そして、いざその段になって、励む男の下で女性は仰向けのままおもむろにジャムパンを食べ始めた。シラけてしまった男。女性はパンをかじりながら、さっさと終わってくれと声を荒げたという。

実に切ない話だと思う。なんとも教訓に満ちた話だろう。想像するだけでグダグダになる。大袈裟か。

老若男女問わず、大なり小なり、親切したつもりが、かえって不快な思いにつながったことがあると思う。

電車で席を譲ったら、年寄り扱いするなって怒られたりするような理不尽な話の類だ。

人間なんて煩悩の塊だから、良かれと思ってする行動でも、感謝されたい、自分がいい人だと思われたい等の邪念というか、見返りを求める心が頭をもたげる。

親切心を中途半端に発揮しようとすると、相手方にもこちら側のそんな邪念がうとましく映って見えるのだろうか。

なかなか難しい問題だ。ちなみに、冒頭の随想の結論だが、人への親切はそれが2倍のイヤなことになってはね返る覚悟が必要というものだった。

切ないなあ。

小説をはじめ処世訓みたいなエッセイなんかを読んでいると、頻繁に「無償の愛」という言葉が出てくる。昔から気になっていたのだが、まったく見返りを求めない愛情って存在するのだろうか。

見返りなしに相手を愛し続けるなんて、特別卓越した宗教家とか、聖人と呼ばれるレベルの人じゃないと成り立たない気がする。

そういう次元を目指したい気持ちは誰にだってあるが、世の中、そう簡単ではない。少なくとも愚凡な一般人である私には難問だ。

親子の愛がそうだと言う人がいる。はたしてそうだろうか。男親の経験しかない私としては残念ながら、子どもへの気持ちが「無償」だとは思えない。

もちろん、子どもに対して普通に愛情は感じる。それは子どもが子どもとして父親に接している前提があるから生まれる感情のような気がする。

子どもとして親に対して適切な態度を取るから、こっちも可愛さにつながるのであって、そういう態度を期待すること自体が、一種の見返りを求めているのかもしれない。

すなわち、父親を頼り、父親に甘え、おべんちゃらだろうと気の利いた言葉を発したりする背景があるから、こちらも愛するに値する存在と認識する。

そう考えると無償とまでは言いきれない。その証拠にヨソの子どもには当然ながら愛情を感じない。

自分の腹を痛めたわけでなく、乳を吸われるわけでもない男親なんてそんなものだろう。この点は、女親と男親で温度差があると思う。

女親がわが子に向ける愛情には、確かに無償の愛を思わせる要素がある。ただ、それだって斜に構えて見れば、イメージ通りに育って欲しいとか、将来は仲良し親子として付き合いたいといった程度の見返りに似た感情は否定できないのではないか。

結局、無償の愛などというものは、自己愛ぐらいしか該当するものがないのだろうかと悶々としてしまう。

なんか、そんなことを書いていると、自分の偏屈ぶりがイヤになる。なんかひん曲がっちゃってイヤなヤツだ。病気だろうか。

しょうがないから親子の愛という崇高なテーマからは離れることにする。

男女の関係における「無償の愛」にテーマを移そう。

こっちのテーマに移ってきても、結論めいてしまうが、無償の愛なんて不可能だと思う。

いつまでも待つわ、などと、あみんの歌みたいなことを言う人がいても、本当に待ち続けている人なんて見たことがない。

残念ながら反応のないところでは愛情は持続しないと思う。

振り向いてくれなくていい、遠くから横顔を見ているだけでいい、などと若い頃のハマショーみたいなことを言う人もいる。立派な心掛けだが、そんなものが続くはずはない。エネルギーのムダだし、無償の愛というよりストーカーだ。

見返りを求めることが正しくないとは思わない。むしろ、見返りを求めることが正常な姿だと思う。そっちのほうが人間らしい気がする。

だから「無償の愛」を必要以上に尊いものとして持ち上げても仕方がない。とくに男女間において、そんな発想に縛られたら窮屈でしょうがない。

振り向いて欲しい、笑顔を向けて欲しい、優しい言葉をかけてもらいたい、触れたい、深い関係になりたい、等々。その目的を叶えるために一生懸命になる。それが人として自然な姿だ。

強いて言えば、愛情を感じあえる関係になって始めて、その先に見返りを求めない感覚がやってくれば、それはそれで素晴らしい話なんだろう。

無償と言うよりも自己犠牲という次元の話だ。愛し愛されという見返りが既に成就しているからこそ、その延長線上で成り立つ話なのかもしれない。

いくら自己犠牲の行動であっても、人間は煩悩の塊だから、心のどこかで相手から返ってくる「何か」に期待してしまうのは仕方がない。

たとえ、期待する何かが「有り難う」という言葉だけだったとしても、その言葉が返ってこないと途端に気分が悪くなったりする。

結局、堂々めぐりみたいになってしまったが、見返りをまったく求めない行動なんて現実的にはハードルが高すぎるから、せめて、相手の反応を過度に期待しない習慣をつけるしかないのだろう。

それにしても今日は箸にも棒にもひっかからない話をグダグダと書き綴ってしまった。

もっと素直に人に親切にして、もっと素直に人を好きになって、小難しいことを考えずに生きていければとつくづく思う。

2011年12月7日水曜日

年の瀬に思う

一所懸命だと知恵が出る

中途半端だと言い訳が出る

いいかげんだとグチが出る。



最近、知恵が出なくなったなあと考えていたらこんな言葉を教わった。まったくその通りだ。

そうだよなあ。普段しっかり頑張っていないと知恵って出ないものだ。妙に納得した。

というわけでグチばっかり出る日々だ。せめて言い訳が出てくるような段階に進歩しないとなるまい。頑張ろう。

いよいよ12月。ついこの間、わが社の新聞に、うさぎ年がどうしたこうしたとコラムを書いていたような気がするが、もう1年が過ぎる。

もうすぐ、干支にあやかって昇り龍がああだのこうだのという内容のコラムを書くはずだ。

11月中に年賀状印刷の手配も終えてしまった。早割でおトクだと言われて発注したのだが、12月頭にそんなものが出来上がってくると妙に気ぜわしい。

街中のイルミネーションが相変わらず賑やかだ。節電のために我慢して熱中症で亡くなったお年寄りがいたことを世の中は忘れたのだろうか。ほんの3,4ヶ月前の話だ。

どこ吹く風で光るネオンがこの国のふしだらさの象徴に見える。

おっと、グチになりそうだから話題を変える。

一年を振り返るにはちょっと早いが、この1年、いろんなことがあった。楽しかったことしか思い返したくない。それで済むならそうしよう。

それぞれの人にそれぞれの2011年があったわけだが、考えてみれば1年を振り返ることが出来るだけでも幸せなことだ。

災害による不意打ちで突然命を絶たれた人。本人だけでなく、残された周囲の人の心の傷も深い。思い返すのも恐怖だと思う。

すべての人に少しでも心の平穏が訪れることを素直に祈りたくなる。

ガラにもなく殊勝な気分になったのも12月という季節のせいだろうか。今年ほど生き方だとか、心の在り方だとか、そういう精神性にかかわる分野と向き合ったことはなかった気がする。

いろんなことを感じ、いろんなことに気付き、いろんな判断をし、いろんな葛藤の中にいる。

何かが変わったりしたわけではないが、そんな積み重ねが、いつか最善の答えにつながるのだと思う。

というわけで、今日は最近教わった詩を載っけることにする。茨城のり子さんの代表的な詩だ。

そこそこの年齢になって、いろいろな想いに悶々とする人達に贈りたい。というか、自分の戒めにしようと思う。




ぱさぱさにかわいていく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
何もかもへたくそだったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

2011年12月5日月曜日

ジャンクフード

ときどき、ジャンクフードが無性に食べたくなる。最近はB級グルメという言葉がハヤリだが、ウマいものにA級もB級もない。ウマいと思って作っているならB級などと呼称しなければいい。

B級グルメのコンテストで優勝した関係者が大泣きしていた。B級という冠を付けられて嬉し泣きするなんてナンセンスだと思う。

などと、偏屈なことを書いても始まらない。個人的な好みで、あくまで「ジャンクフード」と呼ぶことにする。

とはいえ、ジャンクフードのジャンクは、ガラクタとかクズみたいな意味らしい。B級と呼んだ方がまだマシなんだろうか。

どうでもいい話を書いてしまった。

話を戻す。戻すもなにもロクなことを書いているわけではない。ジャンク系の話だった。

カップ麺の焼きそばを熱湯を注いで1分ぐらいで湯切りして、ボソボソしたアルデンテ?状態で食べるのが好きな私だ。

それにしても、あの種の焼きそばは考えてみれば、一瞬たりとも焼いていない。でも名称は焼きそばだ。実に変だ。「ふやかし和え麺」が正確だ。

などと、偏屈なことをすぐに書きたくなる。反省。話を戻す。

ジャンジャンという縦長容器に入った新顔が気に入っていたが、結局、ペヤングに舞い戻ってきた。原体験の味がおびき寄せる中毒性はすこぶる強烈だ。

子どもの頃、カップ麺ではないインスタント焼きそば「ジャンボ」が大好きだった。味もしっかり覚えている。でも売っていない。

時々、物凄く懐かしくなる。あの時と同じジャンボが売っていれば、私は一袋いくらまで出すだろうか。

1000円。良く考えたが、最大で1000円は出す気がする。2千円はイヤだ。1500円でも奮発しちゃうかもしれない。いや、空腹だったらもっと高値でも買ってしまうかも知れない。富豪みたいだ。

「原体験の味がおびき寄せる中毒性」がジャンクフードの基本だ。だからコーラはペプシではダメ。コカコーラが圧倒的有利なわけだ。

マックだってそうだ。ダブルクォーターパンダーチーズが頑張ろうが、ビックマックが絶対的に人気だし、エビフィレオとか、ナンタラチキンとかが頑張ってもフィレオフィッシュが安定的な人気を誇る。

幼い頃に知ったフィレオフィッシュのタルタルソースの衝撃的なうまさは今も私を夢中にさせる。

即席麺も同じだ。コンビニのカップ麺売場からベーシックなカップヌードルが消えることはないし、ペヤングも同じだ。赤いきつねと緑のたぬきも先行利得の代表みたいなものだろう。

噂によるとペヤングは関西で売ってないらしい。本当だろうか。だとしたらやはり、西の人とは根本的に味覚が異なるのだろう。

それにしても、今日は何を書こうとしていたのだろう。

そうだ。やたらとジャンクな味わいの?のチキンライスに感激したことを書こうと思ったんだった。


チキンライスといえば、洋食屋さんか老舗の喫茶店を想像するが、私が食べたのは焼鳥屋だった。

焼鳥屋は確かにチキン専業である。チキンライスを美味しく作ってもおかしくない。盲点だと思う。

場所は銀座の7丁目あたり。「美里」という焼鳥屋さん。銀座の焼鳥屋といえば「伊勢廣」とか「バードランド」、「串銀座」とか、ちょっと高級路線が多い。

「美里」は、そっち系ではなく、普通の正当派?焼鳥屋。言ってみれば、デートとか接待に使う感じではない。オッサンが集ったり、ホステスさん達が深夜につまみに来る感じの店。

1本500円とかの値付けもあるこの街の焼鳥にしては安い。味の方はほどほどだが、趣向を凝らした逸品メニューも多いから、気楽に飲むには良い店だろう。


表面を炙ってしまっているが、レバ刺しも常備されている。個人店じゃないと、こういう危ない系は置いていない。レバ刺しがあるだけで私にとっては憩いの場所になる。

おろしニンニクとおろしショウガを醤油にベチャベチャ混ぜながらレバ刺しをつまむ。ロックの芋焼酎をグビり。うーん最高だ。

魂が溶けていくような気分だ。

串焼をワシワシ食べて、ナンコツ唐揚げとかの酒肴を頬ばりながら、締めの一品として「チキンライス」を注文してみた。

どんぶりに盛られてヤツは出てきた。こんなジャンクな感じがまたいい。味付けはとっても濃い。コショウの辛さが強い。ガッツリだ。

どう逆立ちしても上品な味ではない。でも、芋焼酎をグビグビした後の麻痺した身体
が最後に求める味としてはバッチリである。

なんか褒めてるんだかケナしてるんだか微妙な表現だ。とにかく、そんな味だった。

ケチャップとソース。どうもこのあたりがニッポンのジャンクフードのカギを握っている気がする。

喫茶店系ナポリタン、焼きそば、粉モン系、いずれもケチャップとソースが決め手だ。子どもの頃、ケチャップとソースがあれば、何でもウマかった気がする。

ソーセージやフライドポテト、肉団子方面にもケチャップは大活躍。揚げ物には無条件でソース、目玉焼きにもカレーにもソース。炒めたうどんやソーメンにもソースだった。

場合によっては、ソースとケチャップを混ぜて使ったりした。

オムレツをおかずに食事をする場合、私の場合、決まってソースとケチャップを混ぜて使ったりする。白米にベチャッとつけたりしながらワシワシ食べる。幸せな味がする。オススメです。

何だか、今日はまとまりがなくなってしまった。

最近、毎日のように胸焼けに苦しんでいる。ジャンクフードのせいだと思う。もっとオトナっぽい食事を心掛けねば。

2011年12月2日金曜日

火宅の人

今の家に住み始めてもうすぐ7年になる。当初こだわった部分の多くが今思えばどうでもいいように思える。そんなものだろう。

作り付けの棚の下を少し浮かせて、足元照明を設置してみたり、吹き抜けの天井にシーリングファンを吊ってみたり、そんなムダが結構目につく。

ホームシアターも新築時に設置すると安くスマートに仕込めると聞いたので、リビングには100インチの電動スクリーンと天井埋め込みの専用スピーカーをスッキリ設置してもらった。

通常はリビングのテレビスペースなのだが、格納されているスクリーンが降りてくれば100インチで映像を楽しめる。このあたりの理屈は随分前にここのブログで書いた。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/08/100.html

大画面に加え、サラウンドの音響効果もあって結構満足していたのだが、根っから映画好きというわけでもない。正直、ここ2、3年ぐらいは放置していた。

そんな悲運の?ホームシアターが最近、がぜん活躍しはじめた。

デジタル化によって通常のテレビ番組でもでも映像の質が上がり、プロジェクターで照射するにも問題がなくなったことが大きな理由だ。

先日も、2週に渡って放映されたNHKのドラマスペシャル「蝶々さん」を大画面でじっくり見た。

テレビのデジタル化だけでなく、ツタヤのオンラインレンタルを始めたのも我が家のホームシアター大活躍の理由だ。便利な時代が到来したことに驚いている。

DVDプレイヤーが壊れたので、新調してみたら、新しい機械から簡単にネットに接続して映画のレンタルが出来るらしい。

レンタルビデオ屋に行かないで、家に居ながらにして見たい映画が見られる。アナログ世代の人間にとっては凄いことだと思う。

で、登録してみた。アダルトを見たい気持ちがブリブリなのだが、いまどきの機械の機能は履歴とかをお節介に表示しやがるので、子どもの手前、普通の映画しか選べないのが切ない。

まだまだ居ながらにしてレンタルできる作品数はさほど多くはない。その点が問題だが、そうは言っても視聴可能作品を検索すれば、それなりに見たい映画は見つかる。

最近立て続けにみたのが「阿修羅の如く」と「火宅の人」。CGを使ったドンパチ映画を見たい気分ではなかったので、しっぽり系にした。

前者は言わずと知れた向田邦子の代表作で、8年前に映画化された作品。ひょんなことから老いた父親の秘密を知ってしまった4人姉妹の葛藤が描かれている。

コメディーの雰囲気も漂わせつつ、上手に人間の欲や業、葛藤が表現されている。大竹しのぶの演技力に圧倒され、8年前の黒木瞳に萌え~って感じだった。

「火宅の人」は1986年の作品。緒方拳が主役。当時、映画そのものより原田三枝子、松坂慶子の全裸ベッドシーンがやたらと評判になっていたことを思い出す。

100インチのスクリーンに映し出される全盛期?の松坂慶子のベッドシーンは確かにドキドキものだった。

緒方拳扮する「壇一雄」と言えば無頼派作家の代名詞みたいなイメージがある。私自身、「好き勝手に遊んだ破滅型のおっさん」という印象しかない。

その印象はおおむね正しいのだろうが、「火宅の人」という作品は私が思い描いていたイメージとは随分違っていた。

今までは「浮気男の身勝手な放蕩生活」を描いただけの作品だろうと思っていたのだが、さすがにそんな単純なものではなかった。

心優しく繊細で苦悩に満ちた大人の男の情念が生々しい心情の吐露という形で延々と描写される。

社会性という曖昧な秩序を許容しきれない反骨と達観が、退廃とは違う浪漫になって全編を覆うような感じとでも言おうか。

下手糞な三流批評文みたいになってしまったが、そんな感じ。家庭を投げ出し、無頼に生きていく人物を描こうとすれば、どこか厭世的、退廃的な空気に支配されがちだが、この作品から感じるのは「潔い浪漫」。

情念、欲といった煩悩に抗わない人間臭さに、ある意味小気味良さを感じた。

エッチシーンも満載、それを彩るかのように流れる原作本から引用される朗読。なんとも文学的(そりゃそうだ?)で、ドップリとディープな昭和の変人の世界にはまった。

ラストシーンというか、結末の描き方はちょっと気に入らなかったが、独特な世界観を堪能した。お腹いっぱい。


というわけで、原作本もじっくり読みはじめた。実に面白い。新潮文庫から出ているのだが、奥付を見て感心した。昨年8月が「五十刷」だ。そのせいか、昔の作品にしては文字の級数が小さすぎず読みやすい。

五十刷。いやはや、いったいどれほどの数の大人の男達が、情念のしじまで苦悶する世界を疑似体験したのだろう。実に興味深い。

寝る前のひととき、昭和の煩悩にドップリ触れると疲れる。おかげですぐ眠くなる。

でも、読み進むほどに、考えさせられる点、妙にうなずける点、激しく否定したい点等々。いっぱしの年齢をまとって生きていれば、人間臭く生きる道筋についてあれこれと思いがめぐる。

私自身、年甲斐もなくクドクド根に持っていた小さな諍いの根を馬鹿馬鹿しく感じて、さっさとこっちから詫びを入れようなどと殊勝な気持ちにもなった。

1冊の本のお陰で救われたりする。いとをかしだ。

キリがないのでこの辺にしておく。最後に映画の中でも朗読されていた筆者の胸中を象徴するような一節を紹介したい。


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この火宅の夫は、とめどなくちぎれては湧く自分の身勝手な情炎で、我が身を早く焼き尽くしてしまいたいのである。しかし、かりに断頭台に立たせられたとしても、我が身の潔白なぞは保証しない。いつの日にも、自分に吹き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたいからだ。

それが破局に向かうことも知っている。
かりに破局であれ、一家離散であれ、私はグウタラな市民社会の、安穏と、虚偽を、願わないのである。かりに乞食になり、行き倒れたって、私はその一粒の米と、行き倒れた果の、ふりつむ雪の冷たさを、そっとなめてみるだろう。

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2011年11月30日水曜日

解脱したい

宗教的な訓話みたいなのが苦手だ。なんか嘘っぽく聞こえてついついナナメ目線で捉えてしまう。格言とかその手の教訓的なものも敬遠したくなる。

神父さんやお坊さんの話はもちろん、「あいだみつお」なんかも苦手。どうも素直に受け取れない。チャチャを入れたくなる。斜に構えた姿勢は私の悪い癖なんだろう。

そんなひねくれた路線でウン十年強がってきた私だが、最近は、ふとした時に教訓とか訓話とか名言みたいなものにアンテナが反応するようになった。あいだみつおは相変わらずダメだが、善良な言葉が心に刺さるようになってきた。

ようやく大人になったのだろうか。このところ、自分を覆ってきた鎧のような気持ちが随分と丸くなってきたように感じる。

人様が話している善良な話に素直にうなずく、善良な話を書物などで読めばウルウルするようになった。

深層心理の中で肩肘張って生きていくのが億劫になってきたのだろうか。大震災あたりから無意識のうちに無常観というか、すべてを達観するような気分が生まれたのかもしれない。

仕事上欠かせない「物事を斜に構えて捉える姿勢」は、考えてみれば寂しい話だ。善か悪のいずれかに分類すれば、そんな気持ちは悪でしかない。

斜に構えている程度なら、分別とか思慮深さという範疇に収まるが、これが猜疑心にまで進んでいくとどうにもややこしくなる。

世の中の諸悪の根源は猜疑心だ。素直に物事を受け取れず、悪い方悪い方に解釈する。疑ったり、妬んだりする心が持つ負のエネルギーは、まさに悪魔が心に巣くっているかのようだ。

いったん生まれた猜疑心は、その人の心の奥で勝手に膨張する。深く愚かに拡がっていく。あれを悪魔の囁きと言うのだろう。
夢にまで疑いの心が拡がり、毎晩のように思考がネガティブになる。

友達、恋人、家族、そして職場や社会に至るまで、争いはすべて小さな猜疑心から始まる。人の心の曇った部分が世の中に暗い影を落とす。

そうはいっても、人を信用することの難しさもまた一面で人類の課題みたいなものだろう。

子どもが教わるのは「知らない人についていくな」、「見知らぬおじさんの話を信じるな」。

ちょっと大きくなれば「男はオオカミなのよ、気をつけなさい」だし、「女の言うことなんか全部思いつきだ」とか、どうしたって人を信じるな、疑ってかかれという図式で大人になる。

「人を見たら泥棒と思え」なんて言葉もある。大前提として疑うことから人間と人間の付き合いが始まる。

もちろん、だからこそ信用できる関係を築けた時の喜びやそれによって絆が強くなる喜びが大きいわけだ。

信用できるか否か。結局、人と人の関係はその一点に尽きる。ごくごく当たり前のことだが、この一点の確証を得たい一心で人はもがき苦しむのかもしれない。

ガラにもなく、最近教わったマザーテレサの言葉を紹介したい。



人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい
けり返されるかもしれません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい




実に美しい言葉だと思う。

まあ、正直に言って、そんな説教じみたことを言われても実践出来るわけがない。普通の人間は煩悩の塊だ。クヨクヨもするし、周りが気になって仕方ないし、エゴむき出しだし、欲も出る。

そうは言っても、今更ながらこんな珠玉の言葉に出会ったのには何か意味があるのだろう。せめてひとつでも実行できるように意識したい。

ああ解脱したい。

2011年11月28日月曜日

150億円で遊んだ人

大王製紙の前会長の道楽ぶりは、まあ何というか、何とも言えないというか、実に破天荒でスペシャルではある。変な表現でスイマセン。

良いとか悪いとか、今更そんな論評は無意味だろう。世の中の同族会社経営者の目線と一般サラリーマンの目線とでも受け止め方は全然違うのだろう。

同族会社には、相応の公私混同は付きものだし、それを100%すべて悪と切り捨てることは無意味だ。それこそが同族会社のパワーになっているのも真実ではある。

もちろん、程度問題ではあるが。

それはともかく、会社のカネを150億円も個人的に使っちゃったんだから豪快だ。大半がギャンブルですったことを本人が認めてるわけだから、ヒョヒョヒョのヒョだ。

そこまで突き抜けたら、もはや偉人?だろう。

40代、妻とは離婚。すなわちフリーの身だ。見た目もマトモだし東大も出てる。そんで150億円で遊ぶ。うーん、悶絶する。

常識で考えつくこの世の快適なこと、快感なこと、ワクワクすること、全部経験できたんだろう。あんなことも、こんなことも・・・。羨ましい・・・。

本人は返済の意向もあり、実際に持株などを処分すれば、使いまくったカネは返済可能だとも言われる。だとしたら逮捕はされたものの、重い量刑をくらう可能性は低い。

世界中に恥をさらしたのは確かだが、たった一度の人生、一瞬でもそんな経験が出来ちゃったのなら、御の字だと思っていてもおかしくない。

さてさて、この一件をただ羨ましがっているだけでは情けない。私の印象を少し書いておきたい。

といっても、大層なことを考えたわけではない。要は「日本もカジノを解禁しやがれ」ってことだ。

日本にも世界に誇れるカジノがあれば、あの150億円だって、わざわざ海外に流出しなくて済んだわけだ。実にもったいない。

変な話だが、本気でそう思う。カジノ推進の話はこの国でも古くて新しいテーマだ。とっとと解禁すればいいのに、反対派の声も強く実現していない。

競輪、競馬、ボートなどの公営ギャンブルが大賑わいで、反対論が強かったサッカーくじだって、今ではごく普通に世の中に定着している。

パチンコだって、勝ち金の両替に摩訶不思議な建前はあるものの、純然たるギャンブル。お隣のオッソロシイ国に随分とアガリが流出してるようだが、景気に関係なく大盛況だ。

まあ、事実上、国がギャンブルをドシドシ後押ししているのだから、カジノだけ特別扱いする意味が分かんない。どんどん作ればいい。

過疎になっちゃった地域とか、観光資源に乏しいどこかの島をまるごと使ったりして、この国の自慢であるハイテク技術なんかもガンガン駆使して世界的なスーパーカジノを作ればいいと思う。

尖閣諸島とか竹島あたりも有力な候補地だ!?。

メイド・イン・ジャパンのスーパーハイテクカジノを作って、そこに向けて豪華客船の航路を開いたりすれば一大産業が出来上がりそうだ。

間違いなく世界中のお金持ちはぶりぶりお金を使ってくれます。

だいたい、財政状態がヘロヘロなんだから、気取ったことばかり言ってたって仕方がない。なりふり構わず国庫を潤す話はすべて実行すればよい。

射幸心をあおるとか、旧態依然とした反対論だって、さっき書いたような公営ギャンブルが大盛況になっている状況を前にしたら、ちっとも説得力はない。

増税増税と国民を憂鬱にさせることばかり言わないで、もう少し国民心理をくすぐることを言い出すセンスが欲しい。民主党や霞ヶ関のオッサンにはそんなセンスが皆無なのだろうか。

「楽しみながら納めたい」。国に納めるものすべてにそういう観点からの議論があっていい。

今では当たり前になったクルマの希望ナンバーだって、「カネを出せば希望の番号がもらえる」なんて昔は考えられなかった。そのせいか、インチキや裏ワザやうさん臭い話も多かったが、希望ナンバーが取れるようになって余程スッキリした。

あれだって、通常より割増しの金額を払うことで自分の好きな番号を押えることが出来るわけで、その「割増分のカネ」は、純粋に受け取る側の粗利になる。小さい話だが、そういう発想の積み重ねだと思う。

地方税の世界で定着してきた「ふるさと納税」も各自治体が、納税先に選んでもらおうと、米や肉、果物といった地域色豊かな特典を納税してくれた人にプレゼントしている。

納税で特典などというと、非現実的なこと、不真面目なことといった印象を抱く人がいるが、そんなことはない。

いまどき、どんな世界でもポイント制とかキャッシュバックとか、何らかの特典を提供することで顧客満足度を高めている。

ふるさと納税で頑張ってる自治体のマネをして、国だって、納税者への特典ぐらい考えたっていい。

納税額の多寡に応じてプレゼントを用意したり、国の施設を安く使えたり、特典なんて簡単に作り出せる。

迎賓館に1泊出来ます、とか、政府専用機で遊覧飛行とか、国宝に一瞬さわれますとか、自衛隊の輸送機使って流氷見学なんていうのもアリだろう。

真面目に何年も高額納税を続けたら、政府系金融機関からの融資利率が優遇されるとか、国有地払い下げ情報が一足早く分かるとか、訴えられても裁判所が優先して扱ってくれるとか、いろいろありそうだ。

話がアチコチに飛んだが、突飛な話、素人の話、門外漢の話にこそ、局面打開のヒントがあるのも事実。

どうせ納めるのなら、どうせ取られるのなら少しは楽しい気分になりたいもの。それが人間の素直な心だろう。

「150億円で遊んじゃったアノ人」の話から随分と飛躍してしまった。

2011年11月25日金曜日

ドライブ

久しぶりに一人で長々とドライブをした。もう10年以上もそんなことをした記憶がない。いろいろイライラしていたある日、日帰り温泉にでも行こうとハンドルを握った。温泉気分はどこへやら、なぜかカッ飛びモードになって高速に乗って走り続けた。

温泉にも行ったが、結局ドライブ中心の時間だった。クルマの運転がストレス解消法という人がいるが、分かる気がした。

20代の頃はよく一人でドライブしていた。暇人だったから昼寝のせいで夜更けに目が冴える。仕方なく朝焼けを見に出かけたり、目的もなく高速を走ったりしていた。

その後、年齢を重ねるに連れ、助手席に誰かを乗せないと退屈するようになった。いや、そんな理由ではなく、アルコール中心の生活になったことで運転する機会が減った。

この日のドライブは、午後から夜にかけて結構な時間を愛車で過ごした。思えば、昨年クルマを変えて以来、こんなに長く一人でこのクルマと向き合ったことがなかった。


ひとりでガンガン走ってみると、愛車の性能に萌え~って感じになった。全体の質感、エンジンの力強さ、加速、制動力、コーナーリングの安定感など、全体に大したもんだと今更ながら感じた。

とかいいながら、クルマの性能を噛みしめていたのは少しの時間で、あとは葉巻を吹かしながら大声で歌ってばかりだった。

さすがに葉巻の香りが染みついちゃうのはイヤなので、窓は全開。寒いし、うるさいし、カーオーディオに合わせて歌う声は大声になった。叫んでいたような状態だ。

スッキリした。

ハマショーを叫ぶのに飽きたので、永ちゃんの「アイ・ラブ・ユー,OK」をうなったり、加山雄三をスカして歌ったり、ブルーハーツを吠えたり、誰にも聞かれないのをいいことに熱唱。

そのうち、演歌モードに突入。五木ひろしの「待っている女」、細川たかしの「望郷じょんから」とか、高山巌の「心凍らせて」なんかを歌う。

それにしても「心凍らせて」は名曲だ。

♪心凍らせて 愛を凍らせて
 今がどこへも行かないように♪

何度も熱唱した。どう見ても間抜けな姿だったと思う。

話がそれた。

この季節、日が暮れるのが早いから、あっという間にトワイライトタイム。昼が名残り惜しそうに、夜が待ちきれないように攻めぎあう時間だ。

日没後のわずかな時間。黄昏のひととき。こういう時間帯に人の精神性は研ぎ澄まされるのだろうか。様々な悩みや想いが浮かんでは消えていく。

結論なんて出ないから結局は、♪こころ、こおら~せて~~♪とか熱唱しながらアクセルを踏み続けた。


この日は、秋川渓谷・十里木にある日帰り温泉に行って、混雑ぶりに辟易として、埼玉・狭山近辺にある温泉施設に行き直した。

当たり前だが、クルマでの移動は臨機応変にスケジュールを組めるのが便利だ。

アルコール漬けの身体になる前までは、結構なクルマ好きだった私だ。もともと、ドライブは好きなほうだった。

大学生の時は、陸路、北海道まで丸一日ひとりきりで運転したこともある。夜遅く、青森側から青函連絡船にクルマごと乗り込み、運転席で爆睡して函館に到着した。

その後、クルマでも寝泊まりしながら1週間かけて北海道の外周を回ってきた。楽しい思い出だ。

ちなみに現在の愛車は英国車。英国好きでもなんでもないのにおかしな話だが、輸入車の個性、輸入車の哲学みたいな部分に惹かれる。

ドイツ車を中心にイタリア車にも乗ってきた。それぞれが哲学というか、確固としたアイデンティティを持っている点に惹かれる。

「走れば何でもいい」。それも道理だが、「何事にもこだわりを持った大人」を演じ続けたい私?にとっては、やはりミニバンとかプリウスは敬遠したい(ファンの人、スイマセン)。

あと20年ぐらいしたら、きっと喜んで軽のミニバンを愛用すると思うが、まだまだその世界には背を向けていようと思う。

上質な欧州車が持つ官能的な空気は、やはり、単なる道具と割り切って作られたクルマとは異なる。エロティックな喜びを与えてくれる。

いきなりデータを出して恐縮だが、輸入車の新規登録台数は1996年に40万台に達したが、その後は減少し、2000年代には25万台前後になり、2009年には17万台にまで急降下。ピーク時の半分以下だ。

このあたりにも不況の影響がくっきり出ているが、その分、この国のドライバーから「浪漫」が減っていったという見方も出来る。ちょっと寂しい話だ。

とかいいながら、私自身、めっきり運転する場面が減っているのも確かだ。箱根や熱海あたりですら、電車で行きたがる。もっとクルマでの移動を見直してみたい。

最近は、昔ほど渋滞にはまることもなくなった。せっかくエコとかハイブリッドに背を向けたようなクルマに乗っているのだから、バンバンかっ飛んでいこうと思う。

この秋は少し酒を我慢して、もっとドライブに励もうか。

2011年11月21日月曜日

正しく健康的な酒

用事が無くても止まり木に立ち寄ることは大事だろう。職場と家の単純往復から文化や芸術、ましてや色恋?は生まれない。

同僚や友とわいわいしたり、異性としっぽりも嬉しいが、時にはひとりポツンと日常の様々を逡巡するのも悪くない。

そんな時は寿司屋のカウンターだ。随分断定的だが、先日、寿司屋のカウンターでそう思ったのだから仕方ない。

ひとりでバーでチビチビも良いが、あまりに変化のない時間の流れのせいで、つい携帯メールをチェックしたり、Facebookをいじりだしたり、結局わさわさしてしまう。

あくまで私の場合の話だ。

先日、良く行く高田馬場・鮨源でボーっと飲み食いした。ちょっと気分が上がっていかない日だった。何となく止まり木みたいな感じで訪問。

私にとって基本パターンみたいな注文の仕方をした。正しく不健康な酒飲みのオーダーだ。不健康といっても、もっとヤバいシリーズに没頭する時もあるから、この日は大したことはない。

お燗酒を飲みたい気分の時には、この程度の不健康は健康的な範囲だろう。よく分かんない表現になってしまった。




極上の本マグロの赤身と軽く酢締めされたサバを肴にアルコールタイムスタート。

やはり、鉄分の香りが芳醇なしっとり赤身は刺身界のスーパースターだろう。長島よりも王って感じだ。ノーラン・ライアンではなくグレッグ・マダックスという感じだろうか。

サバにはバッテラに使うような甘めの昆布もトッピング?してもらった。

アンキモ様がくれば、どうしたってビールから燗酒に移行。日本の冬よ、ありがとうって言いたくなる味わいだ。

メジマグロのトロっとした部分を辛味大根とともに味わう。これまた燗酒と混ざり合って、早々に気分が良くなる。



熱めの燗酒が喉を通りすぎていく瞬間が大好きだ。まさに快感だろう。ウィーとかオォーとかその手の音を発声したくなる。

アンキモに飽きたらず、白子も頼んだ。ポン酢が優しい味だから、白子のクリーミーエロティックな味が引き立つ。

なんかグジュベロ系?の肴が続いたので、カキを注文する。この日は、吸い物風に仕上げてもらった。薬味無し。ただただカキの風味を堪能する。厚岸のカキだとか。味が濃くて嬉しい。風味の弱すぎるカキが最近は出回りすぎだと思う。

この日は空腹ではなかったので、つまみはこの程度でやめた。普段は、今まで書いたようなラインナップに加えて、岩塩をパラっと降ってもらった純粋な生ウニを頼んだり、馬刺しや穴子の白焼きをもらったり、串に刺したウナギを一本焼いてもらったり、揚げ物を頼んだりしてウダウダする。

そうなると飲みすぎる。この日は、なんとなくボーッとしていた日だったので、適当に握り方面に舵を切った。



あまりにも赤身がウマかったので、素直に鉄火巻にしてもらう。鉄火巻といえば、どうでもいいマグロの赤身を使うのが普通だから、日本全国の寿司業界でスターの座に座ることはない。下っぱのような位置付け。

とはいえ、それをあえて極上本マグロで作ってもらうと、さすがに別モノになる。正しい赤身には正しい酸味とか旨味がつまっている。だからフムフムうなってしまうような鉄火巻が出来る。

まもなくシーズンが終わる生のいくらも握りで食べた。握りといっても、軍艦にせずに、シャリの上にドッサリぶっかけてもらった。悦楽のひととき。



まっとうなツマミにまっとうな握りを食べて、正しく酔っぱらってきた私は、結局、邪道モノもついつい頼んでしまう。

上はツナ軍艦。回転寿司ではノーマルメニューだろうが、高級寿司の世界では異端児。この店でも、もともとそんなメニューは無かったのだが、突出し用に作られている本マグロベースの極上ツナが、時にシャリを伴って私を幸福にする。

本当に美味しいと思う。ここ1,2年、この店の客の間でツナ軍艦ファンが着実に増えているのは疑いようのない事実だ。

そして焼おにぎりだ。邪道というか、上質なネタを揃えている寿司屋に対して失礼な注文ではある。おまけに、シャリに少しおかかをまぶしてくれだの、ゴマを少々とか余計なお願いをしたりする。

酔ってないと頼めない食べ物かも知れない。でもこれがウマい。シメにふさわしい。べったら漬なんかをかじりながらモグモグするのが最高だ。きっとどんぶりサイズでもぺろっと食べられると思う。

この日、食べ過ぎず、飲みすぎず、快適な気分で過ごせた。ウマイものをしこたま食べようと意気込んで出かけた時よりも、止まり木に立ち寄るぐらいの感覚で訪ねた方が快適な時間が過ごせる。

のどかな時間だった。

2011年11月18日金曜日

変態バンザイ

いきなりだが今日は変態について考えたい。

青虫が蝶に変わるようなくだらない話ではない。もっと学術的な変態の話だ。変態性欲と言うべきか。

私も他人様から変態野郎と言われ続けて30年(ウソです)。いろいろな変態話を聞いてきた。あくまで聞いてきただけである。

こんな高尚なブログで具体的なプレイ内容を開陳するわけにはいかないが、人間の欲とか業ってシロモノは奥深いこと甚だしって感じである。

スカトロ方面、縛り縛られ方面、グループ交尾方面などなど、世に言う変態のジャンルはいくつもある。いわゆるフェチ的なものも含めれば、「変な性癖」の種類は際限ないほどだろう。

女性とそういう場面になると、いきなり豹変して「このメスブタめがっ!」と叫ぶ紳士がいる。女性は皆ドン引きするらしい。想像すると爆笑してしまうが、それこそ人のそういう点を笑ってはいけない。

誰もが一風変わった萌え萌え嗜好を内面に抱えている。幼児趣味とか死姦とか許されないジャンルは別だが、誰もが持つ変な癖は本来尊重しあった方が平和なんだと思う。

人間の残念なところは、自分に縁のない嗜好に没頭する人を警戒し、排除しようとする点だ。どうしても同好の士で群れたがって少数派を異端視したがる。

変態問題についても同じ構図だ。もともと魂の命ずるままの性癖を変態などと呼ばれては堪ったものではない。その行為をするヤツが多いか少ないかだけで判断され、少数派という理由だけで変態のレッテルを貼られる。

私も随分腹を立ててきた。人と違うことをしたがるアマノジャクだったら即、変態になってしまう。

現代ではごくごく普通になっているプレイが、数百年前には誰もトライしていなかったとする。それだけでその時代の人から見れば変態行為だ。

古代ローマ時代などは、今よりもよほど性にオープンだったそうだ。奴隷も普通に存在した時代であり、一説によると上流階級の夫人の局部を舐める役目の奴隷すらいたらしい。

凄い話だ。でも、凄いと感じること自体が今時点の感覚であって、当時の上流階級においては凄くもなんともないごく普通の日常だったのかも知れない。

性の分野に関係ない話だが、「エラい人は一昔前の変人」である。カリスマとか、神格化される偉人の多くが、後世の評価によってそのような地位に押し上げられている。

現役バリバリの時には異端視されて石を投げられたりしている。そんなもんだ。

いま「キャー変態!」とか言われてイジケてる人も心配は要らない。きっと100年もすれば立派な男だったと讃えてもらえる。私も22世紀には、性人、いや聖人になっているかもしれない。

さて、変態をもう少し掘りさげよう。変態趣味は、どちらかといえば男の趣味の世界だと思う。

もともと凝った趣味に没頭しがちなのは男性だが、それ以外に根本的な構造の問題も多分に影響している。

「男のセックスは脳でするもの」。この普遍的な仕組み自体が、変な性癖の芽になっているのだと思う。

男性と女性では、快感の度合いが5倍だとか10倍、はたまた30倍も違うらしい。そのぐらい素晴らしい快感を与えないと出産という過酷な作業を放棄しかねないので神様がそう仕向けたらしい。

逆に、仮に男に出産を経験させたら、痛みに耐えかねて死んでしまうと言う話も聞く。

なんともシュールな話だ。

肉体的快感に劣る男性は、脳をフルに使うようになる。元来夢想家である男としては、いかがわしい妄想が暴走し、あっという間に変態が出来上がる。

そう考えると、つくづく男の情けなさというか、切なさが気になる。当然男である私は男の味方である。変態男に憐れみと同情を禁じ得ない。

必死で女性を追っかけて、いざそういう場面に至っても、脳の中におかしな光景が広がり、時に変なプレイを求めて、相手からぶっ飛ばされる。いやあ実に悲しい。

女性の皆さんには、そんな男性をもっと憐れんでいただきたい。男の妄想をアホバカと一蹴しないでもらいたい。

「人生に必要なのは真実より綺麗な嘘である」という言葉がある。そういう意味では、男女に必要なのは、くだらない真実より興奮する嘘なんだと思う。

2011年11月16日水曜日

悶々とする

親しくお付き合いをしている人が長年書いているブログを偶然見つけた。ブログを書かれていることは知っていたが、詳細は内緒にされていた。

見つけてしまった以上仕方あるまい。しっかりと読ませてもらった。覗いてしまった背徳感?にウキウキしながら熟読。

読んでみて深く反省。その人には今まで、随分と自分勝手な高説?を披露してきたので、自分の程度の低さが恥ずかしくなった。

もちろん、ブログなんてものは自分の言いたいことを好き勝手に書ける場だから、程度が低い高いなどと比べたり、優劣を付けるようなものではない。あくまで、私がその人にエラソーにのたまってきた言行が恥ずかしい。

その人のブログには「悪」がない。批判や攻撃といった負の力とはまるで無縁。いきがって世間様に文句ばかりつけている自分のネガティブな心を思い知らされた。

有名人は別として一般人が匿名で手がけているブログには、どうしたって人間性が如実に表れる。生きる姿勢と言ってもいい。

心根が優しい、視点が公平、偏った先入観に囚われない、謙虚な姿勢、知的好奇心の幅の広さ、芸術への素直な共感、郷土愛、家族愛、先人への畏怖・・・等々。

あえて総括的に分析すれば、その人のブログはそんな評価になろうか。誉め過ぎか。

ちょっとオカルトチックな内容とか意味不明にぶっ飛んでいる内容もあるのだが、全体的には上質な読み物だった。

というわけで、自分が4年以上書いてきたブログを読み返してみた。

偶然見つけたその人のブログが「能ある鷹」だとしたら、私の場合「能なし馬鹿」が書き殴っている感じだ。

随分と偏狭な思想に縛られているオッサンみたいだ。イヤミだし、気取ってるし、クドイし。もっと柔軟で爽やかな心を持つようにしよう。今更無理だろうか・・・。

以前書いたものを読み返すと、ブログを始めたときに完全匿名とはいえないスタートだったことも影響して、本音が全然書けていないことに気付く。

本音を書かずに綺麗事ばかり書いているから、本来は心が解放されるはずの「表現する」という作業が、逆に中途半端になってストレスになっているのだろう。

アレを喰ったコレを呑んだ、ああ良かったなどと書いているが、本当はマズかったことも多い。

本当はカップ麺のうまいまずいを詳細に語りたいし、「伝説のスタ丼」とかいう怪しいチェーン店の味を一刀両断にしたい。

銀座のクラブがどーだのこーだの書いているが、池袋の大衆酒場が妙に落ち着くし、池袋のバニーバーの衣装に萌える。

温泉の泉質がどーだの旅館の風呂があーだの書いている一方で、もう随分と吉原で風呂に入ってないなあなどとくだらないことが脳裏をよぎったりもする。

クルマの運転席に置いたまま、ケツで踏んづけちゃって壊れたメガネを修理できずに歪んだまま使ってるし、喫茶店代をおごってもらっただけで実は大喜びしているケチな性分でもある。

TPP問題だって、日本の食料自給率が危機だから無条件で賛成できないなどと気取りながら、実際にはジョンロブやエドワードグリーンの靴が関税撤廃でどのぐらい安くなるかだけが興味の対象だ。

もっと本音を言えば、個人的な家庭の話も随分と装飾して書いている自分がイヤだ。本当は「解散!」って叫びたいぐらいなのに、そんなことは書けないし、ダウン症の息子のことだって同じだ。

「障害児を授かって命の輝きに思いを馳せる父親」みたいに何度も書き綴っているが、本音は全然違ったりするのも正直ストレスだ。なんでそんな目に遭わねばならないのか、こっちがダウンしたいと思っているのが実際の姿ではある。

仕事についても、報道だ、メディアの姿勢だ、社会の公器だなどと格好付けても、営利企業としての存立基盤はただただ利益確保だから、そのために目をつぶることも増えてきた。なんか疲れる場面が多い。

資金繰りに青くなったり赤くなったりして胃腸の調子は悪くなるし、コストカットに関連した人事の悩みだって尽きない。

好きな人に思いが届かなかったり、諍いを起してしまう不甲斐なさに落ち込むこともある。やるせなす。

どうも最近、仕事やプライベートすべてにおいて、「本音と建前と実際」の渦の中でこんがらがっているような感覚になることが多い。

どうでもいいことまで含めて、あーでもないこーでもない、などと悶々としていると、「鬱はこんな風に始まるのだろうか」と無性に恐ろしくなったりする。

バイオリズムが悪い時期に入ったのだろうか。

いかんいかん。もっとお気軽モードになることにする。もう少し自分の首を絞めない範囲で、本音を出しながら相も変わらぬ雑文を書き続けていこうかと思い始めている。

まずは血圧を下げることと、不摂生による吹き出物を治そう。うーん、小さい・・・。

2011年11月14日月曜日

誉めるということ

「よく頑張った」、「当然のことだ」。同じ行為であっても評価する側の見方は分かれる。モノの見方、立ち位置によって評価ほど難しいものはない。

人事コンサルティングの現場では、無遅刻無欠勤を誉めることは間違いだというのが基本姿勢。あくまで「そうすることが当然だから」という視点だ。

もちろん、それも正論だろう。遅刻や欠勤が悪なのであって、それをしないのが普通だという理屈だ。

もちろん、この考え方だけで世の中が回るなら苦労は要らない。ケースバイケースで柔軟な対応も大事だ。評価される側に心がある以上、モチベーションは無視できない。

人の心の機微や情を無視できたら経営もきっと遙かに簡単になるのだろう。しがらみの無い外国人を突然連れてきて、ようやく再生するような大企業があるのがその証しだ。

いっそのこと、いよいよ退陣を決めた異才?ベルルスコーニに日本に来てもらってリーダーに据えたほうがマシじゃないか、などと暴論も言いたくなる

話がそれた。

「当たり前のことを誉める」という行為は、戦略的に目的を持って実行することで意味を持つ。当たり前のことを闇雲に誉めるだけでは単なるお人好しだ。

戦略的な目的、狙いとは何か。言うまでもなく更なる奮起と周囲への波及効果だ。

優良ドライバーを表彰する制度がある。警察署長がうやうやしく表彰してくれる。

安全運転はそれこそ当たり前だ。といって、それを「単なる義務だから」と軽んじることが出来るだろうか。当然だと一蹴されればモラルは低下する。

表彰された人は、まちがいなく身が引き締まる思いをし、更なる安全運転を誓う。周囲の人も表彰が仰々しければ仰々しいほど、賞賛の視線を送る。

国への最大の貢献である納税はどうだろう。真面目に高額納税を続ける行為を顕彰する制度はまったくない。その理由は「当然のことだから」。

こんなドライな考えの下で納税道義が高揚するはずはない。税金をごまかす行為には数々の厳罰が用意されているわけだから、対極にある尊い行為は賞賛されて然るべき。これまた当然のことだ。

高額納税者を讃えることは、至極まっとうな金持ち優遇策であり、将来の税源育成にもつながる。

こんな当たり前の考え方が欠落していることは非常に不自然だと思う。

戦前、わが国に存在したのが「貴族院議員制度」だ。爵位うんぬんだけでなく、高額納税者も議員に選ばれていた。

国の「会費」である税金を多く納めているわけだから「会の運営」にせっせと発言するのが当然という発想だ。

社会主義的思想が前面に出てきた民主党政権。年金制度改悪では、驚いたことに高所得者層に対して平気で月々5万円の負担増を求める一方で、将来給付される年金額は増やさないという、ボッタクリーバーもビックリなハチャメチャな政策を平気で通そうとしている。

人より頑張って稼いで、人より国に貢献している人への感謝すらなしに、ボッタくることだけを考える。お粗末極まりない。

その一方で、生活保護の支給対象者は過去最高をマーク。本当に困っている人を救うのは政治の大事な使命だが、パチンコ三昧の遊び人にまで生活保護が出ているのも一面の真実。

書いているだけで憂鬱になってきた。

2011年11月11日金曜日

罰がないから

今日は久しぶりに真面目な話を書く。「記者」などと名乗っている以上、少しは大上段に構えた話も書かねばなるまい。

ちなみにこのブログ、会社のSEO対策の一環で始めてから丸々4年が経った。いまやSEOなどどこ吹く風で、好きなことを書き散らかす場となってしまった。

最近、何のために何を書きたいのか、さっぱり分かんなくなってきたので、今年いっぱいをメドに一区切りにしようと考えている。

やはり定期的に人様に向けて何かを書く作業は、それなりにエネルギーが必要だ。すっかり元気の無くなってきた?私としては、仕事でもないのに書き続けるのがシンドくなってきたのが本音だ。

さてさて、今日の話は、わが社の新聞のコラムで書いた話を膨らましてみた。ベタな文句を書き綴る。


延滞税、過少申告加算税、不納付加算税、無申告加算税、重加算税、利子税…。なんだかんだとメンドーな名前が付いているが、要はすべて罰則的な税金だ。

真面目に納税している人からすれば、不真面目への罰則は当然。ちゃんと厳しくしてもらわないとやりきれない。

罰がないところに秩序は生まれない。残念ながらそれが現実だ。そう考えると絶対に無くならないのが「税金の無駄遣い」だ。罰がないのだから、撲滅への掛け声は単なる掛け声でしかない。

さきの衆院予算委員会では、補正予算の中身をめぐって呆れた数字が取り上げられた。来年度に新設される原子力安全庁のホームページ作成費用が実に1億4千万円。いまどきどんな複雑な機能を付けたとしてもこんな金額になることは理解不能だ。

つづいて、法務省が1200台購入する衛星携帯電話の値段。1台あたり34万円超だとか。経済観念が無いというより常識が無いと表現したくなるレベルだ。

ちなみに、このアホバカ予算の問題を取り上げたのは自民党議員だ。ただし、党が補正予算自体に賛成することを決めているため、アホバカ予算の修正を求めないとのこと。「予算のすべてを使わないように注文する」だけでオシマイ。

予算案をめぐる与野党の攻防、どっちもどっちだろう。

こんな予算でも結局通ってしまうわけだから、言ってみれば国権の最高機関が、お役人が好き放題計上する冗費にお墨付きを与えている格好だ。破廉恥極まりない。

税金を納める側には事細かに罰則を用意し、納められた税金を使う方には罰則がない。これほど納税者、すなわち国民を愚弄した話はない。

ちなみに冒頭で書いた罰則的な税金とは別に「過怠税」という制度もある。契約書や領収書に貼る印紙をすっとぼけた場合の罰則だ。

過怠税は本来の印紙税額の3倍が必要になる。実に分かりやすい仕組みだ。お役人の税金無駄遣いにもこういう具体的な罰があれば国の財政も随分好転するだろう。

ギリシャなどもその代表だが、破たんする国に共通しているのが公務員天国だということ。34万円もする携帯電話を使う役人がいるわが国の未来が末恐ろしい。

そして今、この国の支出は収入の2倍以上に膨らんだ。足りない分は無秩序な借金でまかなっている。そしてお役人の巧妙な世論操作で増税やむなしの空気が着々と広まっている。

実に恐ろしく、気持ち悪い事態だ。

2011年11月9日水曜日

小さな死

簡単に疲れたなどと言うのも情けない話だが、最近、ふと気付くとバテている。

泳いでいないと死んじゃうマグロみたいだとも言われた。確かに何かとバタバタしている。

自分自身の大切な時間と仕事と家庭の狭間で一生懸命やりくりしている感じだ。睡眠時間もだいぶ減ってきた。

どんな業種だろうと仕事が出来る人に共通しているのはタイムマネジメントが優秀だということ。その点、自分はどうだろうか。

生きるという大仕事を実行する上で、タイムマネジメントはキチンと出来ているか、大いに気になる。

話は変わる。

「小さな死」という言葉がある。フランス語がルーツみたいだが、一般的に情交の後の深い眠りを指す。確かにコトを終えれば睡魔が襲ってくる。時に昏睡と表現したくなる深い眠りに落ちる。

あの瞬間、言われてみれば魂が解放されているのかも知れない。そういう意味では「小さな死」だ。

若い頃は、そんな睡魔もモノともせず、すぐにセワセワと別な行動を始めていた。大人になって、年を重ね、魂がやたらと余計な荷物を背負わされてきた最近では、「小さな死」から逃れられなくなってきた。

一瞬だが、完全に落ちたような感覚に見舞われる。呆けたような感じとでも言おうか、脳が全停止したような気分になることがある。

眠りに落ちる時だけではない。起きている時でも、ふとした瞬間に「フリーズ状態」に陥る。これって疲れが原因なのだろうか、それとも、脳に問題が起きているのだろうか、はたまたガラにもなく哲学的な心理状態になっているのだろうか。

ナゾだ。

強いて言えば最近ちょっとばかり悩むことが重なっている。そういうタイミングだから、脳がキャパ以上に働きまくっている感じだ。だから、ふとした時に異次元にワープして、一瞬だけ「無」に入り込んでいる。

人間の順応力というか、セルフコントロール機能ってなかなか大したものだと思う。「小さな死」も「一瞬の無」も、思うようにいかないことを抱えて生きていく中で、自分を壊さないための調整弁として機能しているのかもしれない。

葉巻をふかす機会がこのところやけに増えた。2ヶ月前から紙巻きタバコを禁煙したことが大きな理由だが、それだけではない。葉巻をくゆらす時間の穏やかな感じについつい誘われる。

違法薬物に興味はないが、私にとって葉巻は「プチ・アヘン」みたいな存在になっている。アヘンといえばオドロオドロしく聞こえるが、古来、医療用に流通していたわけで、鎮静効果、導眠効果に優れていたらしい。

葉巻をポワーっとふかしていると、鎮静効果はかなりのものだ。肩に力が入っていた感じも自然とほぐれるし、ぶつけようのないイライラも束の間消え去る。

このところ、世間様が高々と掲げる数々の金科玉条に、わけもなく噛みつきたくなっている。老化のせいで短気になったのだろうか。

秩序とか常識といった窮屈な制約がうっとおしく感じて仕方がない。困ったものだ。やたらと「なぜ」、「どうして」が頭の中を支配する。

アルコールが足りないのだろうか。そうだ、最近、ちょっと酒量が減った。胃腸がお疲れ気味で、アルコールを減らしたのがいけないのだろう。だからイライラしている。

そういうことだ。とっとと大酒飲んでケッケっと笑って過ごすことにする。

なんだか今日はウツウツと書き殴ってしまった。

2011年11月7日月曜日

部活


部活と称して銀座の酒場巡りをしていると、何かと勉強になることが多い。授業料が高すぎるのが痛いが、「男の学校」という昔からの言い方は、あながち遊びの言い訳だけだとも思えない。

私だって、部活の最中は、馴染みの女性の麗しき御尊顔や妖艶な胸元を眺めているだけではない。

よその席のお客さんの様子を観察したり、この街で繰り広げられるエピソードを「取材」したり、真面目に文化活動?に取り組んでいる。

ほんの目と鼻の先の新橋ガード下での酒と銀座のクラブの酒。同じ酒場でも大きく異なるのが、酔客の心理状態だろう。

本音の酒がガード下なら、本能の酒が銀座かもしれない。銀座紳士のスタイルも様々だが、多くが、あの街で見栄をはりたい、あの街で背伸びしたい、意中の女性を手籠めにしたいなど、どこか邪念にも似た空気が付きものだ。

ただ酔えればいいというパターンは少ないのだろう。おかしな世界だ。でもそれが逆に人間くさい感じがして面白い。

見栄、背伸び、支配欲。男なら本能的に無縁ではない。突き詰めれば格好付けていたい心理と言おうか。

格好付けることは時にみっともないし、見方によってはアホみたいだが、男のエネルギーなんて、しょせんそこから生まれる。

モテたいとか、偉くなりたいとか、格好付けたい心理がなければ、向上心は生まれない。本心からそういう邪念がない人は天然記念物みたいなものだろう。神に仕えるはずの宗教家だって、宗派の中で高い位に就こうと権謀術数をつくすわけだから、誰だって煩悩や欲のために格好付けたい。

昔、ある女性から「なんでそんなにカッコつけてるのか?」と聞かれたことがある。「男だからだ」と答えた。他に理由などない。

マグロが泳ぎ続けていないと死んでしまうように、男が男を続けている以上、格好付けたい気持ちをないがしろにしてはいけないと思う。

ということで、銀座で格好付けて飲んでいる御仁達の話。

格好付ける意気込みは誰しも同じなのだが、変にズレちゃう御仁が多い。

「自慢たらたら氏」はいつの世も酒場には付きものだ。自慢することが格好いいと思ってるみたいで、こういう類が結構多い。

誰それとは友達だ、だれかれの面倒はオレが見てるんだ等々、実に賑やか。そんなオッサンに限って、決して誰それを伴って飲みに来ることはない。

だいたい、あの街の女性たちはお世辞のプロだし、酔客を大袈裟に誉めるから、「自慢たらたら氏」は機嫌良くなってしまう。

自慢話を聞かされた相手がその人を尊敬したり、ましてや恋に落ちたりすることは無いはずだが、そういう人は一晩中自慢話を繰り出している。ご苦労なことではある。

「札びらタンマリ氏」も困りものだ。すぐにカネで女性陣を釣ろうとする。白金にマンション買うぞ、カイエンターボ買ってやるぞ等々。話が即物的で浪漫のカケラもない。

私もうなるほど金持ちだったら、そんな行動に走るのだろうか。なんか心が通じ合っていない気がして寂しい感じがするのは、私がウブだからだろうか。きっとそうだ。

超絶的金持ちにならないと理解できない心理なのだろうか。まあ、間違いなくお金だけでつながる関係だから、胸が焦げるような想いなんかは無縁なんだろう。そんなのちっとも楽しそうではない。

「オレのいいなりになれば、キミの人生は明日から変わるよ」。こんなことを「札びらタンマリ氏」はあちこちで囁いているらしい。ご苦労なことではある。

威張るヤツも端で見ていて不快だ。どうして客だからという理由だけであそこまで横柄になれるのか不思議だ。あれはあれで「人より高いポジションにいる自分」というポジションに酔っている一種の格好付け心理なんだろう。

くどき作戦に失敗した女性相手に、ころっと態度を変えて全然関係ない理由で怒り始めるオッサンもいる。

本人は「怒っている自分」を演じることで、くどけなかったうっぷんを晴らしているのだろうが、実にカッチョ悪い。

反抗できない立場の相手に威張るヤツほど情けないものはない。逆に言えば、この逆を徹底するだけで、途端にいっぱしの紳士だと思ってもらえるわけだ。

要するに酒場観察によって見えてくるダメダメ親父のパターンを反面教師にすれば、簡単に立派な紳士像が浮かんでくる。

触りまくるヤツ、ダラダラ飲み終わらないヤツ。こういうのもカッチョ悪い典型だ。

裏返せば、好色路線を前面に出さず、サッと引き上げることが出来れば、一応「スマートな人」ということだ。

自慢しない、威張らない、金持ちぶらない、怒らない、エロエロしない、長居はしない。

目指すべきはそういう路線なんだろう。実際にこういうスマートなお客さんは大勢いる。ダメパターンの客が引き立て役になって、そんな紳士達はどこに行っても上客として大事にされる。

ウブな私の場合はどうだろうか。

自慢するような話がないから、自慢オヤジにはならない。ちっとも儲からないからイヤミな金満オヤジでもない。小心者だから怒ることも知らない。臆病だからお触りも出来ない。すぐ眠くなるので長居も出来ない。

理由はともかく、モテる客の条件を満たしているではないか!

これは一大事だ。調子に乗って今まで以上に部活に精を出してしまうのだろうか・・・。

2011年11月4日金曜日

酒の思い出

お酒を飲み始めてどのぐらいになるのだろう。もう30年以上にはなる。たいして飲めないが、まったく飲めないほどでもない。

このぐらいがちょうど良いのだろう。身体を壊す心配もない。アホみたいな失敗談もそんなには無い、ような気がする。

初めて酔っぱらう経験をしたのが、中学2年の時。自宅で祖父が私のコーラにいたずらをした。オールドパーをコーラにちょろちょろ入れはじめ、しまいにはドバドバ投入。

甘くて飲みやすいし、調子に乗って何杯も飲んでいたら、立ち上がった時に足に来た。まさにガクン。あの時から「酔っぱらうことは幸せだ」を人生のモットーに生きてきた気がする。

本心から酒をウマいなあと実感したのはいつごろだろうか。30歳以降だろう。30代前半ぐらいまでは、お酒が無くても平気だった気がする。

今では、アルコールを週に1日抜くのにも難儀している。つくづく、大酒飲み体質じゃなくて良かったと思う。

若い頃の酒の思い出といえば、気持ち悪さに尽きる。たいていは嘔吐小僧になっていた。そうなるのが分かっているのに毎度のようにゲロゲロ。あれが若さだったんだろう。

高校生の頃はもちろん、大学生になっても「しっかり飲んだ日はしっかり吐く」のが基本パターンだった。

安いバーボンが生意気盛りの小僧の定番。そりゃすぐに気持ち悪くなる。若い男ならバーボンだ!みたいな変な思い込みがあった。アホそのものだ。

ウマいと思わない飲み物をよくもあんなに飲めたものだ。だから、その後、怪しげなトロピカルドリンクとやらに飛びついたりした。

あの頃、サントリーの戦略だったかで、トロピカルドリンクという呼び名の怪しいシロモノが若者の間で流行していた。変に甘くて、変にカラフルで飲みやすい。ただし、何杯も飲めば気持ち悪くなること間違いなし。

吐いている時ですら甘ったるい感じがして、気持ち悪さに拍車がかかった。

品のない話でスイマセン。

二十歳の頃ぐらいから、私を可愛がってくれた年上の友人が、六本木のクラブ活動に頻繁に連れ回してくれた。いつも明け方までアフターのお供。常に気持ち悪かった記憶がある。

この頃はブランデーの水割りばっかり飲んでいた。だいぶ出世?したが、相変わらずウマいなあと思うことは無かった。ただ流し込んでいた。ああもったいない。

店がはねた後だし、オネエサン方も同年代の私を可愛がってくれたのだが、こっちは気持ち悪くて仕方がない。今ではまるで考えられないが、据え膳は何度も手付かずだった。

自慢でも何でもないが、スケベ行動に出ないことで女性から叱られたこともある。ただただ気持ち悪かっただけで、決して格好つけていたとか、奥手だったわけではない。

モッタイナイ運動の原点のような話だ。

若い時は旅先でも嘔吐小僧だった。大学生の頃、一人であちこち旅行したのだが、夜のスナックで、地元の怪獣のようなオバサン達に飲まされて苦悶したことも何度かある。

旅先の飲み屋さんでマスターと話が弾んじゃえば、それこそ際限なく飲んじゃって、夜中から翌日の昼まで吐きっぱなしなんてこともあった。

今思えば、どうしてロクに飲めなかったのに、おまけに酒をウマイと思ってなかったくせに、スナックとか、渋い飲み屋に侵入していたのだろうか。

酒場好きの習性があったのだろうか。

オカルトのジャンルの常識では、酒場に寄りつく地縛霊がいるらしいが、そういうのが取り憑いているのだろうか。

前にも書いたことがあるが、小学生の時、バニーガールがプリプリ歩き回っている店に連れて行かれた。ファミリー向けイベントだったのだが、その光景にぶったまげたことが現在の性癖や嗜好に影響している。

ついでに言えば、中学3年生の分際で、悪ふざけが高じて悪友と渋谷のパブに出かけて「ボトルキープ」にトライした時の印象も今の行動に影響している。

薄暗い照明のなか、スリットの入ったロングドレスの女性が働いている姿。今でも鮮明に思い出す。

この二つの経験が私の現在の行動パターンに多分に影響しているのかもしれない。だとしたら随分安直に人間形成してしまったみたいで、ちょっとイヤだ。

一時期通った銀座7丁目の某クラブ。ホステスさんとは別にお運びさんがバニーちゃんだったという一点だけでその店が気に入った。照明も妙に薄暗くて、子供心に思い描いた「オトナの怪しい場所」そのものだった。

照明が薄暗い、スリットの入ったドレス、バニーちゃんもチラホラ。そんな感じで何を頼んでも280円均一みたいな店があったら、ぜひ教えてもらいたい。

あるわけないか。

酒の席での失敗を書くつもりが、ずいぶん話がそれてしまった。

海外でも時に嘔吐小僧に変身してきた。

メキシコでスイカぐらいの大きさのグラスに入った妙に濃いマルガリータを飲まされた。しばらくはラテン気質が憑依してひゅーひゅー騒いでいた。その後、正気になって宿に戻ってゲーーー。

イタリアに行って、柄にもなくトスカーナのワイナリーめぐりをした時も飲みすぎた。好きでもないのにワインをグビグビ試飲、まけにワイナリーで食事する際にも大量にグビグビを続けた。

帰路、チャーターしたタクシーを道端に待たせて、高原の隅っこでゲーーー。

なんかキリがないし、美しい話ではないので、この辺でやめる。

今後は嘔吐評論家とでも名乗ることにしょう。

2011年11月2日水曜日

抱いてください

変な癖は無数にあるのだが、そのひとつが、感動するたびに「抱かれてもいいと思った」と書き殴ることだ。

たとえ、それがオッサンだろうと、老婆だろうと、私に深い感動と喜びを与えてくれたら、ついついそういう感覚になる。

でも、「抱かれてもいい」という表現は、考えてみると、ちょっと上から目線ではある。生意気と言えば生意気だ。

仮に女性からそんな言い方をされたら、「別に結構です」と私は答える。たぶん・・・。

「抱かれてもいい」ではなく、「抱いてください」と言われたほうがグッとくる。

そんなことを言われたら、「もっと自分を大事にしなさい」と私は答えるはずだ。きっと…。

一応、そういうことにしておく。

くだらないことを妄想してスイマセン。本題に入る。

ハマショーのコンサートに行ってきた。今年のツアー最終日、埼玉スーパーアリーナにいそいそ出かけてきた。


浜田省吾歴30年ちょっとの私だ。さすがに行かないとマズイだろう。今回はニューアルバムを出した上での全国ツアーでもなく、本人が言っていたように「選曲が自由」だったらしい。

オールドファンには感激のラインナップを生で聞けた。中学、高校時代に聴いていた曲もガンガンやってくれた。

抱かれてもいいと思った、と書こうとして考え直した。

「抱いてくださいハマショー!」。これが感想だ。

休憩を挟んで4時間ほどの長丁場。堪能した。ちょっと泣いたりしてしまった。どうも年齢とともに涙腺が変だ。

ハマショーは来年には60歳だ。そんな年齢であれだけのステージを息も切らさず、バテたそぶりも見せず、実に丁寧に誠実にこなす姿勢に敬服する。

ファンとしての身贔屓だけでなく、「誠実な姿勢」が彼の現在につながっているのだろうと実感した。

大ヒット曲があるわけでもなく、特別なプロモートをするわけでもない、あえていえば古い時代?のミュージシャンのアリーナツアーが全国的に即完売するのは珍しいだろう。

コンサート中のMCにしても、ロックミュージシャンの横柄さ、ガサツさはまったくない。キチンと敬語だ。かといって、堅苦しさはなく、説教臭い感じもなく、真摯に観客とともにその一瞬一瞬を充実した時間にしようとする姿勢が伝わる。

一つ一つの楽曲を丁寧に歌っている姿も印象的だ。激しい曲であっても過剰なシャウトや興に乗った変なアレンジはなく、あくまで発声も安定している。


完成した安定感だからファンも安心してその世界に一体となって没頭できる。言葉にするのは簡単だが、日本のロックというジャンルの一種の到達点と表現しても大袈裟ではないかもしれない。

随分と熱く語ってしまった。

ハマショーを知ったのは中学2年の時。当時、あまりにも勉強しなかった私に付いた家庭教師が教えてくれた。

初期のハマショーのカセットテープをわが家に持参した大学生の家庭教師は、勉強もロクに教えないでハマショーを解説してくれた。

いま思えば、とても良い学習時間だった。

あれから30年、、、というと「きみまろ漫談」みたいだが、年月を経てハマショーの歌う世界も、主人公が若者から大人、そして中高年の世界へと移ってきた。

「若者の熱い反抗」みたいな世界が、「然るべき大人の達観」みたいな路線につながっていったわけで、リアルタイムでその流れを共有できたことは幸運だったと思う。

たかが音楽、されど音楽。長年連れ添ってきたような楽曲が持つ力は想像以上に人の心に大きい影響を与える。ここ5~6年の間にそんなことを実感するようになった。

願わくば、何年後か分からない次のコンサートツアーにも今回のような気持ちのままで参加したい。

いまふと思った。生まれ変わるなら何になりたいって聞かれたら、間違いなくこう答える。

「ハマショーになりたい!!」

2011年10月31日月曜日

邪道メシと上海ガニ

相変わらず顔なじみになった店では邪道な食事をしている。だんだんとデリカシーとか羞恥心が消滅してきているのだろうか。




画像は上から、ツナごはん、イクラごはん、焼きおにぎりだ。

高田馬場の鮨源でお願いしたものばかり。週に一度は作られる本マグロを使ったツナが大好物なので、これがある日は必ず握りで食べる。それ自体が邪道ではある。

いつもは軍艦にしてもらって、ツナを山盛りにしてもらうのだが、この日は小どんぶり風にトッピング。イクラも同じ。この季節限定の生イクラをワンサカ食べるのには、どんぶりスタイルが最適だ。

まあ、ここまでは、邪道といっても特別不自然でもないだろう。問題は焼きおにぎりかも知れない。

炭水カブラーである私は、いつの日か寿司飯をお櫃ごと抱えて倒れるまで食べたいという野望を持つ。筋金入りのゴハン好きだ。

お寿司屋さんで、あれこれつまんで、そこそこ満腹に近づいてきた時に何を食べるか。食べたい魚はたいてい食べたし、玉子焼きも漬物もいらないなあ・・・。そんな気分の時には「シャリだけください」と言いたくなる。

シャリだけでもウマいが、焼きおにぎりにしてもらうと、酢飯の味が引き立ってこれまたウマい。

醤油とかつお節と少しの白ごまなんかを混ぜてもらってから焼いてもらうのもグッとくる逸品だ。素晴らしいネタがいっぱい揃ってるのに失礼な話ではあるが、こればっかりは仕方がない。ウマいんだからしょうがない。

これみよがしに、不思議ちゃんみたいな食べ方をするのもヤボなので、一応、注文する際には、周りの人に聞かれないようにコッソリ頼んでいるつもりだ。

いや、そう思ってるのは自分だけかも知れない。たぶんダメだろう。いつも酔っぱらいなので、ガハハハと品性のカケラもなくオーダーして喜んでいるのだろう。反省。

話は変わる。

今の季節、やはり上海ガニをワシワシ食べないとダメだろう。別にダメではないか。一応、カニラバーを宣言している私としては上海ガニは秋が深まれば食べないとダメな食材だ。

そんなこんなで、都内某所にある高級中華料理店にいそいそ出かけた。

店の名を伏せたのは、ちょっとしたアクシデントに見舞われたから。といっても、きっと店のせいではなく、私自身の体調だ。

食事の途中で気分が悪くなって、後半はまったく食べられなくなってしまった。不思議な体験だ。




紹興酒漬けの上海ガニをチューチューすって悦楽の世界に入り、フカヒレの姿煮にノックアウトされ調子よく飲んでいたのだが、突然、気分が悪くなって、そこから先のご馳走がまったく食べられなくなってしまった。

上海ガニの蒸し身、小籠包、鮑の煮物、黒酢の酢豚、特製チャーハン。こんな天国の晩餐みたいなラインナップが目の前を素通りしていく。

自分の身体に何が起きたのか、キツネにつままれたことなど一度もないのだが、まさにそんな感じだった。

カニアレルギーに突然なったはずもなし、危なっかしいカニを出すような店でもないし、何かのリズムが急に狂ったのだろうか。

素知らぬ顔して何度かこっそり洗面に行って嘔吐小僧になった。

いろいろ疲れ気味ではあったが、そんなことで突然変調をきたすのもおかしい。もしかすると加齢がなせるワザなのだろうか。

いつまでも若者時代と同じ感覚で行動していると、ひょんな弾みで身体が黄色信号を出すのかもしれない。ウルトラマンのカラータイマーが点滅するような感じだ。

たまたまアクが強いカニがそんな感覚を誘発したのだろうか。思えば前の日も、アホほど飲んで半分気を失っていたから、きっと守護霊?が注意喚起したんだろう。

そういうことにしておく。

そうじゃないと上海ガニが楽しめなくなる。でも、次回、上海ガニにむしゃぶりつくのが少しだけ恐かったりする。ああ情けない。

そういいながら、この日、次の店にも行った。結局、ノリノリでハマショーなんかを熱唱して深夜の帰宅。いかがなもんだろう。

そんな経験をすると、あらためて体調管理に思いを至らす。ウマいものを食べたり、陽気に酔っぱらったり、激しく熱唱するにも健康は欠かせない。

もっと落ち着いた行動を心掛けよう。

今日の段階では真摯にそう思う。

2011年10月28日金曜日

銀座のこだわり

食事にもいろいろある。漫然と食べる生活の一部としての食事。これが大半だ。そのほかには、わざわざ大枚はたいてウマいものを食べに行く食事、仕事や友人関係の付き合いでの食事、デートでワクワクしながら雰囲気も重視した食事、酒を飲むための食事、等々、パターンは数え切れない。

酔っぱらって満腹中枢が麻痺して食べる食事というパターンもある。飲みすぎて吐きまくって空腹になったから食べる食事なんていうのもある。

楽しみをともなう外食というジャンルでは、やはり食べる場所も重要な要素だろう。高級なイタリアンを池袋で食べたいと思わないし、上等なフレンチを池袋で食べたいとは思わない。池袋好きな人、スイマセン。

そんな池袋だって、日本語が通じないほどディープな中国郷土料理の店になら行く気になる。新大久保で寿司を食おうとは思わないけど、韓国料理なら食べに行く。

街の雰囲気は外食する側の心理に多分に影響する。

で、そう考えると「ハレの外食」の総本山は銀座だろう。この街の場合、料理のジャンルに関わりなく、「銀座で店を開いている」ことが一種のステータスになりえるのも事実だ。

実際、銀座の中心地であれば、ダメな店はすぐに淘汰される。ちゃんと成り立っている店であれば然るべき店だと判断できてしまう。

料理のジャンルを問わず、一流店と言われる店が銀座に集結している。フレンチだ懐石だと言った高級なジャンルだけでなく、焼鳥とかおでんとか、その種の日本のファーストフード系も然り。その道の名店と呼ばれる店はたいてい銀座に存在する。

喫茶店やショットバーも、銀座では一種独特な存在感を持つ店が多い。たかが喫茶店、されど喫茶店なんだろう。

そういう店の存在と矜持、それを支える客の侠気にも似たこだわりが面白い。

文化なんてものはこだわりがなければ生まれるはずもない。セントラルキッチンで管理された料理をブロイラーのように食べさせるイマドキのお手軽チェーン店では醸し出せない雰囲気があの街全体に残っている。それが文化につながっている。

ひとつの象徴が7丁目の「ライオン」だろう。端的に言えばビアホールだ。とはいえ、タダモノではないのは知る人ぞ知る存在。


決してオシャレでもないし、出てくる料理が最高の品質というわけでもない。それでも銀座7丁目というあの場所で、妙な風格のなか連日繁盛している。

築80年近くの大ホールの風情はまさに昭和のノスタルジーだし、生ビール注ぎの達人がいたり、なんだかんだとコダワリがつまっている。

さすがに生ビールはアホみたいにウマい。夏場は早い時間から入店待ちの列が出来るのも納得だ。


昭和っぽい感じ、ビアホールならではの料理。この2点を強く意識したメニュー構成も楽しい。画像はいにしえのナポリタンだ。たまに食べると悶絶する。

決して高い店ではないが、銀座という場所の特殊な感じを実感するには最適な場所だろう。あの街でありふれた店に入るのなら、こういう存在感の店でフガフガ飲む方が良いと思う。

話は変わる。

銀座っぽい食事と言って思い浮かぶのは何だろう。人によっては寿司だったり、フレンチだったりさまざまだろうが、私が漠然とイメージするのは、いわゆる「ニッポンの洋食」だ。シチューとかオムライスとか、その手の料理だ。


画像は「南蛮銀圓亭」のカニクリームコロッケ。「洋食」というジャンルのこの手の料理は私の大好物だ。タンシチュー、ハヤシライス、グラタン等々。許されるなら毎日、そんなものばかりで生きていたい。

でも、太っちゃってしょうがないから、こういう料理は自分の中で、何か特別な機会、特別な気分の時に食べるようにしている。

この日、オードブルをいくつも取って、シャンパンをグビグビ、オーナーらしき老婦人の妙なリズムのサービスも和む。ゆったりした店の造りも心地よい。

タンシチューも素直にウマい。ディナーのメニューからは除外されているオムライスも頼めばさっと作ってくれた。

隣では、某元首相夫人が友人らしき人達と楽しげに団らん。こんな客層の不思議な感じも銀座らしさと言えるのかも知れない。

安くはないけど、場所と雰囲気と食べたモノの質を考えれば納得する。この尺度が「銀座での尺度」だろう。私の場合も、あの街では常にその尺度で解釈するようにしている。

たかだかモヒート2杯で5千円もふんだくるバーにも懲りずに行っちゃうし、コーヒー一杯で平気で千円以上取られても笑っていられる。池袋だったら殺意を覚えるが、舞台装置うんぬんを考えたら、あの街の店に落とす単価はそういうことになる。

まあ、夜のクラブ活動の値段自体がもともと意味不明ではある。面白いものでアレはアレで、どんぶり勘定的なお勘定ではなく、一応、明細があることはある。いろいろと細かいチャージに分類されており、ボーイチャージなる科目もある。

黒服さんに愛想良くされたり、トイレの空きを確認してもらう作業もボーイチャージの一環だ!?。まあ、そういう無粋な話をしても仕方がない。そちら方面のシステムにあまり詳しくなるのも夢がないから、アホヅラしてボーっと飲むことにしている。

話がそれた。食事の話だった。おでん、焼鳥といったファーストフード系も銀座には名店が多い。


私が好きな「おぐ羅」も銀座ならではの店だろう。銀座以外では成り立たない店という言い方も出来る。客席が丸椅子の店としては客単価は相当高い。

それでも、今の季節は予約しないと入れないのが普通だ。日本酒も焼酎も種類はなく、奇をてらった料理があるわけではない。それでも、錫のやかんで燗付けをする日本酒は抜群にウマいし、料理も間違いない水準。

六本木や麻布方面の空気とは違う「銀座の濃い空気」に満ちている独特な空間は、はまる人にははまる。

この冬もまた、予約しないで訪ねていって何度も玉砕するんだろうと思う。


最後の画像は、おぐ羅の「だし茶漬け」。四の五の言わずに無言でかっ込む逸品だ。死ぬ直前に何か喰いたいかと聞かれたら、これを選ぶかも知れない。