2018年7月30日月曜日

地味メシ 茶色い食べ物


インスタ映えの向こうをはって最近では「#地味ごはん」、「#地味メシ」といったジャンルが注目されているそうだ。

ゴージャスでキラキラした?食べ物画像の見せ合いに飽きた若者の間で“渋いメシ”にスポットが当たっているわけだ。

何事もハヤリものには反動が来る。「インスタ萎え」という言葉が定着したのも同じような心理だ。いわば当然の帰結だろう。

さて、地味メシである。中高年のオジサン達にとっては得意分野!である。主戦場だ。

ヒジキやきんぴらゴボウをお供に従えるサバの味噌煮定食なんかが王道である。

モツ煮に焼きトン、冷や奴に枝豆、厚揚げ豆腐、納豆、ゲソ焼き、コロッケにハムカツ等々、言ってみれば居酒屋で定番になっているようなものが地味メシの代表格だろう。


気付いたのだが、地味メシの多くが茶色い。彩りが鮮やかじゃないからこそ地味なんだから、茶色い面々が中心になるのは必然だ。

世の中のオジサン達は茶色いものに魅力を感じているのかも知れない。いわば“茶色グルメ道”である。

揚げ物が茶色だからそう思うのかと思ったが、肉じゃがやチャーシューやカレーや焼きそばや醬油ラーメンだって茶色い。卵料理だって味が濃ければ茶色っぽくなる。

トーストや焼肉やほうじ茶や紅茶、みたらし団子やホットケーキやおいなりさんも茶色い。

更に言えばキャラメルやきなこだって茶色だ。

だんだん強引になってきた・・・・。


先日、銀座のおでん屋さん「おぐ羅」に出かけた。体重調整したいけど、酒はしっかり飲みたいという時に重宝するのがおでんだ。

この日は茶色グルメ道についてボンヤリ考えながら飲んでいたのだが、ふと気付けば目の前にあったのも茶色系である。

ぎんなんは別として、しいたけ、ぜんまいは茶色そのものだ。これぞ“地味メシ”の究極かもしれない。時代の最先端を駆け抜けているような気がした。


銀座のオネエサンから暑中見舞いカードを兼ねて謎の紙細工が届いた。ウナギの蒲焼きである。

ちょちょっと組み立てて完成。デスクに飾ってみたが意味不明である。でもこの茶色が妙にソソる。ついつい眺めてしまう。

私が愛するウナギは茶色グルメ業界における横綱級の存在だ。いや、茶色業界における神と呼んでもいい。

誰もが普段から何気なく茶色い食べ物を口にしている。茶色はウマいという公式に気付かないでいることは残念だ。

もし、ウナギや焼鳥、とんかつや味噌汁といった逸品達が違う色だったと想像するだけで恐怖だ。緑色や紫色だったらちっとも食欲をそそらない。茶色サマサマである。

茶色の偉大さを改めて国民みんなで認識したい。カツ丼の上にグリーンピースを載せたり、ビーフシチューの中にニンジンを投入するといった余計な小細工も禁止したほうがいいと思う。

あれはパッと見の彩りだけが目的だ。いわば、茶色への冒涜である。まあ、これについては野菜嫌いの私の個人的主張です。


最後に紹介するのは究極の茶色だ。昔なつかしの「あんずボー」である。このところ職場に常備して冷凍保存してもらっている。

暑い日の午後、仕事をさぼって会議室でひとり、これをチューチューすするのが私の楽しみである。

茶色スイーツ業界の片隅で昭和の昔からひっそり生き抜いてきた「あんずボー」である。もはや神々しい存在だ。

2018年7月27日金曜日

甘口評価 スペイン料理


美味しい、マズいという感覚は人それぞれだ。自分の好みだけですべてを分かったように語るのは愚かだと思う。

とかいいながら、このブログでもしょっちゅうウマいのマズいのと好き勝手に書いている。私がいっぱしの「味が分かる人」だと誤解を生じさせているとしたら大間違いだ。

先日、娘から的確な指摘を受けた。「パパは旅先で食べるモノにはやたら甘いわよね」。確かに旅行先で食べるモノは何でもかんでも美味しく感じる。

ここ数年、娘と二人旅をするのが恒例になっている。今年のフランス・イタリアをはじめ、タイや香港などにも出かけた。先日会った時に思い出話を語り合っていた際に「旅先での大甘評価」を指摘されたわけだ。

娘にとっては、ちっともウマいと感じなかった料理は結構あるらしい。イタリアで食べたいくつかのパスタ、香港で食べたラーメンも父親である私だけが常に大興奮状態でワッシワッシむさぼっていたらしい。

悔しいけど、ちょっと認める。私にそういう傾向があるのは確かだ。気分一つで大してウマくもないものを絶品に感じる変な感覚がある。

たぶん、一人旅マニアとしての一種の自己防衛だと思う。

一人でアチコチ旅をするのが若い頃から好きだったせいで、随分と変なモノも食べてきた。大ハズレも何度も経験した。

一人の場合、全責任はそれを選んだ私にある。敗北感バリバリだ。それを認めたくないばかりに“個性的な味”を旅情というスパイスでごまかして強引にウマいと思い込ませてきた。

世界中どこに行っても、食い意地が張っている私はその土地ならではのモノを食べたがる。毎日毎食、土地の料理を食べたがる。あれは旅の高揚感がもたらす行動だ。

おまけにほとんどの場合、そうした現地メシをウマいウマいと興奮しながら食べる。一種の思い込みだろう。

その証拠に、日本にいる時はそうした各国料理を食べることは滅多にない。ホントにウマかったのならマメに食べに行けばよそうなものだが、ほとんど行かない。

寿司と焼鳥とウナギとニッポンの洋食と冷やし中華があればコト足りる。そんなものである。




先日、ひょんなことからスペイン料理を食べに出かけた。銀座7丁目にある「スペンクラブ」がその店。

何度か旅行に行ったこともあり、スペインのことは大好きである。またすぐにでも行きたいぐらいだ。メシもウマい。カヴァも安くてウマい。

でも、日本にいるときにスペイン料理屋に行く機会は滅多にない。ここ5年近く行ってないかもしれない。ホントにスペイン料理が好きなのか怪しいものである。

アヒージョもアンチョビも確かに美味しい。カヴァがグビグビ進む。上の画像のガリシア風ゆでダコ、特選豚の生ハムもバッチリである。



ふと、娘に言われたことを思いだし、ホントにウマいと思っているのか冷静に自分に問いかけてみた。

マズくはないのだが、どうやらスペイン旅行の思い出が頭に浮かび、それを話題に楽しく飲んでいるから美味しく感じているような気がしてきた。

余計な自問自答などしなければ良かった。アンチョビだったら塩辛、タコなら酢ダコ、豚なら豚しゃぶのほうが食べたかったなあと無意味な邪念が頭に浮かぶ。


フィデウアである。ショートパスタを使ったパエリアだが、向こうではポピュラーなのに、日本ではあまり知られていない。

現地では乾麺の細めのパスタをバリバリと適当な長さに折ってパエリア鍋にぶち込んで作る。ところが、この日食べたのはマカロニである。

ショートパスタといえばショートパスタだが、私のイメージとはちょっと違う。とはいえ、味付けがとても良かったのでペロペロ食べた。

でも、マカロニを見た瞬間、ニッポンの洋食屋さんでベシャメルソースのマカロニグラタンを食べたくなってしまった私だ。

同席の人にはいっぱしの顔でスペインの食べ物を語っておきながら、頭の中ではそんなアマノジャッキーな感覚で過ごしていた。

いつもエラそうに食べ物の話を書いてしまうが、私の味覚の実態は結局そんなものである。

2018年7月25日水曜日

セックス世代


暑くてしょうがないから、今日はアホみたいな話を書こうと思う。

「セックス」という言葉が表だって使われなくなって久しい。「エッチ」という言葉が主流になったことがきっかけだろう。

私が思春期の頃は、セックスという言葉はまだ普通だった。「あいつ、セックスしたらしいぜ」みたいに使われていた。

今になると妙に新鮮な感じがする。生々しい感じが際立つ。そのせいで「セックス」という言葉自体が一種の禁句みたいになってしまった。

セックスレスのことを単に「レス」と呼んだり、遊び相手を「セフレ」と呼ぶのも「セックス」という言葉を口にしたくない心理のせいだ。たぶん。

「エッチ」という言葉に変わっていったのも、きっとセックスという言葉の響きが生々しいからだろう。

私が子どもの頃、エッチという言葉は「スケベ」とか「いやらしい」といったニュアンスの形容詞的な位置付けだった。「そんなエッチなこと言わないで」みたいな使われ方だ。

行為そのものを意味するようになったのは80年代に入ってからだそうだ。結構最近の話である。テレビの影響などで一気に広まったらしい。



ちなみに「エッチ」の語源が「変態」だと知ったのはつい最近だ。ローマ字綴りの最初のHがルーツだとか。世の中、まだまだ知らないことがたくさんある。もっと勉強しないといけない。

「エッチした」「エッチする」という言い回しは「セックスする」「セックスした」よりも軽やかだ。重々しさがない。

でも、個人的にはなんとなく使いにくい。セックスという言葉に正面から向き合ってきた、いわば「セックス世代」の私としては「エッチ」だと若者言葉を使っているような違和感がある。

とかいいながら、女性相手に時には「エッチさせて~」という安っぽい軽口を叩いてしまう。「セックスさせて~」とは言えない。

セックス世代とはいえ、セックスという言葉を口に出すことがどこか恥ずかしいのだろう。

いやあ、それにしても、さっきからセックス、セックスと書きまくっているのが無性に楽しい。変な解放感を味わっている。セックス万歳である!

話がそれた。

もともと、日本では「同衾」「房事」などがセックスを意味する言葉だった。前者は同じふとんに入ることで、後者は寝室を「閨房」と呼んでいたことに由来する。

他にも「まぐわう」「情交」などもある。情交という言葉は実に色っぽい。「情を交わす」わけだ。同じ「情」でも愛情なのか欲情なのかで雰囲気が変わる。良い言葉だ。

「抱く、抱かれる」「身体を重ねる」「肌を重ねる」あたりも素敵だ。昭和歌謡の世界みたいでカッチョ良い。

あちらこちらで「ねえねえ、交尾しようよ」と囁いている私としては、「キミと肌を重ねたい」などと気の利いた言葉を使えるようになりたい。

セックスでは直球すぎる、エッチでは軽すぎるとなると、やはりイマドキのネットスラングに注目だ。

「セクース」、「セクロス」、「セックル」。いずれもネットに飛び交うそれを意味する言葉だ。どれも語感が良い。こういうのを開発する人は立派である。

「セックル」なんて特に良い。なんとなく「タックル」を連想する。勢い込んだ男の奮闘ぶりが垣間見えるようだ。

それにしても、セックスのことばかり必死に書き殴っている自分の精神状態が心配だ。やはり異常な暑さは人を狂わせるのだろう。

セックス万歳である。

2018年7月23日月曜日

蒸すか、蒸さないか

ウナギの価格高騰が深刻だ。先日訪ねた某老舗店では一番高い鰻重が9千円になっていた。9千円である。さすがに度を超している。

普通の専門店の「並」でも4千円ぐらいが珍しくなくなった。もはやハレの日といえども家族連れが食べに行くのは厳しいレベルだ。

一方で、スーパーやファストフード店では外国産の手ごろなウナギがバンバン売られている。先日のニュースでは、価格が高騰した国産ウナギは逆に余り気味だという話が紹介されていた。

言ってみれば、昔ながらの仕事をする真っ当な専門店が厳しい立場におかれているわけだ。大げさに言えばウナギ文化の危機である。

私はウナギが物凄く好きだ。ウナギ不足が深刻化する中、しょっちゅう食べていることにチョッピリ罪悪感があった。でも、専門店で食べることが文化を守ることになるなら今まで以上にモリモリ食べようと思う。

つい最近、3日連続でウナギを食べた。連休だった日の夜、二晩続けて出前のウナギを食べ、その翌日はとある店に出かけた。

変人みたいだ。夏バテ対策のつもりだったのだが単なる食べ過ぎである。

根っからの東京人である私にとってウナギといえば「蒸し」は当然である。関西風の蒸さないウナギはしっくり来ない。ウンチク以前に慣れ親しんだ味のほうがウマく感じる。


とはいえ、時々は気まぐれで蒸さないウナギを食べる。3日連続でウナギを食べた3日目がその日だった。出かけたのは池袋のお隣の大塚にある「三浦屋」。

渋い街・大塚には昔ながらのウナギ専門店もあるのだが、こちらの店は冬はふぐやアンコウがメインになる店。

いろんなモノを出す店にウマい店は少ないのが世の常?だが、ここはそれぞれの食べ物がキチンとしていて使い勝手が良い。一品料理も多く店内も綺麗でサービスもしっかりしているオトナ向きの店だ。

夏場はウナギ中心になるが、蒸さないウナギをウリにしている。白焼きも独特な食感だ。


サク、パリッとした食感の次にジュワッとウナギのウマ味が広がる。わさび醤油も良いが、塩で食べても美味しい。

前日、前々日と“フワ・トロ系”のウナギを食べていたから、これはこれで新鮮だ。


キモ焼も頼んでグビグビと酒を飲む。出前の鰻重を食べるのと、店で飲みながら食べるのとでは別次元の楽しさがある。

ウナギの風味は他の食べ物に比べても唯一無二のものだと思う。白焼きも蒲焼きもウナギならではの独特な香りやウマ味がある。

ゆっくりじっくり味わって口中をウナギ風味で満たし、飲み込んだ瞬間に酒を流し込む。二つの風味が一瞬混ざり合うことで得も言われぬ快感が押し寄せる。

書いているだけでウナギが食べたくなる。


鰻重も口に入れたとき、すなわち”ファーストアタック”はカリッとした食感だが、すぐにジュンワリとした鰻味が広がってくる。

蒸す、蒸さないに関係なくウナギはウマい。そう言っちゃうとオチも何もない感じである。好みの問題ということにしておこう。

でも、私は東京の人間だし、保守的なせいで老舗の仕事を闇雲に崇拝する傾向がある。だから断然「蒸し」のほうが好きだ。

蒸さないウナギは5回に1回ぐらいならいいかもしれない。いや、10回に1回ぐらいなら四の五の言わずに楽しく食べられると思う。

結局は「蒸し」が好きだという結論である。

2018年7月20日金曜日

銀座のミニクラブ


一口に銀座のクラブといってもその内容は様々だ。そもそも「クラブ」の定義が何となくあやふやだ。


世の中でアーだコーだと取り沙汰されるのは、いわゆる高級クラブというジャンルだ。ではそれ以外は「低級」かというと、一概にそうとも言えない。

ミニクラブとかラウンジ、サロンみたいな比較的手頃な店もたくさんある。あの街全体で考えればそっちの方が多いかもしれない。

お値段的には高級クラブの半額程度かそれよりも手軽な感じだろうか。ボトルが入っていればキャバクラのような値段といったところか。

呼び名はさまざまだが、ここでは便宜上ミニクラブと呼ぶことにする。

ミニクラブにもそれなりの良さはある。銀座という場所柄のせいで、極端にガサツな店は少ない。といって、堅苦しい感じでもなく、馴染みになればホゲホゲと過ごせる。

カラオケがある店も多い。お客さんの年齢層が高いからヨソの席から聞こえてくるのは裕次郎あたりの昭和ムード歌謡だ。そんなマッタリ感が心地良い。

多くの店のママさんが銀座の高級クラブでホステスさんを長く経験した人。必然的に銀座のカラーを踏襲しているから、ボーイさんやオネエサン達もヤンキーっぽい顔ぶれは少ない。

お客さんも高級クラブでこれみよがしにふんぞり返っている成金趣味みたいな御仁は見かけない。値段がお手軽な分、逆にそういうトンチキは来ないわけだ。


実際のところ、銀座の夜を支えているのはこういうミニクラブが中心なんだろう。すべてがすべて高級クラブだったら、毎夜毎夜あんなに街が賑わうはずもない。

私自身、以前から馴染みのミニクラブがいくつかある。10年ぐらい前から時々顔を出す店もある。若いホステスさんが一念発起して始めた店もある。高級クラブから戦力外通告された女性陣が集うような店もある。

私がボーカルのバンドライブに毎年欠かさず来てくれるオバサマトリオが奮戦している店もある。その店にはライブの2,3か月前に思い出したように顔を出して無理やりチケットを押しつけに行くぐらいだが、もう長い付き合いになる。

ミニクラブに出かける男の心理は、高級クラブに行くときとは微妙に違うと思う。端的に言えば「止まり木感覚」だろう。

大事な接待だったり、何となく見栄を張ったり、女性目当てだったりするのが高級クラブだとしたら、ミニクラブは止まり木だ。

見栄を張るような世界でもないし、女性に関しても高級クラブとは“異質”な世界である。

私が年に3回ほど寄り道する某ミニクラブがある。顔面偏差値的にはかなり独特?な女性しかいないのだが、妙な愛嬌の良さがあるので、気付けばワイワイと楽しく飲んでいる。

謎の世界である。おそらく遊びや飲みの場面にもオンとオフがあり、高級クラブに繰り出す時は「オンの飲み」、ミニクラブに行く時は「オフの飲み」なんだろう。

30代の頃、まだ若者だったので高級クラブに行っても“アウェー感”が強かった。背伸びして疲れちゃったりすると、ミニクラブに飲み直しに行って安息感に浸ったりしていた。あれはまさしく「オフの飲み」だった。

高級クラブではない、キャバクラでもない、バーでもない、居酒屋でもなければスナックとも違う。そう書いてみるとまったく謎めいた感じだが、そんな掴み所のない感じがミニクラブの存在意義なんだと思う。

2018年7月18日水曜日

ハンバーガーの今昔


ハンバーガーといえばマクドナルド。1960年代生まれの人間にとってはそれが基本みたいな意識がある。

ビッグマックはともかく、基本のハンバーガーは正直言って随分とショボい。スカスカ感とでも言おうか。迫力は皆無だ。

今の時代はウェイウェイした?ハンバーガーがそこら中にある。マックの普通のバーガーはさすがにショボい。でも、その昔はあれがハンバーガーの基本形だった。

大げさに言えば、日本人が初めて知ったハンバーガーがマックのアレだった。いまや古典芸能みたいな独特な存在といっても良い。


先日、「クアアイナ」のハンバーガーを食べた。ハワイ発祥のウマいハンバーガーだが、今や現地に2店しかないのに日本には青山にある1号店を筆頭に30店もあるらしい。

30年近く前、ハワイに出かけた際に、現地で既に人気を集めていたノースショア・ハレイワのクアアイナを訪ねた。私がまだ20代の頃だった。

ワイキキを離れてノースまでドライブするのが通っぽい気がして、おまけに現地で人気のハンバーガーショップに繰り出すのは、どことなく「片岡義男」の世界みたいな楽しさがあった。

あの時、ボリュームタップリのハンバーガーにむしゃぶりついて感激した記憶は今も鮮明だ。

でも、クアアイナは今や丸ビルやスカイツリーの中にもあるし、渋谷にもお茶の水にも、ましてや池袋にまである。

なんとも言えない・・・。

まあ、ウマいものが広まるのは良いことだ。いずれにせよ「アメリカ人が食べている本気のハンバーガー」。そんなジャンルが一般化するうえでクアアイナの功績は大きかったと思う。

今でこそ“本気バーガー”を出す店は日本でも珍しくないが、当時は海外に行かないとなかなかお目にかかれなかった。

今、私が若者だったら、きっと毎日のように都内各地で迫力満点バーガーにかぶりついているはずだ。

マックやロッテリア、サンテオレぐらいしかなかった時代に若者だったから、なんとかアメリカンデブみたいな体型にならずに済んだのだろう。


そういえば、ウェンディーズが日本に上陸したのは私が15歳の頃だった。マックが標準だった若者にはかなりの衝撃だった。肉質がジューシーで食べ応えがあって、ちょっと高価な点もオシャレだと感じた。

四角い肉を2枚重ねたハンバーガーに付け合わせでチリビーンズを頼んだりして、「マックとは違うわい!」と喜んでいた。

その後、ウェンディーズは運営母体が何度も変わり、今はファーストキッチンに糾合されてよく分からない形態で営業中だ。ちょっぴり淋しい。

子どもの頃、アニメの「ポパイ」に出ていたハンバーガーおじさんに妙に惹かれた。思えばあれがハンバーガーに魅せられた原点かも知れない。


ほうれん草をワシワシ食べる悪趣味なポパイよりもあのオッサンが気になった。ハンバーガーがとてつもないご馳走に思えた。

調べてみたらオッサンはウィンピーという名の脇役だそうで、なんと昭和50年代にはその名も「ウィンピー」というハンバーガーチェーンが日本にもあったらしい。

食べ盛りの頃にそんな魅惑的な店があったことに気付かなかったのは残念だ。

なんだか今日は思い出話に終始してしまった。

実用情報を一つ。私がオススメするハンバーガーショップが本郷三丁目にある「ファイヤーハウス」だ。

https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131004/13003538/

どれもウマいが「アボカトバーガー」が最近の私のお気に入りだ。

結構古い店なのだが、私が知ったのは3年ほど前である。3つも4つも食べられた10年前に知らなくて良かったと思う。

ちなみ、私が一度で食べた最高記録は中学生の頃、マクドナルドでビッグマック2つを含む合計9個である。

若さとはつくづく恐ろしい。

2018年7月13日金曜日

特打、水風呂、映画、美術館


それにしても暑い。死んじゃう人がいるのも分かる。少し歩いただけでフラフラする。

私はデブだから汗っかきだ。必然的にクーラーをバンバン稼働させる。しかし、汗ばんだ身体がクーラーで冷やされるとダルくなってしまう。デブの悪循環である。

昔よりもクーラーが苦手になりつつある。なんだかオジイサンみたいだが、長い時間クーラーが効いた部屋にいると、外に出た時に妙にホッとする。ワガママなものである。

夏になると私の変態趣味が始まる。バッティングセンターである。自分でもバカだと思うが、暑い日にバッティングセンターで必死に打ち込むのが楽しい。


家を出る前に水風呂を溜めておく。炎天下の中、自宅から30分ほど歩いた所にあるバッティングセンターに向かう。到着した段階で汗ダラダラだ。

調子の悪い時で100球、やる気満々な時は200球ほど打ち込む。しっかりボールを見極めるためにメガネを持参してバッティンググローブまで用意する。

打ち終わった後はしばし放心状態である。そのM的なヘトヘト感が一種の快感だ。廃人のような顔で休憩したあとは、ぐだぐだなゾンビのような姿で歩いて帰宅。そして水風呂にドボンである。

水風呂に浸かりながら、週刊誌やコンビニコミックの「黄昏流星群」を読む。至福の時間だ。そのうち、さすがに寒くなってくるから風呂温度を普通に戻して追い炊き。

結果、冷浴と温浴を繰り返したような爽快な気分になる。総仕上げは風呂上がりのビールだ。一人暮らしならではのバカげた楽しみである。

暑いときの独り者の楽しみとしては映画も捨てがたい。キャラメルポップコーンを頬張りながら誰に気兼ねすることなく過ごす時間も魅力的だ。


最近では絶賛上映中の「万引き家族」や役所広司主演のヤクザ映画「孤狼の血」を観た。映画の感想はどちらも「普通」だった。

それはさておき、イマドキの映画館の進化が印象的だった。音響が良くなっていることに感心したが、肝心の座席も昔とは比べものにならない。

上の画像は日比谷にできたミッドタウンの中の映画館にあるプレミア席だ。千円追加するとこんなラクチンシートで過ごせる。千円で富豪気分が味わえるからオススメだ。

これこそ「おひとりさま」仕様だろう。隣席との間隔が開きすぎているからデート向きではない。

映画館といえば、暗がりの中で横に座る連れの女性の膝や太腿に手を伸ばそうとするのが紳士のマナーだが、こういう座席だと手を伸ばそうにも届かない。映画に集中するにはとても良い環境である。


先日はガラにもなく美術鑑賞にも出かけた。ギンギンギラギラと太陽が照りつける今の季節は、まぶしすぎる太陽光のせいで眼も疲れてしまう。

美術館の静けさと適切な照明の中に身を置くと気分がリセットされるような感覚になる。

バッティングセンターはもちろん、映画も美術館もすべて「おひとりさま」行動である。なんだか友達のいない淋しい人みたいな行動パターンだが、これはこれで私にとって充電の時間だ。

まあ、そんな気取ったことばかり言っていると、まっとうな恋愛なんかに無縁な人になっちゃいそうでチョット心配だ。

2018年7月11日水曜日

増え続けるサプリ


このブログを書き始めた頃は40歳そこそこだった。10年以上が過ぎて、健康への意識はそれなりに変わってきた。

なーんにも考えずに済んだ若い頃って、いま思えば極楽だった。その頃はその有り難さに気付かないわけだから随分とモッタイない話である。


この10年で気付けばすっかりサプリ愛好家になってしまった。効果はよく分からない。気休めかもしれない。でも「病は気から」である。

最近ラインナップに加わったのが「精製ナットウ菌培養物」である。週刊誌で読んだ「医者が飲んでるサプリ」みたいな特集に安易に影響されて飲み始めた。

血液サラサラ系である。脳血管がつまりそうな人には予防効果があるとか。信じる者は救われる的な精神でしばらく飲んでみようと思う。


大ヒット商品の「えんきん」も2か月前ぐらいから飲み始めた。目がかすむ、ピントが合いにくいといった症状を改善するらしい。

わがオジサマバンドのメンバーである医薬品メーカー男は「気のせいだ」と素っ気ないことを言う。実につまらない男だ。

で、2か月使ってみた私の率直な感想は「効き目アリ」である。否定派の人々はプラセボ効果だなんだとブツブツ言うのだろうが、私自身は気に入った。しばらく飲み続けようと思う。

レギュラー陣であるセサミン、DHA、プロポリス、ビタミンC、リジンといったサプリに加えて上の二つが追加されたわけだから、すっかり健康オタクみたいである。

おまけに飲み合わせを考えて、ある程度別々に飲むようにしているから、その都度ちゃんと水も摂取できる。

水分不足で尿管結石になった経験がある私にとっては水も大事である。あの七転八倒はもうこりごりである。

10年ぐらい飲んでいる青汁も継続中だ。粉末状の商品を水に溶かす“製作作業”を会社の女性社員にお願いしている関係で平日しか飲まなかったのだが、これも最近になって改善した。


週末もサボらないように自宅用に飲みきりサイズの青汁を常備するようになった。普段飲んでいるものより美味しいから身体に良いのかどうか不安である。

なんだかこんな事を書いていると、健康管理の見本みたいだが、すべては「野菜を食べずに生きていく」ことが目的である。

日常の暮らしの中で摂取できる野菜なんてたかが知れている。必要な栄養素を摂るには尋常じゃない量を食べる必要がある。

マズいものを大量に食べるほど切ないことはない。そんな奇特な人になどなりたくない。

メインの料理に添えられる付け合わせの野菜なんて彩りのためだけに存在する。1年365日、あれを毎回毎回100%残しても、私が摂取している青汁とサプリで充分にカバーしてお釣りがくる。

根拠はないけどきっとそうだ。

50年以上にわたって野菜を親の仇みたいに思って生きてきた私だが、ここ数年、飲み屋さんで冷やしトマトや水茄子の浅漬けを自ら注文してしまうことがある。



正直に言うと、何かを裏切ってしまったような複雑な気分になる。鬼畜のように口汚く罵っていた相手に急にすり寄るような居心地の悪さを感じる。

でも、この季節、こんなものが結構ウマい。マカロニサラダを「サラダ」だと信じて疑わなかった30年前に比べれば人として少しは進歩したのかもしれない。

2018年7月9日月曜日

大学無償化を考えてみた


今日は少し固い話を書きます。

子育て世代以外には関心が薄い政策が、いわゆる大学無償化だ。政府が閣議決定した「骨太方針」に盛り込まれたものだが、年収380万円未満の世帯の教育費を支援する仕組みだ。

住民税非課税世帯(標準世帯で年収270万円未満)であれば、国立大の授業料、入学金は全額免除、私立大でも一定額までが免除される。

年収300万円未満の場合は、非課税世帯の3分の2、年収300万~380万円未満は3分の1の支援が受けられるという3段階の支援策になっている。

大学無償化は、昨年の衆院選で安倍自民党がとって付けたように公約に掲げた政策だ。「人づくり革命」の一環という位置付け。

貧困の連鎖や格差の固定化という世相のなか、意欲のある若者に高等教育を受けさせることは国の将来にとって重要だ。その点に異議はない。お説ごもっともである。

「貧しい家庭の子にも高等教育を!」と言われれば反対の声は起きにくい。いわば“総論賛成”が世の中の空気だ。かといって、“各論”の部分となると問題は山積みなのが現実。

年収380万円を境に支援に壁が生まれる問題は大きい。ボーダーラインを少し超えるような年収の世帯からすれば、支援のカヤの外になるわけだから不公平感は大きい。

また、無償化される世帯の学生に支給される奨学金の在り方にも疑問が残る。学業に専念できるようにとの趣旨で、一般的な生活費まで手当てされる見込みだが、予定されているのは給付型奨学金。すなわち返済不要のカネだ。かなりの厚遇だと思う。

生活まで面倒みてもらえるのは年収270万未満の世帯の学生だが、この特典を受けられるかどうかギリギリの年収水準の家庭なら、あえて稼ごうと頑張らずに低い収入を維持するほうがトクだと考えるのが普通だ。

乱暴な言い方かもしれないが、勤労意欲、労働意欲を削ぐ話になりかねない。まあ、そこまで言うと批判したいがための書きぶりになってしまうのだが。

支援される学生は勤勉でいてもらわなければ困るが、その点は厳格な成績チェックなどが実施されるらしい。ただ、あくまで大学側のサジ加減という危惧も否定できない。

学生不足に直面する大学のなかには、せっかく入学した生徒に脱落されたら商売あがったりという考え方をするところも出てくるかもしれない。

少なくとも「税金の使われ方を厳密にチェックする」という意識を営利を追求する民間の大学に持たせることは簡単ではないはずだ。

生活保護の例を持ち出すまでもなく、給付金的な支援制度にはインチキがついてまわる。残念ながらそれが現実だ。

支援を受ける当人がインチキを企むだけでなく、運営する側のチェックがズサンであれば、いとも簡単に莫大な税金が無駄になる。

エラそうに書いているくせに対案があるわけではない。ただ、既にここで書いたような問題点は各方面からも指摘されている。頭脳明晰な官僚ならムダ抑止の観点から二重、三重のチェック機能や実効性の上がる制度の骨子を固められるはずである。

これまでの議論は世帯年収ありきで進んできたように思えてならない。それでは「働くのがイヤだから大学に行く」というモラトリアムな若者を増やしかねない。

あくまで学生本人の就学意欲の判定を明確にルール化することが大前提だろう。その上で世帯年収に応じた段階的な支援制度を作り、結果的に無償になる世帯も出てくるのが筋の通った話だ。

奨学金に関しても成績に応じた内容にするのが当然。画一的に返還不要にするという発想は単なるバラマキだろう。

「安倍総理の肝いりだから」。今後法案作りに励む官僚の人々にこの一点で思考停止されたら困る。そんな忖度で物事を進めたらムダ遣いの温床になりかねない。

しっかり税金を納めている人からすれば、大学無償化問題は「自分には関係のない話」と片付けてしまいがちだ。ただ、制度自体が自分に無関係だろうと、そこに使われるカネは自分達が納めた税金である。安易にコトが進むのはたまったものではない。

2018年7月6日金曜日

死語の世界


♪ダイヤル回して 手をとめた~♪
不倫ソングの決定版「恋に落ちて」の歌詞だ。とてもナイス?な描写だが、若い人にはピンとこないらしい。

昔の電話機を知らない人にとっては「ダイヤルを回す」は死語である。テレビも同じ。「チャンネルを回す」という表現も無くなった。

自分が普通に使っていた言葉が死語になっちゃうのは複雑な気分だ。ジジイ宣告みたいでイヤだ。まあ仕方がない。

籠球 排球 蹴球。これは死語と言えるか微妙だが、すっかり聞かれなくなった。バスケ、バレー、サッカーのことである。

中学生の頃に知った言葉だ。生徒名簿の生徒の名前の横にそれぞれの部活が記載されていたのだが、一文字だけ「籠」とか「排」と書かれていたので意味不明だった。

漢字表記にすると古めかしいイメージだが、見方によっては斬新でカッチョ良くも思える。テニスの「庭球」はどことなく優雅だし、バドミントンの「羽球」も可憐な感じだ。

ちなみにホッケーは「杖球」なんだとか。ちょっと冴えない。ゲートボールみたいなイメージである。ゲートボールを調べてみたら「門球」らしい。直訳やんけ!とツッコミたくなる。

脱線した。死語の話を書こうとしていたんだった。

サッカー用語のオウンゴール、ゴールデンゴール方式は、かつては自殺点、サドンデス(突然死)だったが、縁起が悪いから変更された。

野球の場合、「死球」や「併殺」を今も普通に使う。「デッドボール」とカタカナにするとアチラから来た言葉のようだが、あれも単なる和製英語である。

サッカー業界は国際基準で用語を統一することに神経を使っているようだ。野球よりサッカーのほうがどことなく垢抜けた感じがする理由の一つかもしれない。野球派の私としては少し口惜しい。

スポーツから話をそらす。

「キュロット」が死語になりかけていると聞いた。女子の服のことだ。スカートのように見えてパンチラにならないアレである。今はガウチョとか別の呼び方らしい。

スパッツも今はレギンスと呼ぶのが普通らしい。新しい感じを求めると呼び方まで変わっていくのだろう。

タートルネックを今も「とっくり」と呼んでしまう私からすればついて行けない話だ。まあ、ついて行く必要もないが。

ジーパンなんて死語の最たるものだろう。「ジーパン刑事」を知る世代としては何となく残念な気分だ。ジーンズですら古いらしい。「デニム」。こしょばゆい?響きだ。

チョッキもしかり。ベストならともかく「ジレ」とか呼ばれているのを聞くとチンプンカンプンだ。

ズボンも死語である。パンツと呼ぶのがいつの間にか普通になった。ヘタをすると「ボトム」とか呼ばれている。

私の世代にとってはパンツは下着のイメージだ。ズボンプレッサーをパンツプレッサーとは言わないのだから“ズボンの復権”に期待したい。

他にも最近私が実際に使った言葉で変な反応をされたのが「アベック」と「細君」と「タメ」である。ほぼ死語らしい。

時代がどんどん私を置いてけぼりにするようでチョッピリ切ない。

「今日は半ドンだから、マブいアノコとシャコタン飛ばしてBまでしちゃうぜ。バッチグー!」

海に向かって大声でそんなことを叫んでみたい。

2018年7月4日水曜日

抹茶ティラミス かき氷 モンブラン


近頃のコンビニスイーツはやたらと美味しくてビックリする。あれじゃあ街のケーキ屋さんは商売あがったりだろう。

私はそこそこ「スイーツ男子」である。家でテレビを見ながらお茶と甘味でホゲホゲする時間が大好きだ。

我が家の冷蔵庫には「こしあん」を常備している。小皿にちょろっと盛って小さいスプーンでちろちろ食べながらお茶を飲むのが最高だ。ヘタなお菓子より単なるこしあんをストレートで食べる方が間違いがない。

さて、先日、頂き物のお菓子をやたらと気に入って自分でも取り寄せてみた。その名も「備前焼みるく饅頭」である。


さほどポピュラーではないらしく、ネットで探すのに少し手こずった。白あんとジャージー牛乳の風味が絶妙に混ざり合って食感もしっとり。絶品である。

甘味が好きとはいえ、わざわざそのためにどこかに出向くほどのマメさはない。でも、女子高生の娘にせがまれると喜んでアチコチに出かける。

先日は入間まで出かけた。埼玉の向こうの方である。アウトレットパークで父親にあれこれ買わせたい娘が、パーク内のスイーツ屋にもあたりをつけていたようで「抹茶館」という店で甘味ざんまい。

京都で人気を集めている店の関東初出店だとか。枡に入った宇治抹茶ティラミスが名物らしい。



甘さ控えめで品のある味わいだった。正直言えば私はもっと下品に甘い方が好きかもしれない。そこは好みの問題だ。日々、いろんなスイーツを食べている女性には上品さが斬新なんだろう。

別な日、学校が早く終わったという娘から「かき氷が食べたいから付き合え」との指令が下る。私の職場から遠くない目白にある甘味処「志むら」が目的地だ。

午後のひととき、仕事をさぼって娘と合流する。この店のかき氷は昔から地元で有名だったのだが、近年はSNSやメディアのせいで簡単には入れないほどの人気店になってしまった。


期間限定の「つぶつぶ夏みかん」である。いやはや素晴らしい。酸味を中和するために氷の中には適量の練乳が潜んでいた。絶妙だった。

黒蜜きなこ味などの私が好きなかき氷も捨てがたいが、期間限定だとついついレア感に誘われてしまう。

この日、娘は「生イチゴ」を頼んだ。他にもメニューにはそそられるラインナップがあったのだが、さすがに氷ばかりを大量には食べられないから2人で2品で我慢する。当たり前か。


さてさて、今の世の中は愛煙家にはツラい状況である。喫茶店なのにタバコが吸えないクソったれみたいな店も珍しくない。

レストランもダメ、路上もダメとなると、食後の一服という私にとっては、呼吸するのと同じぐらい当たり前のことも制限される。

とある日、銀座8丁目のインド料理屋で食事。ああいう強い味を楽しんだ後の一服は欠かせない。でも、タバコを吸える場所がない。

仕方なく銀座通り沿いにある「カフェパウリスタ」に入る。明治時代にルーツを持つ我が国喫茶店業界の大名跡?である。

この近辺で食事した後に立ち寄ることが多いのだが、目的は食後の一服である。単なる喫煙所として使うのは申し訳ないので、いつも甘いモノをオーダーする。


この日はモンブラン。良くも悪くも味は普通である。でもその普通な感じに独特な安心感がある。いわば昔っぽい味だ。

郷愁を誘う感じにすっかりヤラれてしまうようになったが、甘いモノに関しても同じだ。SNS映えみたいなオシャレ~な一品よりもオーソドックスな一品に魅力を感じる。

そんなことを書いていたら無性に「冷やし白玉汁粉」が食べたくなってきた。

2018年7月2日月曜日

高級サムギョプサル 美ら菜苑


サムギョプサルといえば韓国料理の定番だ。味付け肉を焼く一般的な焼肉とは違い、そのまま焼いた豚の三枚肉の厚切りをミソや各種和え物なんかをトッピングしてサンチュやエゴマの葉っぱに巻いて食べるヤツである。

なんだか回りくどい説明になってしまった。

いつのまにか日本にも専門店が増えてきた。私もイマドキのJKである娘にせがまれて何度か出かけている。若者向けの価格帯の店が多いようだ。

一般的に“牛肉一番主義”みたいな風潮があるせいか、豚肉料理といえば大衆路線が大半で高級路線は少数派だ。

牛肉よりも豚肉が好きな私にとっては、1ランク下に位置付けられているような豚肉を取り巻く環境が気の毒で仕方ない。

スペシャルな豚肉はもっと賞賛されて然るべきだと思う。

で、スペシャルな豚肉を出す店に行ってきた。銀座7丁目にある「美ら菜苑」がその店。ありそうでなかった「高級なサムギョプサル」を出す店だ。



この店は、「美らしゃぶ亭」という極上豚しゃぶを出す店の姉妹店である。わが母校の後輩が経営者なのだが、お世辞抜きで抜群にウマい豚しゃぶを出す。何度も使わせてもらっている。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_18.html

この春オープンした「美ら菜苑」はサムギョプサルやポッサム(蒸し豚)などを中心に野菜にもこだわった店。韓国料理と沖縄料理が融合したようなメニューが並ぶ。

店内は高級感があり、ゆったりした個室もいくつもある。サムギョプサルがウリの店なのにゴージャス系という斬新な路線だ。



肝心の肉は沖縄産の銘柄豚をいくつも揃えている。安くはない。1人前3千円~5千円ぐらいだから、高級焼肉屋の牛肉も顔負けである。ただし、甘味、ウマ味たっぷりの極上豚である。

正直、ナムルっぽい具材をトッピングして葉っぱに巻いて食べるのが惜しいぐらいである。まあ、それは野菜嫌いの私の感覚である。

野菜をビュッフェ形式で食べさせるのも特徴だろう。こだわりの野菜が大量に用意されている。肉に混ぜたり巻いたりする野菜はより取り見取りだから女性には刺さるやり方だろう。


サイドメニューもアレコレある。肉ばかりバンバン追加しちゃって破産しそうな場合は、上手にサイドメニューも取り入れるのがオーダーのコツかもしれない。

この日は幻の豚として知られるアグーの肉を使ったギョウザを食べた。マッコリもウマかったし、他にも気になる一品メニューが揃っていた。


「高くてウマいのは当たり前、安くてウマいのがエラい」。これは一つの真理ではあるが、安くてウマい店の多くは、味以外のいろんな面でシャバダバな部分があるのも確かだ。

高くてウマいを単に当然だと片付けるのも短絡的だ。店のしつらえやサービス、くつろげる雰囲気なども含めて納得できれば、大いにアリだと思う。

豚肉1人前だけの値段で大衆酒場に2回行けるなどと計算しているようでは、富豪への道のりは険しい。