2011年5月30日月曜日

浅草

浅草をぶらぶらする機会があった。ディープな街の香りを久しぶりに堪能した。

浅草は私自身のルーツでもある。敬愛する祖父が生まれ育った街であり、幼い頃にはよく連れて行かれた思い出もある。


スカイツリーを今更ながら初めて目撃した。デカくてびっくり。浅草の異型文化財?である「ウン○ビル」も小さく感じる。スカイツリーが巨大なので、あのビルも「ウン○」というより「フン」みたいになった。

今年の春、大阪の通天閣に出かけてディープな世界にウキウキしたのだが、地元の人はあの界隈には行かないらしい。観光客だけだとか。

浅草にもそんなイメージがある。事実、この日も浅草寺に続く仲見世には修学旅行生の集団がうようよいて、あとは外国人観光客がチラホラ。

一歩路地をそれると人出が少ない。賑わう週末との落差を思えば、確かに観光客しか来ない場所みたいだ。

なんかもったいない。東京人こそもっと浅草に目を向けて良い。あのシュールな感じ、タイムスリップした感覚は、ファッションとか流行とは無縁の世界だ。

肩に力が入った地方の人達が東京を舞台に作り出す「最先端」というウサン臭い空気を鬱陶しく思う東京人は多い。そんな東京人がうろつくには浅草の泰然自若な感じが心地よい。ちょっと大袈裟か?

ところで、「東京っぽい場所」って一体どこなんだろう。見る角度で違うが、どちらかといえば、垢抜けない昭和の臭い漂う下町あたりがドンピシャだ。

谷中とか根津あたりの細い路地、夏の夕暮れ、セミの声はヒグラシ。ボロアパートの軒先に吊された風鈴が安っぽく響く。割烹着姿の痩せたお婆さんが不機嫌そうに打ち水、薄汚いブチの猫があくびついでにひと鳴き--。そんな感じだ。

浅草も中心から少し離れるだけで昭和の東京を感じる。たまにぶらつくと飽きない。それにしても、どうして売っている服とか靴のラインナップがああまで独特なんだろう。

歩いている人も見るからに「浅草人」的だったりする。この街にたどり着く前に関所とか国境は通らなかったはずだが、不思議と異界に迷い込んでいる。

靴屋の軒先ではメッシュ系、は虫類系のドテッとした靴が主役、洋服屋さんでは目玉商品のブルゾンの胸に大きな刺繍。その名も「LOIS VERSACE」だ。ヴィトンとベルサーチの合弁企業があるのだろうか。ぜひ「ルイ・ヴェルサーチ」を着てイタリアの街中を闊歩したいものだ。

秀逸だったのは偶然立ち寄ったブロマイド屋さん。そんなカテゴリーの店があること自体が自体が浅草ならではだが、品揃えが確信犯的でシビれた。

AKBとか嵐は皆無。主役級の扱いは現役?バリバリだった当時のジュリーだ。ジャニーズではフォーリーブスばかりが目立つ場所を陣取っている。

時節柄、若き日の長門裕之やキャンディーズが目立つ場所に陳列されている。やっぱり当時のランちゃんは国宝級の可愛さだ。

そのほかは渡哲也、小林旭、美空ひばり、松方弘樹あたりの若かりし頃のブロマイドがニカっと私に笑顔を向けていた。青年然とした桂歌丸とか林家三平なんかもある。水着姿は石田えりだったりする。

桜田淳子サマもしくはランちゃんの笑顔をを購入しようかと思ったが、上半身裸で空手ポーズを決める倉田保昭のブロマイドにたじろいで店を後にする。倉田保昭、日本のドラゴンだ。懐かしい・・。


梅園で一息いれる。不思議と浅草では洋菓子ではなく、和の甘味が欲しくなる。「粟ぜんざい」を注文。アワなんて飢饉の時ぐらいしか食べないが、上質なこしあんと合わさるとクセになる味だ。

その後、隅田川沿いを少し歩く。通り過ぎる水上バスの乗客は例外なくスカイツリーに向かってカメラを向けている。船が揺らした川面の水音になごみ、まだまだ涼しげな風に吹かれてひと時の命の洗濯。肩の力が抜けてホンワリとした気分になる。

街から漂う、力んでいない感じ、達観しちゃったような空気のおかげで、私も何となく「素の状態」になって肩凝りもやわらぐ。

こういう時間は大事だ。健康促進剤みたいで活力の源になる。ありがたい限り。幸せな時間だった。

2011年5月27日金曜日

飲み屋のオヤジ

もう何年も前から知っている飲み屋のオヤジ。年齢は47。家族はいない。恋人もいない。仕事が好きで店もほとんど年中無休。雇われ店長だった店を昨年買取って自分の城にした。

客足は順調。オーナー経営も軌道に乗ってきた。そして今、店をたたむ決意をした。

「世の中に迷惑ばかりかけてきた。人様に助けられてここまで来た。自分が動ける時間はせいぜいあと15年程度。残りの時間は被災地での人助けに使う」。

活字にすると重くなるのだが、本人の口調や様子は実にひょうひょうとしたもの。全然難しく考えていない。純粋にそう思い込んで四の五の考えずに具体的な準備に入った。

被災地で宅配弁当屋から始めるらしい。調理のスタッフから配達の人まで、地元のお年寄りとか仕事が無い人に任せたいそうだ。

ちっとも力んでない。押しつけがましい感じもない。ただ自分がそうしたいという思いを素直に行動に移す。

何もしないで、政府の対応がノロいとか、レンホー大臣の襟がどうだとか言ってる私に比べると、人間としてのステージが違うのだろう。素直に敬服する。

もちろん、だからといって、自分はどうなんだ、自分は何ができるのか、などと一々考えていても仕方ない。人それぞれ置かれた環境や考えは違う。

強いて言えば、自分にできることは、そういう傑物的行動を賞賛して声援することだろう。

それにしても、日本人の人間力というか、精神性って大したものだと思う。ヨソの国は知らないが、きっとわが国には気高い心が根強く染みついているのだろう。よく分からないが、そう思っていた方が楽しい。

映像でしか知らないが、戦争でとことん焼け野原にされたこの国。あんなにコテンパンにやられて、中心的な労働力である若い男性も莫大な人数が死んでしまった。そんな中で10年や20年で国を甦らせちゃった先人達は改めて凄いと思う。

なんか道徳話みたいになっちゃうが、最近つくづくそんなことを思う。冒頭で書いた「近所の飲み屋のオヤジ」みたいな人が、日本中で復興の原動力になったのだろう。

行政がどうだとか、官僚がどうしたとか戦後の奇跡的な復興の立役者は見方によって諸説ある。そんな表層的なことではなく、結局は日本中に存在した「近所の飲み屋のオヤジ」の精神性が根っこにあったことが最大の要因だったのだろう。

そんなことをボケーっと考えていたら、最近どうにも腹が立つテーマを書きたくなった。その役割に首をかしげたくなる消費者庁の存在だ。

消費者庁とは、一昨年秋に鳴り物入りで誕生した新しいお役所。今の時代、役所の肥大化は与野党を問わず絶対悪として認識されている。それにもかかわらず新しい官庁をわざわざ作ったわけだから、さぞ国民のために大活躍する組織なんだろう。

勇ましいかけ声が躍る消費者庁のホームページを覗いてみていただきたい。ふむふむ、「消費者が主役になる安全社会の実現」を目指している。よく分からないが、そういうことだ。平たく言えば消費者目線らしい。

更に言えば「消費者の利益を第一に考える行政の司令塔」なんだそうだ。実に頼もしい。昨今の不穏な状況のなか、消費者の利益は無視されているから頑張ってもらいたい。

さて、同庁ホームページの震災関連情報を見てみよう。いまだにトップ扱いで表示されているのは生活物資の買い占め問題への対応だ。ちょっとズレていないだろうか。


食の安全に関してはどうだろう。3月頃の官房長官発表をなぞるような告知が中心だ。目新しい情報はちっとも見つからない。大臣コメントのどうでもいい一部修正の告知なんかが目立っている。

それ以外には、消費者目線の対極である生産者視点にたつ他の役所へのリンクが目立つ。

何かと怪しげな茶葉の情報は見つからないし、日々、飛散しまくっている放射性物質について消費者の利益につながる情報は皆無だ。不思議で仕方ない。

「消費者の目線で、消費者の利益第一で」を標榜する役所として、現下の状況で「動いている感」は全然感じられない。

ちなみにこのお役所、小さい規模ながらも担当大臣がしっかり付いている。担当大臣はアノ蓮舫サマだ。

蓮舫大臣閣下は、消費者に対して節電を呼びかけていらしたようだが、他に何をしているのだろう。消費者の安全や消費者の利益第一を掲げるなら、放射性物質がふりかけのように飛散する状況に噛みつきまくってもらいたいところだが、そんな話も聞かない。

蓮舫大臣閣下が一躍名をあげたのが税金の無駄遣いを正す「事業仕分け」での勇ましさだ。

せっかくだから現在の消費者庁を事業仕分けしたらどうだろう。津波対策のスーパー堤防にダメ判定を下した人だ。シビアな目で「消費者庁なんて不要」と言いそうな気がする。

2011年5月25日水曜日

接待

社会人になって四半世紀近くが経過したが、営業畑の仕事をしたことがない。だから世の中の営業マン達の営業ならではの感覚やセンスに感心することが多い。

編集というちょっと異質な畑にどっぷり浸かっていると、社会人としての常識からズレてしまうことも少なくない。もっとちゃんとしないといけない。

世の中の職業のうち、トップレベルでお行儀が悪いのが新聞記者連中だろう。専門新聞や中小ローカル紙ではなく、名だたる大新聞の連中がとくに悪い。

インターネットの動画中継のおかげで、連中のガラの悪さが随分と話題を集めるようになった。

東京電力とかの記者会見を動画で全編見てみれば一目瞭然だ。チンピラもビックリ、まさに「何サマ」である。自分達の後ろには何百万人の大衆が付いているんだという奢りが、オトナとして、社会人として異常な言動につながる。

世の中で急速に進む新聞離れの原因が、自分達の傲慢不遜な姿勢にあるという認識が欠如している。ネットにあふれる情報を「信頼性に疑問」だとか言いながら、自らは記者クラブ制度の巧妙な仕組みによる御用報道に励む。

原発問題でも独自の現地調査報道を展開する動きはない。安全神話を醸成するようなムードを煽りながら、一方で自分達の社内ルールでは、原発周辺への立ち入り制限範囲を拡大する。一説によると今では各社とも50キロ圏内には立ち入らないよう自己規制を徹底しているらしい。

エラそうに書いてはいるが、私自身、営業畑の経験がないせいで、ついつい「態度XL」みたいな状態になってしまっていることがある。反省。

接待された翌日、早々にお礼の連絡をすべきなのにモタモタしていて、相手から先に連絡をもらっちゃうようなヘマをしでかす。

接待という日本的な習慣は、ごく一般的な商行為といえるが、接待する側、される側によって、その意識や心構えというか、真剣度合いが随分と異なる。

私の場合、仕事柄接待をする側になるケースがあまりなかった。それに近いとすれば、懇意になった人から有益な情報を聞き出すために一緒に呑みに行くぐらいだ。接待という言葉のイメージよりはフランクな感じだ。

数字が絡んでくる商談的な接待ではないので結構いい加減にワイワイやるだけ。それはそれでこっちは真剣だが、やはり売上に直結する営業系接待に比べればヌルいのは確かだろう。

接待されるケースの方が多いのだが、これにしても相手方が持ち込んだ商談を決済するとかしないとかではない。だからピリピリするようなものでもない。

この話を記事にしてくれ、大きく取り上げてくれ、あっちの勢力を批判する論調の記事を書けないか、アノ話は書かないでもらえないか等々、相手方の求めていることは大きく分ければそういうジャンルだ。

こればかりは是々非々でしかない。記事としての価値があるか否か、読者に有益かどうか、編集の方向性と合致しているか否か、基本的にはそれがすべて。

それ以外に、その場では具体的な要求や希望はないものの、親しく付き合うことで何かの際にはヨロシクというパターンも多い。

こういうパターンはこちらとしても、日頃からの情報交換につながるから有難い話だし、そういう機会はこっちから作る必要もある。

夜の席だと酔うのが困る。ついつい口もなめらかになりがち。さすがの私も余計なことを口走らないか気を使う。一応、ポジションもある。「あの会社はバカがイバっててやがんな」と思われたら困る。そういう緊張感は一応ある。でも、結構そう思われているような気がする。困ったものだ。

20代の頃、社内の急な世代交代によって、どうやっても経験・力量不足のポストに就いた。会合に呼ばれても周囲は2~3世代年上ばかり。あの頃はキツかったし、さっさと年を取りたいというのが偽らざる本音だった。

オッサンぽい身なりを意識したし、オッサンぽい歌もカラオケのレパートリーになった。実に面倒くさかった記憶がある。

若造だとナメてかかるオッサンと激しくケンカもした。まさに若気の至りだが、対個人ではなく、会社の看板を背負って出ていく以上、会社自体がナメられるのは避けねばなるまい。当時はちっとも武器にならない若さがやるせなかった。

気付けば結構なオッサンになり、そういう気負いも無くなった。気負いが無くなりすぎてかえってマズいぐらいだ。年を取るって素晴らしいと本気で思う。

でも、そろそろ年を取りたくないとか思っているわけだから実に図々しい私だ。

先日もかなり年上の御仁に招待されて一席ともにした。最初こそおとなしく殊勝な顔をして座っていたが、ものの5分でとっとと足を崩し、上着を脱ぎ捨て、いつのまにかタバコも吸い出した。しまいにはゲヘヘと笑ってだらだら呑む。

いやはやガラが悪い。こうなると人間性の問題かもしれない。冒頭で散々、行儀がヒドくてガラの悪い連中のことをエラそうに書いたが、どうやら私も似たようなものだ。

日々反省だ。

2011年5月23日月曜日

チキン男

最近、なんとなく臆病風が吹いている。私のことだ。無頼を気取りたいとは思っていても「チキン化」が顕著だ。男として情けない限り。

半裸の美女に迫られているのにナヨナヨと逃げ帰ってしまうような感じだ。ダサ坊だ。性根を鍛え直さないとならない。

こんなことを思ったのは、珍味をめっきり食べていないことが原因だ。過去のこのブログを読み返しても、しょっちゅうしょっちゅう魚卵やキモ類を摂取していたのに、最近はご無沙汰気味だ。

どうも身の回りで痛風発作だとか結石騒動を起こす人が増えた。聞けば聞くほど地獄の苦しみらしい。

ある人が言っていた。「尿道に管を入れられた時より痛かった」。そんな話を聞くだけで弱虫な私は卒倒しそうになる。

尿道に管だ。それだけでも絶対気絶するのに、それよりも痛かったら私は即死する。たぶん。

その手の痛い症状の原因は多分に食生活にあるらしい。魚卵系珍味、キモ系珍味は大敵という位置付けだ。

そんな知識は百も承知だ。私も承知の上で散々食べてきた・それでも重ね重ね具体的な激痛体験談を耳にすると、さすがに脅えてしまう。

いかんいかん。おでん屋のタマゴさえ避けている自分が情けない。

自宅近所に極上の鶏レバ刺しを出す店がある。白レバの刺身なんかを山盛り出してくれる。ニンニクとショウガとワサビを全部醤油に混ぜてトロリとしたエロスを味わうのが楽しみなのだが、その店ですら訪ねる頻度が減った。

レバ刺しを目的に通っているので、臆病風が吹くとついつい足も遠のく。

先日、久しぶりに行ったら、大震災の影響で店を閉じる寸前だったという。東北にあった鶏の仕入れ先が被災したため肝心の鶏がストップしたらしい。

聞くところによると、三陸方面にあったその養鶏業者さんは東京への出荷のため、クルマで移動中に津波で行方不明になったそうだ。

お店では急きょ、九州の別の業者さんから上質な鶏を入手するようになり、「禁断のレバ刺し」も改めて常備された。後味の繊細さが微妙に前とは異なる感じだが、充分エロティックな味。店のオヤジを慰めるためにもバクバク食べた。

「珍味喰い」の本領発揮といったところだが、問題はその後数日間、珍味を敬遠してしまう自分のチキンぶりだ。「連日の珍味喰い」こそが珍味の王道なのにまるでダメだ。


別な日、高田馬場の鮨源でシマエビのタマゴの塩辛風を食べた。最高だ。グイグイと冷酒を飲んだ。やっぱりこうでなくっちゃいけない。軽く炙ったシマエビの身と合わせて「親子珍味」だ。ウヒョウヒョだ。

季節が変わって、カラスミや白子、アンキモ達ともしばしのお別れだ。これからは貝類の肝あたりを攻めねばなるまい。

心を入れ替えてスーパー珍味太郎の道を歩いていこうと決意した。

2011年5月20日金曜日

セックスと刷り込み

知らず知らずに思い込んでいる常識を時々疑いたくなる。身近なところでは、ワカメを食べれば毛が生えるとか、メンソールタバコはEDの原因だとか。根拠も真偽も知らないが、多くの人が思い込んでいる。

もっともらしく整えられた記者会見で政府首脳が語れば、ホントっぽく聞こえるし、難しい顔したキャスターがニュース原稿を読めば、盲目的にそれを信じる。

いちいち疑ってもキリがないが、世の中、「刷り込み」によってコントロールされていることは多い。

ビン・ラディンだって本当は生きているかもしれないし、10年前に既に死亡していたという説もある。米軍の作戦成功を伝えるニュースに証拠映像があったわけでもなく、誰もが一方的な発表を単純に受入れている。

ウィキリークスのアサンジ代表やIMF専務理事のセックススキャンダルにしても、陰謀によるでっち上げだろうが、世界中の何億人もの人が報道を信じる。後日、潔白が証明されても手遅れ。大衆の心理は「アイツは悪者」で固定される。

なんか難しい話になってきそうだから方向転換。

今日、こんな話を書き出したのは、週刊ポストに載っていた「古代ローマ人のセックス」という特集記事のせいだ。

昔の人間の開けっぴろげな性感覚と、それを律するようになってきた社会背景が興味深かった。

現代のセックス事情は、根拠のない常識にとらわれているように思えてきた。

思えば人間だって動物だから本能的に発情する。発情期が決まっていない不便な生き物だから、律するものがなければ、そりゃあそりゃあ乱れる。

古代ローマ人は凄かったらしい。大衆浴場でやりまくりだったそうだし、脱衣用ロッカーには番号ではなく、セックスの体位の絵で区分けされていたとか。子どもも出入りする大衆浴場でそんな感じとは恐れ入る。

実際の行為の方も開けっぴろげで、今で言う変態プレーのオンパレードだったらしい。

その昔、ヨーロッパ旅行の際に、イタリア南部のポンペイ遺跡を見る機会があった。噴火で埋もれた街が発掘調査で復元されているのだが、壁画のスケベさにビックリした記憶がある。

変な体位などを描いたエロ絵がたくさんあった。「それっきゃ考えていない連中」だなあと妙に感心した。私も同じようなものだが。

週刊ポストの特集によると、やはりポンペイ遺跡の壁画は歴史研究の上で重要だったらしい。発見のたびに現地のマジメな学者達は先祖のインモラル指向に衝撃を受けたそうだ。

結局、乱れに乱れた性風俗を律する役割を果たしたのがキリスト教だったというわけ。ハレンチ天国の反省が宗教という禁欲につながっていったのだろう。

幼稚園から高校までキリスト教の学校に通ったのに、キリスト教が苦手な私だ。その理由がようやく分かった気がした。

古代ローマ人は、それこそオーラル方面、お尻方面、同性愛方面などなど何でもあり。キリスト教的な感覚では、それらの楽しいプレーは「子孫を残すための生殖行為」ではないという理由で厳しく戒めた背景があるらしい。

なるほど理屈だ。賛成する気はないが、一応理にかなっている。でも、たとえ夫婦間だろうとコンドームを付けちゃうと生殖行為でなくなるわけだから戒めの対象になるのだろうか。

よくよく考えると「浮気は悪い事」という世界的な常識は、誰の子供だか分かんない子が生まれちゃうからではなかろうか。そうだとすると、逆に完璧な避妊を徹底すれば、悪いことではないという論理になってもおかしくない。どうだろう? だめだろうか。

闇雲に浮気は悪だ、不倫は罪だとか、不特定多数とイタしてはダメという論理は、大衆を統制してきた宗教とか国家によって巧みに刷り込まされた常識なのかもしれない。

もともと男の生理的欲求は純粋に本能的なもの。売春が人類最古の職業と言われている事実がその証拠だし、いまだに売春自体が違法ではない先進国だってある。

冒頭で書いた「常識を疑ってみる」という姿勢は男女の道というか、男女の行為に当てはめると実に奥が深いテーマになる。

なぜ、男が頑張ってそういう場面を作らないといけないのか、「1回ぐらいやらせろ」という絶対成功しない無粋なセリフだって女性が言い出したっていいじゃないか。

どんどん脱線しそうだ。

「公序良俗」とかいう概念も誰が何を基準にしたのかサッパリ分からないし、「わいせつ」の定義だって、昔は考えられなかったヘアヌードの氾濫に象徴されるように時代とともに変わる。

もっとも、曖昧模糊とした公序良俗とかの「常識」がブレーキになって世の中を面白くしてくれているのも確かだ。このあたりは実に微妙だ。

とことん開けっぴろげになってしまったら多分面白くない。男としての修行もなくなってしまう。男を磨く必要もなくなるし、達成感みたいな喜びも消えてしまうだろう。

逆説的に言えば、男として修行する喜びや達成感を味わう楽しみのために、あえて常識とか公序良俗という概念が生まれたのかもしれない。

だとしたら、そういう方向性を築いていった先人達は究極の遊び人かもしれない。ニクいことをする。ゲームだって難易度が上がるほど必死になる。攻略に向けてどんどん熱くなるわけだ。

ちなみに私の場合、インベーダーの時代からゲームが好きではない。どちらかといえば、縁日の射的とか輪投げ程度の攻略ウンヌンを考えないで済む単純な遊びの方が好きだ。だからきっと女性をせっせと攻略するようなマメさに欠けるのだと思う。

結局、うまく口説けないことを「常識」のせいにして、なんとか女性から口説かれる社会が到来しないか願う日々だ。

2011年5月18日水曜日

評論家

先日、某政治評論家とダラダラと飲む機会があった。テレビにも頻繁に出ている御仁なのだが、さすがに今の時期、仕事が大幅に減ってそれなりに大変らしい。

いまどきの売れっ子といえば、原発や地震に関係する学者や専門家が中心。政治評論家の出番はめっきり少なくなった。

銀座あたりの料理屋さんでもよく聞かれるが、ここ数ヶ月、「キャンセルの大津波」という言葉をよく聞く。不謹慎と言われかねないセリフだが、商売上の死活問題ならば当事者にとっては大真面目な言い回しだ。

その評論家氏は、わが社との付き合いは結構古く、わが社の編集姿勢などにも共感を示してくれる。酒の勢いもあって大いに「大上段な話」で盛り上がった。

新橋とかのガード下で天下国家を語るオヤジみたいな時間を過ごしてしまった。

で、最終的なまとめは「政治主導という掛け声は、政治家が税金問題に詳しくなれば簡単に実現する」というもの。

そんな国民運動?を積極的に展開することにする。

その日、わが日本国におけるヅラ疑惑とその真相に関して、いろいろタメになる話を収集した。有意義だった。

評論家という稼業は、それこそ名乗ってしまえばなれる仕事だ。実際には独自のネットワークと情報量、分析力や分かりやすい話術、文才などが必要だが、自分の力ひとつで世の中を渡って行かなければならないから大変だ。

最近のテレビは予算削減の影響で、自前の報道部デスクとか系列新聞社の論説委員をコメンテーターにしている。確かに肩書き的にはもっともだし、それなりに話もできる。何しろギャラの心配がないから好都合だろう。

そうはいっても、しょせんは官製談合記者クラブ制度の中で生きてきた人達であり、身一つでその道を渡ってきたフリーの独立評論家が持っている情報や分析力に一日の長があるのは事実だろう。

芸能評論の世界が象徴的だろう。あの世界はそれこそパパラッチ稼業をいとわず何十年も活動してきたリポーター連中が強さを発揮している。報道機関が自前の社員コメンテーターを立てるのは難しい。

スポーツ方面に目を向けると、さすがに特殊技能を扱うわけだから、評論家になれるのは、その道のOBに限られるのが現状だ。昔は選手出身じゃない名評論家もいたが、いまでは引退選手の互助組織的機能にも見える。

野球解説者と野球評論家の違いを定義付けるのは難しいが、ただの解説ではなく評論レベルに達するためには、内側出身者ばかりではなく、外の人材にも目を向けて然るべきだろう。へたくそでバカみたいな解説者が多すぎる。

デーモン木暮の相撲評論あたりはその道のプロもビックリだろう。星野仙一や長嶋一茂あたりが、したり顔で政治ニュースにコメントするより、よっぽど素晴らしいし奥が深い。あくまでも内部出身者にこだわる現状の思考停止状態が惜しまれる。

さて、今日は何が書きたかったんだろう。最近、どうも行き当たりばったりに書き殴ってしまう。

もともとは、評論家の話をマクラに、自分は何について評論することができるか、どんな分野なら人よりも詳しく語れるのか、というテーマで書く予定だったのにズレっぱなしだ。

私が語れそうなものは、徳利やぐい呑み、珍味類、水中写真、南国リゾート、葉巻や靴、ついでに好色や薄毛対策ぐらいだろうか。どれも評論家を自称するには知識や経験がまだまだ中途半端だ。

一人旅とか一人酒ぐらいなら、評論家レベルと言えなくもない。でも、そんな評論に対する需要はあまり無いだろう。

そう考えると、40何年も生きてきて一体何を学んできたのか悩ましくなる。つくづく凡人だ。

2011年5月16日月曜日

気持ち悪い話。

年齢のせいか、モヤモヤ病のせいか、最近、気持ちが悪いことが多い。まあ、どうせただの食べ過ぎが理由だろう。

ついでだから今日は「気持ち悪い」話を書き殴ろう。食事中の人にもゼヒ読んでもらいたい。

呑みすぎて吐きまくるような気持ちの悪さは別にして、とかく世の中には気持ち悪いことが多い。

先日も家の玄関まわりを掃いていたら、ちょっとした隙間にヤモリの死骸を見つけた。小さいアリが大量に群がっている。ギョヘって感じだ。

死んでいる生き物方面はさすがにダメだ。目撃した瞬間に血圧もドカンと上がっているはず。

ここからは、いくつか過去の悲しい体験を披露してみます。

まだ学生の頃、石田純一ばりに裸足にローファーという格好で過ごしていた。とある日、めかし込んで出かけようとローファーに足を突っ込んだら違和感。何かが入っている。

靴を脱いでみると、大きなゴキブリが白い体液を飛び散らせながら死んでいる。隠れていたつもりが即死だったようだ。

触覚だけは少し動いている。裸足の私の足にはヤツの折れた脚と体液がビチョっと張り付いている。

“生足にゴキブリの内臓ビチョ・・・”。最悪だ。お気に入りのローファーは結局、捨てちゃったような気がする。

続いて靴方面をもうひとつ。その昔出かけたジャマイカでの話。靴と言っても、ダイビング用のマリンブーツをホテルのベランダで乾かしていた時のこと。

一晩経って朝になり、ブーツを取り込もうと手に取ってみた。すると、赤い色のアリがブーツの中から大慌てであふれ出てきた。大袈裟ではなく、何百匹単位、いや千匹単位だったかもしれない。

気のせいか、「ブウォーン」というような音も聞こえた気がする。

生乾きのブーツの水分を吸いに来たのだろう。物凄い数のアリがパニックになってあふれ出る。さすがに硬直した。悲鳴もあげた。もちろん、ブーツは投げ捨てたまま放置して日本に帰った。

虫方面でビビッたのは、こちらもカリブ海・ホンデュラスでのこと。離島の小さい空港で機内持ち込みのショルダーバックをX線検査台に通そうとした時のこと。

だらしなく、いくつかのチャック部分を閉めていない状態だったのだが、大きな変な色のクモが検査台に置いた私のバックの上をはいずり始めた。

10センチ以上はある大きなクモだ。ギョッとして身を引いたのだが、クモとバックはセットで検査台の奥に流れていってしまった。

検査台から出てきたバックの上にクモの姿はない。周りを見てもクモはいない。どうやら開けっ放しのチェックの中から私のバックの中に隠れてしまったらしい。

戻ってきたバックの中身を全部引っ張り出してクモを探す余裕は虫ギライの私にはない。急いで開いていたチャックを全部閉めてヤツがはいずり出てくるのを避けることしか思いつかなかった。

そして機内へ。小型のプロペラ機だったので、手荷物は膝の上に置くしかない。巨大グモがうごめいているはずのバックを膝の上に抱える。フライト中はずーと冷や汗。

到着地のホテルの部屋で、洗面エリアにバックを持ち込み、チャックを全開にする。洗面のドアはしっかり閉じて、トイレも我慢して一晩過ごした。

明くる朝、恐る恐るバックの中身を点検。クモはいない。逃げてくれたのか、そもそも入らなかったのかは分からない。でも、あの十数時間、私はずーと気持ち悪かった。

その後、旅先のホテルの部屋でもバックやスーツケースは密閉するようになった。それでも南国旅行では、スキを見てゴキブリが入り込んで私を卒倒させる。

それにしても、くだらない話をダラダラと書いてしまうものだ。お付き合い下さっている方々には申し訳ない限り。

ついでに轢死体方面をひとつ。

運転中の体験だ。住宅街の道路をさほどスピードを出さずに走っていた。前方に数羽のハトがいた。当然、最大限減速する。

路面だから運転席からは見えないが、普通に考えて、ハトは車を除けているはず。ゆっくりと前進。するとほんの少しハンドルに違和感を感じる。

「キャー!」。車のそばを歩いていた小学生ぐらいの女の子が悲鳴をあげた。どうやら轢いてしまったらしい。申し訳ないけど、なんて鈍感なハトなんだ。

どうしたものかと悩んだが、女の子の悲鳴が凄すぎて、遺憾ながら?あせってしまった私はそのまま運転続行。バッくれてしまった。

バックミラー越しに確かに平べったくなったハトらしき物体がチラっと見えたような気がした。それから数日間、恐い夢を見続けた。イヤな思い出だ。

そういえば自宅の車庫でネズミを轢いたこともある。自覚はないが、私の車の駐車位置だし、ペシャンコだったので私が轢いたのだろう。自宅の車庫入れはバックしながらだから、当然、超徐行状態だ。すばしっこいネズミのくせになぜ轢かれるのだろう。

発進する時にタイヤの陰に隠れていたネズミを轢いてしまったのかもしれない。自分で轢いておいてなんだが、処理には困った。気持ち悪いの極地だ。

鬼嫁にいくらか払うから始末してくれと頼んでみたが拒否された。随分と金額をつり上げていったのだがダメだった。

仕方なく、100円ショップで安いちりとりを買い、長いモップの柄の部分にガムテープをグルグル巻きにして遠方から回収できる装置?を開発。死ぬ思いで始末した。

子どもの頃、家に誰もいない時にゴキブリを退治してしまい、しぶしぶ泣く泣く一人で始末した時のスペシャル技法の応用だ。

この時は、割り箸を5~6本つなげて長い棒を作り、その先端に大ぶりのステッカーをくっつけた。ステッカーがもったいなかったが、粘着力はさすがだ。

長い棒を駆使してペチョっとゴキブリを確保。大きな声では言えないが、部屋の窓から隣地の庭にたたき落とすことに成功した。

自宅車庫でのネズミ事件の時は、さすがに隣地に放り込むわけにはいかず、ちゃんと正しくゴミ袋にいれて処理した。

書いているだけで気持ち悪かった思い出が甦ってくる。キリがないからこの辺にしておこう。

でも、毎日こんなことばかり考えていたらダイエットできるかもしれない。

2011年5月13日金曜日

おとうさん

世の中の父親像は私が思っている以上に大きく変わっているようだ。「頑固オヤジ」とか「寡黙な父」は絶滅危惧種みたいなものだろう。

そういう私も娘には甘いパパなのでエラソーな事は言えないのだが、そんな私でも最近の「父親の中性化」が気になる。

娘の通う学校には「お父さんの会」なるものがある。あくまで保護者の任意組織という位置付けだが、各種行事のペーパーなんかは先生から子どもに渡されたりする。

だから行事案内が来ても学校の正式行事なのかどうか判断に迷う。娘の入学時に初めてイベントに参加した時に、学校の正式行事ではないと解釈した私は、以来一度も参加していない。

だいたい、信用して子供を預けた以上、学校との関わりは父親の担当外ではなかろうか。もろもろの家庭と学校との接点は母親が担うべきで、「おとうさん」がアーだのコーだのしゃしゃり出る姿は妙な感じがする。

娘の学校の父親連合主催の行事は、テレビでやっているような集団でのゲームだとかフィールドアスレチックだとか、その手のものが中心だ。案内の文面を見てもお父さん方の必死な感じが漂っている。

娘はいつも楽しげなイベントに参加できないので怒っている。最近ではさすがにあきらめたようだが、イベント案内が来るたびに不機嫌になるから困る。

それにしても、30代、40代ぐらいのお父さん方といえば、社会の中心で何かと忙しいはずだが、マメにイベントの企画や運営に精を出す人が結構大勢いる。

率直に賞賛したり感謝しないといけないのだろうが、どうにも不思議だ。みなさんヒマなのだろうか。私の感覚が変なのだろうか。

イベントにはいつも半数以上の子ども達がお父さん同伴で参加するらしい。普段は学校で子ども同士遊んでいるわけだから週末ぐらい家族で過ごしたり、学校以外の時間を充実させればいいと思うのだが、その考えがおかしいのだろうか。

普段週末に子どもと遊ぶ時間が取れないお父さん達なんだろうか。それなら、休日に企画されるイベントに来ること自体が無理だろう。ひょっとしたら娘との遊び方が分からないのだろうか。はたまた単に群れていたいのだろうか。

どうも悪く考えてしまう。そんなに子どもにかまけていられないと思うのだが、異業種交流会みたいな感覚で参加するのだろうか。

そういえば、子ども同伴のイベントだけでなく、お父さんだけで野球観戦に行ったり、飲み会なんかも開催しているから、そういう意図を持つ人もいるのかもしれない。

困ってしまうのが、イベントやら飲み会の案内にメーリングリストが活用されている点だ。さすがの私もアドレスを登録しているのだが、個々の返信が全員にくまなく配信される。

すなわち、欠席の返事は同学年に娘を在籍させているすべての父親に配信されるわけだ。それこそ「欠席裁判」みたいな気分になる。

中間集計みたい形で父親全員の名前一覧表に○とか×が記載されたメールまでやってくる。ご丁寧というか何というか、実に微妙だ。

冒頭で「お父さんの中性化」と書いてみたが、どことなく“女性的”に思える。飛び交うメールの文面を見ても、なんか「お母さんの会」みたいな感じだ。

一般的に学校と親の関わりって、保護者会を想像しても分かるように母親が参加して、わいのわいの親睦してくるものではなかっただろうか。

子どもの学校に対して父親が関知する場面は年に一度の運動会が基本で、それ以外には、自分の子どもが発表会の主役にでもなった時に、のっそり参加するぐらいが関の山だと思うのだが、確実に今の世の中は違うみたいだ。

結局、母親が強大な力を持つに至り、「父権」が失墜してしまった世相を反映しているのだろう。家庭の諸問題にまで男が首を突っ込むようになれば必然的に子どもの学校にも絡ませられる。

私は一応、男尊女卑論者のつもりはないが、男と女の間には、差別ではない「区別」が必要だと思っている。ましてや子を持つ親となれば、男親・女親の役割が同じであるはずはない。苦労は分け合っても、物理的な作業までイーブンに分け合うことはスジ違いだ。

なんか、今日は面白くもないグチを書き連ねてしまった。

実は、先日、息子が通う特別支援学校の運動会と娘の学校の保護者会が重なってしまった。小難しい話が嫌いな私は運動会に行かされた。

有難いことに娘が私の補佐役として同行してくれた。「保護者参加競技」には当然娘が参加した。

保護者参加競技といえば聞こえはいいが、要は意味不明の激しい踊りをともなうお遊戯だ。シラフで、おまけに無給で踊れるわけもない。

お遊戯に参加した親はたいていがお母さんだ。そりゃそうだ。保護者ヅラした娘もブツブツ言いながら立派に女親代わりを務めてくれた。ゴールデンウィークに娘と二人で寿司屋に行ってしこたま接待した甲斐があったというものだ。

まあいいか。

2011年5月11日水曜日

AV 小林ひとみ 芸能人

その昔、AVといえば「オーディオビジュアル」を意味していた。AV評論家とかAVマニアと言っても、オーディオ方面が担当だったわけだ。

いつのまにか「アダルトビデオ」がAVという由緒正しき?略称を奪い取ってしまった。いまどき「AVが趣味です」なんて恥ずかしくて言えない。つくづく時代は変わるもんだ。

そんな前振りはさておき、AVという表現が定着しはじめた頃に大活躍した「小林ひとみ」の名前は、30代後半、40代以上の男性にとって妙に郷愁を誘う。

この年代の男ならきっと誰もがその名前を知っている。だから銀座・並木通りの一等地にママさんとして名前そのまんまの店を出している。

で、何度か行く機会があった。高級クラブ風の造りだが、お値段は界隈の有名店ほど高くない。昔を懐かしんでいる様子の中高年サラリーマンの姿が目立つ。

実は私の中学高校の先輩が、このお店に絡んでいる関係で何度か覗かせてもらった。だからママさんにも昔お世話になったお礼を何度もしている。

彼女が現役バリバリだった当時、AV女優は妙に世間から脚光を浴びていた。今は亡き飯島愛しかり、豊丸とか黒木香、村西カントクなんかはAVを見る見ないに関係なく有名だった。

こっちがオッサンになったからだろうか、今、AV方面で有名人っているのだろうか。最近はその手で話題の人物を聞いたことがない。若者の世界ではそれなりにカリスマ女優とかが存在しているのだろうか。凄く興味がある。

あの時代、私がお世話になったのは「小林ひとみ」ではなく、「庄司みゆき」とか「後藤えり子」とか「村上麗奈」あたりだった。

ひょんなことから「桜樹ルイ」と某所でご一緒したことがあるが、あれには緊張した。いまならデレデレオヤジモード全開でひゃあひゃあ騒ぐのだろうが、まだ20代だったから、そりゃ緊張する。

だっていつも画像の中で、裸でオラオラやっている姿しか見たことがない。そんな女性が目の前でおでんを食べて、普通に会話しているわけだから落ち着かなくて当然だ。

小学校3年生ぐらいの頃、親だか叔母だかの友人がその当時のドラマ「遠山の金さん」を演じていた人で、ひょんなことからその人の家に遊びに行った。ドラマを毎週見ていた私としては、ちょんまげではない普段着姿に落胆したが、初めて接近遭遇した「芸能人」だから妙に緊張した。

「桜樹ルイ同席事件」もそれと同じぐらいの緊張だった。

その後、オトナになって有名人とか芸能人と接する機会がごくたまにあるのだが、ビッグネームに会う機会があろうが、どんなに美人に会おうが、「遠山の金さん」と「桜樹ルイ」ほどの緊張感は味わったことがない。実に不思議だ。

「しょっぱなの経験」はやはり強く印象に残るようだ。でも、せっかくのトラウマ?が「遠山の金さん」と「桜樹ルイ」だとシュールな感じで残念だ。

そういえば、もう1回だけシュールというか、キッチュというか、残念?な有名人相手に妙に緊張した経験がある。

社会人に成り立ての頃、某税務署にタレントの「一日税務署長」を取材に出かけた。若手記者にとっての余暇みたいな取材だが、主役が変な落語家とか男優だったりすると面白くない。

どうせなら可愛いアイドルなんかだと有難いのだが、超有名アイドルだとガラの悪いテレビ取材陣がたくさん来て結構厄介。微妙なクラスのタレントさんだとのんびりムードなので、どうせならそっちのほうがいい。

そんなやる気のない理由で私が出かけた税務署は埼玉の某所にあった。その税務署では例年、某キャンペーンガールが一日署長になる慣例があった。

その年の前の年には、いまをときめく「襟おっ立て大臣」が売り出し中のタレントとしてやってきた由緒ある?場所だ。

その日、取材に来ていたのは私だけ。控え室でわずかな時間だが、そのタレントさんと二人になった。

税務署員の前でどんな挨拶をすればいいのかと聞いてきたそのコに、優しい私はもっともらしく無難な内容をアドバイスした。

その後、“1日署長訓辞”を無事終えた彼女は、控え室に戻ってきて大袈裟に私に感謝してくれた。その表情が無性に可愛く、バカな私はキュンとしてしまった。

と同時に一気に緊張モードに突入。なぜだか顔もまともに見られないほどドギマギした。

バカなんじゃなかろうか。だいたい、今でも綺麗な女性に正面からニッコリ微笑まれるとドギマギする。すぐ勘違いもしてしまう。悪いクセだ。

その日も、「このコぜったいオレのこと好きなんだ」と勘違いした私だ。思い出すたびに自分の特異な人格が悲しくなる。

それにしても、あのコはまったく売れなかった。残念だ。

ずいぶん話がそれてしまった。

「小林ひとみ」がテーマだった。銀座にあるその店は、さすがに彼女の名前が冠になっているだけに、システム上、本人が一度は席に付くようになっているようだ。

正直、最初に行った時は有難さもあったが、二度、三度となると微妙ではある。さっさと店を移動したい時に限って、ママさん登場を半ば強引に待たされるのは億劫ではある。

毎度毎度、「昔とちっとも変わりませんねえ」などとお世辞半分のセリフを言うのがお決まりのパターンだ。きっとそれ自体がこの店のシステムなのかもしれない。

「昔よくお世話になりました」
「ちっとも変わりませんねえ」

ママさんはこのセリフを毎日何回ぐらい聞かされるのだろう。それもそれで面倒くさそうだ。

2011年5月9日月曜日

イタリアが呼んでいる

ロンドン、パリへの靴買付け旅行を断念して悶々とする日々だ。思えば私のモヤモヤ病は、震災後遺症ではなく、「旅行断念続き」が原因のような気がする。

昨年秋の函館行きを風邪で断念、冬の流氷旅行は天候のせいで断念、東南アジア方面への水中撮影計画も津波映像のトラウマで断念、そして欧州靴買い旅行も断念。

趣味というより生活の一部になっている旅の段取りが狂うと心身のリズム、バランスも狂う。

先日、久しぶりに出かけた神楽坂のイタリア料理屋でパスタをしこたま食べながらそんなことを考えていた。

スパゲッティという呼称が普通だった昔からパスタに目がない私だ。50年ぐらい前からイタリア料理店に行っていたらしいハイカラな母親の影響で幼い頃から結構色々なパスタを食べた記憶がある。

その日、特製パスタを食べながらイタリアが私を呼んでいる?ことにも気付いてしまった。

7月ぐらいにふらっとイタリアに行く決意を固めた。家族を置いて一人旅用に航空券もこそっと手配してしまった。

ロンドン、パリへの予定がイタリアに変わってしまった理由は、きっとパスタのせいだ。でも「一人メシ」の習慣など無いイタリアだから食事には困るだろう。

仕方がないから現地合流してくれるオードリー・ヘップバーンのような女性をこれから探すことにしようと考えているフラチなグレゴリー・ペック似?の私だ。

さて、私のイタリア行きを決意させたレストランは神楽坂にある「ステファノ」というお店。小さい店ながら味は絶品だ。

その昔、さんざんイタリアンばかり食べまくっていた頃なら週に一度は通ったはずだ。何を頼んでも間違いなく美味しい。

オーナーのステファノさんと以前からチョットした縁があったので時々お邪魔するのだが、メニュー以外のオススメを聞くのも楽しい。

この日、「前菜の段階からパスタが欲しい」という私の邪道なリクエストに応えて登場したのが「具が無い手打ち麺」だ。


「具が無い手打ち麺」などと表現するより、「自家製手打ちパスタの焦がしバターソース」と言った方が正しいしウマそうだ。

貧乏な人が食べる一品のような気もするが、風味もコシも抜群の自家製パスタそのものを味わうには最適な料理法かもしれない。焦がしバターにパルメザンチーズを合わせて味付けしてある。麺好きにはタマランちんだ。

もともと、冷やし中華だって具が無い状態で食べるのが大好きで、お寿司屋さんでもネタ無しでシャリだけもらうこともある私だ。初体験であるパスタでの具無し体験に妙に興奮した。

この日は、アスパラと豚肉のパスタも食べてみた。野菜嫌いなくせにぺろっと食べたのだから大したもんだ?。こちらはマカロニのように中が空洞になったブカティーニという麺。味が染みて美味しい。近所でブカティーニの乾麺を見つけたことがないので、今度どっかで調達しようと思う。


昨年から急に靴集めにハマって随分買ってしまったが、今のところ、英国靴よりもイタリア、フランス系の洒脱なシルエットに惹かれている。フランス料理が苦手な私が選ぶ旅の目的地は必然的にイタリアになるわけだ。

イタリアには過去に2回しか行ったことがない。1回目はヨーロッパ周遊で数日しか滞在しなかったのだが、扁桃腺が爆発してずっと寝込んでいたので、パスタ三昧はできなかった。

2度目の際には、一週間ほど毎日朝昼晩ともパスタを食べてリベンジした。トスカーナのシエナで食べたポルチーニパスタで悶絶した記憶がある。

正直言うと、日本の真っ当なイタリアンレストランで食べるパスタの方が平均的にウマいと信じているのだが、それはそれ。本場で食べる時には本場にいる高揚感があるので、独特のウキウキ感がある。

まあ、旅の一番の楽しみは計画段階にある。あれこれと思いをめぐらせているだけで気分が明るくなる。今回もまた断念するようなアクシデントが起きないことを祈ることにする。

2011年5月6日金曜日

日々邪道

今日は平和に食べ物の話を書く。

健康でいる以上、なるべくウマいものを食べたい。塩分制限だの、油分の制限だとかその手の面倒事は近い将来きっと我が身に降りかかりそうだから、それまではウマいものを食っていたい。

相変わらず西洋料理を食べに行っていない。若い頃にはあまり関心の無かった和食一辺倒になってしまった。

和食の決め手は結局は素材なんだろう。寿司などは究極の素材食いだ。同じ魚だって包丁の入れ方や部位ごとで大きく味が変わると言っても、素材が良ければシード権を獲得したようなもので、たいていは安心だ。

そのまま黙って食べていればいいのに素材の良さにつられて、ついつい「邪道モード」が頭をよぎるのが私の悪いクセだ。

元の素材が良ければ、変化球だって抜群のキレだ。良く分からない言い方だがそういうことだ。

先日、高田馬場「鮨源」に馬刺しが登場した話を書いた。上等な馬刺しだ。私自身、クセになって常に注文している。

とある日の夕暮れどき、お店が混雑していなかったことを言い訳に邪道オーダーにチャレンジしてみた。

上等な馬刺しをベースにした「馬バター」だ。極上のお刺身サマ相手に申し訳ない話だが、無性に食べたくなった。


焼酎をグビグビ呑んでいると、ふとバター炒めが食べたくなる。コーンバターとかの香りを思い出すと居ても立ってもいられなくなる。

ここの店では、ホッキバターとかカキバターをお願いしたことはある。いずれも生食用の上質な素材で作るわけだからニッコニコにウマい。

で、馬バター。霜降りの部分を使って丁寧にバター醤油で焼き上げてからカットしてくれた。いやはやベリーレアの極上ステーキ。

調理中漂っていた香りは間違いなく鉄板焼レストラン。噛むほどにウマ味とバターの芳醇な香りが溶け合う。お寿司屋さんという舞台でこんな邪道なオーダーをすることは問題だが、大満足の一品だった。


もともと、このお店は客のワガママに即興で答えてくれる私にとって有難い店。以前、ソーメンに目がないという話をグダグダ語っていたら、「鯛ソーメン」が出てきた。

これだって、生食用の鯛を使うわけだからマズいはずがない。ソーメンとの相性もバッチリだ。今度、冷製の夏バージョンもお願いしてみようと思う。

酒のつまみとしては、今の時期、抜群にウマいのがホタルイカだ。腹に貯まっているワタの量がたっぷりになる季節なので、珍味好きにはこたえられない。


写真はニンニク醤油でつけ焼きにしてもらったホタルイカ。ジュワジュワたっぷりのはらわたがニンニク醤油とマリアージュ?してエロティックな味がする。これを食べていれば官能的な行為にふけるチャンスが減ったことも我慢できそうな気がする。


こちらの画像は、特製ツナの軍艦にぎり。寿司ネタとしては邪道だ。毎回あるわけではないが、これがある日は必ず食べる。本マグロで作った贅沢ツナだ。ウマいに決まっている。

その昔、突き出しで出されたツナをシャリに載せてもらったことをきっかけにハマった。結構、常連客の中にはツナラバーが多いみたいで、先日もお土産用のツナロールを10本も巻いている光景に出くわして卒倒した。

それにしても、上質なネタを数多く揃えているお寿司屋さんの話なのに、普通のネタの話や画像が無いわけだから、それはそれで問題だ。少し反省する。

新しいお店を開拓したい気持ちがあっても、ついつい邪道を許してくれる店に吸い寄せられる。

最近はカウンターに座っても、お仕着せがましいお決まりコースでごまかされるような店が多いらしい。それはそれで接待の時なんかは便利だろうが、のんびりとプライベートな一時を過ごすには物足りない。

そういう意味で邪道を許してくれる店は貴重な存在だ。

ああ、またツナがたべたい。

2011年5月2日月曜日

腹が立つ

3月11日を境に人々の日常の暮らし方まで変えてしまいかねない福島の原発事故。毎日毎日、放射性物質が大量に漏れ続けているのに「馴れ」にも似た感覚が広まってしまい、国民の危機感を麻痺させる。

政府が最も恐れるのは国民のパニック。確かに無用なパニックは避けたいが、それを優先するあまり、肝心の情報開示に制限を加えるのは大罪だと思う。

インターネットでドイツ気象局が発表する放射性物質の拡散予報をチェックする人が増加中だ。私もよく見ている。これって実に悲しく情けない話だと思う。

わが国にも気象庁があったはずだが、それこそ四の五の言って同様の発表をタイムリーにしていない。国際原子力機関の要請に応じる形で不定期に拡散予報を出しているが、国民向けではなく、あくまで国際機関向けという建前だから英語表示だ。

アホじゃなかろうか。そんな役所は要らない。花粉や黄砂の飛散予想はせっせとやるのに放射能拡散にはダンマリ。国民不在の最たる例だと思う。

また、空気中の放射性物質の測定結果は公表されているが、地表に累積した数値は発表されない。エリアごとの累積被ばく量の発表も、なぜか事故発生後最初の10日間ぐらいのデータが除外されている。実にフシダラだと思う。

いま一番大事なのは「どこを向いて、誰のために」という政府としての当たり前の立ち位置を認識し直すことだろう。

お役所のマヌケぶりを挙げたらキリがないが、原発事故に関しては、責任逃れの「こすっからい感じ」が凄く目立つ。東京電力がダメダメなのは今更言うまでもないが、その流れを煽っているのは、監督官庁の責任逃れ体質にあると思う。

「結果論に過ぎない」とか「結果論で評価するな」とよく言われるが、そうは言っても結果こそが大事な分野もある。原発なんて存在はその際たるものだろう。結果責任は重大。

「想定外」という曖昧な理由による責任逃れが大手を振ってひとり歩きしている現状がどうにも気持ち悪い。大震度地震はもちろん、大津波の危険性も過去に国会などで指摘されていた以上、今回の事故は不可抗力とは言えない。

原発に関するすべての業務を全面的に監理、規制しているのが原子力安全・保安院。その責任は物凄く重いはずだが、責任追及の矛先は東京電力に集中。ダブルチェックを標榜していた原子力安全委員会しかり、公的機関はどのように機能していたか糾弾されるべきだろう。

原子力安全・保安院に投下される年間予算は3百数十億円。10年前は500億円規模。ここ10年、20年で投下された税金は数千億円にのぼる。ロクに機能しないで責任も曖昧なら大いなる税金の無駄遣いだ。まさに冗費だろう。

保安院のホームページを見ると、いまだに反省の姿勢などはまったく無く、いけしゃあしゃあと自らの素晴らしさ?を高々と歌い上げている。

原発の計画から用地選定、建設、運営などすべてにおいて、監理、承認、規制の権限を持っているのは保安院に他ならない。東電の計画や行動すべてにお墨付きを与えてきたわけだ。

ちなみにそんなに圧倒的権力を持つ保安院サマだが、厳格な行動規範が制定されている。「強い使命感」、「科学的・合理的な判断」、「中立性・公正性」、「業務執行の透明性」がそれ。

実に崇高だ。カッコいい。絶対大丈夫そうだ。でも結局、震度6でヘロヘロで予備的装置まで全滅させて世界中がシビレを切らして援助したがる事態になった。

ご立派な行動規範は、しょせん、綺麗事、絵空事でしかなかったわけだ。過去に津波や地震の危険性を指摘されてきても知らん顔していた連中だ。平気で天下りしてヌクヌクと評論家顔で現状を語る。実に醜い。

東電は全社員の給与カット、役員報酬の半減ウンヌンを発表しているが、そんな鼻クソレベルの反省ポーズすら、保安院関係者の間からは出てこない。

東京電力という分かりやすい看板に隠れて、無責任という大罪を追求されない奴らが存在することは国民すべてが認識するべきだと思う。