2017年12月18日月曜日

クリスマス・エレジー



もうすぐクリスマスである。以前に比べて、クリスマスに熱くなっている世間に対してイライラしなくなった。

感度が鈍ったのか、いやいや、進歩である。

クリスマスは自殺者が一番多い日という話がある。西洋社会での話だが、あちらでは家族揃ってホノボノする日だから、家族に捨てられたりして孤独な人にとっては死ぬほどキツいらしい。

私がクリスマスをやたらと毛嫌いしていたのも、独り者の無力さや侘びしさを無意識のうちに感じていたからかもしれない。

もちろん自覚はなかったのだが、イラつく心理の裏には焦燥感というか、嫉妬や憧れみたいな感情が隠れていることもある。

家庭人だった頃は、クリスマスのようなイベントがある日は、騙し騙しとはいえ、それっぽくホノボノと過ごした。

一人で暮らすようになって、うざったいイベントから解放されたことが素直に嬉しかった。強がりではなく本心だ。

とはいえ、1年経ち、2年が過ぎるうちに、うざったいことにも意味や学ぶことがあったことに気付いた。

安易に面倒なことを避けたがる自分の腑抜けた部分を突きつけられたような気がして、ちょっと滅入った。

そんな複雑な気分のせいもあって、クリスマスに浮かれる世間を小憎らしく感じていたのかもしれない。

そんな私も昨年あたりから、以前のようなクリスマスアレルギーが薄らいできた。

どうでもよくなったと言っちゃえばそれまでだが、やはり、現状を肯定する意識が強くなったことが影響していると思う。

今更ながら、あるがまま、ありのままでいることに慣れてきたみたいだ。他の人やヨソの環境を過剰に意識せず、自然体で今を受け入れられている。

これって結構幸せなことだと思う。

もちろん、離れて暮らす子ども達との関係が非常に良い状態にあることも影響しているのだろう。一種の達観みたいな感覚だ。

独りで暮らすようになって6年。ようやく然るべき居場所に到着したような感じだ。ちょっと大げさか。

なんだか話が小難しくなってしまった。

クリスマスの話だった。

ハロウィン、バレンタイン等々、猿マネ的喧騒の最たるものがクリスマスである。私も子どもの頃はワクワクその日を待ち望んでいたのだから、やはり今になってブツクサ言うのはスマートではない。

高校生ぐらいからは「イブの日にデートする相手がいないと負け」というケッタイな呪縛に長年苦しめられてきた。

無理やり好きでもない相手とイブの日を過ごしたこともある。

どこぞのシティホテルをだいぶ前から予約して、せっせと連れていく人を探したこともある。

いま思えば小っ恥ずかしいこともやってきた。

20代の頃、半同棲していた女性を喜ばせようと、部屋中をキンキンキラキラに飾り付け、隠したプレゼントを探してもらうというアホみたいなこともやった。

海外からの仕事帰りだったその人にとってはクソ迷惑な話だったと思う。

高校生の頃は、悪友達とガールフレンドを持ち寄って?原宿かどっかの小さな喫茶店を借り切ってパーティーをした。

おませちゃんだったけど、いま思えば実に可愛らしい。あの頃は頻繁にキュンキュンしていた記憶がある。

そういえば、ファーストキスとやらを「プレゼントしてあげる」と言われたのもクリスマスだった。超絶的にキュンキュンした。

さすがに今の歳になって、あの「キュンキュン」を感じることは無くなった。実に淋しいことだ。

今では「ムホムホ」するだけである。

わずか0.5秒の幼い口づけに照れまくっていた当時の私が、変態オジサマと化した今の私に会ったら間違いなく張り倒しているはずだ。

残念。。。

2017年12月15日金曜日

焼鳥の奥深さ 蒼天


焼鳥は日本人のソウルフードの一つ。国民食と言っても大げさではない。

商店街で売っている1本70円のものから、高級店でうやうやしく出される1本700円ぐらいのものまで百花繚乱である。

もちろん、私も焼鳥が大好きだ。「今日は焼鳥じゃなきゃ絶対イヤだ」という日も結構ある。



馴染みの焼鳥屋さんもあるのだが、その店に行くと串モノではなく、一品料理ばかり食べてしまう。

豊島区の要町近くに位置する某店のササミチーズフライが私の大好物である。勝手に日本一だと信じている。

レバーの刺身を軽く炙ってポン酢で味わう一品も必ず頼む。あとは胸肉のキムチ和えなんかでお腹がいっぱいになっちゃうから、串モノをちっとも食べずに帰ることもある。

焼鳥好きを自称するにはちゃんと串モノを食べないとダメである。

ということで、久しぶりに別格の焼鳥を食べに行ってきた。4~5年前に何度か通った名店があったのだが、ナゼか忘れていた。ふと思いだして慌てて行ってみた。

やはり別格だった。抜群にウマい店なのに存在を忘れていたことが不思議だ。3年前まで住んでいた家の近くだったので引っ越しとともに頭から消えてしまっていた。

店の名前は「蒼天」。山手線の大塚駅と丸ノ内線の新大塚駅の間の住宅街にポツンとたたずむ店だ。

いつのまにか例のミシュラン本にも載ったらしい。あれだけウマければそれも当然だろう。

数年ぶりに行ったせいで、オーダーの仕方がちょっと変わっていたが、まあ大勢に影響はない。




つくね、ナンコツ、レバーである。卵黄を添えて混ぜ合わせて食べるイマドキのつくねも好きだが、この店ではそのものの味で勝負している潔さが感じられた。

ホロホロ鶏のモモ肉や手羽先もジューシーかつ旨味たっぷりで抜群だった。

酒の品揃えも良く、焼酎に関してはあらかじめ割水したものをお燗にしてもらえる。なかなかニクい。メニューには載っていないが、各部位の刺身や燻製もある。

黙々と食べたい人も酒浸りになりたい人にも良い店だと思う。


こちらは温玉そぼろ丼である。味の無い冷たいそぼろを漫然とご飯に乗せただけのダメな店が多いなか、こちらはそぼろの味付け、タレの味わい、温玉の加減が絶妙。全体を混ぜ合わせて食べると実に幸せな気分になれる。

この日は他にも白レバのパテやキンカンの燻製を食べた。全部ウマかった。野菜嫌いの私がネギまで美味しく感じたから本物だ。

職場から自宅に向かう通り道のような場所にあるから頻繁に通いたいが、一人しっぽりという雰囲気ではないのが玉にキズ。

それにしても、焼鳥は、平たく言っちゃえば鶏肉をただ焼くだけである。なのに店によって美味しさが極端に変わる。実に奥が深い。

素材の差、下処理の差、焼き加減の差、塩加減の差、他にも事細かな「差」の積み重ねがまるで別モノのような違いを生み出すわけだ。

食べる側の意識はファストフード感覚に近い。少なくとも、かしこまって高級フレンチに出かける時のような勢い込んだ感じはない。

神経を研ぎ澄まして徹底的に味を追求しようと焼鳥屋のノレンをくぐる人はいないだろう。今の時代はラーメン屋のほうが、そんなノリで訪ねる人が多いのではなかろうか。

あくまでフランクでお気楽な存在が焼鳥だ。グルメ論評のワクの外でこっそりとウマい世界を堪能させてもらいたい。

2017年12月13日水曜日

鳥取でカニを食らう

冬だからカニを食べに出かけてきた。目的地は鳥取県米子にある皆生温泉である。皆生と書いて「かいけ」と読む。

8年前にも訪れた場所だ。風光明媚な海沿いにいくつもの宿が建ち並び、塩分濃度の強い保温性の高いお湯が楽しめる。

至近距離には境港があり、冬の時期は名物・松葉ガニを堪能しながら温泉でポカポカできる。

冬の日本海はズワイガニの季節である。越前ガニ、間人ガニ、橋立ガニなど、エリアごとにネーミングされているが、山陰エリアでは松葉ガニだ。

細かい定義は知らないが、大ざっぱに言えば、こっちのエリアで特定の時期だけ水揚げされ、活ガニとして流通するまっとうなヤツのことを指す。

冬のズワイといえば、北陸のイメージが強いが、その分、上モノを食べようと思うとベラボーに高い。カニ一匹の値段で銀座のクラブで飲めちゃうレベルである。

ちなみにカニの数え方は、生きていれば「1匹、2匹」、そうでなければ「1杯、2杯」だそうだ。

15年ぐらい前に、突如カニ研究に精を出し始めた私も北陸に何度かカニ旅行に行った。美味しかったことより高かった印象のほうが強い。

その後、同じズワイでも山陰エリアのほうが値頃感があると聞いたせいで、鳥取に初めて行ったのが8年前である。

カニ攻めが目的だったが、皆生温泉の泉質が良かったので、今回も迷わず皆生の宿を選ぶ。

羽田から米子空港まで1時間程度。相変わらず貯まったマイルを使ってタダ飛び。空港からは境港がすぐそばで、皆生温泉も遠くない。

「山陰地方に出かける」と言うと、“はるばる感”があるが、実際には気軽に出かけられる場所である。


宿に入る前に、境港の「水木しげるロード」に寄り道。このエリアの定番だ。一種異様なまでの「鬼太郎推し」が境港の特徴である。通り沿いは妖怪のブロンズ像だらけ。

水木しげる記念館で目玉おやじの秘密を知る。ちょっと感動。

そんなことはどうでもいい。目的はカニである。

「菊乃家」という旅館を利用した。選んだ基準は、まっとうな松葉ガニをふんだんに楽しませてくれる料理プランがあるかどうかという一点である。

この宿には、活の松葉ガニを一人2匹以上使ったフルコースがあったのでムホムホしながら予約した。

大浴場の露天風呂が小さめだったのがやや残念だったが、部屋も綺麗で眺めも良く、全体的に接客も丁寧で快適だった。




刺身に茹でガニ、カニすき鍋である。茹でガニはさほど大きくなかったが、身入りがびっしりで食べ応え抜群だった。

なかでも最高だったのが、カニ味噌の甲羅焼き。酒のアテとして満点である。画像は撮り忘れたが、甲羅に盛られた生のカニ味噌をその場で熱して食べる。

そのままでもウマいが、刺身を絡めて良し、茹でガニの身にトッピングして良し、これぞ活松葉ガニの醍醐味という感じだった。


カニすきの後の雑炊も当たり前のように絶品で「しばらくカニは結構です」と言えるほど堪能できた。

カニはウマいだけでなく、カロリーも少ないのがエラい。無心にほじくっていると、ろくろを回しているような無心の境地に達するし、ほじくるので忙しいから酒をアホみたいに飲み過ぎずに済む。いいことづくめである。

甲殻類アレルギーじゃないことを神と親に感謝しないといけない。

ちなみに、ここまでズワイのことを誉めまくっておいて何だが、私は毛ガニのほうが好きだ。

わざわざ鳥取まで行って大枚はたいてカニざんまいしてきたのに、それが結論とは我ながらアマノジャクだと思う。

2017年12月11日月曜日

不良性感度


不良性感度という言葉がある。もともとは映画俳優向けの言葉だったようで、売れっ子になるために不可欠な要素だとか。

確かに強烈な印象を残したスターは不良性感度が強かった。石原裕次郎、勝新太郎、松田優作など例をあげればキリがない。


不良性感度などと言うと大げさだが、要するに「不良っぽさ」のことだろう。昔から人を引きつける不思議な力がある。

不良っぽさは、純粋な不良とは違う。「ぽさ」がポイントだ。あくまで社会秩序のワクの中で少しばかりもがいてみるレベルだ。

より突っ込んで定義付けすると、ただの悪者然とした感じとは違う。単純にコワモテを意味するわけでもない。怠け者やダメ男でもない。

見た目のカッコ良さもさほど重要ではない。「男はつらいよ」の寅さんや「釣りバカ日誌」のハマちゃんは「不良っぽさ」の究極だ。ニヒルだったり寡黙である必要はない。

トッポさや、反骨心、少しばかり自我が強かったり、背伸びしたい意識が強いタイプなんかも「不良っぽさ」につながる要因だろう。

見た目で不良っぽさを演出するのは簡単だが、あえて虚勢を張った格好をしなくても、根っ子に不良性があれば、自然と外見にも雰囲気が滲み出るものだと思う。

オジサン向けのファッション雑誌が、ちょっとハズした服装をチョイワルなどと称して煽っているが、あれを教科書のように信じ込むようなオジサンは、その時点で不良性ゼロだと思う。

不良に不可欠?な健全なアマノジャク精神があれば、ああいう教科書的なものを否定することから始める。

もちろん、善し悪しの話ではない。真面目にチョイワルを目指したい人を悪く言う気はない。それを否定するアマノジャク精神を闇雲に賞賛する話でもない。

あくまで「不良っぽさ」に当てはまるかどうかの話である。抽象的な表現になるが、無頼な感じ、居直った感じこそが不良っぽさの根っ子だと思う。

私自身、50歳を超えた今になって、真面目さの大事さを思い知らされているが、やはりワンパク男子のなれの果てだから、「不良っぽさ」にすり寄りたい気持ちは消えていない。

見た目に無頓着で地味に見える人でも、不良っぽさが匂ってくる何となくワクワクする。大人になるにつれ、そんな「滲み出る不良っぽさ」が格好良く思えてきた。

ことさら虚勢を張るのも程度問題だろう。若い頃ならいざ知らず、大人になったら「滲み出る」という点に意識を払いたいものだ。

私の場合、胸ポケットにチーフを挿し、ピカピカの靴を履いて一生懸命イキがっているから、さりげなく「滲み出ている人」に出会うと自分が小っ恥ずかしくなる。

もっとさりげない感じで、ほんの少しヤンチャっぽさが漂うぐらいの路線を目指したいものだ。

先日、松本人志が司会を務める「クレイジージャーニー」という番組で遺体科学の第一人者である東大の遠藤秀紀教授が取り上げられていた。


あらゆる動物の遺体解剖を通して生物の進化の神秘にメスを入れる個性的な学者さんである。

遠藤教授は実は私と同級生だ。小、中、高と同じ学校に通ったが、頭の構造がまるで違うので親しく交わったのは小学生の頃ぐらいだ。

番組の中で印象的だったのは、遠藤教授が研究室でカップ麺ばかり食べていた部分だ。

「身体に良いものだけを食べる人って馬鹿みたい」。おまけに、わざわざ昼飯を食べに外に出かけることが面倒だと語っていた。なかなか突き抜けている。

まさに無頼であり居直りである。驚くことに彼は携帯電話も持っていないそうだ。「まったく必要なし」と語る彼のそうしたブレない姿勢には、ある種の「不良性感度」が垣間見えた。

大人にとっての「不良っぽさ」って、結局は「突き抜け感」と「流されない自我」が欠かせないのだろう。

見た目ばかり気にしているような自分の薄っぺらい感じを反省する今日この頃である。

2017年12月8日金曜日

師走の徒然


なんだかんだ12月である。オッタマゲだ。

この時期、嬉しいことと言えば、テレビで「忠臣蔵」関係の番組が増えることと贈答品をいただけることである。

酒類や飲料、お茶、ハム、レトルト食品等々、お歳暮でいろいろ贈っていただいている。有難い限りだ。

このブログであれこれ書きなぐってきたせいか、生鮮食品などのシングルオジサマにとって厄介?な頂き物はほとんどない。

しがない独り者の場合、賞味期限や保存方法に気を使うようなモノをもらうと結構大変だ。

私の場合、対外的には住所を会社所在地にしている。不在がちな自宅にモノが届いても受け取れないからだ。

住民票も会社所在地にしているので、選挙の投票用紙や裁判所からの出頭命令(ウソです)など公的書類もすべて会社に届く。

というわけで、ズワイガニがどーんと届いたりすると置く場所がない。社内の冷蔵庫にそんな余裕はない。そのせいで常温保存できるものを贈ってもらうと、その相手が途端に愛しく思える。

私も誰かに贈り物を届ける際は、相手の好みだけでなく生活スタイルや生活習慣を一応は念頭におくように心がけている。

さて、日頃の散財の甲斐あって、飲み屋さん方面からの贈答品を結構いただく。これはこれで有難いのだが、荷札の送り主欄を見るたびに「プレッシャー」という言葉が頭をよぎる。

荷札そのものが「招待状」に見えるわけだ。いや、「督促状」「脅迫状」かもしれない。

気の弱い私は、贈り物をもらうとその店にすぐにでも行かないと悪い気がして、せっせと出かける。

釣り堀で釣られる魚の気分がちょっと分かるような気がする。


おまけに、年の瀬になると銀座のクラブなんかでは「パーティー」とやらの名目で営業攻勢が激しくなる。

普通、パーティーといえば、何かを記念するなど趣旨なり理由が存在するはずだ。

あの街の場合、ただ「パーティー」である。意味不明だ。要するに「売上強化月間」を翻訳しただけである。

まあ、理屈をこねるのもヤボだから、私も少しは貢献する。有難いことにわがオジサマバンドのライブにも、毎年いくつかの店から応援隊が来てくれるので、そのお礼参りも必要だ。

結局、四の五の言いながらアノ街のネットワークの片隅でちょろちょろと絡め取られている私である。

さてさて、12月だ。以前よりも「喪中ハガキ」が届く数が増えてきた。年齢的に当然かもしれない。

結婚式に呼ばれる機会が激減した代わりにお葬式に行く機会が増えたのも世代的に当然のことなのだろう。

話は変わるが、年賀状をやめることにした。とくに大げさな理由はない。プライベートで年賀状をやり取りしている相手とは、SNSなどで何だかんだと接点があって一応近況も分かっていることも理由の一つだ。

毎年のケジメとして年賀状は大事なのだろうが、儀礼的に無理矢理やり取りしている感じに少し抵抗感があって、以前から何かのタイミングでオシマイにしようと思っていた。


とりあえず、クリスマスカードにかこつけて「やめます宣言ハガキ」を作ってみた。

そんな内容を通知するのは、わざとらしい感じがしてヤボったい。かといって、黙って勝手にやめちゃうのも感じ悪い。どっちにしても気持ち悪いが、最低限の仁義のつもりで投函しようと思う。

でも、75歳ぐらいになってまだまだ元気だったら、生存確認用に勝手に復活させる可能性は大である。

2017年12月6日水曜日

エンゲル係数


家計における食費の支出割合がエンゲル係数である。私の場合、計測不能である。言うならば破綻している。

シングルオジサマの一人暮らしだから、一般的な家庭のそれとは比べられないが、食べ物コストを意識して節約したら、がっつり貯金だって出来そうな気がする。

でも出来ない。


とある週末、カキが無性に食べたくなって買い出しに出かけた。一人で家で鍋をつつくのもシャクなので、特製パスタを作ることにした。

エビとタコも買った。生パスタも買った。ついでにペペロンチーノとアーリオオーリオの出来合いの瓶詰めソースも買った。

出来合いのソースそのまんまだと負けた気がするので、両方をミックスしようと企んだわけだ。

もちろん、瓶詰めソースは全部使ったわけではない。でも、この先二度と使わずに賞味期限が切れる可能性もある。事実上の使い切りみたいなものだ。

言うまでもなく、パスタ、カキ、タコ、エビは使いきりである。

ふと気付けば、たった1回の特製パスタのためのコストとしてはアホ丸出しの金額を投下している。

エンゲル係数測定不能状態である。

こういう時、私の頭の中は自分に都合良くグルグルと回り始める。

美味しいカキのパスタを外食で味わおうとしたら、カキなんて3~4個しか入っていない。ついでに言えば、余計な前菜やメイン料理を注文して無駄に高い白ワインを頼むことになる。

もっと言えば、美味しいイタリアンに行くのなら小綺麗なオネエサンを誘い出す。そうしたら心にもないお世辞を言わねばならないし、結局は変な下心も湧いてくる。

うまくコトが運べば、そのままバーでマティーニなんかをひっかけて、ついでにムホムホ目的でホテルに行っちゃって大出費することになる。

すなわち、肝心のパスタを冷静に味わうことは不可能になり、それどころか、とんでもないコストがあっけらかんと消えてしまう。

それに比べて、一人せっせと贅沢パスタを食べるなら、邪念に惑わされることなく、行儀良くする必要もなくズビズビズズズっとただ無心に食べられて数千円である。

「数千円もかけて作ったパスタ」は、このような御都合主義的妄想気味の解釈によって正当化される。

結果、コスト意識の無さを反省することもなく、貯金がちっとも増えない生活が続く。


こちらは銀座「美らしゃぶ亭」での一コマ。私の知る限り日本で一番ウマい豚しゃぶの店である。

一番ウマいわけだから安い店ではない。「豚肉は牛肉より下」と思い込んでいる人にとっては驚きだろうが、肉類の中で豚肉が一番好きな私にとっては、時々奮発するには許容範囲である。

極上の豚肉が常時5,6種類は用意されているのだが、一番高い肉は確か1人前7千円ぐらいの値段だ。

ただし、旨味、甘味、歯応え、後味に至るまで完璧である。たまの贅沢ならアリだと思う。

この「たまに」という「言い訳」も私のエンゲル係数破壊の要因の一つである。「しょっちゅう食べるわけではない」「たまにしか食べない」という言い訳が財布のヒモを緩めてしまう。

「たまに」ではなく、ちょくちょく食べに行っちゃった時には、また別の言い訳が私の頭の中でフル回転する。

「ダイエット中は夕飯をモヤシだけで済ませた日が1ヶ月に4~5日あったから、合計して案分計算すれば大したことはない」。

いつもいつも都合の良い解釈で無理やり自分を納得させながら、気付けばピーピーしている。

バカである。

2017年12月4日月曜日

朝と夜 二重人格


10月半ばから1ヶ月間ダイエットに励んだ。それなりに成果も出たので、一応終了したのだが、それ以降、胃が小さくなったのか、あまり食べられなくなった。

由々しき事態である。これも加齢の一つだろう。筋肉の衰えと同じように、一度弱くなったら、元に戻るのに時間がかかる。

ダイエット中は、やれトンカツが食いたい、ピラフが食いたい、カレーを飲みたいなどと騒いでいたが、この2週間ばかりダイエットの続きのような食生活だ。

お寿司屋さんではちょろちょろしたツマミで満足して,、肝心の握りに行き着かない。一人だったら頑張って食べようと努力するが、同伴者がいればガンガン食べてもらって、自分は飲んでるだけでお店への義理?を果たす。

先日もクエ鍋を勇んで食べに行ったのに、カツオのタタキで満足しちゃって、鍋のクエは二切れ食べただけだった。醍醐味である雑炊もパスしてしまった。


銀座の「祢保希(ねぼけ)」に時々出かける。クエ鍋が目的だ。私にとって冬になると恋しくなる食べ物だ。

とはいえ、ここは土佐料理の店だから名物のカツオのたたきは外せない。

ニンニクスライスを添える土佐風の食べ方は、私が大学生の頃に本場で体験して以来、カツオのベストな食べ方だと信じて疑わない。

カツオって物凄く美味しい魚だと思うのだが、マグロの陰でいまひとつ脚光を浴びにくい存在だ。

どこもかしこも、それこそ山奥の旅館までバカの一つ覚えのようにマグロの刺身が出てくる。「マグロ絶対主義」のようなマインドコントロールに侵されている人は多い。

そりゃ真っ当なマグロは実に美味しいと思う。でも、どうでもいい味のマグロまで無条件にありがたがる変な風潮は考えものだ。

ウマいカツオを食べるたびに、「とりあえずマグロ」という風潮に警鐘を鳴らしたくなる。

大きなお世話でスイマセン。

食が細くなった話に戻る。


こちらは、わが家での寿司大会の一コマである。客人をもてなすために結構な量の刺身を用意して、備前の大皿と唐津のまな板皿に盛りつけてみた。

特製すし飯も作って酒を飲み飲みする宴だったのだが、私が食べたのはイクラを少々とカツオを二切れ程度。寿司飯は結局ほんの一口で終了してしまった。

さすがに胃の調子でも悪いのかと心配になったのだが、よく考えれば朝飯は平気でドカ食いしている。


ある日の朝、牛丼が無性に食べたくなって松屋の冷凍牛丼を湯煎した。ふるさと納税の返礼品としていっぱい取り寄せてあるので、ついつい2袋である。

一袋あたり135グラムだから2袋で270グラムである。かなりの量だ。店で食べる松屋の牛丼は特盛りでも肉の量は200グラム程度だ。

まさに「スーパー盛り」である。大盛りのドンブリ飯を抱えながらモノの5分程度で完食した。

別な日、これまた朝から鰻丼が食べたくなって湯煎するだけの鰻をドンブリ飯に投入した。


こちらもふるさと納税の返礼品である。鹿児島のナントカ市から送られてきたカット鰻である。悪いクセでこの日も一気に二袋を使ってしまった。上の画像は一袋分だからこの倍である。

二袋だと200グラムである。ファーストフード店の鰻丼の場合、鰻の量は70グラム程度だ。そう考えると朝からバカみたいな食べ方だが、スルスルと完食した。

間違っても胃が小さくなったとは言えない食べっぷりだが、不思議と夜になって酒を飲み始めると別人になってしまう。

昼は何も食べないので、とりあえず空腹感はちゃんとある。なのにビールをグビグビ~と飲んで、突出しを食べると、何だかそこで満足しちゃう。

なんか腑に落ちない。ロクに食べずに酒だけ飲んだら、帰宅した後にお腹が空いてペヤングなんかをウホウホ食べちゃうのが当たり前の時期もあったが、最近はそれもなくなった。

朝のドカ食いの効力が夜遅くまで持つようになってきたのだろうか。

あらゆる面で代謝が落ちてきたことを感じるが、私のヘンテコな食事リズムも代謝が鈍くなったことが原因だろうか。

だとしたらちょっと悲しい。