2018年6月20日水曜日

オコメに悶絶


硬めに炊きあがったコメが好きだ。コメも麺も硬いほうが良い。軟派な人生を過ごしてきた私だが、せめて口に入れるものは硬めに徹したい。


寿司飯にしても粒立ってこそのものだと思う。ビチャ、ベチャ的な形容詞がつくようでは食べる気にならない。

ベチャベチャしたコメを食べるぐらいなら、水加減を間違えてパサパサになっちゃったコメのほうがマシだ。

お茶漬けやスープカレーみたいに汁と混ぜる場合でも、硬めのコメが正解だろう。ベチャベチャしたコメだと埋没する。「粒立った」という言葉のイメージ通りにコメの存在感をしっかり感じられる方が美味しい。

ヨソの国のコメだって同じ。口の中でポロポロ転がるように一粒一粒のコメが独立して存在を主張するような感じが嬉しい。

というわけで、久しぶりに無性にビリヤニが食べたくなってインド料理屋さんに一人ふらっと行ってきた。炊き込みご飯「ビリヤニ」が標的だ。


銀座8丁目の「天国」の隣のビルにひっそり佇む「アナム」という店だ。以前は6丁目あたりにあった店だ。この周辺にはすぐ近くの博品館ビルの中にその名も「カーン・ケバブ・ビリヤニ」という人気店がある。

いつのまにか、昔は幻?だったビリヤニがアチコチで食べられるようになった。パサっとしたコメが好きな人には良い時代になったものだ。

辛さが選べたので、ごく普通にしてもらったのだが結構な辛さだった。個人的にはもう少しアッサリ目の味付けのほうが好みだが、これはこれでウマい。

まあ、私も着実に老化が進んでいるから、昔より味の好みが弱っちい方向に向かっている。インド料理をムホムホ食べたい若者なら大満足だろう。

鶏肉料理やマトン系のカレーも美味しく食べたのだが、食後5時間ぐらい経っても腹の中がスッキリしなかった。店のせいではない。私の身体が正しく年齢相応に反応したのだろう。ちょっと淋しい。



こちらは私のソウルフードだ。九段下にあるホテルグランドパレスのピラフである。シャトーソースという名の謎の液体をぶちまけることで至福の味が完成する。

40年以上前の子どもの頃、近くの学校に通っていたせいで親に連れてきてもらった頃から変わらぬ味だ。ピラフの粒立った感じはソースと絡み合うことで逆に引き立つ。

この日は大盛りにしてもらったのだが、ペロペロと完食してしまった。九段下は今の私の家からさほど遠くないので、もっと頻繁に食べに行きたいのだが、意識してブレーキをかけている。しょっちゅう食べたらデブまっしぐらである。

デブまっしぐらといえば鰻重問題も私にとっては悩ましい話である。鰻屋さんに行くのがこの上ない喜びなのだが、私にとってウナギは酒とともに味わいたい。

白焼きやうざく、その他のツマミを肴にしっかり飲んでからシメに鰻重というパターンだが、鰻重をしっかり食べたらデブまっしぐらである。

仕方なくいつも「ご飯は極小で」と注文する。鰻重はタレの染みたご飯とともに頬張るのが最高にウマいのだが、ダラダラ飲んでいると、ついついご飯の上のウナギをツマミにして延々と飲み進んでしまう。


冷めないようにお重の蓋を開け閉めしてウナギだけをチマチマと食べていくうちに、気付いたらご飯だけが残ってしまうという残念な事態に陥ることがある。

無残な姿である。ここで終了すればカロリー摂取の面では良いのだろうが、店の人の手前、そんなフシダラなことは出来ない。しかたなく、主を失ったご飯だけを半分ぐらいは黙々と食べることになる。

金欠でウナギのタレだけでドンブリ飯を食べた侘びしい若い頃を思い出す光景だが、実はこれがやたらとウマい。

ウナギの風味が少し残ったご飯に程よい加減でタレが染みこんでいる。私が出向く鰻屋さんはご飯も硬めに炊いてある。こういうシンプルな「タレご飯」は必然的にウマい。

酔いも手伝って、半分だけ食べるつもりだったのに、気づけば完食してしまう。コメの魔力がウナギのタレの魔力と混ざり合うわけだから、私の意志なんて瞬殺される。

痩せるはずがない。いや、この程度のデブで済んでいることが奇跡かもしれない。

2018年6月18日月曜日

銀座の部活


私にとって一種の潤滑油が夜のクラブ活動だ。ムダといえばムダ、有意義といえば有意義なのがオトナの部活である。

銀座7丁目8丁目あたりの夜の空気感に惹かれてウロウロするわけだが、そんな場面でも自分の老化を感じて残念な気分になる。

昔より長っ尻になってしまった。以前ならテキパキと小一時間ぐらいで店を移動するエネルギッシュさがあったが、最近はドカンと腰をおろすと長々とバカ話に花を咲かせる。


その店が楽しいとか、お気に入りの女性がいるならともかく、そうじゃない時でもダラダラしている。腰が重い。あまりカッチョいい話ではない。

サッと顔を出して風のように去るのがイキなのかもしれないが、ダラダラしちゃうのは感度が鈍化しているからだろう。

一度座ると立ちたくない。職場でも非常階段の踊り場にタバコを吸いに出ても、ついつい階段に腰をおろしてしまう。爺さんみたいである。もっと足腰を鍛えないといけない。

さて、クラブ活動の話である。付き合いのある黒服さんが店を移ったとのことで、初訪問の店に出かけた。


ボトルをプレゼントされちゃったから、感激屋の私は今後もちょこちょこ顔を出すことになるのだろう。そんなものだ。

初めて行く店、あまり馴染みの無い店はそれなりに楽しい。常連顔でホゲホゲできる店のほうが何かと快適だが、初めての店は顔見知りもいないから、「寡黙で渋いダンディーなオジサマ」を演じるチャンスがある。

何度も通っている店だと、私のアホバカぶりはバレている。今になってカッコつけようとしても手遅れである。「ワイ談大魔王」という定着したイメージから逃れることは出来ない。

その点、馴染みのない店では、田村正和ばりの苦み走ったいい男を演じても、ウソだとは思われにくい。高倉健のフリだって可能だ。

だから頑張ってカッコをつけてみる。席に着く女性陣もかしこまった感じで「謎めいた私」の様子を探ってくる。良い感じだ。

「こういう店には滅多に来ないから何を話していいか分からないな」などと硬派な男を演じたりして自己満足の時間を楽しむ。

しかし、コトはそう簡単に運ばない。馴染みの黒服さんがやってきて、場を盛り上げようと「この人のワイ談は奥が深い」などとアッサリ私の素性を暴露してしまう。

そんな展開になったら、根っからのワイ談インストラクターである私は、アッという間に「いつもの自分」に戻ってしまう。待ってましたとばかりにワイ談大会が始まる。

「謎めいていた私」は15分ぐらいで終了である。仮面は剥がれ、単なるスケベだという事実がそこの店でも記録される。

おまけにサービス精神旺盛の私は、初訪問ゆえに何かと話題が少ないその場の雰囲気を盛り上げようと、普段よりもワイ談のギアを上げがちだ。

その結果、ワイワイと楽しい席にはなるものの、「モテる」という展開には程遠い流れになるわけだ。なんとも切ない展開である。

ワイ談と一口に言っても、そんな生易しいものではない。ただ下品な話をするようではズブの素人である。高尚な次元を目指す私にはそれなりのコツや流儀がある。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/08/blog-post_19.html

一方的に語るだけでなく、その場の皆さんで「百物語」のように語り合うのが大事だろう。

この鉄則?に沿って今も各地でワクワクするような話を入手している。そのおかげで自分も新ネタを増やすために頑張ろうという気持ちになる。

老け込んじゃイカン。自分でそう思えるわけだから、夜の部活でワイ談に励むことは私にとっての健康法になっている。

ジムに行って身体を鍛えるより有意義かもしれない。そんなケッタイな言い訳をつぶやきながら夜の街に絡め取られている。

2018年6月15日金曜日

お子ちゃま的な味覚


食べ物をウマいと感じるかどうかは「甘味」に左右される。個人的に強くそう思う。スイーツの甘さではない。普通の料理における甘味のことである。

グルメな評論などを読んでいると「野菜の甘味が溶け出して・・・」といった言い回しを見かける。

ハンバーグに混ざっているタマネギの甘味などがその典型だろうが、そういうまどろっこしい甘味とは別に、単純に「砂糖」の甘味はもっと評価されるべきだと思う。

時々訪ねる銀座の小料理屋さんのポテトサラダにいつも感激する。芋芋した固形感がまるで無いマッシュポテト状のポテサラなのだが、甘味が絶妙である。聞けば砂糖の甘味だとか。

とかくマヨネーズやコショウの加減ばかりに意識が向きがちなポテサラだが、砂糖という秘密兵器のせいで、類いまれな美味しさに仕上がっている。

ほぼすべての国民が愛してやまない焼鳥やウナギにしても、味の決め手であるタレには砂糖が不可欠だ。すき焼きの割下だって同じ。

昨年このブログで私のお気に入りレトルトカレーを紹介したことがあるが、味のキモみたいな部分は砂糖だった。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/100.html

根っからの東京人である私は卵焼きも甘い方が好きだ。う巻きしかり、お寿司屋さんでシメにもらう卵焼きも甘くないと嬉しくない。


考えてみれば、私が何より大好きな「ニッポンの洋食」にしても「甘味」が最大の魅力なのかもしれない。

調理の過程で砂糖を使っているかどうかは知らないが、クリームコロッケ、メンチカツ、グラタン、各種のシチューなどはどことなく甘味を感じる。

先日、銀座3丁目にある洋食の老舗「グリルスイス」に出かけた。ちょくちょく洋食大会を楽しむ「煉瓦亭」のすぐ近くにある。

「天皇の料理番」として有名なナントカさんの流れを汲むお店だ。カツカレー発祥の店としても知られる。長嶋茂雄の前にジャイアンツの背番号3を背負っていた千葉茂さんのリクエストからカツカレーは生まれたそうだ。


アマノジャッキーな私はカツカレーには興味がない。ミックスフライをアテに飲み始める。帆立フライ、エビフライ、クリームコロッケの盛り合わせである。何かと矜持のある洋食屋さんは総じてタルタルソースがウマいのが嬉しい。

帆立フライが妙に甘くてウマかった。さすがに砂糖ではなく帆立自身の甘味だ。お寿司屋さんでもいつも思うのだが、貝類は火を通した方が甘味が増す。これもその典型的な味だった。

ビールやハイボールでフライものを楽しむのは至上の喜びだ。ついでにいえば、フライに合わせるウスターソースも原料として砂糖が定番である。私が醬油派ではなくソースマンである理由も「甘味」に惹かれるからだろう。


フライの後はハヤシライスである。甘味を感じる官能的な味だった。変な酸味が目立つハヤシライスとは違い、この店の場合、深いコクのあるデミグラスソース系のまろやかな味。肉もゴロゴロ入っていて、甘味のあるビーフシチューって感じ。洋食ファンとしては納得の一品だった。

いま思えば、子どもの頃、家庭で食べていたものの多くが甘味を感じるものだった。麻婆豆腐なんて中華っぽい要素はまるで無く、挽き肉と豆腐と多少のとろみが砂糖ベースの味付けで出てきた。

まったくの創作料理とも言えるが、あれが妙にウマかった。魚の煮付けなんかも砂糖が多めだった。

お子ちゃま時代の味覚は中高年になっても厳然と身体の中に染みついていることを実感する。

糖尿の気配がまったくない家系だったおかげだ。今後も砂糖とは仲良く付き合いたい。

2018年6月13日水曜日

バカを自覚する


バカを自覚することは大事だ。自覚しているバカと自覚していないバカでは、同じバカでも雲泥の差だ。

恥ずかしながら私自身も30歳ぐらいまではバカを自覚していなかった。若気の至りだ。今はちゃんとバカの自覚があるから大丈夫!?である。

なにが大丈夫なんだろう・・・。

仕事の上でも問題だらけだ。相手の言うことを深読みできない単純さしかり、固定観念に縛られて効率性をおろそかにする鈍感さしかり、勢いにのって突っ切るべき場面で、慎重なフリしてコトを停滞させる優柔不断さもそうだ。

「バカだなあ~」。心の中でしょっちゅうつぶやく。自己嫌悪に陥るが、年の功で割とすぐに忘れてしまう。それもまたバカだ。

人様の前で「バカですいません」と自虐的に頭を下げられるのは若いうちだろう。50ヅラ下げてそんな態度はなかなか取りづらい。

そんな気取った姿勢もバカにとっての悪循環の一つかもしれない。

ここで言うバカとは勉学におけるそれではない。「先が見通せない」「空気が読めない」「想像力や創造力がない」という意味でのバカさ加減を書いているつもりだ。

先日、とある飲み屋のカウンターで店主相手にイヤな感じで絡み始めたオッサンがいた。普段はそんなものは気にしないのだが、段々と声が大きくなって周りに対して聞こえよがしな感じになってきた。

さすがの私もイラついてきた。とりあえず、やんわり間に入ろうと座る姿勢を変えて向き合ったのだが、それを察した店主が視線で私を制止してきた。

店主のアイコンタクトの必死さのせいで、しばし静観。ほどなくオッサンは店を出て行った。店主いわく、いつものことらしい。瞬間湯沸かし器のように一騒ぎしてサッと帰る客なんだとか。

おまけに店にとってかなりの太客を大勢紹介してくれた恩人だという。私がヘタに絡んだら面倒な話になったから知らん顔がベストなんだとか。

なんだか腑に落ちない気もしたが、確かに店主とオッサンの関係性を知らずにエエカッコしいに走ろうとした私はバカである。ちょっと想像力を働かせば余計なことは考えなかったはずだ。

別な日、とある女性からデートに誘われた。ウッシッシな話である。夜の店を辞めて現在無職の女性である。「時間を気にしなくていいの」などと男心を揺さぶる。

下心がチョモランマ状態で小洒落たレストランでディナー。その後の展開を勝手に妄想していたのだが、「これから行きたいところがあるの」と切り出された。

余裕のあるオジサマを演じていた私は「うん、どこだって付き合うよ」などとダンディーなふりをして微笑む。

「来月から勤めることになったお店に顔を出したいんだけど付き合ってくださる?」。

ドッヒャー!である。言ってみれば形を変えた同伴じゃあーりませんか。まんまと策略に引っかかってしまったわけだ。

これをバカと呼ばずして何と呼ぶ。仕方ないから連行された高級クラブで、そのコを無視してハシャぎまくって帰宅した。完全敗北である。

バカが経済を回している。それはそれで真実だと思う。

私の残念な話ばかりでは哀しいので、最近の気になるバカをいくつか書きたい。

「〇×通りを左折する形を取らせていただきます」。タクシーの運転手さんの言葉である。いったいどんな形なんだろう。意味不明だ。左折だから直角か。

「大きい方が3千円になります」。1万円札で7千円分を払った際の店員の言葉だ。言うまでもなくお釣りは千円札が3枚だけである。大きい小さいウンヌンはもちろん「なります」という日本語もヘンテコだ。

「〇月×日は私の生誕祭なんです~」。キミはいったい何者なんだ?と聞きたくなる。生誕という言葉は、既に亡くなった偉人の生誕100年記念みたい場面で使うのが普通だ。

だんだんイジワルジジイみたいな書きぶりになってきたが、まだ続ける。

30歳を過ぎたようないい年したオトナが「見守ってくれたお父さんに感謝します」「私のお母さんは厳しかったので」などとメディアの前で語っている姿も好きではない。

「父」「母」という言い回しが出来ないのは小学生レベルだろう。感動のインタビューみたいな場面でもその一点が気になってしまう。

「解禁」という言葉の乱発も気持ち悪い。
「コンサートツアーの日程が解禁になりました」「新しいCMが解禁になりました」等々、テレビを見ていると頻繁に聞こえてくる。

なんで「公開」と言わないのだろう。それを見せられる人にとって「禁が解かれた」感覚などない。見てもらう側が「禁を解く」感覚だとしたら随分と高飛車な話だ。上から目線かつ“大きなお世話感”に溢れた言い回しだと思う。

なんだか話の流れが、単なる私のウップン話に変わってしまった。ブレまくりである。

やはりバカなんだろう。

2018年6月11日月曜日

ヤフオクでエドワードグリーン


ヤフオクで靴を買ってしまった。試し履きもしないで靴を買うのは危険極まりないが、ちょうど私自身にピッタリの靴だったので迷わず落札した。


エドワードグリーンのウェストミンスターである。新品なのに定価の半額ぐらいで買えてしまった。バンザイである。ジョンロブを筆頭に数多くのダブルモンクの靴が世の中には存在するが、このウェストミンスターが世界で一番美しいと勝手に思っている。

出品説明にサイズだけでなく、木型(ラスト)の型番まで表示されていた。E888というラストである。

このラストで作られた同じサイズの靴を持っていたおかげで自分の足に合うかどうかを心配しないで済んだ。ラッキーだった。

数ある私の靴の中で一番好きなのがバーガンディーカラーのウェストミンスターである。

このブログにも載せたことがある。ワインレッドの靴についてアレコレ書いた時に冒頭の画像で紹介した。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/07/blog-post_25.html

これとまったく同じ型番、サイズで焦茶色である。いつか欲しいと考えていたが、突然ひょんなことから手に入ってしまったわけだ。神のお導きに違いない。

ヤフオクをしょっちゅう覗くわけではない。時々思い出したように活用する程度だからラッキーな巡り合わせである。

まあ、そんな偶然の巡り合わせが頻繁に起きたら私の財布がカツカツになっちゃうから、なるべく靴のページは覗かないようにしようと思う。

ヤフオクを初めて使ったのは2001年。自分の履歴をさかのぼったら「美濃焼の灰皿」を落札したのが始まりだった。

焼きもの収集にはまっていた頃だったから、そっち方面の落札履歴がたくさん残っている。手に入れるだけでなく売りに出したことも何度もあった。記録によると32回も出品している。

30代の頃は窯場をめぐる小旅行によく出かけた。ついつい買い過ぎても人気作家の作品ならヤフオクで換金できた。それを次の旅の軍資金に充てたりした。

8万円ぐらいで買った作家モノの徳利が13万で売れたこともあった。5万円もした有名作家のぐい呑みが欠けちゃったにも関わらず、買値以上で売れたこともあった。

もっと真面目に利益確保を狙っていれば結構な小遣い稼ぎになったはずだ。そういう執着心が足りないから今もピーピーしているのだろう。

今はメルカリというサイトが人気らしいが、古い体質の私はヤフオク派だ。焼きものの売り買いはしなくなったが、今も困ったときにはヤフオクを使う。

中古品でも構わない水中撮影機材のパーツを探すことが多い。キャンディーズのDVDや、他にも有料配信サイトで見つからなかった昔の曲が収録されているCDを落札することもある。

カーオーディオに繋ぎっぱなしのiPodの予備なんかもヤフオクで安い中古品を見つける。野球のWBCのチケットもヤフオクで入手した。飛行機に安く乗るために株主優待券を格安で落札したこともあった。

エロ方面?に関してはAmazonに頼っているので、ヤフオクではジャンルを問わずレアなものを探す感じだ。

今の時代、Amazonを開けばありとあらゆる商品が売っている上に、ヘタすれば即日配送も可能だ。Amazonに無いものでもヤフオクみたいなサイトを使えば見つけることが出来る。

実に便利な時代になったものだ。今後、断捨離みたいな風潮が強まれば、不要品がバンバン世の中に出てくる。ネット社会そのものが新しい流通形態でもあるから、今以上に「モノを手に入れる形」が便利になっていくのだろう。

というわけで、私も不要品をただ捨てるのではなく、誰かの有効利用につながるように考えないといけない。

まずは処分に困っているラッセンのデカいリトグラフをヤフオクに出品してみようか。

いや、今更ロクな値段は付かないようだから、梱包の手間を考えるだけでウンザリする。

遠い昔の若い頃、ハワイの画廊で脳ミソが煮えたぎるほど悩んだ末に、なけなしのお金をはたいて買ったラッセン・・・。私にとってはバブルの遺物?である。

粗大ゴミになる日も近いかもしれない。

2018年6月8日金曜日

肉肉しい


なんだかんだと焼肉屋に行く機会が多い。若い頃に死ぬほど愛した焼肉だが、最近は重く感じる。

寿司屋や焼鳥屋のほうが嬉しいのだが、若いオネエサンの気を引きたい等々のオトナの事情で焼肉大会になることが多い。

焼肉屋では私は単なるスポンサーである。一応、いっぱしのオジサマだし富豪を目指す立場としては、そういう場面で安いメニューは選びにくい。

「上」「特選」といった妙に高いヤツを注文するハメになる。高くなるほど脂っぽいのが焼肉屋の決まりだ。これがツラい。



上の画像は特選タン塩である。タンといえばサッパリ系だと思っている私にとって、この白っぽさは厳しい。一切れで充分だ。

下の画像の盛り合わせも結局は白っぽい。若い人はガシガシ嬉しそうに食べるのだが、私はこっちも一切れで満足である。

20代の頃は脂っぽい肉が大好物だった。カルビだけで満足だった。白い部分が多ければ多いほど喜ばしかった。

焼肉屋での話ではないが、すき焼き鍋に始めに塗りたくる牛脂ですら食べちゃったこともある。

栄枯盛衰。変われば変わるものである。加齢の現実だ。

馬や羊の肉が美味しく感じるようになったのは中年になってからだ。牛肉を重く感じるようになったことで、アッサリした肉に引き寄せられたのだろう。


池袋の「辰」という羊肉専門店での画像だ。見るからにサッパリだ。脂身の部分も重くない。こういう肉をつまんでハイボールをグビグビするのが無難である。

物流が良くなったせいか、昔のように匂いが気になることもなくなった。羊肉はカロリーも低いし、ビタミンも豊富でコレステロールを減らす効果まであるらしい。


同じ店の醬油煮込みである。これも酒のアテとして悪くなかった。何よりも食べ終わった後に重たい感じがしない。中高年向きだと思う。

別な日、私がボーカルを務めるオジサマバンドの練習後に出かけた居酒屋でもラムを食べた。池袋にある「芝浦食肉」という店のラムだ。


ピンク色のレア状態で食べ頃らしい。サッパリしている割には肉をガシっと囓る喜びもある。おかげで黒ホッピーを飲み過ぎてしまった。

別な日、肉専門のファミレスに行く機会があった。「肉の万世」である。ファミレスだとナメてかかっていたのだが、メニューをじっくり見ると結構な価格帯の商品が多い。ガストに比べると3倍ぐらいの予算が必要かもしれない。

変な話、高いということはある意味で安心だ。安さ優先の店で食中毒になって死んじゃうのは切ない。年齢的にもいろんな菌に抵抗力が弱まっているから少しぐらい高いほうが安心である。



スペアリブと粗挽きハンバーグだ。ファミレスに行っても酒のツマミになりそうなものを頼みたいから、高いステーキよりもスペアリブのほうが嬉しい。

スペアリブを囓りながら骨を引きはがす瞬間にエクスタシーを感じる。きっと太古からのDNAのしわざだと思う。「はじめ人間ギャートルズ」の骨付マンモス肉に憧れた世代にとっては共通の感覚だと思う。

粗挽きハンバーグはハンバーグのくせに2500円ぐらいの値付けだ。強気である。でも肉肉しくてウマかった。変に柔らかいグニュっとしたハンバーグが幅をきかせる世の中にあって、肉っぽさをガッツリ押し出した男っぽい雰囲気だ。また食べたい。

今日は肉の脂っぽい部分を考察するつもりだったのに、結局は池袋の居酒屋とファミレスで食べたものを得意になって語ってしまった。

富豪への道は険しい。

2018年6月6日水曜日

美人 ブス


朝比奈彩ちゃんである。最近よくテレビで見かける。美人だ。レイクのCMが流れると金を借りる予定もないのに見入ってしまう。

番組途中のCMが大嫌いな私は、たいていの番組を録画して見る。CMを飛ばしたいからだが、レイクのCMだけは別だ。ずっと見ていたい。

美人を見ると目が喜ぶ。イケメンを目にする女性も同じだろう。古今東西、美男美女は人類にとって有難い存在だということだ。

とはいえ、美人の定義は国によって違うし、同じ国でも時代とともに随分変わるらしい。朝比奈彩ちゃんも平安時代なら、ひょっとしてブス扱いされていたのだろうか。


中村アンちゃんである。美人だ。やはり私の目は喜ぶ。ところが「え~、雰囲気だけなんじゃない?」と私の審美眼を否定するおかしな人もいる。

私の場合、こういう髪型の女性は全員美人に見えてしまう。それは認める。でも、この二人は一般的に言って美人だろう。

でも、中村アンちゃんもデブが美人の基準になっているアフリカあたりに行ったらブス扱いされてしまうのだろうか。

謎だ。

美人かどうかの意見の食い違いは個人の好みが関係するからややこしい。逆に「ブス」については意見の食い違いは起きにくい。と思う。

「ブス専」という言葉がある。文字通り、ブサイクな女性に惹かれるタイプの男のことを指す。

「ブスじゃなきゃ萌えない」などという凄い感覚を持つ御仁もいるらしい。ある意味、尊敬したくなる。おそらく人間の本質を見極める力があるのだろう。

無料エロ動画をボンヤリ眺めていたら「このぐらいのブスのほうが興奮する」というタイトルが目に付いたので、じっくり鑑賞してみた。ついでに関連動画として「ちょうどいい感じのブス」といったタイトルの作品がバンバン出てくる。そういうジャンルが存在するみたいだ。

じっくり見比べてみたが「なるほど!」というのが感想だ。分からないでもない。程度問題だが、絶世の美女がアヘアヘするより淫靡な感じが強いように思える。

などと、エラそうに書いているが、私自身、中学生の頃からそういう傾向は少なからずあった。

通学電車で見かけた女子が気になって仕方ない時期があった。一般的にはブサイク側に近い顔立ちの女の子だったのだが、妙に気になって同じ時間の電車に乗るのが楽しみだった。

その後も一応可愛いコちゃんと付き合う機会はあったが、その裏ではコッソリとヘチャムクレちゃんとも怪しい付き合いをしていた。

インターネット上には「ブス専」をもっともらしく分析したページがいくつもある。そんなことを研究してどうなるのかよく分からないが、フムフムって感じである。

https://uranaru.jp/topic/1013957

自分に自信が無い男がブス専になるという見方もあるようだが、はたしてそんなそんな単純なものだろうか。ちょっとヘチャムクレな顔立ちに独特な色気を感じることは往々にしてある。あれは一種の麻薬みたいなものかもしれない。

生まれて初めて飲んだビールが苦いだけでクソまずかったのに、いつのまにか大好物に変わっていくように、好みなんてものはコロっと変わる。ヘチャムクレちゃんに惹かれるのは、こっちに自信があるとか無いには無関係だと思う。

それはそれとして、美人を敬遠する心理も分からなくはない。美人はチヤホヤされがちだから高飛車だといった分析も概ね正しい。悪の権化みたいな美人は多い。死んじゃった紀州のドンファン氏だって、さんざん美人にカネを持ち逃げされていたらしい。

まあ、それでもブスより美人のほうが人気があるのは当然だ。問題は美人度合い、ブス度合いの加減である。

ちょい悪オヤジといった表現におけるちょいの部分がカギを握る。ちょい美人、ちょいブスというカテゴリーだ。

化粧や髪型次第でパッと見は「ちょい美人」に仕上がっている人は物凄い数にのぼる。夜の街で働く人の多くがそんな感じだ。

その努力こそが大事なんだろう。身だしなみに無頓着な美人より、キチンとしている「ちょい美人」のほうが魅力的である。

また、かなり残念な感じの人でも身だしなみを頑張ることで「ちょいブス」に留まっていれば男達は追いかける。そんなもんだと思う。

容姿ウンヌンで人を判断するのは正しくないが、実際の世の中は「見た目」重視で回っているのが現実だ。

要は適度に見た目に気を配っているかが明暗の分かれ目だ。男も女も無頓着に過ぎるようではダメだということ。

今日は朝比奈彩ちゃんが美しいという話を書きたかっただけなのだが、変な方向にテーマが変わってしまった。

さっきも触れたが、美人とネンゴロになりたいという一心で生涯を過ごしてきた紀州のドンファン氏が亡くなったことはとっても残念だ。

事故死か他殺か。どう考えても誰もが想像している通りなのだろう。悲惨な最期である。

たまたま、つい先日彼の著書を読んだばかりだったので、かなりビックリした。55歳も年下の美人と再婚したことを自慢げに書いていたのに、あんな死に方をしちゃうなんて妙に切ない。

あまり美人に入れあげてもロクなことはない。やはり、ちょい美人や雰囲気美人あたりを狙って奮戦するのが賢明なのだろう。