2008年5月29日木曜日

小休止

このブログをはじめて7か月が経った。基本的に土日祭日とか年末年始以外のフツーの日は、休まずに更新してきた。

面白いものでモノを書くことによって考えが整理できたり、忘れてしまいがちなチョットした出来事も忘れずにいられる。

実は、いまフィリピンにいる、はずです。少し休みを取って、モアルボアルというセブ島の外れにある小さい村に滞在して、水中撮影に励んでいるところ。

不在日数分のブログ原稿を書きためて、代理で日々更新してもらおうと企てたものの、貯め置いた分は本日分で品切れ。来週前半まで更新できなくなります。

水中写真を久しぶりに集中して撮影しているはずなので、傑作が撮れたらアップしたいと思う。

今回選んだ場所は、繁華街もなければ、ゴーゴーバーもないヘンピな場所。邪念なく水中探索に集中しているはず。多分。

富豪記者なので現地で一番高級な宿に滞在中。1泊なんと日本円で6千円。ダイビングは、私一人で専用のボートと船頭さんと水中ガイドを朝から夕方までチャーターして1日1万円チョット。この村では、きっと私の行動はホントに富豪級だろう。

旅行記をアップしても、誰の参考にもならなさそうな場所なので、また来週から真面目にアレコレ書きつづっていく予定です。

2008年5月28日水曜日

高額納税者を思う


何年か前まではいまごろの季節は、いわゆる長者番付の話題がマスコミを賑わしていた。

法律で規定されていた高額納税者の公示制度が話題のベース。所得税を1千万円以上納税した人の氏名などが全国の税務署で発表される仕組みだった。

考えてみれば、物騒になった世の中でこんなに間抜けな制度はなかった。「どこそこにお金持ちがいますよ」と国が積極的にPRしていたのだから、泥棒などは大喜びだっただろう。

実際、高額納税者リストに載ったことでの犯罪被害もあったようで、犯罪までいかなくても、寄付の要求やDM攻勢にさらされる人々の不満は強かった。

「納税通信」でも制度が廃止されるだいぶ前から、制度廃止を主張するキャンペーン記事を展開してきた。

廃止論を徹底した理由は、プライバシー問題もあるが、そもそもの国の姿勢に「?」があったから。

制度の晩年こそ、建前上、高額納税で国に貢献したことを讃えるためという大義名分が掲げられていたが、公示制度のそもそものきっかけは、戦後の混乱期に設けられていた密告奨励制度。

高額納税者を公表することで「アイツの名前がない」とか「アイツの収入がそんなに低いわけない」というタレコミが寄せられることに期待して始まった制度だったわけだ。

真面目に高額納税している人にとってはたまったものではない。さらし者にされて失礼な話ではある。

本来、賞賛されて然るべき高額納税者が、ただ好奇の目にさらされる。なかには公示制度に載らないことだけを目的に正しくない申告書を提出し、一定時期までに修正申告して制度の網をかいくぐっていた人も多かった。

たとえば、一定年数以上公示され続けたら表彰状がもらえるとか、最終的には勲章がもらえるとか、目に見える特典でもなければ確かに迷惑なだけだろう。

「納税通信」では、以前、現行の叙勲制度に高額納税者が対象になっていない実態を問題視し、「高額納税者には叙勲で応えよう」というキャンペーンを長期間展開したことがある。

政界、財界などから賛同意見は500人以上から寄せられ、勲章制度こそ実現しなかったものの行政当局による新しい表彰制度が誕生した。

ただ、高額納税者を対象にした表彰が大々的に大っぴらに行われることは現在でも実現しておらず、勲章制度などは依然として役人のための制度のような趣だ。

納税は国民の義務といえども、苦労して人より多く納め続けている人に対して、その苦労を誉めもせず、当たり前のひとことで片付けたら、納税意欲など高まるはずはない。

プータローとか税金知らん顔の風俗嬢と、真面目に長年高い税金を納め続けた人が選挙の時に同じ1票しかないことが馬鹿げていると思う感覚はおかしいだろうか。

2008年5月27日火曜日

そんなにモテたいか!

そんなにモテたいか?。本屋に並ぶオヤジ向きの雑誌を立ち読みしながらそんな言葉が頭をよぎった。

とはいいながら、自分自身の答えは「モテたい」だった。我ながら健全だと思う。

最近の「大人の週末」みたいな雑誌類は、ターゲットをモテたいオヤジに絞ったようなものが多く。平たくいえば“不倫応援雑誌”ばかり。

その手の雑誌の表紙を飾る女性陣は20代中盤から30代前半の女優とかで、誌面のインタビューでも「大人の男とは」みたいな内容を意味ありげに語っている。

要は40代、50代のオヤジ連中が若い女性を相手に頑張るための企画がてんこ盛りになっている。

自分が20代の頃には、この手の感覚はメディア側にも乏しかった気がする。バブルの頃だったか、不倫ドラマで大ヒットした“金妻”だって“人の嫁さんと道ならぬ恋を選ぶ”みたいな設定で、あくまで同年代同士の色恋沙汰だった。

若者は若者、大人は大人として恋愛にもカテゴリー分けが顕著だったような気がする。

まあ倫理的に中高年のキザ男が花の盛りの若い女性と開けっぴろげに遊んでいる構図自体が、世間の軽蔑視線を浴びるのが普通だったのだから当然の収まり方だったのだろう。

時は移って現在、“チョイ悪オヤジ”という言葉が市民権を得た頃から、いい歳したオヤジが大っぴらに若い女性と華々しく遊んでいる姿が珍しくなくなった。

いいことだ!と40代の私は素直に思う(いかんいかん、倫理も大事だ)。

さて、ここからが本題。モテたがるオヤジの話を書こうと思ったのではない。

モテたがるオヤジの増殖が社会現象にまでなっていることは、需要と供給あってこその話。すなわち、その手のカップルの大量発生を意味しているわけで、そうなると気掛かりなのが20代、30代の男達の状況だ。

年齢的に正しくないオヤジ達に同年代の女性をターゲットにされていることに怒りや焦りはないのだろうか。

こんなことを思ったのは、最近の若者像の変化をあちらこちらのニュースなどで見聞きするからだ。すべてにおいて淡泊なのが特徴らしい。

クルマに興味がない。ファッションにも興味がない。海外旅行にも関心がない。出世指向や上昇志向に乏しいといった話が色んなところから聞こえてくる。

格差社会の一例という捉え方も出来るが、「対女性」というモチベーションは、収入に関係なく若い男なら高いはずで、それがすべての行動原理になって然るべき話。

セックスをしない若い男性が増加していることも頻繁に雑誌などが取り上げている。その要因はともかく、「モテたい」とか「ヤリたい」というエネルギーが若い男から失われたら社会全体の活力低下につながると思う。

モテたいし、ヤリたいから格好いいクルマを買って、イケてる服を買って、女の子を誘うというのが若い時代の正しい姿だ。この基本的な構図が崩れているのなら深刻だ。

いや既に崩れてしまっているから、冒頭で書いてきたように、いい歳をしたオヤジ達が、本来若い男がしているはずの行動をせっせと展開しているわけだし、メディアもそれを見越して現状を煽る。若い男は危機感もなく、テレビでお笑い番組を見ているか、ネットサーフィンしてゴロゴロしている。

ビジネスの世界で若い男性を戦力にする以上、彼らのポワンとした現状は、彼らの上に立つ中高年世代にも悪影響をもたらすことになる。

若い男から必死さを奪ってしまった元凶は当然社会情勢にある。

いい大学を出ていい会社に勤めていたお父さんが、いとも簡単にリストラされる。教師はサラリーマン化しただけでなく、平気で援助交際に精を出して捕まる。警察官は非番の日に風俗店経営に励んで捕まる。

名門といわれた企業が平気でインチキやウソで消費者をあざむく。政治家は口からでまかせ言ったり、ツラくなると仕事を放り出す。

新時代の寵児となったホリエモン的な連中は、結局よく分からないことをして捕まる。官僚はズブズブ贈収賄で捕まる。裁判官もストーカー行為で捕まる。

こんなニュースばかりに接していては、確かに夢や上昇志向をもてなくなるのも仕方ない。お気の毒ではある。

でも「モテたい」「ヤリたい」モチベーションまで下がってしまっては、社会の危機だろう。

結局、夢や上昇志向なき現状満足路線という最近の若い男の特徴は、結果的に「対女性」という分野まで枯れた感覚になってしまったのだろう。

厭世観が強まると性欲みたいな人間の根源的な欲まで低下してしまうのかも知れない。

なんか変な世の中だ。まあ難しい話はさておき、私も、せっかくだから若い男の分まで頑張ってモテるように頑張ってみようと思う。

2008年5月26日月曜日

安心快適抜群の鮨

なんだかんだいっても行きなれた店は安心。その店のレベルが高水準なら尚更だし、行きなれているからこそ、美味しいものにありつけることも多い。

冒険心で新たなとっておきの店を見つけるのも楽しいが、慣れた店で安心してうまいものにありつける時間は貴重だ。

高田馬場にある鮨源。現在、もともとの所在地に新しいビルを建設中で、駅近くの雑居ビル地下で営業中。古めかしい雑居ビルの地下に名店が隠れているとは通りすがりの人には想像も出来ないだろう。

帝国ホテルや新宿高島屋にもチェーン展開する鮨源だが、ここ高田馬場が本店。チェーン展開といっても板前さん達が頻繁に各店を移動するわけでなく、本店でも昔から大きく変わらない顔ぶれがつけ場に立つ。

先日、訪ねた際、この店では何が一番人気なのか改めて聞いてみた。一番はマグロだとか。そりゃそうだ。鮨の王道だし、この店では味わい深い本マグロがレギュラーだから、当然だれもが注文するはず。

個人的には赤身を良く食べる。酸味というか鉄分の強い独特の香り高い味わいはしみじみ旨い。刺身でも良いが、その場で注文するヅケも官能的な味わい。

入店間もないうちに早めに頼んでおいて、最後に食べれば、しっかり漬かるし、即席で10分程度漬けただけでも、軽やかに美味しい。

二番目に人気があるのは光り物全般とのこと。アジ、イワシ類は確かにいつもピチピチだ。サバも一年中美味しい。バッテラ風に甘い味付けの昆布を載せて食べるのもお勧め。コハダも安定的に美味しいし、間もなく季節を迎えるシンコもいつもフワフワと美味しい。

個人的には、最近はカツオがとてもお気に入り。この時期のカツオが一番好きかも。くどすぎず、あっさりすぎず最高。

魚介類すべてが一級品レベルで鮮度も申し分なし。鮮度が良いだけでなく、煮ハマグリや白身の昆布締めなんかも常備してあり、ラインナップは豊富。

つい酒飲み場所として考えてしまう私にとっては、酒肴類も楽しい。いつも注文するウナギの串焼きは、蒲焼きではない直焼で歯ごたえが適度にあって必ず頼んでしまう。

イカのくちばしやタコの吸盤などの串焼きも常備されているのに、ついウナギ一辺倒になってしまう。

肝類好きな私が幸せを感じるのは、さばきたてのアワビの肝がいらっしゃるタイミングに居合わせた時。

磯の風味タップリのナマの肝はポン酢とモミジおろしの協力によって私を昇天させてくれる。

アワビの肝がいらっしゃらなくても、最近教わったツブ貝の肝もイケる。

鮨源では、ツブ貝など多くの貝を、注文の都度、殻から剥いてくれる。当然、ツブ貝にも肝があるわけだが、最近はじめてナマで食べてみた。

色っぽい見た目とは裏腹に、味わいは割と爽やか。クセを感じない淡泊な感じだなあと思いながら口の中で転がしていると、しっかりキモ特有の“エロティックなジュワリ風味”も出てくる。

アワビの肝ほど迫力はないが、控えめにキモキモした風味を楽しめる。いいつまみになる。

先日は、いつまでもダラダラ焼酎を飲んでいたら、有り難いことに変わった一品を出してもらえた。クジラの尾の身の唐揚げ。

これがまたロックで呑んでいた焼酎「風憚(ふうたん)」によく合う。聞くところによると最近はクジラも準レギュラー的に置いてあるそうだ。前にも聞いたような気がするが、いつも酔っているので、忘れてしまい注文しそびれる。

そこそこ頻繁に訪ねている鮨源本店。高田馬場界隈にこれだけの水準の店があることは、ある意味奇跡的だが、さすがにそれだけに混むときは混んでいる。

レベルの高い店にありがちな堅苦しさはなく、おまけに年中無休。ついでにいえば昼から夜にかけて暖簾をしまわず、通しで営業している点も偉い。その気になれば陽の高いうちから酩酊できる。いい店だと思う。

2008年5月23日金曜日

オシャレなボランティア?

世の中つくづくインチキがはびこっているようで、最近イラつくのが、福祉関係の正統な機関であるかのように装って寄付を要求してくる輩。

会社を構えていると結構いろいろな「会費」のお願いが多い。町内会からはじまって、近所の神社の祭礼の寄付、ナンタラ協会とかナントカ協議会の年会費やら賛助金みたいな話が無数にある。

以前、全部まとめて必要性を見直したことがある。半世紀以上やっている会社だと入会の経緯そのものまで曖昧なものが多い。

随分と整理したが、整理したことで弊害はまるで無かった。

昨今、さまざまな業界で各種団体の運営が行き詰まっているそうだ。税務関係を例にとると他の業種と同様、「協力団体」と呼ばれる組織がある。

警察署をとりまく防犯協会とか交通安全協会とかと似たようなもので、民間事業者が会員となり、税務行政に協力する趣旨で存在している。

青色申告会とか法人会といった組織がよく知られているところだが、こうした団体が困っているのが、新興企業が加入に興味を示さなくなってきたこと。

昨今の新興企業は、発想の源がかつての重厚長大産業と違ってドライだ。「なんのためにそんな団体に加入するのか」、「入ったら何かトクするのか」。単純明快な考え方で、“とりあえず、お付き合いで”とか“ヨソもたいてい加入しているから”といった理由で加盟するような感覚がない。

それなりの規模に企業が成長しようとも、一向に会活動と一線を画している。

確かにそうだろう。どんな業界でも本来、必要のない団体にお金をかけて参加する意味はない。日本中のこうした団体がある意味、これまでのナアナア社会の上であぐらをかいてこれたことが不思議なのかも知れない。

ところで、そんな状況の中でも、気になるのが「福祉関係」をうたう団体だ。企業のマインドがドライになろうとも“ボランティア”、“社会貢献”という大義名分には敏感だ。

まっとうな福祉関連団体であれば、喜んで積極的に寄付をする企業は今後も減ることはないと思う。

もちろん、そうした企業心理につけ込んでインチキ団体も増えるだろうから見極めは重要だ。

リッチ論がアチコチでさかんだが、よく聞くのが「リッチマンの最終ゴールは社会貢献」という方程式だ。

リッチマン初期には“見せびらかしリッチ”でも後期には“社会貢献リッチ”に行き着き、さまざまな弱者支援をさかんに展開しはじめるという話だ。

“見せびらかしリッチ”が求める超高級車とかクルーザー、プライベートジェットとかが日本では好調な売れ行きだと言うことは、いずれ、その階層が躍起になって“社会貢献”をマイブームにするようになるということ。

そんな日が実現することは、彼らの思惑は別としても単純に良いことだろう。なにより、リッチ予備軍やプチリッチは、スーパーリッチのトレンドに憧れ、マネをするのが習性。

そしてそれより下の階層もチョイ上の階層のマネをするのが世の常だから、うまくいけば“社会貢献”がある意味お洒落な流行として定着するような気がする。

2008年5月22日木曜日

相続税調査は秘め事なのか


悪いことをしてしまったら、なるべく内緒にしたくなるのは共通の心理。恥の文化が日本人の特徴だけに内緒にしたいことは誰にでもある。

ところが、内緒にしたい気持ちが広がって、悪いことではないのに悪いことをしたかのように秘密にしたがることがある。

前振りが長くなってしまったが、税務調査の体験なんかもそうした種類にあてはまる。

企業への税務調査ならともかく、個人宅への税務調査となると、何かと世間の目を気にして体験者がその事実を大っぴらにしない。

「あのお宅、そんなに儲かっていたのかしら」とか「なんか脱税していたらしいわよ」といった噂のマトになりかねないためだ。

税務調査といっても、大口悪質脱税に強制権限とともに行われる査察(マルサ)は別にして、その多くが、脱税をターゲットにしているわけではない。

任意で申告内容をチェックされるというのが実態なので、調査を受けること自体は何もおかしなことではなく、恥ずかしいことでもない。

とはいえ、個人宅が税務調査のターゲットになる相続税の場合、脱税の意図がまったくなくても、当事者が既に亡くなっている特殊事情もあって、税務調査があれば、80~90%から何らかの申告もれが見つかっている。

多くが、遺族が知らなかった故人資産が見つかったとか、税務当局との解釈の相違が原因。とはいえ、意図的に遺産の一部を隠すような「悪」のケースも悪意のない「ついウッカリ」のケースも“申告もれ”という意味では同じになってしまう。

脱税の意図が無くても、「申告もれ」という事実は、やはり遺族達にとっては不名誉なこと。つい「相続税の税務調査は来たけど、とくに問題もなく終わったよ」と言いたくなる。

こんな事情もあって、相続税については税務調査の実態があまり世の中に知られていない。

相続税調査の場合、遺族にとって人生で一度きりの経験だということも“神秘”になってしまう原因だ。

そうはいっても、相続税がかかるレベルの人にとっては、税務調査は物凄く身近な話だ。相続税の場合、単純計算して3件に1件は税務調査が行われる。

3件に1件とは、調査件数の申告件数に対する割合だが、例年同じような水準。法人税や所得税と比べるとケタ違いに高い確率だ。

相続税申告のなかには、調査対象になるほどではない単純な内容のものもあるわけだし、実際には遺産金額が高額なものから優先して調査対象に選ばれることを思えば、「それなりの金額のそれなりの内容」なら、ほぼ間違いなく税務調査ターゲットになるということ。

にもかかわらず、上記したような理由で、相続税調査の実態はベールに包まれている。

なんかヘンな話。

「ほぼ間違いなくやってくる税務調査」、「ほぼ間違いなく申告もれが発覚する」という単純な理屈があるのに、税務調査対応の大切さが世間で認知されていない。

税務調査のイロハや特徴、的確な対応法を学ぶことは、無用な申告もれを無くすことにつながる。

もっといえば、申告する前の段階で税務調査対応まで念頭におくことで、微妙な申告上の誤りを未然に防ぐことだって可能だ。

相続に関連して税金対策を検討する人なら、例外なく税務調査対象になるわけだから、あてはまるすべての人々に「相続税調査のすべて」を強くお勧めします。

2008年5月21日水曜日

高田馬場は意外に面白い

最近思うのは、都内の繁華街のさびれかただ。繁華街といっても、池袋に象徴される中途半端な繁華街は、ほんの5年ほど前に比べても格段に夜の人出が少ない。

そこそこ人の賑わいを感じても、界隈の店の呼び込みが固まって井戸端会議をしているだけだったりで、まるで活気がない。

いつも悪い例えで池袋を使うので心苦しいが、池袋を例に出すと、その近隣である高田馬場や大塚あたりの方が、地に足をつけた店がどっしり構えているような気がする。

今回は高田馬場に触れてみたい。基本的に学生街の印象が強い街だ。山手線、地下鉄東西線、西武新宿線が乗り入れているため、便利な街であり、それなりの賑わいがある。

学生向きの安い店はもちろん物凄い数で、駅から少し離れて早稲田方面に行けば、東京でも有数のラーメン激戦区。まさにラーメンだらけでウンザリするほど。

表だって看板を出していないものの、風俗店も多く、カップル喫茶まで根を張っているらしい。葉巻を置いているタバコ屋もあったり、K―1関連のナントカ道場のせいか、有名格闘家も歩いていたり、昔ながらの卓球場があったりとどこか独特な空気がある。学生街、乗り換え専用駅といったイメージの裏で結構ディープだ。

安い飲み屋もゴマンとある。高級路線の店は、このブログでも取り上げる「鮨源本店」ぐらいだが、ちょっと探せば池袋よりは真っ当な飲食店もチラホラある。

「割烹本陣」。駅からチョット離れて隠れ家的な立地にたたずむ。店内の雰囲気もしっぽり系で、オツな感じ。丁寧な仕事をした味わいの食べ物がいろいろあって穴場だ。

ありそうでなさそうなちょうど良い大人向けの店。和食系が好みなら失敗しない選択だろう。

もっと駅の近くには「一角」という料理屋がある。値段を考えれば当然だが、やはり学生街のイメージとは違う割とまっとうな料理を出す。居酒屋よりも上等な“料理”が食べたいときには使える店かもしれない。

とはいえ、この街で高級志向の店を探す人はかなり限られているだろうから、こんな情報は役に立たないだろう。

いわゆるB級グルメとしては、駅から結構離れて池袋、早稲田よりに位置する「とん太」というとんかつ屋が最高だろう。

ここのとんかつ。異常に美味しい。奇をてらったものではなく、オーソドックスだが、肉質の柔らかさ、衣の軽い感じともに極上。分かりやすくいえば、トンカツソースがなくてもバッチリ美味しい。実際に、塩で食べる人も多い。

もう一軒、こちらは万人受けするかどうか微妙だが、もつ焼の「とん八」。ディープです。雑多な店が軒を並べるさかえ通りを少し入ったところにある。

小さく古くさくて、ディープと表現するのがもっとも的確だが、高田馬場という街の特性だろう、この手のディープなもつ焼屋の基本であるガラの悪い客が少ない。

ネクタイ締めた紳士然とした親父達が憩いの時間を過ごしている。輪切りにしたタマネギを油タップリでただ炒めただけの一品や厚切りのレバ刺しをつまみに濃いめの酎ハイを呑んで、もつ焼を頬ばる。エネルギーを充電できそうな店だ。

ところで、高田馬場といえば、かつて駅のそばに建つ質屋のビルの上で、悪趣味な巨大な人形がオブジェとして飾られていた。
確かゆっくりと回転していたような印象がある。

いつのまにか無くなってしまったが、あの人形は、確かストリッパーとお相撲さんががっぷりよつに組んで相撲をとっている姿だったように思う。子ども心に衝撃的な光景だった。

当時を知る人達は、あの人形について「お相撲さんとマリリンモンローだ」とか「侍と金髪ダンサーだ」とかみんな曖昧な記憶でテキトーなことを主張し合う。

どなたか事実をご存じの方は、アノ不思議な巨大人形の正体を是非教えていただきたい。あの街に行くといつも気になる。

2008年5月20日火曜日

タクシーよもやま話

深夜を中心にタクシーを使うことが多いが、酔っぱらっていると、変に神経が高ぶって狭い空間のなかでいろんなことを考える。

残った臭いが迷惑という理由で全面禁煙にしたくせに、ドライバーの極度の加齢臭はなんで規制されないのか?。

小冊子形式の広告パンフは、なんでハゲ、デブ、メガネばかりターゲットにしているのか?。

どうしてこのドライバーは、こちらの“話したくないぞオーラ”に気付かないのか?

などなどロクでもないことばかり頭をよぎる。

それにしても、あのタクシー広告、結構手にとって見てしまう。渋滞していたら熟読する。ウチの会社の商材も宣伝したいと思って調べてみたら、結構高くてびっくり。
まあ、自分でもアレほど熱心に手にとって眺めるのだから広告効果はあるのだろう。

最近は昔と違ってタクシーに使われている車種がバラエティに富んできた気がする。

新車で室内空間も広い高級車然としたタクシーに当たればかなり快適な気分で過ごせる。

その反面、臭くてほこりっぽくて古い車両に当たると同じ料金が許せない。

何事も二極化が著しいご時勢だ。きっと車両格差をしっかりつけて、その分料金にも差をつけるようなサービスが当たり前の時代が来るのだと思う。

快適な室内空間を持つ新型車両のタクシーに乗るといつも思うことがある。

「このクルマはなんという名前?」。

トヨタかニッサンか、クラウンか昔のセドグロか、パッと見では分からない。車内にデカデカと車種名を表記しているクルマなんて無いのだろうから仕方ないが、いいクルマであれば、メーカーにとって宣伝機会を逃している。

なかには、後部座席に乗ってみて、快適さを気に入り、自分もしくは会社で購入するクルマ選びに活かす人もいるはず。

タクシー業者も競争が厳しくコスト削減に躍起だ。後部座席周辺に車種名と宣伝文句を大きく表示させて、その分、自動車メーカーに車両価格を値引きさせればいいのにと思った。

2008年5月19日月曜日

焼酎あれこれ

かなりビックリした。ある人からいただいた焼酎の値段を勘違いしていた。

いただいたのは森伊蔵。森伊蔵が高いことぐらい私だって知っている。美味しいことも知っている。日本航空の機内販売で入手できると聞けば関係者総あたりで何本も買ったこともある。

もちろん、この時の森伊蔵は、ごく一般的なもので、その上に、よりレアなシリーズがあるのも知っていた。

私の手元に届いた森伊蔵。ぱっと見て、見慣れたラベルではないので、上等ラインをいただけたと単純に喜んでいた。

でも、私が思っていたより、一般に流通している値段が高くてビックリした。送ってくれた人がどうやって入手したかは定かではないが、ちょっとネットで検索すると、信じられないような値段で出回っている。

その名も「長期洞窟熟成酒かめ壺焼酎・森伊蔵」様だ。ただただ恐縮だ。もったいないからきっといつまで飲めないのだろう。

焼酎がブームといわれて久しい。いまではブームというより日常的なアルコールとして確実に浸透している。

やはり、日本人が日常食べているものとの相性を考えれば納得できる。焼酎の場合、抜栓後の劣化が少ないのも日本酒を押しのけている大きな理由だろう。

私の場合、良く行くお寿司屋や焼鳥屋さんで味わった焼酎のうち、とくに気に入ったものを、後日、楽天あたりのサイト経由でまとめて購入する。

最近のお気に入りは、「あやかし福助」。味も好きだが、個人的にチョットした理由もあって福助という名前にひかれる。福々しい顔で呑んでいられれば幸せだ。ただ、ラベルの福助の人相がちょっと不気味なのが気になる。

続いて「粒露」。これはナゼ人気が出ないか不思議なくらい美味しい。一応、“鹿児島限定品”という位置付けで販売されているらしいが、ネットショッピングだとさほど労せず購入できる。

続いて「風憚(ふうたん)・原酒」。通常の風憚もかなりはっきりした味わいで美味しいが、これの原酒がまたイケる。かなり濃いめの水割りにすると何とも官能的な世界が広がる。

焼酎の種類は数限りない。自分なりに好みを探して自分なりのこだわりを持つのは楽しい。

でも、冒頭で書いた森伊蔵、呑みたい!!

2008年5月16日金曜日

葉巻をどう買うか


富豪記者と言うからには、みみっちいことを書いてはいけないのだろうが、やはりチョットしたお得感には惹かれる。

今日は葉巻の話をしたい。お得感とは、すなわち、いかにしてハバナ産の上質なシガーを入手するかという話だ。

以前、メキシコのリゾート地・カンクンで面白い経験をした。カリブ海に位置するカンクンは地図で見ると分かるが、キューバのすぐ横にある。

カンクンのシガーショップには当然、ハバナシガーがたくさん並んでいる。国策によってキューバ製品を入手できないアメリカ人は、アメリカ本土から目と鼻の距離にあるカンクンあたりでハバナシガーを手に入れるので、どの店も賑わっている。

私もアメリカ人に混ざって、あれこれ店内を見回していると、人相、目つきの悪い男が店主と何やら交渉をはじめた。褐色の肌のこの男、着ているものもどこか野暮ったい。ホームレスというほどではないが、薄汚れた感じで、顔を隠せるような大きな帽子を目深にかぶり、大きめのボストンバックを大事そうに抱えている。

キューバからの密航者だったのかもしれない。ハバナシガーを大量に抱えて、店主に売りつけようと食い下がっている。詳しくは分からないが、結局話はまとまらなかったようで、その後、男は店の出入り口付近でシガーショップに来る客に微妙な秋波を送りはじめた。

葉巻好き観光客と直接取引しようという算段らしい。この様子が、映画に出てくる悪者そのもの。アゴを上げ気味にしたままギョロっとした目でお目当ての相手に視線を浴びせ、目があった途端にほんの少しの笑みと同時に、突き上げているアゴをもう一段ピクッと持ち上げる。それがすべてのサインだ。

私もワクワクしながら怖いもの見たさで、奴の視線が飛んでくるのを待った。そして、奴のアゴの動きに招かれるように、人目を避けて奴の営業攻勢を受けてみた。

ボストンバックの中身をチラ見せしてもらうと大量のハバナシガーの木箱。奴が提示してくる値段も日本で買う正価の半額以下。思わずこの不法取引に手を染めることにする。

ところがこの悪者、ここにあるのは箱だけで、現物はホテルの部屋にあるという。これから案内するぞと言われて、さすがに尻込みした。身ぐるみはがされてカリブ海に浮かぶ自分の姿をイメージして取引断念。

でもちょっとスリリングな時間だった。

キューバ・ハバナシガー独特の芳醇な香りと味わいは、シガー愛好家を間違いなく虜にする。ブランドイメージだけではない。実際に他のカリブ方面を産地とするシガーと明確に違いがある。当然、世界的な人気のせいで値段も高い。

最近は、キューバとアメリカの雪解けが話題になる。禁輸政策に終止符が打たれたら、間違いなくハバナシガーはアメリカ国内市場で完売だろう。気軽に日本で買えなくなると考えた方がいい。

高いものをナントカ安く入手したい私が実行しているのがネットショッピングだ。海外の格安葉巻販売業者から直送してもらう。早ければ注文後、中2日で到着する。 

もちろん、信頼できる業者のサイトかどうかを見極めるまでは結構ハラハラだった。クレジットカード情報を業者に提示するわけだから、さすがに慎重になる。まあそんな思いもいま思えば楽しいのかもしれない。

結局、信頼できるサイトを2つに絞って使い分けている。香港とオランダのサイトだ。どちらのサイトも、頻繁にキャンペーンを展開。期間限定の大幅値引きなんかを企画するので見ていて飽きない。

先日注文したのは、ロブストサイズを5銘柄5本ずつパッケージしたセットもののキャンペーン。ファンロペス、ホヨー、パンチ、コイーバなどのロブストだったので、好きなものが多くお得感バッチリ。

これからは屋外でもシガータイムが気持ちのいい季節。しばし、このセットものを楽しもうと思う。

2008年5月15日木曜日

年収なんてアテにならない

ちっとも美人でもないのに美人女医とかの肩書きでテレビに出ている西川史子というイロモノがいる。オトコを選ぶ基準として年収4千万円にこだわっているそうだ。本音だかなんだか知らないが、単に下品な話だ。要は富裕層しか相手にしませんという意味だろう。

何日か前に富裕層マーケットに関する話を書いた。あらゆる業界が躍起になってビジネスターゲットにしている富裕層とは、そもそも浮遊物体のようにマトが絞れるものではない。

相続リッチとか上場益リッチとか、ある日突然、長者になった人もいれば、代々続く土地持ちや事業承継者など継続的にリッチ層に属している人もいる。キャッシュリッチと資産リッチにも違いはあるし、一概に定義づけられるものではない。

とはいえ、西川ナントカが主張するように、一般的に富裕層が語られる際、キーワードのように使われるのが「年収」という基準だ。

確かにひとつの基準ではあるが、この部分だけでは測れないのが日本の富裕層だろう。

たとえば年収1500万円の中小企業の社長と、年収5千万円の金融マン。年収では一目瞭然の格差があるが、社長さんの会社が安定企業だったとする。金融マンは運用成績などに大きく左右されるインセンティブが稼ぎの中心だとすると、安定感ではがぜん社長さんの方に軍配が上がる。

それだけではない。社長さんには、日本の企業経営者の一種の特徴とも言える「会社の財布」という別個のベネフィットがある。

社長車のメルセデスをはじめ、週末のゴルフも法人会員権が複数あって、住まいも役員社宅というケースも珍しくない。ついでにいえば、軽井沢にも会社の保養所名目で別荘があったりする。

税務上、一連の会社名義資産が、あくまで社長個人の私的目的だけに使われていれば、給与認定という問題が生じるが、現実には、業務利用も多いだろうし、よほど極端な事例でなければ、実務の現場で問題になることは少ない。

一方の金融マン。確かに充分リッチではあるが、社長さんと同レベルの資産を個人で獲得するには、相当な苦労がともなう。

海外出張だってサラリーマンである以上、ファーストクラスに乗れるわけでもなく、交際費だって社長さんのようにはいかない。

結果、本当の可処分所得という視点で考えるとどっちが有利かどうかは簡単に判断できない。安定感も考慮すると年収1500万円の方が相当にリッチな人という結論に達する。

年収がすべての基準という考え方は現実社会では、かくも脆い。ついでにいえば、さっきの社長さんのようなケースでは、所得税の累進税率を嫌って、あえて年収自体を低く抑える人も珍しくない。おまけに、奥さんを社長に準じる報酬の専務に就けたりすれば、本当の可処分所得はグンと上昇する。

“よく分からないけどお金持ち”という階層が世の中に相当存在するが、その多くがこうした仕組みに成り立っている。

富裕層をターゲットにした商売を考える人のうち、こうした実情を正確に理解している人が意外に少ないことに驚かされる。

けた違いのリッチマンは別にして、結局は、表面的な年収より、一定レベル以上の企業における法人資金の決裁権者こそがベーシックな富裕層といえる。

一定の社歴がある一定規模以上の会社の同族経営者。こうした階層が、いわば落着きのある富裕層になるわけだが、こうした階層だけにターゲットを絞ったメディアが意外に見あたらない。

『オーナーズライフ』はフリーペーパーという気軽な形態をとっているものの、上記したような階層が本当に求めているテーマに的を絞っているため根強いファンは多い。

会社経費とポケットマネー、いわば2つの財布の使い分けに関する情報や、事業承継という経営者最大の関心事の分析などお堅いテーマではあるが、このあたりに支持が多い。

何千万円もする船旅や何百万円もする時計の話など上質レジャー専門の話題は富裕層に刺さるテーマではあるのだろう。ただ、そんな話ばかりじゃ間抜けだ。経営者視線での税務・財務戦略は欠かせないテーマだ。

2008年5月14日水曜日

骨董という名の魔力

やきものに興味を持っていれば、骨董の世界は避けて通れない。このブログでも以前、古い壺の話を書いたが、壺よりも手っ取り早い骨董入門が酒器類だろう。

手っ取り早いからこそ、マガイものの多さも目を覆いたくなるほど。私も随分ヘンテコなものを買ってしまった。

いまはすっかり現代陶芸作家モノ専門に集めるようになったが、器好きのご多分に漏れず、一時は李朝モノに興味が強まった。

李朝とは、朝鮮半島最後の王朝である李氏朝鮮時代を総称する表現。これが厄介。ひとことで李朝といっても、1300年代から1900年代前半までを指す。これだけ長い期間だからインチキも出没しやすい。「李朝モノ」といっても100年足らずの歴史しか刻んでいないものがザラ。いや一般に出回っているものの大半がこの手の李朝後期、もしくは李朝後の李朝写し。

私も勇んで韓国・ソウルを訪れ、骨董あさりを2,3度体験した。インサドンはもちろん、踏十里というややはずれにある骨董団地にも足を運んだ。

踏十里の骨董団地では、日本語ペラペラの老人が営む「ニセモノ専門」の店が印象深かった。手にとって品物を見ているだけで、「それはうまく出来ているでしょう。最上級のニセモノだよ」とズバリ言ってくる。
この地の卓越したニセモノ技術に関心。ニセモノを本物と騙して売っていないだけに値段もお安く、記念にいくつか購入した。いい感じの一輪挿しなど、わが家で結構活躍している。

李朝モノ(もちろん後期だが)で唯一、まとも、かつ気に入っているのが、見込み部分の底に金継ぎが三日月のように入っている盃。もとは豆皿だったような風体だが、直径8センチほどなので盃として通用するサイズ。

古くてもただカセてしまっている器も多いが、この盃は別。大事に使われ続けたであろう証拠ともいえるトロリ感のあるテカリが艶っぽい。酒を注いだ後に怪しく光る金継ぎの効果もあってお気に入りだ。

骨董屋が多いことで知られる西荻窪の某店でウン万円で購入。

李朝以外にも、南国ダイビング趣味が高じていろんな変なものを買ってしまった。

現在のタイを産地とする宋胡録(スンコロク)やクメール関係モノ、フィリピンあたりを産地とするルソン関係モノ、そしてベトナムあたりが産地の安南モノなどだ。

安物買いのナントカとはよく言ったもので、たいていが「具合が悪い」もしくは「イケナイ」。ニセモノやダメなものをこう表現するケースが骨董の世界では多い。

いざ買ってみて、まじまじと眺め、掌で遊んでいるうちに不思議と「やっぱり違う」という違和感を覚える。感覚的なものだが、実際その感覚はほとんど間違っていない。

わざとらしく、薬品で器肌をカセさせたもの、いやらしく作為的に割った後でわざとらしく継いで貴重な逸品に見せかけているものなどさまざま。2番目の写真は、安南の小壺との触れ込みで買ってしまった、うさんくさい一品。会社のデスクでクリップなどの小物を入れる器として使っている。

聞くところによると、東南アジア方面では、肥溜めに漬け込んで、独特の時代がかった汚れを染みこませるというタマンナイ話も聞いたことがある。

そんな恐ろしいことを想像するだけで気が滅入る。最近では、東南アジア方面でも、その土地土地で現在作られている器類を見にいくことが多くなった。伝統的なその土地の作風を現代風にアレンジした中には、結構、品のある作品も多く、骨董ばかり血眼になって探すより安心で楽しい。

そうはいっても、外国で骨董屋を見かけると、ついつい覗いてしまうのはナゼだろう。

「これはアンコールワット遺跡から盗掘された仏塔の装飾だよ」とかなんとか怪しく囁く骨董商。興味を持ったフリをして値段をたずねる。日本円にして5千円程度の金額を言ってくるんだからしょうもない。

そんな値段で、そんなものが買えたらお笑いだ。でも、そんな顔をせずに値切り交渉すれば、3千円ぐらいにまで下がるんだから、アンコールワットも困ったものだろう。

こんなレベルのやり取りになると、「ばかしあい」ならぬ「ばかとばか」だ。だから楽しい。

2008年5月13日火曜日

マイぐい呑み

日々の暮らしの中でチョットした喜び、チョットしたこだわりを大事にすることは大事だと思う。毎日そうそう刺激的なことが起きるわけないし、積極的に自分なりのプチ快感を作っていかないと干からびてしまう。

私のプチ快感のひとつが、ぐい呑みを持ち歩いて、気分に応じて使い分けること。ビジネスバッグには、たいてい2個は入れてある。基本的に唐津か備前だ。どちらかといえば唐津がお燗用、備前を冷酒用に使い分ける。

備前焼中興の祖・金重陶陽の作風の影響もあって備前のぐい呑みは大ぶりなモノが多い。今は亡き酒器の達人・中村六郎の作品など湯飲みを思わせるサイズのモノも珍しくない。

もっとも、熱狂的なファンの多い「六郎ぐい呑み」も六郎さんが晩年、断酒したあたりから幾分サイズが小さめになり、この時期の作品は私のような“小酒呑み”には使い勝手がいい。いくつも入手した。ただ、持ち歩いた先で誤って割ってしまうには惜しい値段で購入しているため、いまだ持ち歩き組には入れていない。我ながらセコイかも。

備前のぐい呑みを冷酒用に使うのにはサイズの他にも理由がある。ぐい呑みが汗をかくところがいい。冷えた酒が器に注がれることで器肌がしっとり濡れてくる。釉薬を使わずに土をそのまま焼成しただけの自然の産物だけに、備前焼の濡れた器肌は実に素朴で愛おしい。

私が持ち歩き組に選んでいる備前のぐい呑みはいくつもある。まず吉本正さんの端正な一品。先に述べた金重陶陽と並び称される備前焼の先人・藤原啓の直系である吉本さんの作風は、荒々しさより繊細な感じが強い。一度、工房に押しかけたことがあるが、アポ無し訪問の私を応接間に通してくださり、穏やかな様子で作陶の話を聞かせてもらった。人柄を思わせるきちんとした作風で少しキリッとした気分で酔っぱらうときにピッタリ。

次によく使うのが金重家の継承者である金重晃介さんのぐい呑み。やや小ぶりで口が底より狭めに造られていて、そのフォルムのせいか、アツアツのお燗酒を口をすぼめて呑んだりするときにもいい感じ。全体に重たい雰囲気の作品だが、器肌の変化が多彩で正統派備前という雰囲気が気に入っている。

唐津のぐい呑みもたくさん持っているが、以前より小ぶりな作品を好むようになってきた。ぐい呑みと呼ぶより、盃と表現したくなる感じの作品が好きだ。いろいろな焼き上がりのパターンがある唐津焼だが、なかでも斑唐津が好みだ。

白ベースの色合いに焼成変化で淡い青や黒がはぜたような小さな変化が器を彩っているため、実際に酒を注ぐと盃の底がゆらゆらきらめき、飛び込みたくなる。

作家モノを随分集めてきたが、よく外出時にお供してもらうのは、浜本洋好さんの小ぶりな作品や岡本作礼さんの作品。いずれも私が工房まで訪ねていった作家さんだ。野武士然とした表情を見せる唐津焼に優しい雰囲気がミックスされたような作風が印象的だ。

さてさて、“マイぐい呑み”を店に入ってからゴソゴソ取り出して呑む気分は格別だ。安酒だって極上の味わいになる。ひょんな効果もあって、カウンター越しに店主と話が弾むきっかけになったりする。内気な私?には便利な機能かも知れない。

酔うこと自体が異次元に旅するようなものだが、この先導役にお気に入りの酒器を使えば、一瞬のうちに自分だけの小宇宙に飛んでいける(ちょっと大げさか)。

マイぐい呑みを嬉しそうに使っていると、ついつい余計なことも頭をよぎる。「なぜこんな変な徳利を使わないと行けないのか」、「お気に入りの豆皿を持参して珍味を盛ってもらいたい」等々。結局、その店で使われている器類が気になり始める。

さすがに徳利や小皿まで持ち歩くような間抜けにはなれない。それなら家で呑めという結論に達してしまう。それもちょっと違う。考え出すときりがない。

でもそんなくだらないことで葛藤していることこそが、プチ快感なんだと思う。

2008年5月12日月曜日

人の振りみてナントカ

ひとり酒の楽しみは自分と向き合って自分の内面と語り合う。なんてことはさらさらない。単にものぐさが高じてマイペースで過ごしたいだけの話。そうはいっても、ひとり酒ならではの楽しみも確かに存在する。

楽しみのひとつが盗み聞き。趣味の良い話ではないが、カウンターで呑んだり食べたりしていると、ついつい人様の話に耳を傾けたくなる。かなり面白い。

毎週土曜日の夕方、東京FMで流れている長寿番組がある。「avanti」という架空のバーを舞台に、バーテンが進行役になり、客同士が盛り上がっている話に聞き耳をたてるという設定の番組。

客として登場する人々は特別有名人というわけでなく、特殊な趣味を持っていたり、珍しい場所を旅してきた人など多種多様。グラスや氷のカランコロンとした音色や低く流れるジャズをBGMに、その人のちょっとしたウンチクに耳を傾けるスタイルだ。

確か10年以上前から続いている番組だ。どうってことのない話の魅力は聞いていて疲れないこと。この番組、機会があれば聞いているが、いつの間にか話の内容自体を忘れしまうほどのさりげなさが気に入っている。

話がそれてしまった。私自身の実際の聞き耳の話だ。カウンター越しの店主と馴染み客の話の場合もあれば、肩を並べた親父同士の愚痴合戦を聞くこともある。悪趣味だが楽しい。

最近、とても印象的だったのは、新橋寄りの某鮨店で遭遇した絵に描いたような同伴カップルの会話。

男はでっぷりとしたたたき上げ社長風。女性は20代半ばの素人っぽさを売りにしている感じの中堅ホステスさん。どうやら、この二人、同伴は初めての様子。

ちょっと遅れて店に到着した社長。物凄く低姿勢かつ執拗にわびている。

「君の貴重な10分をムダにしてすまない」。

こんなセリフが聞こえてくるから私の耳はダンボになってしまう。そして遅れた理由を“多忙な自分”、“自分がいないと物事が回らない”ことだと力説する。

その後、さりげなく自分の会社の自慢が続き、ようやく自分自身のPRタイムに突入。

「僕ほど優しい男はいない」。

聞かされている女性の方は上手に肯定してあげている。社長満足。

その後、近く予定している札幌出張の話に変わる。多忙なはずの社長だが、札幌出張では、いかに自由時間が多いかを熱く語る。そしてお決まりの「一緒に行こう」攻撃へ。

笑ってかわされる。社長撃沈。まだ知り合って間もない様子なのにそりゃ無理だろう。女性の方も笑ってかわすしかない。でも社長の表情は真面目に落胆気味。ちょっと可愛い。頑張れ!

その後、頑張る社長はクラクラするセリフを連発。

「今日の主役はキミだ」。
「キミはぼくに選ばれたんだ」。

すごい必死な感じで可愛い。でも女性の方は、「腕押しされたノレン」みたいな感じでなかなかかみ合わない。この部分が女性の技量なのかも知れない。決して素っ気ないわけではなく、そっぽを向くわけでもない。

ただ、社長の仕掛けてくる言葉に決してのらない。短いセンテンスで相づちをうつ程度で、長文会話を切り返すことをしない。社長としては自分のペースに引き込めないのだろう。おそるべし。

そしてこの女性、独特なワザを持っていた。
会話のとぎれた頃合いを見計らってポツンとひと言、独り言のようにそっとつぶやく。

「ほんと、幸せ」。

このセリフ、横に座っていた私は3回聞いた気がする。美味しい食べ物に対して「幸せ」と表現しているのか、社長からヨイショされることに対して「幸せ」と表現しているのか、まったく分からない。シッポを掴ませない言葉だ。

でも、この言葉を聞くたび社長は上機嫌になる。社長としては、自分と過ごしている時間を幸せに感じてくれていると思うのだろう。社長満足。私も満足。

そして、お店に遅刻しないよう女性ではなく、社長の方が神経質に時間をチェックし、慌ただしく去っていった。楽しげな社長の後ろ姿に夜の街の効能を見た気がする。

さんざん偉そうに書いてみたが、この会話を聞いている間、ついつい我が身を振り返った。きっと私も人様のことを言えないのだろう。同伴こそめったにしないものの、酒場で女性陣に上目遣いで見られるだけで錯覚してしまう間抜けな私のことだ。自分で自分を見ることができたら赤面モノだろう。

この日の教訓。「我以外、皆我が師なり」。

2008年5月9日金曜日

毒があるから食べたい

最近なんだか貝が美味しい。
変なことを想像してはいけない。純粋に旬の貝が甘くて美味しい。いまの季節はあちこちのお店で結構貝類を勧められる。

そもそも貝には旬が判然としないものも多いらしい。魚と違って脂がのるわけではないため、旬が曖昧なまま1年中食べられるものが多い。

そうはいっても、いわゆるウマミ成分とやらは季節によって変化するらしく、まっとうなお鮨屋さんが、自信を持って出してくる貝は、たいてい「今が旬」というフレーズ付きだ。

一昔前までは、貝類はあまり好きではなかった。いま思うとあのサッパリ感が原因だろう。肉食偏重、魚でも脂分の強いものが好きだった頃に、貝の味わいはどこか頼りない感じで、鮨屋で注文する際にもお気に入りランク外だった。

貝に惹かれるようになったのも加齢が原因だろうか。あらためて気付いたが、トロとかシマアジ、カレイやヒラメの縁側あたりも以前ほど食べなくなった。サッパリ系を好むようになってきた。性格も以前よりサッパリしていればいいのだが・・・。

先日、連休の谷間で人通りの少ない銀座にいた。普段は、時間帯によっては混雑してなかなか入れない店に行こうと、久しぶりに「鮨・池澤」ののれんを一人でくぐった。

運良くというか、運悪く私が過ごした前半の時間は貸切状態。客の心理はわがままなもので、混雑していれば居心地悪く感じ、ガラガラ過ぎても居心地は良くない。

そんな微妙な気持ちもうまいものにありつくと吹っ飛ぶ。ナマのトリ貝の甘さに思わず燗酒がぐいぐい進む。一気に幸せな時間になった。

2月に行った網走でもやたらと貝を食べた気がする。最近お気に入りのツブ貝やホッキ貝。ナマでも焼いても美味しい。それ以外にも最近は、行く先々のお鮨屋さんで、ついつい青柳も注文する。これまた今の季節にピッタリの爽やかな味わい。こちらは冷酒に合わせる方が美味しい。

数日後、別のお鮨屋さんで、運悪く食べたい貝が品切れで、すすめられるままにアワビを焼いてもらった。アワビばかりは固いばかりの刺身より火を通した方が好みだが、お鮨屋さんには珍しく、バターをタップリ使った味わいにはまって焼酎を飲み過ぎた。

なんだかんだと貝について書いたが、富豪記者的心構えとしては、なるべく単価の高い店で食べるように心掛けている。安い店で出される安価な貝はやっぱり恐い。先日も某居酒屋でナマのサザエの肝が出てきたが、勇気を振り絞って食べないようにした。

たいてい大丈夫なはずだが、やはりこちらの体調も関係してくる話。貝毒はあたったら洒落にならない。

とりとめのない話を書いてきたが、やはり貝といえばいかがわしい想像に行ってしまいがち(結局そこに落ち着いてしまった・・・)。妙になまめかしい見た目の様子とかクセのある味わいがどうしたという下世話なことは書かない。

でも、「あたったら恐い」「あたったら痛い目に遭う」という点では、“貝の擬人化”は正しいのかも知れない。

毒がありそうなほど食べたくなる。男のサガだろう。

2008年5月8日木曜日

銀座のクラブにホームページがない理由

今日のタイトル通りの本を書いたら多分売れると思う。そう思うほど、昨今の「富裕層ビジネス」というシロモノはピントがずれている気がする。

富裕層をターゲットにしたビジネス競争が活性化する中、多くがインターネット上であれやこれや仕掛けている。

もちろん、「富裕層」という言葉の定義自体が曖昧であり、貧乏階層から見た小金持ちレベルがターゲットであれば、インターネット上でそれなりのビジネスチャンスは実現するだろう。

富裕層といっても、飲み代に困らないとか、不倫相手とのデート代に困らないといった、ありふれたリッチではなく、数百万円、いや数千万円の消費行動に思い切った行動をとれる階層はインターネット上の仕掛けに踊らされる可能性は低い。

そういうことを表現する意味で今日のタイトルをつけてみた。「銀座のクラブ」をネットで検索しても、まともな情報は一切出てこない。見つけたように見えて、よく見ればキャバクラの情報だったりする。

京都・祇園の御茶屋さん遊びも同様。ネットで情報は出てこない。こういう特殊な世界では、店側が自らホームページを開設している例はほとんどない。客側も店の実名を出して馴染みであることを誇示するような話題を書き込むようなこともまずない。

こうした例はまだまだある。たとえば、一流といわれる料亭しかり。連夜、黒塗りが列をなす料亭の情報はインターネットとは無縁だ。うまいのマズいの高いの安いのといった生の声は、文字通り知る人ぞ知る話でしかない。

最上級といわれるような日本料理店、割烹の情報だって門戸を広く開けている一部の高級店は別にしてインターネットで深い情報を入手することは難しい。

一部のモノズキな人が、時たまこの手の店の訪問記をブログなどで公開していることはあるが、多くの場合、ランチを一度食べた経験を一生懸命書いているような感じで、間違っても常連レベルの人が、その手の店の機微に触れていることはない。

もっと例を出してみたい。アメックスのホームページにプラチナカードとブラックカードの情報やPRは出ていない。

すべての例えに言えることだが、常連とかメンバーの目線で考えた場合、不特定多数の大衆に盛んに告知をする必要があるものを有り難く思わないのは当然の話なのだろう。ここがインターネットと富裕層がかみ合わないポイントだと思う。

仮にホームページを設けていても、あからさまな「売らんかなオーラ」があると、とたんに下品なイメージにつながる。

エルメスとルイヴィトンのホームページも興味深い。世界的ファッションブランドという特性上、両社ともさすがに公式ホームページはある。ただ、毛色の違いがどことなく特徴的だ。

エルメスのそれは、エルメスのなんたるかをよく分からない凝った仕組みのページで羅列してあり、良くいえばアカデミック路線。「ホームページなんか本当はいらない」といいたげな気配すらある。対するヴィトン、こっちはこっちで率直にいって「売らんかな」姿勢が前面に出ている。妙におかしく妙に納得。

こうした例えは、どんなジャンルにも当てはまるが、富裕層ビジネスという曖昧模糊とした幻想は、ネット上でさまざまな呼びかけを、幻かも知れない富裕層相手に叫び続けている。

対する富裕層の人々はネット上に飛び交う情報を自分達とは違う階層が活用するものとして冷めた目線で眺めているだけなのだろう。ピントがズレている。

また例え話になるが、ロールスロイスの正規代理店であるコーンズのホームページも象徴的だ。ロールスロイスの説明ページは素っ気ないほどあっさりしている。情報の洪水になれてしまった目から見ると、「やる気あるのかな」とすら思える。

結局、購入予備軍は、ここで情報を仕入れるわけではなく、限定的な世界で、人づてに、いわばアナログな世界で情報を仕入れているか、はたまた自らの信念だけで価値判断をしているわけだ。

名門幼稚園とか小学校のお受験熱が相変わらずだが、これだって、「その道に行くべき人々」が「その道の適切な情報」を「その道にいる人々」から耳にしているのが実情だろう。そしてまた、その手の人が勝ち組になっている。ネットの掲示板などに必死に何かを書き込んでいる段階で門前払いの対象だろう。その時点で「違う世界の住人」になってしまうのが実際のところだろう。

結局、富裕層と呼ばれる人々は、小さなコミュニティで独自の空気の中で“浮遊”しているということ。物凄くアナログなのが実態だと思う。

そして富裕層ビジネスの幻想をもうひとつ。富裕層に属していない人々が思いつきで手掛けようとしても、その発想は富裕層に刺さらないという根本的な問題がある。

昨今、東大出の若者が東大出のメンバーで会社を固めて“セレブ市場に殴り込み”みたいな話をよく聞く。“東大出てMBAも持っていて、どっかのエリート金融マン生活を経て、富裕層相手に起業”といったノリだ。全然ピントが合っていない。

富裕層の人々にとって、こうした動きや経歴などは気になるものではなく、まさに「別に・・・」という感覚だと思う。富裕層が富裕層相手に何らかの仕掛けをすれば刺さりやすいのだろうが、富裕層の人々は、そもそも富裕を題材に何かをすること自体に抵抗があるだろうから、こうしたビジネスモデルは生まれない。

まとまりがなくなってきたが、身近にいる本当のお金持ちを思い浮かべていただきたい。その人達の消費行動って、たいていが狭い世界のインサイド情報に基づいていて、確固としてぶれないこだわりがあって、相当に地に足がついている印象があることが共通している。もちろん、ちょっとした買い物なんかは、ネット情報に踊らされることもあるだろうが、本質的な消費には独特の視点があることは疑いようがない。

無理やり結論。いま、一流といわれている銀座のクラブが更なる高みを目指して、ホームページを開設してバンバンPRに打って出たとする。ほんの数ヶ月で一流という称号は消え失せることは間違いない。その狭さ、その限定感覚、その閉鎖的環境が富裕層の行動原理なんだと思う。

2008年5月7日水曜日

中村征夫さんの個展


日本橋三越で開催中の中村征夫さんの写真展に行ってきた。ご本人も連日トーク会のために会場につめているようで、その実直かつ優しい人柄に間近で触れることができる。

ミクロネシア・トラック島そばのジープ島、エジプト・紅海、沖縄・慶良間諸島での作品を中心に彼のライフワークでもある東京湾の環境生態写真も数多く展示されており見ごたえ抜群。

画像で添付した入場券の写真、半分しか写っていないが、サカナ型にぽっかりあいた穴から見える青い海、このシルエットに穴の形と同様の形の魚が浮かんでいて楽しい。現物は会場でご覧いただきたい。

前述した撮影地以外にも、南国関係は私自身行ったことがあるところばかりなので、親近感を感じるとともに、写真のレベルの違いをまざまざと実感させられた(当たり前だが)。

私にとって大収穫だったのは、改めて水中撮影へのモチベーションが上がったことだけでなく、自分が20年以上遊びとはいえ一生懸命撮影してきた写真の「悪い癖」に気づいたところだろう。

悪い癖とは、ようするに「オリジナリティの無さ」に尽きる。簡単に言えば、「どこかで見たようなアングル」、「何かを真似したような作風」だということ。

写真撮影をまじめにやってみたのは、水中からなので、カメラの基本も構図の基本もすべて水中写真が自分にとってのベース。そうなると、ダイビング雑誌に掲載されていた綺麗な写真や各種の図鑑で見た写真が頭に強くインプットされ、なんとなくそのモノマネ的な写真を必死に撮影してきたような気がする。

何千回、何万回、シャッターを切ったかわからないが、出来上がりを見て、自分で気に入ったのは、すべてそうした「何かに支配された写真」ばかり。ボツにして捨てた写真の中にきっとオリジナリティにあふれた面白い作品がいっぱいあったように思う。

中村さんの作品を見ていて、さすがに第一人者だけに、独創的な視点の作品がたくさんあった。すごく新鮮な衝撃と言っても過言ではないだろう。やはり一流のものにじかに触れる経験って大事だと痛感した。

そんなことはともかく、ダイバーであるなしにかかわらず、とても癒されたり、考えさせられたりする写真が大量に展示されている。まだ会期は残っているので、是非足を運ばれることをお勧めします。

2008年5月2日金曜日

プライベートジェット

お金ってあるところにはあるもので、一昔前は好況企業でも持とうという発想がなかったプライベートジェットが、新興好況企業には現実的な選択になっているらしい。

プライベートジェットというとハリウッドスターとかエンタメ系の世界的有名人が所有するものというイメージも過去の話だ。

ミシュランガイドが東京版を出したことで、外国のリッチマンが、わざわざプライベートジェットで来日し、銀座あたりの有名寿司店を借り切って食事したなんて話も聞かれる。

我が物顔に空を飛びたいという発想は、有り余る財力を手にした人間が本能的に思うものかも知れない。

まあ、そんな浪漫話というより、節税効果を念頭にプライベートジェットを考える新興企業が多いのが実情だ。

その昔、それなりの規模に成長した企業が、それこそ誇りにするかのように納税したような感覚はイマドキの企業にはない。税制が有利な国に本社所在地を移すことにだって抵抗はないし、世界を股にかけて合法的な節税を徹底的に追求する。

国を挙げて経済成長を目指し、世界の上流にはい上がろうとしていた時代とは完全にモノの考え方が変わった。

世界有数の大国になったと言われる割には、幸福度を計ることが難しく、国民への還元どころか、税金のムダ遣いは乱発され、社会保険だって滅茶苦茶、官僚機構も迷走。結果、すべての分野で深刻なモラルハザードが生じ、日本的奥ゆかしさみたいな感性がどんどん薄くなっている。

「いつかはクラウン」というコマーシャルがその昔、一世を風靡した。あの時代は、クルマ選びだって、大きなポイントは、“周囲の視線”だった。目上の人間がクラウンに乗っていたらマークⅡに乗らねば、みたいな独特な感性が根を張っていた。

いまは、まさに“そんなの関係ねえ”という感覚がすべての分野に浸透している。
是非を語る気はないが、それがいまの風潮。

だから、ガバッと儲かれば、必死に節税を考える。プライベートジェットの購入も節税には大きな効果を発揮する。中古機だったら耐用年数の関係で償却額も大きくなり、なおさら効果があるわけだ。

強引な節税手法も次々に登場し、国税庁もその対応にカリカリしている。ここ数年、「国税当局による強引な課税」を指摘する税理士や大企業関係者が多いが、その背景に「強引な節税」があるのも事実だ。

実際に、節税タタキに躍起になっている国税当局幹部は「いまの時代、訴訟を起こされても多少強引に課税しないと節税規制が追いつかない」と語っている。なんか殺伐とした世の中になってきたような気がする。

なんか今日はまとまりのない話になってしまった。毎晩呑みすぎているので頭がボーとしているからだろう。

2008年5月1日木曜日

脱税の心理と懺悔のブログ

映画「ブレイド」シリーズなどで知られるアメリカの俳優ウェズリー・スナイプスが脱税罪で禁固3年の判決を受けた。裁判所としては有名人を一種の見せしめにすることで抑止力につなげる思惑もあるようだ。

http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2382860/2863978

納税道義とか納税思想という言葉がよく使われる。分かりやすくいえば、その国の国民が会費としての税金を適切に納める意識が高いか低いかというニュアンスで使われる。

何かとアメリカを憧れとしての比較対象にしたがるわが国では、この問題についても「国家成立の経緯もあって米国では納税道義が高く、積極的な納税を心掛ける市民も多い」といったステレオタイプなプロパガンダが流布されることが多い。

以前、『納税通信』の読者を対象に米国会計事情視察ツアーを実施した際、彼の地の本音を取材しようとアレコレと生の声を拾ってみた。

この時のツアーは、当時、日本が未導入だった電子申告の状況を調査することが主眼だったため、なかなか、税務行政の真相までは調査しづらかったが、それでも興味深い話を色々と聞くことが出来た。

半世紀以上にわたって税金の専門新聞を発行している関係で、独自のネットワークでアメリカの国税庁に当たるIRS(内国歳入庁)も訪ねることができ、取材にも好意的に対応してもらった。

その流れである晩、日本料理店に関係者を招いて、束の間の税務行政談義を展開したのだが、ちょうどIRSを退職したばかりの人物が語った話が印象的だった。

内容はざっとこんな話。「これほどまで脱税が横行しているとは分からなかったし、こんなに脱税のために納税者が研究しているとは思わなかった」。

敏腕調査官として活躍した、いい年をした人物でさえ、公務員生活を終えて民間の事情を垣間見た途端にその実態に驚いたという。

ひねた見方をすれば、何十年も「官」の飯を食っていたからこそ、そんな事情に気付かなかったともいえるが、いずれにしろ「アメリカの納税道義は高い水準で・・・」云々の話は、まるで的外れというエピソードではある。

脱税への欲求って性悪説に立てば仕方ないのかも知れない。欲が理性に負ければ誰にでも犯罪者になりえる。

「私はこうして脱税した」というタイトルのブログを紹介したい。欲におぼれて道を外れてしまった経営者の懺悔録だ。誰もが最初は軽い気持ちであり、出来心からおかしくなっていく。こわいこわい。