2015年7月31日金曜日

タンスイカブラーとビリヤニ


「炭水化物の摂り過ぎは危険」。この手の話に過敏に反応するのは嫌いなのだが、最近はチョット気にしている。

どうもここ1か月ぐらい調子が上がらない。スッキリ爽やかな気分で過ごす日がほとんど無い。いろいろと原因を考えたのだが、「炭水化物犯人説」も充分にあり得る気がしてきた。

ここ1~2か月、特に理由はないが、酒量が減った。飲む時はズンズン飲むのだが、まるっきり飲まない日も増えた。

しっかり飲む時はツマミは少なめで炭水化物は腹がふくれるので食べない。酒を抜く日は酒のカロリーの分まで堂々と炭水化物を食べてしまう。

ということで、このところ以前より炭水化物をドカ食いする機会が増えたのは確かである。

炭水化物の摂り過ぎは次のような症状が出るそうだ。

疲労感
集中力低下
記憶力低下
いつも眠い
中性脂肪の増加
高血圧

いやはや、まさに最近の私の状態のようである。炭水化物、すなわち糖質の大量摂取がそんな悪影響をもたらすなんて知らなかった。

エネルギーが増強すると思ってガツガツ食べていたのに逆効果だったかもしれない。

あー面倒くさい話である。糖質制限ダイエットは高齢者が頑張るとかえって危険だという話もある。そんな話を聞いて「炭水化物はいいヤツ」だと信じていたのに裏切られた感じだ。

まあ、そうはいっても何事も過剰反応はバカっぽいから、今後は少しだけタンスイカブラー生活を控えめにしてみようと思う。もっと酒を飲む機会を増やせば済む話である。

で、そんな悟り?にたどりつく前の最近も「ウマい糖質」をわっせわっせと摂取していた。

インド料理のビリヤニをご存じだろうか。平たくいえば「インドの炊き込みご飯」である。コメ好きな私としてはウットリしちゃう食べ物である。

ここ10年ぐらいでやたらと増殖したそっち方面のカレー専門店のメニューにも「ビリヤニ」をちょくちょく見かける。

ところが、大半の店がサフランライスを具と一緒に炒めてチャッチャと提供するバージョンである。いわばインドチャーハンだ。

それはそれでウマいのだが、本場のコメを使った炊き込みご飯とは、やはり似て非なるものである。

先日、友人と食事をする機会があったので本格的なビリヤ二を出す店に行ってみた。京橋というか、銀座1丁目あたりに佇む「カイバル」という店。

姉妹店の「ダバ・インディア」という店が都内屈指の人気店だから、こちらの店も期待できそうである。


カレーもタンドリー料理も実にまっとうで美味しい。アサリと海老のカレーという一品もなかなかおシャンティー?である。

でも、私の狙いはあくまでビリヤニである。釜焼きの肉も魚もカレーも正直いってどうでも良い。体調が変になるほどのタンスイカブラーとしては「インド米の炊き込みご飯」のことばかりが頭をよぎる。

この日は2種類のビリヤニをオーダーした。


最初にやってきたのはマトンのビリヤニである。

ボソボソ系のコメの食感が妙に嬉しい。自宅の炊飯器でもやたらと硬めにコメを炊く私としては、世の中にはびこる軟らかいコメが苦手だ。

その点、「正しいボソボソ感」のこの店のビリヤニは好感が持てる。味も悪くない。具もゴロゴロ入っていてバッチグーだ。思った以上にあっさりしていたので、カレーをかけたりしながら無心で食べる。


続いては鶏の挽き肉のビリヤニである。本当はエビのビリヤニをオーダーしたのだが、店の人が間違えてしまい、炊き直させるのもメンドーなので、そのまま貰うことにした。

まあ、ビリヤニと名が付けば何だって嬉しい私である。こちらも正しくボソボソ。挽き肉のジューシーな感じをまとった細長いインド米が私を悩殺する。

結局、この日も大量に糖質を身体に取り入れてしまったわけだ。問題である。

本格的なビリヤニを堪能したにもかかわらず、私の味覚は、そこらの「ビリヤニもどき」を否定することが出来ないのも事実である。

会社から徒歩3分ぐらいの距離にさえない感じのドンヨリとしたインド料理屋がある。

ビリヤニがメニューにあるので、それを食べに行く。ビチャッとした炒めご飯にスパイシーなチキンがゴロゴロ混ざっている。

正しく言えばビリヤニもどきである。コメが立っている感じも一切ない。でも、なんだか魅力的な味わいで、2か月に一度ぐらいは食べる。

結局、本格的かどうかなんて私には関係ないみたいだ。コメが主役のちょっとジャンクフードっぽい味なら何でもムシャムシャ頬張ってしまう。

ヘンテコな結論である。

というわけで、際限なく炭水化物を食べる生活をチョット変えてみようと思う。1か月も経ったら体調がどう変化したかこのブログで報告します。

2015年7月29日水曜日

夏の味


夏である。暑い。子どもの頃はもちろん、若い頃も暑い夏が大好きだったが、最近はさすがにキツい。実際、昔はこんなに異様に暑くなかった。確実に気象状況は変化している。


目白にある和菓子屋「志むら」のかき氷にありつけないのが物凄くストレスである。例年になく店が大混雑している。先日も平日の夕方16時にノコノコ行ってみたが行列を見て断念。由々しき問題である。

調べてみたら2008年から毎年のようにこのブログでも取り上げていた。「志むらのかき氷」は私にとっての夏の風物詩だ。

SNSなんかが発達したせいか、はたまた単純にかき氷人気が盛り上がっているせいか、年々店が混雑するようになった。ちっとも食べられない。

さて、季節ごとの味覚を楽しむのは日本人の楽しみである。四季それぞれにウリはあるのだが、さすがに暑い季節である夏は他の季節に比べると不利である。ソーメンやスイカやかき氷が主役だったりする。

松茸やフグに比べると随分と線が細い。ウナギを夏のイメージで認識している人もいるが、アレは本来は冬の味覚である。夏にちっとも売れなかったから「土用の丑の日」キャンペーンが生まれたわけだ。

穴子は夏にウマくなる魚だ。ウナギの酢の物である「うざく」を穴子バージョンで作ってもらうのも悪くない。「あなざく」である。不思議と夏になると食べたくなる。



お寿司屋さんのネタで夏を告げるモノといえばシンコだ。コハダの赤ちゃんである。赤ちゃんのホッペのような肌触りというか食感がタマランチンなのだが、夏本番になるとシンコも終わりだ。

6月半ばから後半ぐらいには握り1貫につき5枚漬け、6枚漬けだったものが、徐々に大きくなり、3枚漬けぐらいのサイズになる頃が食べ頃だ。シンコが大きくなれば夏まっ盛りである。

シンコがチヤホヤされなくなった頃に登場するのが新イカである。スミイカの赤ちゃんである。

初物食いといえば聞こえがいいが、シンコも新イカも単なる「赤ちゃん食い」である。そう考えるとちょっと残酷だ。

新イカが終わる頃のには生イクラが出てくる。こっちは赤ちゃんにもなっていないタマゴ状態で食べるわけだから、つくづく残酷な話ではある。残酷だがウマいんだからしょうがない。

さて、新イカである。個人的にはスミイカは好きな種類ではないのだが、新イカは別。赤ちゃん独特のフワッと頼りなく軟らかい感じの食感が最高である。



高田馬場・鮨源で食べた初モノである。新イカと新イカのゲソである。ゲソがまた良かった。ゲソのクセにすべてが「フニャフワ」って感じ。背徳感に満ちた美味しさだった。

なんだか自分がロリコン趣味オヤジみたいに思えてきた。変態趣味があるみたいでイヤだ。

人間の女性が相手なら一応、食べ頃は見極めている。子どもより大人の方がいい。突発的な「事故」の際には、相手が若すぎちゃうこともあるが、やはり「旬」こそ一番だと思っている。

話がそれてしまった。それにしても女性の『旬』って何を基準に決めるのだろう・・・。

さてさて、夏の魚といえば鮎も外せない。珍味好きの私にとっては鮎はキモを味わう魚だというイメージがあるが、身は身で川魚独特の風味があって美味しい。

先日、銀座のお寿司屋さん「さ久ら」で鮎の握りを食べさせてもらった。キモは別途、塩辛っぽく食べさせてもらい、肝心の身は一尾まるまる焼いて頭と尾っぽを切り落とし、寿司飯を抱いてもらった。



焼き鮎の寿司飯サンドみたいな雰囲気である。この季節ならではの楽しみだと思う。
日本人に生まれた幸せを実感する。

なんだか風流ぶった話を書いてしまった。


なんだかんだ言っても、ぶっちゃけ夏は串揚げをつまみに生ビールが最高である。画像はホッピーだが、これもどことなく夏っぽい。

二度漬け禁止の関西風の串揚げ屋でハムカツや紅ショウガの串揚げなんかをツマミにビールや黒ホッピーをグビグビするのが、ニッポンの夏の最高の喜びかもしれない。

ヘンテコなまとめ方になってしまった。

2015年7月27日月曜日

50年に一度


今年の秋が来たらいよいよ50歳である。ビックリだ。四捨五入したら100歳だ。時が経つのがやたらと早く感じる。このブログを書き始めたのは40代前半の頃である。「50歳」なんて遙か先の話だと思っていた。

Facebookの「友達」の大半が小、中、高の同級生だ。そのせいで頻繁に友人達の「大台突破」の知らせが通知される。これまたビックリである。

子どもの頃と同じ感覚で付き合っている連中が「50男」である。私が50になるのも仕方がない。意味不明でスイマセン。

子どもの頃「50歳の人」なんて宇宙人だと思っていたのに、いよいよ10月になったら私も宇宙人になる。

江戸時代だったらヘタすれば隠居爺さんだ。昭和のサラリーマンの定年は55歳。あとたった5年だ。人生の折り返し地点はとっくに過ぎて後半戦まっただ中って感じだ。

でも、有難いことにここ20年ぐらいの間に「年齢の固定概念」が大きく変わった。女優さんは40歳ぐらいでもミニスカートで色恋モノに励み、50歳を過ぎた男優が管理職ではなく現場の若手サラリーマンのような役をこなす。

昭和の大ヒットドラマ「太陽にほえろ」で渋いボス役を演じた石原裕次郎が当時まだ30代後半だったことを思うと、昔の人の老成ぶりに驚く。というか、今のオトナが幼いのだろうか。

社会全体の幼稚化と言ってしまえばそれまでだが、結局そのおかげで50歳前後の中高年がいろんな意味で「現役バリバリ」でいられる。

50ヅラ下げた男が若いお姉さんと普通にデートして、普通の男女みたいな会話を交わし、若者なみにケダモノ的行為に励むことも珍しくなくなった。

昭和の頃とは感覚が違ってきたようだ。高齢化社会の副作用みたいな話である。

おかげで私自身も現役のケダモノとしてお気軽に暮らしているのだから、時代そのものに感謝しないとなるまい。

さて、50年に一度の誕生日である。半世紀に一度である。言葉にすると何だか大変だ。イベント嫌いの私でも何か考えたくなる。

しがない独身生活の影響もあって、誕生日やクリスマスなどのイベントっぽいものがウザくて仕方ない。でも、今年の誕生日は50年に一度だから何か画策しようと思う。

先日、知り合いが東京から広島まで自転車で旅をしたそうだ。5日間という制限の中で想像以上の苦労があったらしい。

一種の極限状態の中で、いろいろなことが見えて、いろいろなことが聞こえてきたそうだ。五感が研ぎ澄まされたらしい。話を聞いて妙に刺激を受けた。

この年になると自らに負荷をかけて何かにチャレンジする場面がなくなる。自分のペースで都合よく勝手なことをして日々を過ごしてしまう。

「自らに負荷をかける行動」はついつい避けがちだ。でも、少しぐらいそんな思いをしてみたいという屈折した願望もある。

富士山に登りたい、四国のお遍路にトライしたい等々、最近人気のそんな旅のスタイルもオッサンオバサンの変態的欲求?が背景にある。

ということで、私も記念すべき半世紀に一度の誕生日にはちょっぴり負荷をかける行動にトライしようかなどと考え始めている。

とりあえず「どこかに行く」ことだけは心に決めた。前後の日程も合わせて休みを取って「何か」に挑戦してみようと思う。

箱根山を徒歩で越えるなんてどうだろう。日頃身体を鍛えていないオジサマの負荷としては結構キツいはずだ。

でも、キツ過ぎるのもイヤだ。別に解脱したいわけでもなく、修行僧のように悟りを目指すつもりもない。

煩悩大好き男としてはあまりハードな行動は避けたい。哲学的な心境になって今の暮らしを反省したり、変に生真面目な生き方を目指し始めたらオッタマゲである。

それなりに楽しめて、適度に大変で、そこそこ画期的なことって何があるだろう。そんなことばかり考えている。

見知らぬ街の路上でギター抱えてストリートライブの真似事をコッソリやってみようとか、長年のダイビング経験を活かしてフィンスイミングに挑戦しようといったアイディアは浮かぶのだが、なんだかシックリこない。

四輪駆動小僧だった若い頃を思い出して、オーストラリアあたりでオフロードドライブツアーを企画するとか、ギリシャ・トルコの海底遺跡を潜ってみるとか、はたまた、アメリカの片田舎に行って草野球の試合に混ぜてもらって硬式球をかっ飛ばすというプランも考えてみた。

真面目に考えている割には、どれもこれもさほどワクワクしない。困ったもんである。結局、普通に旅に出て見知らぬ土地で誕生日を迎えてシミジミするだけで終わりそうだ。

せめて、アフリカの大草原で星空を眺めるとか北極のほうまでオーロラを見に行くとか、ガラパゴスに行って生命の神秘を考えるとか、普通とは一味違った旅でもしようか。

まあ、こういうことは企画段階、というか考えている時が一番楽しい。この夏はきっと世界中の旅行ガイドブックを買い集めて、秘境とか絶景、世界遺産なんかに妙に詳しくなりそうだ。

でも結局、秘境でも何でもないヨーロッパの片田舎であてもなく散歩しているだけの自分の姿を想像してしまう。

そんな面白くない結末にならないようにアレコレ研究しようと思う。

2015年7月24日金曜日

ピラフへの愛


たまに無性に食べたくなるものがある。安いモノ、高いモノ、ゲテモノ等々、ふとした時に頭に浮かび、それを食べるまでは落ち着かないほど執着心ブリブリになる。

うな重の場合もあるし、フィレオフィッシュの場合もある。イクラ丼の場合もあれば、ガリガリ君の場合もある。

どこの街のどの店でも均一の味が保たれている「松屋の牛丼」や「なか卯の親子丼」ならテキトーにターミナル駅周辺を探せばありつける。

こうした店の味の安定性は素晴らしいことだと思う。高度にシステム化された日本社会の洗練度を現わしている。ちょっと褒めすぎだ。

「どこでもいつでも同じ味」が凄いことは間違いないが、希少性というか有り難みに欠けるのも事実である。

特定の店の特定のモノが食べたい気分にかられて、わざわざ出かけていって味わう時のワクワクした気分は捨てがたい。独特の高揚感がある。

そんなことを力説するヤツはたいていがデブである。オフコース・ミー・トゥーである。


某日、ホテルグランドパレスのピラフがどうしても食べたくなっていそいそ出かけてきた。

シャトーソースと呼ばれる「秘伝のタレ」というか汁をビチャビチャかけて食べる至極の一品である。

昔は、海老やチキンも用意されていたのに、ここ数十年の歴史の中でメニューが絞り込まれ、今では「ホタテ貝柱のピラフ」だけになってしまったことが泣きたくなるほど残念である。

まあ、残念などとおとなしく引き下がってはいけない。こっちは小学生時代、すなわち40年以上前からこのピラフに馴染んできた筋金入りの“ピラファー”である。

韓国の金大中元大統領が若かりし頃、グランドパレスで拉致される大事件があったが、既にその当時から私はここのピラフと付き合っていたわけだ。まさに生き字引みたいだ。ちょっとしたワガママぐらいは言わせてもらう。

別に大げさなことではない。「ホタテ貝柱のピラフ・シャトーソース」とともにメニューに用意されている「シーフードピラフ・ニューバーグ風」なる一品を応用してもらうだけである。

ニューバーグ風と名乗るピラフはホワイトソースをビチャビチャかけて食べる仕組みなのだが、このソースをシャトーソースに交換してもらうわけである。

シーフードピラフと名乗っている通り、ホタテ以外にもエビもカニもしっかり登場する。メニューから姿を消した「小海老のピラフ」を再現したかのような気分になれる。

大げさである。


この程度のメニューのアレンジは、大したワガママではない。紳士的にお願いすればOKである。たぶん。

このシャトーソースは、ドミグラスソース、白ワイン、エシャロットなどから作られているらしい。ほんのりバター風味のピラフとの相性がタマランチンだ。

と、徹頭徹尾ホメまくりたいのだが、時々、ソースの味が「オヨヨ」の時がある。まあ、人が作るものだから多少の味の差は仕方ないが、長年にわたってこのピラフにホレ抜いている私としては切ない気分になる。

エラいシェフが今日は休みなのか?、新人が慌てて作ったのか?等々、いろんな妄想が頭をよぎる。

塩が多いだの白ワインの分量が足りないなど、具体的に指摘できるものなら、図々しいと言われようとも、愛するピラフのために意見してみたい。でも普段とどこがどう違うのか明確に指摘できるほどの知識はない。ウジウジする。

決してマズいというほど味が変わるわけではないのだが、「もっとウマく作れるはずだ!」「今日はちょっと雑なんじゃないか!」と心の中で叫ぶ。

文句やクレームではない。愛するがゆえの苦悩である。多少の乱れ?があったとしても私のあのピラフへの思いは不変である。

今日は老舗の味についてアレコレ書くつもりだったのだが、結局ピラフへの愛を切々と?書いただけで終わってしまった。

2015年7月22日水曜日

夜の蝶の心意気


「これが私の素の姿ですから」などと親しくもない人に得意気に言われるとビックリする。大丈夫ですか?と言いたくなる。

そんなに「自分」を大盤振る舞い?しちゃうと何かと大変だろう。「素の自分」を見せることが美徳かのような最近の風潮はチョット変だと思う。

もちろん、自分らしさを隠さず、思ったように行動することは大事だ。我慢ばかりだと病気になってしまう。でも、それと「素のまま」をさらけだすことは違う。

すべてをさらけ出しちゃうのは行き過ぎだ。「素の自分」にしても「ある一部の面における素の自分」でとどめておくことが必要だろう。

飾ることは人として当り前の作業だ。人様に良く思われたい、信用されたい、評価されたい、頼りにされたい、愛されたい等々、すべての欲求を少しでも満たすためには、「素のまま」では難しいだろう。言葉や態度や見た目を飾るのは普通のことである。

虚飾や偽装だとしても、そこには頑張っている感じがある。「素の自分」のままだと何だか居直り、開き直りにも思える。

やはり適度な装飾は大事だと思う。

などとウサンくさいことを書いたが、今日書きたかったのは「女性の化け方」の話である。


要は虚飾、偽装、はたまた粉飾?だろうと、必死に自分を飾る女性はエラいという話を書きたかっただけである。前振りが長くてスイマセン。

男の場合、スーツが制服みたいなものだから飾りっ気は少ない。化粧もしないし、髪型もとっかえひっかえしない。簡単である。

女性は大変だ。服だって種類、色合い、素材感すべてに大量の選択肢がある。化粧も同様だ。飾り立てるための苦労も大変だと思う。



銀座あたりで奮闘する夜の女性陣の装飾にはつくづく感心する。それこそ「素」の状態から比べれば、別な人間が突然生まれたのかと思う。

極端な場合、30分もあれば明治維新ぐらいの激しい変化が達成される。

美容院で「立ち上がった巻き巻きの髪型」を製作してもらっている間に、がっつりハードに化粧に励めばモノの30分で「違う人」が出来上がる。それっぽい衣装をまとえば完成である。

虚飾や偽装などというとインチキみたいだが、良心的なインチキである。夜の街では男達自身が虚飾や偽装を喜んで鑑賞している。「素のまま」では決して成り立たない世界だ。

夜の蝶っぽい衣装や髪型を普段の生活で見かけることはない。だからこそドシドシそれっぽく飾ってもらったほうが楽しい。

その昔の「川口浩探検隊」とか「徳川埋蔵金」を探すテレビ番組と同じである。作りモノであり、ヤラセであり、何も出てこないのは分かっているのに、ワクワクした気分で見入ってしまう。


だから私は夜の街の女性がキンキンキラキラに変身している姿が好きだ。普段はパンクロッカーみたいな服を着ていたり、「森ガール」だとしても、そんな姿を連想させないでくれれば結構だ。

ちなみに、虚飾や装飾が激しくなるほど、男性客との距離をキッチリ保つ効果があるのかもしれない。「普通じゃない感じ」がかえって男と女の生々しさを分ける壁になっている気がする。

バニーガールの衣装なんてそういう点では最高である。多少、顔立ちが埴輪とか土偶みたいな女性でも、あの格好をしているだけで俄然ヒロインに思えてくる。

あくまでその女性はバニーちゃんであり、土偶ちゃんではない。バニーちゃんだからチヤホヤしちゃうし、バニーちゃんだからドリンクを奢ってあげちゃう。バニーちゃんだから口説こうとかお持ち帰りしようという発想も湧かない。

良いことづくめである。

装飾することで生まれる非日常性は言い換えれば「疑似」である。疑似恋愛の疑似だ。虚飾や偽装が疑似恋愛の大事なアイコンになっているのかもしれない。

ふむふむ、そういうことなんだろう。


ところで、夜の世界では客側、すなわち男にだって虚飾や偽装は付きものだ。カツラやシークレットブーツの話ではない。「それっぽく演じる姿」のことである。いわば「心のコスプレ」だ。

紳士的な印象を持たれたい、豪放磊落なイメージの男でありたい、寂しがりの甘えん坊のフリがしたい等々、多くの男性が無意識のうちにそんな可愛い偽装をしてみたくなる。

私などは「苦み走った寡黙な男」、「物静かな謎めいた男」を目指そうと本気で頑張ってみることがあるのだが、2分30秒ぐらいでボロが出てしまう。

ボロが出てしまっても、そこはしがない男である。適度にカッコつけて適度に見栄も張ってそれなりに気取っているわけだから、それだけで一種の偽装状態である。

化かし合いと言っちゃうと夢も希望もないが、夜の街には偽装した者同士だからこそ楽しめる要素が間違いなくあると思う。

と、さも真理を悟ったようなことを書いてしまった。

まあ、エラそうにグダグダ言ったが、男のサガはなかなか面倒で、分かっちゃいるのに「疑似」じゃない色恋に期待してしまう。

その「サガ」のせいで、結局、世のオトコ達は女性陣に手玉に取られる。古今東西それだけが真理である。

2015年7月17日金曜日

靴を磨く


先日、娘とデートをした。渋谷で買物に付き合ったのだが、ちょっと値の張る靴も買ってしまった。

「良い靴は素敵な場所に連れてってくれるんだぞ」という父親のクサいセリフなど耳に入っていないようだったが、嬉しそうだったから良しとしよう。

靴好きを自認する私としては自分の娘の靴も気になる。ヘタレた靴を履いていたら文句を言いたくなる。


「靴は人格そのものだぞ」。そんなこと言われたって中学生の娘にはピンとこないだろうが、一応、洗脳である。

「ベッドと椅子と靴は良いものにこだわれ」。イギリス人だかフランス人の言い伝えらしい。

確かにすべてが暮らしを支える土台みたいなものだ。大事にすることは大人の嗜みだ。

男の靴は女性靴と違ってバラエティに富まない分、奥深さがあるように思う。ファッションというより生き様を表すみたいなイメージがある。大げさだろうか。

ひも靴のひもを締め上げた時のキリリとした気分、靴べらを介してかかとがすっぽりと靴に包まれた瞬間の安心感など何気なく五感を刺激してくれる。

靴磨きも楽しい。時々、無心になって汗だくになりながらピカピカにしたくなる。

手入れをサボってヨレていた靴が磨き上げることで甦ってくる感じが堪らない。妙に暗示的だと思う。

人としてヨレてきている自分も、時々丁寧に磨きあげることで独特な風合いとともに甦るのではと思えてくる。


たまにアホな女性から「奥様に大事にされてるんですね」と言われる。オイオイである。後ろ回し蹴りを繰り出したくなる。

こちらの靴をチェックするのは良い心掛けだが、「綺麗な靴イコール奥さんの手柄」というトンチンカンな発想は困ったものだ。

実際、世の男性の中でも「まあまあ」ではなく「かなり」靴がピカピカな男は、たいてい自分で靴を磨いている。そんなもんである。

靴に興味が無い人はヨレた靴を平気で履いていることが多い。ネクタイやスーツにはそれなりに気を遣う人でも靴だけがオヨヨだったりする。

駅や電車の中でスーツ姿の人達の靴を眺めてみると、思った以上に「残念」な人が多い。その一方、丁寧に手入れされた靴を履いている人を見ると、その人が立派に見える。

きっと奥さんに大事にされているんだろう・・・・!?。

さて、予定や気分に合わせてその日の靴を選んでいるが、「どうでもいい日」には「ダメ靴」を選ぶ習慣がある。

客人の予定もなく、夜の席もなく、デートっぽい話もなく、ヘタすればまっすぐ帰宅するような日が「どうでもいい日」である。

そんな日は、私にとって二軍や三軍扱いのダメ靴の出番である。ダメ靴という呼び方は靴に対して申し訳ないのだが、ビミョーなサイズ感や色合い、形状などさまざま理由で二軍、三軍に落ちてしまった哀れな靴である。

ダメ靴と呼ばれながらも私を支える土台として踏ん張ってくれている。楽しい場所、素敵な場所には履いていってもらえず、ダルそうに歩くのに付き合わされる。おまけに一軍には上がれない。

当然、綺麗に磨く機会もほとんどなかったのだが、先日、突然、ダメ靴達が気の毒になり、ピカピカに磨いてみた。

元々がそこそこの革質の靴だったので、思った以上に綺麗に甦った。磨きながら靴が喜んでいた。私としてもそれまでの不義理を詫びたい気持ちになった。

やはり暗示的である。決めつけてしまうことの愚かさを教わったような感じだ。思い込みや決めつけ、固定観念などは自分が思っているよりモロい。

気に入らないことがあっても、その判断は絶対ではない。後になって思い直すこともある。心変わりを恥などと思わず、臨機応変に受け止めればいいと思う。

なんだか説教くさい書きぶりになってしまった。

ということで、近いうちにダメ靴を素敵な場所に連れて行ってやろうと思う。

2015年7月15日水曜日

ワイ談 Tバック


猥談が大好きである。漢字で書くと仰々しい感じだ。「ワイ談」と表記するのがちょうどいい。

そういえば、ワイ談という言葉自体を知らない若い女性に会ったことがあるが、この言葉もいずれは死語になるのだろうか。なんとか存続して欲しい。

ワイセツ談義である。簡単そうで難しい。単に下品になっちゃうか、フムフムと感心できるかで大きな違いがある。

まあ、ワイ談ごときで感心する必要など無いと言われそうだが、あながちバカにしたものではない。

交尾中にメスに頭から食われちゃうカマキリの話を「男は情けない」などと上っ面だけで捉えてはダメである。

メスに食われること自体、その間は交尾をし続けられる、すなわち、注入できる精子の量を増やすために編み出した秘技?なんだそうだ。実に奥深い話である。

人間ほど排卵日が分かりにくい生き物はいないという話だって高尚なテーマである。独特のセックス文化を持つ人間を考える上で重要なテーマだ。

人間のメスは排卵日を分かりにくくしたことでオスとの関係性を上手にコントロールしたという説もあるらしい。

まあ、この手の大真面目な話はワイ談とは言えないかもしれないが、単なるアホバカスケベ話の合間に混ぜると効果的である。ワイ談全体の社会的地位?を押し上げてくれる。

さて、話を変える。相変わらずTバックが好きである。昔からこのブログでも書いているテーマなので、いまさら隠すこともない。下着だろうと水着だろうと「T派」である。

Tバックにもいろいろある。個人的な好みやエピソードやそれを駆使?したいろんな話を書こうと思ったのだが、さすがに過激な方向に行きそうなので自己規制する。

行き過ぎると「フェティズム的服装倒錯症」とかいうビョーキと見なされちゃうらしい。危ない危ない。

一応、病気として分類をされるのは「それによって健康な生活を送ることが困難である」、「他の人々の健全な生活に問題を引き起こす」ことが前提らしい。

私の場合、Tバックの女性に四六時中囲まれていなくても暮らしていけるので一応セーフだろう。でも、Tバック着用を「他の人々」に強力に要請することがあるので、その人が健全な生活に支障があると感じていたら問題である。

女性の場合、パンツスタイルの際の下着のラインを気にしてTバックを着用する。その場合、実用目的であり、セクシーな用途とはちょっと異なる。

実用優先とセクシー路線。対極的な関係である。桃太郎と鬼のような関係だ。同じTバックといえども雲泥の差がある。

ということで、セクシー路線のTバックを所持していない人にはプレゼントしちゃうのが正しい行動だ。四の五の論評しているヒマがあったら渡してしまえばいい。

高いブティックで洋服を買わされるより遙かに気楽だ。極端に過激なものでなければ女性だってもらって困るわけではない。

私とムフフな機会があるのなら、義理でもそれを着用してくれるだろうし、そうでなくても、どっかの誰かとのムフフの際に勝負下着として着用してくれればいい。「NTRフェチ」の私としてはそれを妄想するだけで結構楽しめる。

相変わらずバカである。

そうはいっても、大のオトナの紳士が女性下着の店に買い物には行けない。おのずとネット通販である。

楽天は購入履歴を消去したり非表示に出来ないので問題外である。時々我が家に遊びに来る娘と一緒にネットショッピングする際にひょんな画像が出てきても困る。

で、Amazonを活用する。やはり漫然と下着だけの画像を載せている業者より、モデルに着せたり、マネキンに着用させている画像を載せている業者の商品に目が行く。

選んでいる時の小っ恥ずかしい気分が何とも言えない倒錯の時間である。じっくり見ないと好みのものかどうか分からないから目が血走るほどじっくり見てしまう。

数限りないほどのセクシーランジェリーが売られているのだが、不思議なことに、いざ購入する際には、かなりコンサバな商品を選んでしまう。

激しいのを選びたいくせに、ついつい無難なものに走る。そんな買物をしている時点でただのスケベ大王なんだから、気にせず突っ走ればいいのに割と地味なのを選んでしまう。

こういうところが私の生真面目さの証である。謙虚さというか、臆病というか、まあ、震える子羊のような性格というわけである。

ワイ談の話が下着フェチ的な方向に変わってしまったが、「Tバックをネット通販で必死に選んでいる話」も枝葉の伸ばし方によっては充分にワイ談として成立する。

ついでにいえば、「そのTバックを着用している姿を見せてもらいたくて必死に作戦を練っている話」なんかも、男の切なさを物語る高尚なワイ談として成立する。

ワイ談は、過去に実践(実戦?)したヘンテコな話がキモになることが多い。愉快なワイ談をドシドシ展開していくためには、ヘンテコな経験をもっともっと経験しないとなるまい。

頑張ろうと思う。

2015年7月13日月曜日

豚の誘惑と「すた丼」


ビタミンB1は物凄く大事なんだそうだ。疲れやすい、イライラする、肩こり、頭が重いといった症状はビタミンB1不足が原因らしい。

記憶力や理解力、脳の正常な働きにもビタミンB1は欠かせない。日に日に理解力が無くなっている私にとっては積極的に摂る必要がある。

ビタミンBといえば豚肉である。ブヒブヒ旨い豚肉である。


普段から割と豚肉を食べる機会は多い。大衆酒場ではモツ焼きをがっつくし、朝からフライパンでせっせと作る特製焼きそばにも豚バラ肉は欠かせない。

トンカツも許されるなら毎日でも食べたいほど好きだ。

以前から六本木に極上のトンカツを出す店があると聞いていた。「豚組」という名前の店がそれ。

先日、六本木に出かける機会があり、その日の会合場所が「豚組」だったのでワクワク気分で行ってきた。

しかし、メニューにトンカツは無かった。物凄くションボリした。どうやら系列の豚しゃぶ専門店のほうだったようだ。


いろんな銘柄豚を用意しているらしく、しゃぶしゃぶも普通に美味しかったのだが、トンカツ気分だっただけに気持ちは盛り上がらなかった。

一品料理にメンチカツがあったので注文した。油っぽくて好みではなかった。


一枚単位でオーダーできる自家製窯焼きチャーシューなるものも食べたが、トンカツが無かったことで意気消沈している私を興奮させるほどではなかった。

話は変わる。私の場合、ドカ食いしたい時は豚肉である。なぜか牛や鶏ではなく豚に吸い寄せられる。

脳がビタミンBを欲しているのだろうか。

「すた丼」というファストフードをご存じだろうか。繁華街や学生街で見かけるガッツリ系のドンブリだ。スタミナ丼の略称である。

チェーン店の名前は「伝説のすた丼屋」である。よく分からないが伝説らしい。決して大人向きの店ではない。腹を空かせた若者達が妙に「力強い味」に惹かれて食べに行く店である。

逆立ちしたって若者ではない私だが、時折「すた丼」をどうしても食べたくなる。

二日酔いで朝飯を少なめにした日の午後3時~4時ぐらいに食べたくなる。ついでにいえば、そういう日は夜の予定がなく、酒も抜いちゃおうと思っている日だ。

すた丼の味は端的に言って「凄い味」である。私も普段なら完食できないと思う。やたらと濃い目のニンニク醬油で豚バラが炒めてある。あえて表現するなら「苦い」。

初めて食べた時はビックリだった。二度と食うもんかと正直思ったのだが、数ヶ月後にリピートしていた。ビミョーな体調の時に限って身体が欲する。

そんなこんなで、時々こっそりドカ食いをする。ただでさえボリュームたっぷりなのだが、これを食べたくなる日はどこかブッ飛んでいるので、店先の食券機を前に戦闘態勢に入る。

普通盛りの他、「肉増し」「飯増し」というボタンがある。おまけに「肉飯増し」という禁断のボタンもある。もちろん、私は必ず禁断のボタンを押す(画像、ネットでパクりました。ごめんなさい)。


食べながらカロリーへの罪悪感や自分の味覚に対する不信感などが混ざり合って複雑な気分でかっ込む。

一度、さすがに「オトナはこれじゃないだろう」と思ってニンニク醬油味ではない「生姜丼」を選んだことがある。これはこれでショっぱかった。

ニンニク大量摂取という背徳感は薄らいだが、何だか安全地帯に逃げ込んだような負け戦気分に陥った。それ以後は常に「すた丼・肉飯増し」を選ぶ。

食後の膨満感を考えるとスタミナをつけるどころか、寿命を縮めているような気もする。

実にビミョーである。

まあいいか。いつかは書こうと思っていた「すた丼」の話をようやくちゃんと?書けたことが少し嬉しい。

2015年7月10日金曜日

思い出す 忘れる


「イタい人」。老若男女問わずアチコチで見かける。中高年でいえば、妙チクリンに若作りしている人や過去の栄光をとくとくと語る人あたりがイタい人の典型だろうか。

まあ、若作りは個人の嗜好なのでどうでもいい。過去の栄光パターンのほうは、ある意味で加齢とともに誰もが陥るオッサンオバハンの方程式みたいなものだろう。

♪盗んだバイクで走り出す~♪。カラオケで尾崎を熱唱するオヤジ。自転車も乗りこなせないような優等生だったのに「オレも若い頃は結構ヤンチャでさ~」とか言っちゃうパターンだ。

なぜだか男子はワルぶりたい傾向があるみたいだ。石部金吉と評されたほど真面目一本で生きてきた私ですら、「昔はちょこっとイタズラもしたな」とウソをついてしまう。

「こう見えて昔はモテモテだった」。この手のウソもよく耳にする。まあ、良しとしよう。そこに罪はない。残り少ない人生、過去なんてどんどん美化しちゃえばいい。

若い人からすれば、オッサンオバハン連合の過去話ほどウサンくさい話はないのだろう。面白い話ならともかく、デフォルメされた自慢話ほど迷惑なものはない。

迷惑を顧みずちっぽけな過去の栄光を必死で語るのはスマートではない。野暮である。格好いいオジサマ、素敵なオバサマを目指すなら注意すべき点だ。

もちろん、勝手に思い出して悦に入っているだけなら何も問題ない。どんどん思い出して、今現在の自分の不甲斐なさを払拭するきっかけにすればいい。

高齢者介護の現場では「回想法」なる取り組みが盛んらしい。いきいき暮らしていた過去のことを思い出すことで脳が活性化し、自分の確かさを再確認する効果があるそうだ。

実際に、回想法のおかげで不安状態や徘徊が収まることも多いという。高齢者とまではいえない程度の中高年だって、過去の話に頼ってみるのもあながち悪いことではない。

思えば私自身も、割と頻繁に過去のことを思い出している。上手くいった時、失敗した時それぞれの原因やその時々の心理状態などを思い返して現時点の参考にしようと考える。

仕事のこと、遊びのこと、女性との付き合いに至るまで、過去から学ぶことはいっぱいある。

過去がいっぱいあるのが中高年の武器である。積んできた経験が今現在の効率化につながっているのだから回想法は大いにアリだろう。

思い出すことと並んで大事なのが「忘れること」である。実は今日書きたかったのは「忘れること」の大事さだ。

都合の良いことは回想して、都合の悪いことは忘れる。これが肝心だと思う。

人間の脳は優秀で、意識しなくても都合の悪いことの多くを忘れるように出来ている。この能力が弱かったら悶々として病気になっちゃうかもしれない。

私の場合、忘れる能力は割と優秀なようで、時々自分でもビックリするぐらい大事なことまで忘れている。有難い限りだ。

たいていが自分にとって都合が悪い話、すなわち忘れたいことだ。旧友に過去の悪事を指摘されても本当に忘れていることが多い。

たぶん自分でも記憶から消しちゃいたいほどアホな話なんだと思う。

具体的に聞かされても、まさか自分がそんなコトをしたとは思えず断固否定するのだが、細かいディテールを聞くうちに突然、頭の中にそのシーンが浮かび上がってきてビックリする。

旧友に久しぶりに会うたびに、ヘンテコな過去話が追加される。思い出すたびに少しヘコむ。でも一瞬は思いだしても私の脳は良く出来ていて、一度消した記憶はたとえ思い出してもさほどリアルな感じを伴わない。脳に感謝である。

忘れることが出切れば、それを気にしないで済む。当り前のようだが、これが出来たら便利である。

ちなみにいま、タバコを忘れようとしている。禁煙のようで禁煙ではない。忘れようとしているだけである。意味不明でスイマセン。

こんなことを書くこと自体が「気にしている」ことなのでイヤなのだが、今回のテーマ?は「忘れる」ことである。

タバコのことを忘れてみようという新しい取り組みである。禁煙だ!などと気合いを入れるとツラいから苦肉の策として忘れるという考え方にトライしている。だから親しい人には、その話題自体に触れないように頼んである。

頑張れとかエラいわねとか、そういう発言は全面禁止である。頑張ってなどいない。忘れているだけだ。変に人様から応援されたらアマノジャッキーであるアホな私はプカプカ吸い始めそうである。

タバコが吸いたい、タバコを我慢しよう等々、そんなことを気にした途端に苦しくなる。「忘れちゃう」ことだけに努めている。

まず手始めに食後の一服を忘れてみた。続いて酒を飲んでいる時の一服も忘れてみた。ムフフのあとのけだるい一服も忘れてみた。

正確に言えば「忘れたふり」だが、なんとか忘れ続けている。

書くこと自体が思い出すきっかけになるのでキツい。禁断症状のツラさを物凄く実感する。必然的にタバコを思い出しているわけだから非常にマズい事態である。

禁断症状は最初の3~4日が最もツラい。既に突破した。しかし、まだ今日で1週間だ。

頑張るのは無理である。私はタバコが大好きだし、百害あっても93利ぐらいはあると思っている。

だから禁煙などする気はない。「禁」という非情な文字を「煙」にくっつけるような残酷なことは出来ない。一度は愛した女を八つ裂きにするような行為である。

あくまで忘れるだけである。

こんな屁の突っ張りにもならない心構えだからあまり長くは続かないと思う。

賭けるなら、私は「思い出す」ほうに賭ける。

2015年7月8日水曜日

ドミグラー、ベシャメラー


ニッポンの洋食が改めて人気らしい。テレビドラマ「天皇の料理番」がヒットしたことも影響しているそうだ。

昔から洋食が大好きな私としては単純に嬉しい。ウマい店が増えればもっと嬉しい。

「洋食」と言うと抽象的だが、シチューやグラタン、クリームコロッケ、オムライスといった近代日本の幕開けとともに普及した「あの手の洋食」である。



よく分からない料理名でこちらを困惑させる新進気鋭の本格フレンチなどとは一線を画した「昔ながらのお馴染みのアノ洋食」である。

オムライス、グラタンと言えば、一歩間違えたら、お母さんがチャッチャと作る子供向けの料理と間違えられかねない。そんな「洋食」である。

その他の外食とは異なり、ジャンルが抽象的なせいで、接待やデートの際に「洋食屋に行きませんか?」という話にはなりにくい。

そこが洋食の弱点?である。妙に高価で、でも、その分抜群にウマいにオムライスが待っていようとも、勝負デートの際に「オムライス食べに行きませんか?」とはなりにくい。

「カニクリームコロッケ食べに行きませんか?」、「ロールキャベツ食べに行きませんか?」、「ウマいタルタルソースを出す店に行きませんか?」等々。なんとなく成立しにくい。

「フレンチに行きませんか?ロブションあたり」、「バスク地方の味を再現した店はいかがです?」、「熟成肉のステーキは?」、はたまた「満漢全席にご招待します」・・・。こんなセリフに比べるとニッポンの洋食はどうにも分が悪い。

しかし、声を大にして言いたいのだが、上に並べた数々の誘いよりも実は多くの日本人の魂を揺さぶるのがニッポンの洋食である。

ドミグラス、ベシャメル、タルタル!である。以前から自分のことをタルタル人と称している私だが、またの名は「ドミグラー」であり「ベシャメラー」である。

意味不明でスイマセン。

洋食屋もさまざまである。ランチ800円ぐらいでそれなりにウマいメニューを出す店もあれば、オムライスに数千円取るような店まで存在する。

どっちもアリだと思う。

安い方はもちろん、高級志向の洋食屋ももっと増殖して欲しい。高いオムライス、高いクリームコロッケ・・・。それはそれで結構だ。時々そんなものを食べると独特な高揚感と満足感を味わえる。

「昔から普通に食べていたもの」だから、逆に贅沢な気分を実感できる気がする。

作るほうだってオムライスやコロッケにウン千円の値付けをする以上、相当な覚悟?があるはずだ。

家でも食べられる、そこらのファミレスでもそこそこの味で提供している。イマドキは冷凍食品だってそれっぽい味を再現している。

それなのにオッタマゲな値付けをするんだから気合いも入るだろうし、素材も良いだろうし、こだわりもあるだろう。

上に載せたオムライスの画像は、日本橋たいめいけんの「たんぽぽオムライス」。チキンライスの上にドカンと載ってきたオムレツをナイフでかっさばいて堪能するイベント感?が嬉しい。

ちなみに2階席だと2800円である。牛丼が10杯ぐらい食べられる。100円マックが28人で食べられる計算である。高価だ。

高いか安いかは相対的なものだが、このオムライスは「ひとときの幸せ」を確実に味あわせてくれる。

ヘタれた飲み屋でヘタれたツマミで一杯ひっかけたら3千円ぐらい飛んでいく。気分もヘタれる。

それなら一点豪華主義のウマいものをワシワシ食べたほうが精神衛生上も良いはずだ。

贅沢する時は言い訳が必要である。私はそんな言い訳を考えるのが得意である。



カニクリームコロッケとビーフシチューである。これまた定番中の定番だが、老舗洋食屋さんで注文したくなる王道メニューだ。

良い意味でクドいし、良い意味で濃厚である。昭和を思い出す。クリームコロッケなんてものはアッサリしてたら負けである。クドいことこそが存在意義だ。

全然話は違うが、数ある洋食屋の中で私にとって別格なのが、根岸にある老舗「香味屋」だ。

場所が場所だけに滅多に行かない。いや、滅多に行かないから私の中で最高峰になっている可能性はある。私の味覚なんてそんなものである。

最高峰だと思うなら立地にかかわらず訪ねればいいのに、面倒がって他の店に行く。そんなヤツが分かったように洋食を語ったらダメである。

よく分からないまとめ方になってしまった。

江戸料理ではなく、近代東京の郷土料理が洋食である。行きたい洋食屋はいっぱいある。気合いを入れて探検しようと思う。

2015年7月6日月曜日

止まり木の人


止まり木。しょっちゅう耳にする言葉だが、不思議と女性向きに使われることは少ない。男の止まり木といった使われ方が一般的だ。

イマドキは女性にだって止まり木は必要だろうが、「男は外へ、女はウチに」という固定観念のせいで、男ばかりが羽を休めたがる。


私もちょくちょく止まり木を求めて路地をほっつき歩く。止まり木になりそうな店を探してウロつく気分は結構楽しい。

さんざん歩き回って疲れちゃうと、小休止どころか夜を徹して止まり木を何軒もさまよう。バカである。

止まり木でのひと時は一体なにから小休止しているのだろう。一般的には家庭からの一時的な逃避みたいな意味合いが強い。

男が弱くなったのか、女が強くなったのかは知らないが、家庭が安らげる場所ではないという人は多い。

大昔だって、お気楽で呑気な父ちゃんは別として、多くの男達が家長の威厳みたいなものに縛られ、それ相応に気を張って暮らしていた。

一見、ワガママに威張っているように見えた当時の男達もフヌケた時間を過ごすための止まり木は必要だったはずだ。

威厳どころか、居場所を失ってオロオロしている現代のオヤジ達の多くは「帰りたいのに帰れない」といった心理状態なのかもしれない。気の毒である。私にも経験はある。

さて、家庭円満だろうと独身だろうと止まり木を求めたがるのが男である。止まり木は仕事とプライベートを切り替える装置みたいなものである。

シングルライフを過ごしている私ですら、職場からまっすぐ帰宅することに少し抵抗感がある。

そう言いながら、今の住まいが快適でまっすぐ帰宅することが増えているのだが、そんな夜は不思議と何か物足りない。

どうでもいい飲み屋に立ち寄って、どうでもいい酒を飲んで、帰宅したらホッと安堵する。

考えてみればムダな行動だ。寄り道せずに帰宅してとっととホッとすればいいのに、なぜだか一呼吸おいてから帰りたくなる。

なんとなく旅に似ている。家という安住の場所があるのに、知らない土地に行って馴れないベッドで眠り、落ち着かない気分とワクワク感の中で過ごす。

そして旅先から帰ってきた時、「やっぱり我が家はいいなあ」と安堵する。そんなに家が良いなら旅なんかしなきゃいいのだが、懲りずに何度も「帰宅した時の安堵」のために旅に出る。

そう考えると止まり木に立ち寄ることは、日常生活におけるちょっとした旅なのかもしれない。ムダのように見えて無意味ではない行為だ。

「旅先」はさまざまだ。同じ場所に何度も通う旅の形もあり、毎度違う場所を覗きに行くのも旅のスタイルだ。


ハジケたい気分の時の止まり木と黙って過ごしたい時の止まり木は当然違う。私自身、黙って飲みたい時には、見ず知らずの店に入ることも多い。

たいていは失敗するのだが、見知らぬ土地に足を踏み入れたようなアウェーな気分?も悪くない。誰からも話しかけられず、誰もこっちのことを知らない。

自意識過剰と言われればそれまでだが、有名でも何でもない私でも「まるっきり無所属」な状態でいることは心地良い。

何も気にせず、鼻毛を引っこ抜き、鼻くそをほじくり、ツメを嚙んで、ゲップをして、屁こきオヤジになって裸踊りしようかと思ってしまう感覚だ。

実際にそんな行動に走れたら幸せだと思う。きっと新しくてまったく違う世界が見えちゃうんだろうなあ。

止まり木に話を戻す。

止まり木というと、どうしても小料理やバーをイメージするが、場所だけが止まり木ではない。人間だって誰かの止まり木になり得る。

デンと構えて「基地」として待っていてくれる人は偉大だが、不思議とひと時の安らぎをくれる止まり木みたいな人に魅力を感じる。

男女ともに同じような願望があるはずだ。「止まり木の人」。なんだか演歌のタイトルみたいである。

そんな相手を求めている一方で、こっちだって誰かの止まり木になってあげたい願望もある。

「基地」になる自信はないが、「止まり木」なら務まりそうである。まあ、「基地」の役割を避けちゃうあたりが人としてダメダメである。

「止まり木の人」。演歌調のノリで作詞でもしてみよう。

2015年7月3日金曜日

野菜への畏怖


年齢とともに変わったものが健康に対する認識だろう。若い頃のような無鉄砲ぶりが続くはずもなく、いつの間にかサプリに頼ったりしている。

筋金入りの野菜嫌いである私としては、いまさら野菜ワールドの軍門にくだるのはイヤだ。だからサプリを摂取する。

効き目は分からないが、すべて「気の持ちよう」である。ビタミンC、E、Dを始め、プロポリス、しじみエキス、セサミン等々を欠かさず摂取している。まれに見る真面目男だ。

青汁も平日は最低500㎖はガブ飲みする。これだけ頑張れば日頃いっさい野菜など食べなくて済む。そう信じている。

とはいえ、身体の奥深くから発せられる信号のせいか、時々、浮気してホンモノの野菜を食べちゃうことがある。



某居酒屋でオニオンスライスとほうれん草のお浸しを注文してしまった。これぞ加齢のなせるワザである。

昔の私を知る人なら卒倒するほど大人っぽい?行動である。おまけに完食した。驚天動地である。ベジタロウである。


調子に乗って「アスパラつくね」なる一品も注文した。串の部分がアスパラで代用されている不届きな?食べ物である。

カネを払ってアスパラを食べた自分に心の底から感心した。人間は無限の可能性を秘めていると改めて痛感した。大げさだ。

別な日もデリバリーの中華でチンジャオロースを頼んで完食した。チンジャオロースといえば何を隠そうピーマンが主役である。

お金を払ってピーマンを食べるという私にとっては信じがたいことをしでかしたわけだ。

そしてピーマンをすべて食べた。マズいなあ~と25回ぐらいつぶやきながら食べた。

謎の行動である。守護霊がコントロールしているのだろうか。普段ふつうに野菜を食べている人にとっては、私のこの気分は分かってもらえないだろう。

「自分で自分を褒めてあげたい」ってやつである。いや、それだけでなく「信念曲げやがったなバカチン」という悪魔の声も共鳴していた。

ここが問題である。野菜を食べた自分に素直に酔いしれればいいのに、その行動を邪道だと否定する自分もいる。


野菜酵素なる謎のサプリも新たに飲み始めた。素晴らしいことである。

どうやら、野菜に対する妙な「脅え」みたいな衝動が最近の私を支配しているようだ。

そんな真面目な日々を結構続けてみると、私の定番である「野菜をまったく無視した食事」が光り輝いてくるのも一面の真実である。

「オレって野菜を結構食べているんだぜ」という自信によって「ノー野菜デー」の免罪符を手に入れたような感覚である。

お寿司屋さんで野菜ゼロ、焼鳥屋で野菜ゼロ、焼肉屋でもタン塩とホルモンとチャンジャだけ。そんなパターンである。


野菜抜きの王様がウナギである。ハンバーグとかビーフシチューだってニンジンだのクレソンだの余計なモノが付きものだが、ウナギは殺風景なほどにウナギだけである。

写真は先日訪ねた日本橋の「大江戸」。鰻重に付いてくる漬け物以外に野菜が顔を出すスキなど無い。

この日はアンキモ山椒煮、子持ち昆布、ハモ、そして白焼きと続いたから、野菜のヤの字も無い時間が過ごせた。

サプリもいっぱい摂取しているし、時にはホンモノの野菜だって食ってるんだぞ、という強気な心理状態がウナギを引き立ててくれた。

健康を意識しているなどと書き始めた割には、結局、相変わらずの不健康自慢みたいな話になってしまった。

シングルライフを送っていると、漠然と家庭料理を食べないと健康面でヤバいのではと思いがちだ。

そのせいで「意識」だけは野菜方面に向けている。でも、考えてみれば家庭があった時でも野菜はドケちゃって好きなものばかり食べていた。

仮に料理好きな女性と交際しても、おそらく自分が食べたいものをリクエストして、間違っても八宝菜みたいな料理には手をつけないはずだ。

結局、シングルだろうと何だろうと食生活を変革するのは難しい。やはりサプリと青汁に世話になるしか道は無いみたいだ。

オチも結論も無い話を書き殴ってしまったが、私にとっては食生活を真面目に考察し始めたこと自体が大きな進歩である。

やはり、自分で自分を褒めてあげたい。

でも、悪魔も相変わらず囁いている。

2015年7月1日水曜日

恋愛体質 セックス中毒


「恋人が欲しくない」。20代の男女の4割がそんな寝ぼけた精神状態にあるそうだ。政府が閣議決定した少子化対策白書に盛り込まれた意識調査の結果だ。

う~ん、なんとも困った話だ。こっちの老後を支えてくれる若年世代がそんなノリだと安心してジジイになれない。

恋人が欲しくない理由の多くが「面倒だから」だとか。

そりゃあ恋愛なんてメンドーなことばかりだ。でもそこが面白味だと思う。やれ他の女に目移りするな、やれ私だけを見てくれ等々、メンドー極まりない。

そんなメンドーを「趣」に感じないようでは人生を楽しむことは難しいと思う。

メンドーなことを言われること自体、光栄だと開き直るほうが建設的である。なにより自分が必要とされているわけだから有難い話である。

若者が恋愛しないなら、代わりにオジサマがせっせと恋愛しなければならない。

それは関係ないか。

俗に恋愛体質という言い方がある。いつでも恋をしていないと不安やストレスが溜まるタイプの人のことだ。

もっと進んで恋愛依存症状態になれば、ほぼ病気である。でも恋愛に無縁な生き方よりは人間らしいとも言える。

誰かに好かれたい、認められたい、必要とされたいという欲求は人間の根源的なものである。そう考えると恋愛体質の人は極めて人間的だ。

自分自身を振り返ってみても、そんな経験がある。常に誰かと沿っていたい時期が結構あったような気がする。

ワガママで気ままな行動が好きな割には、人から良く思われたいとか、ふとした時に寂しく感じることもあって、一種の自己確認として恋愛を求めていたように思う。

自己確認型といえば、ある意味、セックス依存症も似たようなものだ。

自分を分かって欲しいという欲求が歪んだり、孤立感への恐れ、愛情の欠乏感などが原因らしい。人間関係の築き方が苦手な人が陥りやすい。

セックス依存症などというと、単なるスケベとみなされそうだが、深刻化すると長期間の治療が必要なほど廃人に近い状態になってしまう。

女性の場合、社会秩序のおかげ?で“女ブレーキ”がかかるため、男性よりセックス依存症になりにくいらしい。ただ、その分、恋愛依存症が重症化することがあるそうだ。

恋愛中毒、セックス中毒などと言うと、モラルの欠如とか性格的な欠陥とみなされて終わりだが、自分でコントロールできない場合、コトは重大だ。

アル中やギャンブル依存症だって、昔は気持ちの持ち方次第だと簡単に片付けられてきた。だが、現実の闇はそんなに簡単ではなく、いまでは適切な治療が必要というのが世間の常識である。

ちなみに私自身、とある時期に自分が性的な面での依存症ではないかと大真面目に心配したことがある。

はっきり言って恐怖だった。あの不気味な枯渇感は何だったのだろう。普通なら起こりえない制御不能状態だ。

自分なりに思い当たる理由はあったのだが、心の闇はいとも簡単に降りかかってくることを痛感した。自覚してそこから逃れようと強く意識しないと闇はどんどん広がっていく。

話が脱線してしまった。

恋愛話は楽しくないといけない。

とりあえず恋愛ほど身体に良いものはないらしい。恋に落ちると体内ホルモンをコントロールする脳の部分が活性化するんだとか。

ドーパミンも出まくって元気ややる気がモリモリになって免疫力が上がり、ストレス耐性もアップするそうだ。

いいことづくめである。ガン予防にも最適である。

確かに恋愛初期だったら、好きな人が待ち合わせに遅れてもアホヅラして待っていられる。眠気も感じなくなるし、気力だって充実してくる。

若い世代がこんな体験を放棄しているのが実に惜しい。アホみたいに色恋に没頭するのが若者の特権なのに嘆かわしい限りである。

ちなみに快楽ホルモンとも呼ばれるドーパミンは永遠に出続けることはなく、2年程度がせいぜいだとか。「恋愛感情なんて2年もすれば冷める」という世間の常識は生理学的に正しいということ。

何かのウケ売りだが、これって人間のDNAと関係しているらしい。赤ちゃんは生まれて2年もすれば立って歩けるようになり、コミュニケーションも取れるようになる。

太古の昔、人間のオスは2年程度はメスの子育てに協力するものの、子供がそこそこ育つと、また別のメスを求めて去って行ったのだとか。

種の保存のため多種多様な相手と生殖活動をしていたDNAが、現代の恋愛事情に影響しているのなら実に面白い。

ウソかホントか分からないが、太古のロマンという意味でロマンチック?な解釈である。