2020年5月29日金曜日

薬物中毒の気持ち


毎年、胃と大腸にカメラをぶち込まれる検査をしている。内視鏡検査だ。そんな書き方をするとオドロオドロしいが、今年ほどこの検査を待ちわびたことはない。先日、ワクワクしながら出かけてきた。

楽しみだった理由は強力鎮静剤でコテっと寝かされる気持ち良さのせいだ。麻酔ではない。強い鎮静剤だ。ウソかホントか安楽死にはこれを大量に使うとか。

クスリでホゲ~っと弛緩させられてストンと眠っちゃうわけだ。



ここ最近、メンドーな世の中だったせいで、自律神経が変になったのか、ずっと不眠気味だった。疲れているのに寝つけず悶々とする日が多かった。

安定剤を多めに飲んでも効かず、休日もゆっくり寝られない日が多かった。

というわけで、たとえ短い時間でも人工的だろうと、ドスンと寝落ちしたかったので、普通は毛嫌いされがちな内視鏡検査が待ち遠しかったわけだ。

私が通っているのは内視鏡専門のクリニックだ。もう長い付き合いだから緊張感はゼロだ。

横になって検査用の採血ついでにゆっくりと謎の鎮静剤が注入される段取りだ。横になった時点でウッキウキである。

ドクターに尋ねる。

「なんか気持ちよくなってきたけどもう入れてる?」

「まだ採血中だよ」

期待し過ぎているせいで、血を抜かれているだけなのに既にフワっとしたつもりになってしまうあたりが単純バカである。

採血が終われば注入開始だ。このクスリは少しづつ確実に吸い込まれるように眠りの世界に誘導してくれる。たまらなく気持ちよい。

徐々にふわふわクラクラ効いてくるのだが、毎回その段階で寝落ちしないようにムダに抵抗してみるのが私のクセだ。

「今日は落ちないぞ!」などと独り言をつぶやきながらドクターや看護師さんに苦笑されながらクスリが染み込んでいくのを体感するのが大好きだ。

抵抗したところで、わりとスグにコテっと落ちる。でも、そのムダに抵抗している過程が楽しい。М的な快感を味わえる。

今回はとにかく深く眠らせてほしかったので、いつものムダな抵抗はやめて「来た来た来た~」とつぶやきながらアッという間に寝落ちした。

毎年、検査終了後は気づけば狭い検査室にひとりで寝ている。目を覚ました時には誰もいない。本当に検査されたのかさえ分からないほどだ。

今回は、なぜか検査の後半に一瞬だけ目覚めてしまった。うつらうつらというレベルだが、尻のほうでモゾモゾ何かやっている感じはあった。

目覚めたとはいえ、とにかくフワ~っとしているから、痛くもかゆくも恥ずかしくもない。「どうして起きちゃったんだ、もっと寝てたいよ~」と独り言をかましたらしい。

すぐにまた寝落ちして気付いた時には一人で横たわっていた。無事終了していた。クスリ注入から起きるまでの時間はわずかに1時間ちょっとだ。

短い時間なのに深く深く眠ったような目覚め方である。おまけにクスリが少し残っているからちょっとフワっとして気持ちがよい。肩凝りもなくなっている。



結果は相変わらず優等生とはいえない状態だが、ガンが無ければまあ合格である。内視鏡でポリープも切除してもらったから医療保険から給付金ももらえる。

気持ちいい思いをして、かかったコスト以上にお金がもらえるなら実にハッピーである。

大腸の内視鏡検査は早起きして長い時間をかけて下剤を飲んで腸内を奇麗にしておく必要があるから面倒だ。

胃については朝飯を抜くだけでOKである。今後も不眠が続いたら、いや、胃が不調だったら、頻繁にクスリを打ちに、いや、内視鏡検査をしてもらおうと思う。

2020年5月27日水曜日

脱線コロナ話


自粛要請もようやく解除された。一気にもとの社会状況に戻るのは厳しいだろうが、やっと一息という感じである。

日本モデルだとかもっともらしい言葉が飛びかっているが、欧米より被害を抑えられたのは何と言っても安倍大首相が国民みんなに布マスクを二枚もくれたおかげである。

いや、いまだに届いてないところもあるようなので、さすがにそれは大ウソで、やはり、国民の努力に尽きるのではないだろうか。

さてさて、憎っくきコロナにやられっぱなしなのもシャクなので、今日は脱線気味にコロナを茶化してみようと思う。

不謹慎とかそういう文句や批判はご遠慮願います・・・。

言うまでもなく日本人の死者数は欧米に比べて格段に少ない。一ケタどころではない。二ケタの違いがある。

感染者数はアテにならないが、死者数については極端な操作はできないだろうから、この点は大いなる謎だ。

世界各国が日本のコロナ死者数に注目しているが、結局のところその理由は誰にも分からない、世界中の優秀な人たちが考えても分からないのだから人類史上まれにみる謎だ。

やはり、安倍さんのくれたマスクのおかげか。。しつこい!

早い段階からBCGの予防接種が有効だったという話が出ている。だとしたらラッキーである。一応、これについてもまだ詳細は不明なので何とも言えない。

突き詰めれば、欧米とは違う日本の生活様式や習慣、食生活に原因があるという見方しか出来ない。それ以外に理由はない。

そう考えるといろんなことが「打倒コロナ」に有効だという可能性があるわけだ。

コメばかり食べていたのが良かった、味噌汁が有効だった、はたまた、海苔が良かったんじゃないか、納豆のおかげだ等々、想像すればキリがない。

他にも世界中で日本人しか食べていないものを考えてみよう。

ごぼう、ヒジキなんかも候補だ。嘘か本当か日本人ぐらいしか食べないと聞いたことがある。

梅干し、漬け物、生ワサビなんかもアリだ。カニ味噌やイカの塩辛だって日本人ぐらいしか食べない。生ウニやイクラ、筋子なんかも候補だ。



そば、そーめん、冷や麦なんかも欧米とは無縁だろう。TKG、生卵かけゴハンだって日本人しか食べない。

くさや、鮒ずし等のアバンギャルドな食べ物も強力そうだ。クジラだって日本人専用である。まあこのあたりは一部の人しか食べていない。きっと違う。

食品添加物の規制が日本は諸外国よりユルいと聞いたことがある。ということはコンビニ弁当や各種の冷凍食品、レトルト食品に含まれている怪しげな添加物の何かが有効だった可能性はないだろうか。

醤油はもちろんだが、ウスターソース、とんかつソースといった日本人が好きなソースもある意味で日本独自路線の存在だ。

私も目玉焼きにもオムレツにもソーセージにもソースをドバドバかけるソースマンだからソース有効説に期待したい。

甘い物だって日本人専用みたいなものは多い。アンコがコロナを退治していたとしたら痛快だし、ひょっとすると千歳飴のおかげかもしれない。

節分の豆はどうだろう。コロナという鬼退治に効き目があったのなら愉快だ。

食べ物だけでなく、日本人特有の生活様式がコロナでの死者数を抑えた可能性も指摘されている。

元来が綺麗好きだし、マスクへの抵抗感の無さ。やたらとハグとかチューをしない奥ゆかしさなどが指摘されてきた。

どれももっともだが、他にも特異な生活パターンはないだろうか。



入浴習慣はどうだろう。温泉の効果もアリだったのかもしれない。家の中で靴を脱ぐ、コタツで温まる、ラジオ体操に励む等々、日本ならではの習慣のどれかがコロナに対して有効だったのなら楽しい。

国花である桜のおかげという仮説も悪くない。花見の際に無意識に吸い込む桜の花粉みたいな特殊成分が先祖代々日本人の体に染みこんでいてコロナから守ってくれるとしたら風流の極みである。

だんだん大喜利みたいになってきてしまった。

蚊取り線香はどうだろう。あれは日本独自のものなのだろうか。あの匂いを長年吸い込んだ効果が我々の体質を変えていたとしたら面白い。

他にも日本人ならではの習慣は多い。ひらがなを読み書きするなんて日本人だけだ。

さすがにこれは関係ないか。

決定的なものに気付いた。

ウォッシュレットである。日本の国宝!である。ウォッシュレットのせいで肛門経由で体内に注入された塩素入りの水道水が何らかの作用をもたらしてコロナと戦ってくれたのかもしれない。

そんなバカなと一蹴するのは簡単だ。でも日本人の体質に世界の誰もが首をかしげているのは事実。まさに神のみぞ知る話である。



2020年5月25日月曜日

大箱系の寿司屋に救われる


寿司屋のカウンターで一人しっぽり過ごすー。若い頃に憧れた大人の姿だ。いま思えば何でもないことである。わびしい独り者の私にとっては日常の姿だ。

しっぽりというよりグッタリのほうが今の私の姿としては正しいかもしれない。若い頃の憧れって結局は単なる幻想に過ぎないと痛感する。

多くの店が休業や時短営業になったことで、私の寿司屋通いも変わった。普段使っていたいくつかの店も休業や営業スタイルの変更でフラっと行けなくなってしまった。

テイクアウトや宅配だとちょっと違う。店のカウンターでのんびり一献傾けながら、ちょろちょろツマミを楽しみ、腹加減や気分に応じていくつか握ってもらうのが寿司の楽しみだ。

こんな時期でもその点は我慢したくない。とはいえリスクは避けたいから営業中でおまけに混雑していない店を探してウロウロすることが増えた。

今は夕方早めに仕事を切り上げることが多いから、17時ぐらいからのんびりカウンターに陣取れる店を探す。

昼から夜まで通しで営業している店ならなおさら有難いのだが、なかなかそういう店は少ない。

築地界隈でもわが家に近いエリアに大箱系のお寿司屋さんの本店が隣接するように存在する。「築地玉寿司」と「すし鮮」だ。



両方とも昼からの通し営業である。早い時間にフラっと入っても普通に好き勝手に飲み食いさせてくれる。今の時期はそんな事実だけで有難い。

いわゆるチェーン点のお寿司屋さんである。いっぱしの寿司通を気取って過ごしてきた私にとっては何となく敬遠してきた世界である。

とはいえ、昨年あたりからこのエリアの大箱系チェーン店の「すし好」に何度か行くうちに、こうした店の良さも分かってきた。私のこだわりや思い込みなど大した意味があるわけではない。


思えばここ20年ぐらいの間に寿司の世界は随分と変わってきた。ウマくて高いのは当たり前、店主と客がまるで教祖と信者みたいなノリの店もある。

客の好みに関係なく「おまかせ」のみで営業している「?」な店も珍しくない。そんでもって一人3万だの4万だのと凄い値段である。そんでもって信者がネット上でそんな世界を大絶賛する不思議な世界が生まれた。

そりゃあウマいものが安くないことは分かるが、ちょっと常軌を逸している気がする。

気の利いたツマミを45品もらう。酒を23合飲む。握りを810貫食べたとしよう。量としては充分だ。

さて値段を考えてみよう。

ツマミも握りも一つ1000円と仮定する。平均1000円はかなり高い見積もりだ。高級路線の店という仮定になる。

単純計算しても2万円がマックスである。実際はツマミの中に枝豆や塩辛的な手軽なものがあって、握りの中にはイカやアジ的なさほど高くないネタも入るだろうから、2万円まではいかないのが普通だ。

なんだか当たり前のことをグダグダ書いたが「一つ1000円」という前提を「一つ400円」ぐらいに設定したのが、いわゆる大箱チェーン店系の相場感ではなかろうか。

確かに高級店といわれる店に比べればオヨヨって感じのネタもあるが、大量仕入れの利点もあるから下手な個人店よりも上等なネタもある。

大箱店だからカウンターで向き合う職人さんによる差が大きいとか、細かいことをいえばマイナスな部分もある。でもトータルでは“寿司屋でゆるゆるやりたい気分”を満たしてくれるわけだから有難い。

「築地玉寿司」「すし鮮」ともにここ2ヶ月の間に何度か訪ねた。支店の多くが休業している影響だろうか、いつも初顔の職人さんと対峙するのはご愛敬ではある。



それでも、どこもかしこも暖簾を下げている時期にワガママな寿司飲みが出来ることは私にとっては大いなる喜びだ。不安定になりがちな気持ちが救われているといっても大袈裟ではない。

世の中の休業状態が終われば、きっと他のお寿司屋さんばかり行くようになってしまうだろうが、「このご恩は忘れません!」って感じである。





2020年5月22日金曜日

淋しい銀座 嬉しい銀座


私の職場は銀座の近くに位置している。最近は出勤しても夕方早めに切り上げることが多いので、薄暮の有楽町・銀座界隈をぶらぶら散歩する。

もちろん、ゴーストタウンみたいな状態である。どこも営業していない光景が今の時期だけで済むならまさに歴史的珍事でもある。



そんな光景を目に焼き付けておきたいという変な好奇心で歩き回っている。

有楽町の駅周辺は商業ビルやデパートが隣接して一つの都市空間を作っている。すべて閉まっているから歩いている人はほとんどいない。

異様な光景だ。夜じゃなくても女性が一人歩きをするのが不安になるほどの淋しい空気に満ちている。

銀座は7丁目、8丁目あたりの“夜エリア”の寂しさが際立つ。細い道路沿いの雑居ビルにひしめく店の看板は明かりだけをともしている。



少なからずこの街にお世話になった身としては実に淋しい。無性に切ない気持ちになる。

非常事態宣言が解除されても一気に元通りになるのは難しい世界である。不幸が連鎖しないことを願う。

オフィス街により近いせいか、銀座1丁目、2丁目あたりはポツポツと時短営業している店も見かける。

洋食の老舗「煉瓦亭」も早い時間からオープンしていたので、先日、まだ明るい時間にフラっと入ってみた。

最近、私が食べに行く店の多くがコロナ以前には行ったことがなかった店だ。選択の余地が少ないから開いている店に適当に入ることが増えた。いわばアウェーである。

煉瓦亭のように以前から利用していた店が営業していると妙に嬉しくなる。普通に戻ったかのような錯覚に浸れてハッピーな気分になる。

こういうちょっとした喜びを見つけないとコロナ鬱を招くから、わけもなく散歩に励むのも悪くない。





前菜にエビのカクテル、その後、エビのコキールを白ワインで堪能して、最後はチキンライスにしてみた。

「コロナ以前」にガツガツ食べていたものを久しぶりに味わうと美味しさよりも嬉しさが勝ったような気分になった。

「そうそう、これこれ!」って感じである。

ウーバーイーツであれこれ取り寄せるのもアリだし、テイクアウトでいろんな店の味を楽しむのアリだ。でもその店に行ってその店の空気に浸りながら味わう喜びは格別だ。

この日、私が過ごした時間帯は他に2組のお客さんがいた。かなり離れて座っていたから何も気にせず快適だった。

銀座界隈に限らず、いま営業している喫茶店は結構な数のお客さんで賑わっていることが多い。それに比べれば時短営業しているレストランのほうが人出は少ない気がする。

闇雲に外食は自粛という凝り固まった考えに囚われるのは馬鹿馬鹿しいと思う。空いているタイミングを見計らって外食することは何も問題ない。

いまさらそんなお節介な話を書いても仕方ないが、つくづくそんなことを感じた時間だった。

2020年5月20日水曜日

いまこそハマコー!?


YouTubeを脈略なく観ていたら懐かしのハマコーが出てきた。私が敬愛するハマショー師匠ではない。政界の暴れん坊として知られたハマコーである。



福田・大平時代の自民党が内部分裂した、いわゆる四十日抗争の際にテレビ向けにパフォーマンスしているハマコー先生の若かりし頃の姿だ。

私は社会主義は嫌いだし共産主義は論外だから、昔から自民党支持だ。消去法みたいな支持層といえるが、多くの自民党支持者はそんな感覚だろう。

自民党といえば揉め事である。上で書いた四十日抗争もそうだし、数え上げればいくつもある。

竹下元首相が親分の田中角栄さんと袂を分かつことになった創政会の結成もインパクトがあった。怒りまくった角栄さんはまもなく脳梗塞で倒れ政治生命を絶たれた。

それ以前にも今の河野防衛大臣のパパである河野洋平氏らが自民党を飛び出して新自由クラブを結成したり、石原慎太郎や後に壮絶な自殺をする中川一郎らが青嵐会というグループを作ってガーガー言い出したこともあった。

いま思えば、ある意味で昭和の頃の勢いそのままの“活気”を象徴していたのだと思う。

平成になってからも宮沢内閣時代に小沢一郎、羽田孜らが党を割って出た大騒動もあった。

小沢グループは新生党を結成し、その後、細川連立政権につながっていく政変を演出することになった。

小泉劇場と呼ばれた一連のスッタモンダだって、自民党総裁選の場で逆説的に「自民党をぶっ壊す」と言い出したことで始まった。

他にもヘナチョコな尻すぼみで終わった「加藤の乱」なども懐かしく思い出す。

そう考えると“内輪もめ”こそが自民党の原動力だったと言ってもおかしくはない。

何でこんな話を書き始めたかというと、昨今の自民党の体質があまりにシャバダバだからである。



上に書いたような数々のゴタゴタは、その功罪は別として政権与党としての活力や緊張感を生んでいたのは確かだ。

安倍政権の迷走ぶりは目を覆うばかりである。いよいよ不支持率が支持率を上回る段階に入った。長期独裁の緩み、歪みに対する国民の不信感は高まるばかりだ。

安倍政権のトンデモぶりが問題なのは間違いないが、その背景には自民党のダメっぷりがあることも確かだ。

すっかりゴタゴタや揉め事の無くなった自民党の現状が結果的に今の事態を招いた元凶だろう。

善し悪しはともかく、権力闘争が健全に行われれば、失政、失策に対する党内からの攻撃は激しくなる。それが一種の自浄作用になるわけだが、そうした自浄作用が機能していないのが今の自民党だ。

検察庁法改正案がいったんは取り下げられることになったが、これも党内からの自浄作用によるものではない。SNSなどをきっかけにした世論を恐れたゆえの判断だ。

桜を見る会やモリカケ問題にしても、昔の自民党であれば反主流派勢力が一気に安倍おろしに舵をきったはずだ。そのぐらいの悪事である。

党執行部の一強支配によって「物言えば唇寒し」の状況になってしまった党内のダメっぷりが結果的に政権の延命に手を貸すことになっているわけだ。

その昔の政治改革によって選挙制度が小選挙区制に変わり、党執行部の権力が絶大になったことが基本的な理由だ。当時、多くの国民が願った政治改革の結果である。実に切ない。

ついでに言えば「官僚支配から政治主導へ」という旗印のもとに行われたいくつもの改革も、結果的に政権に媚びへつらい、忖度するだけの霞ヶ関の現状を招いてしまったのも皮肉な話である。

いずれにせよ、あれだけの国会議員数を抱えるマンモス政党なのに、党内での健全な権力闘争が見えてこないないことは異常だろう。

結局は顔になる人物を中心に数十人規模で党を割って出るような起爆剤が働かないと変化は起きないのだろうか。

ちょっとベタ過ぎる妄想だが、小泉ジュニアや石破さんあたりが100人ぐらいを引き連れて“脱藩”し、人気急上昇中の大阪府知事あたりと合流し、新しい勢力を結集すれば一気に風向きは変わるはずだ。

そんな妄想をしたくなるぐらい安倍政権のヘッポコ状態が哀しい。

2020年5月18日月曜日

袋麺の焼きそば


今年の1月、サッポロ一番への偏執的な愛を語ってみた。カップ麺とはナゼか違うインスタントの袋麺の良さを再認識した話だ。


あれから5ヶ月、世の中はすっかり大変な事態になってしまったが、私の“袋麺愛”は今も変わらない。



で、今の私がハマっているのが「焼きそば」である。カップ焼きそばの英雄であるペヤングを愛してやまない私だが、そもそも子供の頃は袋麺の焼きそばが大好きだった。

明星食品の「じゃんぼ」が定番だった。学校から帰宅して夕飯までのつなぎに母親に作ってもらう「じゃんぼ」が私の大好物だった。

高校生の頃、たまたま一人で家にいる時に自分で作ってみたのだが、要領が分からず大失敗した覚えもある。

水加減というか、基本的に作り方の要領が分からなかったので、うどんみたいに膨らんでしまいクソマズい仕上がりになった。

今の私は、そこらへんの主婦よりも上手に作ることが出来る。袋麺の焼きそばはナメてかかると意外に失敗しやすい。だからこそバッチリ仕上がった時のウマさが妙な満足感につながる。

その後、気付けば「じゃんぼ」は世の中から消滅し、袋麺全体がカップ麺人気に押され気味になり、私もいつしか袋麺の焼きそばを食べる機会は激減していった。

そして中年になってから改めてサッポロ一番に回帰した私としては、当然、焼きそばもサッポロ一番をムホムホ食べる。でも、心のどこかでいにしえの「じゃんぼ」への想いも消えない。

で、「じゃんぼ」の後継である明星食品の焼きそばを買いたくなったのだが、近所では見つからずネットで注文してみた。

ネット上には他にもさまざまな袋麺の焼きそばがあったので、ストック好きの私としては大人買いをすることになった。



マルちゃんの「やきっぺ」は未知の商品だけあって抜群に美味しく感じた。北海道限定という表示がそそる。

きっと旅先で食べる食事のように気分のせいもあって美味しく感じたのかもしれない。でも、何度食べても悪くない。

他の袋麺と何が違うかといえば正直よく分からない。微妙に麺が細めかもしれないが、どことなくサッパリしているように感じた。

極端な話、袋麺の焼きそばの味にさほど大きな違いはない。袋麺特有のあのチーピーな麺の食感が大好きな私としては基本的に何でも美味しい。唯一の例外がマルちゃん正麺の焼きそばだ。


マルちゃん正麺といえば、ラーメンにおいても袋麺とは思えない完成度の高い麺の仕上がりで知られる。焼きそばも同じだ。ハッキリ言って凄い。実にちゃんとしている。でも私の好みではない。あれならチルド麺でいい。

袋麺の焼きそばは、あくまで昭和の郷愁に浸れる独特の安っぽさこそが魅力である。

袋麺の焼きそばを食べる際、私はソースを7~8割ぐらいしか入れない。全部入れると味が濃すぎる気がして、ちょっと控えめにする。加齢のせいかもしれないが、ここが大きなポイントである。

で、「じゃんぼ」の後継である明星鉄板焼きそばもウホウホ食べてみた。郷愁という調味料が加わっているせいで、ただただウマい。

個人的な意見だが、袋麺の焼きそばには具を入れてはいけない。素っ気なく食べるのが一番ウマい。メーカー側は具材も入れた画像を袋に印刷しているが、あれはあくまで演出である。

日清焼そばにいたってはエビまで入った画像を使用している。まるで違うと思う。個人的にはそんな邪道な事をしたら台無しだと信じている。



ちなみに日清焼そばの袋麺は、ソースがピリ辛で私の好みではない。きっと具材も含めて味付けすることを計算しているのだろう。辛いほうが好きな人向けである。

いま気付いたのだが、私の場合、具をまったく入れないから添付のソースは7~8割ぐらいで充分なのだろう。キャベツや豚バラ肉を投入する人とはソースを使う量が違うのも当然か。

そもそも私にとって袋麺の焼きそばは「おやつ」だった。おやつだから野菜なんてもってのほかである。

おやつイコールお菓子だ。“カレーは飲み物”という格言があるが、それに習って表現するとしたら“袋麺の焼きそばはお菓子”である。

2020年5月15日金曜日

サイドシートの影


ステイホーム、おうち時間などと言われても一人暮らしの身にとってはとくに構える話でもない。

家飲み、家メシともに、もともと一人ぼっちである。ぼっちなどと書くと淋しげなイメージだが、私はぼっちが嫌いではない。気が楽だ。

独り者とはいえ、子ども達とはマメに会っているし、職場に行けば誰かと会話もする。シングルライフがつらいとか淋しいと思うことはない。

孤独を楽しむなどというと大袈裟だが、一人遊びをうまくこなせるかどうかは生きていく上で案外大事な問題かもしれない。

一人でいる良さのひとつが物事をよく考える点だろう。別に難しい話である必要はない。バカげた妄想やスケベな思い出し笑いもアリだ。

アレコレ考えているだけで自分のアンテナみたいな部分がちゃんと機能するような気がする。

悪く言えばヒマが多いという意味でもある。とはいえ、ヒマと上手に向き合うことは人生を上手に楽しむことと直結している。



前振りが長くなったが、最近は散歩や一人ドライブに励むことが増えた。不要不急だと文句をつける人もいるので、一応、ドライブも用事のついでに楽しんでいると言い訳しておこう。

散歩もドライブも結局は、アーでもないコーでもないと何かしら頭の中をよぎっている。ただゲームに熱中したりマンガに没頭するよりは頭の体操になっている気がする。

昔はクルマの運転が好きで、東京からクルマで出発して北海道を一周して帰ってくるような元気さもあった。

昔はちょっとぐらい酒気帯び気味でもヘッチャラな世の中だったので(ウソです!)、ヒマがあればドライブしていた。

その後、歳とともにハンドルを握る機会が減り、近場の温泉なんかにも電車で行く機会が増えてしまった。

渋滞が嫌いだから首都高はなるべく避けるのだが、最近はこんなご時世になっちゃったから首都高もガラガラ状態である。



正月やお盆の数日を除き、来る日も来る日も首都高が空いている状況は歴史的な珍事だろう。免許を取ってから35年以上が経つがそんな経験はない。

今の住まいである新富町エリアから実家のある荻窪界隈までは。首都高を使うと随分と大回りなのだが、ガラガラだから使わない手はない。

一般道ではあり得ないようなコース取りになるが、距離にして18キロほどである。地方の高速のようにかっ飛ばせない首都高での18キロは結構な長さだ。

適度なドライブとして悪くない距離だ。大声で歌いながら快適に走っていられる。今は事前にネットで混雑状況を確認しなくても大丈夫なのも嬉しい。

裏返せば、それだけ一気に経済が止まってしまった何よりの証拠だから恐ろしい現実であるのも確かだ。

夜のドライブも楽しい。さらにガラガラである。都心中心部のビル群も灯りはまばらだ。静まりかえった東京の夜をハマショー師匠の名曲「サイドシートの影」を歌いながら流す。



このところヘンテコになってきた自律神経が整ってくるような気がする。快適にドライブしながら歌うという行為は間違いなくストレス発散につながる。

最近は深夜の首都高でルーレット族やらローリング族と呼ばれる走り屋連中が暴走しているらしい。クソ迷惑な話である。

ちなみに、あまりにガラガラな首都高は意外に走りにくい面もある。周囲にクルマが走っていないから速度感覚がマヒしがちだ。

それに加えて結構なクネクネが続くから、あまりボケっとしているとコーナーで慌てることになりかねない。

こんな怖さを実感したのもコロナ禍の副産物である。気をつけてホゲホゲ走りたいものだ。


2020年5月13日水曜日

ラーメンの主役


コロナの話ばかり書いていると気分が暗くなるから、今日はラーメンについて書く。

私はどちらかと言えばコメ派なので、ラーメンには強いこだわりはない。

混んでる店で食べたいとは思わないし、人気が定着したつけ麺もウマいとは思わない。そんな程度の距離感でラーメンに接している。

時折無性にラーメンが食べたくなるのだが、私の場合、ラーメンそのものよりもチャーシューに意識が向いてしまう。



普通のラーメンの画像である。ちっともそそられない。チャーシューが一枚しかないことが残念無念である。

普通のラーメンの場合、チャーシューを食べるタイミングが大きな問題になる。

チャーシューが一枚しか無ければ一口で食べたら消滅してしまう。ちぎったところでせいぜい2回しかチャンスが無い。

これは大変な事態である。ラーメン一杯を食べるにはおそらく20回か30回ぐらいは箸を口に運ぶはずだが、そのうちの2回だけである。

それ以外はメンマや卵に活躍してもらうわけだが、それでも基本はラーメンだけを口に入れる必要がある。

ラーメンが大好きな人なら何も問題はない話だ。でも私のような変態チックな人間は、あくまで麺とチャーシューをミックスして食べたい。

ひょっとすると私はラーメンというものが嫌いなのかもしれない。まずチャーシューありき、ついでに麺というヘンテコな感覚が強いみたいだ。

そんな性癖?を実感したのが職場のそばにある喜多方ラーメンの店で食べたチャーシューメンだ。



「坂内」という人気店である。店頭に貼り出されているチャーシューてんこ盛りの画像に誘われて入ってみた。

大興奮である。チャーシューで麺が見えない。勃○しそうな見た目である。

ラーメン一口につきチャーシュー一枚を食べても、いつまでもチャーシューが控えている。これは嬉しい。実に幸せなことだ。

麺は普通、スープも普通だった。でも私の満足感はマックスだった。美味しいかどうかという次元を超えた世界である。チャーシュー祭りというだけで100点満点である。

食べ進むうちにチャーシューに飽きてしまったほどだ。それって贅沢なことだろう。「チャーシューに飽きる」などと表現出来ることは滅多に無い。



ここ最近はチャーシューがドッサリ入っているラーメンが食べたくなると、わざわざ新橋の「ほりうち」まで出かけていた。上の画像がそれだ。

「ほりうち」でも食べている最中にチャーシューに飽きるという贅沢が味わえるが、今回食べてみた「坂内」京橋店は職場から徒歩2分である。まさに灯台もと暗しである。

「坂内」は都内に十数件展開するチェーン店だとか。チャーシューに飽きてみたい人なら足を運ぶ価値はある。

なんだかラーメンを語っているのかチャーシューを語っているのか分からない話になったが、私のラーメン感はしょせんその程度でしかない。

スープの奥深さ、麺の傾向など一生懸命に吟味している人たちからすればシャバダバな話だが、もはやラーメンは国民食らしいから私のような変態系論評もご容赦願いたい。

2020年5月11日月曜日

感染済みかも?


コロナにかかってんたんじゃないか問題について書いてみる。そうだったら抗体があるわけだから悪い話ではない。

まあ、書くネタが無くなっちゃったゆえの戯れ言ではある・・・。



今年1月末に扁桃炎っぽい症状で割と長く寝込んだ。扁桃炎だと医者に診断されたわけではない。喉が痛くなって高熱が出たので、扁桃腺持ちとして自己診断したまでである。

このブログでも書いたのだが、今までに経験したことのないキツい症状だった。普段なら高熱は2~3日で済むのだが、この時は5日近くも39度以上の熱にうなされた。まる一週間復活出来なかった。

いつもはロキソニンを飲めば3時間ぐらいはラクになる時間帯もあるのだが、今回はロキソニンも効かずにただヒーヒーとツラい思いで寝込んでいた。

味覚障害があったかは定かではない。ただ、扁桃炎にしては珍しく最初のうちは咳も結構出た覚えがある。

2月初めに書いたこのブログでも、その時のシンドさを「15年後の体力だったら死んじゃったかもしれない」と書いたが、これまで扁桃炎でそんな感覚になったことはなかった。

今の時点でそんな症状だったらバリバリの感染者だろう。ただ、1月末の時点では世の中はゴーン逃亡とかで騒いでいただけだった。

新型コロナの話題は、2月になってダイヤモンドプリンセス号が横浜に寄港してから広まってきた経緯がある。

調べてみると日本国内でも1月時点ですでに中国渡航者以外からも感染者は出ていた。あの時点では新型コロナという観点から調べる病院なんか無かったわけだから、私の症状だって疑いの余地はあったわけだ。

イタリアでは感染が大流行するかなり前から実際は相当な数の感染者がいたという話になっている。フランスでも昨年12月に感染者がいたことが最近になって判明、イギリスの研究チームも昨年終盤から人への感染が始まっていたという情報を発表している。

そうなると、日本でも今年の初めあたりからちょこちょこ感染者がいた可能性は否定できないだろう。何かとメンドーだから感染済みだったら随分と気が楽になると思う。

聞くところによると抗体検査とやらをしてもらえれば感染歴が分かるらしい。民間でもやっているところはあるそうだが、予約が殺到してなかなか順番が回ってこないそうだ。

既に抗体を持っているなら、大手を振ってパチンコや風俗に行ったりできる。いや、そんなことを書くと自粛ポリスの皆さんにぶっ飛ばされてしまう。でも、もし抗体があるのなら進んでボランティアに励むことも可能である。

抗体検査もそうだが、PCR検査とやらは何でいつまで経ってもバンバン出来ないのだろう。

3月初めの時点からもっともっとやるべしという声は上がっていた。緊急事態宣言が出てからだって1カ月以上も経っているのに相変わらずチンタラしている。

ニューヨーク州ではすべての薬局でもPCR検査を始めるそうだ。言っちゃ悪いがアメリカ人でもやれることをナゼやれないのか不思議で仕方がない。

世間に広がる不安は増すばかりだ。不安って物凄く厄介なもので、これが全国民に広がっている事態が由々しき問題だ。

コロナそのものへの不安というより、いざ感染した場合でもスムーズに検査すらしてもらえないという不安が広まっていることが大問題である。この部分は完全な失策だ。

検査を待っている間に死亡。こんなニュースが相次ぐたびに不安はどんどん増殖する。

だいたい、日々発表される感染者数だって多くの国民が信じていない。統計不正をはじめ、公文書を簡単に捨てたり改ざんするお上を信用しろというのが無理な話ではある。

信用できない政府、信用できない数字に加え、いざという時に検査も受けられない不安が加わってしまうのだから不幸という言葉しか思い浮かばない。

今日も結局文句ばかり書いてしまった。


2020年5月8日金曜日

歩いたり読んだり


もともと運動不足だから、自粛生活は私をどんどん肥大化させる。さすがにマズいからマメに散歩に励むようにしている。

散歩にはもってこいの季節だ。新緑の美しさ、花の奇麗さといった当たり前の光景も今の時期は凄く有難く感じる。

東日本大震災のあと、しばらくは「当たり前の暮らし」の有難さを痛感した。気づけばそんな感覚も薄らぎ、いままた何気ないことの大事さを改めて噛みしめている。

引っ越してから間もなく1年。中央区界隈は江戸時代のあれやこれやを示す標識や碑があちこちにあるから、当時に思いを馳せながら歩くのも楽しい。



ふと見つけたのが浅野内匠頭の上屋敷跡の碑だ。いわずと知れた忠臣蔵のバカ殿、いや仇討のきっかけとなったお殿様だ。

聖路加病院の近くにポツンと地味な碑が立っていた。忠臣蔵には小学生時代から入れ込んでいる私にとっては萌えスポットである。

討ち入りを果たした義士達は、吉良さんの首をもって泉岳寺まで行進する途中で、この地を通過したそうだ。

いま自分が立っている場所に47人の義士がいたのかと思うとワクワクする。

子供のころ、赤穂まで行って大石邸後や城跡を見て、その後は泉岳寺にも行き、大人になってからは大石が隠遁生活を送った京都山科あたりを散策し、両国の吉良邸跡にも足を運んだ。

浅野家の江戸屋敷も確認できたから、あとはいよいよ松の廊下だが、さすがに皇居の中は散歩できないから無念である。

名所旧跡探訪も楽しいが、私にとって散歩の魅力は妄想に尽きるかもしれない。

立派な住居を見れば、住んでいる人の暮らしぶりを勝手に考える。オンボロアパートも同じ。今にも崩れそうなアパートには妙な趣がある。ボケっと眺めながら昭和の青春ドラマのような暮らしを妄想する。

ヨレヨレ歩いているお年寄りを見れば若い頃はどんな仕事に励んだのか、どんな恋愛をしたのかなどと想像する。

文字にすると実にくだらないのだが、これが結構楽しい。

何も考えずに歩くとすぐに飽きちゃうのだが、妄想していると長々と歩ける。

買い物袋をさげたオバチャンの後姿を見ながら、この人の家の夕飯は何だろう、誰と食べるのだろうと考え、小さい子供の手を引くお父さんを見れば、ウチに帰ったら怖い奥さんにガミガミ文句言われるだろう、本当はヨソに愛人がいるんじゃないか等々、アホみたいに妄想している。

まあ端的に言ってバカなんだろう。いや、自粛続きで頭がおかしくなっているのかもしれない。



連休中は、散歩以外に読書にも励んでみた。いつもは短編専門だが、夜のヒマさに耐えかねて長編にも手を出してみた。

浅田次郎の「流人道中記」がそれ。江戸から津軽までの紀行小説的な要素もあり、例えるならロードムービーを観ているような面白さに満ちていた。

人間の矜持や規範というものとの向き合い方など、今のご時世に読むにはもってこいかもしれない。掛け値なしに面白いので自粛生活のお供にオススメだ。






2020年5月1日金曜日

自粛の解釈


わが社でも8割方リモート勤務になっているが、徒歩出勤が出来ちゃう私はノコノコ出社する日が多い。

会議も無い、商談も無い、誰かと会う予定も無い状態だから寝間着で出社しようが問題はないのだが、毎度きちんとスーツにネクタイで出かける。

これは気持ちの問題である。オンとオフの切り替えのために一種の制服に身を包むことで何となく自分を鼓舞しているわけだ。

バカみたいな話だ。でも私のような怠け者にとっては必要な儀式みたいなものだ。我ながらご苦労なことだと思う。

さて、昨今のギスギス社会を象徴するのが「パチンコ屋つるし上げ問題」だろう。全国で休業要請に応じないパチンコ店が叩かれまくっている。

店名公表という措置はさらし者効果を狙ったものだが、逆に宣伝につながるなど、まさにテンヤワンヤの状態だ。

私はパチンコをしないからパチンコ屋さんの肩を持つわけではないが、今のヘンテコ同調圧力には薄気味悪さを感じる。休業しない店に爆破予告まであったらしい。

休業要請は要請に過ぎず、従わない事業者がいるのは不思議ではない。夜8時以降も営業している飲食店だって珍しくない。

理想を目指すことは大事だが、理想と現実が必ずしもぴったり一致しないのは世の中の摂理みたいなものだろう。

補償も無いのに休業できない事業者がいるのはやむを得ない。これは仕方がない。国や自治体も補償を棚にあげている以上、そんなことは百も承知だろうが、パチンコ問題については、世間の同調圧力を煽って休業を押しつけているように見える。狡猾な話だ。

東京都の場合、飲食店なら休業しなくても時短営業に応じれば協力金がもらえる。それでも瀕死の状況なのに、パチンコ店には協力金などの措置は無い。それが現実だ。

三密になりやすいから休業が要請されるわけだが、時短営業している飲食店だって今もしっかり三密状態は見受けられる。

店にもよるが、わが社の近くにあるラーメン屋さんやおそば屋さんの昼時の混雑ぶりはかなりのもの。怖くて入る気にならないぐらいの時もある。

皆さん、食事だから当然マスクはしていない。どう考えても危険度は高いと思うのだが、そんな光景に対して世間が文句をつけることはない。ただただ「パチンコけしからん論」ばかりがお祭り状態だ。

営業しているパチンコ店はごく一部だ。だからといってそれが良いという意味ではないが、逆に大半が休業していることのほうを評価すべきかもしれない。補償もないまま休業している大半の店に一国民として感謝したいぐらいである。

無気味なのは経済再生担当相が罰則規定を含んだ法改正に言及したことだ。「要請に応じなかったら罰則」。要請が強制でない以上、これって論理破綻だ。そんなことを大臣が言い出すのは危なっかしいことだろう。

いうまでもなく要請は強制ではない。そんなハチャメチャな筋書きが成り立つなら、罰則はどこまでも広がっていく。

万一、そんな流れになってしまったら、パチンコ屋限定の制度になるはずはなく、どんな業種にも強権が及ぶことにつながる。憲法すら無視したトンデモ法制だという視点が抜け落ちている。

政府関係者ならここぞとばかりに今の世論を利用したくなるはずだ。ドサクサまぎれに強権を駆使できる法律を作れちゃうわけだから、千載一遇のチャンスと認識する。

そんな暴挙が許されるなら、いずれ散歩しても罰則、毎日買い物に出かけたら罰則、帰省したら罰則など、どんどんエスカレートしかねない。

もちろん、極端な例えだが「要請なのに罰則」という考えが通用するなら同じベクトルの話である。

繁華街の人の減り方など、緊急事態宣言が出てからの国民の自粛協力は物凄いレベルで進んでいる。素晴らしいことだと思う。

日本人の勤勉さ、優秀さを誇らしく思う反面、その真面目さが逆手に取られて国家権力が都合良く増長するのは怖いことだ。

改めて思うのだが、自粛自粛で世の中が変に硬直化していることに疑問を感じない人が多すぎる気がする。

ステイホームとやらが原則なのは分かるが、あくまで臨機応変に対応すればいいことだろう。人が密集しなければ出かけることを禁じる必要はない。

サーフィンだって潮干狩りだって周りに人がいない状態なら咎められる話なのだろうか。まあ、なかなかそんな場所がないのが困りものだが。

もっと言えば、自粛という言葉が曲解されて「楽しいことをしてはいけない」というヘンテコな空気になっている気がしてならない。

ウダウダ書いたが、不快に思われたらスイマセン。でも、自粛生活といえども少しでも楽しみを見つけることは大事だ。それだけは間違いない。

いまこそ常識的な大人の判断で臨みたい。それが一番難しいのだが・・・。

★次回更新は5月8日になります。