2018年5月30日水曜日

鹿児島の旅 霧島の湯


先週末、鹿児島に行ってきた。期限切れが迫っているマイルを消化するために、急きょマイル枠の空席を探して手配した。

温泉に行きたかったのも鹿児島を選んだ理由だ。近場の温泉も悪くないが、久しぶりに「泉質」にこだわって、にごり湯にドップリ浸かりたいと考えたわけだ。

目的地は霧島温泉である。白濁した硫黄泉がウリである。霧島には15年ぐらい前に行ったことがある。柔らかい湯と硫黄の香りを堪能したので、再訪したい場所の一つだった。

更に言えば「西郷どん」の影響もあった。NHKの大河ドラマである。面白くてハマっているので、温泉の合間に西郷さんの足跡を訪ねようと企んだわけだ。



泊まった宿は「霧島ホテル」。とにかくダダっ広い大浴場に入りたかったので、ネットでアレコレ調べて選んだ。

金曜の夜、鹿児島空港でレンタカーを拾って、一路霧島を目指す。40分ぐらいのドライブである。

この画像はホテルのホームページからパクった。とにかく広い温泉にウキウキした。


巨大体育館みたいな規模で、画像に写っている大半のエリアが胸ぐらいの深さ。歩行浴というか立ち湯というか、端のほうに行かないと腰をおろせないほど。

混雑していなかったから普通に泳いだ。というか、浴場内で移動するには泳ぐ方が便利な規模だった。しっぽり温泉も捨てがたいが、こういうドッヒャーって言いたくなる温泉も素敵である。

こことは別に露天風呂もあるのだが、この体育館大浴場?の天井が高くて開放感タップリなので、シッポリ系の露天よりこっちばかりに浸かってドッヒャードッヒャーとつぶやいていた。



大型旅館の食事にはあまり期待出来ないことが多いが、逆に大型旅館だと別注料理がアレコレ頼めることもあるので、使い方次第では充分に満足できる。

鶏の炭火焼きとトンコツ煮などを追加して、芋焼酎飲み比べセットをグビグビ楽しんだ。幸せだった。豚肉料理と芋焼酎の組み合わせは無敵だと思う。

翌日、鹿児島市内までレンタカーを飛ばし、西郷さんの研究に励む。霧島から市内までの移動中は緑の濃さが素晴らしかった。最近、やたらと目の疲れが気になっていたから、深くて濃厚な木々の色合いに癒された。

リフレッシュしただけでなく、今回のちょっとした旅が、年末まで続く日曜8時の大河ドラマ鑑賞をより面白くさせてくれそうだ。主演の鈴木亮平はいい感じだし、大久保利通役の瑛太も熱演している。渡辺謙も良かったし、佐野史郎もさすがの悪役ぶりだった。そのうち勝海舟役で遠藤憲一、木戸孝允役で玉山鉄二が登場するらしい。楽しみである。


さてさて、桜島は噴煙バリバリで、レンタカーにも随分と灰が降り積もった。10分も歩けばどことなく頭や顔がチリチリした感じ?になった。

考えてみれば、街のそばで火山がしょっちゅう噴煙を上げているのだから大変な話である。地元で暮らす人にとってはかなり厄介だと思う。

西郷さん研究の合間は、やはり黒豚である。豚肉が大好きな私にとって鹿児島は聖地みたいなものである。15年前に「豚しゃぶにはソバつゆ」を覚えたのも鹿児島だ。

というわけで、市内の人気トンカツ屋さんである「黒かつ亭」に行ってみた。時間帯によっては並ぶらしいのだが、時間をずらしたせいでズムーズにカウンター席に案内された。



ジューシーなメンチカツとロースカツである。単純明快にウマかった。ロースカツは火の加減も絶妙で、さすがに黒豚王国・鹿児島で人気を集めているだけのことはある。

市内をブラブラしてから霧島温泉に戻る。2泊目は霧島国際ホテル。デカい大浴場がある手軽な価格帯の大型旅館である。

前の日のホテルよりは宿全体がくたびれていたが、温泉の質自体はとてもよかった。気のせいか、前の日の宿よりも白濁の加減が濃かったような印象だった。

夕飯無しで予約したので、近くの居酒屋で芋焼酎ざんまい。地鶏の刺身と黒豚スペアリブが印象的だった。黒豚ギョウザもウマかったし、豚好きとしてはニンマリする時間が過ごせた。



行き帰りの機内で読んだ西郷さん関連本によると、西郷さんの大好物は豚肉とウナギだったとか。私もだ。身長も私と同じぐらいだったそうで、もうそれだけで単純な私は勝手に西郷さんに親近感を覚えている。

昨年、少し落とした体重がまた増加傾向にあるのだが、「西郷さんを目指している」という身勝手な言い訳が頭をよぎっている。

2018年5月28日月曜日

社交的なのか人嫌いなのか


私はそれなりに偏屈だと思う。その証拠に一人旅、一人メシ、一人飲みが好きだ。無理やり人様に調子を合わせたり、おべんちゃらを言うのは苦手だし、それ以外のケースでも勝手に人に気を使って疲れちゃう。

古くからの友人やセクシーな女性なら別だ。ちゃんと楽しく過ごす。それ以外は億劫になる。単純にワガママなんだろう。

そう書くと社交性のカケラもないようだが、時々、飲み屋などで隣り合わせた見ず知らずの人と妙に盛り上がることもある。

先日も銀座で気取って飲んでいたのだが、隣に座っていた同年代のオジサマとひょんなことで長々と話し込んだ。

テーマは「ヒデキロス」である。西城秀樹の歌について深く鋭い考察を互いにぶつけ合った。

「ブルースカイブルー」の世界観やヒデキならではの歌唱法に関する想いが一致したせいで、かなり興奮しながら語り合った。

綺麗なオネエサンそっちのけのヒデキ談義に没頭しながら夜が更けていった。あの時に限っては自分がとても社交的だと感じた。


隣り合わせた見ず知らずの人と会話を交わすことは珍しくないが、気をつけたいのはスマートな距離感だろう。人と人の相性は結局そこに尽きると思う。

時々、一人飲みしているオッサンが「誰かと話したくて仕方ないオーラ」を発している場面に遭遇する。ああいうのが一番ウザったい。

店の人との聞こえよがしの会話内容や挙動不審ともいえる視線の動きによって、その種のオーラは不思議とビンビン伝わる。

こっちも一人なら付き合えば良さそうなものだが、そういうオッサンはたいてい親しく会話したいタイプではない。どうしたってガサツな空気が漂う。

私もそれなりにガサツだが、一応、ダンディーなナイスミドル!?を目指しているから、やすやすと彼の術中にハマるわけにもいかない。

下町の大衆酒場なら素直に軍門にくだるのもある種のマナーだろうが、しっぽり飲むような場面ではガサツオヤジからは上手に逃げるのが賢明だ。

そんなことに神経を使うのはシャクだが、私の場合、一度つきあい始めると割とその場を盛り上げたくなるタイプなので結果的に疲れてしまう。

おそらく、相手から好感を持たれたいという無駄な自意識が強いのだろう。バカみたいだ。

過去には隣り合わせて盛り上がったオッサンから、後日しつこく営業攻勢を食らったこともあった。

営業マンたるもの一度でも名刺交換した相手に食い込みたくなるのは分かるが、飲み屋でちょろっと語り合っただけである。迷惑な話である。

そういう迷惑を何度か経験するうちに「話しかけたがっているオーラ」に敏感になって、ついつい避けたくなっているのだろう。

それでも冒頭で書いたようなヒデキロスで意気投合するようなこともある。最近でも、見ず知らずのオッサンと盛り上がって彼の馴染みのスナックに場所を移して大騒ぎしたこともある。老紳士がとある世界の重鎮だとは知らずに軽口を叩きまくって痛飲したこともある。

その時はもちろん楽しい。だったら大事に付き合い続ければいいようなものだが、そこからダラダラするのは無粋な気がする。ほぼ100%がその場限りだ。

そんなことでイキだのヤボだの言っている自分は社交性に欠ける退屈な人間だと思う。「寅さん」なんか常に偶然知り合った人達と悲喜こもごもの時間を過ごしている。見習わないといけない。

これまで数十年にわたって、たまたま“袖ふれ合ってきた”人達のうち、1割~2割でもお付き合いを続けていたら私の世界ははるかに広がっていたのだと思う。

ひょっとしたら人生そのものが大きく変わっていた可能性だってある。

たまたま知り合ったのが妙齢の女性なら、結構しつこく追っかけてしまう私である。そこはヤボのかたまりである。

これからは飲み屋で知り合うオッサンや爺さんのことも妙齢の女性だと思い込んで壁を作らずに接してみようと思う。

2018年5月25日金曜日

タマゴへの愛


タマゴ、卵、玉子。。。書き方はともかく愛してやまない一品である。日々、何となく口にしているが、何となくなどと言ってはバチがあたりそうだ。愛おしい。


卵黄のあのネットリ感は官能的だ。老若男女を問わずみんなが愛しているのではなかろうか。

コレステロールの数値が高くなるから、1日1個がマックスだという話も今や昔である。最近は厚労省の基準みたいなものも変わり、通常の健康状態の人ならタマゴ問題は気にしないでいいという説が主流になった。



まあ、昭和の人間である私としては、ついついタマゴの大量摂取に及び腰になってしまうが、そうは言っても馬ユッケに乗っかっている卵黄やそぼろ丼にトッピングされている温玉をよけるようなシャバダバなことはしない。

それにしてもタマゴの不思議なところは、そのまま食べても感動しないのに調味料一つで100万倍ぐらい美味しくなる点だ。

ゆで卵だって塩をふると急激にウマくなる。卵かけご飯にしても醬油のおかげで超絶的な美味しさになる。調味料など無かった古代人が気の毒に思える。

TKGを筆頭に目玉焼き、ゆで卵、スクランブルエッグ、だし巻き玉子、オムレツなど、タマゴが主役のものだけでなく、ラーメンやパスタの麺やパンの生地など脇役としても欠かせない。プリンだってタマゴありきの逸品である。


バターを相棒にするオムライスは日本が生んだスーパースペシャルタマゴ料理だ。フワとろ系が好きな私は食べるたびにニワトリに心からの感謝を捧げる。

エンゲル係数が破たんしているシングルライフの私は、スーパーに買物に行ってもなるべく高いタマゴを買ってしまう。

安すぎると怪しげな工業製品じゃなかろうかと心配になる。タマゴを生むためだけに改良された顔も羽もない鶏モドキが汚い養鶏場でギュウギュウ詰めの劣悪な環境でせっせと産卵しているというオッソロしい話を聞いたことがある。

おそらく単なる都市伝説だと思うが、あまりに安いと不安になってしまう。生で食べることが多いから、ついつい6個で500円ぐらいの値付けの商品を買うようにしている。

ちなみに、アチコチのスーパーを見て歩くことが好きなのだが、私にとってスーパーの善し悪しは生卵のラインナップで決まる。

高価格帯のタマゴを複数用意してあるスーパーは、タマゴ以外の商品も間違いがない。値段だけでは決められない部分もあるが、一定の真理だと思う。


さて、タマゴ業界において日の当たらない存在が「うずらのタマゴ」である。どことなくマイナーなアイツが可哀想で焼鳥屋さんに行ったら欠かさず注文する。

うずらのタマゴの世間的な地位は低い。つくねに卵黄がトッピングされて出てきた時のように「ウホ~」と感嘆する声は聞こえてこない。

サイズのせいで1個で勝負できない現実がヤツをスターの座から遠ざけている理由だろう。

でも、逆に考えれば1串に4個あれば、4回も口の中が幸せなるわけだ。実にケナゲである。

上の画像は私がよく行く某焼鳥店のうずらだ。これが辛抱タマランぐらい美味しい。あらかじめ親子丼のタレに漬け込んであるのがウマさのポイントだ。

これが4口も楽しめるわけだから、私にとっては隠れたスターである。店の大将にワガママを言って、これにコロモをつけて揚げてもらおうと企んでいる。きっと卒倒するほどウマいはずだ。


鳥系のタマゴだけでなく、魚卵系、すなわちイクラやタラコも大好きだが、原点はやはり幼い頃から慣れ親しんできた鶏のタマゴだろう。

映画「ロッキー」で、スタローンが大量の生卵をジョッキで飲む有名なシーンがあるが、あれを見るたびに「醬油を注げ!」と叫んでしまう私である。

2018年5月23日水曜日

Amazonに支配される


「Amazonによる世界支配」。経済誌などで見かけるフレーズだ。確かに5年10年後は更に進化しているだろうAmazonによって生活スタイルは大きく変わるのは確かだろう。

なんだか堅苦しい書き方になってしまったが、凡人である私は既にAmazonに支配されながら暮らしている。便利なんだからブツブツ言ってもしょうがない。


注文履歴を見てみたら2005年にELOのCDを買ったのが初めてのAmazon体験だった。その後、本の購入を中心に活用してきたが、6年前にシングルライフに移行してからは、何でもかんでもAmazonである。

プライム会員だからFireTVも視聴している。Amazonパントリーも活用している。恥ずかしくて店頭で買えないようなものもAmazonのおかげでワンサカ購入している。

注文履歴がいつまでも残ってしまうのが迷惑だが、「非表示」にする機能のおかげで何とかなっている。


注文履歴をもとに勝手に表示される「アナタへのおすすめ商品」も非表示にした商品に関連するものは出てこない。とりあえず助かる。

最初の頃は、突如、おすすめ商品としてセクシーTバックショーツとか、ここでは書けないような商品がバンバン表示されたので大いに困った。

娘に何かをねだられて、二人でパソコンを開いていきなりそんな商品ばかり表示されたら父親の威厳などゼロ以下になってしまう。

まあ、非表示にした商品もパソコンから注文履歴を見ればすぐにチェックできちゃうから油断は出来ない。

ただ、スマホから見る場合には、非表示にした過去の注文はナゼか見ることができない。再度買い直す場合にはそれはそれで不便なのだが・・・。

まあ、とにかく娘とAmazonを使う場合にはスマホ限定が鉄則である。

それにしても私が非表示にした注文が「28件」もあるのは問題である。1件の注文ごとに複数の商品を購入しているから、合計では結構な数になる。ビミョーだ。

ナイショにしたいような商品も膨大な種類が用意されているわけだ。Amazon恐るべしである。おまけに例の箱で配達されるわけだから、中に入っている商品名が記載される心配はない。さすがだAmazon!

何が便利かって言えば、クチコミでその商品の実情がチェックできることだろう。ナイショにしたいグッズも商品画像だけでは意味不明でも、クチコミを読むことで正しい使い方が分かったりする。

ヘンテコグッズの話ばかり書いてしまいそうだから軌道修正。

どこで買ったらいいか分からないような商品を探すのにもAmazonは便利だ。


縁起を担いで盛り塩をしようと思った時も専門の商品がすぐに見つかった。一応、縁起の良い塩に縁起の良い皿らしい。

わざわざ買いに行くのが面倒な商品もAmazonである。靴下や下着なんかも注文する。

実店舗で目で見て手で触れて買った商品が気に入った場合、その商品名をAmazonで検索すれば、たいていはヒットする。以後はAmazonで注文すれば済む。

多くの商品が翌日には配達されるから、Amazon支配が今後もどんどん進むのは間違いないだろう。


私の場合、荷物はすべて会社に送らせている。不在の際のドタバタが面倒だからAmazonに限らず、ふるさと納税の返礼品や選挙の投票用紙も職場に届く。

Amazonの箱は、中味の商品名が記載されていないから誰に受け取ってもらっても安心である。

過去に一度、箱が破損したので中味が無事かどうかをチェックしろと配送業者に言われたことがある。無事を確認したら専用用紙にサインするルールになっているようだ。

あの時はビビった。ヤバいグッズだったら会社の人々の前で私の性癖?が暴露されてしまう。こっそり破損した箱の中身を覗いたのだが、梱包されていたのは普通の本だった。ラッキーだった。

必要以上に堂々たる態度で箱の中身を取り出して確認してみせたのだが、実は冷や汗バリバリだったことはナイショだ。



ウダウダ書いてきたが、過去の履歴をたどってみれば私の日常がそのまま反映されている。

肩凝り対策用に買ったハンドマッサージャー、ひも付きティーパックの割に物凄い美味しいお茶、生卵ご飯用の専用醬油、ハゲ予防用のシャンプー、お菓子のまとめ買い等々、私の日常はAmazonのおかげで成り立っている。

2018年5月21日月曜日

さらばヒデキ


週末のテレビはヒデキ追悼企画で盛りだくさんだった。西城秀樹といえば中高年世代にとって「スター」そのものという存在だった。


ヘソ毛周辺、いや下半身の体毛ボワボワ状態が“ギャランドゥ”と呼ばれるようになったのもヒデキの功績だ。

男まで全身をツルンツルンにする今の時代から見れば、芸能人水泳大会におけるヒデキのワイルドな勇姿は、昭和という時代の象徴だった。

女子からみればセクシーな存在だったようだが、当時の男の子達もヒデキから「男とは」を学んだような気がする。

郷ひろみ、野口五郎と三人セットで語られる場面が多かったが、個人的にはヒデキの存在感が突出していたように思う。

少なくとも、そのカッコ良さに男の子が憧れるという意味では他の二人を圧倒していた気がする。

ちなみに、ギャランドゥをそっちを指す隠語のように使い始めたのはユーミンが最初らしい。ワイドショーで知った。それはそれでビックリだ。

さて、ヒデキの溢れ出るようなパワーはテレビ画面の中でもずば抜けていた。絶唱系といわれた激しい歌唱法も独特だった。

歌唱力ウンヌンで語られることは少なかったが、物凄く歌が上手だった。まさにプロの歌だ。沢田研二も相当だったが、ヒデキの歌唱力もピカイチだった。

「傷だらけのローラ」や「ブーメランストリート」なんてヒデキ以外にはサマにならない。郷ひろみや野口五郎が歌ったところで、あの世界観は出せない。

オフコースの名曲「眠れぬ夜」をカバーしていたのも印象的だ。小田和正の世界である。あの声で歌われている歌をカバーしようという意欲が凄い。しっかりヒデキ節で消化しちゃうところがさすがだった。

私が初めて至近距離で目撃した芸能人がヒデキである。小学校高学年の頃、何かのコネで日本テレビ歌謡祭という番組収録を見学に行った。

裏口の通路みたいなところで白い衣装を着たヒデキが立っていた。桜田淳子目当てでキョロキョロしていた私の目に飛び込んできたヒデキは異様なまでのスターオーラをまとっていた。

「顔が小っちぇ~」。それが私の印象だった。あのカッチョ良さは別な宇宙の生き物のように見えた。生ヒデキを目撃しちゃったせいで、その後のヒデキの活躍から目が離せなかった。

今も私はカラオケで「ブルースカイブルー」を歌う。「ブーツを脱いで朝食を」も歌う。数年前にギターを衝動的に始めた時も「薔薇の鎖」を練習用にジャカジャカ弾いていた。

「ブーツを脱いで朝食を」に関しては、私がボーカルのオヤジバンドのライブで過去に2回も披露した。

ある時はライブのオープニング曲に選んだ。とはいえ、私の歌唱力では迫力あるヒデキ節には遠く及ばなかった。人様の前で歌ってみて改めてヒデキの凄さを痛感した。

彼の一番のヒット曲「ヤングマン」をバンドの演目にするかどうかでモメたこともある。歌詞の内容が中年男が歌う感じではないという理由で私が拒否したのが原因だ。

ヒデキは不自由な身体で倒れるまでヤングマンを歌っていた。そう考えると自分の狭量な感じが情けない。ヒデキへのリスペクトが足りなかったわけだ。ちょっと反省。

バンドメンバーの友人もヒデキロスが激しいようで、彼が日々更新しているブログでどのように追悼しようか悩んでいた。彼のブログはラーメンブログである。ヒデキとどのように結びつけるのだろう。。。

最近は相次いで星野仙一、衣笠祥雄といった私が野球少年だった頃のスターが逝ってしまった。今度はヒデキだ。さすがに63歳は若い。素直にショックである。

カラオケでヒデキの歌を熱唱して追悼したい。

2018年5月18日金曜日

“ベシャメラー” 南蛮銀圓亭


しょっちゅう寿司だウナギだと騒いでいる私だが、食べ物のジャンルで何が一番好きかといえば「洋食」だ。

定義付けが厄介だが、簡単に言えば「日本で独自に進化した西洋風の料理」である。クリームコロッケやタンシチュー、オムライスやハヤシライスなどの総称だ。


文明開化メシとでも呼ぶべきジャンルだろうか。都内に洋食屋が1500軒もあった明治後半には「和洋折衷料理」という言葉もポピュラーになったらしい。ご飯に合う西洋風の料理という意味では的確な呼び方だ。

ポークカツレツを元祖にしたトンカツなどは今では日本料理と言ってもいい。ご飯に味噌汁、それに漬け物が不可欠だから洋風イメージではない。店の雰囲気まで民芸調が主流だ。

私の洋食好きは浅草育ちだった祖父の影響も大きい。大正デモクラシーの頃の浅草は日本最先端の街だったから、それこそハイカラな食べものだった洋食への祖父の想いはかなり強かった。

実際に、晩年も根岸の「香味屋」にビフカツを食べに行っていたし、普段から和食より洋食を好んでいた。

さて、コメに合う西洋風の料理といっても、西洋風という言葉自体が今の時代では既に曖昧だ。

大半の人が、椅子の暮らしが基本で洋服を着てベッドで寝ている。着物や畳といった典型的な和の世界以外は、いわば「洋」だ。そういう意味では洋食というジャンル分け自体が賞味期限切れなのかもしれない。

ついでにいえば、沖縄発祥のタコライスだって、コメに合う洋風のものという意味では純然たるニッポンの洋食だし、モスのライスバーガーも同じだ。

まあ、このあたりをウダウダ書いているとキリがない。兎にも角にも洋食バンザイを書きたいわけだ。


先日、久しぶりに銀座の「南蛮銀圓亭」に出かけた。洋食の名店の一つだ。銀座エリアには洋食屋さんがいくつもあるが、この店は価格面や雰囲気などトータルで使い勝手の良い店だと思う。

仰々しい感じが強すぎても落ち着かないし、カジュアルすぎると使い勝手が制約される。その点、この店の立ち位置は、デートに良し、接待もアリ、はたまたカウンターの端っこに陣取れば一人メシも問題ナシである。


前菜がちょこちょこオーダーできるのが酒飲みには嬉しい。オードブルの小皿盛りが、3皿、4皿、6皿、8皿から選べる。一つがちょこっとだからアレコレ選ぶ楽しみがある。この画像はトリッパ。

ワガママな私に嬉しいシステムだ。一般的なオードブル盛り合わせだと、食べたくないものも入っているし、コース料理だってお仕着せの野菜なんかを食べないとならない。

いい歳して好き嫌いが多い私がダメダメなのだが、ダメダメなまま生きて行くと決めている以上、オーダーの自由度が高い店はそれだけで有難い。

カルパッチョやテリーヌのような前菜をいくつか頼んで酒をグビグビしてホロ酔いになった頃に一品料理の登場である。


ベシャメルソースが大好きな私としてはクリームコロッケは欠かせない。画像はカニとエビを一つずつ盛り合わせてもらったバージョンだ。

クリームコロッケってどうしてあんなにウマいのだろう。いつだって顔がほころぶ。“ベシャメラー”である私としては、死んだ時に棺に入れてもらいたいと思えるほどだ。

上に載せた画像のグラタンもベシャメルソースだ。味の傾向がかぶってしまうが、かぶって結構、かぶってくださいって感じである。


この日のシメは子羊のグリル。かなり美味しかったはずだが、私の記憶にはベシャメルソース系ばかりが強く残っている。

分かったように書いてはいるが、平たく言っちゃえば私の味覚は基本的に「お子ちゃま」なんだろう。

でも、お子ちゃま感覚だってバカにしたものではない。世の中の子どもは世間体や店の雰囲気、他人様の評判など気にせずに、自分にとってウマいかマズいかを判断する。

うん、もっともらしい言い訳だ。

ベシャメルソース、デミグラスソース、そしてタルタルソースにケチャップ味etc.全部が大好きだ。

きっと、子ども時代に感激した「デパートの食堂のお子様ランチ」が原点なんだろう。あれを食べる時に感じたワクワク感、アゲアゲ気分を味わいたくて、今も洋食を追いかけているのだと思う。


2018年5月16日水曜日

チン毛の引っ張り合い


もう2年ぐらいウチのダウンちゃんの話に触れていない。11歳になるダウン症の息子の話だ。

悲惨な事件に絡んで触れた時と近況報告的にアレコレ書いた時があったが、最近はネタ不足?である。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/08/blog-post_15.html


http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/05/blog-post_16.html

とはいえ、このブログの分析データを見ると、ダウン症関連のキーワードから覗きに来てくださる人が多いので、たまには現状報告を兼ねた話を書いてみたい。

あっと言う間に小学校6年生になった。幼稚園から高校までつながっている支援学校に通っているおかげで、進路の問題で悩まずに済むのは有難い。

同じダウン症の同級生達とも仲良く学校生活を送っているが、学習能力面での差が大きく開いてきているのは確かである。

ウチのダウンちゃんは残念ながら読み書きがちっとも出来ない。一応会話はマメにしているのだが、発音が悪いから親でも半分は意味不明だ。

同級生の中には読み書き、発声ともにしっかりこなす子もいるから、同じ授業を受けさせる先生達は大変だと思う。

先日、支援学校の運動会があった。リレーに出場していた我がダウンちゃんは、ちゃんとリレーの原理原則が理解できていた。

そんなことで喜ぶのも大げさだが、低学年の頃は、そもそも競うという感覚が乏しく、白線に沿って一週を急いで走るということを理解させる必要があった。

今年はバトンもしっかり扱い、いっぱしの顔でリレーをこなしていたから着実な進歩である。

平和絶対主義みたいな精神性は相変わらずで、その点は感心する。喧嘩はすぐに仲裁するし、近くで誰かが争っていること自体が彼の大きなストレスになるらしい。

ダウン症の特徴の一つが穏やかで優しいということ。その傾向はアイツが物心ついてから一貫している。私も見習わないといけない。

ただ、言語能力に劣るせいもあって、気を引きたいときにイタズラをするのは困りものだ。健常児だったら幼いうちにそんな時期は過ぎるのだろうが、アイツはいまだに突拍子もないことをする。

先日も我が家に泊まりに来た時に、私が目を離したスキに勝手に風呂に入り、一人でシャワーをぶちまける遊びに励んでいた。

シャワーを水の状態で出しっ放しにして浴室内にまき散らす。私がヤツのアバンギャルドな行動に気付いた時には、保温されていた浴槽は水風呂状態である。

慌てて私も参戦し、水風呂を追い炊きしてヤツを茹でダコになるまで温めたが、当然のように反省のそぶりはない。

勝手に家の外に出て行ってしまう脱走癖はだいぶ治まってきたが、油断すると勝手に出かけようとするのも困りものだ。ヤツの家には対策装置が設置されたが、私のマンションにはそんな便利なものは無い。仕方なくAmazonで買った人感センサーを玄関ドアのそばに用意している。脱走しようとしてもケタタマしいブザーが鳴るので安心だ。




最近はキャスター付きバッグを転がすことが何より楽しいらしく、我が家に遊びに来ても狭い室内で引きずって遊んでいる。

仕方ないから散歩の時は常に空っぽのキャスターバックをヤツに引っ張らせる。はじめは違和感バリバリだったが、思わぬ効果もあった。

キャスターバッグを引きずっているせいで、突然走り出すことがなくなった。おまけにガラガラと引きずっている音がするから少しぐらい目を離しても位置が把握できる。これは便利である。

娘と息子がセットで遊びに来ることも多い。日頃の愚痴などをしゃべりたい盛りの娘とキャスターバッグに夢中の息子と3人で散歩に出ると、娘はピーチクパーチク語り、息子は黙々とキャスターバッグを引きずるという謎の展開になる。

娘と並んで話に相づちを打ちながら歩いていても、ヤツはゴロゴロガーガー音を立てているから視界に入っていなくても位置確認が出来て便利である。

身長も150センチを超えてきた。チン毛もしっかり生えてきた。まだまだ幼い面ばかり目立つのにチン毛ボーボーである。ちょっと笑える。

一緒に風呂に入ると、ついついヤツのチン毛を引っ張りたくなる。スキをみて引っ張るとヤツも負けじと私のを引っ張る。お互い激痛に身をよじりながら意味不明なコミュニケーションに励んでいるわけだ。

私が前の家を出て6年以上が過ぎた。ちょくちょく会っているが、一緒に住んでいるわけではないので、あまりご立派な考察は出来ない。でも、ヤツが持っている天性の大らかさと周囲をホッコリさせる「気」のようなものは独特だと感じる。

ダウン症の子どもに共通する能力みたいなものだと思う。もちろん、ため息をつきたくなることも多いし、不安要素も数え切れない。

とはいえ、一喜一憂したところで仕方がない。子を心配する親の気持ちは健常だろうとそうじゃなかったとしても同じと言えば同じである。

ウチのダウンちゃんは、定期的にヤツの家から遠くない距離にある施設に泊まりがけで預かってもらっている。将来的には施設暮らしの可能性もあるので、早めに慣れておくことも必要だ。

最近では、施設に泊まることに抵抗感が無くなってきたようで、ホームシックで泣くこともないらしい。

不憫に思うことはいっぱいある。極端に言えば、すべての部分を不憫に感じる。でも、不憫に感じる私の感覚は、しょせん私が健常者として生きてきた価値観から生まれたものでしかない。

ヤツはいつも楽しそうにしている。ウツウツとしていることは無いし、常に自分が楽しいと思えることを見つけ出す。

幸せという概念を本人がどのように感じているかは分からないが、少なくとも不幸な様子には見えない。

バカッ面で平和そうに眠っている姿を見るたびに、個人個人の幸せや充実度は他の人からは計り知れないものだと痛感する。

なるようにしかならない。投げやりな言い方だが、行き着くところはそんな言葉かもしれない。いや、大過なくそうであって欲しいと思う。

2018年5月14日月曜日

贅沢食い バチ当たり


子どもの頃、食べ物を残すとバチが当たると言われた。ご飯を一粒でも残そうものなら祖母からキーキー言われた。

大人になってもその教えを守り続けたせいで、体重はどんどん増えてしまった。

私が肥えているのは実家のしつけのせいだと思う。うらめしい。

食べ物を残す。これって確かに罪悪感にさいなまれる。人目があったら尚更である。外食の多い私としては困った問題だ。

その分、人目に付かない時の私のふざけた食べっぷりはバチあたり極まりない。贅沢ざんまいである。

時々、無性にカップ麺が食べたくなる。コンビニで物色するが、どれもウマそうに思えて2つ買って一度に食べてしまう。ひどい時は3つ買うこともある。

もちろん全部は食べない。残すのは分かっているのに複数の味を楽しみたいという贅沢モードになってしまう。まさにバチあたりだ。

その気になれば2つ3つ食べるのは難しくないが、健康を考えたら残さないといけない。あくまで身体のために残す。そんな言い訳が常に頭に浮かぶ。


シュークリームの残骸の画像だ。これも贅沢食いである。外側だけ残して中味をすする。シュークリームは中味がウマい。外側は付け足しみたいなものだ。

私に言わせれば、炭水化物ダイエットに励んでいる人と変わらないと思う。せっかく出された定食のご飯を平気で残すよりもシュークリームの外側を残すほうがマシだと思っている。

年に2,3回、マックのハンバーガーが食べたくなる。贅沢食い、いや反則食いをするために店では食べずにデリバリーを活用する。人様には見せられない。

意地汚いから5種類ぐらい頼む。とはいえ、さすがに食べきれないから、パンの部分を8割ぐらい残して中味だけムホムホとがっつく。

パンを残せば5種類ぐらいペロっと食べられる。物凄い罪悪感だが、ちゃんと全部食べたらぶくぶく太って成人病になって、医療費がかさんで国家に迷惑をかけるから仕方がないと自分を納得させる。


こんな話を書くと世間様から糾弾されてしまうが、私にとって究極の贅沢がこれだ。

パッと見は謎の物体だが、実はピザ生地である。

ピザの上だけを食べてパイ生地を残すという暴挙の果ての姿である。

以前、ダイエットに励んだときに開発?してしまった反則ワザである。野菜や海草、サラダチキンばかりで苦戦していたストレスを発散するために「ピザの上だけ」を食べてみた。

モサモサした生地が無いほうが逆に美味しく感じてしまい、その後もごくごく稀にだが、そんな食べ方をしてしまう。

「ピザーラ」関係者の皆様、本当にスイマセン。

酸いも甘いも噛み分けたはずの大のオトナとして恥ずべき行為なので、これを機会にちゃんとしようと決意している。

そう言いながら、昨日もコンビニで買ったモンブランの上だけ食べるという贅沢をしてしまった。

やはり独り者という身勝手な生き方が影響しているのだと思う。

ちゃんと家庭があれば、さすがに家族の目というけん制効果によって、あまりにインチキな食べ方にはブレーキがかかるはずだ。

そんなつもりはないのだが、これって一般的には「生活が荒れている」という範疇に入ってしまうはずだ。

誰のせいだろう。

自分のせいだ。

ここで懺悔したことを機にちゃんとしようと思う。

2018年5月11日金曜日

オリンパス「TG-5」で撮ってみた


気付けばダイビングを趣味にして30年以上が過ぎた。水中撮影歴も同じぐらいになる。

その昔、重たい一眼レフをこれまた重たい金属製ケースに入れてエンヤコラと潜っていたのだが、今ではコンパクトカメラをプラスティック製のカバーに入れてお手軽に撮影している。

ダイビングの世界においてここ20~30年の間で一番変わったのが水中撮影機材だと思う。昔の苦労は何だったんだと言いたくなるほど気軽に綺麗な写真が撮れるようになった。


今回のフィリピン・ボホールへの旅には、オリンパスのコンパクトデジカメ「TG-5」を持参した。今では使用禁止用語になったが、いわゆるバカチョンカメラである。

オリンパスのカメラには水中モードが登載されている。海の中を考慮した露出調整などが優秀で、いわゆる青かぶりをクリアする綺麗な発色が特色だ。

水中モードに設定して構図を決めてシャッターを押すだけで、その昔なら七転八倒して撮ったような写真が簡単に写せる。

ある意味、拍子抜けする。苦労して撮れたという感動がない。デジカメだから撮影枚数は無制限だし、当然だがその場で出来映えも確認できる。

ふた昔前は、水中でフィルム交換は無理だから最大でシャッターは36回しか切れなかった。出来映えも現像するまで分からなかった。

今は別世界にいるような感じだ。まあ、昔を懐かしむより現在の便利さを享受した方が建設的である。四の五の言わずに文明の利器にお世話になればいいのだろう。

でも、シャッター1枚1枚に“勝負”していたような感覚があった昔のほうが正直言って楽しかった。


さて、エジプトやカリブ海、はたまたパプアニューギニアやアジアの秘境みたいな海でヘンテコな魚を必死になって撮影してきたが、今の私は単純に気持ちよい写真が撮れれば満足である。

一周回って原点に戻ったような感じだ。得体の知れない魚に出会うよりボンヤリとクマノミを眺めたり、綺麗なサンゴを見ている方が幸せな気分になる。

ワイドな画像は外付けのフィッシュアイコンバージョンレンズを装着して画像を150度ぐらいまで広げて撮影している。

画像クリックで拡大されます。




伊豆の大瀬崎で30ウン年前にダイビングの講習を受けた際、寒くて濁っていた海にゲンナリした。雑誌に載っているような青くて美しい水中景観に憧れたのが、こういう画像を撮りたくなる原点だ。

水中写真の世界は、小さな魚を接写するいわゆるマクロ撮影が主流だが、やはり広がりのあるワイド画像は捨てがたい。

オリンパスの水中モードは、比較的浅い水深の景観なら自然光でも充分に被写体の色を再現してくれる。今回の浅瀬のサンゴ画像は多くがストロボの電源をオフにして撮影した。


水深5メートルぐらいでの一枚である。太陽光の位置が丁度良かったからストロボ無しで充分に綺麗に撮れた。オリンパスさまさまである。

今どきのコンパクトカメラは色彩表現も豊かで、一眼レンズにかなり近いレベルに進化している。

全長1センチ程度のガラスハゼである。結構シャープに写っている。今の私にとってはこのぐらい写せれば満足である。



マクロ撮影の画像を続けてみる。小っちゃいエビを2種類とヤマブキハゼ、ウミウシ2種類である。






オリンパスのコンパクトカメラは「TG-1」「TG-3」も使ってきたが、「TG-5」はオートフォーカスの迅速さが更に向上したようだ。

露出補正ダイヤルも操作しやすくなり、専用の水中用ハウジング(防水ケース)の使い勝手も良くなった。

特別に凝りまくった写真は別として、普通に綺麗な水中写真を撮りたい人にとっては、もはや完成域に達したレベルと言っても大げさではないと思う。

ついでにアレコレと画像を載せてみる。












20年ぐらい前のほうが斬新でカッチョいい写真が撮れていた。情熱が燃えたぎっていた頃とホゲホゲした気分で潜っている今とでは、出来映えが違うのも仕方がない。でも、ヘトヘトになって潜っていた頃と今とどちらが楽しいかと言えば、今のほうが楽しい。

そういう達観も人生後半戦には必要だろう。