2022年1月31日月曜日

映画は1時間半


自主隔離生活を過ごしていたが、一人暮らしだから誰かに気兼ねしないで済んだことは良かった。

 

一応私は気遣いの人である。頼まれてもいないのに勝手に気を使って疲れるタイプだから体調を崩している時は一人に限る。

 

看病なんかされてしまうと恐縮して体調がもっと悪くなりかねない。そんな偏屈男だから調子が戻った後は実に気ままに過ごした。

 

アマプラやネットフリックスにお世話になって脈略無くいろんなものを観た。昔の必殺仕事人やら忠臣蔵方面の他、普段観ないような映画もずいぶん鑑賞した。

 

話題になっていたネットフリックスオリジナルの「新聞記者」も観たが、正直言ってとくに印象に残るほどではなかった。

 

わけもなく号泣してやたらと感動したのが「家へ帰ろう」という映画だ。味わい深い大人向けの作品だった。

 


ホロコーストを何とか生き延びた老人が70年の時を経て友人との約束を果たすためにアルゼンチンから故郷ポーランドを旅する作品だ。

 

主人公のお爺さんがいい味出しまくっていた。単に暗くて重い雰囲気というわけでなく軽妙な感じやユーモアもありアッという間に見終わった感じ。

 

変な話、上映時間が1時間半程度というのが最高だ。長ければいいってものではない。2時間が当然みたいなのが映画の世界だが、人間の集中力を考えれば1時間半ぐらいで充分だと思う。

 

モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンが人生最後の旅に出る名作「最高の人生の見つけ方」も1時間半程度の作品だ。あれも無駄なくまとまっている点が作品の素晴らしさの一つだと思う。

 

続いては「ある日どこかで」。1980年の作品。主演はスーパーマンで一世を風靡したクリストファー・リーブ。

 


一言でいえば時空を超えたラブストーリーである。タイムスリップものだ。こういう奇天烈な設定だとラブロマンスも白けずに観たくなるから不思議だ。

 

若き日のトム・ハンクスが主演だった「スプラッシュ」や「ビッグ」、はたまた「ゴースト・ニューヨークの幻」や「マネキン」といった絶対にありえない設定のラブロマンスは案外多い。

 

私はそういう奇天烈設定恋愛モノが大好きで、それぞれ何度も見てコッソリ泣いてきた。

 

この「ある日どこかで」も10年ぐらい前に観たのだが、久しぶりに鑑賞してジンワリほっこりした気分になれた。

 

1910年代にタイムスリップした主人公がやたらと美しいヒロインにひたむきに気持ちを伝える純粋な感じが素敵だ。

 

アナログな時代の切なさというか、人がむき出しの感情を真っすぐにぶつけていく美しさに惹かれる。

 

作中で大事な役割を果たすラフマニノフのラプソディーがこれまた実に映画の設定にぴったり合っていて思わず泣きたくなる感じだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=V4O_l7CUQcI

 

いろんな登場人物が複雑に絡み合うようなストーリーは頭が悪い私にとっては難しい。登場人物は少なく、ストーリーは単純明快かつストレート。結局それが一番観ていて楽しい。

 

ちなみに映画以外に最近妙にハマっているのが1月から始まったTBSの連ドラ「妻、小学生になる」である。

 

10年前に亡くなってしまった妻(石田ゆり子)が10歳の小学生になって夫・堤真一と一人娘の前に現れるというこれまた奇天烈設定のドラマだ。

 

まだ2話しか観ていないが2回ともちょっと泣いた。10歳の小学生の演技が何とも上手で私には石田ゆり子にしか見えなくなってきた。

 

ドラマも映画も話自体は作り話だ。だったらとことん有り得ないような設定にしてくれたほうが観ているほうは気楽だ。そんな設定なのに時折ホロっとしちゃうのがこれまたよく分からない感覚で面白いのだろう。

 

 

 

 

 

2022年1月28日金曜日

オミクロンだったかな

 先週末から高熱が続いてヒーヒー言いながら過ごしていた。症状を総合的に勘案すればオミクロンだったと考えるが妥当だろう。


39度前後の熱に加えて全身が痛くて仕方なかった。喉も痛み咳もそれなりに出た。いつもの扁桃腺炎とは様子が違ったし、熱は徐々に高くなっていったからインフルエンザとも違ったようだ。


全身の痛みは3日目ぐらいから頭痛に集中してしまい、過去にあまり経験したことのない偏頭痛状態が続いてかなり難儀した。


オミクロンならたいてい症状は3日ぐらいで治まるらしいが、今回の私は5日ぐらいゾンビみたいだった。


酸素吸入や人工呼吸器を付けなきゃすべて「軽症」に分類される。言葉のニュアンスとしてビミョーだ。40度近い発熱に加え全身が痛くて動けなくても微熱やクシャミ程度の人と同じく軽症である。


国や東京都の一種の医療放棄政策を前に病院には行く気が起きなかった。新薬は高齢者や基礎疾患が重い人を中心に出され、それ以外なら解熱鎮痛剤を出されて家に帰されるだけなのが今の標準パターンだと聞く。


そのくせ例の2類指定の壁のせいで、病院に行ってみたところで陽性が確定すれば面倒な保健所管轄になる。それにしたって濃厚接触者には自分で連絡しろという方向になったそうだから、非常にシンドイ状態の中で病院に行く気は起きなかった。


要は解熱鎮痛剤さえ手元にあれば病院に行こうが行くまいが基本的には結果は同じという話である。パルスオキシメーターで肺の酸素飽和度をマメに確認できるなら他にやることもない。



右から左に特効薬が処方されるのなら話は別だが、今の時代、解熱鎮痛剤をもらうだけに病院に行くのはバカみたいな話だろう。


もちろんこれは私個人の考えであり、間違っていたらごめんなさい。政治や行政に対する不満や悲嘆はあるが、最前線で新型コロナに立ち向かわれている医療関係者の方々に他意はありません。


話を戻す。発症前日、前々日の自分の行動を思い返してみたら運良く濃厚接触に該当する人はいなかったので、ただひたすらたいして効きもしない薬を飲んで熱と痛みに耐えて過ごした。


新型コロナだった場合、解熱鎮痛剤はアセトアミノフェン系が安全だと聞いたせいでカロナールを真面目に飲み続けた。


今回、この選択が私にとっては間違いだった。3日以上経ってもスッキリしない状態が続いたので、途中で解熱鎮痛剤をロキソニンに変えたらウソのように一気に回復した。


コロナが流行り出した当初にイブプロフェンなどは症状を悪化させるという説がまことしやかに世界中に広まった。それに影響されて同じく非ステロイド系抗炎症剤に属するロキソニンを避けてしまったわけだ。


カロナールだと服用後ちょっとはラクになるのだが、3時間ぐらいでシンドイ感じが復活してしまうので結構キツかったのが実情だ。


昔から扁桃腺が腫れやすい私はロキソニンとは長い付き合いだ。今回も浮気せずにとっととロキソニンを飲んでいたらさっさとラクになっていただろうから中途半端な判断が悔やまれる。


というわけで典型的な症状がしっかり出た私のケースでも病院にかかっていないから日々発表される感染者数には当然カウントされない。より軽めの風邪っぽさですぐに治ったような人もわざわざ調べに行かなければ同じくカウントされない。


無症状の人の存在も併せて考えれば日々の公表数字はもはやあまり意味のないモノになりつつあると思う。実際の数値は10倍ぐらいで推測するのが妥当だろう。大都市部なら100倍だっておかしくない。


着実に集団免疫のような展開になりそうだが、それ以前にウイルスの弱毒化が顕著だから、現在の感染大流行はいよいよ「コロナ禍の終わりの始まり」と前向きに捉えたいものだ。


さて、50代半ばという年齢はどう逆立ちしても若者ではない。オミクロンは若者の間で無症状が多いと聞く。なんともまあうらやましい話である。


復活したとはいえ、自主隔離が続いているので来週前半までは職場には出られない。呑気に過ごすしかないからアマプラやNetflixに頼ることになりそうだ。










2022年1月26日水曜日

過去ネタです

 今日は都合により更新が追いつかなかったので過去ネタを一つ載せます。。


怖かったこと

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/02/blog-post_13.html?m=1

2022年1月24日月曜日

ムダ話、雑談、機微

 

何度目だか分からない「まん防」が出されたことでリモートがまたまた当たり前のように行われている。何だかなあ~という感想しか出てこない。


飲食店への時短要請もナントカの一つ覚えにしか思えない。酒を飲む時間、店を閉める時間を早めればウイルスが予防できるはずはない。チンプンカンプンだろう。


お上がまん防や緊急事態宣言を出せば企業や学校も無視を決め込むわけにはいかず、とりあえずリモートの実施などでお茶を濁す。お上もそうだが、従う方も言ってみれば「やってる感」のためだけに対応しているのが現実だ。




この2年間で随分と社会のありようは変わった。マスクはもはや下着と化し、リモートを実施しない人はヒエラルキー的に下位にあるかのように扱われ、世の中の空気は合理的こそ正義みたいなドライな感じが一層強まった。


呑気だった昭和の後半時代に若者だった私からすれば、今の世相を昔と比べると革命前後かと思えるぐらい激変した感覚だ。


そもそも昔よりドライになっていたのに加えてコロナ禍である。人との接触が制限されたことで世知辛さというか、世間から大らかさが失われたような傾向がある。


オジサンは家に居場所が無いからリモートに反対しがちといったヘンテコな分析がある。職場にいた方が家で虐げられるよりマシだから出社したがるという理屈だ。


確かにそういう残念な人もいるだろうが、年齢や役職が上の人ほどリモートをあまり歓迎しない理由はそんな単純なことではない。


ちょっとした機微を察することや機知に富んだやり取りはリアルな対面での人付き合いの中でこそ可能だ。事務的なやり取りだけならリモートで構わないが、人付き合いはそんなドライなものではない。


もっと言えば、ムダ話やどうでもいい雑談の効能がコロナ禍によって失われてしまったことは大きな社会的損失だと思う。


どうでもいい雑談は結局は世の中の空気を作るのに大きく影響している。古今東西、人と人が交じり合って社会を形作ってきた。それを支えたのは会話であり言葉だ。


いまやその役割は無機質な活字表示だけのSNSが主流になりつつある。実に恐いことだ。発信される内容が冗談なのか本気なのか、ウソなのか本当なのかといった基本的なことさえうかがい知ることが出来ない。


「マジで殴るぞ」という言葉を例にとってみよう。活字で読めば実に物騒だ。リアルな対面状態で笑顔で発せられた言葉なら瞬時に冗談だと分かるが、活字だったら妙に恐い。だから活字の世界では「マジで殴るぞ(笑)」などと余計な注釈が必要になる。


この(笑)の部分は(泣)や(怒)だったりと様々な心の動きを表現するために工夫されるが、しょせん活字の世界だから人間の複雑の心模様までは表現しきれない。実際に対面していれば、例え無言であっても表情や物腰で相手の様子を知ったり分かり合うことが出来る。


先日、大学共通テストの会場で高校生がナイフを持って暴れる事件があったが、あの事件も「コロナ禍での孤独」という観点から語られていた。大らかさを失った社会を象徴するような印象がある。


人と人が直接会ってやり取りすることは人間社会の基本中の基本だ。ムダ話、雑談と言われる部分も簡単に切り捨てていいはずがない。そこから生まれるもの、学ぶものはいくらでもでもある。


この2年、コロナ対策を名目に夜の街が集中的にやり玉に挙がった。見方を変えれば「どうでもいい雑談」が徹底して弾圧されたわけだ。このダメージは大きいと思う。社会にどんな悪影響を与えたのか気になるところだ。


新型コロナによる死者はこの2年間で1万8千人ほど。ちなみにヒートショックなど入浴中に亡くなる人は1年で1万9千人、誤嚥性肺炎で亡くなる人は1年で4万人にのぼる。昭和の高度成長期の交通事故死亡者数は1年で1万5千人前後だった。


コロナを正しく恐れることも大事だが、気をつけなければいけないことは他にもたくさんあるわけだ。


新型コロナの感染が広がり始めてからもう2年も経過した。当初のパニックの頃とは確実に事情が変わってきた。ゼロコロナなる非現実的な言葉を使う人もいなくなった。現実的に向き合う段階に入ったことは間違いない。


なんだか今日はとりとめもなく堅苦しい書き方に終始してしまったので、何年か前に書いた昭和人の機微?みたいな柔らかい話を貼り付けておきます。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/04/blog-post_6.html









2022年1月21日金曜日

チャーハンの口 赤坂離宮など


九段下にあったホテルグランドパレスが閉館して以来、私のピラフ病はおとなしくなっている。私にとってあそこのピラフが最高峰だったから思い出すだけで悲しい。

 

ピラフの代わりというわけではないが、最近やたらとチャーハンが食べたくなる。ふと気付くと“チャーハンの口”になっている。

 



 これは先日、ウーバーで頼んだ「チャーハン王」なる専門店から運ばれてきたやつだ。パラパラを通り越してカラッカラ、ポリッポリ?な食感が印象的だった。ベチャッとしたチャーハンが苦手な私には悪くなかった。

 

チャーハンと一口に言っても貧乏学生が自炊する一品から高級中華料理屋さんのそれまで実に幅広い。細かくした具材と御飯を炒めるだけとはいえ実に奥が深い。

 

先日、高級中華の代表格のような赤坂離宮に出かけた。目的は「焼味」である。蜜汁チャーシューやプラムソースで味わう焼鴨など、まさにムホムホなラインナップである。

 


 

これだけを大量に食べて終わりにしたぐらいである。とはいえ、悲しいかな高級中華でそんな野暮な食べ方は出来ないから仕方なくアリバイのように?フカヒレや豆腐料理、点心などもちょっとずつ注文した。





 

さすが人気店だけに何を食べても美味しいのだが、私が興奮したのはシメの福建チャーハンである。いわゆるあんかけチャーハンだ。その昔、中華の名門「福臨門」で食べた福建チャーハンに衝撃を受けて以来、高級路線の店に行くとつい注文したくなる一品だ。

 

ファンになるまではせっかくプロがパラッパラに仕上げたチャーハンに餡をかけちゃうなんて許しがたいと思っていた。理屈としては今もそう思うのだが、実際に食べてみるとそんな理屈は吹き飛ぶ。複雑に旨味が絡み合って辛抱タマラン状態になる。

 



 

チャーハンと餡の混ぜ加減を一口ずつ変えたりしながらじっくり味わう。いろんな味が混沌と口の中に広がって実に幸せな気分になる。

 

ちなみに、あんかけチャーハンがとくに好きというわけではない。普通のチャーハンのほうが食べる機会は多い。奇をてらったやつよりもオーソドックスなチャーハンが好きだ。

 

パラパラ系ももちろん大好きだが、ちょっとしっとりしたチャーハンも嫌いではない。もちろんベチョっとしているのは論外だが、米の粒立ち感はありながら少ししっとりしているような町中華のウマいチャーハンも魅力的だ。

 



 

こちらは銀座一丁目の「香港1997」のチャーハンと宝町の町中華「菊凰」のチャーハンだ。それぞれのウマさがある。ベーシックなチャーハンがウマい店は他のメニューも逸品揃いだ。

 

変わったところではキムチチャーハンを筆頭にカレーチャーハン、納豆チャーハン、チーズチャーハン、ひじきチャーハンなど数限りないヘンテコチャーハンがこの世に存在する。グリーンピースチャーハンという私にとっては殺人兵器のような商品も世の中にはあるらしい。

 

個人的にはヘンテコ系はあまり興味がない。何となく騙されたような、いや、何かに負けたような気持ちになる。せいぜい高菜チャーハンやレタスチャーハンぐらいなら気にならない。

 

とはいえ、以前どこかの居酒屋で出されたしば漬けチャーハンに妙に感動したり、時々訪ねる老舗中華「維新號」では青海苔と海老のチャーハンを頻繁に食べている。単なる食わず嫌いなだけかも知れない

 


 

他にも東麻布の名店「富麗華」の名物である「松の実醤油チャーハン(黒チャーハン)」は絶品だし、上海ガニを様々に料理してくれる神保町「全家福」の上海蟹味噌入りチャーハンも思い出すだけでヨダレが出てくる。

 

そう考えるとチャーハンの世界は実に多種多様であり、私などが知らない絶品がまだまだあるのだろう。

 

“チャーハンの口”になってしまった時はたいていオーソドックスなチャーハンに頭の中が支配されるのだが、今後はもっとアンテナを伸ばしていろんな絶品チャーハンを探してみたい。

 



 

 

2022年1月19日水曜日

トンカツに悶絶した話


「普通にウマい」「凄くウマい」。この差は大きい。月とすっぽん、天と地ほどの開きと言いたくなるほどの別モノ感がある。

 

日頃ウマいものを食べているつもりだったが、この「普通にウマい」と「凄くウマい」の違いに鈍感になっていたことを痛感する機会があった。

 

トンカツが大好きな私は、昔から評判の高いトンカツ屋さんにわざわざ出かけていたが、最近はテキトーにデリバリーのトンカツで済ますことも多かった。

 

これもまた「コロナ言い訳」の一つだろう。横着になっているだけだ。ウーバーでとんかつを注文する場合、そこそこの値付けのトンカツを頼めばたいてい大ハズレはない。「普通にウマい」トンカツを味わえる。

 

それに慣れてしまうとアンテナも鈍るようで、以前はわざわざ食べに行った「凄いウマい店」の感動を忘れそうになっていた。

 

前置きが長くなったが、先日久しぶりに感動的にウマいトンカツを味わった。デリバリーに慣れきった私にとっては日頃の怠惰を思い知らされた気分になった。

 

築地と東銀座の間ぐらいにある「はせ川」というトンカツ屋さんだ。両国にある人気店が昨年暮れにこちらにも進出したらしい。

 

初めて行った日に感動して翌々日にも再訪してしまったほど。1回目は「シャ豚ブリアン」、2回目は「厚切りロースカツ」を食べたのだが、シャ豚ブリアンが絶品だった。

 


 

シャトーブリアンをもじった名前だが、最上級のヒレ肉を揚げた貴重な一品だ。このシャ“とん”ブリアンという名前は高田馬場にあった「成蔵」だったか神楽坂の「あげづき」あたりのトンカツの名店でも使われていた記憶がある。

 

オヤジギャグ的な名称はさておき、この店でも貴重な部位が絶妙な揚げ加減で出てきた。赤身肉だがしっとり柔らかで旨味甘味を強く感じる。いくらでも食べられそうな軽やかさだった。

 

自宅から歩いても行ける距離だから頻繁に食べに行くことは確定である。ツマミになるような一品料理もあってカンター席で一人「トンカツ飲み」も楽しめる。

 


 

こちらは肉味噌キュウリ。甘めの味付けだが酒のアテにバッチリだ。芋焼酎と合わせれば幸せな気分になる。キチンとしょっぱいぬか漬けも出てくるのでトンカツを待つ時間も退屈せずに済む。

 

1個から注文できるメンチカツとカニクリームコロッケもかなり美味しかった。シャ豚ブリアンはボリューム的には抑えめだからメンチかコロッケを追加して楽しむのも悪くない。

 




 クリームコロッケに付いてくるタルタルソースも上質な洋食屋さんのようだし、何よりメンチカツのレベルの高さは想像以上だった。

 

ジューシーな肉汁を堪能できるのがメンチカツの楽しみだが、店によっては衣が油を吸いすぎてブヨっとしちゃうことも珍しくない。それに対してこの店のメンチカツは薄めの衣と中身のバランスが絶妙。肉汁パフォーマンス?よりも肉の味わいに重きが置かれた感じの逸品だった。

 

厚切りロースカツはロース派には堪らない脂の甘さを堪能できる。個人的には年齢のせいもあって脂身の無いシャ豚ブリアンがイチ押しだが、こればかりは好みだろう。

 

 

安いばかりであまり美味しくないトンカツ屋さんではヒレカツはパサパサで残念なことが多いが、上等な路線の専門店ではヒレカツ本来のウマさを味わえる。

 

歳をとったら上質なトンカツ専門店のヒレカツ。これは一つの真理だろう。もちろん、ロースカツはロースカツで空腹マックスで頭の中がトンカツ一色になっている時には抜群のインパクトがある。結局半分ずつ食べるのが正解なのかも知れない。

 

最近、このブログでも私の豚肉偏愛ぶりを何度も書いているが、豚肉愛好家のくせに上等なトンカツ専門店めぐりをサボっていたことは失態だった。

 

心を入れ替えてアンテナを磨き直したいと思う。

 

それにしても茶色の食べ物はどうしてあんなにウマいのだろう。男にとって茶色い食べ物はマリリンモンローや峰不二子みたいに崇高?な存在であることは間違いない。





2022年1月17日月曜日

脚線美を考える

 

男性のどこに魅力を感じるか。女性と話をする際にそんな話題で盛り上がることがある。顔は別として手や腕という答えが多い。あまり面白くない。でも実際にそうなんだろう。

 

腕まくりをしている男性の腕に目が行くという話もよく聞く。私もそんな話を聞くと真冬の夜だろうと無理して腕まくりしようと頑張る。バカである。シャツに隠れている部分がむき出しになるからだろうか。だとしたらちょっと分かる気がする。

 

男の場合、女性のパンツ姿よりスカート姿に惹かれるが、あれだって脚という魅惑的な部分が露出していることが理由だ。ミニスカートなんて普段はお目にかからない太ももまで出ているから男目線は喜ぶわけだ。

 




 男性の場合、女性のどこに目が行くかと言えば、やはり脚になるだろうか。そりゃあ胸やお尻も見ちゃうが、服に隠れた膨らみを見たところで面白くない。偽装だって珍しくない。

 

それに比べてスラっとのびた脚のラインには独特の魅力がある。男性の身体付きとは根本的に違う。男からみれば自分にはない形状の最たる部分が女性の脚のラインだろう。

 


 

男側の弁解としては、決してスケベ目線ばかりではないということを強く主張したい。女性の脚のラインは素直に美しい。脚線美という言葉は男には使われないように女性らしさの象徴だと思う。

 

富士山の雄大さに自然と目が向くのと変わらない。燃えるような夕陽に見入ってしまうのと同じようなものだ。ちょっと無理があるがそれに近いものがある。スケベ心ばかりではないことは確かだ。

 

もっと言えば絶世の美女の顔と同じだ。男なら誰もがその顔に見惚れてしまうが、そこにスケベ心はまだ無い。ただ美しいものに目を奪われる感覚だ。

 



女性の脚線美も普通の男なら普通に目が向いてしまうわけで、脚を見られたからといってすぐにスケベオヤジ扱いするのはやめてほしいものだ。

 

ちなみに生きている時代が100年違うだけで女性のミニスカート姿など見る機会は無かっただろうし、今だって宗教的な理由で女性が肌を露出しない国もあるわけだから、こうして呑気にこんな話を書いていることは幸せなことだ。

                                                          


なんだかんだと弁解がましいことを書いてきたが、もちろん脚線美に対する男目線はスケベ心バリバリというケースも多い。


私は決してスケベ心など持ち合わせていない!のだが、大半の男はやはり本能的にスケベだから、脚のラインを見ることによってその女性の全身のスタイルを想像して悶々とすることは多いのだろう。

 



 面白いもので全裸の女性を前にしたら脚のラインに目が釘付けになることはない。着衣ありきだからこそ脚線美が際立つわけだ。うなじと似ている。和装だからこそ目が向くわけで全裸の女性のうなじを必死に鑑賞する男はいない。

 

さて、脚に目が向いてしまう隠れた理由が「触れるか触れないか問題」だろう。手をつなぐ、肩を抱くというスキンシップはさほどハードルが高くない。それに比べて脚を触るという行為は別格だ。

 

よほど親しくないと脚を触るという展開にはならない。親しかったとしても、手をつないだり肩を抱く行為のように公衆の面前で堂々と行われることはない。

 

この“禁断な感じ”も脚線美を魅惑的なものにしている理由だと思う。

 


 

何だかどうでもいいことを必死に力説してしまい恥ずかしくなってきた。いい歳したオジサンが今更こんなことを分析してどうなるのだろう。いや、いい歳したオジサンだからこそ真剣にこのテーマを考えてしまうのだろう。

 

まあいいか。

 

脚線美をより魅力的に演出するハイヒールというシロモノも考えてみれば凄いグッズ!だと思う。ウィキペディアによるとその起源は紀元前400年代のアテネの遊女だという説があるらしい。

 

その後、イタリア、スペインあたりで高級娼婦や貴族の女性の間で流行し、欧州ではナポレオン戦争が始まる前までは男性もハイヒールを履いていたそうだ。フムフムって感じである。

 

時折、ルブタンのハイヒールに萌えたりする私としてはそんな基礎知識を知らなかったことは問題である。スケベ心を誤魔化すためにはこういう雑学は常に仕入れておかないといけない。

 


 

なんだか話がとっ散らかってしまった。オチもまとめも無い話になってしまったが、あえて結論めいたことをいうとすれば、男がどう頑張っても手に入れられないパーツだから脚線美には崇高な魅力があるわけだ。

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年1月14日金曜日

カシミア 身だしなみ 規律

 

寒さが本格的になってきた。先日は東京でも積もる程度に雪が降った。あの日、天気予報をよく見ていなかったから靴はピカピカの一軍靴、コートも今シーズン初めて着るカシミアだったから大迷惑だった。

 


 

適当なダウンを着込んで三軍扱いの靴で過ごすべきだったのに大失敗である。職場から帰る時にはタクシーもまったく拾えなくなって歩いて帰宅。雪をもろに浴びまくってしまった。情報弱者みたいなミジメな持ちになった

 

この日のコートは私にとって真冬の相棒である。10年以上前に作ったお気に入りだ。中年になったら身だしなみが一層大事になると思ってウン十万円もの大枚をはたいてオーダーした。その時の話はこちら。

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post_15.html

 

作ったのはトレンチコートなのだが、カシミアでは仕立てるのが難しいという理由で引き受けてくれるテーラーを探すのに少し手間取った。

 

毎年寒さが本格的になると活躍してくれる。ぬめぬめした触り心地が最高だ。10年以上経ってもまったくヘタレていない。やはり良いものを買って大事にすることは節約の王道?だと思う。

 

靴をめぐる名言にこんなフレーズがある。

 ~安い靴を買うほど裕福ではない。流行りの靴を追いかけるほど浪費家でもない~

 これって靴に限らず当てはまる言葉だと思う。安物はすぐに飽きるし大事にしないからすぐダメになって買い直す。流行りモノは当然ながら流行が終われば出番がなくなり結果的にムダ使いになる。

 



 このコートはカシミアの中でも密度が高い生地を選んだから割と重い。でもそれが逆に暖かさを増してくれる。

 

丈は膝下30㎝近くになるほど長くした。短いコートばかりがモテはやされる風潮への抵抗だ。気をつけないと階段で踏んづけそうになるほどだ。

 

カシミアのコートはこれ以外にもキャメル色の長いコートも仕立てたが裏地がどうも気に入らずに出番はちょっと少ない。

 

それ以外にも市販のウールのグレーコートと紺のトレンチコートを気温やスーツの色に合わせて使いわけている。市販のコートは一応高級ブランド製だが、実はアウトレットで半額ぐらいで買ったから安物だ。

 

寒さが厳しい日は普通にダウンコートを着たくなるのだが、スーツにダウンというスタイルが個人的に好きではない。痩せ我慢してコンサバなビジネス向きのコートだけを着るようにしている。

                                           



これも私にとってはこだわりの一つだ。どうでもいいこだわりと言われてしまえばそれまでだが、やはりスーツを着ている時の出で立ちは保守的であることを良しとしてしまう。

 

時代遅れだろうと自分なりのスタイルから外れると何だか落ち着かない。結構な歳になったのだからドンドン妥協すればいいと頭の中で悪魔がささやくのだが、ここで脱線すると自分がアッという間にフニャフニャになってしまいそうで我慢している。

 

バッグにしても持ち手が長いイマドキ流行りのトートバッグなどは苦手だ。ついでに言えばリュックもスーツにはまったく似合わないので普段着の時以外に使うことはない。

 

リュックとスーツの話は過去にも書いた。

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/11/blog-post_8.html

 

なんだかんだ言って人は見た目が大事だ。それが現実社会の真理だろう。変に若ぶるのも痛々しいが、年相応に「シュっとする」意識はキチンと持ち続けたい。

 

誰の目を気にしているわけでもない。いうなれば自分の気持ちに向けて身だしなみを整えているのだと思う。

 

つまらないこだわりではあるが、こういう思い込みって案外大事かもしれない。オシャレをしているという感覚とも違う。自分だけの規律みたいなものだ。

 

放っておけばフニャフニャになってしまう自分を律するためには小さなこだわりで構わないから“マイルール”を作って縛られてみるのが手っ取り早いと思う。







 

 

 

2022年1月12日水曜日

ゲロメモリー

 

中高年になってからゲロとはあまり縁がなくなった。昨年は12月の半ばに一度だけ吐いた。せっかくノーゲロで1年を終えるつもりだったのにワンゲロだ。痛恨の極みである。

 

今日はこんなテーマで書き進みます。ご注意ください。

 

若い頃は12月、1月あたりはゲロッピーな日々だった。加減も知らず格好つけて飲みまくったから頻繁にゲロゲロしていた。

 

若さってつくづく凄いと思う。今の歳であんなペースでゲロゲロしていたら必ずどこかがぶっ壊れるはずだ。


私の場合、若い頃は一度ゲロ太郎になると朝まで何度もトイレに駆け込んで黄色い胃液しか出ないのに吐き続けるパターンだった。いま思えば勇者!である。

 

今のようにすっかり吐かなくなると吐きまくった若い日々が妙に懐かしく感じる。あのツラさ、あのミジメさ、あのどうしようもない切なさと後悔に包まれる時間こそが若さの証だったようにすら思える。

 

世の中にある言葉の中で何とも的確で完成度が高いのが「ゲロ」だと思う。たった2文字ですべてを言い表している。


ハナクソやウンコは3文字、4文字を必要とするのにゲロは2文字だけであの情景や苦い味覚すら瞬時に脳裏に浮かぶ。

 

ヒマだからゲロの語源を調べてみた。ネットにあった「日本語俗語辞典」を引用してみる。

 

[1] ゲロとは胃の中にある飲食物を吐き戻すことで「ゲロする(過去形:ゲロった)」「ゲロる」ともいう。また、そうした吐き出された吐瀉物を指しても使われる。この意味では昭和初期から使用されており、世代を超えて最も頻度の高い意味である。

 

[2] ゲロとは自白・自供という意味で、もともと警察の隠語であったが不良を中心に一般にも使用されるようになる。自供・自白が「隠していることを吐く(話す)」ということから、[1]の意味とかけて出来た意味である。

 

[3] ゲロとは「とても」「すごく」といった後に続く内容を強調する言葉として、1990年代に入った辺りから若者に使用されている。「ゲロかわいい」「ゲロブス」「ゲロうま」「ゲロまず」といった形で使われ、後に続く内容は特に限定されていない。

 

 ということである。100年ぐらい前からゲロとい言葉は使われていたらしい。下呂温泉もビックリの歴史である。


大真面目に解説されているとゲロも格調高く思えてくるから不思議だ。()の「ゲロブス」ってよく考えたら物凄い言葉だと思う。実にマトを得た言葉である。

 

ちなみに酒が飲めないことを意味する「下戸・ゲコ」から派生した言葉だと聞いたこともあるが正確には知らない。

 

ヤフー知恵袋の「教養と学問、サイエンス」というカテゴリーに15年以上前に載っていたやり取りも非常に分かりやすくて参考になる。

 



ゲロの思い出は数々ある。酒の力を借りて女性を口説こうとしたのに返り討ちにあってゲロッピーになったこともあれば、水中で必死に撮影に励んでいた時に頭上に停泊中のボートから舞い散ってきた海中を漂うゲロゲーロにたじろいだこともある。

 

新車に乗せた友人に得意になってクルマ自慢をしていたら助手席で思いっきりゲロを吐きまくられたこともある。思えばゲロとともに人生を歩んできたみたいだ。

 

5年ほど前にもこのテーマを熱く書き殴ったこともある。

 

ゲロッピー

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/10/blog-post.html

 

現在はほぼゲロゼロ生活だが、その理由は加齢だけではない。その昔、一世を風靡した歌手の江利チエミさんがゲロを喉に詰まらせて亡くなったニュースに驚いたことが影響している。

 

アノ健さんとの離婚後、一人で暮らしていた江利チエミさんが45才だった頃の話である。まだ私が若かった頃の話だが、自分が中年になるにつれゲロの怖さを痛感して気をつけるようになった。

 

私にとってのゲロメモリーでもっとも印象に残っているのがゲロゲロドライブである。ハタチになるかならないかの若造時代の話である。

 

その日、相変わらず飲み過ぎたせいで夜遅くからゲロッピーモードになっていたのだが、間が悪いことに入院していた祖母が危篤だという連絡が病院から入った。

 

他の家族はさっさと病院に向かってしまった。トイレでゲロッピーだった私は置いてきぼり。かなり遅れて出発した。もちろんクルマである。時効だからご容赦。

 

ちゃんと洗面器を持ち込んでの運転である。気持ち悪い状態はちっとも治まっていない。股の間に洗面器をはさんで吐き気に備える。

 

夜中だから信号がやたらとつながってちっとも停まらない。吐き気は頻繁にやってくる。急いでいたので道端に停めることもせず吐きながら運転。視線はしっかり前方を見ていたが口からはゲロゲーロである。

 

危篤の祖母も大変だったろうが、こっちも死にそうだった。結局、その日は祖母は無事で何とかゲロと涙の二重奏になることは避けられた。

 

若さって無謀だと思う。今は逆立ちしたってあんな芸当は無理だ。というか、そんなバカなことをしようとは思わない。

 

残りの人生、あと何回ぐらいゲロッピーになるのだろうか。ここから先は酒だけではなく病気や治療、投薬関係の副反応でのゲロゲーロという事態もあるのかもしれない。

 

酔っ払ってもいないのにゲロッピーになるのはツラそうだ。そんな事態にならないよう神に祈ることにしよう。

 

以上、ただただゲロの話でした。ごめんなさい。



 

 

 

 

 

2022年1月7日金曜日

愛すべき豚肉

 


正月休みはとくに画期的なこともなく、ふるさと納税で届いたイクラやウナギをたんまり食べて過ごしていた。

 

ちなみに「笑ってはいけない」シリーズが放送されないと大晦日が実に味気ないことを痛感した。紅白で印象に残ったのは、あいみょん、ゆず、細川たかし、坂本冬美、石川さゆり、MISIAぐらいか。

 

今年の干支は寅である。あの寅さんは生まれ年の干支にちなんで寅次郎と名付けられたのだろうか。というわけで、今日は豚の話を書こうと思う。意味不明ですいません。

 

ウーバーイーツでしょっちゅう豚丼を注文する。東京は牛丼屋ばかりで豚丼専門店をあまり見かけないが、デリバリーだと結構専門店が見つかるのが嬉しい。

 

どの店も味はどっこいどっこいだが、特盛りやら肉2倍盛りみたいなガッツリ系を頼むとワクワクする。御飯が見えないぐらいに豚肉がテンコ盛りになっていないと嬉しくない。

 


 

この画像は北海道・帯広に行ったときに食べた人気店「いっぴん」の豚丼特盛りだ。非常に美味しかったので、この店の豚丼のタレはわが家の必需品になっている。

 

ウーバーで届く豚丼は帯広の名店のように感動するほどではないが、余計な野菜など無しで豚肉だけが乗っかっている姿を見ると幸せな気分になる。

 

カツ丼も好きだが、あちらは衣やタマゴ、タマネギとのバランスの上に成り立っている料理だ。豚丼の潔さ、豚一本で勝負している世界観と比べられるものではない。

 

デリバリーで頼む豚丼もたいていは豚一本勝負である。彩り用の薬味ネギ程度で、あとは豚肉だけだ。豚肉が苦手なら悲惨な一品だろうが、私のような豚ラバーにとっては実に有難い。

 



 

豚丼に限らず、豚料理界の重鎮である生姜焼きももちろん好きだ。好みのタレを見つけて肉と和えるだけで楽しめる。鶏や牛では生姜焼きは成立しないところが何ともニクい。豚肉のための料理である。

 

さすがに一から作るのはゴメンなのでいろんな市販のタレを取り寄せては味比べをしている。これまたさほど違いはないのだが、少しでも自分好みの味を見つけられると嬉しくなる。

 

最近ハマっているのは市販のタレにチューブのショウガをぶりぶり投入して“味変”バージョンを作ることである。

 

軽く塩胡椒した豚肉を炒めて全体に火が通ったら、ショウガ風味バリバリのタレを適量投入して混ぜ合わせる。

 

豚丼の味付けは甘めが基本だから、生姜焼きの時はショウガ感をぶりぶりに高めるとメリハリがついて楽しい。


料理を頑張らない私だが豚肉だけはこだわってアレコレと料理っぽいことをしたくなる。

 

豚丼のタレ、生姜焼きのタレの他にも、豚肉を焼く際に普通の焼肉のタレやウナギのタレも使う。時にはクリームソースと和えて洋風?に仕上げることもある。

 




牛肉の脂はやたらと重く感じて苦手になったが、豚肉の脂はいまだに好きだ。甘味にウットリする。牛肉よりも食後にイヤな苦しさを感じないのが魅力だ。

 

トンカツも常に大好きだし、ラーメンを食べたくなってもチャーシューを多めに入れたくなる。しゃぶしゃぶを食べたくなっても豚しゃぶを優先する。

 

私の豚肉消費量は自宅周辺10キロ圏内では少なくとも一番を争えるような気がする。

 

というわけで、新年早々どうでもいい話を熱弁してしまったが、今年も変わらずにどうでもいい話を一生懸命に書いていこうと思う。