2014年6月30日月曜日

オーダーシャツ


30代になった頃から、男は着るものに無頓着なほうがカッコいいと思い始めてテキトーなカッコで過ごしていた。

オシャレ番長みたいな男には今でも抵抗がある。まあ、そんなこと言っても、いい年した大人の男があまりにもブサイクな身なりでいるのもマズい。

だいたい、世間様なんてモノは結局は人を身なりでしか見ていなかったりする。だから40代になった頃からは、そこそこ真っ当なものを身につけるようになった。

チト面倒くさいことである。

デパートや洋服屋に行って、鏡の前で自分を見ながらアーでもないコーでもないと、服をとっかえひっかえする行為自体が苦手だ。

店員の見え透いたお世辞にヒョコヒョコ喜ぶほどマヌケではないし、それより何より、ああいう場所に行くと自分の体重増加を実感させられるから腹が立つ。

わざわざ面倒な場所に行って、カネまで払ったのに、「あ~あ、痩せないとマズいなあ」という不快な感想しか残らない。災難みたいな話である。

ということで、スーツとかシャツはオーダーで注文するようになった。オーダーと聞くと妙に高そうだが、そんなことはない。スリーピースのスーツだってヒトケタ万円で余裕で作ってもらえる。

そこそこの生地を選べばそれなりの値段になるが、そこはさすがにエラそうな顔で生きている中高年である。少しは頑張る。

ブランドものの既製服に妙な値段を支払うのなら、上質な生地でオーダーするほうがよっぽどマシである。男のスーツの場合には間違いなくそれが正解だと思う。




ところで、ノーネクタイというスタイルが夏の常識になって随分経つ。いつのまにか亜熱帯化しちゃった東京で日々暮らしているから、この習慣は有り難い。

ノーネクタイでも基本はスーツ着用が一般的である。ネクタイを締めずにスーツを颯爽と着こなすのはなかなか難しい。

そこでシャツの襟を少しだけ高くしたドゥエボットーニと呼ばれる形状のシャツが普及したのはご存じの通り。襟の高さゆえに一番上のボタンが二つ付いていることが名前の由来だ。

ノーネクタイの季節用にシャツもオーダーで注文しているのだが、オーダーだから割と細かいわがままを聞いてもらえるのが嬉しい。

ネクタイを締めない場合、一番上のボタンなど留めるはずがないのだから、ドウェボットーニシャツの2個ボタンは飾りみたいなものである。

今年作ったシャツは、襟の高さを通常のドゥエボットーニより高くしたのだが、一番上のボタンは1個にしてもらった。すっきりして良いと思う。

襟の高さも好きに変えられるのだが、あまり高くしちゃっても昭和40年代の石原裕次郎か、はたまた歌舞伎町のホストみたいになっちゃうから、微妙なバランスで収めたいところである。



結局、アレコレ検討しているうちに、襟の高さは結構な高さなってしまった。ちなみにこの画像、恐る恐る完成品に袖を通した時の私である。仕立て屋さんがFacebookにアップした画像を拝借してみた。

自分としては「裕次郎やホスト」まで至らずに無難に収まったと自負しているのだがどんなもんだろう。

襟の高さよりも気に入ったのが、ボタン全体の位置である。ボタンの間隔といったほうが的確だろうか。

ノーネクタイの場合、一番上のボタンを外すのが普通である。フランス人だったら2番目も外す。イタリア人なら3番目も外す。

父がイタリア人、母がフランス人である私の場合、当然、2番目のボタンは外すのが基本姿勢になる。

ただし、2番目のボタンを外した場合、シャツによっては単純にだらしない雰囲気になってしまうことが珍しくない。

ひと昔前に流行った「チョイワル」がひねくれたみたいな感じだ。私は根本的にチョイワルって言葉が大嫌いである。大ワルにもなれないシミッたれた中年への蔑称だろう。

かといって、一番上のボタンを外しているだけでは、売れない政治家とか冴えない公務員みたいでこれまたイヤである。

で、考えついたのが、ボタンの間隔を短くすることである。ボタンの数を多くして間隔を縮めれば良いわけだ。

こうすれば、ボタンを二つ外してもバカっぽくならないし、ムダ毛という名の情けない胸毛がチロって覗いちゃうこともない。

そんなこんなで「妙に高い襟」、「妙に数が多いボタン」という到達点にたどりついた。
毎年毎年、私からブツクサ文句ばかり言われ続けた仕立て屋さんも、今シーズンのシャツの仕上がりには納得の様子だ。よかったよかった。

でも、支払いの際に使った私のクレジットカードが限度額の関係で承認されなかったらしい。実にお気の毒である。

限度額の設定がない別のクレジットカードで支払いをやり直そうと思ったのだが、忙しくてまだやれていない。

お気の毒である。

こんな話を書いている暇があったら、さっさと支払わないと男がすたると思う。


まあ、いいか。

2014年6月27日金曜日

ウニを考える


寿司屋のカウンターで調子よく飲んでいる時、私は常に「次は何を食おうか」という難問と闘っている。

日本が世界に誇る「カウンター文化」の醍醐味は、お仕着せではなく、好きなモノを好きなアレンジで好きな量だけ注文できることである。

普通に刺身をもらうだけでも種類は数多い。それをチョコッと炙ってもらうとか、薬味にこだわるとか、四の五の言っていればバリエーションは無限大になる。



最近、季節のせいか、やたらと身体が梅干しを求める。上の画像はアジと梅干しをあえてもらった一品。ミョウガを多めに入れてもらうのが私の好みだ。

下の画像は、コハダを細かく切ってもらってガリと大葉とゴマであえた一品。割と頻繁に注文してしまう。ウマいです。

最近はカロリー過多にならないように意識だけはしているので、少量でウットリできるツマミを優先的に選ぶようにしている。

少量でウットリといえば、ウニ様が代表格だろう。日本全国津々浦々、お寿司屋さんのツマミとしては王様みたいな存在だ。


いつもの高田馬場・鮨源でこれからの季節限定の赤ウニを食べた。淡路島産の知る人ぞ知る絶品である。

ウニと言えば、一般的に利尻、礼文など北海道産が垂涎のマトだが、夏の時期に西日本で採れる赤ウニも無言になってウットリするほど美味しい。

ミョウバンを使っていない上等なウニは、安いウニ特有のヘンテコな苦みや臭みとは当然無縁である。甘くてクリーミーでコクがあって磯の風味も漂って、悶絶する。


海苔無用でそのまま握ってもらう食べ方こそ最高だと確信しているが、ツマミでちまちま食べる私は、残念ながらシャリを我慢する。軽く塩をふったウニ様だけを小皿に盛ってもらってダラダラと食べる。

ダラダラ食べていると、溶けてきちゃうところがニクい。ナマの上モノの証である。やや焦りながら少しづつ口に運び、酒との相性の良さをひたすら貪る。

東京では赤ウニはポピュラーではなく、一般的にはキタムラサキウニかエゾバフンウニが上等なウニとして登場する。

どっちがどうだとは中々言いにくい。当然、個体差もあるし、鮮度の関係もある。まあ、正直言って、高級寿司店でそこそこの値段を取られるナマのウニに限ればどっちだって間違いなくウマい。

北海道で食べる観光客向けのウニ丼より、東京の高級寿司店で食べるウニのほうが遙かに美味しいのが世の中の真理である。

以前、函館のウニ丼屋で、ミョウバン無添加の上等な生ウニが入荷したと聞かされ、それを通常の2倍盛りで注文したら、おったまげるほど高い値段になったことがある。

でも、それが真実である。上モノを大量に食べたければ財布がスッカラカンになる覚悟は必要だ。我慢我慢である。

変な話、イヤミでも何でもなく、そうした上モノの生ウニに今まで縁が無い人は、そのまま知らないでいたほうがいい。「知ってしまった悲しみ」は厄介である。

ウン十年前、家の近くのどうでもいい寿司屋の出前で初めて食べたウニは臭くて苦い印象が強かった。あの時、ウニを嫌いになり、その後、ウニに背を向けた人生を歩んでいれば、スペシャルなウニの味など知らずに済んだ。

ひょっとしたら、そっちのほうが幸せだったかもしれない。


いまでは上等なウニに出会うと闇雲に大量に摂取するクセがついてしまった。

痛風予備軍としては敬遠しないといけない食べ物なのだが、あんなウマいものを悪者のように扱うのはイヤだ。カタキみたいに悪く言うのは心苦しい。世話になった女を裏切るみたいで男がすたる。

ということで、健康上、悪口を言われがちなウニ様の効能を調べてみた。

ビタミンAの含有量が多く、皮膚の代謝向上、目の疲れ予防、血行促進などに効果があるらしい。妊娠初期などは胎児の健全な発育にも大きく貢献するらしい。

尿酸値ばかり騒がれ、そんな良い働きがあるとは聞いたことがなかった。

エラいじゃないかウニ!凄いじゃないかウニ!がんばれウニ!

もっとホレてしまいそうだ。

2014年6月25日水曜日

社長の感性


毎週楽しみに見ていたドラマ「ルーズヴェルトゲーム」が終わってしまった。「極悪がんぼ」も終わっちゃった。昔よりドラマの放送クールが短くなったから何となくせわしない。

「ルーズヴェルトゲーム」は、中堅電子部品メーカーを舞台に、窮地に立たされた経営者が必死になって形勢逆転を目指すストーリーだ。

昨年大ヒットした「半沢直樹」と主要な制作スタッフが同じとあって大いに話題を集めていた。

後半になるにつれて、どんどんクサいセリフ回しやベタなシナリオ展開が鼻についたが、素直に楽しめた。ストーリー展開が誰でも想像できちゃうほど単純明快だったが日曜夜のドラマはあれでいいのだろう。サザエさんと同じである。

唐沢寿明と江口洋介が社長と専務という関係だった。その昔のドラマ「愛という名のもとに」を一生懸命見ていた私にとっては、当時、大学生役だった二人の老化が
妙にリアルだった。


「半沢」に引き続き、重要な役どころで出演していた香川照之が今回もまた突き抜けていた。顔芸とも言えそうなあの表情の作り方は超絶的だと思う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000066-dal-ent

視聴率は「半沢直樹」ほどの水準には達しなかったようだが、理由は主人公のポストの違いだという指摘があるらしい。

「半沢」はメガバンクの論理の中で翻弄される中間管理職が主人公、かたや「ルーズヴェルト」は倒産寸前にまで追い込まれた企業の再生に挑む社長が主人公である。

世の中の絶対数から言えば、当然、社長の数より中間管理職のほうが遙かに多い。従業員1万人の企業なら中間管理職は数百人単位だが、あくまで社長は一人である。

ドラマの世界に親近感を覚えるか、もしくはドラマの主人公に感情移入出来るかという点で、「半沢」ほどの大ヒットにはならなかったという理屈だ。

ある意味、社長というポジションの孤独さを象徴するかのような分析だと思う。

経営トップの苦悩や重圧はトップを経験した人間にしか分からない。どう逆立ちしたってそれが真理だと思う。

後ろに控えている人がいない経営者の心理状態は、大げさではなく恐怖と孤独感が中心だ。だから変な宗教にはまる人も多いし、迷信をやたらと気にする人も多い。

誰かがカバーしてくれる、誰かがケツふいてくれる等々、少なからずそんな依存心で行動しているビジネスマンが多数を占める世の中で、最後の砦という重圧は想像以上にキツい

野球に例えれば、内野手より外野手、それも自分の後ろにフェンスも観客席もない状況に追い込まれてプレーするような感じだろうか。

企業規模を問わず、オーナー経営者であれば尚更そんな意識は強い。大企業の雇われ社長と街場の零細企業のオーナー社長だったら、きっと、後者のほうが押しつぶされそうな重圧と闘っていると思う。

映画「寅さん」に出てくるタコ社長だって、あんなに呑気そうに見えて、一歩歯車が狂い出せば、首つって保険金で借金清算という事態も簡単に起こりえる。

そんな思いで生きている世の中の社長さん達の声は、ニッポン経済にとって数多くの示唆や教訓に溢れている。

ただ、ビジネスマン全体から見れば、社長の数はごく少数だ。世論や世間の空気は多数派によって作られ、少数派の声は埋もれがち。実にもったいない話である。

経営トップ、すなわち世の中の社長さんの意見や感性には、経済を牽引するエキスがたっぷり詰まっている。

経済成長期ならともかく、混沌とした時代になっても、相変わらず役人の頭だけで政策は作られている。この現実こそが今の社会の限界を表わしていると思う。

2014年6月23日月曜日

冷やしトマトとTrinidad


自ら「冷やしトマト」を注文した。

人生で初めての経験である。

金を払って野菜を注文するなどという邪道なことは私にとって奇跡である。雪が降るかもしれない。

とある焼鳥屋にふらっと入った時のこと。体重増加が気になり、串モノは軟骨とかササミ中心に軽く済まそうと思っていた。

とはいえ、串の前には酒のツマミが欲しい。塩辛などの珍味系がメニューになかったので仕方なく「冷やしトマト」である。

ついでに「梅キュウリ」まで頼んでしまった。

目の前に並んだ生のままのトマトとキュウリ。まさにゾッとする光景である。ウサギや馬になった気分である。

草食男になってしまいそうで身震いした。

案の定、マズい。でも頑張って食べた。鳥わさも追加して、なんとか半生の鶏肉を味方に付けて、雑草、いや野菜を頬張ってみた。

ホント、中高年になって代謝が無くなったことは面倒である。

若い頃は、2~3日食事に注意すれば体重は減った。今ではそんな芸当は無理である。代謝機能が退化したのだろう。呼吸するだけで太る。

7月にパリとイタリアに出かけるつもりなので、旅先でのバカ食いのために少しは体重を落としたい。とはいえ、ストイックに運動するのもイヤだから思うように変化しないわけだ。

体重が変化しなくても、冷やしトマトを注文する程度に暴食予防を意識すると、味覚が鋭敏になってくる。

ノンベンダラリと好き放題食べている時より確実に味に対する感度が高まる。これまた困りものだ。ウマいものを身体が求めてしまう。

悪循環である。

そういえば、タバコをやめて1ヶ月以上が過ぎた。そのせいもあって味覚が鋭敏になっているのかもしれない。

禁煙、節制のおかげでブクブク太って成人病になって国家の医療費を使いまくって死んでいくことになりそうだ。

そんなことなら、タバコを吸いまくって、暴飲暴食をしながら楽しく過ごしたほうが健康的かもしれない。

悩ましい問題である。

今回の禁煙は割とラクである。先月このブログで書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/05/blog-post_28.html)が、あくまで紙巻きタバコをやめただけで、ニコチンは摂取しているからだろう。


先日も以前から利用している怪しげな海外葉巻通販業者からキューバ産の葉巻を取り寄せた。

ロブストサイズが一番好きなのだが、最近は一回り小さいペティコロナに惹かれる。このサイズだと30分程度で終わるので、時間が無いときでも気軽に楽しめる。

今回はキューバ産の最高峰であるTrinidadのペティコロナ版であるReyesをまとめてたくさん購入した。

日本での定価は1本2100円もするが、まとめ買いのおかげで1本あたり3分の1近い価格で調達できた。

選んだ葉巻自体は富豪っぽいが、安値を追及するところがエセ富豪である。

葉巻自体、もともと高温多湿の産地で作られているから、今のような季節になると素直に美味しい。

最近は、銀座のクラブでクダまいている時も、しょっちゅう葉巻をふかしている。タバコをやめたことの副作用である。

ああいう場所で葉巻を楽しむのは、自意識過剰なキザ男みたいだから、今まではなるべく普通のタバコにしていた。

でも禁煙しちゃったから、手持ちぶさただ。おまけに脳天気に酒を飲む場所で何かを我慢していると楽しくない。だから葉巻に手が伸びる。

先日、とある店のハジっこの死角みたいな席で、とことん気の抜けた顔で葉巻をふかしていたら、馴染みの黒服に写真を撮られた。

彼いわく「なんだかギャングがいるみたいで面白かったから」だという。確かにギャングみたいに写っていた。

私も彼もギャングに会ったことはないが、少なくとも善人には見えない写真写りだった。反省である。そういう路線を目指しているわけではない。

きっと葉巻のせいである。映画やドラマの世界では葉巻は悪人のアイテムである。勝新太郎にバッチリだが、妻夫木聡には似合わない。

悪人路線はイヤだ。でも煙は恋しい。そんな私がいま考えているのが「パイプへの進出」である。

夜の街でも時々、パイプをくゆらす紳士を見かける。不思議と悪人っぽくない。むしろアカデミック?な感じすら漂う。

ということで、遠からずパイプに凝り出すことになりそうだ。

グリーンジャンボで惨敗したのに、また財布が軽くなる。

2014年6月20日金曜日

一人暮らしを支える箱


何かの本で読んだ。魅力的な大人の男になるためには「一人暮らし」と「一人旅」が大事だとか。

ふーん、まるで私のこと!?である。

実にバカバカしい。

内向きで友達もなくウジウジ暮らしている侘びしい男だったら、一人暮らしも一人旅も単なる日常である。

明朗快活、才気煥発な魅力に溢れた男だったら、いつでも人の輪に身を置き、ウジウジとは無縁に暮らしているはずだ。

そう思うとバカげた仮説である。

一人暮らしや一人旅をどこか特別なことみたいに扱う変な風潮が気持ち悪い。

自己啓発本みたいなウザったさとでも言おうか。

若い時は、アノ手の本に書いてあるもっともらしい話にフムフム感心していたが、いい年して自己啓発本に刺激を受けている大人ってかなり情けない。

ちなみに、父の日に娘がプレゼントしてくれた本が、それっぽいヤツだった・・・。中高年男に対して遊び心やゆとりの大事さを説く一冊。

家庭があっても恋心は大事だとか、私がこのブログで長年主張?しているような話ばかりだった。でも愛しい娘がくれた本だから頑張って読んだ。

娘は私のことを面白味のカケラもないカタブツと思っているのだろうか。だとしたら嬉しい・・。そんなわけないか。

まあ、父の日だというのに、バンド活動を始めた娘のためにエレキギターセットを買ったり、雑貨屋でポップな腕時計を買わされたり、何となく散財してしまった。

行動がヘンテコである。自己啓発本でも読んで反省した方がいいのかもしれない。

さてさて、一人暮らしの話だった。

魅力的な大人の男になるために一人で暮らしている私だが、自炊(モドキ?)だってそれなりにこなす。

包丁とまな板を使わない変なこだわりを守っているのだが、現状では特に不便は感じない。

出来合いの惣菜、真空パック食品、その他の簡単調理用の食品で何とかなる。

以前にも紹介したが、市販のパスタソースや、それにアレコレ調味料や具材を加えて、ただ炊飯器でコメを炊く「スペシャルピラフ」の出来映えなど、もはやベテランの域に達している。

強いて言えば「焼魚問題」がネックである。キッチンの焼魚グリルなんか面倒だから使いたくない。湯煎するだけで食べられる調理済みの焼魚も売っているが、やはり味に関しての物足りなさは否定できない。


で、試してみたのがこんな手抜きグッズである。こういう商品があることは知っていたが、先日初めて使ってみた。

正直、今まで使ってこなかったことを後悔した。実に真っ当な焼魚が簡単に完成する。ビックリである。

切り身の生魚、西京漬けや粕漬けの魚、干物に限らず、この箱に収まるサイズであれば、電子レンジで1分半~2分半でちゃんと仕上がる。


あまり美味しそうに写っていないが、生鮭の切り身を電子レンジで2分だけチンした時の画像だ。熱の通り方にムラもなくバッチリだった。

あまりに簡単で手軽なので、魚だけではもったいないと肉類で試してみた。

専用箱を上手に使いこなすポイントは中に入れる食品の高さを均一にすることらしい。

鶏肉のブツ切れで試してみた。普通に塩こしょうとガーリックパウダーをふりかけてチンしたり、照り焼きソースにつけ込んでチンしたり何度も実験を重ねた


OKである。シンプルな味付けも漬け込み系もまったく問題なし。あっという間に完成するお手軽調理としてオススメである。

で、暇な週末にスーパーに出かけて色々と仕込んできた。焼肉のタレとか生姜焼きのタレとか、混ぜるだけ、あえるだけの簡単料理用のアレコレを大量に購入した。

いまの世の中、主婦がどんどんサボれるように多種多様な「料理の素」が溢れかえっている。おまけに一食100円程度のコストの商品がゴロゴロ見つかる。

鶏肉にまぶすだけのパウダー状の調味スパイスも随分調達した。チキンのレモンペッパーソース風のパウダーとか、タンドリーチキン風味のパウダーとか、多種多様である。


タンドリーチキンっぽい一品が完成した姿である。恐る恐る食べてみたが、普通に美味しい。突発的に酒のツマミを作りたいときなどには最高だ。

包丁、まな板だけでなくフライパンすら使わない。電子レンジ専用の紙箱ひとつでこんなものが出来ちゃうとワクワクする。何かに勝ったような誇らしい気分になる。

その後、豚肉でも試してみた。市販の生姜焼きのタレをベースに自分好みの特性タレを作り、30分ほど漬けておいてから、レンジで2分。絶品ではないが、必要充分レベルの焼きたて豚肉料理に仕上がった。

焼魚が簡単に出来ちゃう時と違って、肉の場合にはタレに漬け込む手間とか、調味用パウダーをまぶす手間とか、そういうメンドーな作業が発生する。

でも、包丁、まな板、フライパンを使わずに手料理っぽいものが出来る喜びと面白さがあるからヘッチャラである。

それにしても、ここ1年半ぐらい、いろいろな便利グッズを追い求め、それを応用するほどになってしまった。

一人暮らしがちっとも不便ではなくなってきた。このままだと「偏屈独身ジジイ街道」まっしぐらである。

2014年6月18日水曜日

蹴球


サッカーばっかりである。

ワイドショーでは、日本戦が行われている時間にテレビ観戦をしていない人を取材して「なんで見ないの?」と迫っていた。まるでアホだ。大きなお世話である。

さすがに私も日本戦は一生懸命に見る。でも、国民総動員みたいな妙な空気にはチョットうんざりだ。

全世界注目の4年に一度のワールドカップ。いつの頃か日本も大騒ぎするようになった。

5大会前に初出場を果たしたわけだから、当然それ以前はワールドカップのワの時も知らない人が大半だった。

変われば変わるものである。

Jリーグが1991年に創設されたあたりからサッカー人気が高まった。それ以前は世の中の関心は野球一辺倒だった。

私が通った学校は大昔からサッカーが「校技」になっていた。アメリカ人にとってのアメフト、日本人にとっての相撲みたいなものである。意味不明でスイマセン。

ということで、小学校時代、生徒全員がサッカーをやらされた。運動会よりサッカー大会のほうが大事なイベントだったほどだ。

サッカー大会以外にも、リフティングの回数を競ったり、シュートをマトに当てたりする競技会もあった。

野球が上手な子供より、サッカーが得意なヤツが花形になるような学校だった。

ついでに言えば、「デブはキーパー」が常識だった。関係ないか。

年に一度、“サッカーどころ”静岡の小学校チームをわざわざ招いて親善試合まで開催されていた。先入観のせいもあって、静岡の子ども達は強そうだった。

みんなが「ドログバ」状態だ。

だから、今の日本代表がワールドカップの舞台で萎縮する気持ちがよく分かる。きっと、都会のもやしっ子が静岡の猛者を前にした感覚と同じだ・・・。

などと、不真面目なことを書いていると、本物のサッカーファンに怒られそうだから適当にしておく。

そんなこんだで、わが母校出身者は、どことなくサッカーに対して鼻持ちならない?ところがある。

「サッカーなんか昔からよく知ってるぜ」、「子どもの頃はサッカーに明け暮れたぜ」、はたまた「ラモスよりジョージ与那城だったよな」とか「奥寺は偉大だったな」みたいなプチ自慢というか、先人アピール?をしたい気分になる。

ワールドカップみたいな「にわかサッカー好き」が増殖する時期になると、なおさら「威張りたいモード」のスイッチが入りやすくなる。

「そこはインステップで蹴らなきゃ」、「オフサイドトラップすべきだったな」、とか、分かったようにエラそうなことを言い出す。

でも、しょせんサッカーを知ったのが大昔だから「あ~あ、自殺点だよ」とか「サドンデスか~」とかつぶやいてしまう。「オウンゴール」、「延長Vゴール」に進化した言葉が身に染みていない。

とはいえ、そんな時代遅れをあえて強調するような、さもしい?「先人アピール」をしちゃうのも事実である。

「サポーター」という言葉も変に気取った感じで気に入らないから「ファン」で済ませる。アディショナルタイムも当然、ロスタイムと表現する。

その他にも「スローイン」を「スローイング」と語尾を強調しながら昔っぽく言ってみたりする。

バカみたいなこだわりばかりである。

なんだかんだ言ったところで、現代社会のサッカー好きの若者の前では、そんなケナゲなこだわりも「だから何?」と一蹴されて終わりである。

一蹴されて、と書いてみて気付いた。そういえばサッカーは「蹴球」だった・・・。

個人情報などという野暮天な言葉すらなかったウン十年前、わが母校の中学・高校の生徒名簿には住所や親の氏名の他、、所属する部活が一文字で記載されていた。

野球部の生徒だったら氏名の前に「野」、バスケット部なら「籠」、バレーボール部なら「排」、サッカー部なら「蹴」と記載されていた。

バレー、バスケだと「バ」で重なっちゃうから「排球」「籠球」の頭文字を使うのも理解できる。でも、サッカーは混同する他の部活がないから「サ」で済むはずである。

それでも蹴球の「蹴」の字をあてるところがカッチョ良かった。単に時代が古かっただけなのだろうが、あえて今、蹴球って言葉を多用したら格好いいと思う。

だいたい、サッカーという言葉自体、アメリカや日本など一部の国でしか通じない。フットボールと呼ぶのが世界の主流である。

サッカーという呼び名自体が亜流なんだから、漢字圏の国々で連携して「蹴球」を定着させたら面白いと思う。

どうでもいい話ばかり書き殴ってスイマセン。ワールドカップのネタで何か書こうと思ったら、こんな話になってしまった。

2014年6月16日月曜日

新子と蕎麦


初物食いは江戸っ子の特徴である。初鰹、新蕎麦、新茶などなど人より早く旬のものを食べたい感覚は、残念ながら?私にもある。

そもそも江戸っ子の「見栄坊」としての要素が初物食いの起源だ。普通に考えれば、出始めより盛りの頃のほうがウマい。にもかかわらず慌てて初物を追っかける心理は不思議である。

私自身、祖父の代まで浅草人だった家に生まれ育ったから、無意識のうちに江戸っ子気質があるようだ。

さすがに「ヒ」と「シ」の発音に困るほどではないが、身近な親戚のなかには「日比谷」と「渋谷」を混同するような江戸人?が結構いた。

このブログでも時々「小っ恥ずかしい」といった江戸弁的表現を使う。普段から使っている言葉だから、他人から指摘されるまで東京方言だとは思っていなかった。

「遅せえな~、甘めえ考えだな」。こんな言い回しも東京人特有らしい。知らなかった。

「おいおい、そんなとこ、おっぴろげやがって、おったまげるじゃねえか、ちぇ、やりたくなっちゃうじゃん」。

こんな官能的?な表現もすべて東京特有の言い回しということになる。

東京人は自分達が普通に使っている言葉が標準語だと思い込んでいるが、案外そうでもないみたいだ。どうせなら、消えつつある江戸弁をちゃんと覚えてみても面白いかもしれない。

老後の趣味候補にしようと思う。

さてさて話が逸れた。初物食いの話だった。


冒頭の画像だが、今年は6月10日にシンコを食べた。例年よりかなり早い。お寿司屋さんのネタケースにはホタルイカが鎮座していたから、シンコの登場は相当早い。

江戸っ子の言い伝えでは、初物食いは寿命が75日延びるらしい。妙に早く登場したシンコを、この日は3貫も食べたから、きっと半年ぐらい寿命が延びたと信じている。

江戸っ子ネタついでに次は蕎麦の話。

とある日、旧友の会社を訪ねた際に、職場の近くの蕎麦屋に連れていってもらった。

そもそも私は昼飯を食べる機会は少ない。体重問題もあるが、朝飯をしっかり食べるので、昼にはさほど空腹にはならない。それより何より夜の酒を美味しく飲むためには昼メシをドカンと食ってはダメである。


というわけで、蕎麦は昼時のベストな選択である。旧友が勧めてくれたのは神谷町にある「巴町砂場」。街場の普通の蕎麦屋よりちょっと高級路線。

こういう立ち位置の蕎麦屋は中高年のオッサン二人がゆったり昼時を過ごすには最適である。

旧友は前職の社長業で実績を上げて、新たな会社に社長として引っ張られた男だ。私も自称富豪?である。たまのランチミーティングだからアセアセした食堂には行きたくない。

ちょっと高級路線だから昼時でも意外に静かだ。もう少し大衆的な路線の店だったら近隣のサラリーマンで鬼混みになっているはずだ。


とろろ蕎麦が1500円オーバーである。少しビビッたが食べてみて納得。絶品だった。店の看板に「趣味のとろ蕎麦」と書いてある通り、ここでは「とろ蕎麦」と呼ぶ。

「趣味の」という部分が意味不明だが、何となくニュアンスは分かる。遊び心というか、どことなく余裕がある感じ。

味付け済みのとろろは量も多く、下の方に卵黄もあったようで、これだけで抜群のおかずや酒肴になりそうな雰囲気である。

蕎麦自体はさほど特徴はないが、この「趣味とろ」と一緒に味わうとバンザイしたくなる味だった。

おまけに、蕎麦が終わりそうになる頃を見計らって「ご飯登場」である。絶品のとろろをかけて食えというイキなはからいである。

悶絶した。

寿司屋で初物に喜び、蕎麦屋で悶絶。東京人の初夏の過ごし方としてはバッチリである。

2014年6月13日金曜日

旅の酒


たかだか1泊、2泊だろうと、旅に出ると五感が刺激される。仕事絡みの出張ではなく、純粋に私的な時間であれば尚更そんな感じになる。

国内旅行、海外旅行それぞれの良さがあるが、私の場合、国内だと深酒しちゃうことが楽しみ、いや問題である。

治安の悪い東京の繁華街でうろついている変な自負のせいで、地方都市の歓楽街で緊張することはない。

今の時代、そういう油断は禁物だが、ついついユルユルした気分で呑んだくれてしまう。普段とは違う解放感のせいで酒がウマく感じてしまうのだから仕方がない。

旅の酒は、店探しがまた楽しい。お目当ての郷土料理がある時は事前に店を調べるが、ふらふら行き当たりばったりにノレンをくぐるのも楽しい。

あてずっぽうに店に入った場合、たいていは失敗する。5軒に3軒は失敗、残りの1軒がまあまあ、あと1軒が当たりといった感じだろうか。


基本的に「しっぽり系」「渋い系」の店を狙う。いい感じの風情を漂わす店を探す。結果、デカい規模の店は避けることになるが、そんな基準で選ぶと大当たりの確率は低い。

どうしても常連だけが占拠しているような窮屈な空気の店が多い。こればかりは仕方ない。その日かぎりの旅人など構ってはもらえない。

そこそこ居心地が良くてもロクな食べ物が無い店もある。気の利いた土地ならではの料理を楽しみたいが、現実はそう甘くない。地元の人がいつも郷土料理を食べているはずもない。

肉じゃが、きんぴら、タタミイワシぐらいしか無かったりすると、正直言って暴れたくなる。

まあ、それなら観光客相手の大箱店に行けばいいのだから、私の願いなど、しょせん旅人のワガママではある。

そこそこ愛想が良い店主がいて、そこそこ混雑していて、そこそこ旅心をそそる酒肴のある店に巡り会うと、思わず表情が緩む。


とりあえず、アウェーな感じを楽しむ。Sっぽい人よりMの要素があったほうが、この「いたたまれないような時間」を楽しめる。少しだけぎこちない気分で飲み始めるのも旅先ならではの趣だ。

カウンターの向こう側にいる店主の動きを何気なく観察して、時々ボソボソと声をかけたりする。料理を誉めたり、食材について尋ねたり、少しずつ距離が近づいていく。

酔いも手伝って次第に話が弾みはじめたらこっちのものである。その土地の思い出がその先20年ぐらい素晴らしいものになる。

もちろん、その逆も然りだ。普通のスナックだと思って入った店が、単なる売春斡旋所だったこともある。机、椅子、コップ、皿、すべてが油汚れでベトベトだった店に入ったこともあった。

おかげで〇×県とか▽〇県の印象はネガティブなものになってしまった。

調子に乗って失敗した思い出も数多い。だいたい飲み過ぎてゲロゲロになった思い出だ。

たいていは若い頃の話である。一人旅の愛媛のスナック。婆さん3人に囲まれさんざん飲まされて視界が延々とグルグル回ったこと、沖縄の小料理屋で泡盛のキュウリ割りなるシロモノを延々と飲まされて目が白黒し続けたこと、酔っ払った料理屋の主人に「一期一会という言葉を知っているか?」と1時間に100回ぐらい聞かれてノイローゼになりかけたこと、思い返せばキリがない。

いずれにしても、良い思い出もツラい思い出も一人旅の時に経験した。誰かを伴った旅だと、どうしてもその相手の都合にも気を配らないとならない。

でも、いろんな料理をオーダーして、テーブルにアレコレ並べたいタイプの私としては、食事の際に大量に注文できるから大いに嬉しい。

そのためだけに誰かを旅に誘うなどと言ったら嘘っぽいが、実はそれが真相だったことも過去にはある。

ところで、「美しき酒呑みたち」というBSの旅番組をご存じだろうか。新井浩文という俳優が、視聴者オススメの各地の飲み屋でゲストとともにグイグイ呑んでいるだけの番組だ。

壱岐の飲み屋を訪ねた時のゲストはリリー・フランキー。焼酎を延々と飲みながら酒飲み話。1体70万円のダッチワイフを自慢するリリーフランキーが「人間を相手にしているようじゃ甘い」と真顔で語る。

まさに番組タイトル通りの秀逸な場面だった。

誰かと旅するとしたら女性もいいけど、やはり同性との旅は無条件に楽しい。30代の頃までは旧友達と頻繁にバカ騒ぎ旅行に出かけていたが、いつのまにそれぞれの家庭の事情もあって行かなくなってしまった。

友人の入浴中に風呂場にロケット花火を打ち込んだり、先に寝ちゃった友人を起こすために寝室にロケット花火を打ち込んだり、緊張感あふれる旅だった。

あの面々とのアホバカ旅が復活したら、この年になってもロケット花火が乱れ飛ぶのだろう。

あの頃の旅の進化形?として、有志一同が恒例行事として頻繁にバンコクに出かけている。

みやげ話は常に唖然とするほど強烈である。次回あたりは気合いを入れて参加してみようかと思う。

2014年6月11日水曜日

賞味期限 AKB48


この週末、調布の味の素スタジアムで行われたAKB48のコンサートに行ってきた。

初めて告白するが、私はAKBのファンクラブにデビュー当時から入っている熱烈なファンである。10年近くこっそりと“追っかけ”を続けてきた。

というのは真っ赤なウソです。

大島優子ファンである中学1年の娘の付き添いで出かけてきた。


現場の熱気は想像以上に凄かった。ありゃあ一種の宗教的儀式である。一心不乱に声援を送るファン。その一体感は独特で、善し悪しだの好き嫌いだの関係なく、ひとつの現代日本文化の姿だと感じた。

高校生、大学生の男の子が客層の中心かと思っていたのだが、オッサンの割合が相当高かった。女性もゴロゴロいた。

昭和のアイドルの場合、同年代の異性が熱を上げる構図が普通だったが、時代は大きく変わったみたいだ。

正直、その昔の「宅八郎」みたいな人達ばかり集まっているのかと思ったら、全然違った。失礼ながらごく普通の老若男女が楽しそうに集まっていた。


メンバーのMCを聞くオッサン達の嬉しそうな顔、曲の合間に全力で合いの手を入れるオッサン達の顔。皆さん一様に幸福感に包まれている。確実に彼らの人生はAKBによって彩られている。呆然としながらしばし見とれて?しまった。

AKBというグループは、核家族化した社会のなれの果てである「個」の時代を象徴する寂しいオッサン達に光を与える存在なのかもしれない。

非常に勉強になった。やはりハヤリモノが持つパワーや勢い、それを取り巻くファン層のエネルギーを実際にその場で体験すると圧倒される。

AKB商法への批判が例の襲撃事件を機に高まっている。でも、あれほど濃い空間を実際に目の当たりにすると、商法うんぬんを今更どうこう言ったところで既に確立されている独特な「世界」はビクともしないように感じた。

その昔、アイドルとしての寿命は3~4年程度だったと思う。桜田淳子も百恵ちゃんもハタチも過ぎた頃にはキャピキャピした衣装や楽曲から卒業していた。

AKBのアイドルとしての寿命は随分長い。メンバーの入れ替えも影響しているのだろうが、支えているファンの年齢層が高いことも大きな理由だろう。

昔なら、アイドルへの思いは若い頃の熱病に過ぎなかった。ところが、オタク文化を作ってきたようなオッサン達にとっては、一過性の熱病ではないようだ。ライフワークみたいに腰を据えて取り組むテーマになっている。

AKBの運営側がそのあたりの構造に注目して、そうした客層の行動分析も織り込んで、あれだけの巨大ビジネスに仕上げたとしたら卓越したセンスだ。まさに慧眼。

AKBの場合、アイドル寿命はまだまだ長いと思う。いわば、使い捨てだったアイドルの「賞味期限」を延ばすために、巧みな仕掛けという化学調味料と調理法を次々に開発した運営側の勝利だろう。

そんなことより「総選挙」で6位になった「さや姉」は可愛い。

話が逸れた。

なんだっけ?賞味期限の話だった。

賞味期限の長いものは怪しい。そう書くとAKBへのブラックジョークみたいだが、ここからはまったく別の話です。

正直言って、正しく健全に美味しいものは賞味期限が結構厳しい。それが食品の世界の真理である。

まあ、そうはいっても、鮮魚の刺身じゃあるまいし、すべてをフレッシュなまま味わうわけにもいかない。

賞味期限が製造日から1年後に設定されている商品と1ヶ月に設定されている商品だったら、後者のほうが正しく美味しいと思いたくなる。

1ヶ月といっても、賞味期限が1ヶ月もある肉や魚の加工食品ってそもそも大丈夫か?という根本的な問題はある。まあ、その辺は目をつぶって、なるべくなら賞味期限が短いものを求めようと思っている。

スーパーに買い物に行っても「賞味期限が短くて値段が高いモノ」についつい目が向く。そっちのほうが身体に良いのではと思えてしまう。

レトルトカレーを筆頭に、ハムやソーセージ、それ以外にも湯煎やレンジでチンするだけで食べられる出来合いの加工食品などは、そんな基準で選ぶ。

エンゲル係数を気にする大家族だったらそんな悠長な買い物は出来ない。ちょっと贅沢だが、これも健康管理の一環?である。この点は一人暮らしの良さだろう。

安すぎても怖い。メーカーは安い商品を作るために努力しているが、さすがに程度問題だろう。異常に安いからにはカラクリがあるはずだ。安すぎると不気味だ。口に入れるモノだとついついそう思う。

まあ、いまさら私の身体が発育していくはずもないので、原材料や添付剤、人工調味料などを気にしてもしょうがない。

ちなみに私の場合、賞味期限の短いものをわざわざ選んで買うクセに、賞味期限を過ぎちゃっても平気で食べる。ヘンテコな話である。

魚などのナマモノは別だが、加工食品などは半月程度は気にしない。経験上まったく問題ない。

1ヶ月ぐらい経っても何も問題ない商品も多いが、さすがにそのぐらい時間が過ぎたものを普通に食べると気分的に愉快ではない。何かに負けた気がする。

自分を律する?ためにも、賞味期限はそれなりに気にした方が賢明である。

ここまで、漫然と賞味期限がどうしたこうしたと書き殴っているが、賞味期限という言葉を意識していると、時々まったく違う発想が頭をよぎる。

「男としての賞味期限」「女としての賞味期限」である。

グヘヘヘ・・・、これを考えはじめるとキリがない。こんなことを考えはじめること自体が加齢の証である。

もちろん、誰もが年老いて死ぬまで男であり女である。そういう意味では「賞味期限」は「死ぬまで」といいたいところだが、お互いを「賞味」するためには身体の都合や事情もある。

立派な中高年になってしまった私も、自分の男としての賞味期限が気になる年頃ではある。

まあ、さきほど食べ物の賞味期限を書いた通り、賞味期限なんて厳密なものではない。過ぎちゃっても変わらず美味しく味わえる。

その理屈で言えば、私の賞味期限なんてまだまだず~っと先のことである。

ついでにいえば、腐りかけがウマい。

だからきっとウマいはずだ・・・。

何だか話がトンチンカンになってきたからこの辺でやめる。

2014年6月9日月曜日

チョコレートドーナツなど


前々から見たいと思っていた映画「チョコレートドーナツ」を見てきた。

最初に見に行こうとした日は喉が痛くて中止、次に出かけた時は、運悪く大ヒット御礼とかで監督が舞台挨拶に来日したとかで超満員。結局パスした。で、三度目の正直でようやく見た。

まあまあだった。


この宣伝画像のロン毛の主演俳優が素晴らしかった。存在感、歌の上手さ、迫真の演技、まさにすべてかっさらっていた感じ。元は実力派の舞台俳優らしい。

1970年代のアメリカ、まだまだマイノリティーへの差別感情が強かった時代の実話が元になっている作品だ。

ゲイのカップルがひょんなことで育児放棄されたダウン症の少年を引き取って暮らし始める。だが、世間の壁は厚く、幸せな暮らしに暗雲が・・・って感じのストーリー。

私自身の環境のせいで、ダウン症児が出てくる映画やドラマはアレコレと見てきた。「八日目」、「メモリーキーパーの娘」、「たったひとつのたからもの」など見られる範囲のものはチェックしてきた。

当たり前の話だが、そうしたジャンルの作品は「涙腺刺激・号泣誘因型」に作られている。見る人を悲しませて泣かせることも一種の命題である。

これって、障害を持つ子どもの親とか近親者にとって、場合によってはちょっとエグい。

どうしたって悲しいシーンや切ないシーンが多くなるし、ハッピーエンドにはなりにくい。

でも、それが現実である。映画の一場面を通して、考えたくない事柄を突きつけられて青くなったり赤くなったりしてしまう。

時々は腹を立てたり、憂鬱になったり、暴れたくなったりもする。ちょっとウソです。

そうはいっても、障害を持つ子どもと接する機会がない大半の人に対して、啓蒙というか、現実を知ってもらう意味では、こうした題材の作品は意義深い。

この「チョコレートドーナツ」もとても深い内容でゼヒいろんな人に見て欲しい作品だった。人間らしさとは、常識とは、先入観とは、等々さまざまな示唆に富んだ作品だ。

案の定?個人的にちっとも嬉しくない結末だった。映画館を出た後、しばし不機嫌太郎になってしまったが、その後、一杯ひっかけたらスグに直った。

とても良い映画です。ジンワリした気分になりたい人にはオススメです。

さてさて、今年になって映画館に出かけたのは「永遠のゼロ」と「小さいおうち」と今日紹介した作品ぐらいだ。昨年は壇密のエロ映画ぐらいしか記憶にない。

もっと、いろいろと見に行きたいのだが、何だかんだと機会が作れずにいる。東京は映画館だらけだから実にもったいないと思う。

でも、録画済みの映画も山ほどあるし、自宅でノンビリ勝手気ままに映画を楽しむほうが気楽なのも確かだ。

映画館の迫力には叶わないが、自宅の60インチの大画面テレビにそこそこのサランドスピーカーを装備して画面から適度な距離で映画を楽しんでいると、まあまあの迫力は味わえる。

とかいって、最近見たのは、「デスノート」とか「闇金ウシジマくん」だったり、昔の戦争映画や寅さんシリーズばかりである。

名作といわれる作品や、もう少し重厚な作品、華やかな作品等々、あらゆるジャンルの映画が溜まっているのだが、リクライニングソファにドテっと座って酒を片手にホゲホゲしていると、ついつい連ドラの「極悪がんぼ」をまとめて見ちゃったりする。

いにしえの「太陽にほえろ」も自動録画設定のおかげで毎週毎週蓄積されていくし、酔っ払う「吉田類」も毎週毎週蓄積されていく。

そうしたコマゴマした録画番組をやっつけるだけでなく、それ以外にも「美食家としてのロートレックとパリ」、「夏のヴェローナの野外オペラとワイン風味のリゾット」みたいな旅番組も見なければならない。

パリとヴェローナに近いうちに行こうと画策しているから、そんな旅番組は繰り返し見てしまう。

そんなこんなで、さっさと見たい映画がずっと溜め込んだままになっている。

なかなか時間が足りない。まずは、習慣?になりつつあるネットでのエロ動画鑑賞をやめることが先決だ。

2014年6月6日金曜日

背中は語る


男の肩と背中には

むかしの影がゆれている

恋も涙も悲しみも

だれにも言えない傷あとも



その昔、プロ並みの歌唱力で人気を集めたニヒルなお相撲さん・増位山がヒットさせた「男の背中」である。

なかなかカッチョいい歌詞だ。

男の背中には様々なものが揺れているらしい。ホンマかいな?である。

俗に「背中で語る」とか「背中に漂う哀愁」とか言われる。男の背中は何かと意味ありげな存在として世間にイメージされているわけだ。

そうだろうか。アマノジャク的な解釈をすれば、中高年になると腹筋も背筋も弱くなって、ふと気を緩めると背中が寂しげに丸くなる。その結果、どことなく切ない雰囲気を漂わせているだけではないだろうか。

私の場合、まず間違いなくそうだと思う。「むかしの影」などスグ忘れちゃうし、「だれにも言えない傷あと」などありゃしない。おまけに背中に「恋」や「涙」など背負っちゃいない。

そうはいっても、確かに世の中を歩くオトナの男たちの後ろ姿を眺めていると、不思議と様々なストーリーを背負ってるんだろうなあ、と感じ入る。

女性の背中にはそれを感じないのに、男の背中にはそんな印象がある。不思議である。

女性には失礼な言い方かもしれないが、男のほうがピーチクパーチクと感情を発散できない人が多い。思ったことは内に秘めたり、取りつくろえない。その鬱憤みたいなシコリが背中に溜まっていくのかもしれない。

まあ、平均寿命が女性よりはるかに短いのが男という生き物だ。いろんな葛藤のせいで背中に表情が生まれるのも仕方ないことである。

言うまでもなく背中は後ろ側である。女性ほどには自分の後ろ姿に関心を向けない男にとっては注意力が反映されない場所だ。だからその男の特徴が背中に表れるのだろう。

健康面、エネルギー、孤独感、強がり、意地、脅え、プライドみたいなものが背中に滲み出ている。

背中はウソをつかない。浮ついた背中、薄っぺらい背中、自分の世界を持っているドッシリした背中なのか否か。いっぱしの大人の男の背中には確かに表情がある。

昔から「男は外に出れば7人の敵がいる」と言われる。後ろ姿に関心を向けない男とはいえ、自分の目が届かない背中にも然るべき緊張感を漂わせないとなるまい。

スキだらけの丸まった背中になると、もはや「男の背中」ではなく「爺ちゃんの背中」になっていく。

喜怒哀楽の表情を作って取りつくろえるのが前側だ。後ろ、すなわち背中はそんな器用なことは出来ない。だから面白いのだと思う。

なんだか、書く内容がまとまらなくなってきた。





男の背中の話ばかり書いてみたが、女性の背中も捨てがたい魅力がある。無防備じゃない魅力とでも言うべきか。

女性の場合、後ろ姿への気配りは男の比ではない。背中もしっかり見られている意識が高い。

髪型、うなじの見せ方に始まり、背中のスキンケア、むだ毛脱毛、はたまた背中の肉を取るためのエクササイズに励む人もいる。

無頓着な男は、髪を整えるときでも正面の鏡に映る部分にしか目が行かない。後ろ側がスンゴイことになっているのにスカした顔で電車に乗っているオジサンも珍しくない。

女性の場合、後ろ姿が驚異的に綺麗で永遠に見とれていたいような人も大勢いる。ああいう美への努力は、世の男性陣全員がしっかり賞賛しないといけないと思う。

美しい背中を持つ女性を前にしたら、うなじから首筋の付け根、はかなげな肩のラインから肩甲骨へ、そして腰のあたりにかけての「旅」をいつまでも繰り返していたいものだ。

2014年6月4日水曜日

疑心暗鬼


疑心暗鬼。疑わしく感じると何でもないことまで怖がったり、あらぬ妄想を抱いてしまうことの例えだ。

真っ暗闇の中にいるだけで、鬼が潜んでいるように感じてしまうという意味合いである。

先月、都心で少し強めの地震が2度ほどあった。いずれも「巨大地震との関連性は無い」とその道の権威が語っていたが、どうにも安心できない。

地震予知などまともに当たったためしがないし、そもそも「お上」周辺から発信される情報を信用しようという気にならない。

深刻な前兆だったとしても、「国民を不安に陥れないため」「パニックを予防するため」という名目で真相は隠されているのではないか。

「ああ言ってるけど、本当は違うんだろうな」。まさに疑心暗鬼である。

昔は、それっぽい人がそれっぽく語っていたら、何となく信じて済ませていた。多くの日本人がそうだったと思う。でも最近は、ノホホンとそれっぽい話を信じられなくなった。

3年前の3月11日を境にこんな心境に陥る人が確実に増えた。

「お上」からの情報の信用はかつてないほど地に墜ちているのが今の世相だろう。

大震災後のアノ原発事故に関連する情報の迷走、その後のあらゆる風評の中で、何を信じればいいのかサッパリ分からなくなった。もはや信頼はどこにもないというべきか。

人気漫画「美味しんぼ」での原発問題の描かれ方が世間を騒がせた。

風評被害を拡大させるという批判意見がやたらと目についた。普通に暮らしたい、以前のように活動したいと願う現地の人の気持ちを思えばもっともな批判ではある。

とはいえ、風評被害という言葉が言論統制に向けた一種の「錦の御旗」になりつつある現状が無性に怖い。気持ち悪さ、不気味さを感じる。

ごく当たり前の不安とか心配を口にするだけでも「風評被害」と言われかねない。どうにも窮屈な雰囲気が漂ってはいないだろうか。

素人が常識で考えて「ヤバい」と感じることですら、科学的根拠や実証データが無いという理由で、ただのデマや風評として一蹴される。

一般大衆側も、自分たちにとって都合が悪い話を聞きたくないし、イヤな想像はしたくない。出来れば楽観的に過ごしたい、大したことないと思い込みたい。そんな心理が働く。これもクセモノだろう。そんな大衆心理も「魔の手」に利用される。

結果、声高に問題を指摘すること自体が偏った主義主張と決めつけられ、ヘタをするとイデオロギー的行動というレッテルを貼られる。

結果、大半の人が”触らぬ神にタタリなし”とばかりに問題から目をそらし、無関心の連鎖が拡がっていく。

「触らぬ神」ではなく「触らぬ”お上”」と表現した方が適切だろうか。専門的な研究をしたわけではない一般国民にとって、放射性物質の害など具体的に分かるはずはない。

それを逆手に難解な言葉、専門用語のオンパレードで、「とりあえず心配はいらない」と押し切られる。

枝野官房長官(当時)が流行?させた「ただちに影響はない」というフレーズ。インチキの極みみたいなブサイクでおぞましい言い回しだったが、あれから3年が過ぎた。

「ただちに」と言えるような時間はとっくに過ぎた。いわば、あのデタラメ発言にも免罪符が与えられたわけだ。

子どもの甲状腺ガンなど、福島の健康被害には深刻なデータも出ているが、この問題も風評被害という錦の御旗が絡むことで、本当の姿がよく見えない状態になっている。

大量の放射性物質が放出され続けている現状を考えれば、事故現場に近いところとそうでないところとでは、人間の生息環境に違いが生じるのは、残念ながら当たり前の話だ。

高濃度汚染水が海に垂れ流され、廃炉まで40年はかかると言われる福島第一原発での作業が「アンダー・コントロール」などと安易に言い切れないことは誰もが分かっている事実だ。

事実、これまでも福島、茨城、栃木、岩手、千葉などの農産物や水産物が現実に出荷制限の憂き目に遭っている。すなわち「食べたら危険」という宣告である。

今後もそうした規制が緩くなることは考えにくい。そのぐらいの重大事故が発生し、あげくに現在も進行中だということを忘れるわけにはいかない。

震災直後、放射能汚染をセンセーショナルに報じたメディアが世間から袋叩きに遭った事実を覚えているだろうか。

事故対策に命がけで頑張る人々に対して不謹慎だとか、ネガティブな報道は風評被害を招くだけだとか、そんな雰囲気に支配された世論が、結果的に正しい情報伝達を阻害していなかっただろうか。

希望的観測だけで現実から顔を背けようとした世間の雰囲気は今も根強い。単なる疑心暗鬼であればよいが、ことはそう簡単ではない。

正しく怖がること、冷静になって心配することは決して間違いではない。

2014年6月2日月曜日

ハツ刺し、とんかつ、稚鮎、チレ串


自分のスマホに収まっている食べ物画像を見るにつれ、変化に乏しい自分のライフスタイルが少し残念である。似たようなモノばっかりだ。

エビフライにピラフにトンカツ、あとはモツ焼き、煮込み、それ以外は寿司屋のツマミがあれば私は毎日ニコニコ暮らしていけるようだ。

ブログを書き続けていると、普段から食べ物の画像を何気なく撮影してしまう。とても無粋な行動だが、ブロガー?としての宿命だから御勘弁願いたい。




エビフライに牛ハツの刺身に稚鮎である。

私は生粋のタルタル人(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7.html)だからエビフライがメニューにあれば必ず注文してしまう。

この画像は、銀座のとんかつ屋さん「平田牧場」での一コマ。分厚いヒレカツにメンチカツ、それ以外にも角煮などの酒のツマミを頼んであったにもかかわらず、ついついエビフライも1本だけ頼んでしまった。


主役はあくまでトンカツだ。金華豚の圧切れヒレカツが絶品だったが、こんな素敵な豚肉様を味わう前に、前菜としてプリプリエビフライwithタルタルを楽しむ。

すべてのストレスが遠いお山の向こうに飛んでいったような幸福感に包まれた。

続いてハツの刺身。オッサンの聖地・新橋を代表するヤキトン屋・「まこちゃん」で食べた。おろしニンニクとネギたっぷりで醤油で味わう。

濃いめの黒ホッピーとの相性が抜群である。イヤ~ん、バカ~ん!と言いたくなる。やんなっちゃう程ウマい。

ついでに言うと、画像の奥の方に少しだけ写り込んでいるモツ煮がひっくりかえるほどウマかった。

ヤキトンを嬉々として食べている姿は富豪的ではないが、割と頻繁に身体が欲するので機会があればアチコチ攻めに行く。どこの店でも必ずモツ煮込みを注文するが、ここのモツ煮はウマ味が最大限引き出されていて絶品だ。有名店には有名になるだけの理由があるってことだろう。

稚鮎の画像は、久しぶりに訪ねた銀座のお寿司屋さん「さ久ら」での一コマ。川の香りとか、初夏の匂いとでも言おうか、鮎の風味が丸ごと詰まっていた。冷酒とともに味わうと得も言われぬシッポリ感に包まれる。

こういう情緒タップリの滋味を味わうと、ヤキトンなんか食ってる場合じゃない!と思う。でも不思議なもので、「シッポリ飯」が続くと、ホッピーオヤジに変身したくなる。本当はどっちの路線が自分に適しているのだろうか。いつも悩む。


銀座8丁目に隠れ家のように存在する「さ久ら」は、ちょっとしたツマミに上手に野菜を取り入れているのが一つの特徴だ。何となくヘルシー気分で過ごせる。

タバコをやめたおかげで、禁煙の店でも意気揚々と出かけられるようになったことが嬉しい。

このサバ寿司も酢締めの加減、シャリとのバランスともに絶品だった。思い出すだけで腹が鳴る。

酢締めの加減などと、エラそうに書いている割には、次の日には、ジャンクな心がムクムクと盛り上がり、大ぶりのヤキトンを求めてさまよう。


時々、無性に行きたくなる池袋の革命的?やきとん屋「木々屋」での一コマだ。

右側の2本はレバー串とチレ串だ。レバーのウマさはもちろん、珍しいチレはこの店では欠かせない。

脾臓のことをチレという。相当新鮮じゃないと臭くて食べられないらしい。希少部位とあってメニューに常備している店はここ以外では見たことがない。

脾臓である。ウィキペディアで調べたが、どんな臓器でどこに位置してどんな働きをしているのか、さっぱり分からなかった。

味はレバーと似ているが、よりコッテリした感じ。ジューシーで食べ応えがある。そう書いているだけでまた食べたくなってきた。


本日最後を飾るのは私が最近ハマりかけている極上のツマミだ。いつもお世話になっている高田馬場「鮨源」で注文する一品。

上等なマグロの赤身と梅干しとミョウガである。叩いた梅干しとミョウガを赤身にあえるだけである。実にウマい。味わい爽やか、後味スッキリ、酒にもよく合う。

バテ気味の身体に梅干しパワーと赤身の鉄分風味、ミョウガの健康的な効能が相まって暑い季節にはもってこいの一品だと思う。

梅干しと合わせる魚といえば、イワシやアジ、生タコあたりがポピュラーだが、マグロの赤身も想像以上に相性がいい。

ああ、これもまた書いているだけでまた食べたくなってきた。

結局、似たような食べ物ばかりで私の身体は大きくなり続けている・・・。