2011年11月30日水曜日

解脱したい

宗教的な訓話みたいなのが苦手だ。なんか嘘っぽく聞こえてついついナナメ目線で捉えてしまう。格言とかその手の教訓的なものも敬遠したくなる。

神父さんやお坊さんの話はもちろん、「あいだみつお」なんかも苦手。どうも素直に受け取れない。チャチャを入れたくなる。斜に構えた姿勢は私の悪い癖なんだろう。

そんなひねくれた路線でウン十年強がってきた私だが、最近は、ふとした時に教訓とか訓話とか名言みたいなものにアンテナが反応するようになった。あいだみつおは相変わらずダメだが、善良な言葉が心に刺さるようになってきた。

ようやく大人になったのだろうか。このところ、自分を覆ってきた鎧のような気持ちが随分と丸くなってきたように感じる。

人様が話している善良な話に素直にうなずく、善良な話を書物などで読めばウルウルするようになった。

深層心理の中で肩肘張って生きていくのが億劫になってきたのだろうか。大震災あたりから無意識のうちに無常観というか、すべてを達観するような気分が生まれたのかもしれない。

仕事上欠かせない「物事を斜に構えて捉える姿勢」は、考えてみれば寂しい話だ。善か悪のいずれかに分類すれば、そんな気持ちは悪でしかない。

斜に構えている程度なら、分別とか思慮深さという範疇に収まるが、これが猜疑心にまで進んでいくとどうにもややこしくなる。

世の中の諸悪の根源は猜疑心だ。素直に物事を受け取れず、悪い方悪い方に解釈する。疑ったり、妬んだりする心が持つ負のエネルギーは、まさに悪魔が心に巣くっているかのようだ。

いったん生まれた猜疑心は、その人の心の奥で勝手に膨張する。深く愚かに拡がっていく。あれを悪魔の囁きと言うのだろう。
夢にまで疑いの心が拡がり、毎晩のように思考がネガティブになる。

友達、恋人、家族、そして職場や社会に至るまで、争いはすべて小さな猜疑心から始まる。人の心の曇った部分が世の中に暗い影を落とす。

そうはいっても、人を信用することの難しさもまた一面で人類の課題みたいなものだろう。

子どもが教わるのは「知らない人についていくな」、「見知らぬおじさんの話を信じるな」。

ちょっと大きくなれば「男はオオカミなのよ、気をつけなさい」だし、「女の言うことなんか全部思いつきだ」とか、どうしたって人を信じるな、疑ってかかれという図式で大人になる。

「人を見たら泥棒と思え」なんて言葉もある。大前提として疑うことから人間と人間の付き合いが始まる。

もちろん、だからこそ信用できる関係を築けた時の喜びやそれによって絆が強くなる喜びが大きいわけだ。

信用できるか否か。結局、人と人の関係はその一点に尽きる。ごくごく当たり前のことだが、この一点の確証を得たい一心で人はもがき苦しむのかもしれない。

ガラにもなく、最近教わったマザーテレサの言葉を紹介したい。



人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい
けり返されるかもしれません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい




実に美しい言葉だと思う。

まあ、正直に言って、そんな説教じみたことを言われても実践出来るわけがない。普通の人間は煩悩の塊だ。クヨクヨもするし、周りが気になって仕方ないし、エゴむき出しだし、欲も出る。

そうは言っても、今更ながらこんな珠玉の言葉に出会ったのには何か意味があるのだろう。せめてひとつでも実行できるように意識したい。

ああ解脱したい。

2011年11月28日月曜日

150億円で遊んだ人

大王製紙の前会長の道楽ぶりは、まあ何というか、何とも言えないというか、実に破天荒でスペシャルではある。変な表現でスイマセン。

良いとか悪いとか、今更そんな論評は無意味だろう。世の中の同族会社経営者の目線と一般サラリーマンの目線とでも受け止め方は全然違うのだろう。

同族会社には、相応の公私混同は付きものだし、それを100%すべて悪と切り捨てることは無意味だ。それこそが同族会社のパワーになっているのも真実ではある。

もちろん、程度問題ではあるが。

それはともかく、会社のカネを150億円も個人的に使っちゃったんだから豪快だ。大半がギャンブルですったことを本人が認めてるわけだから、ヒョヒョヒョのヒョだ。

そこまで突き抜けたら、もはや偉人?だろう。

40代、妻とは離婚。すなわちフリーの身だ。見た目もマトモだし東大も出てる。そんで150億円で遊ぶ。うーん、悶絶する。

常識で考えつくこの世の快適なこと、快感なこと、ワクワクすること、全部経験できたんだろう。あんなことも、こんなことも・・・。羨ましい・・・。

本人は返済の意向もあり、実際に持株などを処分すれば、使いまくったカネは返済可能だとも言われる。だとしたら逮捕はされたものの、重い量刑をくらう可能性は低い。

世界中に恥をさらしたのは確かだが、たった一度の人生、一瞬でもそんな経験が出来ちゃったのなら、御の字だと思っていてもおかしくない。

さてさて、この一件をただ羨ましがっているだけでは情けない。私の印象を少し書いておきたい。

といっても、大層なことを考えたわけではない。要は「日本もカジノを解禁しやがれ」ってことだ。

日本にも世界に誇れるカジノがあれば、あの150億円だって、わざわざ海外に流出しなくて済んだわけだ。実にもったいない。

変な話だが、本気でそう思う。カジノ推進の話はこの国でも古くて新しいテーマだ。とっとと解禁すればいいのに、反対派の声も強く実現していない。

競輪、競馬、ボートなどの公営ギャンブルが大賑わいで、反対論が強かったサッカーくじだって、今ではごく普通に世の中に定着している。

パチンコだって、勝ち金の両替に摩訶不思議な建前はあるものの、純然たるギャンブル。お隣のオッソロシイ国に随分とアガリが流出してるようだが、景気に関係なく大盛況だ。

まあ、事実上、国がギャンブルをドシドシ後押ししているのだから、カジノだけ特別扱いする意味が分かんない。どんどん作ればいい。

過疎になっちゃった地域とか、観光資源に乏しいどこかの島をまるごと使ったりして、この国の自慢であるハイテク技術なんかもガンガン駆使して世界的なスーパーカジノを作ればいいと思う。

尖閣諸島とか竹島あたりも有力な候補地だ!?。

メイド・イン・ジャパンのスーパーハイテクカジノを作って、そこに向けて豪華客船の航路を開いたりすれば一大産業が出来上がりそうだ。

間違いなく世界中のお金持ちはぶりぶりお金を使ってくれます。

だいたい、財政状態がヘロヘロなんだから、気取ったことばかり言ってたって仕方がない。なりふり構わず国庫を潤す話はすべて実行すればよい。

射幸心をあおるとか、旧態依然とした反対論だって、さっき書いたような公営ギャンブルが大盛況になっている状況を前にしたら、ちっとも説得力はない。

増税増税と国民を憂鬱にさせることばかり言わないで、もう少し国民心理をくすぐることを言い出すセンスが欲しい。民主党や霞ヶ関のオッサンにはそんなセンスが皆無なのだろうか。

「楽しみながら納めたい」。国に納めるものすべてにそういう観点からの議論があっていい。

今では当たり前になったクルマの希望ナンバーだって、「カネを出せば希望の番号がもらえる」なんて昔は考えられなかった。そのせいか、インチキや裏ワザやうさん臭い話も多かったが、希望ナンバーが取れるようになって余程スッキリした。

あれだって、通常より割増しの金額を払うことで自分の好きな番号を押えることが出来るわけで、その「割増分のカネ」は、純粋に受け取る側の粗利になる。小さい話だが、そういう発想の積み重ねだと思う。

地方税の世界で定着してきた「ふるさと納税」も各自治体が、納税先に選んでもらおうと、米や肉、果物といった地域色豊かな特典を納税してくれた人にプレゼントしている。

納税で特典などというと、非現実的なこと、不真面目なことといった印象を抱く人がいるが、そんなことはない。

いまどき、どんな世界でもポイント制とかキャッシュバックとか、何らかの特典を提供することで顧客満足度を高めている。

ふるさと納税で頑張ってる自治体のマネをして、国だって、納税者への特典ぐらい考えたっていい。

納税額の多寡に応じてプレゼントを用意したり、国の施設を安く使えたり、特典なんて簡単に作り出せる。

迎賓館に1泊出来ます、とか、政府専用機で遊覧飛行とか、国宝に一瞬さわれますとか、自衛隊の輸送機使って流氷見学なんていうのもアリだろう。

真面目に何年も高額納税を続けたら、政府系金融機関からの融資利率が優遇されるとか、国有地払い下げ情報が一足早く分かるとか、訴えられても裁判所が優先して扱ってくれるとか、いろいろありそうだ。

話がアチコチに飛んだが、突飛な話、素人の話、門外漢の話にこそ、局面打開のヒントがあるのも事実。

どうせ納めるのなら、どうせ取られるのなら少しは楽しい気分になりたいもの。それが人間の素直な心だろう。

「150億円で遊んじゃったアノ人」の話から随分と飛躍してしまった。

2011年11月25日金曜日

ドライブ

久しぶりに一人で長々とドライブをした。もう10年以上もそんなことをした記憶がない。いろいろイライラしていたある日、日帰り温泉にでも行こうとハンドルを握った。温泉気分はどこへやら、なぜかカッ飛びモードになって高速に乗って走り続けた。

温泉にも行ったが、結局ドライブ中心の時間だった。クルマの運転がストレス解消法という人がいるが、分かる気がした。

20代の頃はよく一人でドライブしていた。暇人だったから昼寝のせいで夜更けに目が冴える。仕方なく朝焼けを見に出かけたり、目的もなく高速を走ったりしていた。

その後、年齢を重ねるに連れ、助手席に誰かを乗せないと退屈するようになった。いや、そんな理由ではなく、アルコール中心の生活になったことで運転する機会が減った。

この日のドライブは、午後から夜にかけて結構な時間を愛車で過ごした。思えば、昨年クルマを変えて以来、こんなに長く一人でこのクルマと向き合ったことがなかった。


ひとりでガンガン走ってみると、愛車の性能に萌え~って感じになった。全体の質感、エンジンの力強さ、加速、制動力、コーナーリングの安定感など、全体に大したもんだと今更ながら感じた。

とかいいながら、クルマの性能を噛みしめていたのは少しの時間で、あとは葉巻を吹かしながら大声で歌ってばかりだった。

さすがに葉巻の香りが染みついちゃうのはイヤなので、窓は全開。寒いし、うるさいし、カーオーディオに合わせて歌う声は大声になった。叫んでいたような状態だ。

スッキリした。

ハマショーを叫ぶのに飽きたので、永ちゃんの「アイ・ラブ・ユー,OK」をうなったり、加山雄三をスカして歌ったり、ブルーハーツを吠えたり、誰にも聞かれないのをいいことに熱唱。

そのうち、演歌モードに突入。五木ひろしの「待っている女」、細川たかしの「望郷じょんから」とか、高山巌の「心凍らせて」なんかを歌う。

それにしても「心凍らせて」は名曲だ。

♪心凍らせて 愛を凍らせて
 今がどこへも行かないように♪

何度も熱唱した。どう見ても間抜けな姿だったと思う。

話がそれた。

この季節、日が暮れるのが早いから、あっという間にトワイライトタイム。昼が名残り惜しそうに、夜が待ちきれないように攻めぎあう時間だ。

日没後のわずかな時間。黄昏のひととき。こういう時間帯に人の精神性は研ぎ澄まされるのだろうか。様々な悩みや想いが浮かんでは消えていく。

結論なんて出ないから結局は、♪こころ、こおら~せて~~♪とか熱唱しながらアクセルを踏み続けた。


この日は、秋川渓谷・十里木にある日帰り温泉に行って、混雑ぶりに辟易として、埼玉・狭山近辺にある温泉施設に行き直した。

当たり前だが、クルマでの移動は臨機応変にスケジュールを組めるのが便利だ。

アルコール漬けの身体になる前までは、結構なクルマ好きだった私だ。もともと、ドライブは好きなほうだった。

大学生の時は、陸路、北海道まで丸一日ひとりきりで運転したこともある。夜遅く、青森側から青函連絡船にクルマごと乗り込み、運転席で爆睡して函館に到着した。

その後、クルマでも寝泊まりしながら1週間かけて北海道の外周を回ってきた。楽しい思い出だ。

ちなみに現在の愛車は英国車。英国好きでもなんでもないのにおかしな話だが、輸入車の個性、輸入車の哲学みたいな部分に惹かれる。

ドイツ車を中心にイタリア車にも乗ってきた。それぞれが哲学というか、確固としたアイデンティティを持っている点に惹かれる。

「走れば何でもいい」。それも道理だが、「何事にもこだわりを持った大人」を演じ続けたい私?にとっては、やはりミニバンとかプリウスは敬遠したい(ファンの人、スイマセン)。

あと20年ぐらいしたら、きっと喜んで軽のミニバンを愛用すると思うが、まだまだその世界には背を向けていようと思う。

上質な欧州車が持つ官能的な空気は、やはり、単なる道具と割り切って作られたクルマとは異なる。エロティックな喜びを与えてくれる。

いきなりデータを出して恐縮だが、輸入車の新規登録台数は1996年に40万台に達したが、その後は減少し、2000年代には25万台前後になり、2009年には17万台にまで急降下。ピーク時の半分以下だ。

このあたりにも不況の影響がくっきり出ているが、その分、この国のドライバーから「浪漫」が減っていったという見方も出来る。ちょっと寂しい話だ。

とかいいながら、私自身、めっきり運転する場面が減っているのも確かだ。箱根や熱海あたりですら、電車で行きたがる。もっとクルマでの移動を見直してみたい。

最近は、昔ほど渋滞にはまることもなくなった。せっかくエコとかハイブリッドに背を向けたようなクルマに乗っているのだから、バンバンかっ飛んでいこうと思う。

この秋は少し酒を我慢して、もっとドライブに励もうか。

2011年11月21日月曜日

正しく健康的な酒

用事が無くても止まり木に立ち寄ることは大事だろう。職場と家の単純往復から文化や芸術、ましてや色恋?は生まれない。

同僚や友とわいわいしたり、異性としっぽりも嬉しいが、時にはひとりポツンと日常の様々を逡巡するのも悪くない。

そんな時は寿司屋のカウンターだ。随分断定的だが、先日、寿司屋のカウンターでそう思ったのだから仕方ない。

ひとりでバーでチビチビも良いが、あまりに変化のない時間の流れのせいで、つい携帯メールをチェックしたり、Facebookをいじりだしたり、結局わさわさしてしまう。

あくまで私の場合の話だ。

先日、良く行く高田馬場・鮨源でボーっと飲み食いした。ちょっと気分が上がっていかない日だった。何となく止まり木みたいな感じで訪問。

私にとって基本パターンみたいな注文の仕方をした。正しく不健康な酒飲みのオーダーだ。不健康といっても、もっとヤバいシリーズに没頭する時もあるから、この日は大したことはない。

お燗酒を飲みたい気分の時には、この程度の不健康は健康的な範囲だろう。よく分かんない表現になってしまった。




極上の本マグロの赤身と軽く酢締めされたサバを肴にアルコールタイムスタート。

やはり、鉄分の香りが芳醇なしっとり赤身は刺身界のスーパースターだろう。長島よりも王って感じだ。ノーラン・ライアンではなくグレッグ・マダックスという感じだろうか。

サバにはバッテラに使うような甘めの昆布もトッピング?してもらった。

アンキモ様がくれば、どうしたってビールから燗酒に移行。日本の冬よ、ありがとうって言いたくなる味わいだ。

メジマグロのトロっとした部分を辛味大根とともに味わう。これまた燗酒と混ざり合って、早々に気分が良くなる。



熱めの燗酒が喉を通りすぎていく瞬間が大好きだ。まさに快感だろう。ウィーとかオォーとかその手の音を発声したくなる。

アンキモに飽きたらず、白子も頼んだ。ポン酢が優しい味だから、白子のクリーミーエロティックな味が引き立つ。

なんかグジュベロ系?の肴が続いたので、カキを注文する。この日は、吸い物風に仕上げてもらった。薬味無し。ただただカキの風味を堪能する。厚岸のカキだとか。味が濃くて嬉しい。風味の弱すぎるカキが最近は出回りすぎだと思う。

この日は空腹ではなかったので、つまみはこの程度でやめた。普段は、今まで書いたようなラインナップに加えて、岩塩をパラっと降ってもらった純粋な生ウニを頼んだり、馬刺しや穴子の白焼きをもらったり、串に刺したウナギを一本焼いてもらったり、揚げ物を頼んだりしてウダウダする。

そうなると飲みすぎる。この日は、なんとなくボーッとしていた日だったので、適当に握り方面に舵を切った。



あまりにも赤身がウマかったので、素直に鉄火巻にしてもらう。鉄火巻といえば、どうでもいいマグロの赤身を使うのが普通だから、日本全国の寿司業界でスターの座に座ることはない。下っぱのような位置付け。

とはいえ、それをあえて極上本マグロで作ってもらうと、さすがに別モノになる。正しい赤身には正しい酸味とか旨味がつまっている。だからフムフムうなってしまうような鉄火巻が出来る。

まもなくシーズンが終わる生のいくらも握りで食べた。握りといっても、軍艦にせずに、シャリの上にドッサリぶっかけてもらった。悦楽のひととき。



まっとうなツマミにまっとうな握りを食べて、正しく酔っぱらってきた私は、結局、邪道モノもついつい頼んでしまう。

上はツナ軍艦。回転寿司ではノーマルメニューだろうが、高級寿司の世界では異端児。この店でも、もともとそんなメニューは無かったのだが、突出し用に作られている本マグロベースの極上ツナが、時にシャリを伴って私を幸福にする。

本当に美味しいと思う。ここ1,2年、この店の客の間でツナ軍艦ファンが着実に増えているのは疑いようのない事実だ。

そして焼おにぎりだ。邪道というか、上質なネタを揃えている寿司屋に対して失礼な注文ではある。おまけに、シャリに少しおかかをまぶしてくれだの、ゴマを少々とか余計なお願いをしたりする。

酔ってないと頼めない食べ物かも知れない。でもこれがウマい。シメにふさわしい。べったら漬なんかをかじりながらモグモグするのが最高だ。きっとどんぶりサイズでもぺろっと食べられると思う。

この日、食べ過ぎず、飲みすぎず、快適な気分で過ごせた。ウマイものをしこたま食べようと意気込んで出かけた時よりも、止まり木に立ち寄るぐらいの感覚で訪ねた方が快適な時間が過ごせる。

のどかな時間だった。

2011年11月18日金曜日

変態バンザイ

いきなりだが今日は変態について考えたい。

青虫が蝶に変わるようなくだらない話ではない。もっと学術的な変態の話だ。変態性欲と言うべきか。

私も他人様から変態野郎と言われ続けて30年(ウソです)。いろいろな変態話を聞いてきた。あくまで聞いてきただけである。

こんな高尚なブログで具体的なプレイ内容を開陳するわけにはいかないが、人間の欲とか業ってシロモノは奥深いこと甚だしって感じである。

スカトロ方面、縛り縛られ方面、グループ交尾方面などなど、世に言う変態のジャンルはいくつもある。いわゆるフェチ的なものも含めれば、「変な性癖」の種類は際限ないほどだろう。

女性とそういう場面になると、いきなり豹変して「このメスブタめがっ!」と叫ぶ紳士がいる。女性は皆ドン引きするらしい。想像すると爆笑してしまうが、それこそ人のそういう点を笑ってはいけない。

誰もが一風変わった萌え萌え嗜好を内面に抱えている。幼児趣味とか死姦とか許されないジャンルは別だが、誰もが持つ変な癖は本来尊重しあった方が平和なんだと思う。

人間の残念なところは、自分に縁のない嗜好に没頭する人を警戒し、排除しようとする点だ。どうしても同好の士で群れたがって少数派を異端視したがる。

変態問題についても同じ構図だ。もともと魂の命ずるままの性癖を変態などと呼ばれては堪ったものではない。その行為をするヤツが多いか少ないかだけで判断され、少数派という理由だけで変態のレッテルを貼られる。

私も随分腹を立ててきた。人と違うことをしたがるアマノジャクだったら即、変態になってしまう。

現代ではごくごく普通になっているプレイが、数百年前には誰もトライしていなかったとする。それだけでその時代の人から見れば変態行為だ。

古代ローマ時代などは、今よりもよほど性にオープンだったそうだ。奴隷も普通に存在した時代であり、一説によると上流階級の夫人の局部を舐める役目の奴隷すらいたらしい。

凄い話だ。でも、凄いと感じること自体が今時点の感覚であって、当時の上流階級においては凄くもなんともないごく普通の日常だったのかも知れない。

性の分野に関係ない話だが、「エラい人は一昔前の変人」である。カリスマとか、神格化される偉人の多くが、後世の評価によってそのような地位に押し上げられている。

現役バリバリの時には異端視されて石を投げられたりしている。そんなもんだ。

いま「キャー変態!」とか言われてイジケてる人も心配は要らない。きっと100年もすれば立派な男だったと讃えてもらえる。私も22世紀には、性人、いや聖人になっているかもしれない。

さて、変態をもう少し掘りさげよう。変態趣味は、どちらかといえば男の趣味の世界だと思う。

もともと凝った趣味に没頭しがちなのは男性だが、それ以外に根本的な構造の問題も多分に影響している。

「男のセックスは脳でするもの」。この普遍的な仕組み自体が、変な性癖の芽になっているのだと思う。

男性と女性では、快感の度合いが5倍だとか10倍、はたまた30倍も違うらしい。そのぐらい素晴らしい快感を与えないと出産という過酷な作業を放棄しかねないので神様がそう仕向けたらしい。

逆に、仮に男に出産を経験させたら、痛みに耐えかねて死んでしまうと言う話も聞く。

なんともシュールな話だ。

肉体的快感に劣る男性は、脳をフルに使うようになる。元来夢想家である男としては、いかがわしい妄想が暴走し、あっという間に変態が出来上がる。

そう考えると、つくづく男の情けなさというか、切なさが気になる。当然男である私は男の味方である。変態男に憐れみと同情を禁じ得ない。

必死で女性を追っかけて、いざそういう場面に至っても、脳の中におかしな光景が広がり、時に変なプレイを求めて、相手からぶっ飛ばされる。いやあ実に悲しい。

女性の皆さんには、そんな男性をもっと憐れんでいただきたい。男の妄想をアホバカと一蹴しないでもらいたい。

「人生に必要なのは真実より綺麗な嘘である」という言葉がある。そういう意味では、男女に必要なのは、くだらない真実より興奮する嘘なんだと思う。

2011年11月16日水曜日

悶々とする

親しくお付き合いをしている人が長年書いているブログを偶然見つけた。ブログを書かれていることは知っていたが、詳細は内緒にされていた。

見つけてしまった以上仕方あるまい。しっかりと読ませてもらった。覗いてしまった背徳感?にウキウキしながら熟読。

読んでみて深く反省。その人には今まで、随分と自分勝手な高説?を披露してきたので、自分の程度の低さが恥ずかしくなった。

もちろん、ブログなんてものは自分の言いたいことを好き勝手に書ける場だから、程度が低い高いなどと比べたり、優劣を付けるようなものではない。あくまで、私がその人にエラソーにのたまってきた言行が恥ずかしい。

その人のブログには「悪」がない。批判や攻撃といった負の力とはまるで無縁。いきがって世間様に文句ばかりつけている自分のネガティブな心を思い知らされた。

有名人は別として一般人が匿名で手がけているブログには、どうしたって人間性が如実に表れる。生きる姿勢と言ってもいい。

心根が優しい、視点が公平、偏った先入観に囚われない、謙虚な姿勢、知的好奇心の幅の広さ、芸術への素直な共感、郷土愛、家族愛、先人への畏怖・・・等々。

あえて総括的に分析すれば、その人のブログはそんな評価になろうか。誉め過ぎか。

ちょっとオカルトチックな内容とか意味不明にぶっ飛んでいる内容もあるのだが、全体的には上質な読み物だった。

というわけで、自分が4年以上書いてきたブログを読み返してみた。

偶然見つけたその人のブログが「能ある鷹」だとしたら、私の場合「能なし馬鹿」が書き殴っている感じだ。

随分と偏狭な思想に縛られているオッサンみたいだ。イヤミだし、気取ってるし、クドイし。もっと柔軟で爽やかな心を持つようにしよう。今更無理だろうか・・・。

以前書いたものを読み返すと、ブログを始めたときに完全匿名とはいえないスタートだったことも影響して、本音が全然書けていないことに気付く。

本音を書かずに綺麗事ばかり書いているから、本来は心が解放されるはずの「表現する」という作業が、逆に中途半端になってストレスになっているのだろう。

アレを喰ったコレを呑んだ、ああ良かったなどと書いているが、本当はマズかったことも多い。

本当はカップ麺のうまいまずいを詳細に語りたいし、「伝説のスタ丼」とかいう怪しいチェーン店の味を一刀両断にしたい。

銀座のクラブがどーだのこーだの書いているが、池袋の大衆酒場が妙に落ち着くし、池袋のバニーバーの衣装に萌える。

温泉の泉質がどーだの旅館の風呂があーだの書いている一方で、もう随分と吉原で風呂に入ってないなあなどとくだらないことが脳裏をよぎったりもする。

クルマの運転席に置いたまま、ケツで踏んづけちゃって壊れたメガネを修理できずに歪んだまま使ってるし、喫茶店代をおごってもらっただけで実は大喜びしているケチな性分でもある。

TPP問題だって、日本の食料自給率が危機だから無条件で賛成できないなどと気取りながら、実際にはジョンロブやエドワードグリーンの靴が関税撤廃でどのぐらい安くなるかだけが興味の対象だ。

もっと本音を言えば、個人的な家庭の話も随分と装飾して書いている自分がイヤだ。本当は「解散!」って叫びたいぐらいなのに、そんなことは書けないし、ダウン症の息子のことだって同じだ。

「障害児を授かって命の輝きに思いを馳せる父親」みたいに何度も書き綴っているが、本音は全然違ったりするのも正直ストレスだ。なんでそんな目に遭わねばならないのか、こっちがダウンしたいと思っているのが実際の姿ではある。

仕事についても、報道だ、メディアの姿勢だ、社会の公器だなどと格好付けても、営利企業としての存立基盤はただただ利益確保だから、そのために目をつぶることも増えてきた。なんか疲れる場面が多い。

資金繰りに青くなったり赤くなったりして胃腸の調子は悪くなるし、コストカットに関連した人事の悩みだって尽きない。

好きな人に思いが届かなかったり、諍いを起してしまう不甲斐なさに落ち込むこともある。やるせなす。

どうも最近、仕事やプライベートすべてにおいて、「本音と建前と実際」の渦の中でこんがらがっているような感覚になることが多い。

どうでもいいことまで含めて、あーでもないこーでもない、などと悶々としていると、「鬱はこんな風に始まるのだろうか」と無性に恐ろしくなったりする。

バイオリズムが悪い時期に入ったのだろうか。

いかんいかん。もっとお気軽モードになることにする。もう少し自分の首を絞めない範囲で、本音を出しながら相も変わらぬ雑文を書き続けていこうかと思い始めている。

まずは血圧を下げることと、不摂生による吹き出物を治そう。うーん、小さい・・・。

2011年11月14日月曜日

誉めるということ

「よく頑張った」、「当然のことだ」。同じ行為であっても評価する側の見方は分かれる。モノの見方、立ち位置によって評価ほど難しいものはない。

人事コンサルティングの現場では、無遅刻無欠勤を誉めることは間違いだというのが基本姿勢。あくまで「そうすることが当然だから」という視点だ。

もちろん、それも正論だろう。遅刻や欠勤が悪なのであって、それをしないのが普通だという理屈だ。

もちろん、この考え方だけで世の中が回るなら苦労は要らない。ケースバイケースで柔軟な対応も大事だ。評価される側に心がある以上、モチベーションは無視できない。

人の心の機微や情を無視できたら経営もきっと遙かに簡単になるのだろう。しがらみの無い外国人を突然連れてきて、ようやく再生するような大企業があるのがその証しだ。

いっそのこと、いよいよ退陣を決めた異才?ベルルスコーニに日本に来てもらってリーダーに据えたほうがマシじゃないか、などと暴論も言いたくなる

話がそれた。

「当たり前のことを誉める」という行為は、戦略的に目的を持って実行することで意味を持つ。当たり前のことを闇雲に誉めるだけでは単なるお人好しだ。

戦略的な目的、狙いとは何か。言うまでもなく更なる奮起と周囲への波及効果だ。

優良ドライバーを表彰する制度がある。警察署長がうやうやしく表彰してくれる。

安全運転はそれこそ当たり前だ。といって、それを「単なる義務だから」と軽んじることが出来るだろうか。当然だと一蹴されればモラルは低下する。

表彰された人は、まちがいなく身が引き締まる思いをし、更なる安全運転を誓う。周囲の人も表彰が仰々しければ仰々しいほど、賞賛の視線を送る。

国への最大の貢献である納税はどうだろう。真面目に高額納税を続ける行為を顕彰する制度はまったくない。その理由は「当然のことだから」。

こんなドライな考えの下で納税道義が高揚するはずはない。税金をごまかす行為には数々の厳罰が用意されているわけだから、対極にある尊い行為は賞賛されて然るべき。これまた当然のことだ。

高額納税者を讃えることは、至極まっとうな金持ち優遇策であり、将来の税源育成にもつながる。

こんな当たり前の考え方が欠落していることは非常に不自然だと思う。

戦前、わが国に存在したのが「貴族院議員制度」だ。爵位うんぬんだけでなく、高額納税者も議員に選ばれていた。

国の「会費」である税金を多く納めているわけだから「会の運営」にせっせと発言するのが当然という発想だ。

社会主義的思想が前面に出てきた民主党政権。年金制度改悪では、驚いたことに高所得者層に対して平気で月々5万円の負担増を求める一方で、将来給付される年金額は増やさないという、ボッタクリーバーもビックリなハチャメチャな政策を平気で通そうとしている。

人より頑張って稼いで、人より国に貢献している人への感謝すらなしに、ボッタくることだけを考える。お粗末極まりない。

その一方で、生活保護の支給対象者は過去最高をマーク。本当に困っている人を救うのは政治の大事な使命だが、パチンコ三昧の遊び人にまで生活保護が出ているのも一面の真実。

書いているだけで憂鬱になってきた。

2011年11月11日金曜日

罰がないから

今日は久しぶりに真面目な話を書く。「記者」などと名乗っている以上、少しは大上段に構えた話も書かねばなるまい。

ちなみにこのブログ、会社のSEO対策の一環で始めてから丸々4年が経った。いまやSEOなどどこ吹く風で、好きなことを書き散らかす場となってしまった。

最近、何のために何を書きたいのか、さっぱり分かんなくなってきたので、今年いっぱいをメドに一区切りにしようと考えている。

やはり定期的に人様に向けて何かを書く作業は、それなりにエネルギーが必要だ。すっかり元気の無くなってきた?私としては、仕事でもないのに書き続けるのがシンドくなってきたのが本音だ。

さてさて、今日の話は、わが社の新聞のコラムで書いた話を膨らましてみた。ベタな文句を書き綴る。


延滞税、過少申告加算税、不納付加算税、無申告加算税、重加算税、利子税…。なんだかんだとメンドーな名前が付いているが、要はすべて罰則的な税金だ。

真面目に納税している人からすれば、不真面目への罰則は当然。ちゃんと厳しくしてもらわないとやりきれない。

罰がないところに秩序は生まれない。残念ながらそれが現実だ。そう考えると絶対に無くならないのが「税金の無駄遣い」だ。罰がないのだから、撲滅への掛け声は単なる掛け声でしかない。

さきの衆院予算委員会では、補正予算の中身をめぐって呆れた数字が取り上げられた。来年度に新設される原子力安全庁のホームページ作成費用が実に1億4千万円。いまどきどんな複雑な機能を付けたとしてもこんな金額になることは理解不能だ。

つづいて、法務省が1200台購入する衛星携帯電話の値段。1台あたり34万円超だとか。経済観念が無いというより常識が無いと表現したくなるレベルだ。

ちなみに、このアホバカ予算の問題を取り上げたのは自民党議員だ。ただし、党が補正予算自体に賛成することを決めているため、アホバカ予算の修正を求めないとのこと。「予算のすべてを使わないように注文する」だけでオシマイ。

予算案をめぐる与野党の攻防、どっちもどっちだろう。

こんな予算でも結局通ってしまうわけだから、言ってみれば国権の最高機関が、お役人が好き放題計上する冗費にお墨付きを与えている格好だ。破廉恥極まりない。

税金を納める側には事細かに罰則を用意し、納められた税金を使う方には罰則がない。これほど納税者、すなわち国民を愚弄した話はない。

ちなみに冒頭で書いた罰則的な税金とは別に「過怠税」という制度もある。契約書や領収書に貼る印紙をすっとぼけた場合の罰則だ。

過怠税は本来の印紙税額の3倍が必要になる。実に分かりやすい仕組みだ。お役人の税金無駄遣いにもこういう具体的な罰があれば国の財政も随分好転するだろう。

ギリシャなどもその代表だが、破たんする国に共通しているのが公務員天国だということ。34万円もする携帯電話を使う役人がいるわが国の未来が末恐ろしい。

そして今、この国の支出は収入の2倍以上に膨らんだ。足りない分は無秩序な借金でまかなっている。そしてお役人の巧妙な世論操作で増税やむなしの空気が着々と広まっている。

実に恐ろしく、気持ち悪い事態だ。

2011年11月9日水曜日

小さな死

簡単に疲れたなどと言うのも情けない話だが、最近、ふと気付くとバテている。

泳いでいないと死んじゃうマグロみたいだとも言われた。確かに何かとバタバタしている。

自分自身の大切な時間と仕事と家庭の狭間で一生懸命やりくりしている感じだ。睡眠時間もだいぶ減ってきた。

どんな業種だろうと仕事が出来る人に共通しているのはタイムマネジメントが優秀だということ。その点、自分はどうだろうか。

生きるという大仕事を実行する上で、タイムマネジメントはキチンと出来ているか、大いに気になる。

話は変わる。

「小さな死」という言葉がある。フランス語がルーツみたいだが、一般的に情交の後の深い眠りを指す。確かにコトを終えれば睡魔が襲ってくる。時に昏睡と表現したくなる深い眠りに落ちる。

あの瞬間、言われてみれば魂が解放されているのかも知れない。そういう意味では「小さな死」だ。

若い頃は、そんな睡魔もモノともせず、すぐにセワセワと別な行動を始めていた。大人になって、年を重ね、魂がやたらと余計な荷物を背負わされてきた最近では、「小さな死」から逃れられなくなってきた。

一瞬だが、完全に落ちたような感覚に見舞われる。呆けたような感じとでも言おうか、脳が全停止したような気分になることがある。

眠りに落ちる時だけではない。起きている時でも、ふとした瞬間に「フリーズ状態」に陥る。これって疲れが原因なのだろうか、それとも、脳に問題が起きているのだろうか、はたまたガラにもなく哲学的な心理状態になっているのだろうか。

ナゾだ。

強いて言えば最近ちょっとばかり悩むことが重なっている。そういうタイミングだから、脳がキャパ以上に働きまくっている感じだ。だから、ふとした時に異次元にワープして、一瞬だけ「無」に入り込んでいる。

人間の順応力というか、セルフコントロール機能ってなかなか大したものだと思う。「小さな死」も「一瞬の無」も、思うようにいかないことを抱えて生きていく中で、自分を壊さないための調整弁として機能しているのかもしれない。

葉巻をふかす機会がこのところやけに増えた。2ヶ月前から紙巻きタバコを禁煙したことが大きな理由だが、それだけではない。葉巻をくゆらす時間の穏やかな感じについつい誘われる。

違法薬物に興味はないが、私にとって葉巻は「プチ・アヘン」みたいな存在になっている。アヘンといえばオドロオドロしく聞こえるが、古来、医療用に流通していたわけで、鎮静効果、導眠効果に優れていたらしい。

葉巻をポワーっとふかしていると、鎮静効果はかなりのものだ。肩に力が入っていた感じも自然とほぐれるし、ぶつけようのないイライラも束の間消え去る。

このところ、世間様が高々と掲げる数々の金科玉条に、わけもなく噛みつきたくなっている。老化のせいで短気になったのだろうか。

秩序とか常識といった窮屈な制約がうっとおしく感じて仕方がない。困ったものだ。やたらと「なぜ」、「どうして」が頭の中を支配する。

アルコールが足りないのだろうか。そうだ、最近、ちょっと酒量が減った。胃腸がお疲れ気味で、アルコールを減らしたのがいけないのだろう。だからイライラしている。

そういうことだ。とっとと大酒飲んでケッケっと笑って過ごすことにする。

なんだか今日はウツウツと書き殴ってしまった。

2011年11月7日月曜日

部活


部活と称して銀座の酒場巡りをしていると、何かと勉強になることが多い。授業料が高すぎるのが痛いが、「男の学校」という昔からの言い方は、あながち遊びの言い訳だけだとも思えない。

私だって、部活の最中は、馴染みの女性の麗しき御尊顔や妖艶な胸元を眺めているだけではない。

よその席のお客さんの様子を観察したり、この街で繰り広げられるエピソードを「取材」したり、真面目に文化活動?に取り組んでいる。

ほんの目と鼻の先の新橋ガード下での酒と銀座のクラブの酒。同じ酒場でも大きく異なるのが、酔客の心理状態だろう。

本音の酒がガード下なら、本能の酒が銀座かもしれない。銀座紳士のスタイルも様々だが、多くが、あの街で見栄をはりたい、あの街で背伸びしたい、意中の女性を手籠めにしたいなど、どこか邪念にも似た空気が付きものだ。

ただ酔えればいいというパターンは少ないのだろう。おかしな世界だ。でもそれが逆に人間くさい感じがして面白い。

見栄、背伸び、支配欲。男なら本能的に無縁ではない。突き詰めれば格好付けていたい心理と言おうか。

格好付けることは時にみっともないし、見方によってはアホみたいだが、男のエネルギーなんて、しょせんそこから生まれる。

モテたいとか、偉くなりたいとか、格好付けたい心理がなければ、向上心は生まれない。本心からそういう邪念がない人は天然記念物みたいなものだろう。神に仕えるはずの宗教家だって、宗派の中で高い位に就こうと権謀術数をつくすわけだから、誰だって煩悩や欲のために格好付けたい。

昔、ある女性から「なんでそんなにカッコつけてるのか?」と聞かれたことがある。「男だからだ」と答えた。他に理由などない。

マグロが泳ぎ続けていないと死んでしまうように、男が男を続けている以上、格好付けたい気持ちをないがしろにしてはいけないと思う。

ということで、銀座で格好付けて飲んでいる御仁達の話。

格好付ける意気込みは誰しも同じなのだが、変にズレちゃう御仁が多い。

「自慢たらたら氏」はいつの世も酒場には付きものだ。自慢することが格好いいと思ってるみたいで、こういう類が結構多い。

誰それとは友達だ、だれかれの面倒はオレが見てるんだ等々、実に賑やか。そんなオッサンに限って、決して誰それを伴って飲みに来ることはない。

だいたい、あの街の女性たちはお世辞のプロだし、酔客を大袈裟に誉めるから、「自慢たらたら氏」は機嫌良くなってしまう。

自慢話を聞かされた相手がその人を尊敬したり、ましてや恋に落ちたりすることは無いはずだが、そういう人は一晩中自慢話を繰り出している。ご苦労なことではある。

「札びらタンマリ氏」も困りものだ。すぐにカネで女性陣を釣ろうとする。白金にマンション買うぞ、カイエンターボ買ってやるぞ等々。話が即物的で浪漫のカケラもない。

私もうなるほど金持ちだったら、そんな行動に走るのだろうか。なんか心が通じ合っていない気がして寂しい感じがするのは、私がウブだからだろうか。きっとそうだ。

超絶的金持ちにならないと理解できない心理なのだろうか。まあ、間違いなくお金だけでつながる関係だから、胸が焦げるような想いなんかは無縁なんだろう。そんなのちっとも楽しそうではない。

「オレのいいなりになれば、キミの人生は明日から変わるよ」。こんなことを「札びらタンマリ氏」はあちこちで囁いているらしい。ご苦労なことではある。

威張るヤツも端で見ていて不快だ。どうして客だからという理由だけであそこまで横柄になれるのか不思議だ。あれはあれで「人より高いポジションにいる自分」というポジションに酔っている一種の格好付け心理なんだろう。

くどき作戦に失敗した女性相手に、ころっと態度を変えて全然関係ない理由で怒り始めるオッサンもいる。

本人は「怒っている自分」を演じることで、くどけなかったうっぷんを晴らしているのだろうが、実にカッチョ悪い。

反抗できない立場の相手に威張るヤツほど情けないものはない。逆に言えば、この逆を徹底するだけで、途端にいっぱしの紳士だと思ってもらえるわけだ。

要するに酒場観察によって見えてくるダメダメ親父のパターンを反面教師にすれば、簡単に立派な紳士像が浮かんでくる。

触りまくるヤツ、ダラダラ飲み終わらないヤツ。こういうのもカッチョ悪い典型だ。

裏返せば、好色路線を前面に出さず、サッと引き上げることが出来れば、一応「スマートな人」ということだ。

自慢しない、威張らない、金持ちぶらない、怒らない、エロエロしない、長居はしない。

目指すべきはそういう路線なんだろう。実際にこういうスマートなお客さんは大勢いる。ダメパターンの客が引き立て役になって、そんな紳士達はどこに行っても上客として大事にされる。

ウブな私の場合はどうだろうか。

自慢するような話がないから、自慢オヤジにはならない。ちっとも儲からないからイヤミな金満オヤジでもない。小心者だから怒ることも知らない。臆病だからお触りも出来ない。すぐ眠くなるので長居も出来ない。

理由はともかく、モテる客の条件を満たしているではないか!

これは一大事だ。調子に乗って今まで以上に部活に精を出してしまうのだろうか・・・。

2011年11月4日金曜日

酒の思い出

お酒を飲み始めてどのぐらいになるのだろう。もう30年以上にはなる。たいして飲めないが、まったく飲めないほどでもない。

このぐらいがちょうど良いのだろう。身体を壊す心配もない。アホみたいな失敗談もそんなには無い、ような気がする。

初めて酔っぱらう経験をしたのが、中学2年の時。自宅で祖父が私のコーラにいたずらをした。オールドパーをコーラにちょろちょろ入れはじめ、しまいにはドバドバ投入。

甘くて飲みやすいし、調子に乗って何杯も飲んでいたら、立ち上がった時に足に来た。まさにガクン。あの時から「酔っぱらうことは幸せだ」を人生のモットーに生きてきた気がする。

本心から酒をウマいなあと実感したのはいつごろだろうか。30歳以降だろう。30代前半ぐらいまでは、お酒が無くても平気だった気がする。

今では、アルコールを週に1日抜くのにも難儀している。つくづく、大酒飲み体質じゃなくて良かったと思う。

若い頃の酒の思い出といえば、気持ち悪さに尽きる。たいていは嘔吐小僧になっていた。そうなるのが分かっているのに毎度のようにゲロゲロ。あれが若さだったんだろう。

高校生の頃はもちろん、大学生になっても「しっかり飲んだ日はしっかり吐く」のが基本パターンだった。

安いバーボンが生意気盛りの小僧の定番。そりゃすぐに気持ち悪くなる。若い男ならバーボンだ!みたいな変な思い込みがあった。アホそのものだ。

ウマいと思わない飲み物をよくもあんなに飲めたものだ。だから、その後、怪しげなトロピカルドリンクとやらに飛びついたりした。

あの頃、サントリーの戦略だったかで、トロピカルドリンクという呼び名の怪しいシロモノが若者の間で流行していた。変に甘くて、変にカラフルで飲みやすい。ただし、何杯も飲めば気持ち悪くなること間違いなし。

吐いている時ですら甘ったるい感じがして、気持ち悪さに拍車がかかった。

品のない話でスイマセン。

二十歳の頃ぐらいから、私を可愛がってくれた年上の友人が、六本木のクラブ活動に頻繁に連れ回してくれた。いつも明け方までアフターのお供。常に気持ち悪かった記憶がある。

この頃はブランデーの水割りばっかり飲んでいた。だいぶ出世?したが、相変わらずウマいなあと思うことは無かった。ただ流し込んでいた。ああもったいない。

店がはねた後だし、オネエサン方も同年代の私を可愛がってくれたのだが、こっちは気持ち悪くて仕方がない。今ではまるで考えられないが、据え膳は何度も手付かずだった。

自慢でも何でもないが、スケベ行動に出ないことで女性から叱られたこともある。ただただ気持ち悪かっただけで、決して格好つけていたとか、奥手だったわけではない。

モッタイナイ運動の原点のような話だ。

若い時は旅先でも嘔吐小僧だった。大学生の頃、一人であちこち旅行したのだが、夜のスナックで、地元の怪獣のようなオバサン達に飲まされて苦悶したことも何度かある。

旅先の飲み屋さんでマスターと話が弾んじゃえば、それこそ際限なく飲んじゃって、夜中から翌日の昼まで吐きっぱなしなんてこともあった。

今思えば、どうしてロクに飲めなかったのに、おまけに酒をウマイと思ってなかったくせに、スナックとか、渋い飲み屋に侵入していたのだろうか。

酒場好きの習性があったのだろうか。

オカルトのジャンルの常識では、酒場に寄りつく地縛霊がいるらしいが、そういうのが取り憑いているのだろうか。

前にも書いたことがあるが、小学生の時、バニーガールがプリプリ歩き回っている店に連れて行かれた。ファミリー向けイベントだったのだが、その光景にぶったまげたことが現在の性癖や嗜好に影響している。

ついでに言えば、中学3年生の分際で、悪ふざけが高じて悪友と渋谷のパブに出かけて「ボトルキープ」にトライした時の印象も今の行動に影響している。

薄暗い照明のなか、スリットの入ったロングドレスの女性が働いている姿。今でも鮮明に思い出す。

この二つの経験が私の現在の行動パターンに多分に影響しているのかもしれない。だとしたら随分安直に人間形成してしまったみたいで、ちょっとイヤだ。

一時期通った銀座7丁目の某クラブ。ホステスさんとは別にお運びさんがバニーちゃんだったという一点だけでその店が気に入った。照明も妙に薄暗くて、子供心に思い描いた「オトナの怪しい場所」そのものだった。

照明が薄暗い、スリットの入ったドレス、バニーちゃんもチラホラ。そんな感じで何を頼んでも280円均一みたいな店があったら、ぜひ教えてもらいたい。

あるわけないか。

酒の席での失敗を書くつもりが、ずいぶん話がそれてしまった。

海外でも時に嘔吐小僧に変身してきた。

メキシコでスイカぐらいの大きさのグラスに入った妙に濃いマルガリータを飲まされた。しばらくはラテン気質が憑依してひゅーひゅー騒いでいた。その後、正気になって宿に戻ってゲーーー。

イタリアに行って、柄にもなくトスカーナのワイナリーめぐりをした時も飲みすぎた。好きでもないのにワインをグビグビ試飲、まけにワイナリーで食事する際にも大量にグビグビを続けた。

帰路、チャーターしたタクシーを道端に待たせて、高原の隅っこでゲーーー。

なんかキリがないし、美しい話ではないので、この辺でやめる。

今後は嘔吐評論家とでも名乗ることにしょう。

2011年11月2日水曜日

抱いてください

変な癖は無数にあるのだが、そのひとつが、感動するたびに「抱かれてもいいと思った」と書き殴ることだ。

たとえ、それがオッサンだろうと、老婆だろうと、私に深い感動と喜びを与えてくれたら、ついついそういう感覚になる。

でも、「抱かれてもいい」という表現は、考えてみると、ちょっと上から目線ではある。生意気と言えば生意気だ。

仮に女性からそんな言い方をされたら、「別に結構です」と私は答える。たぶん・・・。

「抱かれてもいい」ではなく、「抱いてください」と言われたほうがグッとくる。

そんなことを言われたら、「もっと自分を大事にしなさい」と私は答えるはずだ。きっと…。

一応、そういうことにしておく。

くだらないことを妄想してスイマセン。本題に入る。

ハマショーのコンサートに行ってきた。今年のツアー最終日、埼玉スーパーアリーナにいそいそ出かけてきた。


浜田省吾歴30年ちょっとの私だ。さすがに行かないとマズイだろう。今回はニューアルバムを出した上での全国ツアーでもなく、本人が言っていたように「選曲が自由」だったらしい。

オールドファンには感激のラインナップを生で聞けた。中学、高校時代に聴いていた曲もガンガンやってくれた。

抱かれてもいいと思った、と書こうとして考え直した。

「抱いてくださいハマショー!」。これが感想だ。

休憩を挟んで4時間ほどの長丁場。堪能した。ちょっと泣いたりしてしまった。どうも年齢とともに涙腺が変だ。

ハマショーは来年には60歳だ。そんな年齢であれだけのステージを息も切らさず、バテたそぶりも見せず、実に丁寧に誠実にこなす姿勢に敬服する。

ファンとしての身贔屓だけでなく、「誠実な姿勢」が彼の現在につながっているのだろうと実感した。

大ヒット曲があるわけでもなく、特別なプロモートをするわけでもない、あえていえば古い時代?のミュージシャンのアリーナツアーが全国的に即完売するのは珍しいだろう。

コンサート中のMCにしても、ロックミュージシャンの横柄さ、ガサツさはまったくない。キチンと敬語だ。かといって、堅苦しさはなく、説教臭い感じもなく、真摯に観客とともにその一瞬一瞬を充実した時間にしようとする姿勢が伝わる。

一つ一つの楽曲を丁寧に歌っている姿も印象的だ。激しい曲であっても過剰なシャウトや興に乗った変なアレンジはなく、あくまで発声も安定している。


完成した安定感だからファンも安心してその世界に一体となって没頭できる。言葉にするのは簡単だが、日本のロックというジャンルの一種の到達点と表現しても大袈裟ではないかもしれない。

随分と熱く語ってしまった。

ハマショーを知ったのは中学2年の時。当時、あまりにも勉強しなかった私に付いた家庭教師が教えてくれた。

初期のハマショーのカセットテープをわが家に持参した大学生の家庭教師は、勉強もロクに教えないでハマショーを解説してくれた。

いま思えば、とても良い学習時間だった。

あれから30年、、、というと「きみまろ漫談」みたいだが、年月を経てハマショーの歌う世界も、主人公が若者から大人、そして中高年の世界へと移ってきた。

「若者の熱い反抗」みたいな世界が、「然るべき大人の達観」みたいな路線につながっていったわけで、リアルタイムでその流れを共有できたことは幸運だったと思う。

たかが音楽、されど音楽。長年連れ添ってきたような楽曲が持つ力は想像以上に人の心に大きい影響を与える。ここ5~6年の間にそんなことを実感するようになった。

願わくば、何年後か分からない次のコンサートツアーにも今回のような気持ちのままで参加したい。

いまふと思った。生まれ変わるなら何になりたいって聞かれたら、間違いなくこう答える。

「ハマショーになりたい!!」