2018年8月31日金曜日

高級炊飯器に興奮する


時々、まっすぐ帰宅して家で飲むことがある。レトルトや冷凍モノが中心だが、私はかなりのストック魔なので、ツマミに困ることはあまりない。

今年になって知ったのが冷凍の枝豆がそこそこ美味しいということ。食べる前まではそんな気色悪いもの食えるかいって感じで敬遠していたが、ある日、ダメ元で試してみたところ、下手な居酒屋の枝豆よりマトモで感心した。以後常備品になった。

冷凍庫には常にスジコなんかもストックしている。枝豆にスジコ、それにツナ缶をあけてマヨ醬油でちょろっと味付けすれば、アッという間に小鉢3品である。


ふるさと納税に励むようになってから、冷凍物が増えたのでそれ用の冷凍庫を買った。ウナギから松屋の牛丼までてんこ盛りだ。

ちょっと値の張る高級冷凍シュウマイなども家飲みの際の強い味方になる。単純明快にウマい。他にもレトルトシチューやハンバーグもあるから、小鉢の後の重いツマミも何とかなる。便利な時代だと思う。


こちらは沼津の渡辺精肉店という店のオリジナルのコンビーフだ。結構な人気を集めているらしい。ふるさと納税の返礼品にもなっていたので、さっそく入手した。

以前、革命的にウマいコンビーフをここで紹介した(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/10/blog-post_26.html)が、こちらのコンビーフはまた違う種類の美味しさだ。

味が優しい。正直言えばちょっと薄いぐらい。脂のギトギト感もなく実にアッサリしている。逆にちょこっと好みの味付けを加えればいろいろな楽しみかたが出来る。オススメだ。

家飲みの場合、炭水化物までたどり着かないことが多いが、週末になるとせっせとコメを炊く。休日の私の楽しみはウマい米を食べることである。

コメの銘柄がどうだ、炊き加減がどうだとここでもアレコレ語ってきたが、より大きな喜びを手にするために高級炊飯器を衝動買いしてしまった。


なんでもイマドキの炊飯器は圧力系と非圧力系に別れており、主流は圧力系だという。難しい話はよく分からないが、硬めのコメが好きなら間違いなく非圧力系が最適だという話を耳にした。

圧力系のほうがもっちりした仕上がりになり、非圧力系のほうがしっかりと粒立った感じになるらしい。もちもちした炊きあがりは好きではない。当然私が気になるのは後者だ。

で、非圧力系で良さそうなものを探してみた。各メーカーのフラッグシップ炊飯器の中で非圧力系を採用しているのは三菱製だけだとか。結果、私の選択肢はそれだけである。

定価は10万円以上もするらしい。でもネットで見ると実売価格は5~6万だった。不思議なもので5~6万だと聞いたものをその値段で買うのは勇気がいるが、10万オーバーと聞いていたのが5~6万だと喜んで買ってしまう。

そんな流れで衝動買いである。なんだか興奮する。「高級炊飯器を買っちゃう自分」って結構いい感じだ。“こだわりの男”みたいで素敵だ!

コメを美味しく食べたいのは日本人の根源的な欲求である。いっぱしの顔をしたオジサマとしてその欲求には忠実であるべきだ。

もう何年も前に離婚して引っ越しする際に、他の家電とまとめて買ったテキトーな炊飯器を使い続けているようではコメ好きの名がすたる。

というわけで、おニューの炊飯器を日々研究している。驚くのはコメの銘柄があらかじめ30種類ぐらい登録されていて、それに最適な炊き加減をコントロールしてくれる機能だ。まあ、そんな機能がどれほど正しいかは分からないが、何だかワクワクする。



他にも炊きあがりに硬さが5段階、粘り気を3段階ごとに任意に選べる。私の場合は「硬めマックス、しゃっきり度マックス」で決まりである。残念なのは早炊き機能を使う際には、そうしたワザが使えないことだ。

これまでも早炊き機能ばかり使ってきたから、悠長に1時間もコメの炊きあがりを待つのがかったるい。ニュー炊飯器でも主に早炊きだが、それでも粒立ったコメの炊きあがり具合は私を幸福にしてくれている。

実際のところ、これまでの炊飯器と比べて10倍もウマくなったわけではないが、コメのツヤ感や甘味を以前より強く感じるのは確かだ。前の炊飯器より3倍ぐらいは美味しくなったと思う。

早炊きだけでなく、銘柄別炊き分け機能で「ななつぼし」や「つや姫」を炊いてみた。みずみずしいのにベチャっとはならないのが嬉しい。適度に冷めた時にコメの旨味を強く感じる。結論から言えば、買って正解だったと思う。

今度の休日には朝から晩までいろんなパターンでコメを炊きまくってみようと思う。

デブまっしぐらである。

2018年8月29日水曜日

赤坂離宮の焼きもの


無性に中華料理が食べたくなることがある。理由は分からないが、周期的に頭の中が中華思想?になる。

温めた紹興酒が飲みたい時にそういう発作が出るのだろうか。暑い夏でもなぜか紹興酒は燗酒にして飲みたい。邪道といわれようが砂糖もぶち込んで飲みたくなる。

先日、赤坂離宮の本店に行く機会があった。赤坂サカスのエリアにある。ロースト系の料理に定評がある有名店だ。


香港あたりに行くと店先にぶら下がっている鳥や豚のローストばかり食べる。街中を歩いていてもこんな画像をつい撮りたくなる。

空腹じゃなくてもこういう肉のぶっかけご飯をかっ込む。まるでお茶でも飲むようにいつでも口にしちゃう。私にとっては飲み物みたいな存在だ。

蜂蜜などが入ったタレを何度も重ね焼きするらしいのだが、甘味がある脂の風味が最高だ。そんな路線のウマい料理が「赤坂離宮」のウリの一つだという。なぜ今まで行かなかったのだろう。


ダックの窯焼き、窯焼きチャーシュー、皮付き豚バラ肉のクリスピー焼きの3種盛り合わせである。

小さいサイズだが、4~5千円の値付けだった。この手の料理が好きなら高くは感じない。「これだよ、これ!」と叫びながらワシワシ食べた。

焼きもの系の雄?である北京ダックは1本からオーダーできたので、同行者にはそれを2本あてがい、私はこの「焼味盛り合わせ」をほぼ占拠して味わう。至福である。


こういうローストっぽい料理は「外側」を楽しむものだが、中の肉質もとても良い。もちろん外側の旨味、食感ともに文句なし。こちらはダックのアップ画像。

この3種盛りをツマミに酒が飲めれば、それだけで私は満足だ。正直に言えばこの盛り合わせをおかわりしてダラダラ飲んでいたい。

でも、ちゃんとした中華料理屋さんでそういうフラチな過ごし方は出来ない。いくつか他の料理も注文する。



タマゴとエビの炒めと五目焼きそばである。何の変哲もないこういう料理こそ店のレベルを知るには近道だ。どちらも優しい味なのに適度なパンチもあって気に入った。

別な日、ちょくちょく足を運ぶ維新號の銀座新館へ。フカヒレの姿煮はココだと勝手に決めている私だが、もちろん、スター料理であるフカヒレ以外にも美味しいものはいくつもある。

維新號といえば肉まんファンにとっても有名だが、その流れを汲む「肉シュウマイ」が絶品でいつも注文する。

それなりの中華に行くと、ついつい定番の高級料理に目が行きがちだが、あえてそこで肉シュウマイである。これがまた酒に合う。紹興酒だろうと焼酎だろうと何でもアリだ。画像がないのが残念。でも見た目はただのシュウマイだから、名物のフカヒレに比べると地味だ。


中華の高級店に行った時の楽しみはシメのチャーハンかもしれない。パラパラ感が楽しめるだけでなく、その店独自のオリジナルチャーハンが楽しい。満腹なのに食べられちゃうのが問題ではある。

維新號のチャーハンの中で私の好物は岩海苔チャーハンだ。シメに最適だと思う。磯の風味がしっかり感じられるから、チャーハンなのに後味がサッパリ感じる。


ウマい料理を紹興酒とともに味わいながらホロ酔いになってくると、私の悪いクセが頭をもたげる。

紹興酒を食事相手に勧めながら「いい色だろう。これって何から出来ているか知ってる?」と真面目な顔で尋ねる。

相手の答えを無視して「実はこれ、中国の人の汗なんだよ」とつぶやく。その昔、祖父が語っていたブラックジョークの受け売りだ。幼い私はビビッたものだ。

こんな趣味の悪い話をするとたいていの人はギョッとした顔をする。それもまた、いとをかしである。

2018年8月27日月曜日

鮨處やまだ 目からウロコ


某日、中学高校の2コ下の後輩から連絡をもらう。「予約が取れない寿司屋に行きましょう」とのこと。後輩は本業の社長業の他、銀座に飲食店を二つ構え、あの街で夜な夜なブイブイ言っている豪傑男である。

先約の会食があったので、夜の9時半に合流。会食の席ではその後の寿司のためにチョロチョロと肉をつまむだけにしたが、酒も入っていたし、あまり空腹ではない。

私は結構大柄なほうだが、後輩はもっとデカい。よく食う男だし、こりゃあ付き合うのが大変だと思いながらお寿司屋さんに突入する。

聞くところによると、その店は「つまみ無し、おまかせの握りだけ」というスタイルだとか。おまかせ一辺倒の寿司屋は私がもっとも苦手なパターンだ。少したじろぐ。


店の名前は「鮨處やまだ」。カウンター8席だけのお店で、40代の大将が独特な寿司を握る。熟成させた魚を使うことでも有名らしい。

特筆すべきは値段だ。おまかせ15貫で1万円。それが基本。足りない人は追加するスタイル。銀座では考えられない価格設定である。聞けば聞くほど何となく不安になる。

で、食べてみた。後輩が店の大将と親しいおかげで、気兼ねなくその場の空気に馴染ませてもらえた。まあ、その部分が私の印象を左右しているのも事実だが、感想としては「目からウロコ」である。1本取られたって感じ。



空腹ではなかったのに、15貫すべてを美味しく食べた。ただただ握りだけ。ガリすら出てこないのだが、ガリの必要性を感じないような展開だった。食後に苦しくなることもなかった。

握りが小さめという理由もあるが、単純明快にウマかったせいだろう。ツマミを並べてダラダラと酒を飲みながらシメに握りを3つ4つというパターンに慣れ過ぎた私にとっては物凄くインパクトがあった。

寿司の原点ってこういう感じなんだろう。ある意味、「銀座の寿司屋」という一種独特な世界へのアンチテーゼと言える。

ツマミと握りで一人あたり2、3万取るのがアノ街の寿司屋にとっての「普通」だ。さすがにマズい店は少ないだろうが、酒を飲みながらどうってことのない料理と特別面白くもない握りを出されて一人3万円などという世界はスットコドッコイである。

多くの人が「銀座だから仕方ない」みたいな思考停止になりがちだから、大した腕もないのに甘い商売をやっている店もある。

そういう意味では、「鮨處やまだ」の世界観?はアリだと思う。あのレベルの握りをテンポよく堪能して明朗会計で済む。純粋にお寿司が好きな人ならヘビーユーザーになるのも分かる。

大将はコワモテではないが、そこそこ個性的で、「自分が客だったらこんな店には来たくないです」と平気で言うようなタイプだ。

客に緊張を押しつけるような職人さんではない。寡黙な修行僧みたいな様子で仕事をしているわけでもなく、相応の偏屈ぶりが垣間見える程度である。

なかなかの腕だと思う。まずシャリ自体がウマい。それに加えてネタとのバランスやシャリの握り加減が抜群だった。どれをとってもネタとシャリが完璧に一体化していた。

熟成させた魚の旨味の引き出し具合をはじめ、酢締めの加減、火を入れた青魚系も握りになった時の完成度が高かったのが印象的だ。

ただし、また行きたいかといえば微妙ではある。ただただウマい握りだけを堪能したい時には最適だろうが、なかなかそんな機会はない。

あえて言えば、「寿司屋に行く」というより「ウマいメシを食う」という使い方の店なんだと思う。変な言い方だが、それがピンとくる。

寿司屋と一口に言っても、飲み屋っぽい路線や小料理屋みたいなパターン、はたまた、ある種の社交場みたいになっている店もある。

良い悪いではなく、それが歴史のなかでの進化だ。ただ、もともとは屋台で握りをポンポンと頬張って終わりというのが寿司の姿だ。

そういう意味では、四の五の言わずに握りだけを楽しませる店が一つのジャンルとして確立されるのは自然なことかも知れない。こういう路線が好きな人には良い店だと思う。

ウマい寿司を堪能した後は後輩の馴染みのクラブで深夜まで痛飲。真面目に寿司文化を語り合おうかと思ったのだが、我が母校ではアホバカ連合の直系にあたる?先輩後輩という間柄である。結局、とことんバカ話で騒ぐ。

気付けば、寿司屋もクラブ活動も後輩にゴチになってしまった。先輩として実にヤボである。反省。

イキがって寿司を語っている場合ではない・・・。

2018年8月24日金曜日

ウズラにハマる。


先週末、暇にまかせてウズラの卵と格闘した。半熟のウズラ卵が無性に食べたくなって、ネット上に飛び交うレシピを参考にあれこれ試してみた。


焼鳥屋さんで出てくるウズラの卵はそのほとんどが「普通」である。でも、なかにはワオワオ叫びたくなる極上モノもある。

極上モノすなわち半熟である。普通の鶏卵だって半熟はウマいが、あっちは一口で食べないとタラリと黄身が垂れたりしてザワザワした気分になる。溢れ出た黄身が皿の上に流出すると負けた気がする。

その点、ウズラは当然一口でパクッである。可憐なサイズなのに嚙めばトロッとした黄身が恥ずかしそうに口の中に広がる。おしとやかな感じが好ましい。

おまけにウズラの卵の場合は、一個と言わずに複数楽しめるのが良い。


この画像は某焼鳥屋さんでの1枚。ウズラの卵を1本だけ頼んだのに「失敗して爆発しちゃったからオマケで食べて」というビミョーな展開になった時のもの。食べ過ぎである。

で、台所でウズラの卵と格闘した話である。半熟にするための茹で時間もネットで調べた。諸説あったので何度か試した。私の好みは沸騰したお湯に「2分10秒」である。5秒単位でシビアに茹で加減が変わるから大変だった。

ザルに入れたウズラの卵を沸騰した鍋に入れて、ちょこちょことザルのなかで動き回るようにする。こうすることで黄身が中心に収まりやすいらしい。

キッチンタイマーがピースカ鳴ったらすぐに水でシメてしばし冷ます。それから殻をむく作業である。これもネットで便利な方法を知ったので試してみた。

タッパーなどのフタ付き容器に殻つきのタマゴを入れて、20回ぐらい軽めにシャカシャカすると殻にヒビが入る。その状態で水に浸すと殻と白身の間に水が入ることでペロペロンと簡単にむける。

実に簡単だった。プレーン状態ならこれで完成。もちろん、そのまま食べてもウマい。トリュフ塩を散らして食べてウマい。でも、それだけでは面白くない。

で、ジプロックの登場である。蕎麦つゆをタップリ入れてウズラの卵に浸かってもらう。味付きタマゴへの挑戦だ。この日使ったのは濃縮2倍タイプの蕎麦つゆ。

2時間、4時間経ったところで味見してみたが、今ひとつパンチに欠ける。6時間程度経ったところで、さすがに待ちきれずに引き上げる。

で、フライパンにつゆも多少入れた状態で焼く。つゆの焼ける風味がアクセントになる。ウズラに少し焼き色がついたぐらいで完成。

熱しても半熟はキープされている。蕎麦つゆの甘味も加わり抜群の仕上がりだった。涙が出るほどウマかった。健康上の問題さえなければ一気に20個でも30個でも食べられそうな感じだ。

必死に格闘していたので製造過程や完成状態を画像に残すことを忘れてしまったのが残念である。

次回はウナギのタレに漬け込むことを考えている。他にも数限りないほどのアレンジが出来そうだ。しばらくウズラとの闘いを楽しもうと思う。

ということで、今日はオチがないのでウズラの卵ではなく、親のほうの串焼きの画像をあげてみる。


銀座6丁目にある焼鳥の老舗「鳥繁」で注文できるウズラだ。これで1500円ぐらいするので安くはない。でも、なかなかお目にかかれないし、野趣あふれる串にかぶりついて、この店独特の注ぎ方で供される酒をかっ食らうのは幸せだ。

ついでにいうと、この店のシメの定番であるドライカレーは“タンスイカブラー”にとっては魅力的である。

ウズラの話の結論がドライカレーになってしまった。

デブならではである。

2018年8月22日水曜日

ゴリラよりも


今日は単純明快に下世話な話です。

「アイツ、馬並みらしいぜ」。男なら誰もがそんなセリフを羨望の思いで聞いたことがあるはずだ。

私も同じだ。馬並みの持ち主である友人と会う時は普通の話をしていても、彼のモノのことがついつい頭に浮かぶ。なんだか口惜しい。

デカけりゃいいってものではない。そんなことは半世紀も生きていれば分かっている。女性もそう言う。たぶんマナーだろう・・・。

でも、馬並みではない私としては、馬並みに生まれついた男が気になる。

そいつより勝っている部分はないだろうかなどと無駄な競争意識すら芽生えてしまう。切ないことである。


無料のアダルト動画を見る際にチラチラ出てきて邪魔でしょうがない広告もソッチ系が多い。

「飲むだけで驚きのサイズに!」、「かんたん日帰り長大術で自信アップ」みたいなグッとくる?誘い文句のオンパレードである。

飲むだけでそんなになる薬があるなら世の中の男は全員デカチ〇になってしまう。ついでにいえば、大事なところの周辺にメスを入れて根っ子を引っ張り出すなんてオッソろしくてカネをもらってもイヤだ。

でも、ああいう広告があふれていることは世の男性がいかにその長短?に問題意識を抱えているかの証だろう。

だから馬並みという言葉に絶望や羨望、憎悪や憧憬といった感情がわき起こるわけだ。

馬の交尾シーンをネットか何かで見たが、さすがに馬並みという言葉の語源だけのことはある。デカい。

しかし、しかし、ここで朗報である。馬の交尾って一瞬で終わるらしい。一瞬というのは大げさかも知れないが、ホントにすぐ終了するんだとか。

あんなにエラそうにデカいクセにアッという間に漏れちゃうらしい。カッチョ悪いぜ、お馬さんよ~!と叫びたくなる。

その事実を知って以来、馬並みという言葉がちっともうらやましくなくなった。「馬並みイコールすぐに出ちゃうヤツ」である。

「馬並みじゃなくてゴメンね」という私の口グセも考えようによっては大人の余裕を伴う謙遜みたいな意味になるわけだ。

よしよし。

世の中の大半の人が馬並みではない。そういう人達にゼヒ知って欲しいのが次に紹介する事実である。

霊長類の中では人間が圧倒的にデカチ〇である。これって結構凄い。なんてったってあのゴリラよりも人間のほうが圧倒的にデカいらしい。

ゴリラのアレのサイズは3㎝、オラウータンが4㎝、割と頑張ったチンパンジーで8㎝なんだとか。人間圧勝である。勇気づけられる話だ。

なんでもゴリラはオス一頭にメスが複数で暮らすハーレム生活を習性としているから、他のオスと競い合うことがなく、結果、コンパクト化につながったんだとか。

人間の場合、ハーレムじゃないからそうはいかないという指摘が聞こえてきそうだが、ここで大事なのはハーレムか否かではない。

3㎝で用が足りるという事実である。あんなに胸をポコポコ叩いて勇ましいくせに、生き物として最も大事なアノ行為に際しては3㎝で勝負しているわけである。

見かけの立派さなど意味はないという教訓に充ち満ちた話である。

「ゴリラよりデカいんだぜ。試してみるかい?」

そんなセリフを武器に残りの人生を戦っていこうと思う。

2018年8月20日月曜日

あいみょん バンド練習


「あいみょん」という女性シンガーが人気だ。過激な詩の内容が若い人にウケているらしい。私もミュージシャンの真似事をしているから頑張って聴いてみた。

で、「貴方解剖純愛歌 〜死ね〜」という曲にちょっと感動した。オトナ的ナナメ目線では、アザとく感じる人もいるだろうが、単純に歌詞にパワーがある。若者のいじらしいホンネを描いている。ぶち殺したいほど好きという歌だ。

https://www.youtube.com/watch?v=IL35V9wYr-U

西野カナの世界観とはまったく別の一種異様な切なさである。椎名林檎の系譜、いや、昔の戸川純の流れといえるかもしれない。

さて、音楽活動の話である。わがオジサマバンドの今年のライブは11月中旬に南青山のライブハウスで予定している。あと3か月だから結構マジメに練習に励んでいる。


演目も9割がた固まった。バイオリンやキーボード、コーラスをこなす我が姪っ子が今になっても、当日参加できるか不透明なのがちょっと問題である。

基本的に彼女が欠席する場合に備えた構成で準備を進めている。“賑やかし”の音色が無い前提であれこれと考えているせいで、ギターメンバー達がいろいろと創意工夫を凝らしている。

その成果もあって、なかなか面白い仕上がりになってきた。あと3か月もあればより練れてくるだろう。私としてもキレのあるMCネタを考えないといけない。いや、ちゃんと歌の練習に励まないといけない。

私が作詞、友人が作曲したオリジナルも2曲だけ披露する予定だ。子どもを想う切なくも美しい親心!を描いた新曲も完成した。

サビの高音が出ないというボーカルの私の致命的な問題が発覚して、メロディーラインを一部変更してもらった。詩も微調整してうまく収まった。

タイトルは「たからもの」である。親子の絆がテーマだ。昨年はオリジナルとして友を悼む歌と不倫の歌を披露したから、来年は我がバンドの愛妻メンバーをイジりつつ中高年夫婦の愛の歌でも作ろうかと考え中だ。

いつの日か、名曲だらけ!!のオリジナルだけでライブをやりたいものだが、そんな構成では“無観客ライブ”になっちゃいそうだからそうもいかない。

今年の演目は14曲ほど。再演曲はほとんどない。一から練習してきたので結構大変だったが、なんとかメドもついた。あとは曲の合間の小ネタや私のMC台本が手付かずだが、そこは大した問題ではない。

そういえば今年は新たに「笛男」も参加する。フルートである。一部の曲だけだが、我がアコースティックバンドの音色に彩りが加わるから頼もしい戦力だ。


笛男さんは某メンバーの友人で我々と同じ歳だ。私は今年初顔合わせだったので、練習後の飲み会では彼に馴染んでもらおうといろんな角度から攻めている段階だ。

「スコラ」や「GORO」のヌードグラビアでは誰にお世話になったのか、嫁とはどのぐらい仲が良いのかなど、1ミリも音楽に関係ない話で攻め込んでいる。

彼はおとなしい雰囲気の紳士である。バンド活動を楽しんでくれているのか、まだちょっと分からない。心配だ。

もっともっとワイ談攻勢を仕掛けて、1日も早く我らが変態オヤジ同盟に馴染んでもらおうと思う。

2018年8月17日金曜日

若気の至り精神


無理に若作りしているオッサンは嫌いだが、たかだか50歳ぐらいで枯れた雰囲気を漂わす男も好きではない。

そういう人はたいてい“男引退”みたいな言動が多い。「いい歳して・・・」「いまさら・・・」「この歳になって・・・」みたいなフレーズばかり使う。

別に中年だってアイドルに夢中になってもいいし、トライアスロンを始めたっていい。相席屋でナンパに励んでもいいと思う。わざわざ進んで枯れちゃうのはバカみたいだ。

落ち着きと覇気が無いこととは別モノだ。分かったような顔で若々しい行動を頭から否定するのは愚かだ。

とか言いながら、私もそんな態度を取ってしまうことはある。加齢の問題点の多くがそこかもしれない。

若気の至りという言葉はネガティブな意味で使われがちだが、中年世代はあえて「若気の至り精神」を取り戻さないと老け込む一方だろう。

面白いもので、若い頃は早く大人になりたくて背伸びしがちだ。私もそうだった。いま思えばトンチンカンである。

大人になりたいから、子どもっぽいことを否定し始める。ハジケたいのについ抑えてしまう。自ら去勢しているようなもの。つくづくムダな心掛けだった。

私の場合、40代を過ぎた頃からオトナぶることに限界を感じて、まあまあ自然体でいられるようになった。おかげで何となくラクになった。

バンドを組んで人様の前で歌うなんて昔は考えられなかった。30代の頃だったら「そんなのやってられるかよ」的な斜に構えた態度に終始した気がする。

さすがに無鉄砲になっちゃうのはマズいが、何でもかんでもオトナブレーキをかけるのは人生の損失だろう。

まあ、分別ヅラでじっとしている方が何かとラクチンだから、そうなっちゃう中年の気持ちも理解できる。でもそればっかりでは日々の暮らしが退屈になる。

その昔、フラれるのが格好悪くて遠回しに女性を口説いていた私も、今ではすっかり直球勝負になった。「白黒ハッキリせんかい!」ぐらいの勢いで攻めるようになった。 ような気がする。

エログッズを持参したら軽蔑されるのではとオドオドしていた若き日の私も今はいない。「物凄いヤツ買ってきてやったぜ!」ぐらいの恩着せがましさで突き進むようになった。

男たるもの、気持ちよがってる姿なんて見せてはいけないと我慢していたのも遠い昔だ。今では「ウォーウォ-、オーマイガッ!」などとアメリカのポルノ男優並みの雄叫びをあげるようになった。

ちょっとウソです。

「若気の至り」に話を戻す。若さは愚かさと表裏一体ではあるものの、何かに一心不乱になる情熱や真っ直ぐさは尊い。オジサマ達も時には見習いたいものだ。

それがたとえ真っ当な趣味とかじゃなくても、何かに没頭したり、真剣に向き合える対象があることは幸せだ。

犯罪じゃなければエグいことだってエロいことだって構わないと思う。何に関してもシラけた顔で達観したような態度しかできないオッサンよりはマシだ。

外見を必死に若作りしたって限界があるんだから、気持ちの面で“子ども返り”するのが正解だろう。

俳優の香川照之がEテレの番組で必死になって昆虫と遊んでいる姿を見るたびに、あの子ども返りした姿をうらやましく思う。

誰もが若かった日々に小っ恥ずかしいようなことに夢中になったことはあるはずだ。今になってそんなことに再トライするのも悪くない。

私の場合、少年時代は野球ばかりしていた。いま必死に野球をやったら骨折とか熱中症で死んじゃいそうだから困ったものである。

その後、四輪駆動のクルマに凝りまくってオフロードを攻めに行くサークルに入っていたこともある。思えば私以外のメンバーはオッサンばかりだったが、彼らの顔はいつも子どもみたいに無邪気だった。

ダイビングと水中撮影にもバカみたいに熱中した。病的なほどのエネルギーだった。自分にあんな情熱があったことが今では不思議に思える。

四駆ツーリングと潜水道楽はそれなりにやりきった気もするが、無理して新しい趣味を見つけるより原点回帰して再び熱中するほうが簡単そうだ。

いや、その考え方自体がが“守り”に入っているのかもしれない。

我がバンドメンバーの同級生の友人が作曲教室に通い続けて、無事に全課程を修了したそうだ。オジサマの挑戦として素敵な話である。

刺激を受けた私もこっそりとシナリオライター教室の資料を取り寄せたりしていることは内緒である。

相変わらず話がまとまらなくなってきた。暑さのせいだ。

オチが思い浮かばないから、私のケッタイな若気の至りエピソードを紹介する。ファッションモデル?を体験した話だ。

ガラにもないことに手を出すぐらい好奇心が旺盛だった。バカみたいだけど適度なバカのほうが楽しい気分になるのは確かだ。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/05/blog-post_14.html




2018年8月15日水曜日

8月15日だから


今日は更新をサボります。穴埋めとして過去ネタを2つ載せます。硬軟それぞれ一つづつです。



源氏名についての話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/09/blog-post_10.html



もうひとつは終戦記念日にちなんだ話

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/05/blog-post_18.html



2018年8月13日月曜日

家族とか夫婦とか


「家族という病」「夫婦という他人」「極上の孤独」。ベストセラーになった下重暁子氏の新書シリーズだ。それぞれサラっと読んでみた。面白かった。いちいちウンウンとうなずける話が多かった。

平たく言っちゃえば、家族なんてあんまり期待しちゃダメ、夫婦なんてしょせん他人だ、一人で生きるのが快適だといった趣旨である。

お説ごもっともである。というか、イヤミったらしくいえば、こんな当たり前のことが支持されてベストセラーになることが世間の硬直化を表しているのかもしれない。

家族の絆は何よりも美しい、独身でいることは罪だ、みんなで一緒に連帯しましょうといった意識は一種の社会規範になっている。それが間違いだとは思わないが、闇雲にそれだけが絶対のように押しつけられるのは違う気がする。

家族が原因の不幸もあるし、夫婦関係で人生が壊れることだってある、仙人のような一人暮らしに無上の喜びを感じる人もいる。

当たり前だが、心が平穏であるかどうかは人それぞれだろう。事情を知らないヨソの人が杓子定規に価値基準を押しつけるのは醜いことだ。


先週、“元家族”と2泊3日の旅行に出かけた。今年も草津温泉である。離婚してから6年ぐらい経つのだが、夏の小旅行がなんとなく恒例行事になってきた。

このブログでも何度か書いてきたが、下の子はダウン症だ。何だかんだと手がかかる。

高校生の娘とは二人で旅行に行ったりするが、息子と二人での旅はちょっと厳しい。でも息子にもそんな楽しさを味あわせたい。そんな理由で元家族旅行をするようになった。

わが家のダウンちゃんは来年には中学生になる。チン毛ボーボーだから母親や姉と女湯に行かせるわけにもいかない。すぐに行方不明になりかけるし、男手として何かと私が奮戦することになる。

元嫁さんともさすがに小旅行の際は普通に過ごす。いまさらギスギスする必要もない。みんなでワイワイと食事をしたり、ボウリングに励んだり、カラオケをうなったり、花火をして楽しく過ごした。


で、人並みに家族というものの良さを感じてきた。気ままな独り身の快適さは何よりだが、家族単位で過ごす時間は、それはそれで趣がある?のも確かだ。

子ども達とのたわいの無いやりとりの中で成長を実感したり、親として喜んだり心配になったり、そういう一連の心の動きが、日頃ボケーっと暮らしている私にとっては人生の一種の潤滑油になっている。

もちろん、別々に暮らしていても子ども達のことはしょっちゅう考える。でも3日間とはいえ、ベタベタと一緒に過ごしたことで見えたものや感じたことは普段とは少し違う。

良くも悪くもいろいろな感情が湧き出てくる。それもこれも家族を持ったこと、子どもを持ったことで得られたわけで、今現在はどうあれ、そんな境遇を経験したことは幸運だったと感じる。

この時期、戦争関連のドキュメンタリーなどで若くして戦死した人達の話に触れる機会が多い。

家族を持ちたくても叶わなかった人、恋愛すら知らずに逝った人、幼子を残したまま無念に散った人。そんな先人達の犠牲を考えると、なんとなく自戒の気持ちが強くなる。

もちろん、冒頭で紹介したベストセラーのように家族という存在への過度な期待は自分の首を絞めかねないことも理解できる。親子という関係が絶対的なものでないことも現実だ。

シンドイのなら無理して家族を続ける必要はないと思う。頑張ってダメならしがみついたって仕方がない。スッキリした方が賢明だろう。

とはいえ、ただ安直に「家族なんて脆く幻みたいなものだ」と切り捨てちゃうのはさすがに淋しいことだ。それはそれで意味はある。

子どもに恵まれなかった夫婦でも、お互いをいたわりあって、長い年月を経た後は、互いが自分の一部みたいになる人もいる。そこで得る感覚や感情はやはり貴重なものだと思う。

親子関係にしても、確かに絶対は無いのだろうが、それでも「ほぼほぼ絶対」みたいなレベルにあることは間違いない。

個の時代と呼ばれる今、結婚に興味を持たない若者が増えている。その気持ちも分かるが、若いうちから刹那的にならずに、一度ぐらい家族作りにトライするのも悪くない。

ダメならダメでしょうがない。何とかなる。・・・はずだ。無責任なようだが、そのぐらいのノリで向き合わないと始まらないと思う。

そんなことを書いていると、まるで私が家族を求める淋しいオジサンみたいである。ちなみに、いまさらまた家族を作ることなど1ミリも考えていない。これから人に気を使って生きるのはキツい。無理だ。

70歳ぐらいをメドに生活の本拠を介護付きの施設にする計画も立てている。それが淋しいことだとは思わない。そこを拠点に外では好き勝手に出来たら最高だろう。

なんだか話がまとまらなくなってきた。

草津で花火をした際に指にヤケドをした。今も頻繁に薬を塗っているのだが、痛々しい指先を眺めながらも微笑ましい気分になる。これも子ども達のおかげだ。

花火の相手が違う相手だったら、指先を見るたびにイラついたかもしれない。

そんなもんだと思う。

2018年8月10日金曜日

プルームテックに手を出す


プルームテックという電子タバコをちょくちょく使うようになった。生粋の愛煙家?としてはちょっとシャクだが、便利だから状況に応じて普通のタバコと使い分けている。


電子タバコといえば「アイコス」が定番みたいだが、プルームテックも急速に普及しているようだ。特徴は匂いがほぼ無いことだ。

煙はそこそこ発生するのだが、水蒸気のような煙だからすぐ消えるし、何よりも匂いが無いから使い方によっては禁煙の場所でもコッソリ利用できる。

禁煙の場所ではホントは使ってはいけない。私だって一応わきまえているが、人間だからインチキもしたくなる。人の目がなければ禁煙の場所でもプハプハしてしまう。

トイレでコッソリなんてパターンは案外多くの人がやっているかも知れない。高校生みたいで情けないが、禁煙ファッショの昨今だからそんな活用法もありえる。

私の知人は禁煙の場所でプルームテックを使う場合、煙を吐き出す時におしぼりを口に当ててごまかすらしい。なるほどって感じだ。

良い子はマネをしてはいけない・・・。

長距離路線の飛行機でビジネスクラスぐらいの座席感覚があって、なおかつナイトフライトで消灯されていれば、はっきり言ってプルームテックを吸っても周囲にはバレないと思う。

あくまで例え話である。そのぐらい周囲に煙や匂いを撒き散らすことがないという例え話である。

電子タバコはタバコの葉っぱを燃焼させる仕組みだが、本物のタバコとは似て非なるモノだ。タバコのほうが断然ウマい。

それでも、「ビタシグ」などの代用品に比べれば、レッキとしたニコチン吸入グッズなので「タバコが吸いたいぜ」という欲求にギリギリ応えてくれる。

ビタシグについて考察した話はコチラ。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/07/blog-post_5.html

アイコスのほうが本物のタバコに近いが、あれは私の美意識?ではNGである。箱からストローで牛乳をすすっているように見えてしまう。中途半端に思える。

プルームテックの利点はライターも灰皿も不要なところだ。もちろん、充電という面倒な作業が必要だが、複数のプルームテックを用意してアチコチで充電しておけば何とかなる。私も最近ようやく慣れてきた。

電子タバコに手を出したのには理由がある。自社ビルの老朽化で、近い将来、職場が移転する可能性が出てきたためだ。

今は社内の空きスペースでスパスパできるが、移転したらそうもいかないだろう。匂いの無いプルームテックに慣れておけば、タバコに厳しい環境に変わった時に便利だと考えたわけだ。

おまけに今の我が家は禁煙条件の賃貸マンションである。だから基本的にタバコはベランダで吸う。でも、室内でスパスパしちゃうこともある。そうするとやはり匂いが残る。退去の際のトラブル回避のために、室内ではプルームテックを中心にし始めたわけだ。

ちなみに、子ども達と会う時にも今までは基本的にタバコを我慢していたのだが、プルームテックなら気にせずプカプカできる。これが一番便利さを実感している点かもしれない。

なんだか言い訳ばかり書き連ねてしまった。愛煙家にとって邪道?な電子タバコに手を出してしまったことに一種の敗北感にも似た気持ちになっているのも確かだ。

ハヤリものに乗っかってしまった居心地の悪さというか、ラーメン屋に並んでしまうカッコ悪さみたいなヘンテコな気分である。

まあ、こればっかりは仕方がない。そういう時代だと居直ろうと思う。切なる願いは電子タバコの一層の進化である。

ハッキリ言ってタバコの美味しさには遠く及ばない。まだまだ“ナンチャッテ”のレベルである。

発売当初はクソマズかったノンアルコールビールが徐々に進化してそれっぽい味に近づいているように、電子タバコもステップアップして欲しい。

2018年8月8日水曜日

ななつぼし スペシャル茶漬け


美味しいコメが食べたい。昔からコメには妙に執着心が強く、いろいろな銘柄を試してきた。

もちろん、どんなコメだって炊き方が正しくなければダメだし、炊飯器の個性によっても出来上がりは変わる。一般家庭レベルでは一概に良し悪しを判断できない。


最近私がハマっているのが「ななつぼし」である。北海道のコメだ。「ゆめぴりか」をイマイチだと感じていたせいで、北海道産を敬遠しがちだったのだが、ある時、「ななつぼし」が抜群にうまく炊けたので大好きになった。

ここ数年、「つや姫」を中心に食べていたのだが、浮気心は常にあって、ネットに出回っている品種ごとのコメの特徴などを調べていた。

多くの人が好む「コシヒカリ」は私の好みではない。粘っこい感じのコメにちょっと抵抗があるので、「ササニシキ」のようなアッサリ系を年柄年中探している。

食感の評価はなかなか難しい。人によっては粘りけが強くモチモチなコメを絶賛する。炊くときの水加減でも印象は変わるから、クチコミはあまり頼りにならない。

私の場合、言葉にするなら「粘りけが少なく粒感があってハリがある」ようなコメを求めて迷走し続けているわけだ。

「ななつぼし」を東芝製のわが家の炊飯器で炊く場合、コメ2合なら水を1.6合あたりの目盛りに留めて「早炊き」機能を使う。今のところこれでバッチリだ。

「つや姫」、「あきたこまち」あたりが主流だった我が家のコメストックはだんだん「ななつぼし」ばかりになってきた。

硬めに上手く炊けたコメの美味しさは“汁っぽく”味わう際にも際立つ。お茶漬けにしてもコメの粒感が負けないからグジャグジャした印象にはならない。


夏バテ対策でちょくちょく食べるスペシャル茶漬けの画像だ。見た目は美しくないが、これが結構ウマい。胃腸が疲れているときにも最適だ。

具材は、梅干し、海苔の佃煮、鮭のほぐし身、なめ茸、すぐきが基本だ。焼きタラコを載せることもある。

これらの具材は混ざり合ってもそれぞれの味を壊さない。混ざったら意味不明になっちゃう組み合わせとは違い、ミックスされてもそれぞれの味が台無しになる感じはない。

効能はよく分からないが、梅干しは夏バテ予防の王道だし、なめ茸はネバネバ効果がありそうで、すぐきも発酵食品である。きっとヘルシーだろうと勝手に思い込んでいる。

思い込みもまた大事である。

スペシャル茶漬けを食べる時は、お気に入りの唐津の抹茶碗を使う。結構な値段の作家モノなのだが、小どんぶりサイズで使い勝手が良い。何より「唐津の抹茶碗でお茶漬け」という贅沢感がお茶漬けのシャビー?なイメージを払しょくする。

これまた思い込みである。

ここ2週間ぐらいで朝食にこのお茶漬けを4回も食べた。朝からハンバーグでもカレーでも食べられるタイプの私だが、さすがに暑さのせいで弱っているみたいだ。

弱っていても食べないのは悪循環だから、サラッとかっ込めるお茶漬けがこの時期はオススメだ。


そういえば先日、酷暑の中、神宮球場で友人達と野球観戦という名の飲み会をした。汗を異様にダラダラ流しながらビールをカピカピ飲んでいたらプチ熱中症みたいにダルくなってしまった。

ダルさに加えて3時間ぐらいナゼか片耳が聞こえなくなるという体調不良に陥った。幸いにも野球観戦後の飲み屋で水ばっかり飲んでいたら復活できた。大事に至らなかったのはスペシャルお茶漬けのおかげだと思っている。

やはり思い込みは大事である。

2018年8月6日月曜日

官能的か保守的か


新しくなったトヨタクラウンが売れている。発売1か月で月間販売目標の7倍の受注があったとか。


「いつかはクラウン」。昭和のキャッチコピーだ。憧れのマトだったクラウンもレクサスの台頭で、その位置付けがビミョーになっていた。

ノンポリのオッサンが選ぶクルマ(失礼!)というイメージを払しょくするためか、一気にスポーティーさをウリにしてイメチェンを図ったのだろう。

確かにクラウンにしては攻めたデザインだ。個人的には欲しくはない。乗り心地も走りも装備も絶対に間違いのないレベルにあることは分かる。でも興味が湧かない。

歴代のクラウンよりはスマートだと思うが、あまり色気を感じない。欲しいと思わない理由はそこだ。

もっと言えば、スポーティーさを目指した「無理やり感」が目についてしまう。大胆なデザインに進化してきたレクサスLSのほうが曲線の使い方が巧みでさすがに色っぽい。

単なる道具だと割り切れば色気もヘチマもないわけだが、クルマに嗜好性を求めた場合、「色気」は大事な要素だと思う。

色気というか、官能的というか、セクシーというか、表現は抽象的だが、そういう興奮系?の気分にしてくれるクルマが好きだ。

車庫に向かい、クルマの顔を正面から見て、ドアを開けてシートに座り、エンジンを始動させてハンドルを握る。この段階で気分をアゲてくれるクルマを相棒にしたいと思う。

気分をアゲてくれるのは五感に響くすべての部分だ。ドアの開閉音、シートのホールド感、ステアリングの手触り、いろいろなスイッチを押した時の指の感触などなど。そういう細かい点に納得できたらベストだ。

ヘンテコな例えだが、何度も懲りずに肌を重ねたくなる女性も同じだろう。顔だけ、スタイルだけといった部分的な魅力だけでは長くは続かない。総合力こそが決め手だ。

私がいま乗っているのはイタリア車だ。フェラーリではない。ランボルギーニでもない。そんな高いのは買わない。買えない。

イタ車はすぐ壊れるイメージがあるが、私のクルマは1年経った時点でまだ一つも不都合は起きていない。酷暑にも耐えている。

色気に惹かれて選んだ。欧州車の中でもドイツ車とは違うスケベセンス?はなかなかのものだ。イタリア的美意識みたいな矜持を随所に感じる。

クルマに限らず、色気のあるもの、艶っぽいもの、官能的な匂いのするものには魅力がある。50歳を過ぎ、そろそろ枯れてくる年代だからこそ、そういう感覚には執着していたい。

私が身につけるもので唯一真剣に向き合うのが靴だが、こちらも色っぽさを基準にしてしまう。

紳士靴の最高峰と言えば英国の誇るエドワードグリーンやジョンロブになるのだろうが、それとは別に色気のカタマリのようなイタリア製も大好きだ。ステファノブランキーニあたりの個性的な色気は、もはや一つの文化だ。


色っぽいもの、官能的なものを突き詰めると質実剛健や合理性とは別なこだわりやゆとりにつながるのだろう。ムダに思えるような部分にもあえてこだわることがオツというわけだ。

そうは言っても、その部分が「これ見よがし」になっちゃうのはカッチョ悪い。「さりげなく」が大事だと思う。

話は飛ぶが、色気がある人といえば、男女を問わず割とさりげなさの中に艶っぽさを感じる。これ見よがしな「叶姉妹」よりも「木村多江」のほうが色気を感じるのもそこが理由だろう。画像はネットから拝借しました。スイマセン。


いま何かと話題のネット洋服屋さんの社長がSNSで発信する「これ見よがし」な感じが世間のオトナ達をイラつかせている。

まあ、やっかまれるのも当然なほどのお金持ちだから仕方ないが、あのさりげなくない感じは確かにスマートではない。いわば色っぽくない。叶姉妹的である。

随分と話がとっ散らかってしまった。

なんだかんだと書いてきたが、私自身はコンサバを重視する保守的な傾向も強い。だから大胆な格好も出来ないし、屁の突っ張りみたいな小っぽけなこだわりだけをイジイジと守っている。

もっと色気や艶っぽさを前面に押し出してみたいが、“保守ブレーキ”が邪魔をするから、いろいろとあと一歩が踏み出せない。

官能的な生き方と保守的な生き方の狭間で悶々としている。だからいつになっても平凡というワクは超えられず、違う景色を見ることもなく老け込んでいくのだろう。

なんだかビミョーな結論になってしまった。

2018年8月3日金曜日

長嶋一茂と寅さん

長嶋一茂がやたらにテレビに出ている。視聴率男とまで呼ばれているらしい。確かに見ていて面白い。

長嶋茂雄の息子だから子どもの頃から有名人だった。私と一茂は同じ歳だ。私は大の巨人ファンだったから、子どもの頃から新聞や雑誌で一茂情報を目にしていた。

その後、大学生になった私は、クラスメートになった友人が六大学野球のマウンドにあがると聞いて神宮球場に応援に出かけた。相手は立教である。主軸打者は一茂だった。

我が友人はいとも簡単に一茂にホームランを打たれた。友人ピッチャーと一茂ではオーラが違っていたことを思い出す。

その頃、なぜだか街で一茂を見かけることが重なった。いつも場所は六本木。常に一茂は綺麗な女子を連れていた。

我が友人ピッチャーは、ずんぐりむっくりした体型で苦学生を絵に描いたような男だった。それに比べて一茂の颯爽とした感じはまさに異人種。当時、スマートな野球選手は珍しかったので印象的だった。

その後、一茂は紆余曲折を経て今のポジションにたどり着いた。

バカ息子だのボンボンだの言われた一茂もとっくに50歳を超えた。今になって人気が沸騰した理由は、彼が漂わす独特の居直り感と達観だと思う。

偉大な長嶋茂雄の息子に産まれて、同じ野球の道を選んだものの大成しなかったわけだから、ああ見えて葛藤やストレスは凄かったはずだ。

あの余裕と居直りは間違いなく今の年齢だからこそ滲み出てくるものだろう。

何かにしがみついてない感じとでも言おうか。媚びへつらわず、あくまで我が道を行くマイペースな言動がウリになっている。

中高年にとっては大事なことだ。大事だけどなかなか実践できないのが現実だ。あちこちに気を使い、しがらみに縛られている中高年のほうが圧倒的多数である。

一茂の自由さは中高年にとって痛快に映る。同年代であれば、かくありたいと願う人も多いはずだ。

ちょっと大げさだが、今の一茂人気は「寅さん」的な意味合いがあるのかもしれない。

フーテン暮らしで気ままな寅さんに昔のオジサン達は拍手喝采を送った。真面目にコツコツ働く現実の生活をひととき忘れるために寅さんに夢を託したわけだ。

一茂にも似たような要素がある。ムダに明るいし、我が道を行く的な無頼な言動は独特だ。日々窮屈に暮らしている中高年にとっては一種の清涼剤みたいなものだ。

朝のワイドショーで見る一茂はヘンチクリンなことをしょっちゅう語っている。話している内容はさておき、見習うべきは予定調和をまったく気にしない姿勢だ。

なーなーでコトを済ますことに慣れてしまった世の中から見ると妙に新鮮に見える。いいぞ一茂!

私もすっかり一茂ファンになってしまったようだ。

今日は中高年にとっての「居直る」ことの大事さをアレコレ書くつもりだった。その一例として一茂に触れるつもりだったのに、結局、長島一茂論に終始してしまった。

2018年8月1日水曜日

六本木 ウニホリック ウニの夜


夏休みの娘からアレコレと誘われる。スポンサーとして引っ張り出されるわけだが、先日は「ウニ専門レストラン」に行きたいとのこと。

ウニのウマいヤツは上等な寿司屋で食べるのが鉄則だと正論を振りかざしたのだが、娘としてはインスタか何かで見た“映え”そうな店に行くことが第一目的らしい。
仕方なく従う。

出かけたのは六本木の「UNIHOLIC」(ウニホリック)という店。レストランというよりウニ居酒屋、ウニバーといった風情の店。


若い頃は私もウニと名がつけば何でもかんでも嬉しく食べた。年とともに銘柄や産地やミョウバンがどうしたこうしたと面倒なことを言うようになった。残念なことである。

初心に戻って好奇心旺盛にどんなウニだろうと喜んで食べようと思ってメニューを吟味する。なかなか面白いメニューがある。若者ウケするはずだ。

とりあえず、種類と産地の違う生ウニの3種盛りと変わった味付けの3種盛りを頼む。

生ウニはフツーだ。それよりも画像奥の3種盛りのほうが興味深かった。

見た目ではちっとも分からないが、右からウイスキー漬け、塩麹、山椒塩での味付けである。ウイスキーはラフロイグだったかボウモアだったか忘れてしまったが、ソッチ系の煙っぽい風味をまとっていた。

ハイボールを飲んでいたので妙に合う。悪くない。というか、ツマミとしてはかなりウマい。お寿司屋さんで生ウニを食べ比べることが絶対だと信じている私には新鮮だった。


これはウニとアボカドのユッケ。フツーに美味しい。この店でもそうだが、いろんな店でわざわざ肉にウニを乗っけて食べさせるパターンを見かけるが、アボカドに混ぜるぐらいの方がアザとくなくて良い。


ウニパスタである。フツーに美味しかったけど、クリームの味が強くてウニ風味がイマイチ。これならディープな街・巣鴨の名門酒場「千成」のうにスパゲッティーのほうがオトナとしては嬉しい。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/02/blog-post.html

食べ盛りの娘はツマミよりもメインを多めに食べたいようで、「南部鉄器で炊くウニいくらご飯」なるムホホな一品が出てきた。



使用前使用後?の画像だ。当然グチャグチャに混ぜあわて食べてこそ美味しい。特に特徴はないがフツーにウマい。

全体としてフツーだった。それはそれで良かった。

その後、ミッドタウンに移動して虎屋茶寮でかき氷。宇治金時タイムである。さっきの食事の反省会のようにウニに関するウンチクをしばし語る。


やはりウニはお寿司屋さんで食べるのがベストだ。塩でウマいウニ、醬油のほうがウマいウニ、握りにしてもウニによっては海苔の有り無しで味わいが変わる等々のウザったい話を聞かせる。

邪道な方向に走ったり、見た目が面白い食べ物を求めるのはカッチョ悪いとクドクドと娘を教育する。娘はウザそうな顔で聞いたふりをしている。

娘には早くからさまざまなものの本質を知って欲しいといういじらしい親心である。

結局、コンサバなものにこそ本質があるなどと保守的な話を得意になって語った。

とかいいながら、普段の私は馴染みのお寿司屋さんで「ウニをパフェみたいに盛りつけてちょうだい」などと邪道極まりないことを言っている。


こういうのは娘には内緒である。