2017年6月30日金曜日

財布の話


風水だの方位だのそんな迷信じみたことを気にするようになったのは40歳を過ぎた頃だったと思う。

若い頃は無頓着だったのに不思議だ。自分のパワーが弱ってきたのか、はたまた厄介事が多くなり過ぎて一種の神頼みに走るようになったのか。自分でもよく分からない。

引っ越しの方位は気にするのに旅行の目的地は好き勝手に選ぶ。気にしたら不便で仕方ないから、自分の都合に合わせて方位などは無視する。その程度だ。

過剰に意識するとカッチョ悪いから適度に気にする程度が無難だろう。

今日、こんな話を書き始めたのは、先日会食を共にした人が財布への妙な執着心を語っていたから。金運、財運、ナントカ運等々、財布の効用を必死に語っていた。

一応、関心があるフリをして聞いていたのだが、その人はたいして成功している人には見えない。ザクザク稼いでいる感じでもない。

なのに金運、財運は財布で決まると力説していた。ヘビ皮っぽい変な色の財布を私に自慢しながら四の五の語っていた。

確かに風水的な視点で財布を選ぶ人は少なくない。色の違い、形状の違いで金運が上がるとか散財するという話はよく耳にする。

二つ折りより長財布が良いとか、黄色の財布は財運が良くなる、赤い財布は赤字につながるからダメ等々、とかく財布をめぐるウンチクは多い。

私も一時期、バーガンディー、すなわちワインレッド系の財布を持っていたが、“赤系”は金運が悪くなると誰かに言われて渋々変えたことがある。

やっぱり悪い話を聞かされちゃうと気になる。でもお気に入りの財布を変えちゃった自分の俗っぽさがイヤになった。それ以来、「財布学」みたいな話は無視するようにしている。


いま使っているのは紺色の長財布である。画像だと黒っぽいが実際には青みが強い。昨年、イタリアのボローニャにあるテストーニのアウトレットショップで買った。

これみよがしのブランド品を持つのはシャバダバだ。ミーちゃんハーちゃんとは無関係なイメージのテストーニならダンディー路線を目指すジェントルマン!には丁度いいと思っている。

一時期はあえてノーブランドのコードバンの長財布を使っていた。コードバンの上質なしっとり感は大人向きだ。ことさらロゴをひけらかすブランド品より無地のコードバンのほうが断然オシャレだと思う。

安い財布は金運に恵まれないなどと言う人がいる。この画像の財布は確か8割引のセール品。価格的には金運を呼ばない財布だ。大きなお世話である。

ちなみに財布の値段を200倍するとその人の年収が分かるというヘンテコな説がある。年収1千万円の人は5万円の財布、年収2千万円なら10万円の財布なんだとか。

この画像の財布の値段を考えると私の年収は300万円程度ということになる。バカみたいな俗説だ。それじゃあ一度も怠らずに払い続けている養育費の方が高いし、年間のデート代にもなりゃしない(ウソですよ)。


妙に分厚くなってしまうのが私の財布の宿命だ。クレジットカード、免許証、保険証をはじめ各種の会員証や診察券だけで結構かさばる。ハマショーのファンクラブ会員証まである。一種のお守りだから外せない。

カード中心の生活だから札束はさほど入っていない。札束で財布が膨らむような富豪になりたいが、実際には内側のチャック付きのポケットにアレコレと余計なモノを入れちゃうから膨らむ。

財布に余計なモノが入っていると財運が逃げると言われるが、私にとっては余計なモノではない。

一番かさばるのが家のカギだ。以前、職場に鍵を置いたまま飲み歩いて深夜に帰宅してから気付き、結局、家に入れずホテルに泊まったことがあった。

あの時の絶望感というか、世の中から捨て去られたような疎外感が恐怖のトラウマになって予備のカギを財布にしまっている。

イマドキのマンションは電子キーだ。結構デカい。邪魔だけど仕方がない。その他、お守りやヨーロッパの教会でもらった奇跡のメダルとか、女性との決戦の際に必要なモノとか、外せないモノばかりだ。

大金の味を財布に覚えさせるという名目で常に大量の札をわざと入れている人がいる。私の場合、財布は既にパンパンだから無理だ。札束の味より肥満体質を覚えさせてしまったみたいだ。

ちなみにこれを書くにあたって青色系の財布の風水診断を見てみた。いわく「青は流れる色。お金が出ていく財布」だとか。

おいおい!って感じである。まあ、私の財布は青というより紺である。きっと大丈夫だ。

2017年6月28日水曜日

夫婦の絆


小林麻央さんの話題でメディアは持ちきりだ。34歳という若さでの非業の死。想像を絶する無念さだっただろう。

ニュースを見た人の感慨は人それぞれだ。夫や兄弟、親の立場など我が身に置き換えてそれぞれの角度からの痛みを感じたはずだ。

なかでも「夫婦の在り方」という視点で様々な捉え方をした人は多い。仲良し夫婦、仮面夫婦、ベテラン夫婦から新婚夫婦に至るまで夫婦という形を取っていれば、相方との別れは必ず訪れる。

その時のことを思い、自分だったらどうなってしまうのか、何を感じるのか、どうすべきだったのか等々、それこそ答えのない課題を多くの人が考えさせられた。

最期の言葉は「愛している」だったそうだ。正直言って驚いた。幼い子どもを残して逝ってしまうわけだから、普通だったら旦那より子どもへの思いが優先しそうな気がする。

それ以前に、最後の最後に自分のキツさではなく他者への意識が残っているものだろうか。私だったらおそらく痛いだの苦しいだのヒーヒー言ったまま終焉を迎える気がする。

最期の瞬間に他者への愛を語れるような精神性を持つ人がいるとしたら素直に凄いことだと思う。

結婚生活からFA宣言してしまった私は「夫婦」という形に馴染めなかった人間だ。原因をあげればキリがないが、私自身に「無垢な心」が欠けていたこともその一つだと思っている。

無条件に相手を信頼することが家族としての最低条件だろう。まさに無垢な気持ちで接することが出来るかどうかだ。

私も親や子に対してはそういう感覚を普通に持っているが、結婚相手にはそうした感情を持ちきれなかったわけだ。

もちろん、元は他人だから肉親と同じであるはずは無い。でも、歳月を共に過ごすうちに徐々に肉親と似たような家族感覚が芽生えてくるのが世の中の夫婦の基本だろう。

私の場合、5年経とうが10年経とうが、自分の深層心理の中で相手を他人として見ていた部分が強かったのだと思う。

胸襟を開けなかったというか、腹のウチを開けっぴろげに見せることが出来なかったわけだ。そうしようと頑張る努力を怠っていた部分もある。

「夫婦なんてしょせん他人」。そんな刹那的な思い込みを改善しようとしなければ、いくら歳月を積み重ねても、以心伝心など無理な話で、ベテラン夫婦が持つ独特な「絆」など生まれるはずもない。

まあ、そんな自己分析をしてみたところで、これまでの経験を後悔しているわけではない。正直、反省もしていない。強いて言えば自分の思い込みを柔軟に見直そうとしなかった点だけは努力不足だったとは思う。

とはいえ、根っからの自分の性質が招いた結果である以上、単に必然だったと思うしかない。後になって“たられば”を考えたって無意味だ。違う相手だったら自分が開けっぴろげになれたかもしれないし、何回結婚したって常に胸襟を開けなかったかもしれない。

もちろん私だって、絵に描いたような穏やかな家庭生活に憧れはある。映画「男はつらいよ」では、旅先で目にする平凡な家庭団らんの姿に寅さんがしょっちゅう胸を打たれている。私もいつも激しく共感する。

生まれ変わったらメジャーリーガーになりたい、ミュージシャンになりたい、はたまた理系の頭脳が欲しいだのとヘンテコな夢想をする一方で、穏やかな家庭を持ちたいという願望は結構強い。

そんなことを言ったところで、10人に8人ぐらいは信用してくれないのだが、割と真面目にそんなことを思っている。「隣の芝生」みたいなものかもしれないが。

まあ、ホントにそう思っているなら、そうなるための努力を惜しんではいけないのについつい余計な邪念が邪魔をする。

うーん、書けば書くほど自分の至らなさが残念である。我ながら自分の薄っぺらい感じが身に染みる。

気晴らしに今夜もどこかに繰り出して闇に向かって吠えてみようと思う。

2017年6月26日月曜日

タンスイカブラーな暮らし


いつの頃からか炭水化物が悪者扱いされるようになった。糖尿系の人や肥満体質の人なら仕方ないが、普通に健康な人まで過剰に意識しているケースが多い。


ご飯や麺、パンといった食の世界における主役達がターゲットだから制限している人は大変だろう。食事を御馳走するこっちだってハタ迷惑である。

「わたし、炭水化物は食べないんです~」とか言われるとゲンナリする。一時的なダイエットならともかく、それがライフスタイルかのような言い方をされるとモヤモヤする。

パリコレのモデルじゃあるまいし、何を寝ボケたこと言っとるんじゃいワレ!って感じだ。

大人になるまでにどれだけの炭水化物にお世話になったか分かっているのだろうか。大事なエネルギー源である。急に敵視してはいけないと思う。

だいたい、世界中どこに行ったって主食といえば炭水化物である。地球規模で有難く人類を育んでくれた炭水化物を悪く言ってはダメだ。

デブな私が言っても説得力はないが、炭水化物を摂らないと疲れやすくなるうえに脳にエネルギーが行き届かないからボーっとしてしまう。

漠然としたイメージだけで炭水化物抜きダイエットをするのは危険だし、何事も過剰な行為は逆効果である。

「タンスイカブラー」として元気に暮らしている私は、朝食にご飯か麺類を必ず食べる。朝はしっかりエネルギーを摂取しないと脳が動かない。

夜は飲み屋でアレコレつまんで終わりにしたり、焼鳥屋やおでん屋で炭水化物を摂らずに終わることも多いから、朝にしっかり食べても過剰摂取というほどではない。

もちろん、夜も夜でタンスイカブラーになってしまう日もある。でも、そういう日は酒を飲まない日が多いので結果オーライだと勝手に思い込んでいる。



銀座のとあるバーで食べたカツサンドと同じく銀座にある「カーンケバブビリヤニ」という店で食べたマトンのビリヤニである。

こういう画像を見ているだけでヨダレが出てくる。炭水化物バンザイである。


こちらは池袋「牛兵衛草庵」という焼肉屋で出てきた冷やし担々麺である。キムチやチャンジャ、ユッケジャンといった「しっちゃかめっちゃか系」のツマミで焼酎をグビグビした後のダメ押しみたいな感じで美味しかった。

お寿司といえばコメ抜きには語れない世界だが、寿司屋のツマミに目がない私は、握りを食べずに満腹になってしまうことが多い。


とはいえ、握りを食べずに終わるのもカッチョ悪いしヤボだ。いつもそんな葛藤を抱えて少しだけ握りを食べるのだが、そんな気分の時にこの画像のようなアレンジを加えてもらうと嬉しい。

銀座にある「さ久ら」の蒸し寿司だ。いつも白身魚で作ってくれるのだが、この日はアサリ。ダシや酒の風味をまとった暖かいシャリがホッコリした気分にさせてくれる。

最後は私が作った特製チキンライスである。画像ではマズそうだが、こう見えて結構ウマい。自画自賛である。


具材は鶏肉のみ。あとは炒めたオニオンのレトルトを使う。既に飴色状態だから便利かつ適度な甘味が加わるスグレものだ。

塩コショウの他は粉のコンソメやケチャップ、ウスターソースが基本。隠し味としてウナギのタレを少しだけ入れることもある。

料理とは呼べない次元の至極簡単な一品だが、タンスイカブラーにとっては御馳走である。半熟の目玉焼きを乗せてグジャグジャ食べるのも悪くない。

結局、今日は何が書きたかったのか分からない話の流れになってしまった。

とにかく炭水化物を闇雲に敵視するような一部の風潮は正しくない。そういうことである。

2017年6月23日金曜日

冷やし中華が愛しい


6月も後半だ。アジサイの美しさに目を奪われる季節だが、そんなものより心を動かされるのが冷やし中華である。

冷やし中華は6月から本番だ。8月の真夏になるとチョット飽きてくるので今が一番美味しく感じる。


先日、マツコの知らない世界というテレビ番組で冷やし中華にスポットを当てていた。物凄く真剣に、かつ集中して見てしまった。

どことなく中途半端な存在である冷やし中華を多角的に検証する素晴らしい番組だった。

「グルメ雑誌で特集されない可哀想な存在」、「ラーメンを熱く語る人は大勢いても冷やし中華を語る人はいない」、「冷やし中華マニアが専用ツイッターを開設したのにフォロワーがたった一人だった」等々、実に残念な話が飛び交っていた。

蚊取り線香と並んで「日本の夏」を象徴するはずの食べ物なのに、その冷遇された感じは由々しき問題かもしれない。

確かに「冷やし中華はじめました」と日本中で華々しくポスターやノボリで宣伝する割には、ほんの数ヶ月で世の中から姿を消す。実に不思議だ。
ノボリを立てて宣伝するほどスター級の存在なら一年中用意してある店があってもいい。でも、そんな店はまず見かけない。9月も後半になるとスーパーの棚からも消える。

うどんも蕎麦も一年中“冷やし”状態で食べるのに、冷やし中華は秋になったら誰の話題にものぼらない。この国の謎の一つといっても過言ではない。

夏限定といえばソーメンも同じ境遇だが、何となくそっちは気にならない。明らかに差別だが、個人的に冬にソーメンを食べたいと思わないから仕方がない。


一年中冷やし中華を食べたい私は仕方なくタレ(つゆ)だけ買って、普通のラーメンを冷水でシメて秋も冬も春も食べる。

でも、このタレも夏場に買い占めておかないとスーパーの店頭から消えてしまう。実に困った問題である。

冷やし中華が大好物とはいえ、私の場合、外で食べる機会は滅多に無い。本当は食べたい。でも麺だけを大量に食べたいから、余計な具で騒々しくなっている冷やし中華に嫌悪感を覚える。

キュウリを中華麺に合わせようという発想が気にくわない。トマトも論外。“サラダ感覚”みたいなアザという感じが私は苦手だ。

キンシタマゴもちっとも合わないと思う。クラゲの食感も中華麺とは合わない。チャーシューだって冷たいままだとゴワゴワした感じでイマイチである。

というわけで、個人的には「麺とタレ」がすべてで、それ以外は邪魔者だと思っている。偏った意見でお恥ずかしい・・・。

4年前にこのブログで「具が無い冷やし中華が最高」だと力説した。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2013/07/blog-post_22.html

基本的に今も同じ考えだが、素っ裸の冷やし中華ばかり食べるのも切ないので、最近は「おかず」と一緒に食べることが増えた。

具材ではない。おかずである。上に載せない。別皿に盛って麺と交互に口に放り込んで味の融合を楽しむ。

豚肉を炒めることが多い。時には生姜焼き、時には帯広豚丼のタレで味付けしたバージョンなどだ。

おろし生姜は冷やし中華の薬味としても意外にイケるから、生姜焼きは「おかず」としても相性が良い。

それ以外には市販の豚の角煮やシュウマイも冷やし中華の相棒としては悪くない。シュウマイの場合、ラー油、酢、醬油で作るタレにビチャビチャ浸しておくと、冷やし中華の酸味と相まって結構ウマい。

牛丼の具もイケる。我が家には湯煎するだけの松屋の冷凍牛丼がストックされているので、時には牛丼の具に紅ショウガをぶりぶり合わせて、冷やし中華とともに楽しむ。紅ショウガつながりで美味しい。

他にも半熟卵やそぼろ肉、コンビーフ、ザーサイ、ツナも合う。ツナの場合、マヨ醬油と和えて冷やし中華にトッピングしたら斬新なウマさを感じた。

調理などせずにスーパーで売っている出来合いのものでも冷やし中華の世界は広がる。今後の私の課題は「カニ」との組み合わせの検証である。

冷やし中華のタレとカニ酢の“親戚っぽい感じ”を考えたら毛ガニ姿盛りをドカンと乗っけた「富豪冷やし中華」は大いにアリだと思う。

いずれにせよ、キュウリやトマト、キンシタマゴという色彩のためだけの具材に支配されている冷やし中華の姿は、私が愛する冷やし中華とは別モノである。

そっちの王道系冷やし中華が標準であり常識だとしたら、声を大にして私は言いたい。

「常識を疑え!」

2017年6月21日水曜日

男酒


男同士で酒を飲む楽しさは「あけっぴろげ」の心地良さに尽きる。もちろん、男飲みといっても仕事飲みや付き合い酒はダメだ。あくまで親しい友人に限った話。

女性と1対1で飲むのも楽しい。でも、男たるもの、女性を前にすればどこか居ずまいを正したり、カッコつけたり下心と闘ったりするので忙しい。

女性が接客してくれる店も楽しい。お世辞の沼にはまって調子に乗れる。この画像は仮面を付けたまま飲まされた銀座の夜の日の一コマだ。ロス疑惑の三浦さんになった気分だった。ちょっと古いか・・・。



一人飲みも楽しい。でも、時々、内向的な酒になっちゃうので、いつもいつも一人酒というのも考え物だ。

そう考えると親しい男の友人と少人数で飲む機会は貴重だ。気を使わず、むき出しのままのバカでいられる。

先日、野郎3名で飲む機会があった。一人は同級生、もう一人は3つ上の母校の先輩だ みんな同じ小、中、高で過ごした。友人が仕事絡みで先輩に講演会の講師を頼んだ関係での一席。ひょんなことで私も参加。

先輩は築地市場の名物男で、豊洲問題では連日テレビに引っ張りだこの御仁。トレードマークのヨットパーカー姿で居並ぶ大物政治家や学者に挟まれて持論を展開している。

この先輩、べらんめえ調の語り口がウリで、水産資源問題から政治問題まで面白おかしく、かつ分かりやすく話すからファンも多い。

前に一緒に飲みに行った際も街行く人から声援を受けていて少し驚いた。先輩のネット番組の中には100万ページビューを突破するものもあるそうで、いつのまにか「文化人」!?である。

先輩は私の兄の同級生だったので、私自身も子どもの頃から可愛がってもらった。少年のままオジサンになったような人だから、難しい顔をしたエラい人々と渡り合っている姿をテレビ越しに見ると不思議な感じがする。

とはいえ、私と私の友人にとっては大昔のままの愉快な先輩である。この日も難しい話をしたのは合計で3分40秒ぐらいだ。あとはひたすらアホバカ話に明け暮れた。


同級生の友人もこれまた愉快な男。15、6歳の頃、お互いに大柄だったので大学生のフリをしてボトルキープとやらをしてみようと怪しげなパブスナックに出かけた。ビビりながら酒を飲み交わした間柄だ。

あれこれ35年経っても、会うたびにその頃と変わり映えのないバカ話に花を咲かせる。きっと死ぬまで同じような話を続けていくのだろう。

我々が背伸びして遊び始めたのは、世の中が「狂乱の’80年代」に突入した頃である。すべてが脳天気だった時代だ。今もついついオチャラケてしまうのは育った時代のせいである。たぶん。

アホバカ連合の中核だった後輩2名を前に、やはりそっち系?だった先輩もかなりハジケてくれた。

後輩としては先輩を前にもっとキリッとしないといけないのに、フヌけた話ばかり。頻繁に先輩にチャチャを入れまくってワイワイゲラゲラ。

一次会は神楽坂の鰻屋さん。ホロ酔いになるにつれワイ談全開状態。いい歳したオジサマ達がしょっちゅう唇に人差し指を押しつけながら小声を促す。

でも、そういうバカっぽいのが楽しい。中年になると多くの男達がかしこまった顔をして訳知り顔でたたずんでいる。なんだかな~って感じだ。

時にはハッチャけてギャハギャハ騒ぐ時間を持つことは大事だ。そういう意味ではこの日の「むき出しワイ談大会」は貴重な時間だったと思う。

その後、近くにある母校の後輩が営む和食屋さんに繰り出し、蕎麦をズルズルかっこむ。相も変わらず、あけっぴろげなバカ話は続いた。

その後、早朝から仕事がある先輩と別れて、旧友と二人で変なスナック。適当に切り上げて帰ろうとしたら、友人から口直しとしてもう一軒誘われた。

で、夜も更けた頃に辿りついたのが神楽坂の芸者さんが営む隠れ家的なバー。着物姿の艶やかなママさんを相手におじさま二人でカウンター。

こういう店を知っているあたりが、アホバカ連合で愚かさを競いあった友人の頼もしさである。

美しい着物美人を前に超絶怒濤のワイ談はさすがに封印する。ある意味、まっとうな社会生活に戻っていくためのリハビリである。

それにしてもよく飲んだ。一人酒に比べれば3倍、女性としっぽり飲む場合の6倍は飲んだ。帰路の記憶がほぼ無い。

あんなに飲んだらゲロッピーになりそうなものだが、翌朝はスッキリ目覚めた。あけっぴろげに楽しく飲めば肝臓も疲れないのかもしれない。

2017年6月19日月曜日

納税するより寄付したい!?


昼飯を食べない1日2食の生活をしていると「朝のドカ食い」は日常茶飯事である。

前の日の晩にしっかり食べていれば別だが、お酒を中心にちょろちょろしたツマミだけで終わった場合、起きた途端に空腹バリバリだ。


そんな時に大活躍するのが冷凍保存している牛丼の具である。大盛りご飯の上に2袋分をドッサリ乗せて特盛り状態で頬張る。

これも「ふるさと納税」のおかげである。静岡県富士宮市に寄付した際にドッサリ送られてきた。

コメもふるさと納税の御礼品である。2合分の真空パックになっている「つや姫」を山形県のいくつかの自治体から頻繁に調達している。


もはや、ふるさと納税の返礼品抜きでは日常生活が成り立たない感じである。

ふるさと納税といえば、各自治体の間でエスカレートしている返礼品競争ばかりが話題になる。

まあ、話題になればなるほど利用者も増えるわけだから、制度をうまく活用する自治体や納税者も自然に増えていくはずだ。結構なことだと思う。

簡単に言えば、自治体に寄付した金額の分だけ自分の納税額から差し引けるわけだから、この仕組みを魅力的に思わない人はいない。

収入が高ければ高いほど相殺できる金額も増えるので、高額納税者であれば尚更メリットは大きくなる。

制度の功罪はさておき、この制度がポピュラーになるに連れ、国民の間で寄付行為への意識が変わってきたことは注目に値する。いわば、ふるさと納税の隠れた功績だ。

日本では税制の制約もあって、寄付文化が育ちにくいと言われてきた。ふるさと納税のように「寄付した分だけ税金から差し引ける」という認識が広まれば、そんなイメージも変わっていくかもしれない。

ちょっと難しくなるが、「所得控除」と「税額控除」の違いである。

課税される収入の部分を少なく見積もってくれるのが所得控除だが、税額控除は、その人の納税額そのものから寄付した金額をそのまま差し引ける。納税者にとっては分かりやすく、かつメリットも大きい。

一昔前までは税額控除の門戸が狭かったこともあって、寄付する意欲につながらないという側面もあったが、ふるさと納税の流行で少しづつ世の中の空気に変化が出ているわけだ。

というわけで、ここからは、ふるさと納税の陰で見落とされがちな「寄附金特別控除」を紹介したい。

大ざっぱに言えば、この制度もかなりの金額を寄付しても、その分は税金から相殺される仕組みだ。

国や自治体、公益社団法人への寄付だけでなく、「認定NPO法人」への寄付も対象。いわば、自分が納めるべき税金の一定割合までなら福祉活動や各種研究資金などに回しても税額控除の恩典が受けられる。

全国に5万あるNPO法人のうち「認定NPO法人」は1千団体に過ぎないのが悩ましいが、内閣府や各自治体が公表している認定法人の一覧を見ると、それこそ多種多様な団体が含まれている。

自分が関心を寄せる分野に協力したいという人はもちろん、税金の使われ方に不満があるような人も、そうした団体への寄付を考えてみることをオススメする。

ちなみに、小規模ながら障害者支援などの福祉活動に真摯に取り組んでいるNPO法人は星の数ほど存在する。

私自身、下の子どもがダウン症だった関係で地道に活動するNPOの存在を知り、また随分とサポートしてもらった。

小規模で地味に活動する団体の多くは「認定NPO法人」ではない。その場合、やはり寄付が集まりにくいのが現実だ。認定のハードルはそれなりに高いらしい。

いずれにせよ、動機はどうあれ「寄付しよう」という機運が高まることで、小規模で目立たない活動を展開するNPOについても今以上の支援が寄せられるようになれば素晴らしいと思う。

2017年6月16日金曜日

コスプレの奥深さ


「あの人の頭はコスプレ」。カツラ愛用者をそう表現した人がいる。うまいことを言うものである。

特殊な格好をすることで違う自分に変身するのがコスプレだ。言ってみれば女性の厚化粧だって顔面コスプレと言えなくもない。

私も数年前までヒゲをはやしていたのだが、あれだって、ワイルドな男を演じてみたいという意味ではコスプレに似た心理だったのかもしれない。

コスプレはコスチュームプレイを省略した和製英語だが、今ではイギリスの辞書にも載っている国際語として認知されているらしい。クールジャパンから生まれた一つの文化だ。


カラオケボックスでも「コスチューム無料貸出し」という案内をよく見かける。世の中のコスプレ浸透度はオジサマ世代が思っている以上に進んでいる。

ラブホテルなんかでもコスプレ衣装レンタルが人気らしい。昔はなかったサービスだ。若い頃にそんなサービスを目にしたら肝心なことを忘れて着せ替え人形状態で遊んでしまったと思う。いや、きっと今でもそうする。

人間誰にだって変身願望はある。大昔に流行した「聖子ちゃんカット」や、その後に流行したアムラーファッションだって、若い女の子が憧れの有名人のようになりたいという変身願望が背景にある。

スーパー大昔の不良少年達のマッシュルームカットだってビートルズのモノマネだ。いわばコスプレに近い感覚だったのだろう。


一般的に男よりも女性のほうがコスプレに熱心である。普段から化粧をして、バラエティー豊かな服を取っ替え引っ替え着用して、髪型も大きく変えられるから、変身すること自体が身近なのだと思う。

私だってヒーロー戦隊モノの衣装を着て街を歩いてみたいが、一歩目を踏み出す勇気がない。

オジサマバンドのライブのステージ衣装でさえ、せいぜいテカテカ光ったシャツを着るぐらいが限界
だった。

やはり女性のほうが「精神世界を解放する」という悦楽を味わうのが得意なんだろうか。コスプレで嬉々としている女性を見るたびに羨ましく感じる。

人間の性格は、その人の置かれている状況や役割、立場などで簡単に変わるらしい。心理学的に実証されているそうだ。

そういう意味では、コスプレによって違う自分を演じることはかなり刺激的だろう。さまざまな抑圧や規制に縛られている「自分」の殻が一瞬でも破れるわけだから結構な快感を味わえるはずだ。

私自身、自分が女だったら絶対にバニーガールの格好をしてウロウロしたいと思う。銀河鉄道999のメーテルにもなってみたい。

以前はコスプレなんて幼稚でくだらないオタクの遊びだと決めつけていたが、酸いも甘いも通り越して枯れ木みたいな今の歳になると、なんとなく理解できるようになってきた。

コスプレ状態の女性を相手にエロ合戦をしたいから言っているわけではない。いや、それはそれでムホムホするから悪くない。でも、そんなことより「一瞬の現実逃避」という行為の効用に強く共感する。

先日もAmazonでフラチな買物をしようとしていたらコスプレ衣装が際限なく表示されたので、じっくりと鑑賞してしまった。

本格的なものから激安のもの、異様にスケベなものも大量に出てきた。つくづく時代の変化を痛感する。

あんなものが手軽に買えちゃうわけだから、世の中のいろんなハードルが低くなっていることも当然だ。

普段、何でもかんでも分かったようなことを言ったり書いたりしているが、世の中まだまだ知らないことが多い。

ここには載せられないヒミツのコスプレ画像集をこっそり眺めながら、今後もいろんな世界を勉強しようと決意している今日このごろである。

2017年6月14日水曜日

熟成肉と熟女と未熟な男


ここ数年、やたらと耳にするようになったのが熟成肉である。アチコチの店でメニューに見かける。

正直、あまり食べたいと思わない。ちゃんとした専門店ならいざ知らず、テキトーな店だと単なる「腐りかけ」が出てくるような不安を感じる。

気づけば私もすっかり「古いタイプの人」である。何となくハヤリものを斜めから見てしまう。

熟成肉についても変な先入観がある。一種の食わず嫌いである。ちゃんとした熟成肉を提供する店の皆様、どうもスイマセン。


某焼肉屋で出された「熟成特選厚切り牛タン」の画像だ。正直、そんなにウマいと思わなかった。良く言えば味が凝縮されている印象も無くは無い。でも、普通の「特選厚切り牛タン」のほうが3段階ぐらい美味しく感じた。

まあ味覚なんてものは気分に影響されるから「ワオ!熟成だ!」と思いながら食べれば極上の逸品に感じる人もいるのだろう。

熟成させることで旨味が強まることは魚を愛してきた日本人なら理解している。鯛などの白身の刺身なんて活け造りで食べたって旨味など無い。半日~1日ぐらい寝かせたほうが遙かに美味しい。

マグロもしかり。大型になればなるほど寝かせた方が旨味が強まるようだから、ただ新鮮さだけを求めるのは正しくない。

さてさて、熟成した肉の話だった。一般的な特徴は寝かせている間に水分などが抜け、1割~2割も重量が減った分、旨味や香りが凝縮されるということ。

確かにそうなのだろうが、もともと上等な肉なら旨味も香りも良い感じだ。あまりエスカレートさせなくてもいいんじゃないの~とつぶやきたくなる。


こっちは熟成ではない普通の肉だ。脂っぽい肉が苦手な私は見ているだけだが、赤い部分は鮮やかに赤く、白い部分はあくまで白くあるべきと思う私にとっては熟成肉の風情より好きだ。

魚の熟成を大歓迎しているんだから肉の熟成にも寛大になるべきだが、どうも「熟成」という言葉尻を変に気にしてしまう。

熟成と名乗ってさえいればウケる。そんなアザとさにも似た雰囲気がちょっと引っかかる。

「美熟女」みたいな言葉のイメージだろうか!?。「美魔女」という表現よりはマシだが、なんだかワザワザ感というか、無理やり感が強いヘンテコな言い回しだ。

新鮮か、熟しているかー。私の場合、このテーマを考えるとつい「そっち方面」、すなわち下ネタに話が脱線してしまう。

女性との一戦を考える場合、新鮮すぎてもダメだし、熟し過ぎも厳しい。具体的に何歳から何歳までを基準にしているかは人それぞれだが、そんなことは相手との相性次第で変化もする。

小出恵介のような「若けりゃなんでもアリ」という男もいる一方で、私の知人のように「45歳以上じゃなきゃ萌えない」という男もいる。

確かに10代を相手にするのは単なる犯罪だし、20代前半だって似たようなものだ。スタートラインはアラサーぐらいか。で、後ろ側は自分と同じ年ぐらいまでだろう。

まあ、そう言いながら自分の年齢がビックリするほどハイペースで加算されてきたので、実際には同年代とのそうした縁は10年以上前から無くなってしまった。

キャンディーズの名曲「年下の男の子」に憧れて10代、20代の頃は年上のオネエサンを追っかけていた日々も今や昔である。

ちょっと寂しい。でも、さすがにこの歳になって年上と「対戦」する機会は無い。ずっと男子校だったから、中年になってからの同窓会シンドローム的な“事件”にも無縁だ。

それにしても最近つくづく感じるのが、いい歳して妙齢の女性のお尻を追っかけたがる自分の「未熟」ぶりである。そっち方面の脳細胞が30年ぐらい進歩していないみたいでカッチョ悪い。

オトナの在るべき姿とかを得意になって語るクセに頭の中はまるで若造みたいである。ビミョーだ。

自分が60代、70代になった時に『現役』のままだったらどんな状態なんだろう。今と同じ感覚ではさすがに小っ恥ずかしい。いつまでも若い子を追っかける痛々しいオッチャンになるのは避けたい。

その時はキチンと?50代、60代の美熟女サマ達とランデブーしないといけない。今の私にとっては想像できない「未知との遭遇」である。

それはそれで少しワクワクする・・・。

牛タンの話を書いていたつもりがとんでもない結論になってしまった。

2017年6月12日月曜日

Amazon アダルト


今更ながらAmazonの便利さに感謝する日々である。

夏向けに買った靴下や下着もAmazon、週刊誌に広告が載っていた面白そうな本もAmazon、喪服用の黒ネクタイの長いのが急に必要になった時もAmazon、冬に冷やし中華が食べたくなった時もAmazonで買う。

プライム会員になっていると、ヘタすれば注文したその日に配達されるから便利この上ない。「翌日到着」など今ではごくごく当たり前の感覚になってしまった。

頼まれていた北海道土産を忘れた時にもAmazonで速攻で注文すれば翌日には手元に来る。怪しげな買物だろうとAmazonの箱には中味の記載などないから、ゲス100%のグッズを買っても安心だ。

思えば、いつのまにかアダルトグッズの敷居が低くなったのもAmazon効果かもしれない。その昔そうした玩具を入手するのに難儀したことを思うと隔世の感がある。

実は20年ぐらい前に、ひょんなこととひょんなことが重なって、新宿歌舞伎町の大人のオモチャ屋で夜の遅い時間に店番をしたことがある。

結構な繁盛店で、お客さんはひっきりなしに来店する。皆さん入ってくる時は恥ずかしそうだったり、恐い顔を作っていたり、重い空気を背負っている。それなりの勇気を持って店に入ってくるわけだから妙な緊張感があった。

その後、ドンキホーテあたりがそうしたグッズを置き始め、徐々にハードルは下がったようだが、それでもレジに行って対人状態で購入することが出来ない人もいる。

そういう人達にとってAmazonの出現は革命的なことだったと思う。

今の時代、妙齢の女性達は男達が思っているよりそっち系のグッズをフツーに持っている。そんな時代の流れを作ったのもAmazonの隠れた功績?かもしれない。

また品揃えが凄い。何でもある・・・。

まあ、そっちの話題ばかりになってもマズいから軌道修正。


気に入ってたくさんストックしていた日本茶のティーパックが無くなったので、新しい逸品をAmazonで探してみた。

あれこれ試した中でウマかったのがコレ。甘味もあってちゃんと急須でいれたお茶にも負けない程度に美味しい。

焼き物収集に凝った時代が長かったので、私の家には立派な急須がいくつもある。気に入った急須でいれたお茶を、これまた気に入った唐津の湯飲みで味わうのが一昔前の私の風流な姿だったのだが、今ではすっかり堕落した。

今はウォーターサーバーから無印良品で買ったマグカップにお湯を入れてティーパックを投入、ちょろちょろ揺すって蓋をして2~3分蒸らして終わりである。

でも、マズいのはイヤだから今まで何度となく「ティーパックのくせにウマいお茶」を探してきた。そんな私のような横着者にとっては辻利のティーパックは実に有難い存在である。

先日の母の日にはネスカフェのドルチェグストを送った。これまたAmazonで手配した。コーヒーカプセルも適当に付けて登録済みの実家の住所を選んでポチっとクリックして完了。


労力を全く使っていないから大げさに喜ばれたり感謝されると逆に困惑する。そのぐらい「買物」という環境が変わったのだろう。

「楽天」はすっかり使わなくなった。ネットの世界では他の業者より先行した者が勝利者としての地位を寡占状態で維持するものだと思っていたが、そう簡単ではないようだ。

やはりAmazonのスピード感や安定感、サイト上の見やすさ、使い勝手は圧倒的である。10年、20年後にどこまで買物環境が激変するのか興味深い。

2017年6月9日金曜日

高い医者 高い薬


最近は富豪っぽい話を書いていないので、今日は少しリッチ?な話題。

とか言いながら、職場の近くのお医者さんや薬の話がテーマだ。ちょっとシケた話かもしれない。

職場から近い住宅街にある内科・循環器系の某クリニックはいつもガラガラだ。その理由は「高いから」である。

でも、富豪を目指す私はヘッチャラだ。頑張って毎月通っている。ガラガラで待ち時間が無いということは有難い。少々割高だろうとOKである。

だいたい、私のように分刻みで仕事に追われ、いや、分刻みでエロい妄想にふけっていると、病院などでの待ち時間は妄想大王になってしまうから大変である。

そのクリニックには血圧を安定させる薬を毎月もらいに行くのが目的で通っている。しかし、そこの医師は巧妙な言いぐさで3ヶ月に1回は余計なことをする。だから高くなる。

血液検査や首回りの動脈のエコーとか何だかんだとやりたがる。胃腸の内視鏡検査に通う他のクリニックでも似たようなことをしているから、ちゃんと断ればいいのに、気の弱い私はついつい言いなりになる。

ただ血圧を測って薬の処方箋をもらう時の窓口負担は1500円ぐらいだが、3回に1回ぐらいは余計なことをされて7~8千円とか1万円超えの支払いとなる。

あれじゃあ患者が集まらないもの当然だろう。平気で通っている私は実に富豪っぽい。当然の如く、血液検査もエコーの結果も毎度毎度とくに大きな変化はない。

他の病院なども含めれば年に4~5回は血液検査をしていることになる。おかげで一喜一憂することもなくなった。何かの数値が高かろうと次に調べる時は下がっていることが多いから、いちいち気にしなくなった。

最近の尿酸値なんて「6・0」という過去最低値の健康ぶりである。コレステロールと中性脂肪が基準値超えだったが、一割程度のオーバーだから中年男としては、ほぼ満点だ。

でも、考えてみると、そのクリニックへの支払いは年間で5万円以上になるだろうか。血圧の薬と逆流性食道炎の薬代などその他にかかる費用も合わせれば年間で10万円にはなる。

3割負担の残り7割は公費で賄われているわけだから、ニッポンの医療費を考える上では問題かもしれない。

そのほか、3割負担の分としては胃腸クリニックや肺のCTなどに年間5万円ぐらい支払い、軽い導眠剤やタミフルを入手したり、耳掃除も自分でやるのは恐いから時々、耳鼻科に行って数千円は払っている。

風邪もひかず元気に暮らしているのに結構な医療費がかかっている。これじゃあ国家財政が医療費の増加でパンクするのも納得である。

保険負担に関係ない出費としてはハゲ予防の飲み薬と塗り薬に年間で軽く10万円以上かかる。プロポリスやセサミンDHAやビタミン類だののサプリ方面にも年間10万円以上はかかる。

そうだ、青汁にも年間10万円以上支払っている。そのほか、ここでは書けない怪しげなクスリだって結構買っている。

養育費だってウン百万である。コレは関係ないか・・・。

そう考えると、ただ普通に生きているつもりなのに、身体を保つコストとして年間ウン十万円もの支出をしていることになる。

これってどうなんだろうか。本当に必要で、かつ実際に効き目があるのは半分ぐらいなのかもしれない。ビミョーだ。

ちなみに年間のタバコ代は約20万、葉巻代にも優に10万は使っている。なんだかバカな人みたいにも思えてきた。

たぶん今後は、サメの軟骨成分だのグルコサミンだの年齢相応に余計なサプリに手を出すことが予想される。

ちゃんと稼がないと大変である。

2017年6月7日水曜日

カラオケボックスとギター


ホロ酔いで帰宅して、ギターをポロポロ奏でるのが楽しい。マンション暮らしだから、遅い時間だと「音の出ないピック」を使って遊ぶ。

ちゃんとした音が出ない上に酔っているせいで上手に弾けているように感じる。幻聴である。これが楽しい。

3年近く前に突然、神のお告げ?でギターを買って、一応ギター教室にも通った。

やりたくない練習は放棄して、ハマショーを何曲か弾ければいいというノリだったから上達はしていない。

でも、少しは弾ける。飲んで帰ってきたあと、さっさと寝ればいいのに書斎部屋に少し籠もる。5分でも10分でもギターに触れると、なかなか良いクールダウンになる。


つくづく、あの日、神のお告げを真に受けてギターを衝動買いして良かったと思う。人生に少し調味料が加わった感じだ。

日々元気に過ごしているが、どう逆立ちしたって人生後半戦である。暴飲暴食に走ったり、女性の尻を追っかけたり、思い立って旅をしたり、若い頃と同じ“お盛ん”な行動を楽しんでいるが、限界はそう遠くないはずだ。

「老後」という言葉だって確実に自分の身に近づいている。趣味というほどでなくても、自分が面白がれる遊びの素材は多めに用意していた方がいいのだろう。

先日もネットで目についた中高年限定のミュージカル劇団の団員募集という、まるで自分には縁のない広告を熟読してしまった。

その広告を見て一歩踏み出す人は、きっと人生に彩りが加わるんだろうな~などと妙に感慨深く思えた。

シニア世代の時間の使い方や遊び方はこれからのにニッポンにとって大事なテーマであることは間違いない。

まあ、そんな評論家ぶったことを書いてもしょうがない。今後は盆栽に手を出そうか、社交ダンスにチャレンジしようか、はたまた生け花か合唱団なんかも覗いてみようか。

いや、めっきり偏屈になってきたからゲートボールに手を出して地域のお年寄りと知り合いになったほうが孤独死予防に役立つかもしれない。

さて、ギターの話に戻る。

先日、小学校から高校まで同級生だった旧友とカラオケボックスにギターを持ち寄ってダラダラと遊んだ。

30ウン年前の高校生の時に学園祭で即席バンドを組んだ相手である。昨年のオヤジバンドライブでも、私と一緒にビートルズを奏でてくれた男だ。

高校生の頃は、私が作詞して彼が作曲したオリジナル曲も作った。実は最近もオリジナル曲を作って楽しんでいる。

デビューはもちろん、CD化すらされないのにそんな作業に励んでいるのは結構楽しい。

木村拓哉に歌わせたら大ヒットして印税ガッポリとか、こっちの歌は欅坂46に歌わせよう。いや、それだと秋元康に儲けをかっさらわれるなどとロクでもない話でバカ笑いしている。

カラオケボックスに長時間いたのに1曲もカラオケは歌わずに、自分達の若い頃に流行った曲やコテコテの演歌を面白おかしくアレンジして遊ぶ。

銀座あたりのカラオケボックスで深夜にオネエサン相手に奮戦して1曲も歌わないことはあるが、そんなフラチな過ごし方より1億万倍ぐらい健全かつ楽しい時間だ。

カラオケボックスだから食べ物もいろいろあるし、何よりウダウダと酒を飲みながら過ごせる。こういう使い方は大いにアリだろう。

この日のメインテーマは新しいオリジナル曲について。つい最近亡くなった共通の友人を追悼する歌だ。

少し前に歌詞は出来ていたのだが、友人がそれに合わせて魅力的な曲を作ってきてくれた。

暗くなり過ぎないミディアムテンポのメロディーで、ノッペリした私の詩に命が吹き込まれた感じがした。聞かせてもらった途端、恥ずかしながら鳥肌が立った。

この歳になると、日々の暮らしの中で鳥肌が立つ感覚になることなど滅多にない。もちろん、友人には大感謝だが、思いつきでギターを始めたことがそんな体験につながったのなら、私自身の無謀な挑戦も意味があったのだと思う。

「カラオケボックスにギターを持ち込んで遊ぶ」。ちょっとクセになりそうだ。

2017年6月5日月曜日

禁煙と体罰の話


嫌煙ファッショもここまで来ると喜劇のように感じる。「三次喫煙」なる言葉を聞いて思わず笑ってしまった。

受動喫煙が二次喫煙で、三次喫煙とは衣服や髪の付いた煙草の匂いが有害だという話である。いやはや世も末だ。

ここ20年ぐらいの嫌煙ブームはアメリカあたりのヒステリックピーポーが先導してきた。

アメリカ人といえば近世の地球上における大バカ政策の代表である禁酒法を編み出した連中だ。さもありなん。

タバコが嫌いな人は衣服や髪に匂いが付くことがイヤだろうが、「有害物質だ。さあ大変!」って話になっちゃうと何だかズッコケたくなる。

そんな話をタテに今後、国家がアーだコーだ喫煙者をイジめて喜ぶのならタバコ自体を法律で禁止すればいいのに、貴重な税収源だからそういう話にはならない。

なんだかな~って感じである。

いま厚労省が必死で進める飲食店の全面禁煙化が自民党の抵抗で骨抜きになりそうな雲行きである。これに関しては熱烈に自民党を応援したくなる。

自民党だけではない。安倍政権は役所に対して「首相のご意向」の一言で黒を白にしちゃうようだから、次は厚労省相手に突っ走って欲しいものである。

さて、タバコの話ばかりはついつい回顧話をしたくなる。昔の大らかさは今思い出しても別な星の出来事だったかと思えるほどだ。

駅のホームの吸い殻は常に煙りモーモーだったし、飛行機の中でも普通に吸えたし、職場の空気は紫色に見えた。

仕事柄、ヘビースモーカーばかりの職場だったから、私自身のタバコの量も異常だった。灰皿の上でムダにしちゃうことも多かったが、20代の一時期は1日4箱ペースだった。

吸える場所が極端に少なくなった今ではどんなに頑張っても4箱は無理だ。そのぐらい、いつでもどこでも「ノロシ」を上げるかのように煙に囲まれていた。

ちなみに、高校生の頃、しょっちゅう職員室に呼び出される生徒だったのだが、何が印象的だったかといえば煙草の煙と匂いである。

不幸なことに高校2年ぐらいになるとタバコのウマさを知っていたから、職員室がうらやましくて仕方がなかった。

タバコをふかしながら私を叱る先生の前で必死に煙を吸い込んでいた。ひとしきり説教をくらった後は、先生の横に居座って世間話をするふりをしがら副流煙を摂取していた。

当時はすべてが大らかだった。タバコに限らず、今の時代なら社会から糾弾されるようなこともごく普通の日常の光景だった。

良し悪しは別として、大らかだからこそ「加減」を学んだ側面もあったと思う。

たとえば体罰。先生からの鉄拳制裁はごく普通のことだった。小学生の頃からバンバン叩かれたし、グーパンチもドシドシ食らった。

一番ヤバかったのは、高校生の頃、校庭の真ん中に立たされた時のことだ。授業中に教室を追放され、いつものように廊下に立ったのだが、「お前が近くにいるだけで腹が立つ。校庭の真ん中で立ってろ」と言われた。

渋々、誰もいない校庭の真ん中に行き、誰も見ていないだろうとあぐらをかいて座ってボンヤリしていたのだが、授業が終わった途端、その教師がダッシュで校舎の階段を駆け下り、こちらに向かって走ってくるではないか。

鬼の形相である。よくもまあそんなに長く怒りの感情が維持できるものだと驚く。ダッシュで近づいてくる先生は私に近づくと拳を振り上げて走ってくる。そして走ってきた勢いのままグーパンチである。

何よりもその執念にビビった。理性を失った中年男が純粋に怒りにまかせて放ってきたパンチである。教育的指導で殴られる感じとは別次元である。ある意味とても恐かった。

「キレた中年男は危ない」。早いうちに学んでおいて良かったと思う!?。

しょっちゅうビンタやゲンコツを見舞われたが、不思議と先生達を恨んだことはなかった。逆に自己反省につなげた。

自己反省などというと殊勝な少年のようだが、そんな可愛い話ではない。殴られるような悪いことを反省したわけではない。悪いことがバレたことを反省したわけだ。

殴られるのはイヤだ。痛いというより他の生徒の手前、カッチョ悪い。殴られないためにどうすれば良いか。バレないように知恵を絞る必要がある。そういう論法で「要領」や「加減」を身につけた気がする。

社会に出てオトナになれば「加減」や「要領」がすべて?である。その辺が分からないヤボったらしい人はシャバダバである。

それなりに要領や加減を意識しながら半世紀以上に渡って大過なく暮らしている。そう考えると、あの頃、殴ってくれた先生達に改めて感謝したくなる。

脈略のない話でスイマセン。

2017年6月2日金曜日

イクラ健康説


大好きな画像である。今年撮った中で一番好きかもしれない。白米にイクラである。サンシャイン池崎のように叫びたくなる組み合わせだ。

炊きたての白米をハフハフと噛みしめると、イクラから溢れ出すジュンワリとした味わいがコメの香りと混ざり合って口中に広がる。ウットリする。

子供の頃は親の保護監察下にあったから、ドバドバと好き放題にイクラを食べることなど出来なかった。

今は大人だから鬼盛りイクラを楽しめる。
その点だけを考えても二度と子供になど戻りたくない。

ただし、子供の頃には一切気にすることのなかったプリン体だのコレステロールだの痛風だの動脈硬化といった厄介事が大人には付きものである。

で、イクラはそうした「大人の事情」の範疇では、まるで戦犯のようにイメージされる。身体に悪いものの代表みたいな位置付けだ。

確かにコレステロールはそれなりに高いようだが、それでもウナギやシシャモよりは低いそうだ。シュークリームやショートケーキと同程度らしいので食後にそういうモノを食べなければ大したことはない。

痛風の元になるプリン体がブリブリ含まれているというのも誤解だ。どちらかといえばプリン体は少ない方だ。

ネットからパクった100グラムあたりのプリン体含有量を貼り付けてみる。

イクラ 3.7
スジコ 5.7
タラコ 120.7
明太子 159.3
カズノコ 21.9
カニミソ 152.2
ウニ 137.3
アンコウ肝 104.3
鶏レバー 312.2
豚レバー 284.8
牛レバー 219.8
カツオ 211.4
クルマエビ 195.3
鶏ササミ 153.9
鶏モモ 122.9

ホンマかいな?と言いたくなるほどイクラは低い数値である。優等生だ。こんな数値を見ると焼鳥屋さんに行くより寿司屋でイクラばかり食べた方がヘルシーという話になる。


この画像は「鶏レバ炙りポン酢」だ。ほぼナマの状態のネットリとエロティックな絶品である。時々訪ねる豊島区内の焼鳥屋さんで食べる。

レバーの串焼きだったら5本分ぐらいの量だからプリン体ドバドバ状態である。冒頭画像の鬼盛りイクラをあれより5倍10倍食べたとしても、プリン体の面ではヘッチャラという理屈だ。

本当だろうか。メンドーだから本当だと心から信じようと思う。

コレステロールはそこそこだし、プリン体の面では心配ないのなら、なぜイクラには不健康イメージがつきまとうのだろう。

「ブスは性格が良い」みたいな単なる根拠のない思い込みだろうか。きっとそうだと思う。実際にはブスの人々は性格まで歪んでいることも多い。それと同じで、実際はイクラは健康食品なのかもしれない。

あと一つ考えられるのは、昭和の頃の親世代が自分達の好物を子供にガツガツ食べられないように一種の目くらましとして「イクラ悪者説」を仕立てた可能性もある。まさしく風説の流布だ。

確かに昭和の頃のイクラは、今のようにダシ醤油味ではなく塩漬けが主流だった。凄く塩辛かったから塩分を考えると不健康な側面もあっただろう。

まあ、なんだかんだ言って今日の所は「イクラはヘルシー」を結論にしたいと思う。

ちなみに、あくまでヨタ話ですので、大真面目に学術的な反論コメントなどしないでください・・・。