2016年6月29日水曜日

寿司が嫌いなんじゃないか問題


味覚の好みが変わることは何度か経験してきた。若い頃に連日のように食べていた焼肉をすっかり食べなくなったことが象徴的だ。

焼肉屋に誘われてもちっとも嬉しくない。不思議である。一生分を食べてしまったのだろうか。

時々付き合いで出かけてもホルモンやタン塩をちょろっとつまんで焼酎を飲んでオシマイである。

あんなに愛していたカルビは一切れも食べなくなった。裏切り者のようで悔しいが、おそらく狂おしいほどに愛し過ぎた反動だろう。

こんな話を書き始めたのには少し理由がある。私が一番好きなはずの「寿司」に最近なぜかウキウキしない。

気のせいだとは思うが、カルビの二の舞になったらどうしようとアセっている。



なんだかんだ言って頻繁にお寿司屋さんの暖簾はくぐっている。でも以前のようにしっかり食べられないし、食後の感じがどうもスッキリしない。

コッテリしたものを欲しているわけではないのだが、酒も入った後だとサッパリし過ぎてるような終わりかたがピンとこない。

ここ半年ぐらいでそんなことを感じるようになった。私の身体に何か問題が起きているのだろうか。

ひょっとして寿司が嫌いになっちゃったのだろうか。だとしたら大問題である。人生設計?までおかしくなりそうだ。



狂ったように食べていた珍味も最近は人並み程度にしか食べない。健康面では良いのだろうが、なんだか自分がヘタレてきたようでちょっと残念。

画像は高田馬場・鮨源で食べたイバラガニの内子と外子である。なかなかお目にかかれない珍味界の隠れたスターである。

今でも大好きだし、出されるとバンザイと叫びたくなる。でも数年前ならバンザイどころか逆立ちしながら行進できるほど狂喜乱舞していた。

以前なら、さもしい顔でおかわりをねだったはずだが今はこのぐらいの量で大満足である。

往年の剛速球投手が引退して20年ぐらい経ってから始球式に招かれ、山なりのボールを投げるような寂寥感と似ている。

全然違うか。



こちらは銀座「さ久ら」の寿司飯リゾット?である。寿司飯が大好きで普通の握りも好きなのだが、ややジャンク路線に近いこういう一品のほうが食べたくなることが増えた。

加齢とともに味覚は幼稚化するのだろうか。先日も大衆酒場で食べた赤いウインナーに妙に興奮したし、このところ街にあふれるカレーや牛丼の看板がやたらと私の脳を刺激する。

許されることならジャンクなものだけ食べていたいのに、いっぱしの紳士を気取るためにそんな本音を隠して生きてきたことに疲れたのだろうか。

ちょっと大袈裟か。



水道橋の大衆酒場「でん」の骨煮という一品である。たしか300円ぐらいだ。ここ数ヶ月、これにかぶりついている時が一番幸せを感じる。

グワシっと噛みつくと口の中に幸福感が広がる。焼きトン屋だから豚肉だと思うが、何の肉だかよくわからない感じもまた魅力的だ。自分の中の野生が目覚めるような気分になる。

いにしえのテレビアニメ「ギャートルズ」に出てきたやたらとウマそうな骨付き肉を思い出して、子供の頃に戻ったような気がする。



こちらは軟骨煮込みである。ポン酢ベースの味付けだから他の煮込み料理と一緒に頼んでも味がかぶらない。ついつい注文する。

大衆酒場での飲み食いは小一時間だ。40分ぐらいで終わることもある。濃いホッピーをチャッチャとあおって、肉々しいしい食べ物をガッついてアッいう間に出来上がりである。

その安直な感じが心地良い。高級料理屋さんで仰々しい雰囲気の中、前菜を食べ終わったぐらいの所要時間で一丁上がりである。

風流な要素、文化的要素はまったくないが、これだって見方によってはイキな時間の過ごし方である。

まあ、モノグサ、メンドー 億劫といった中高年ならではのワガマママインド?と絶妙に折り合うのが大衆酒場の持ち味だと思う。

「寿司が嫌いなんじゃないか問題」から話が逸れてしまった。


なんだかんだ言って、数ヶ月周期で行動パターンや感覚は変化するものである。そのうちまた今日書いていたことと全然違う路線でアーダのコーだの言い始めるんだと思う。

2016年6月27日月曜日

スーツ、ポケットチーフ、靴

「富豪記者サンはスーツにこだわりがあるんですね」。先日そんなことを言われた。ウッシッシ。してやったり?である。

靴にはこだわりがあるものの、それ以外にはさほど興味がない。トータルで着こなしに気を配るほどセンスもないし、余裕があったら靴を買う。

一応、身体に合ったスーツを着るようにしているが、こだわりなど全然ない。こちらの都合に合わせて生地見本を持ってきてくれる仕立て屋さんに任せているだけだ。

オーダースーツなどというと、大袈裟だが、昔と違って随分手頃になった。それなりにちゃんとした吊しのスーツと変わらない値段で注文できる。

身体に合っていない高級ブランドのスーツより、自分のサイズに合わせて作るわけだから、パッと見は「ちゃんとした人」に見えるはずだ。

私の場合、毎度毎度、どこのサイズも変えずにすべてワンパターンだ。オーダーする意味もないほど、以前に作ったスーツと同じスタイルである。

凝った人なら上着の襟の幅や角度、ベントの有無、他にも股上の深さや裾の幅、ツータックにするかノータックにするかなど作るたびに変えるのだろうが、そんな注文が面倒なのでいつも同じ。

最近では生地見本から選ぶのも億劫になって、仕立て屋さんにあらかじめ候補を絞ってもらってその中から選んだりする。

こだわりのカケラもない。

それでも上着の袖ボタンを通常より多めに付けてもらったり、1カ所だけボタンホールの糸の色を変えたりしているので、そういう細かいところに気づいた人からは「こだわっている人」だと錯覚してもらえる。

そんなオシャレな人のような小細工も仕立て屋さんに教わっただけで、私が編み出したオリジナルなどまるで無い。

にもかかわらず、こだわりのある男だと思われるのならラッキーである。やはり、いっぱしの紳士ヅラして生きている以上、ヨレた格好のイメージではマズい。

なんだかんだ言って、人は見かけで判断される。歳を重ねれば重ねるほど、そんな現実を痛感する機会は多い。

オシャレ番長みたいなオッサンは気持ち悪いが、それでも無頓着なオッサンよりは正しい心掛けだろう。

スーツに関しては割とテキトーなのだが、胸元にさすポケットチーフには少しこだわりがある。いつの間にか随分増えてしまった。


もともとはヘタれた安いスーツの安っぽさをごまかそうと胸に挿し始めたのだが、自分で買ったり、人にねだったりするうちにコレクターみたいになってしまった。

そうはいっても、毎朝無難なヤツばかり選んでしまうので、56種類しか使っていないかもしれない。そんなものである。

靴だって、靴箱に収まりきらずに収納スペースにも保管するほど貯まってしまったが、半年以上、いや1年以上履いていない靴がいくつもある。

センスがあれば、とっかえひっかえ違ったものを身につけたり履いたりするのだろうが、私の場合、たいてい決まったパターンに終始してしまう。

まあ、そのぐらいの感覚でちょうどいいのかもしれない。「意識高い系」などと陰口を言われるのも小っ恥ずかしい。

これからの季節はノーネクタイが基本だ。スーツにノーネクタイだとおさまりが悪いが、ポケットチーフひとつで「身だしなみに気を配っている人」という幻想?を作り出すことができるので便利である。

なんだかんだいって、大人の身だしなみは世間様から「キチンとしている人」に見えるかどうかだけがポイントである。

綺麗に磨いた靴とシワシワじゃないスーツ、ついでにポケットチーフがあれば楽々クリアである。

ということで、靴を買いに旅に出ることにした。靴よりも靴箱問題を何とかしないとならないが、それは靴を買ったあとに考えることにしよう。

2016年6月24日金曜日

ジワる まるっと 神ってる


ヤバいという言葉は若者の世界ではポジティブなニュアンスで使われている。「がちヤバい」だったら「物凄く良い」と同じような意味合いである。

正しい?大人としてはいちいちビックリする。ヤバいといえば、マズい、困ったといったイメージしかない。逆の意味に聞こえる。

バカにされたかと思ったのに褒められていたようなパターンである。いつの世も若者の言葉は不思議だ。

そういう私だって若造の頃は、「マブだちをブッチした」だの「ちょっとタンマ、オジャンになっちゃった」とかホザいていたからイマドキ言葉に文句をつける気はない。

「ナウい」「フィーバー」「話がピーマン」。私が若い頃に既に死語になっていた言葉だが、何より気持ち悪かったのが、当時のいい歳したオッサン達が、そんな言葉をいつまでも得意になって使っていたことだ。

ああいうヘンテコな若者ウケを狙った迎合ほど不快なものはない。いま私が真顔で「チョベリバ」などと言おうものなら周囲500メートルぐらいに冷たい風が吹くと思う。

若い頃、しょっちゅう使っていた言葉を思い返してみた。「ダッシュで来いよ」「ソッコーでやれよ」なんかは普通に使っていたが、いつの間にか絶滅したみたいだ。

高飛車な態度を「タカビー」と言ったり、汚いことに対して「エンガチョ」と叫ぶ人もいなくなった。

全然ジャンルは違うが「ハウスマヌカン」という言葉も突然現れて突然消えていった。「夜霧のハウスマヌカン」というシュールな歌を覚えている人は少数派だろう。

日常生活で困っちゃうのが「ズボン」「トックリ」「チョッキ」である。既に死語のようだが私は今でも口に出して若い人から怪訝な顔をされる。

ズボンはズボンである。パンツといったら下着のことなのに、いつの間にか“ズボン派”は社会から孤立している。

ハイネック、タートルネックでも結構だが、あれはトックリだろう。でも、ネットショッピングの検索窓に「トックリ」と入力しても洋服が表示されないのが実情である。

年に一度のバンドライブのために衣装としてチョッキを作ったこともあったのだが、人様からはベストと言われる。「ジレ」とかいう小生意気な呼び方で語られた時は、ちょっとイラついた。

アッシー、メッシーという男として憤懣やるかたない言葉もアッという間に消滅した。電車にズルして乗る「キセル」も駅が自動改札になったせいもあって死語になった。「ハイソ」は「セレブ」に変わっていった。時代の流れを感じる。

全然脈略がないのだが、そういえば「パツキン」も聞かなくなった。金髪女性の意味だ。いつのまにか「ブロンド」に進化して、その後、日本人の女子が金髪だらけになるにつれ消えていった言葉だ。なんとなく郷愁を感じる。

さてさて、イマドキの言葉の中にも言い得て妙というか、なるほどねえと感心するものは多い。

ジワジワくるの「ジワる」、全部、まるごとを意味する「まるっと」、オラオラしている様子を指す「オラつく」あたりは結構長持ちするのかもしれない。

神がかっていることを「神ってる」と表現するのもちょっとマネしたくなる。まあ、大人が使い出した途端に寿命が尽きるのが若者言葉だから、どれもあと数年もすれば聞かれなくなるのだろうか。

ついでに耳障りな言葉も書いておこう。言葉というか、ヘンテコな語尾の使い方である。

「綺麗だお~」「頑張りまふ」。

こんな感じの不気味な言い回しを目にすることが増えた。中学生や高校生ならともかく、30を超えたような大人が使っていると気味が悪い。

それこそ死語になった「ぶりっこ」的イヤらしさだ。やばたん、つらたん等々、少なくとも大人には使って欲しくない。

こんなことをブツクサ書いていることが老化現象かもしれないが、社会人になったらあまり気色悪い言葉は使って欲しくないと思いまふ。


2016年6月22日水曜日

あっちもこっちも劣化


運動はしない、野菜は食べない、タバコは吸う、酒は飲む、甘いものも食べる。健康管理も仕事の一つだとエラそうに周囲に語る私の日常である。

中高年としてサイテーだと思う。一念発起してキックボクシングジムに通おうと決意してから2年ぐらい経ったが、見学にすら行っていない。

サンドバッグ相手にパンチやキックを繰り出すのは、ヘンテコな機械の上で黙々と歩くよりも楽しそうである。

で、運動するならキックボクシングだと心に決めてからもう何年たっただろう。

少林寺拳法をカジっていた高校生の頃、サンドバッグ相手にガンガン闘うのはとても楽しかった記憶がある。

思いっきり殴ったり蹴ったりする行為など日常生活では有り得ない。サンドバッグがあれば、そんな「夢」がかなう。

とっとと始めればいいのに、腰を痛めそうだなどと弱気な気分になって結局なにもしない。ダメである。

ここ3~4年、体力の低下を痛感する機会が増えた。すべてが錆び付いている。おそらく、青汁とサプリが私をギリギリで支えているのだろう。

最近では「劣化」といえば容姿の衰えを表すイメージがあるが、この歳になるとパッと見の容姿など二の次である。他の部分の劣化が深刻である。

私の場合、ここ数年で視力が一気に衰えてきた。一応、裸眼で過ごしているが、職場はもちろん家中に老眼鏡を置いている。リビング、ダイニング、書斎スペースのデスク、寝室、浴室それぞれに用意してある。

昔は無縁だった目薬もすっかり好きになってしまった。視力は徐々に悪くなってきたので、あまり実感はなかったが、タイムマシンで若い頃に戻ったら一番驚くことは視力の優秀さだと思う。

視力とともに私にとって淋しく感じるのが食事の問題だ。今年に入ってから食べる量が減ってきたことを幾度となく実感している。

まさしく劣化である。今も若い頃と同じだけ食べられたらアホだが、それでもやはり出来たことが出来なくなるという意味では残念だ。

最近、立て続けに若い女性と1対1でお寿司屋さんに出かける機会があった。デートである。

とはいえ、一人は姪っ子、もう一人は娘である。姪っ子も娘もガンガン食べるのに、こちらはヘタれた人生訓を語ってばかりで、ちょろちょろツマミを食べて一丁上がりである。

なんだか自分の存在自体が「昔の人」みたいでイジイジした気分になった。

不思議なもので、食事量が減ったくせにちっとも痩せない。時々やってしまうストレス発散のためのドカ食いや、酔った後のバカ食いのせいである。

もともと高カロリーなものが好きなことも痩せない理由だ。炭水化物が好きで、揚げ物も好きだ。


健康を考えてササミを食べようと思っても、ついついササミチーズフライを注文する。当然、ソースをドボドボかけてムホムホ食べてしまう。

ラーメン屋に行っても普通のラーメンを頼んだことは一度もない。なぜか必ずチャーシュー麺をオーダーする。もはやクセである。

時々無性に食べたくなるマックのハンバーガーだって、ダブルクオーターパンダーやビッグマック系ばかりで、普通のハンバーガーを選ぶことはない。

ついでにいうと、出前を注文する際にも、侘びしい独り者と思われたくない?一心で3人前ぐらい頼んでしまう。

マックデリバリーも一度に5個ぐらい頼む。パンを残して中身ばかり食べれば太らないと思い込み、結局パンは大半を残すものの気づくと全部食べてしまう。

私にとってマック一食分のコストは異様に高い。超贅沢メシ状態である。

食が細くなったと書いているくせにドカ食い話になってしまった・・・。なんだか変な展開だ。

軌道修正。

食べられなくなったのを実感するのは、お寿司屋さんや小料理屋さんみたいな店でチビチビ飲んでいる時だ。

基本的に昼飯を食べないから空腹バリバリで席に着くのに、ビールを飲んで前菜をつまんで、刺身をちょっと食べたあたりで何だか落ち着いちゃう。

そこで帰ってとっとと寝ちゃえば痩せるはずだが、帰宅後にペヤングをむさぼったりするから全然ダメである。

食えなくなったなあ~と口癖のように嘆いているくせに太っていく男。まるで喜劇である。

劣化という言葉を使う以上、アッチのことに触れないわけにはいくまい。アッチである。男性機能方面だ。

ありがたい?ことに機能面ではそれなりに現役感は保っているが、「意欲」の面が以前より衰えているのは確かだ。

「試合」に向けた意欲とでも言おうか。がむしゃらに闘う姿勢が湧いてこない。トレーニング?をさぼってノホホンと過ごしているせいだろうか。

目的を遂げるまでの一連の流れがちょっとだけ億劫になっている。これまでの人生でそんな感覚はなかったから男としてヤバい事態かもしれない。

闘争本能の劣化である。ボクサーだって技術や体力が円熟期でも闘争心が弱ってくると勝利はおぼつかない。気持ちで負けたら終わりである。

やはり、アッチ方面にも精神論は大事だと思う。気持ちが大事!?である。習うより慣れろ!猪突猛進である!

意味不明だ。

ということで、心を入れ換えて寝技や接近戦の稽古に励まないといけない。

まずはイメージトレーニングから始めることにしよう。

妄想は大事だ。

2016年6月20日月曜日

舛添知事のペナルティー


セコさバリバリの舛添知事の辞任が決まったことで焦点は後任選びに移った。

ヤメれば全部がチャラになったかのように都議会では更なる追及はナシ、舛添さんの会見などもナシ。

政治資金規正法の違反事件だが、セコさのせいもあって検察が動く気配もナシ。ナイナイ尽くしである。

それならそれで「税金逃れ」の観点から糾弾の声があがらないのが不思議である。

「公私混同」といえば、世の中小企業のオーナー社長が常に税務署から厳しくチェックされる行為である。

舛添さんの一連のセコい話も「課税」という面で見れば、事細かく追及されるべき話である。

あれで幕引きになるようでは、世の中の社長サン達は税務調査に協力などしなくなるはずだ。

議会も検察も何もしなくても、舛添知事の住所地の税務署は粛々と、かつ念入りに課税対象を洗い直すべきだろう。

社長さんの例を見るまでもなく、個人的な飲食費や旅行代を会社の経費にしていたらダメである。誰でも分かる話。

で、経費にならないとなったらどうなるか。この部分が大事。

基本的には経費に認められなかった金額は社長さん個人の利益、すなわち所得とみなされる。

年収1500万円の社長さんを例にとって説明する。会社の経費にならない個人的支出が200万円見つかったとすると、社長さんの年収は1700万円だったという理屈になる。

当然、増額した分の所得税が追徴される。ペナルティーとしての加算税もかかる。

毎年同じようなことをしていたら所得税は最大で過去7年まで溯って追徴される。

ひとつひとつがセコい話でも積もり積もれば結構な金額であり、追徴税額だってそれなりの金額になる。

経費の否認、所得認定といった「申告もれニュース」のキモはそういうことである。

舛添知事は家族と出かけた正月休みのホテル三日月の費用も家族で食べた回転寿司の費用も、趣味で買った美術品や中国服もすべてが「政治のために必要な支出」とのたまってバッシングを浴びた。

まさに屁理屈。往生際の悪さと稚拙な詭弁だけで歴史に名を残しそうである。

ちなみに中小企業の社長さんが家族と正月休みに温泉旅行に行った費用を会社の経費にしていたとする。

税務署の調査官がそれを見つけて、社長さんに問いただす。すると社長さんは「名前は言えないけど仕事関係者が一人やってきて会議をしたんだ。だから全額、仕事上の経費だよ」と抗弁。そんなズッコケた話である。

議論が噛み合う噛み合わないという次元ではなく、単純にズッコケちゃうレベルだ。

公用車を私的に使いまくっていた件も同じ。世の社長サン達が同じようなことをしたら、厳密にいえば、高速代、ガソリン代、運転手さんの超過勤務代もろもろが会社の経費として認められないことになる。

極端にいえば、社用車購入費用がまるまる社長個人のものと見なされるケースだってあるのが民間の実情である。

税務署と民間企業がモメる場合、さまざまな支出の経費性をめぐって「見解の相違」という言葉が飛び交う。

舛添セコビッチ知事の場合、見解の相違という用語すら使えないレベルのお粗末ぶだ。

中小企業の社長さんの場合、多くが大株主であり、なかには全株式を所有している人もいる。

こうなったら「会社はオレのもの」という感覚が強いのも当然だ。したがって「オレのカネも会社のカネも同じだ。オレが稼いだカネをどう使おうがオレの勝手だ」という理屈も分からないではない。

それでも、税法の世界では個人と会社の財布は別なものとして取り扱う。極端にいえば100%株主で従業員もいない社長一人だけの会社だって公私混同に特別扱いはない。

常識的なルールを破れば追徴課税というペナルティーが待っている。

舛添さんの場合、私的流用していたカネは自分が稼いだものでもなく、自助努力によって手にしたものでもない。彼が使い込んでいたのは、一種の預かり金とも言える税金である。

どっかの誰かと浮気したという話より80万倍ぐらい罪は重い。

金額の多寡に関係なく、国税当局が真剣に向き合うべき事案だろう。こんなものが放置されたら世の中に示しがつかない。

2016年6月17日金曜日

マカロニサラダは神である


今もバカだが昔はもっとバカだった。

マカロニサラダやポテトサラダを「サラダ」だと信じていた。

「サラダ」=「野菜」=「身体に良い」。

大バカ三段論法である。味付けや製造過程で野菜的健康エキスがたっぷり含まれているのだろうと勝手に解釈していた。

私にとって切ない闇歴史である。

野菜のことを指すと思っていた「サラダ」は、もともと塩で漬ける料理の総称らしい。世の中の大半の料理がいわばサラダである。


現実を突きつけられた今でもマカロニサラダが大好きである。淡水化物の塊だろうが気にせず食べてしまう。

マカロニサラダは大衆酒場の王道メニューである。高級路線の店では見かけない。残念なことだが、高級路線の店だと余計な野菜をゴチャゴチャ入れてマズい逸品に仕上げそうだから仕方がない。

富豪などと自称しながら大衆酒場ファンである私にとって、ホッピーを飲みながら突っつくマカロニサラダは神である。

純粋にマカロニサラダが食べたいという一念だけでその手の飲み屋に出かけることもしょっちゅうだ。

マカロニといっても、ショートパスタなら何でもOKである。ペンネだろうとネジみたいなやつでもウマい。


炭水化物とマヨネーズで作られているくせに、サラダという爽やか路線を狙ったネーミングがニクい。正体はあくまで「パスタマヨネーズ」だ。

異様なほど体型補正が可能な矯正下着を愛用する女性のようである。それはそれでイジらしい。

さて、大衆酒場のマカロニサラダの嬉しい点は「余計な野菜が少ないこと」である。例外はあるが、安くするために具材をケチっているのだろう。

本来なら哀しく情けない事態なのだが、マカロニサラダの場合、ゴテゴテと余計な野菜が入っていたら興ざめだ。どんどんケチってほしい。

ハムは大歓迎だが、キュウリは薄~い状態のがチラッと顔を見せる程度で充分、あとは薄~いタマネギスライスが少しだけ入っていれば他には何もいらない。キャベツも不要だ。

いや、本音を言えば野菜など一切入れずにマカロニと少しのハムだけで作って欲しいぐらいだ。

ニンジンやパプリカなんかが混ざっていると殺意を感じる。上にパセリを載っけるのも法律で禁止して欲しい。

作り手は色合いのためや貧乏くささを隠すためにオレンジ色や緑色を投入したがる。でも、マカロニサラダは貧乏くさいぐらいがベストだ。

ヒドいのになるとリンゴのカケラが混ざっていることがある。私に言わせれば愚の骨頂である。

リンゴは果物である。デザートでありスイーツである。大衆酒場には場違いだ。ホッピーの相棒として「黒コショウ&マヨ風味」を楽しみたいのにリンゴが登場すると台無しになる。

パイナップルチャーハンや冷麺に入っているリンゴ、ひやむぎに浮かんでいるサクランボなんかと同罪だと思う。

食べ物に果物をそのまま混ぜるヘンテコな行為を一体どのぐらいの人が喜んでいるのか昔から不思議で仕方がない。


この画像は、巣鴨のディープな大衆酒場で出されるカレー味の逸品である。食べ物に関しては創作系が苦手で、古典的かつ王道の味付けが好きなのだが、この店の邪道系?マカロニサラダは素直にウマい。

マカロニの他に余計なモノがほとんど入っていないのが嬉しい。ピリ辛で黒ホッピーの友として抜群である。

たかがマカロニサラダでやたらと熱く語ってしまったが、私にとっては「されどマカロニサラダ」である。

最近、考えているのがマカロニサラダの呼び方である。盟友?であるポテトサラダには「ポテサラ」というスッキリした愛称があるのにマカロニサラダはそのままである。

マカサラ、ロニサラ。なんかシックリこない。でも「マカロニサラダ」と全音を発声するのもどうにも収まりが悪い。語呂も悪いし。

黒ホッピーは「黒」、おかわりの焼酎は「中」の一言で通用するのが大衆酒場である。だったらマカロニサラダにも気の利いたニックネームをつけてやりたい。

マカロニだから「ロニー」なんかどうだろう。ちょっとイケてる。

どことなくイタリア系アメリカ人のギャングみたいで素敵だ。ちょっとシャレた響きである。

「ロニー、もらえるかな」。うん、なかなか渋い。

店の人に言っても間違いなく伝わらないから、心の中で「ロニー!」と叫びながら食べようと思う。

2016年6月15日水曜日

不倫の歌


前回に引き続き、今日もなぜだか不倫の話。

昨今、世の中で盛り上がっている「不倫祭り」を見るに連れ、結構な数の人が実は「不倫が大好き」なんだと思えてきた。

そりゃあ当事者、とくに“被害者”にとっては堪ったものではないが、外野の人々は総じて不倫バナシが好きである。

「不倫したいから結婚しなきゃ」とアホなことを言う独身男がいる。物凄いファンキーな発想である。

私ではない。

そのぐらい「不倫」が持つエネルギーやパワーは悪魔的な魅力があるのだろう。

「不倫は文化」。ご存じ石田純一のキャッチフレーズ?だ。あれも正確には「不倫から文化や芸術が生まれることもある」という発言が曲解されたもの。

確かに芸術や文化に名を残す偉大な先人達もその素性は不倫オンパレードである。

ショパン、ドビュッシー、ワーグナーなどクラシック音楽の偉大な作曲家達は不倫エネルギーが創作の源だったらしい。

ゲーテやトルストイ、ヘミングウェイといった文豪しかり。日本だって太宰や谷崎なんかは不倫ネタで名を残しているようなものだろう。

印象派で人気のマネやモネ、ドガもそうだ。歴史上の人物ともなれば、作品の印象だけがすべてで、その素性はオブラートに包まれる。

石田純一師匠?の言いたかったことも妙に理解できる。

わが国の今を築いた明治の元勲の多くもオメカケさんがいたし、軍神・山本五十六大将だって若い二号サンに情熱的な恋文を送りまくっていたことで知られる。

ブームになっている田中角栄さんだって、本宅と妾宅を行ったり来たりしていたことは世の中の常識だった。

なんだか例をあげているだけで際限なく話が広がりそうだ。

別に不倫肯定論を書くつもりはない。ただ、今になって有名人の不倫にギャアスカ大騒ぎする世間の風潮に違和感がある。

ケッケッケと笑って見ていればいいし、「バレちゃったのか、バカだねえ~」と眺めていればいい。

芸人さんやミュージシャンはあくまで芸人さんであり、ミュージシャンだ。教育者でもなければ公務員でもないのだから、そんな次元の規範で一般の人が正論で叩いたってしょうがない。

「不倫なんて許せない」などと鬼の形相で語っている女性に限ってカラオケに行けば不倫系の名曲を熱唱したりする。

竹内まりやの「マンハッタン・キス」や小林明子の「恋に落ちて」やテレサテンの「愛人」などである。名曲揃いだ。

https://www.youtube.com/watch?v=SXoPlVK-IDk

恍惚状態で熱唱していたくせに、翌朝のワイドショーで不倫ネタを見ると、なんとなく嫉妬心?からお決まりのバッシングに走ってしまう。

そんなものだろう。

空想の世界、情景を思い浮かべる世界という点では、普段厳しいことを言っている人でも「不倫」はなかなか魅力的なシチュエーションに映るのだと思う。

例示したような不倫の名曲だって歌の世界観が切ないから支持される。あれが単なる幸せな男女のハッピーエンドを歌っていたら面白くも何ともない。

ついでだから最近フムフム~とうならされた不倫ソングを2曲貼り付けておく。

1曲目は斉藤和義が鈴木雅之に作った「純愛」。2曲目はドリカムの「もしも雪なら」。こちらは不倫一歩手前であきらめる女心を歌っている。

https://www.youtube.com/watch?v=IzZyd_mwzjc


https://www.youtube.com/watch?v=_C1oVpMNdDw

ちなみに、オトナになるとアイドルの歌がちっとも心に刺さらなくなるが、おそらく歌詞の世界にドロドロ感が無いのが理由だろう。

AKBとか嵐なんかは不倫の歌は歌わない。試しにトライしたら大ヒットするかもしれないが、やはりマネジメントする側はそんな冒険は犯さない。

キムタクなんかもう40代の家庭持ちなんだから、いつまでも昔と同じ路線ではなく、魔性のオジサマ的な演出をすればいい。生ギター1本抱えて不倫の辛さを匂わせるようなバラードでも歌えば大ヒットが狙える気がする。

なんだか話がまとまらなくなってきた。

ついでにもう一つ。不倫バッシングはたいてい男性側への非難が激しい。既婚男と未婚女ならそれも当然だが、女性も既婚者だった場合、あながち男ばかり攻められないケースだってある。

結婚していること。子供がいること。そんな大事なことをオクビにも出さずに男に接近して平気な顔をしている女性も存在する。

男の場合、ウソをつくにしても妻との不仲アピールなど一応は既婚を前提にしたウソが基本だ。それに比べて独身ヅラして男に近づく女のほうがタチが悪い。

オッソロしい話だと思う。

2016年6月13日月曜日

不倫やら浮気やら


今年はやたらと「不倫騒動」がマスコミを賑わせている。皆様お元気である。文枝師匠も円楽師匠も結構な年齢なのに現役バリバリだ。素直に大したものだと思う。

変な感心はさておき、マスコミのお祭り騒ぎは何だか鬱陶しい。コメンテーターとかの正論も鬱陶しい。

不倫だか浮気だか知らないが、他人には関係ない話である。有名人は一種の有名税としてマスコミの餌食になるのだろうが、無関係の他人がことさら正義感ぶって糾弾するほどのことだろうか。

ネットの世界特有の「不謹慎狩り」ムーブメント?がヨソの夫婦の下半身事情にまで及んでいるわけだ。

子供の頃、いい子ちゃんぶって先生に告げ口するヤツはたいてい嫌われ者だった。世間にはびこる不謹慎狩りに精を出す面々や、ここそとばかりに大袈裟に正論を振りかざしたがる面々も似たようなものだろう。

退屈な日常に鬱々している人々が、単なる発散のために、半分思いつきのようなどうでもいい正論を振りかざす――。なんだかイヤな感じだ。

暗黙の了解事や大らかさといった概念が世間の片隅に追いやられたような空気が漂う。「アラ探し社会」といったところか。

「オイオイ、そりゃあマズいよ。でもまあ、そういうこともあるよなあ」。

極端にいえば、世の中ってもともとそんなふうに回っているものだと思う。当事者は別として第三者だったらそれで済む話だ。

もちろん、凶悪事件は論外だが、ちょっとした脱線や悪ふざけは、煩悩の塊である人間が生きていく上では珍しいことではない。関係ない人がカリカリしたってしょうがない。

不倫も同じだ。そりゃあ褒められた行為ではないが、結構な割合の人がきっかけさえあれば陥ってしまう可能性はある。

誰かに好意を寄せる。それが恋心になる。頭と心は完全に一致するわけではないから時にはそんな事故も起きる。

そんな綺麗なパターンだけでなく、単に生理的欲求に負けちゃうこともある。

既婚者だって男であり女である。教科書的に生きていければ結構なことだが、なかなか簡単なことではない。

夫婦だからといって、修復不可能なほど冷え切った関係なのに仮面状態を続けることが立派なことだとは思えない。

メンタルが弱かったらダメージで病気になってもおかしくない。大げさではなく死んでしまう。命がけでそんな状態を続ける必要はない。

それに比べれば、煩悩に負けて婚外恋愛してしまう人の方が人間的かもしれない。

こんなことを書くと不謹慎だと糾弾されそうだが、家庭の状態はそれぞれ違う。家庭の実情によっては、夫婦のいずれかが婚外恋愛に救いを求めることを頭ごなしに全否定できない。

ちなみに私自身の離婚原因は不倫や不貞行為ではない。協議の場でもその類いの話はまったく出なかったので、今日書いている話は決して自己弁護などではない!

ちょっと力説してしまった。

さてさて、不倫と浮気って何が違うのだろう。明確な定義があるのだろうか。謎だ。

法律用語には「不貞行為」しか存在しない。不倫も浮気も単なる俗語である。

不貞という言葉はなかなかインパクトがある。「配偶者以外との性交渉」を指す言葉だから、単にデートするだけなら不貞ではない。

日本には姦通罪が存在しないから、不倫や不貞行為があったからといって犯罪には該当しない。

とはいえ、民法には「貞操義務」という立派な概念がある。不貞行為は裁判上の離婚要件になるから、一応、ヨソでエッチすることは法律的に許されないという解釈も成り立つ。

それにしても貞操義務って凄い響きだ。思春期の頃は「貞操帯」という器具の名前を目にするだけで興奮したが、大人になると「貞操義務」という言葉を突きつけられてシュンとしてしまう。

なんだか話がとっちらかってしまった。

せっかく夫婦になったのなら仲良く添い遂げるのが一番である。日本の場合、古い時代からの習慣で結婚した途端に夫婦が男と女ではなくなり、「父ちゃん&母ちゃん」になってしまうのが良くないらしい。

確かにお互いを名前で呼び合う中年夫婦など見たことなどない。異性として認識していない何よりの証だろう。なかなか難しいだろうが、時にはオメカシして夫婦だけでデートするような努力も必要だと思う。

お互いの呼び方以外に「寝室が別々」というのも不仲の導火線になるとか。ホントかどうかは知らないが、仲良し夫婦は同じ寝室で寝ているという調査結果もあるらしい。

当たり前のことかもしれないが、現在苦戦中の夫婦はそんな小さなことから改善してみてはいかがだろうか。

最後に私が好きな言葉を一つ。

「バレない不倫に罪はない」。

ドラマで聞いた台詞だ。実に奥が深い。

バレたら負け。バレてしまったら罪である。

2016年6月10日金曜日

シンコ ハムカツ ポテサラ


数日前、今年初のシンコを食べた。コハダの赤ちゃんである。毎週のように出没している高田馬場・鮨源の職人さんから連絡を受けていそいそと食べに行った。

「冷やし中華始めました!」みたいなものである。全然違うか。

シンコは夏の訪れを告げる風物詩だが、「初物にウマいもの無し」との言葉もあるように、本当は出始めよりももう少し大きくなって3枚漬けぐらいで食べた方が、シンコ独特の食感が味わえる。

などと、わかったようなことをエラそうに書いてしまうのが中年男の悪いクセである。

何だかんだ言って、入荷早々に食べに行っているわけだから、そんなこだわりなどカッコつけたいだけのウンチクである。

この日食べたシンコは小さ過ぎなかったせいで赤ちゃんのホッペタのようなフワっとした食感。素直にウマかった。

いよいよ夏が始まる。

さてさて、さも食通のような書きぶりだが、最近やたらとジャンク系の食べ物ばかりに目が行く。

精神状態、心理状態となんらかの関係があるのだろうか。日々平穏に過ごしているのに不思議である。

先日、時々ふらっと顔を出す銀座の小料理屋「おかやす」でも“ジャンク魂”に火が付いてしまった。

この店の人気メニューの一つに「トウモロコシのかき揚げ」がある。バラしたトウモロコシの平べったい天ぷらにカレー粉をパラパラまぶして食べる。

この日は別な揚げ物が食べたかったので、ワガママを言わせてもらって素材であるトウモロコシを普通に丸焼きにしてもらった。


単なる焼きトウモロコシである。屋台の食べ物である。いや、そんな表現は差別的に過ぎるか。でも、そんな手軽な食べ物だ。銀座7丁目のシッポリ系の店でウホウホ食べるイメージではない。

まあ、素直にウマかったからバンザイである。醬油を塗ってバターもちょっと加えて焼き上げるトウモロコシは抜群だ。

いよいよ夏が始まる。

そればっかりである。

この店に行くと、黙っていても手の込んだ前菜が5~6種類出てくる。まっとうな和食の味付けで、それだけで2合ぐらいの酒が飲めそうな感じだ。

その一方でポテトサラダみたいな家庭料理的メニューもあるのが嬉しい。ポテサラといえば居酒屋の定番だが、この店のポテサラは芋芋していないのが特徴だ。

イモイモゴロゴロ系はあまり好きではないが、マッシュポテト的ななめらかさが私を魅了する。いつも注文する。

調子に乗って「ポテサラにはハムカツとホッピーだ」とブツクサほざいていた私に板さんが優しい言葉をかけてくれた。

「ホッピーは無理ですけど、ハムカツ揚げましょうか?」

断る理由など1ミリもない。さすがにフチが赤い安っぽいハムが良いなどとは言わなかったが、銀座の料理屋でハムカツにありつけるのはジャンク太郎である私にとっては実に幸せである。


ハムカツ&ポテサラである。ウッシシである。ソースをポタポタして食べる。至福の時間だ。日本中の料亭や割烹、寿司屋に至るまですべての店がハムカツをメニューに加えてくれたらどんなに幸せだろうと不埒な妄想が頭をよぎる。

さきほど、「ジャンク系の食べ物ばかりに目が行く」と書いてみたが、そんな理屈っぽい言い方ではなく、私の味覚が子供化しているのかもしれない。

ケチャップ味の喫茶店のナポリタンがやたらと食べたくなったり、タコの形にカットされた赤いウインナーも無性に食べたくなる。

加齢って一線を越えると幼稚化に向かうのだろうか。


この画像は数ヶ月前に浅草をブラブラしている時に撮った一枚だ。「大人のお子様ランチ」である。心が激しく揺れ動いて思わず撮影した。

こんな画像を何ヶ月も削除しないで保存しているところが私の「食」に対する偏った思い入れを表しているのかもしれない。

2016年6月8日水曜日

お取り寄せ 鳥味噌 煎り酒


外で飲むのが何となくカッタルく感じて直帰してノンビリする日がちょっとだけ増えた。

誰にも干渉されずに半裸みたいな格好でゲップ太郎、屁こき太郎になるのは至福の時間である。

こんなことでは人付き合いが益々不得意になりそうだから、見知らぬ人と1時間だけお茶を飲むとか、気になる女性と2時間だけデートしてみるとか、少しずつリハビリしないとなるまい。


時々だが、家飲みする際に「ひとり御馳走」状態になる。カニや刺身を買ってきて、お気に入りの寿司酢で寿司飯を作って、録画してある「寅さん」を見ながらムホムホと飲み食いする。

そこらへんの居酒屋で飲む程度の出費で富豪気分である。

皿や器にこだわりが強かったくせに、買ってきたままのプラスチック容器のまま並べちゃうあたりが、私が退化?している証拠である。

素敵な女子でも訪ねてきてくれれば、自慢の皿も活躍できるはずだが、一人だとさすがに面倒だ。せっかく収集してきた器達が不憫である。

さて、家飲みの心強い味方が「お取り寄せ」である。ネット通販の世界は競争が激しくなり、注文したものがとっとと届く。細かく時間指定もできるし、一昔前より格段に使い勝手が良くなった。

で、いろんなものを「お取り寄せ」している。近くの大型スーパーまで行けば手に入るものまで横着して送ってもらう。


マイ寿司飯に欠かせないのが内堀醸造の「美濃」シリーズだ。「有機すし酢」「特選すし酢」いずれも私の大好物である。大型スーパーには置いてあることが多いので気軽に手に入れることができる。

炊きたての「つや姫」をマイ木桶で丁寧にシャリ切りするのは私にとって楽しい時間である。いつもワクワクしちゃう。

炊きたてのまま冷凍してある一杯分のご飯をチンして寿司酢とあえて醬油をチロっと垂らしてオカズ無しで食べることさえある。

それだとさすがに普通に作った寿司飯より味は格段に落ちる。それでも寿司飯の感じは味わえる。自分流変態的B級グルメである。


続いては地味ながら私が心底惚れ抜いている「鳥味噌」を紹介したい。100人に勧めたら100人がウマいと言うレベルの逸品だ。

もともとは西銀座にある銀座インズ地下に古くから店を構える焼鳥の名店「葡萄屋」で出会った。

突き出しでチョロっと出された。前後不覚になるほど?美味しくて、思わず別売りしてくれと叫んだのだが、私が叫ばなくても、当たり前のように瓶詰めされたものが定番商品として用意されていた。


ネットから買うことも出来る。そのままツマミにしても良し、豆腐に載せても焼鳥に塗っても良し、ご飯に載っけても良し、うどんやソーメンのトッピングにしても良し。万能である。

沖縄で定番の豚味噌や瀬戸内海あたりの鯛味噌なんかも試したが、この鳥味噌は無敵だと思う。まるで店の回し者みたいだが、ウマいんだからしょうがない。

続いては、「浅草むぎとろ」の味付けとろろである。


冷凍状態で送られてくるが、ぬるい水に5分~10分入れておけばすぐに食べられる。小袋なので、ドカンと食べたい時、ちょこっと食べたい時いずれの欲求も満たしてくれる。

味付けといっても薄味なので、私の場合、気分によって醬油やポン酢、蕎麦つゆなどを少しだけ足して食べる。

大事な部分?が弱くなっているオジサマにはとろろのネバネバは欠かせないパワーの源らしい。せっせと食べるようにしている。

効果を実感したことは残念ながらまったく無い。


時には、これまた取り寄せで常備している「煎酒」(いりざけ)をチョロッと垂らして味わうのも悪くない。

最近は料理屋さんでも煎酒を出す店があるが、醬油とは違うマイルドな調味料としてなかなか重宝する。醬油が広まる前の江戸時代は寿司や刺身も煎酒につけて食べていたらしい。

銀座8丁目にある三河屋の一品だ。江戸のスローフードに着目した商品を揃えている店だが、私が8丁目をウロつく夜の時間にはお店は閉まっているので、これまたネットから注文している。

「おひとりさま中高年」のあるべき姿を模索している私としては、こういう地味ながらキラリと光る逸品を探すのが一種の趣味のようになりつつある。

何を目指しているのだろう・・・。

さて、最後に実用面で私が気に入っている商品を紹介する。


人気のコメ「つや姫」である。単なるつや姫ではない。「2合パック」である。モノグサな私にとって愛人のように大事な存在である。

美味しいご飯を炊こうと意気込んでいると、計量カップに適切な量のコメを収めることに妙に神経を使ってしまう。変なところにこだわりたがる私の悪いクセである。

この2合パックなら必死に計量する手間が不要だ。1合や3合炊きたい場合にはダメだが、2合か4合の場合には、開封して炊飯器にバサっと入れれば済む。

この商品を初めて見つけた時にはスキップしたくなった。コストの面で割高だろうと知ったこっちゃない。

手に汗握るほど神経をすり減らす?計量の手間がいらないわけだから「アモーレ!」である。

それにしても、チマチマした話である。自分が器の小さい男だと世間に宣伝しているようなものである。

もっと大らかな話を書くように心がけよう。

2016年6月6日月曜日

列に並べない


列に並ぶことが苦手だ。ワガママだが、こればかりは仕方がない。入国審査などどうしても並ぶ必要がある時なら我慢するが、それ以外は徹底して並ぶのを拒んでしまう。

わが社から歩いて数分の所に常に大行列のラーメン屋がある。真夏も真冬も大行列。2~3人が待っているのなら分かるが、いつも2~30人は並んでいる。理解不能だ。

好きな人なら並んででも食べたいのだろうが、私から見れば「並ぶことが目的」かと思えるほど皆さん楽しげな顔をしている。

行列ができるほど有名な店で食べることが嬉しいのだろう。

人の嗜好に文句は言えないが、近隣にいくつもラーメン屋があるから、いつも不思議に思う。

パンケーキやシュークリームといった甘いモノにも行列店があるらしい。若い女の子が「ネタ」として並ぶのだろう。

それはそれで青春だから?可愛い気があるが、いい年したオッサンがメンチカツのためだけに行列に並ぶのは何だか気味が悪い。

並ぶのが好きな人、ゴメンナサイ。

飛行機に乗り込む際の搭乗口での行列も不思議だ。自由席ならともかく何であんなに一生懸命に並ぶのだろう。

搭乗口にいるのにフルネームで呼び出されるまでボケっとしている私のほうが問題だが、赤ちゃん連れでもないのにゲートが開く前からボーッと並ぶ人はどういう心理なんだろう。何かを企んでいるのだろうか。

さて、私の苗字は「あ」から始まる。幼少時から出席番号は常に一番だった。予防接種の順番をはじめ、行事の際の出入りや何かやるのも一番始めというパターンが多かった。

卒業式だけはいつも「総代」とかいう優秀な人が私の前に立ったから二番目だったが、それでも長々待たされるポジションではなかった。

きっと子どもの頃の出席番号のせいで並ぶのが苦手になったのだろう。そんなはずはないか。

週末の夕方にスーパーに買物に行くことは絶対にないし、普段からコンビニのレジに3~4人並んでいたら、手に取った商品をわざわざ戻して出て行くこともある。

敬愛するハマショー師匠のライブに行っても、座席ブロックごとの規制退場が苦手だから最後の1~2曲を聞かずに出てくる。

千葉のディズニーランドにもここ30年行ったことがない。小さかった子どもにせがまれても「としまえん」専門だった。

病院や役所みたいに座って順番待ちをするのは平気だ。でも、その昔、娘の幼稚園受験で親子面接を待つ間、しきりに舌打ちと貧乏揺すりを繰り返し3歳の娘に注意された覚えもある。

単なるワガママだとは自覚しているが、加齢のせいで年々ヒドくなっている気がする。こんな状態では社会不適合人間になりそうで、内心では結構ビビっている。

性癖としてはかなりMっ気があるみたいだから、ちゃんと心を入れ換えれば行列にもニコニコ加われそうなのだが、どうもササクレだった心が邪魔をする。

解脱しないと老後が怖い。いずれ今のようにチャッチャカ動けなくなるわけだから、その時に必要なのは忍耐力である。列に並ぶことすら出来なかったら平穏に暮らしていけない。

気をつけなければ。

ちなみに今日この話を書こうと思ったのは夜の銀座のタクシー乗り場のせいである。

7丁目、8丁目あたりで飲んだ後は、「銀座の柳」で知られる御門通りのタクシー乗り場が定番だ。しかし、酔っ払いオンパレードの深夜12時前後はダラダラとなかなか順番が先に進まない。

心底イライラする。過去に何度もノロマな人々を優しく?注意したことがあるが、そんな努力もまた私自身をイライラさせる。

そんなこんなで、今ではその乗り場から数百メートル離れた新橋駅近くのタクシー乗り場を使っている。

そちらの乗り場に並ぶ人は皆無である。わずか数百メートルの距離で大行列の乗り場と待ち人ゼロの乗り場があるのが不思議である。

やはり、行列する乗り場にいる人々は「並びたいから並んでいる」行列マニアなんだろう。

そんなイヤミばかり言っているとますます偏屈オヤジになりそうだから適当にします。

それにしても、舛添さんもどうせロクに仕事しないなら、バブルの頃と同じ基準で運用されているバカげた銀座のタクシー乗り場規制を何とかしてくれないものだろうか。

2016年6月3日金曜日

日比谷 蟹工船 セクシー個室

今頃の季節は、陽が落ちる時間帯が素敵だ。秋の夕陽も美しいし、空気が澄んでいる冬の夕陽も捨てがたいが、初夏の夕暮れには独特の情緒を感じる。

湿度か何かかが関係しているのだろうか。こういうことをサッと答えられたらカッチョイイが私にはその素養はない。

冒頭の画像は日比谷界隈で撮影した画像だ。ペニンシュラの向かい側から皇居側の空を写した。なんとなく深呼吸したくなるような色合いだ。

気分も清々しくなったらウマいものを食べてウマい酒を飲みたくなる。で、近所にある蟹料理屋に出かけた。




「蟹工船」という店名からはどうしてもプロレタリアチック?な店を想像してしまうが、ここはそれなりに高級路線。造りも渋いし、接待やデートにも使えそうな隠れ家的な店だ。

個室もいろいろあって、横並びカウンターの二人用個室もある。二人用の個室というと、お仕置きされた子どもが閉じ込められるような納戸みたいな小部屋が多いが、この店の場合、個室マニアが喜ぶような感じだった。



余裕のある広さ、カウンターも長い、おまけにカウンターの前は坪庭風にしつらえている。出入りする扉は茶室のように小さいので突然、従業員が入ってくることもない。

何とも怪しげである。平たく表現するならエロ満点!の造りである。

それっぽいバーの個室だったら、いかにもな感じのソファが用意され、見るからにエロを漂わせている。あれはストレート過ぎてアザとく感じる。

その点、上質な和空間のしっぽり個室で、横並びに座るスタイルは、いわば「変化球エロ」である。

肝心の蟹料理よりも個室の素晴らしさにただただ感心するあたりが私の愚かさである。独身オジサマの悪いクセなのでお許しいただきたい。




お値段はさすがに安くないが、「かに道楽」でガンガン食べるのとさほど大きな違いはない程度である。

この日は、毛ガニを茹でてもらったほか、一品料理もちょろちょろ注文して、ヒレ酒をグビグビ。

アシを3本だけ刺身で食べた。酒のアテとして最高だ。茹でたてのカニ味噌も酒の相棒として申し分ない。




カニは極論すれな水分だらけである。揚げ物やご飯モノを頼まなければダイエットにも最適だ。

体重調整のために野菜を食べるのはウサギや馬みたいでゴメンだという人には、カニダイエットをオススメしたい。

ついでに言えば、同行した相手とあまり言葉を交わしたくない場合にもカニはオススメだ。無言でほじくっていれば済む。大人にとって様々な用途に活用できるのがカニ料理だと思う。

いままで福井や石川はもちろん、鳥取にもわざわざ冬のズワイガニを食べに出かけた。北海道では毛ガニを一度に2杯食べたことも何度かある。ワタリガニのウマいのがあると聞けば佐賀まで旅をした。

上海蟹も好きだ。タイに行けば名物料理の蟹のカレー炒めは毎日のように食べる。

あまり興味がないのは沢ガニぐらいである。

なんだかんだ言って私が一番好きなのは毛ガニだ。越前だの松葉だの何だのとブランド化するズワイに対して毛ガニは毛ガニである。実に潔い。堂々とした裏表のない感じが好きだ。

世間に媚びていない無頼な感じ、ぶっきらぼうな感じが格好いい。ズワイみたいにモデル体型じゃないし、無骨な雰囲気が男心をくすぐる。



この画像は、私が毎週のように出かける高田馬場「鮨源」で出される毛ガニだ。朝茹での毛ガニを全部ほぐして甲羅に詰めてある。

ホジホジする楽しみがないのが少し淋しいが、ぎゅうぎゅうに詰められた身を食べ続け、後半になったら下の方に潜んでいるミソと身を混ぜ合わせる。いつもウットリする。

今日はセクシー個室の話を書くつもりが、単なる毛ガニ礼賛で終わってしまった。まあいいか。




2016年6月1日水曜日

仕事に活かす金言 『社長のミカタ』


録画したテレビをノンビリ眺めて、早々に寝室に行って本を読む。酒を飲まない日のささやかな楽しみだ。

脈略もなく短編小説を読んだり、肩の凝らない新書をパラパラめくっていると酒が無くても睡魔がやってくる。


この画像は最近読んだ新書。犯罪、容姿、結婚、能力等々、人間のあらゆる行動に厳然と存在する格差の実態を細かなデータで分析していた。人々が表立って口に出さない“掟”のような現実が明文化されている点が興味深かった。

小説の他には、こういう洞察モノや実録ルポを手に取ることが多い。あまり得意ではないのが自己啓発モノである。

いっぱしの社会人ならビジネス分野の自己啓発本を読まねばといったお節介な風潮が苦手で、若い頃からロクに読んだことがない。

なんだかウサン臭い。個人的な意見です。スイマセン。あれなら守護霊モノや運勢、占い系の書物をブツブツ文句言いながら読んでいるほうが楽しい。

それよりも、子ども向けに出版されている歴史上の偉人の話を読んだほうがマシだと思っている。文字も大きいし。

偏屈オヤジみたいな書きぶりになってしまったが、名言や格言みたいなジャンルは嫌いではない。やはり含蓄のある言葉には迫力がある。短い言葉が持つ小気味よさに惹かれる。

わが社が発行している媒体に『社長のミカタ』という月刊紙がある。文字通り経営者向けの情報が網羅されている。

通常購読の他に、経営者が加入する組織での研修用や経営者向けの配布ツールとしても活用されている。

http://www.mikata-digital.com/

創刊以来、人気を集めているのが「賢者の言魂」というコーナーだ。毎号一人ずつ著名な経営者の残したビジネス格言と呼べるような一言を、その経営者の経歴とともに紹介している。

今日は、そのいくつかを紹介してみる。経営者の立場にあるかどうかを問わず、どんなジャンルの仕事にも通じる金言だと感じる。



●全員反対したものだけが一考に値する
諸井貫一(秩父セメント)


●「らしさ」を維持する頑固さが必要だ
江頭匡一(ロイヤル)


●他人の不幸による漁夫の利を求めるな
小平浪平(日立製作所)


●シケの時こそイカリを巻いて出て行くことだ
中部幾次郎(大洋漁業)


●私の悪口はすぐに報告しなさい。しかし、言った人の名は言わないでください
永野重雄(新日本製鐵)


●最初から和尚はない。掃き掃除から洗濯まで、小僧の苦労を重ねてこそ大和尚になれる
安藤楢六(小田急電鉄)


●サービスは「100-1=0」。ブランドは10秒で崩れる
藤居寛(帝国ホテル)


●問題は解決されるためにある
中山素平(日本興業銀行)


●仕事をやる以上、仕事に惚れなくてはならない。仕事が恋人であるなら成功せぬはずはない
石橋信夫(大和ハウス工業)


●運に恵まれるには努力が必要である
江戸英雄(三井不動産)


●アクの強い生意気な男こそ役に立つ。大いに使いこなせ
山下亀三郎(山下汽船)


●チャンスは貯金できない
樋口廣太郎(アサヒビール)


●デメリットのあるところにビジネスのチャンスがある
小倉昌男(ヤマト運輸)


●見せかけの模倣はダメだ。やるなら徹底的に根本から始める
福原有信(資生堂)


●できない理由を考える前に、できる方法を考えてくれ
市村清(リコー・三愛グループ)


●何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな。
田辺茂一(紀伊國屋書店)


●下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。
小林一三(阪急東宝グループ)

若い人、中年の人、お年寄り、また男女を問わず仕事の心構えとしては有用な言葉だと思う。

私自身、こうした言葉に触れるたびに大いにうなずき指針にせねばと思うのだが、すぐに忘れちゃうから困ったものである。

時々、読み返そうと思う。