2013年5月31日金曜日

哀しい男たちの話

交尾。なんだかそう書くとケッタイだが、セックスのことだ。性行為である。正確に言えば子孫を作るための生殖活動だが、人間の場合、その目的が子作りだけではなかったりするから厄介である。

それがしたいがために、せっせと女性を喜ばそうとしたり、必死にカッコつけたり…。古今東西、男のアホな行動はそんな下らないことに原因があったりする。

聞くも涙、語るも涙、バカみたいな話である。

いきなり話が飛んでしまった。

こんな話を書き始めたのは、NHK・BSで面白い番組を見たからだ。パプアニューギニアの大自然をレポートした番組だった。遠からず、パプアエリアに潜水行脚に生きたい私としてはしっかり録画予約しておいた。

番組では海は一切出てこなかった。秘境の密林ばかり。それもそのはず、極楽鳥の交尾が番組の中心だった。


その昔、パプアニューギニアのマダンという場所に潜水旅行に出かけたのだが、ホテルの敷地に極楽鳥が飼われていて、その美しさに圧倒されたことがある。

そんなわけで、海に関係ない番組だったが、内容の面白さに身を乗り出して見てしまった。

極楽鳥という名前自体が何とも大仰である。昔、交易用に輸送された際、脚が切り落とされていたことから、生涯、木の枝に止まらずに風に乗っている鳥だと言うことで命名されたらしい。

極楽鳥といってもその種類は様々。でも多くの種類が色彩や飾り羽根の存在など、得も言われぬほど神秘的な姿形をしている。その神秘性もあって昔の人は「極楽の鳥」と名付けたくなったんだろう。

極楽鳥の特徴は、いわゆる独特の求愛ダンスにあるそうだ。BSの番組もそれが主眼だ。世界で初めてある特定種の求愛ダンスの撮影に成功したことがハイライトだった。


テレビ画面を撮影したので雰囲気は全く伝わらないが、それはそれは涙ぐましいオスの頑張りに切ない気分になった。

画面下にいるオスは逆さまになって腹の飾り羽根をテロテロ光らせたり、妙なポーズを取ったり、精一杯メスにアピールしている。

この種類に限らず、極楽鳥のオスは、ただ漫然と求愛ダンスをするわけでなく、飾り羽根を広げたり揺らしたり、変な格好になって自分を大きく見せたりと、御苦労極まりない奮闘ぶりだ。

なかには、ダンスを始める前にせっせとその場の掃除に励むオスもいる。自分の姿形を美しく見せるために、周囲に落ちている枯れ葉や目障りな新芽などを時間をかけて取り除き、メスを呼ぶ。そこから必死にダンスに精を出すわけだ。

メスが近くまで寄ってきて、オスを観察しても、ぷいっと飛び去ってしまうこともザラだ。

メスに逃げられたオスの何とも言えない表情をテレビカメラは追う。残酷である。いや~実に哀しい目をしている。本気でオスに同情した。

生き物たちの交尾にかける必死さは凄まじい。「必死さ」と表現したが、それこそカマキリのオスなんか交尾中に相手から食われて死んでいく。それも頭からガリガリ食われて死んでいく。

想像していただきたい。

薄明かりのムーディーな部屋で、思いを寄せた相手と、いよいよその時を迎える。いい感じにコトは進み、へこへこ腰を振っていると、相手が豹変して、ガリガリと頭から食われ始める。

そういうことである。ホラーである。

カマキリもDNAでそんな事態になることは分かっているはずだ。それなのに交尾のためにいそいそとメスに近寄っていく。

頭を食われた後でも交尾をやめないオスの動画を見たことがあるが、あれは壮絶だった。生まれ変わってもカマキリのオスにだけはなりたくない。もし、そんな事態になってもメスに見向きもしないオカマで堅物なカマキリになりたいと思う。

話は変わる。働き蜂も働き蟻も、そして女王サマもみんなメスなんだとか。オスの親分は存在しないし、ミツバチに至っては、オスは交尾のためだけに現れ、コトが済んだら、メス達に攻撃されて追い出され、とっとと死ぬらしい。

想像していただきたい。

ハーレムのように女性だらけの場所に招待されて、ちやほやもてはやされてコトに及んだとする。プレイボーイ創刊者・ヒュー・ヘフナー氏のようだ。酒池肉林である。

ところが、無事にコトを果たしたら、女性達から罵倒され、足蹴にされ、裸のままで寒空の下に放り出されて死んでしまう。ホントの昇天である。オーマイガッである。

心からオス達の冥福を祈りたい。

海のアイドルであるクマノミもある意味、オスには残酷な生態だ。イソギンチャクに大小何匹も仲良く暮らしているように見えて、あれも驚異的な女性天下である。

一番大きいのがメス。2番目のサイズがオスで、親分メスが死ぬと、オスは性転換をして、新たな親分メスとして生き始める。

想像していただきたい。

子供も育って賑やかに家庭円満に楽しく暮らしていたとする。何かの拍子にお母さんが死んでしまう。夫、すなわちお父さんは悲しみに暮れる暇も無く、お母さん役を担わされる。そこまでは仕方が無い。

ここからが問題だ。ついでに大事な部分をチョン切られ、身も心も女になって生き直せと言われるわけだ。

なんともオスをバカにした話である。

げに哀しきオスの人生である。

そう考えると、人間界の情交をめぐる駆け引きなんて甘っちょろいものなのかもしれない。

でも、この世においても、危険というか、魔の手はたくさんある。私自身、マヌケな経験だらけだ。安易に変な女性に近づいて、とんでもない思いをしたこともある。因果応報である。

男のアホさとか、男の業のようなものを上手に消化してこそ大人なんだろうが、どうもそのへんがスマートにいかない。

なんだかんだ言っても、カタブツとして日々を暮らした方が平和なんだと思う。

2013年5月29日水曜日

「バター」バンザイ

1000年以上前、貴族の食卓に上がる前までは「野蛮人の食べ物」と言われていたそうである。

バターのことだ。

知らなかった。あの偉大なるバターにそんんな歴史があったとはビックリだ。

1000年以上前なら私も大いに野蛮人である。確かに、「バター」という響きにはどことなく禁断の響きがある。

成人病予備軍だからそう感じるのだろうか。でも、バターと聞くと、なんとなく淫靡で後ろめたいことを想像してしまう。

野蛮人である私は、時に無性にバターが恋しくなる。あの香り、あのエロティックな味わい。許されるなら毎日、醤油とかニンニクを加えた炒め汁を舐めていたいと思う。

ウィキペディアによると、わが国では、明治になって外国人のためにバター作りを始めたが、初期の頃は、一般庶民は匂いを嗅いだだけでゲロ爆発モードになっていたという。

そんな話はさておき、今日は「寿司屋でバター」という邪道の極みみたいな話を書く。

いつもワガママオーダーに応じてくれるから、ちょくちょく出かける高田馬場の鮨源には申し訳ない気持ちでいっぱいである。でも、毎度毎度そういうわがままを言うわけではない。普段はまあまあ普通に食べている。

この日も普通にしおらしく過ごしていたのだが、目に前のネタケースに待機しているホタルイカ軍団が私にささやく。

「私のハラワタを味わったらど~よ~」。

かなりしつこく誘われたので、食べることにする。いつもはニンニク醤油で付け焼きにしてもらって焼酎の肴にするのだが、この日は「ニンニクバター炒めでお願いします」と禁断のフレーズを口にしてしまった。


で、やって来たのがこの画像の一品。贅沢なことにトッピングのようにニンニクバターの塊も乗っかっている。

ホクホクのホタルイカの熱で溶けていくニンニクバター。脂っぽい汁をまとったホタルイカはまさに官能的な味である。

皿に残った「脂汁」に旨みが凝縮しているから、舐め舐めしたいところをこらえて大事に温存する。


そして第二弾バター攻撃がやってきた。生ガキのニンニクバター焼きである。ほころぶ私の顔もすっかりアブラギッシュだ。コレステロールだ、高脂血症だ、そんな課題は一時的に封印する。ウマい料理を前に健康だのヘチマだの言ってる場合ではない。

カキのエキスがたっぷりの「脂汁」が皿に残った。ぐびぐび飲み干したかったが、グっとこらえて温存する。

大人が大人である理由はただひとつ。「グっとこらえる」。これに尽きる。

おかげで二種類の「スーパーニンニクバター脂汁」が私の手元に用意されることになった。大人である。アダルティ~である。

大人だから、あらかじめ「冷静に次なる戦略」を練っていたわけだ。ここからが本当の邪道である。

「蛇の道は蛇」ならぬ「邪の道はバターである」。


寿司飯に二種類の「スーパーゴールデン脂汁」を加えて炒めてもらった。禁じ手というか、反則負けみたいな話だが、逆立ちしたってマズいはずがない。絶品極まりない味だった。

この一握りの米達も、寿司飯として完成した後に、まさかニンニクバター汁でベチョベチョ炒められてしまうとは夢にも思わなかっただろう。

「ホタルイカとカキのエキスぶりぶりのガーリックバターソースの寿司飯チャーハン」である。

寿司飯のわずかな酸味がベタベタした味わいになりがちな部分を微妙に引き締める。バンザイ三唱みたいな気分になった。

そもそもワガママな一品を作ってもらった後ろめたさ、邪道なものに驚喜したい気持ちを抑えようとする自制心、上等な普通の寿司を前にして脇道にそれてしまう恥ずかしさ、でも単純明快に口の中が幸福で満たされる気分。。。いろんな感情が混ざり合って卒倒しそうな時間だった。

大げさだが、そんな感じだった。

すべての道はローマに通じるらしいが、この日のすべての源はバターである。

バターさまさまである。バターバンザイである。

2013年5月27日月曜日

うさん臭い話

沖縄の美ら海水族館。海洋博の跡地利用だと知らない若者が増えているそうだ。沖縄海洋博は36年前の話だから当然といえば当然だろう。

海洋博よりも前の昭和45年に開催された大阪万博となると、それ自体を知らない世代も存在する。太陽の塔をシンボルに掲げた国家的イベントだった。

昭和39年の東京オリンピックに続いて日本を元気づけたイベントが大阪万博。半年間の会期中、総入場者数6420万人を数え、国際博覧会史上、初めて黒字化に成功したことでも知られる。

各種通信機能や電気自動車から温水洗浄便座に至るまで、万博に出展してその後実用化された商品も多い。まさに日本の戦後成長を象徴した昭和の大きな記念碑的位置づけである。

私自身、二度ほど行ったらしいが、なにぶん幼い頃の話だから具体的な記憶はない。

あれから43年。今では“歴史”として認識されるほど遠い昔の話だが、今になって「大阪万博」の名前を耳にする機会があった。

その話題とは万博主催団体の廃止について。これもまた歴史的な珍事といえる出来事だろう。

「日本万国博覧会記念機構」の廃止法案がこの国会でようやく成立する。6年前に廃止が閣議決定していたにもかかわらず、具体化にこれほど時間がかかる体質には呆れる。

大阪万博を主催したのは「(財)日本万国博覧会協会」。万博終了翌年に「記念協会」に改組して、跡地の管理運営を担うことになった。いうまでもなく官僚の天下りを受け入れる特殊法人である。

その後、特殊法人の整理や合理化計画が打ち出されても、なんだかんだとしぶとく生き残り、「記念機構」として存続し続けていた。

万博が終わってから43年である。凄い話だと思う。仕事は跡地である公園運営だけである。なんともオヨヨである。

前半で書いた、「大阪万博は国際博覧会史上初めて黒字化に成功」という偉業も、その後の特殊法人に投入された予算を考えたら話はまるで変わってくるのだろう。

これまた実に日本的な怪しげなロジックなんだと思う。

万博の成功自体が戦後日本の象徴だが、その後に延々と続いていた奇っ怪な税金の無駄遣い体質もまた残念ながら日本の象徴だろう。

アベノミクスとか、TPPとかが話題になるにつれ、行政改革という言葉がいつのまにか永田町で聞かれなくなってしまった。

天下りのためだけに存在するような意味不明の特殊法人はゴロゴロある。労働団体をバックにしていた政権とは異なり、高い支持率を得ている自民党政権がやるべきテーマはここにもある。


2013年5月24日金曜日

大嫌い

ボケっと見ていたテレビで、マヨネーズ嫌いの人の嘆きを放送していた。いわく、パン屋の総菜パンにはたいていマヨネーズが入っているから迷惑だとのこと。

マヨラーにとっては歓迎すべき話だが、「アンチ・マヨ」の人にとっては死活問題なんだろう。

考えてみれば、総菜パンのマヨネーズのように、何気なくそれが当然とばかりに普及しているものは多い。

カツ丼の上に乗っかっているグリーンピースも象徴的だ。あれは不要だ。フタを外した時にフタの裏にくっついていると嬉しくなる。除外する手間がいらない。茶柱が立っていた時と同じぐらい幸せを感じる。

それにしてもグリーンピースって何がしたいんだろう?

卵でとじられた芳醇なカツには決して合わない味だし、ご飯とも相容れない食感だと思う。見た目の色合いだけで使われている。邪魔だ。

ピラフなんかに無節操に混ざっているのも困る。上にちょこんと乗っている分にはドカすのは簡単だが、全体に混ざっていたら一苦労だ。つくづくアイツは追放したいと思う。

好きな人には申し訳ないが、私はアイツが嫌いだ。

パプリカって野郎も何がしたいんだか分からない。そもそもアイツはいつから市民権を得たのだろう。昔は見かけなかった。

細切れでサラダなんかに混ざっているとピーマンそっくりな風貌だが、間違えて口に入れてもピーマンほど邪悪な味ではない。そこがクセモノだ。少しだけ心を許しそうになる。

でも食感が気に入らない。なんか脇役に徹していないというか、味もないのに存在感はしっかりある。アイツも見た目の色合いのために安易に使われているのだろう。

好きな人には申し訳ないが、私はアイツが嫌いだ。

ついでにいえば、ニンジンも何とかしてほしい。アイツもオレンジ色という部分だけが生命線なんだろう。ウマいものだとは思えない。彩りのためだけに、いわば料理をする人の美意識のためだけに安易に投入される。

とにかく、見た目の色味のために使われるけったいな野菜達がどうも好きになれない。まあ、向こうもこっちを嫌っているのだろうが。

平然と皿の上に残せばいいだけの話だが、それもそれで私の自尊心?に影響がある。

空いた皿を下げにくるウェイターとかに「このオッサン、いい年してニンジンも食えないのかよ」と嘲笑されている気がする。単純に恥ずかしい気分になるから迷惑千万である。

ちなみに私がレストランでハンバーグを食べたとする。食べ終わった時、皿の上のニンジンとインゲンはそのまま微動だにせず、運ばれてきた時と寸分たがわずに冷めた姿をさらしている。

これって結構恥ずかしいものだ。小さい子供でもあるまいし、かなりみっともない。子供なら親に叱られて一口食べたり、インゲンの並び方をいじっって格闘したふりをするが、私の場合、誰も叱ってくれない。一切ノータッチだ。

ウエイターはお節介にも「お済みですか?」とか「お下げしてよろしいですか?」と私の恥を強調するかのように私を詰問する。あれがツラい。

私にすれば「ニンジンもインゲンも注文してませんけど」と言いたくなる。死ぬまでに一度そんな戯れ言を真顔で言ってみたい。本気でそう思う。

先日、12歳になる娘とモスバーガーに行った。娘の注文は「極みバーガー・タマネギ抜き」である。

モスの極みバーガーは、肉以外にはタマネギしか入っていない。すなわち、娘は「肉だけバーガー」を頼んでいるわけだ。実に恥ずかしくみっともないことだが、それが現実だ。まさに「遺伝子、恐るべし」である。

子は自分の鏡なんだと少し落ち込む。

話は変わる。

根っからの東京人として最近の気に入らない風潮をもう少し書いてみる。すべては自分勝手な意見であり、あくまで個人的な偏屈理論なので御容赦願いたい。

銀座あたりの高級寿司屋あたりで顕著なのだが、安易に「ゆず、すだち系のしぼり汁」を使うのがイヤだ。

イカとかコハダとか、当然のように塗りたくったり、垂らしまくってくる。味が台無しだと思う。女性に媚びを売っているのだろうか。女性が強くなった時代の象徴かもしれない。

香水をぷんぷんさせて寿司屋に来るような味の分からないホステスにはウケるのだろうが、魚の香りも味も全部ぶっ飛んでしまう。あれはヤメてほしい。

そういえば、やたらと増殖した小洒落た日本蕎麦の店で、せいろを塩で食ってくれとか言われる機会も増えた。オイオイって感じだ。絶対に違う。蕎麦は蕎麦つゆだろう。それ以上でもそれ以下でもない。

塩で蕎麦食ったってウマくも何ともない。一口目はつゆをつけずに食べろとか、分けの分からない「流儀モドキ」のせいで、なんだか蕎麦の世界まで窮屈になっているのは滑稽だと思う。

今日は下世話な文句ばかり書き殴ってしまった。ちょっとイヤなことがあったから、ついついブツブツモードに突入してしまった。

結構スッキリした。

2013年5月22日水曜日

高級スーパーの魔力


スーパーマーケット。子供の頃から割と好きだった。親の買い物にちょこちょこついて行き、おやつにバッテラの押し寿司を買ってもらうことが大好きだったこともある。

まだコンビニが普及していない時代だったから、必要な買い物はスーパーで揃えるのが日常だった。

最近は、100円コンビニとか、たたき売りに命をかけるようなスーパーが増えた。ごくごく平凡なスーパーも品揃えに工夫を凝らし、一方では高級路線にシフトしたスーパーも人気だ。棲み分けがしっかりできている感じだ。

高級路線のスーパーはアレコレと見ているだけで楽しい。ついつい余計なものまで買ってしまうが、妙にウキウキする。

スーパーが高級路線かどうかは、レトルトカレーの品揃えで一目瞭然だ。今では100円で買えるレトルトカレーだが、価格帯は実に幅広い。高級スーパーに行くと500円クラスはザラで、1食分1000円なんて強気な商品もある。

カレー専門店まで出かけていったほうがウマいはずだが、そこは高級スーパーの魔力だ。わざわざ置いてあるんだからきっとウマいはずだと思い込んでしまう。

で、高級レトルトカレーだが、100円で売っているカレーよりも3倍か4倍は美味しいと思う。10倍ウマいとは思えない。すなわち高すぎるという結論だ。

ちなみに私がイメージしている高級スーパーは「クイーンズ伊勢丹」「成城石井」あたりの路線だ。それ以外には都内某所にちんまり店を構える「エスカマーレ」も捨てがたい。

高級スーパーの楽しみは鮮魚、精肉が結構侮れない点にもある。もちろん、お手頃な価格帯の商品もあるが、本マグロの赤身が5切れぐらいで1000円とかだと、ついつい惹かれてしまう。

居酒屋で頼んだ方が確実に安いような刺身数点を買い込み、家で寿司飯を作れば、かなり豪勢な寿司パーティーが楽しめる。

高級スーパーだと寿司酢も高級品が売っている。そんなものも買い込んで、せっせと寿司飯作りに励むと妙にワクワクする。わざわざ買ってある白木の桶に熱々の炊きたて飯を投入、寿司酢を合わせて職人気分でシャリ切りである。

買ってきた刺身は自慢の備前の大皿に慎重に盛りつける。あとはウホウホ食べるだけである。

握りは無理だが、それは大した問題ではない。海苔さえあれば巻き寿司になるし、何よりも刺身とともに大好きな酢飯をアホみたいに頬ばれる。至福の時間だ。

他にも毛ガニ食いが好きな私にとって、高級スーパーは頼もしい味方だ。この季節、しょっちゅう毛ガニに遭遇する。1杯2~3千円ぐらいで楽しめるのだから北海道居酒屋で食べるよりも気楽だ。

5千円クラスの毛ガニも見かけるが、不思議なもので高ければ高いほど「絶対にウマいはずだ」と確信して買ってしまう。外食に比べれば安いものだと無理矢理な屁理屈で自分を納得させる。このあたりは富豪?ぽい行動パターンだ。

でも、高級スーパーで毛ガニだのウニだの本マグロだのを買い込むとかなりの散財になる。正直、寿司屋に行けば良かったと後悔することも多い。そんなことでウジウジしているから本物の富豪にはなれないのだろう。

日々、簡単で効率的でウマいものが食べたいと思っている私にとって、高級スーパーに常備してある生パスタも有り難い存在だ。茹で時間3分ぐらいだから手軽だし、食感も良い。出来合いのパスタソースも最近は結構マトモな商品が多いから、実に簡単に真っ当なパスタが完成する。

出来合のパスタソースに好みで香辛料を足したり、上等なオリーブオイルやスパイスを振ったりすればかなり本格的な味になる。

レトルトカレーとは異なり、レトルトパスタソースは200~300円クラスで高級?路線だ。もう少し高くてもいいから、もっとバラエティに富んだ商品が登場しないか常々期待している。

調味料の品揃えも高級スーパーの面白いポイントだ。醤油やポン酢とか各種のつゆだってアホみたいに高い商品がゴロゴロ置いてある。

先日もそうめんつゆの妙に高いヤツに手を出したが確かにウマかった。ポン酢の高いヤツは、やたらとゆずの香りがキツかった。こういう実験を繰り返すのは結構楽しい。


先日購入した「高級ウスターソース」である。日頃、ソースマンとして生きている私なのに自宅にあるのはごくごく平凡なブルドックソースである。

かつて、洒落たラベルの洒落た値段のウスターソースを買ったところ、ちっともウマくなかったので、今までは平凡なソースで満足していた。

ところが、この日見つけた高級ソースは、天下のブルドック様の上級バージョンである。迷わず買った。熱々のクリームコロッケで試してみた。

「たかがソース、されどソース!」と叫んでしまった。ウマい。ちゃんと値段の違いを実感できる。後味がスッキリ、実にハンサムな?味がした。

「知ってしまった不幸」である。知ってしまった以上、今後は平凡なソースマンとしては生きていけない。既に各種の高級ソース研究に励む決意バリバリである。

高級スーパーには「知らなきゃよかった」と思える商品や世界がいろいろある。

幸か不幸か、実に悩ましい問題である。


2013年5月20日月曜日

魚とSM女王


先週、フィルム時代に撮影した水中写真を整理している話を書いたが、いまどきの画像処理ソフトの優秀さには恐れ入る。ちょっとぐらいひん曲がって撮れた画像も簡単に修正できるし、明暗なんかも相当の幅で調整可能だ。

これまでは、カメラを買ったらおまけで付いてくる画像処理ソフトをチョコチョコいじっていた。それで充分なのだが、考えてみれば我が社の制作チームのもとには最先端のプロ用画像処理ソフトがある。デザイナーに使い方も教えてもらえる。

で、試してみなきゃ損とばかりにアレコレいじってみた。膨大に保存してあるフィルム時代のネガのうち、ある程度気に入った写真は簡易なスキャナーみたいな装置でデータ化してある。それらをまとめて補正してみた。

退色していた部分が甦ったりして妙に楽しい。微妙な調整も思ったより効果がある。
最近、私がデスクで難しそうな顔で集中している時は、たいてい画像処理ソフトで遊んでいる時だ。

★画像クリックで拡大表示されます。




上からジョーフィッシュのアップ、貝殻に身を潜めてこちらの様子をうかがうカエルウオ、ハタの仲間のアップだ。

昔、敬愛する水中写真家の中村征夫さんが「水中顔面博覧会」なる写真集を出した。かわいい顔、とぼけた顔、奇っ怪な顔。魚にもいろんな表情があることを再認識した。

そんな影響もあって、魚の顔を前から撮影するのが好きになった。だいたいはカメラを警戒して緊張気味の表情だが、普段はもっと顔つきが穏やかだったりするから、そのギャップを見るのも楽しい。







泡をボコボコ吐いて泳ぎが下手で、失明しそうな程まぶしく光るカメラストロボを手にする人間という摩訶不思議な物体にたじろぐ魚たち。彼らにとっては、人間は歓迎すべき客ではない。迷惑な存在だろう。そんな謙虚な気持ちで潜っていると、魚達に接近できるようになる(ウソです)。

でも「撮ってやるぞオーラ」が強く出てしまうと、その殺気に魚は敏感に反応して逃げてしまう。被写体を見つけても目を合わさずに知らん顔して少しずつ距離を縮め、パっと撮影するのが大事なコツだ。






このあたりの画像は20年ぐらい前に撮影した。インドネシアやカリブ海のケイマン諸島あたりで撮影した時のもの。画像処理ソフトのおかげでそれなりに楽しめる画像に甦った感じだ。

画質は落ちるが、素人が趣味で楽しんでいる分にはこのぐらいの状態で保存できれば御の字である。

さて、前回の更新時に「半水面写真」の話を書いた。超広角レンズを使って水中と水上を同時に写し込む写真だ。

水面に水着姿の女性がいれば構図が作りやすい。




この写真は昔々、マレーシアのランテンガ島で遭遇したナゾのTバック愛好女子に協力をお願いして撮影した。

辺鄙な島になぜか一人で来ていた日本人Tバッカー。宿が一軒しかない小さい島なので言葉を交わすようになり、そのTバックぶりに圧倒されながらも半水面写真のモデルをお願いした。

もっと接近しないと狙い通りの写真は撮れないのだが、親しい間柄でもないし、こちらもウブな若者だったので、遠慮気味にカメラを構えた。

初めて見るTバック水着である。大興奮である。漏れ出る鼻血をものともせず、若さ故に前屈気味の姿勢?でバシバシ撮影した。36枚しか撮れないのが実に歯がゆかった。

翌日も再度の撮影をお願いした。ちょっと図々しくなって「半水面」という意図もどっかに飛んでいき、ただただ「尻画像」を撮っていた。




その後、ナゾのTバッカ-の正体が「現役のSM女王」だという驚愕の事実を知る。怖いから以後はモデルをお願いできなくなった私だ。かなりウブだったのだろう。

時は流れて、中年どっぷりになった今、ふと「Tバック好きのMっぽい自分」に気付くたび、あの日の体験を思い出す。

長年、南国を旅してきたのだから、もう少しロマンチックな思い出があっても良さそうだが、映画のようなランデブーなど間違っても存在しない。

残念ながらそれが真実である。

2013年5月17日金曜日

フィルムの時代


今年は潜水熱が強まって仕方がない。この前の連休と3月に海外に出かけてきたくせに、次はどこに行こうか思案中だ。

コンパクトデジカメでもそこそこの水中写真が撮影できることを実感したせいで、荷造りや現地での機材セッティングがラクになったことも大きい。

その昔は撮影機材も大きく、陸用のカメラを水中用にセッティングするのも今よりも面倒だった。長旅の後、宿に入って2時間ぐらいガチャガチャいじっていたが、今ではほんの2~30分でスタンバイだ。


5年ぐらい前までフィルムカメラを使っていたから撮影スタイル自体が大きく変わった。水中でフィルム交換できないわけだからアナログ時代?はシャッターの無駄押しは厳禁だった。

一昔前は、一眼レフを入れた水中ハウジングを多いときは3台持って潜っていた。それでもシャッターチャンスはわずか100回である。それぞれのカメラに装着していたレンズの特性もあるから単純に100回のチャンスがあるわけではない。

嬉しい被写体に遭遇したのにフィルム残数が無い時の切なさは涙チョチョ切れだった。ああいう思いはデジタル時代の今では考えられない。

デジカメを使うようになって数年、不思議なことにフィルム時代のほうが自分なりにグッとくる写真が撮れていたような気がする。

ちょっとキザったらしい言い方だが、フィルム時代の気持ちの強さ、撮りたい被写体への思いの強さは、何度も撮り直しがきく今とは随分違ったのだろう。

最近、フィルム時代の水中写真を整理しているのだが、結構自慢したくなるような「作品」がごろごろ出てきた。あの頃の情熱に比べると、最近はただ記録しているだけのような気がする。

★画像クリックで拡大表示されます。




中米・ホンジュラスで撮影したイルカの画像からは、わざわざイルカと水中で戯れるために遠路はるばる出かけていった時の気持ちがこもっているように感じた。

一昔前は広角レンズで海の気持ちよさを撮影するのが大好きだった。今ではヘンテコ魚の顔のアップとかを撮ってヒヒヒっと変態みたいに喜んでいるが、やはりワイドレンズの写真は気持ちよい。




水面のきらめきにはついついレンズを向けたくなる。マレーシア・シパダン島の浅瀬を泳ぐ4匹のカイワリと一緒に水面を写してみた。

次の画像はモルディブの浅瀬だ。フィルムデータをデジタル化したせいで画質は粗いが、その時の爽快な気分まで写せたような気がする。

ピンクのソフトコーラルも背景にダイバーを入れ込むことで海の広がりを表現できる。この頃はニコンのフィッシュアイレンズを愛用していた。レンズ面のすぐそばに被写体をもってくる必要があるため、適当な被写体に出会わない時はソフトコーラルのような動かない物体を必死に撮影していた。




フィッシュアイレンズの醍醐味は触れるぐらいに接近できる群れに出会ったときだ。この3枚はフィリピン・アポ島で撮影。したギンガメアジ。それこそレンズと魚がくっつくほどの距離でバシャバシャとシャッターを押しまくった。

ギンガメアジと並んで超広角レンズを楽しく使えるのがバラクーダ(オニカマス)の群れだ。アジよりも怖い顔だし、歯も鋭いから接近すると何となく気持ち悪いのだが、シャープな姿形はカッチョいい。




超接近の1枚目、ダイバーを入れ込んだことで群れのスケールを写しとれた2枚目。そして3枚目は手前味噌ながらちょっと珍しい一枚だと思う。

半分水中、半分水上を一緒に移し込む写真のことを半水面写真と呼ぶが、バラクーダの群れで半水面写真が何とか撮れたことが嬉しかった思い出の一枚だ。これもマレーシアのシパダン島で遭遇した。

半水面写真は、水面に漂う水着姿の女性を中心に撮影するとなかなか格好いい写真になるのだが、そんなチャンスはなかなか無い。

プライベートプールが付いたヴィラに泊まるようなムフフなリゾート旅行であれば、誰にも見られないプールでアレコレと面白い半水面写真が撮影できる。

ある意味、日頃必死に魚を撮影しているのも、その手のムフフ画像を上手に撮るための練習みたいなものかもしれない。

そんな画像のストックもいろいろあるのだが、さすがにこのブログには載せられない。スイマセン。

その代わり、次回の更新では、謎のTバック水着女性に偶然モデルになってもらった20年ぐらい前の画像を紹介したい。

何年か前にこのブログでちょこっと紹介したが、最近、画像処理ソフトの使い方を学んでいるので、そこそこ見応えのある“作品”になったような気がする。

2013年5月15日水曜日

牛、ホタルイカ、マヨネーズ


気持ちばかり盛り上がるのに、いざとなると大して食べられなくなってしまったのが牛肉である。


この画像のようなジャンクな肉なら出がらしみたいだからバクバク食べられるのだが、いっぱしの高級肉だともうダメ。

くどくて一切れ、二切れで満足してしまう。ちなみに画像は「焼きそば牛丼特盛り」by
すき家である。えらく感激しながらモノの5分で完食した。

ジャンクな牛肉はきっと煮たり焼いたりしているうちに成分がみんな逃げ出しているから大量に食えるのだと思う。根拠はないがそう思う。

対して、そこそこの値段を取る肉料理屋の牛肉はなかなか箸が進まない。貧乏なわけではない。胸焼けしそうで遠慮してしまう。

どう逆立ちしても加齢が原因だ。若い頃のように15回も潜水したり、若い頃以上に女性相手に頑張れる?私だから、加齢なんぞにゃ負けていないと自負していたのだが、牛肉に関しては確実に弱くなってしまった。


池袋のお隣・大塚に妙にウマい焼き肉屋がある。東京苑という店で、週末などは予約必至である。さまざまな部位が用意されていて、レバ刺し、いや「レバ軽く炙り」も絶品だ。

ロース肉にしても、全ロースから1%しか取れない、その名も「1%ロース」とか「10秒ロース」、「3秒ロース」なるメニューもある。後者の二つは、文字通り焼く時間が10秒でOK3秒でOKという意味だ。

すこぶるウマい肉だ。でもたくさん食べられないことが悲しい。ついつい「塩ハツ」とかタン塩系の軽い方に行ってしまう。


この画像はテール蒸しだ。冷めないように鉄板の上に置かれる。ぐつぐつ煮込まれて、ホロホロと肉が骨から外れる。酒のツマミに最適だ。この肉は、それこそ私好み?のジャンクさで、ハイボール片手に延々と食べ続けてしまう。


山芋キムチ、梅干しキムチなんかもあって、牛肉に負けているオッサンも喜ばせてくれる。いままでこの店にはスーパー空腹状態で行ったことがないため、近いうちに飢餓状態で肉を食い散らかそうと考えている。

ということで、肉に惹かれなくなってしまった私は相も変わらずお寿司屋さんに足を運ぶ。空腹でなくても、たとえ重度の二日酔いだろうと、カウンターに陣取ってチマチマ食べたり飲んだりしている。


さっぱりした白身や貝類をそのまま食べていればいいのに、今も脳は若いつもりだから、ついついサッパリの対極も求めてしまう。

この画像はホタルイカの「ニンニクバター炒め」だ。ウヒョヒョ~って言いたいほどガッツリとウマ味が口中に広がる。高田馬場の鮨源で作ってもらった。

バターだのニンニクでウホウホ喜ぶんだから、フレンチでもイタリアンでもがつがつ食べられそうなものだが、そこは微妙に違う。

こういう「アレンジ系クドクド酒肴」を堪能した後にさっぱりした一品でリセットできるからお寿司屋さんは偉大である。鰹の刺身を食べたり、ボタンエビの脳天をジュルジュルすってみたり、「非油系」が中心にあればこそコッテリしたツマミも生きるわけだ。

で、結局、ナマのトリガイとか、コハダとか王道系の握りを食べる。実に幸せである。

そのあたりで「ごちそうさん、お勘定!」とイキな男のように去って行けばいいのだが、そうならないところが私の特徴だ。

運良くこの日は「ツナ様」を用意してもらっていた。それもいつもの標準仕様ではなく、「キュウリ抜きバージョンである」。


牛肉が食えないだの、胸焼けがどうだの、さも繊細でデリケートで、例えて言うなら結核でやせ細って病床で俳句を詠んでいるような男のフリをしている私だが、結局は、スーパーツナ軍艦というマヨネーズ料理に舌鼓をうっているわけだ。

そんな日々である。いとをかしである。

2013年5月13日月曜日

ネットの言論と空気



この夏の参院選から、いわゆるネット選挙がスタートする。インターネットを使った選挙活動がようやく解禁されるわけだ。

公職選挙法が「文書図画の頒布」を規制している理由は配布枚数を制限しないと、制作費や発送費に莫大なカネがかかるという一点だ。

カネのかからない選挙を実現するためにはもっとも趣旨だが、インターネットが普及した今、そんな考えをネット上の表示にまで準用すること自体が不自然。解禁されるのが遅すぎたぐらいだろう。

ツイッターやフェイスブックで積極的に自説を述べたり活動報告を展開する政治家が増えている。有名政治家、人気政治家ともなれば、何万人、何十万人が閲覧する。当然、寄せられるコメントも相当な数にのぼる。

ここで少し気になるのが、その種のコメントの内容だ。政治家の発信源であるツイッターとかフェイスブックなどの“コミュニティ”に参加しているのは支持者が中心だ。

書き込まれる内容は必然的に単なる追随やヨイショが大半になる。善し悪しは別として、まるで親衛隊かと見まがうようなオベンチャラがあふれている。

批判的な書き込みがあっても、多勢に無勢だ。政治家本人ではなく、熱くコメントを載せている常連組の支持者から逆に糾弾されたり、全否定されたり、排除されかねない空気が支配的だ。

その種の政治家の“コミュニティ”は、一種のファンクラブ的な性質がある以上、そうした傾向は、ある意味当然ではある。

ただ、当事者である政治家本人が「ファンの声」ばかりを「国民の声」だと勘違いしないか少し心配になる。

ハンパ無い数の「いいね!」ボタンの数や肯定的コメントばかりが溢れる状況は、元々の投稿者本人にとっては気持ちよいだろうが、あくまで特殊な環境である。決して一般世間の視線とは違う

もちろん、政治家だけでなく、タレントや著名経営者など話題の人の「タイムライン」とか「つぶやき」も似たような傾向なんだろう。

新しいメディアの形として、この点が旧来型と大きく違う点だろう。昔ながらの紙媒体であれば、寄せられる反響は誤りの指摘や抗議が中心になる。「ごもっとも」とか「よく言った」みたいな賞賛の声がわざわざ寄せられる頻度はさほど多くないのが実情だ。

一方通行型のメディアと異なり、ネットの双方向性がもたらす「ゆるやかな連帯感」みたいな空気がイマドキのSNSの魅力でありパワー?である。とはいえ、限られた世界だけの常識や論理が変に拡大して暴走する恐れも否定できない。

ネット右翼なる存在が問題になっている。ネット上のコミュニティで好き勝手なことを書き殴っているうちはともかく、その広がりが東京や大阪でのシャレにならない人種差別デモの拡大につながっていった。

ネット上の言論は時に冷静さに欠ける感情的なものになりがちだ。実態を伴わない「ブーム」も猛烈な勢いで広まる。そのエネルギーの強さは侮れない。

大げさかもしれないが、そうした「熱」の行き着く先が妄信的な全体主義だとしたら恐ろしい。戦争に代表される歴史上の世界中の失敗は、冷静さを失った熱病のような空気がすべての元凶である。

なんだかクドクドと小難しい話を書き殴ってしまった。

一応、ややこしい話を載せてみたが、私の大きな関心事は、朝ドラ「あまちゃん」の今週の展開である。


2013年5月10日金曜日

インドネシア・ブナケン島の海


インドネシア・スラウェシ島の旅。前回のレンベに引き続き、メナド(マナド)側に移動した後の話です。

メナドのダイビングは、沖合に浮かぶブナケン島がメインになる。周辺は古くから国立公園に指定され、かつてはあのシーラカンスが捕獲されたほどの自然いっぱいの海だ。

メナド市街から30分ほど北上した場所にダイビングセンターを併設するリゾートがいくつか存在する。ブナケン島にボートで移動するのに便利な立地だ。

今回選んだのは、創業40年ぐらいの老舗「ヌサンタラダイビングセンター」。略して「NDCリゾ-ト」と呼ばれる施設だ。

最近、リニューアルして快適なリゾートに変身したらしい。日本での情報が乏しい中、恐る恐る?予約してみた。


行ってみて仰天。なかなかオッシャレ~なリゾートである。レンベの民宿?から移動したので天国かと思った。

リゾート感覚あふれるプールは上と下の2層構造だし、敷地も広く花が咲き乱れ実に良い感じだ。

とはいえ、ソフト面はダメだった。カタコト英語が通じない、言ったことは忘れる、頼んだこともやらない。ナシゴレンのルームサービスに1時間以上かかるし、レストランのサービスも異様なほど間延びしていた。

で、お客さんもほとんどいない。いないのにすべてがスムーズに運ばない。聞くところによると経営者が変わってマネージメントとプロモーションがうまく回っていないらしい。

そうは言っても、段取りの悪さを覚悟すれば穴場のリゾートという見方もできる。ダイビングには問題なかったので、一日中海に出るダイバーなら悪くないかもしれない。


それにしても、せっかくイマドキのアジアンリゾート風にリニューアルしたのに、玄関のそばにあるシュールなマッチョダイバー像は実に微妙である。何が言いたいのだろう。海パンのモッコリがリアルでたじろぐ。

さて、肝心のダイビングの方は、ここで26年も潜り込んでいる46歳のオッサンがチャーターガイドとしてついてくれた。同じくチャーターしたボートには、ガイド以外にスタッフが3人も乗り込んできてアレコレ世話してくれたから、水中撮影に専念するにはなかなか良かった。

18年ぶりに潜ったブナケン島は、部分的にサンゴがダメになってはいたが、トータルでは相変わらずの美しさ。世界的なダイビングポイントと言っても過言では無いと思う。

基本的には、ズドンと深海まで落ちているドロップオフの壁沿いを潜るのだが、透明度も30メートルぐらいあるし、浅場の棚の上は色とりどりの魚とサンゴで癒やされる。近年のレンベ人気に負けまいとガイドも小さい珍しい魚を一生懸命見せてくれる。

★画像をクリックすると大きく表示されます。





わざわざこっちエリアまで出かける日本人ダイバーは、マクロ撮影の鬼みたいなマニアックな人々が多い。近年はレンベエリアだけを目指す人も多いようだが、王道であるブナケン周辺でもマニアが喜びそうな生物は見られる。

個人的にはブナケン側の気持ちよい海の開放感のほうが、泥地ダイビングのレンベ側よりもツボにはまる。再訪するならブナケンエリアだけで潜り倒したいと思う。





私が昔から大好きなクダゴンベだ。何度も遭遇した。フィルムカメラの頃に撮影したのが最後だったから、久しぶりに何十カットも撮影した。

今日の画像のほとんどはすべてコンデジ(オリンパスTG-1)で撮影した。特殊な効果を狙った撮影以外ならイマドキのコンデジは充分に撮りたい画像が撮影できる。

水中着脱式のフィッシュアイコンバーターレンズをストロボアームに常に装着しておけば、超接写から超ワイドまでオールマイティーにカバーできる。

今回、ウミガメに随分会ったのだが、巨大な個体に出会ったときもフィッシュアイコンバージョンレンズが活躍してくれた。





レンズが鼻先に当たるほど接近して撮影しても顔だけのアップではなく、周囲の景観も含めて写せる。カメの大きさを分かりやすくするため、46歳のおっさんガイドダイバーに並んでもらったが、撮影距離は60センチ程度しか離れていない。広角レンズの面白さだ。

それにしてもデカいウミガメだった。それこそ目と鼻の先でストロボ光を浴びせまくっていたから、そのうち怒り出して抱きつかれたりしたらどうしようと少しビビりながら撮影した。

デカいカメの次は全長2センチにも満たない魚。非常に珍しいピグミーシーホースの仲間だ。大きなカメと1.5センチほどの魚の両方が一台のカメラで撮影できるわけだから世の中便利になったものだ。

その名も「ヒポカンポス・ポントヒ」。新種として発見されてからまだ何年も経っていないというレアな生き物らしい。

2個体遭遇したのだが、こいつが小さいだけでなく、常にユラユラ動いているせいで、なかなか撮れない。満足した撮影はできなかったが、レア種を目の前にいると思うだけで興奮するから面白いものだ。




レンベで砂地や泥地を這いずり回るダイビングをした後だけに、抜けるような青い海の中でチョコチョコ面白い被写体が見つかるブナケンの海が楽しくて仕方がなかった。

スラウェシ島のメナドは、その昔、日本からガルーダ航空の直行便が就航する計画があったらしいが、諸々の事情で立ち消えになった。

地図で見ればさほど遠くない。直行便があれば6時間ぐらいの距離だろう。今回はシンガポール経由で現地入りするパターンだったので、結構移動がカッタルかったが、わざわざ行った甲斐があった。

18年前も感激したのに、なんでこんなに間を開けてしまったのかと我ながら悔しく感じたほどだ。

この次が18年後だったら、もう死んじゃってるかもしれないので、遠からずまた行きたいと思う。

せっかくなので、アレコレ撮影した画像を載せておきます。