2013年2月27日水曜日

自分探しと自分癒し


飲み屋のカウンターで隣に座っていた大人の男が「自分探し」とか言っているのを聞いた。青臭いというかお子ちゃま的と呼ぶべきか、一体なんなんだろう。

「自分」などというものは物心がついた時には出来上がっている。少なくとも高校生ぐらいの頃の自分と現在の自分を比べても、両極端の人間になっているような人は稀だろう。

賢くなったとか、ずるくなったとか、要領が良くなったとか、社交的になったとか、スケベになった、図々しくなった等々、それなりに変化はあるが、心の底にある感性みたいなものは大して変わっていない。

「自分探し」。こんな言葉をのたまうのは、集中すべきことから逃れたいとか、ブラブラしていたいという怠惰への言い訳だ。百歩譲って、現状を打破したい欲求とも言えるが、それですら、単なる逃避だったりする。

まあ、若者特有のカッコ付けのための言葉に過ぎないのだろうが、一応もっともらしく聞こえるからタチが悪い。

本心からそんなことを思うなら、見知らぬ飲み屋のカウンターに一人陣取って1時間ぐらい黙って座っていれば済む話だ。それを一週間に3回ぐらいやれば、アホでも自分の状態は理解できるだろう。夜行列車の旅なんかに出なくても自分の姿ぐらい分かる。

もちろん、自分自身のことを理解できていても、それを肯定してやるか、嫌悪するかで心の在り方は大きく変わる。

私の場合、甘やかしかもしれないが、最近、自分のことを以前よりも肯定する気になってきた。「自分探し」ならぬ「自分癒し」みたいなもんだ。

自分に対して文句を言いたい点は山ほどある。自己嫌悪する部分もたくさんある。懺悔とか無念みたいな感覚だらけだ。それはそれで棚に上げて、ちょっとは自分をいたわって?やりたい気分になることが増えた。

これって、開き直りというか、自分に都合の良い話ではある。その通りである。開き直って自分勝手なワガママを押し通すわけだからカッチョ悪い。でも仕方ない。

しょせんは弱っちい人間なんだから、理想論みたいな綺麗事ばかりを是とすればウツウツしてしまう。ウツウツしてしまったら全てが悪循環になる。だったら自分をヨイショして前向きなエネルギーを生むようにしたほうが良い。

まあ言ってみれば、自分で自分をおだてたり、騙してやった方が生産的だと思うから、「自己肯定」をモットーにしてみようと企んでいる。

自己愛などというと大げさだが、ある意味、それもまた大事だろう。誰も愛してくれないのなら自分で愛してやらなきゃしょうがない。

うん、だいぶ強引な論法になってきてしまった。

世の中のオッチャン、オバチャンが有り得ないほど図々しい生き物に進化していくのはこういう心理面の変化がきっかけなのだろうか。

エラソーに書き綴ってみたが、要は、自分の情けないダメぶりがいよいよ正視できなくなって、自己正当化のために四の五の言いたくなっただけかもしれない。

いや、威勢良く書いてはみたが、そういう風に出来ないから活字にして自分に言い聞かせている部分もある。

多分、そんなところだ。

一人で暮らし始めて4ヶ月ぐらいになる。さすがに自分を俯瞰する機会が増えた。ふむふむ、オレってこんな部分もあったんだと感心したり、呆れたり、結構面白い。

寂しいかと聞かれたら、そりゃ寂しいが、ツラくて困っちゃうほどではない。人間、生まれる時も一人、死ぬ時も一人だ。割り切ってアッケラカンとしていたほうが幸せだろう。

なんだか今日は単なるグチばかり書いてしまっている。こういう日は、職場の近くにある樹齢600年のイチョウの大木でも眺めに行く必要がありそうだ。

その大木を見ていると自分のウジウジした気分がいかにもチッポケに思えるので時々散歩がてら見に行く。そんな気分転換も必要だろう。

●「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。

鴨長明先輩が語った通りである。

●「諸行無常」。

釈迦先輩が語った通りである。

●「ぽっぽぽぽぽぽ、ぽっぽ~」

ねずみ先輩が語った通りだろう。

まあ、なんとか楽しくやっていこう。


2013年2月25日月曜日

まどろみとセックス


春が近いからだろうか。眠くて眠くてしょうがない。ダルいとか倦怠感とも違うようで、ただただ眠い。

極端に睡眠不足でもないし、激しく飛び回ったり、激しく神経をすり減らすようなこともないのだが、無性に眠い。

まだまだバリバリに寒いのだが、身体は春を関知しているから「春暁モード」なのだろうか。それとも肝機能がいよいよヤバい状態になってきたのだろうか。

今もそうだが、若い頃は寝るのが大好きだった。大学生の頃など暇にまかせて10時間睡眠を標準にしていた。幸せだった。

今では、老化?のせいか、休日に寝たいだけ寝るぞと意気込んでも、せいぜい7~8時間でスッキリ目覚めてしまう。

それにしても、世の中に数多く存在する「快感」の中でも「まどろみ」ほど気持ちよいものはない。

「まどろみ」「うたたね」。言葉の響きも妙に素敵だ。こう綴っているだけで眠くなってくる。

まっすぐ帰宅して、まだ夜の早い時間にソファに座ってテレビに映る「壇蜜」を眺めながらウトウトする瞬間の何とも至福な感じ。

休日の午後、お茶をすすりながらソファに腰をおろし、テレビに映る「壇蜜」を眺めながらウトウトする感じも最高だ。

ほろ酔い気分で風呂に浸かり、持ち込んだ週刊誌をパラパラしながら「壇蜜」のグラビアあたりでウトウトしちゃう感じも素晴らしい。

壇蜜はさておき、まどろみの場面をアレコレ思い出すだけで気分がホッコリする。

夏の高原、ハンモックに身を投げ出して気付かぬままにウトウトする瞬間もいい、ビーチリゾートでデッキチェアに転がりながら波音を枕にまどろむのも素敵だ。

静かな温泉旅館で湯あたり気味の身体で、夕食の時間まで束の間ウトウトする感じも堪らない。

まあ、例を挙げればキリがない。

職場で時々、こっくりこっくりしてしまう瞬間がある。あれは良くない。身体は快感に打ち震えて?いるのだが、周囲に示しがつかないというか、気まずい感覚を脳が必死に主張してくるので、ちっとも楽しくない。

会議中の睡魔も同じ。ついでに言えば仕事上の面会相手があまりにクドクドとくだらない話をしている時の睡魔も困ってしまう。

眠くなる話をするほうが悪いのだが、一応、私のほうが悪いというのがそういう場合の社会常識である。困ったものだ。

眠らなくてもバリバリだったことで知られるナポレオンも、馬上でのうたたねの名人だったと聞いたことがある。

短時間のうたたねは、全身の緊張を緩めて血圧や脈拍にも好影響を与えるそうだ。いいことづくめである。

さてさて、崇高なるまどろみの瞬間に話を戻そう。

やはり、男にとって最も至福なまどろみは、フランスあたりで「小さな死」とも称される“男女交歓”直後のまどろみだろう。

「小さな死」などと聞くと縁起でもないように聞こえるが、言い得て妙である。完璧に落ちる感覚というか、無になる感覚をともなう。あのまどろみの素晴らしさだけで充分立派な“後戯”なんだと思う。

もっと言えば、あのまどろみによって男女のセックスの「質」とか「意味」が違ってくるのかもしれない。

変な言い方になるが、男は本能的にそういう行為が出来てしまう生き物である。相手構わずというと極端だが、女性よりは選り好みしないで関係を持ちたがる。

原始的かつ本能的なのかもしれないが、それでも行為の後の「小さな死」は限られた相手との間でだけ生じる現象だと思う。

俗に「カラダの相性」という言い方があるが、それともまた微妙に違うものだろう。

行為そのものが完璧?だったとしても、要は、その相手との行為の後に、完全に無になるようなまどろみに落ちるかどうかは別問題だったりする。

愛情なのか、信頼感なのか、信用なのか、はたまた心地よい油断なのか、はっきりは分からないが、少なくともその相手だからこそ、完全に無防備になれる瞬間が訪れるわけだ。

もちろん、個人差はあるだろうが、行為の後に単なる「弛緩状態」で留まるか、「小さな死」までたどり着くかで男女間の距離とか、関係の深さが推し量れるように感じる。

それにしても、今日は、ただ「うたたねバンザイ」という話を書くつもりだったのだが、随分と高尚な?性愛話に飛んで行ってしまった。

欲求不満なんだろうか。

2013年2月22日金曜日

涙腺ユルユル


なんだか涙腺が弱くなってしまった。しょっちゅうウルウルする。これもきっと加齢だろう。さすがに人様の前ではシレっとした顔で通しているが、こそこそとウルウルしてしまう。

別に大した話ではない。泣ける映画、泣けるドラマを一人で見た日には大泣きする程度の話だ。

いま放送中のドラマ「とんび」。昨年NHKでドラマ化されていたから、二番煎じだろうとタカをくくっていたのだが、毎週のように泣いてしまう。

主人公「ヤス」が通う小料理屋のおかみ(麻生祐未)が別れた娘と会うシーンなんて、アホほど号泣してしまった。

麻生祐未扮する女性は、若い頃嫁いだ家でひどくイジメられて幼い一人娘を置いて離婚。その後、絶縁状態だったのだが、娘のほうから自分が結婚する前に一度会いたいと人づてに告げられる。

断固断り続けたが、主人公の「ヤス」が自分の知り合いだというウソバレバレの設定で小料理屋に連れて行く。

実の娘だとすぐに分かるのだが、お互いそれは口に出さずに過ごす。実の母親は、カウンターに座る客の誰に話すともなく、独り言のように家庭を持つことへの気構えや親の心構えを切々と話す。

そして縁起モノであるハマグリのお吸い物を出す。母親の味にほろりと涙をこぼす娘、物陰でこっそり涙を流す母。

なんとも切なく哀しい。涙を流さずにあのシーンを見られるヤツは悪魔なんじゃないかと言えるほど感動的なシーンだった。

その昔の低俗深夜番組・オールナイトフジの司会をしていた麻生祐未が、あんなに渋い女優さんになったことに驚いた。実に素晴らしい演技だった。

でも深夜の顔だった「オシャレなオネエチャン」が、中年というか初老の役を違和感なくこなしていることで私自身の加齢を再認識させられた。それもそれで悲しい。違う意味で泣きたくなったりした。

別な日、BS放送を録画してあった高倉健主演の「居酒屋兆治」でも泣いてしまった。男女の切ない別れを描いているのだが、妙にジンときてしまった。男と女のもどかしい関係は、いつの時代も切なさを象徴するモチーフになる。うまくいかない、思うように進まない等々、我が身に置き換えてみたりして、まさに身を切るような気分になる。

それにしても映画の中の大原麗子は実に美しかった。薄幸な雰囲気が濃厚で見ているだけで胸が苦しくなる感じだった。ああいう女性に男心は惹かれるのだろう。

でも、あの映画は決して泣くような話ではないと知り合いに言われたので、私の心理状態が変だったのだろう。

それよりヤバかったのが、娘に付き合わされて渋々見に行った映画だ。なんとAKB48のドキュメント映画を見た。

寝る気満々だったのだが、タカミナのリーダーシップに感心したりしながら、ついつい見入ってしまった。結構感動してウルウルしそうになった。ちょっと変だ。

泣きたくて仕方がないのだろうか。

男が人前で涙を見せるのは最低だ。そう信じて生きてきたし、実際、そういう気構えは必要だと思う。最近のスポーツ選手などは男のクセにすぐに人様の前で泣くから困りものである。

簡単に泣いてはいけない。でも、涙を流すことには不思議なリラックス効果もあるから、泣きたければコッソリ一人で泣けばいいのだろう。

録画しただけでまだ見ていない映画がいっぱい残っている。「泣ける方面」の作品ばかりなので、危なくってしょうがない。ノホホンと見続けたら泣きっぱなしになってしまう。気をつけねばなるまい。

恥さらしついでにもうひとつ。先日、運転しながら「ハマショー」で泣いてしまった。二人の子どもを置いて家を出てしまったオヤジをモチーフにした「花火」という曲だ。

ロックの歌詞といえば、好きだの、嫌いだの、戦うぜ、負けないぜみたいな威勢の良い素材ばかりだが、昭和のミュージシャンが年を取るに連れ、確実に世界観も変化しているのだろう。

世の中にオッサンばかり溢れる時代になったから、こんな素材でも名曲に仕上がる。

実に切なくて深い曲です。

http://www.youtube.com/watch?v=7yVXXPT01pQ


2013年2月20日水曜日

時計の役割


女性と違って男の場合、ジュエリーに高価な出費をすることはないが、スーツや靴なんかに凝り出したら結構なお金が飛んでいく。

まあ、それでも宝石類に比べれば大したことはない。男の場合、クルマとか変な趣味とかに大枚を投じて悦に入っているのが普通だ。

そうは言っても、それなりの年齢になれば、身に付けるものには多少の注意は払わないとスマートではない。

多くのマニアが存在するのが腕時計の世界だ。スイス製最高級ハンドメイドともなれば1千万円を超えるような鼻血ブーな商品もある。そういうのは悪事でも働かないと買えそうにないので善行一辺倒の私には無縁だ。

100万、200万ぐらいの腕時計を何本も持っている人は意外に多い。コレクターと称される御仁も珍しくない。

私だって、その気になれば?その程度の時計は買えなくはない。でも買えない。他に出費すべきものが多すぎて手が回らない。

クルマを買い換えなかったり、潜水趣味をやめたり、旅行にポンポン出かけるのをやめれば何とか買えるのだろうが、さすがに無理だ。そんなイジましい努力をして手に入れるほど時計好きではない。


もう何年もの間、パテックあたりを一本持とうかと考えているのだが、勇気がない?から実現していない。

デパートで衝動買いをした比較的安価なスイス時計(Baume et Mercier)を日常の友にしているが、これ以外には廉価品のオメガの小ぶりな革バンドのものとGirard-Perregaux(これはチト高価だった)があるぐらいだ。

大したこだわりなど無いから、選ぶ基準は「読めそうにないヤツ」。こんなフザけた基準が自分の中では大きかったりする。上に書いたのは「ボーム&メルシエ」と「ジラール・ペルゴ」だ。こんな綴り、まず読めないから好きだ。

中学入学記念に祖父に買ってもらった人生初の腕時計は「シチズン」の地味な一品だった。誰も彼もが「セイコー」ばかりヒイキにしていたから「シチズン」にした。

アマノジャッキーとしての面目躍如である。

大人になって、腕時計の一級品に憧れてはみたが、どなたさまもお持ちのロレックスには興味はなく、「綴りが読めないヤツ」にばかり興味を持った。

30年近く前に洒落たダイバーズウォッチが欲しくて購入したのがホイヤーだった。まだ「タグ・ホイヤー」に移行する前の頃の話。凄くメジャーな存在でもなかった点に惹かれた。

ダイバーズウォッチの最高峰といえば、ロレックス・サブマリーナだが、当時、知り合いだった「その筋の人」にしか見えなかった潜水業界の長老が金ピカのそれを愛用していたので、以降、ナゼか興味を持ったことはない。


それならばBREGUETのトランスアトランティックシリーズのほうが欲しい。ブレゲである。これまた綴りが読みにくくて素敵!?だ。

イヤラシイほどの高級イメージがある「ブレゲ」なのにダイバー仕様だ。防水100メートルである。なのに平気で2300万もする。

これを実際のダイビングに平然とはめていける人はいるのだろうか。つくづくいつの日か、そんなトンチキオヤジになってみたいものである。

私が高級腕時計に接近できない理由は財布のせいだけではない。そんな高価なものをいつ何時、腕にはめていいいかわからないからだ。しまい込んでおくのでは意味がないが、小心者なので無くしちゃうのも恐い。酔っぱらって腕時計を外して飲み屋のテーブルに置いてしまうこともある。

そんなヤツは最高級品を持っても無くしちゃったり、盗られちゃったりするだけだろう。



この画像は、ネット上でどこかの業者さんから勝手にパクって来たのだが(すいません)、「Vacheron Constantin」と「Jaeger-LeCoultre」である。こういう雰囲気の時計に憧れる。

何よりも素敵なのは「読めない綴り」!?だろう。「ヴァシュロン・コンスタンタン」と「ジャガー・ルクルト」である。ちっとも詳しくは知らないが名門の逸品だ。

その昔、子どもの頃に何気なくパラパラめくっていた名品図鑑みたいな本に「バセロン・コンスタンチン」という名前で紹介されていた腕時計の値段におったまげた記憶がある。

いまでは「コンスタンタン」などというズッコケみたいな響きが日本での正規の呼び名になったが、昔の「バセロン・コンスタンチン」のほうが、凄まじく強そうで高そうでカッチョ良かったと思っている。

なんだか、時計マニアの人が読んだら怒られそうなほどテキトーなことばかり書いている感じだ。反省。

冗談はさておき、こういう感じでシュっとして端正なフォルムなのに美術品みたいなデザインが混ざっている時計に惹かれる。

誰か買ってくれないかなあ。プレゼントしてくれたら、御礼に寿司とかピラフを10回ぐらいは御馳走するのに。

しょうがないからバンコクとかソウルあたりで一生懸命ニセモノでも探してみようか。いやいやそれも情けない話だからダメだ。
本物が買えない自分、ウソついて格好つけているダメな自分・・・。持っているだけで憂鬱になりそうだ。

そもそも時計の魅力は、未来を刻むことだけを目的に作られている点だ。過去を指し示すことはない。そう考えると実に魅惑的な商品である。

自分の未来にまだまだ期待したい私としては、未来を刻んでくれる時計にはもう少し気を使ってみたい。

みすぼらしい未来もイヤだし、インチキな未来もイヤだ。端正で美しい未来を目指すためにそれに見合った時計を探してみることにするか。

2013年2月18日月曜日

どんよりした時間


どんより、陰気、沈滞、滅入る・・・。どれもネガティブな言葉だが、だからといって、こうした空気がすべて悪だとは思わない。

時には積極的にどんよりしたい時もあるし、どんよりすることで気分を入れ替えるきっかけになることだってある。

大体、いい年した大人の男が天真爛漫ちゃんみたいに常に明るくはしゃいでいたら危険である。逮捕されたほうがいい。

大なり小なり色々な事情をかかえて生きているわけだから、どんよりしながら頭の中を整理したり、哲学的な気分になることは必要だろう。

沈思黙考。なにかとせわしない時代だからこそ、そんな時間も大事だ。

とかなんとかキザったらしいことを書いているが、私自身、単に疲れがたまると無性にどんよりしたくなる。

どんより気分の時は、それに見合った場所で過ごすとなかなか快適だ。

どんよりした店。そう書くとロクでもないが、気持ち良くどんよりできる店で、とことんどんよりしながら熱燗をすすっていると、いつの間にか心がリセットされる。


文京区の大塚にある「S」というお寿司屋さんが私の「どんより基地」である。

楽しい気分の時に行く気にはならない。誰かを連れて行くような雰囲気でもない。実にどんよりしている。

なんとなくグダーとしている気分の時に行きたくなる。知る人ぞ知る江戸前の名店なのだが、このうえなくどんよりしている。

初めて訪ねた時には、瞬間的に「変なところに来ちゃったな」と思ったほど、どんよりしている。

お寿司屋さんなんだから威勢良くチャキチャキして欲しいし、実際にそれが良い店かどうかのひとつのバロメーターなのだが、この店はそんな常識を超越した珍しい店。

威勢が良くない、あえて言えば活気がない。それなのに大変美味しい寿司を食べさせる。握ってもらう前の酒肴も外さない。相当なレベルだと思う。

店の様子も昭和の香りどころか、昭和のままでどんよりと止まっている。決して汚いわけではないのだが、40年ぐらい何も手を入れていないらしい。風情を通り越して、ただ古いとしか言いようがない。

中年、やや初老寄りの親方が一人きりで切り盛りする。恐いとか、威圧的だとか、そんな感じでではない。無愛想といえば無愛想だが、感じが悪いわけでもない。良い意味で?どんよりしている。

話しかければ普通に応えてくれるし、時たまニコニコする。でもそれも長くは続かない。気づけばまた、こちらもあちらもどんよりする。

変な言い方だが、実に快適だ。もちろん、ここに来る時は決して気分がハイな状態ではないから、そういう状況だと快適だという意味である。


この写真は焼きウニとアワビの肝を肴にどんより熱燗をすすっていた時のもの。「写真撮ってもいいですか」などと尋ねるような楽しげで小洒落た空間でもないし、ここではそんな気分にもならないのだが、ブロガー魂?のせいで、親方が裏に作業しにいった際にパシャリと撮影。

何の変哲もない焼きウニなのだが、すこぶるウマい。日本中でウマいウニをアレコレ食べてきた私だが、ここの焼きウニは特別ウマいと思う。味付けは酒と塩だけらしいが、それぞれの加減や火加減が絶妙なんだろう。

熱々をひとくち頬ばると、束の間、どんより気分が飛んでいくほどだ。目が丸くなる味とでも言おうか。


これはイカの印籠詰め。イカの印籠といえば、濃いめの甘いツメを使った一品を連想するが、この店のはアッサリ味。中身はハスとかおぼろだか、バラチラシで使うような混ぜ合わせたシャリ。小ぶりなイカの食感や味付けとマッチするほんのり甘め仕上げ。

これまた食べた途端に目が丸くなる。どんよりしていられないほど幸せな味がする。


白身魚の昆布締め、煮ハマグリ、穴子、茹で海老、コハダといった「仕事系」の握りはかなりの高水準だと思う。握りは結構大きめで、これまた「昔ながらの寿司屋」を思い起こさせる。

正直、値段は高い。だから大混雑状態になることは珍しいみたいだ。あの場所であの風情であの雰囲気だったら、確かに純粋な寿司好きの人しか来ないのだろう。

客が私一人だったことも何度もある。他にお客さんがいようといまいと親方の様子に変化はない。淡々と黙々と、そしてどんよりと仕事をしている。

私の場合、二度、三度となぜか吸い寄せられるように通っているうちに、ここの空気が妙に気に入ってしまった。

どんよりとした時間を過ごしたくせに、店を出た後には不思議と気分がリセットされて足元も軽やかに帰路につく。

実に不思議だ。もしかしたら、人間、とことんどんよりすると、その次にはウキウキするように出来ているのかもしれない。

2013年2月15日金曜日

通販オヤジ


元気で長生きしなければいけない。そのためには足腰を鍛えねばなるまい。

そんな思いを日々強くしている。何をいまさら!みたいな話だが、トチ狂ったわけではない。結構真面目にそう思っている。

今年は水中撮影に励もうと思うので、海の中をイルカのように華麗に泳ぎまくるには足腰を鍛えないといけない。

今のままでは膨らんだフグのような泳ぎっぷりだから困ったものだ。

で、通販オヤジに変身してみた。


女優の草笛光子が宣伝しているレッグマジックとやらをさっそく注文した。足を左右に広げたり閉じたりする器具だ。足にかかる負荷を強める別売りの高さ調節部品まで買った。

まだ試しただけの段階だが、土台部分にくっつけるだけの別売りパーツのおかげで標準仕様よりもグッとキツくなる。

サボらず頑張れば、きっと草笛光子になれそうな気がする。ちょっと違うか。

太ももの内側の筋肉を鍛えるのも大事だが、肝心の歩行運動も強化しようと、足首に巻くアンクルウェイトもネットで注文した。80歳でエベレストだかを目指すプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは、日頃から足首に重りを巻いて行動しているそうだ。

私もその方法をパクることにした。25年以上前に沖縄・西表島の民宿で偶然出会った三浦さんは、当時バリバリのオッサンだったのだが、当時まだ学生だった私よりもずっとエネルギッシュな姿だったことを覚えている。

遅ればせながら、50代だったはずのあの頃の三浦さんぐらいの元気中年を目指そうと思う。無理だろうな~。

とか言いながら、商品が来てからまだ試していない。連日寒かったからショートブーツばかり履いているので、なかなかウェイトを装着できない。

そんな言い訳太郎になっているから、ちっともイキイキしないのだろう。反省。


反省ついでに「ツイストステッパー」なるマシンもネット通販で買ってしまった。ハンドルも付いているから酔っぱらっていても出来そうだ。試してみたが、かなり重い。寒風に吹かれながら散歩するより効率的だと思う。

まあ、どれもこれも使わなければ無意味だ。習慣にすることだけをまずは心掛けよう。

それにしてもテレビの通販番組って恐ろしいもので、何気なくボーっと見ているだけで、「買わなければならない!」と思い込まされてしまう。

先日も安室ちゃんの元ダンナ率いるTRFのダンサー三人が開発したというダンスしながらハードに運動が出来るDVDセットを、あとちょっとで買いそうになった。

テレビ画面を前に、踊れもしないダンスに励んでゼーゼー苦しんでいる自分の姿を想像してゲンナリしたのが躊躇した理由だ。

誰も見ていないとはいえ、自分の守護霊とか、誰かの生き霊が見ているかもしれないと思うだけで恥ずかしい。

でも、まだちょっと欲しい気持ちが残っている。今度BSなんかで宣伝番組を見てしまったら買ってしまうかもしれない。


この前の週末、これまた以前に通販番組を見て買ってしまったお手軽掃除機「スイブルスイーパー」を使いながら掃除に励んでいた。

真面目にやり出すと結構億劫なもので、かったるいな~と一休み。ソファにどっかり腰をおろす。つけっぱなしのテレビに映っていたのは「ジャパネットの高田社長」。なにやら甲高い声で叫んでいる。

つい見入ってしまった。。。。。

「あのルンバが今日だけの特別価格!!」とか言ってる。ますます引き寄せられて見入ってしまう掃除がイヤになっていた私。

42800円!」だ。それも結構な数の予備部品がおまけでついてくる。

半年前に興味を持ったルンバだが、8万円ぐらいしていたので断念した。これはきっとお買い得なんだろう。

というわけで、私もルンバの買主ならぬ「飼い主」になってしまった。これまた説明書をまだ読んでおらず、試運転もしていない。きっと使い始めたらイソイソ働くルンバを追って家の中をついて回るのだろう。

運動器具に掃除ロボット。なんだか物欲と呼ぶには物足りない。どうも真面目で堅い商品?だ。こんなものにお金を使ってピーピーしている自分が少し切ない。

で、ついでだからストックが底をつきかけていた葉巻をまとめて注文した。これもネット通販。香港の業者なのだが、キューバ産の上物がかなり安く買えるから重宝している。

今回は60本注文した。セール品や激安盛り合わせパックみたいなものばかり注文した。日本の定価が1本あたり1800円から3000円以上するようなラインナップなのだが、平均すると1本あたり7ドル程度で調達できた。激安である。嬉しい。

でも「7ドル×60本」といえば、結構な金額である。大散財だ。

草笛光子と高田社長が憎い。それにも増してクレジットカードという悪魔みたいなものを開発したヤツが憎い。どんどこ使ってしまう。

困ったもんだ。頑張って稼がねばなるまい。

2013年2月13日水曜日

「慣れっこ」の怖さ


何事においても「慣れっこ」になっちゃうと弊害が目につくようになる。車の運転しかり、最初は感激した食べ物の味しかり、慣れてくると、油断しちゃったり、惰性で食べていたり、だんだんと緩んでくる。

異性交遊(すごい固い言葉だ)も同じ。出会った頃は緊張感いっぱいで手を握るだけでもドキドキしたのに、慣れっこになると変態プレイに励んだりする。

まあ、変な例えはこの辺にしよう。

正しい判断、適切な分析なんかを下す時にも「慣れっこ」が邪魔をすることがある。

さて、ここからが今日の本題。ちょっとばかり真面目なテーマを取り上げてみる。

尖閣諸島をめぐる日本と中国のあつれきが強まっている。先日は、海上自衛隊の護衛艦が、純然たる自国の領海内で中国艦船から射撃用レーダーを照射されたことが明るみになった。武力衝突の現実性を思い起こさせる異常事態だ。

有難いことに平和に慣れっこになっている我々にとっては、その異常ぶり、危険さが今ひとつピンとこない。しかし、今の状況は確実に一触即発の場面であり、双方の国のメンツというか、出方次第では、局地戦が起きても不思議ではない。

戦闘状態になるということは人が死ぬと言うことである。私怨でも無ければ事故でもなく、国同士の考え方の対立が人間を殺し合いさせる。実に怖い話だ。

少し話がそれた。

戦争の怖さ、戦争の残酷さとは別に、いま、改めて考えたいのが「慣れっこ」の問題だと思う。

尖閣諸島について日本のポジションはただひとつ。「領土問題は存在しない」ということ。これが正式見解であり、これ以上でもこれ以下でもない。過去何十年も保たれてきた基本姿勢だ。

ところが、いまこの基本姿勢を国民が認識しているかというと実に怪しい。いつのまにか、「当たり前のはずだった基本姿勢」が頼りなく揺らいでいる。

首相まで務めた「平成の脱税王」という異名を持つ鳩山某が、引退したはずなのにノコノコ中国に出かけていって「尖閣は係争地」と国賊発言を行った。

ムードだけに左右される見識のカケラもない発言であり、それ以降、どれだけ中国を調子づけたか、考えるだけでもイラつく。だが、残念ながら大衆心理も徐々にそんな誤った認識に誘導されているのが現状だろう。

「尖閣は係争地」。気づかないうちにそんなイメージがすっかり染みついてしまった。

中国の狙いはそこにあるわけで、まさに思うツボである。これまでは「領土問題自体が存在しない」という明確な基本姿勢が貫かれていたから、中国としても何を吠えてみようが手応えを感じられなかった恰好だ。

ところが、領空、領海侵犯を頻繁に繰り返すことで「尖閣は係争地」という空気を着実に日本人相手に植え付けることに成功したわけだ。こちら側は一種のマインドコントロールにやられてしまった。

領空、領海侵犯が相次ぐことで、それに関するニュースも日常茶飯事になる。報道するほうも見せられる側も徐々に、ニュース自体に新鮮さを感じなくなり、「慣れっこ」になってくる。

そしていとも簡単に純然たる自国の一部が、いつの間にかあやふやな位置付けになりかけてしまっている。

喧嘩の土俵に上がらなければ常に「1000」で済むが、いったん土俵に上がったらそういうわけにはいかない。交渉事とはそういうものだろう。

実に気色悪い話だ。「空気」という掴み所のない魔物に絡め取られてしまったような気持ち悪さを感じる。なんともウツウツする。

だから、どうしろ、こうすべき、みたいな高尚な論陣を張るほどの知識はないが、問題の背景というか、根っこに横たわる国、そして国民全体の「慣れっこ」が大いに気になる。

この問題は言うまでもなく、右だの左だのといったチマチマした話で考えるようなテーマではない。国中が一丸となって、今更ながら「基本姿勢」を徹底して維持していくしか選択の余地はない。

2013年2月8日金曜日

ジャングルに行こう


ゴールデンウィークの話など、それこそ鬼が泣きそう?だが、今日はそんなテーマだ。

それにしても、紅白を見たのがつい先週ぐらいの感覚なのにとっとと2月も進行中。こうやって老化が進むかと思うと怖い・・・。

おっと、そんな話ではなかった。

先日、漠然とインターネットでJALマイレージの特典航空券の空席状況を調べてみた。

あくまで参考のために取れるはずがなさそうなゴールデンウィーク時期をチェックしていたら、なぜかシンガポール便のビジネスクラスに空席表示を発見。帰国便は「残席1」だとか。

人間の心理って不思議なもので、「残席1」を見たら何の予定も無いのに予約ボタンをポチッと押したくなる。

シンガポールに用事はない。ましてやタバコを吸ったら罰金、ガムを持ち込んだら罰金など、アホみたいな罰金天国だからちっとも行きたくない。

でも「ポチッ」としてしまった。

う~ん、シンガポールだ。どうしよう。

結局、シンガポールから乗り継げる場所をあれこれ考える。今年は水中撮影に燃えることに決めているので候補地は海方面だ。

20年近く前に行ったきりのモルディブか、はたまたいつものバリ島か、その隣のロンボク島か・・・。さすがにアジアのハブ空港だ。乗り継げばどこにでも行けそうだ。

上の画像のように最近は、部屋中に撮影機材を広げてあれこれ研究に余念がないのだが、そんなことをしながら珍しく真剣に旅先について考えてみた。実は来月にはフィリピンの田舎に綺麗なサンゴとか美しい魚を撮影しにいくつもりだから、ゴールデンウィークの旅ではそれとは変化を付けたい。(遊んでばかりだなどと思ってはいけない)

「綺麗なサンゴと美しい魚」と違った雰囲気といえば、「綺麗じゃない水底と汚い魚」ということになってしまう。

でもそれも悪くない。冗談ではなく、そんなヘンテコな場所に行くことに俄然興味がわいてきた。

候補地はインドネシア・スラウェシ島の北部にあるレンベ海峡だ。シンガポールからダイレクト便で3~4時間、そこからクルマと船で2時間ぐらい行ったところだ。

ここ10年ぐらいの間で一気に世界中から写真派ダイバーが集まるようになったエリアだ。厳密に言えば世界中のオタクダイバーが集まるエリアと言ったほうが正しいだろう。

白砂にサンゴ、色とりどりの熱帯魚というのが南国ダイビングの定番だが、「レンベ」は、そんなリゾートダイビングとは違う「マックダイブ」の聖地。

マックダイブとは、小さい生き物を接写するマクロレンズを使った水中撮影ダイビングと「泥」を意味する「マッド」を掛け合わせた言葉だ(多分そう思う。勝手な解釈です)。

珊瑚礁地帯よりも砂泥地帯がダイビングポイントになっているわけだ。そう考えるとサンゴなど無い伊豆半島で潜るのは、すべてマックダイブという分類なんだろうか。よく分からない話だ。

さて、レンベに話を戻す。

実は私にとってレンベにはちょっとしたトラウマ?がある。

もう20年ほど前になるが、同じくスラウェシ島のメナドを訪れた。メナドといえば、世界的に人気のあるダイビングの名所。高い透明度、ダイナミックな地形、魚影も豊富、サンゴもピッキピキで素晴らしいエリアなのだが、メナド滞在中にレンベ方面がヘンテコで面白いと聞かされた。

メナドからレンベまでは、クルマとボートで2時間程度の距離。スラウェシ島の西海岸から半島を渡って東海岸に出ればいいだけなのだが、なにしろ昔の話である。「そんなトコ聞いたことも無いし・・・」という情けない理由で興味を示さなかった。

その後、何年か経った頃、東南アジア方面で広く普及している専門雑誌「ASIAN DIVER」にレンベ海峡が大特集されているのを発見。掲載されていたヘンテコ生物オンパレードの水中写真に仰天した。

あの時、フロンティア精神を発揮してメナドから遠征していれば、日本人第一号の栄誉?だったかもしれないと妙に悔しく思った。

その後何年経っても「レンベ」の情報は日本では広まらなかったのだが、ここ10年ぐらいの間でいつのまにか「オタクダイバー」の間で大ブレイクしている。

ネットで調べてみると、みなさんヘンテコな毛むくじゃらの魚とかを激写している。実にうらやましい。いよいよ私も「ひとり実地調査団」を結成しなければなるまい。

ということで、ネットサーフィンしながらレンベの滞在先を調べてみた。僻地だからダイビングショップと食事付きの宿がセットになったリゾート(民宿?)を選ぶのが一般的だ。「食う寝る潜る」の完全おこもり型の滞在だ。

今ではそんなダイバー用のリゾート(ペンション?)も10件近くあるようだ。日本人御用達の宿もある。日本語が通じたほうが何かと便利だと思うが、ゴールデンウィークである。オタクダイバー大集結という事態に遭遇すると困るので、あえてそういう宿は避けようと思う。

決して日本人が嫌いなわけではない。むしろ日本人以外は苦手なのだが、「スーパーオタクダイバー」みたいな人が苦手だ。日本人ばかりで群れ合って夜中まで延々と魚の生態話を聞かされても楽しくない。不便だけど日本人に馴染みがなさそうな宿を選んだほうが気ままでよい。

で、見つけたのがここ。


日本語ホームページこそあるものの、日本の検索サイトではこのホームページ以外に情報が一切出てこない点が気に入った。

それでも日本語が出来る現地人スタッフのおかげで細かな質問やリクエストがメールで簡単にやり取りできている。

何よりも魅力的なのは、私一人でボートも水中ガイドもチャーターして毎日無制限ダイブをアレンジしてくれるという点だ。これならヘンテコ毛むくじゃら魚の写真も思う存分撮れそうだ。

レンベエリアの中でも、ここは最も外れに位置しており、エアコンも無いし、周囲はどうやらジャングルだ。

ただ、その位置関係のせいで、レンベの特色である砂泥地ダイビングだけでなく、少し移動すれば白砂にサンゴの一般的な「爽やか潜水」も楽しめるらしい。

良いことばかりだが、英語力が野良犬の遠吠え以下のレベルしかない私にとって、ダイビング以外の時間が課題ではある。

宿の規模はコテージが8つ。ゲストは多くても20人になるかならないか。だから夕食はゲスト全員で囲むらしい。ちと難問ではある。

銀座のクラブではっちゃけている時のようにペラペラ調子のいいことを英語で喋るのは無理な相談だ。

きっと私は高倉健のような寡黙な男に変身するはずだ。

多分、西洋人達からは「アイツはサムライなんだな、きっと」と思われるぐらい物静かな人として過ごすことになるだろう。

そして、毎晩一人で話し相手もいないまま、その日撮影した画像をニタニタ眺めているのだろう。おっと、それって私が苦手としている「スーパーオタクダイバー」そのものではないか。なんか本末転倒だ。

それにしてもゲストみんなで夕食を囲むっていうスタイルは、それこそ民宿でもペンションでもなく、ユースホステルみたいだ。少し憂鬱だ。

でも、勢い込んで仮予約してデポジットも支払ってしまった。

ホントに行けるのか、ホントに行くのか。私自身興味深い。

2013年2月6日水曜日

銀座 おかやす 止まり木


「止まり木」。なんとなく好きな響きだ。

鳥が羽を休める安息の場所。どこかホッコリする言葉だ。一人静かに晩酌を楽しみたい時には、いつもこの言葉を思い出す。

こじんまりした空間が前提だ。肩肘張らずにくつろげて、かといってガサツな空気とも違う適度な落着き感が大事だ。

こねくり回したような料理ではなく、わかりやすいウマい肴が揃っていて、温和な表情の板前さんが静かに包丁と対峙する。

ついでに言えば、和服姿の小綺麗なおかみさんが、どうでもいい世間話に上手に付き合ってくれる。

そんな店なら完璧である。

そんな店はなかなか無い。

でも探せばある。

時々顔を出す銀座の「おかやす」は私にとってそんなイメージを満たしてくれる店だ。

職場が近かったら頻繁に通うはずだが、たまにしか行く機会がない。

カウンターが8席ほど。その後ろに隠れるように小さめのテーブル席が2つ。カウンターの中では柔和な表情の板さんが黙々とウマいものをこしらえる。

着物姿のおかみさんが、止まり木で緩んでいる客を甲斐甲斐しく面倒見たり、適度にあしらったり、忙しく立ち回る。

心地よい空間だと思う。

7丁目の古い雑居ビルの5階という立地も良い。一見サンの若者軍団がどやどや入ってくることもないし、大人数の客が通りすがりに来ることもない。

かといって敷居が高いわけでもない。入ってしまえば至極普通にのんびり過ごせる。

酒の品揃えが凄いとか、奇をてらった名物料理があるわけでもない。ただ普通に美味しい酒があって、正しく美味しい肴が揃っている。大人の男にとって実に使い勝手がいい。


刺身や焼物など一般的な料理の他に、オッと思わせてくれるメニューもある。以前食べたビーフシチューが老舗洋食屋も真っ青なほどウマかったので、先日も常連ヅラして頼んでみた。

残念ながらその手のメニューは季節ごとに変えているそうで、この日はロールキャベツが出てきた。

これがまたお世辞抜きにウマかった。トマトを使ったベシャメルソースとでも言えばよいのか、そんな感じのしっかりコクのあるソースがたっぷり。

キャベツに巻かれている肉の量がこれまたハンバーグ並みにボリューム感があって野菜が脇役みたいだったのが個人的には嬉しかった。

イマドキの小洒落たおでん屋のロールキャベツなんて、中味の肉が鼻くそサイズ、いやネズミの糞ぐらいのサイズだったりするから、その点、この店の誠実さは大いに誉めまくりたい。

レギュラーメニューにもいくつもウマいものはあるが、貴重なのがメザシの干物だろう。

「銀座でメザシ」。実に風流だ。なんとなく「通」みたいで良い。日本中の高価な珍しい食材が揃う街でメザシに喜ぶ。こういうのがカッコイイことだと思う。極めて個人的意見でスイマセン!

その昔、昭和の後半、中曽根さんが活躍していた頃、経済界のドン・土光さんの好物がメザシだということが、NHKスペシャルか何かで全国に広まり、メザシには質素倹約のシンボルみたいなイメージがついて回るようになった。

土光さんのエピソードも実は裏話があるらしい。あのメザシは簡単には手に入らない「日本で一番の最高級メザシ」だったという説だ。真偽はわからないが、さもありなんである。まあ、メザシに限らず一般的には安価な食べ物でも、上物になると大層ウマいのが実態だ。

この店のメザシも、さすがに「銀座でメザシ」だ。当然だが、近所のスーパーのそれとはまるで違う。最上級かどうかは知らないが、脂のノリや味わいも奥深く、普段メザシを食べない私でもムシャムシャニッコリぺろりと食べる。


この店のカウンターに陣取って、ちろりで湯煎する燗酒をチビチビやりながら過ごしていると、どことなく肩の力が抜けていく感じがする。疲れが取れたような気分になる。こういう空間は得難いし、有難い。

実に有難いのだが、疲れが取れると、エンジン全開になってしまうから困る。店を出て気がつくとそこは夜の銀座である。「パトロール」、「檀家まわり」に精を出すハメになってしまうのが問題ではある。

上の画像は、燗酒用に評判がよい銘柄だそうだ。確かにグビグビ飲めてしまった。有名か否かは酒の味にさほど関係ないとつくづく思う。

以前、お燗酒に適した日本酒のコンテストで一位になった銘柄を何度か飲んだが、こちらのほうが飽きずに楽しめた。画像を見ているだけでヨダレが出てくる。

さてさて、まだまだ寒さは続く。ウマい料理とウマい燗酒と、居心地の良いこの店に暖めてもらいに行かねばなるまい。

そうは言っても、最近結構混んでるようなので、こんなところで誉め讃えてしまうと私が座れる場所が無くなりそうだ。

これを読んだ人はゼヒ内緒にして欲しい。

だったらどうして書いちゃうんだろう。。。

2013年2月4日月曜日

霊視体験


占いを安直に信じたり、ご神託?にすがるような人間ではないのだが、先日、珍しくその筋の人にジックリ話を聞く機会があった。

霊験あらたかな初老の女性占い師さんが相手。何年か前に何度か通ってやり取りをしたのだが、正直、首をひねる部分もあったので、ある時を最後に訪ねるのをやめていた。

最近、いろいろとウツウツと思い悩むテーマが重なったので久しぶりに出かけてみた。予約が取れずに数ヶ月待ちもザラなのだが、たまたまキャンセルが出たそうでスムーズに面談。

そんなスムーズな流れ自体が、すでに「縁」だとか「宿命」的なものと関係しているらしい。なかなかエスパーな世界ではある。

以前、この人に言われたのだが、私にはエスパー体質が備わっているそうだ。お化けが見えちゃったりするわけではないが、変な第六感というか超感覚的感覚?があるらしい。

実は、この人との過去のやり取りの中で具体的に不思議な現象に遭遇したこともあるので、そういう不思議ちゃんみたいな要素を全否定するつもりはない。

エピソードを具体的に書くと、怖がったり、笑い出す人もいそうだから、内容は内緒にしておく。「エスパー的なこと」とだけ言っておこう。

さてさて、その占い師さんは、四柱推命や易などに自らの霊視をハイブリッドさせて色々なものを見抜く特殊な人である。

そう書くとウサン臭い感じもするが、過去に何度かやり取りをする中で、ある程度信じざるを得ないような洞察なり指摘を受けているので、たとえ話半分でも参考になればと思って訪ねてみた。

2時間の枠で面談したのだが、なかなか面白かった。いや、だいぶスッキリした。思い悩んでも仕方のないことをウジウジ思い悩んでいるより、よほど生産的な時間だった。

この人、相談相手のヤバい様子が見えてしまっても、ストレートに指摘せずにやんわり遠回しに注意を与えるような物言いをしてくれる。

私自身、これから2年半ぐらい、かなり運勢面でマズい時期に入っているそうだが、さすがに「大病します」とか「死んじゃいます」などの言い方はしない。

本当は死相が見えちゃっているのかもしれないが、そういうオドシは使わないので、こっちも助かる。

霊視的な部分については、こういうところに書くのも気が引けるから曖昧にするが、結構ジンジンさせられた。ちょっと泣きそうになった。いや、ちょっとだけウルウルした。

おいしいトコ取り!それに尽きる。自分に都合の良いことだけ信じておけば平和だろう。

今回改めて感じたのだが、占いとか、霊感とか、そういうディテールはさておき、「誰かに心情を打ち明ける」こと自体が大事なんだろう。

話をすることが、心の解放というか、深層心理の中のさざ波を和らげる効果がある。心療内科だとか精神科だって要はそういう役割だし、占いにもカウンセリング的な側面がある。

「人様に言ったところで始まらない」、「話したところで何をしてもらえるわけじゃない」、はたまた「占いなんてアホくさい」。それぞれもっともだと思う。私自身、そういう否定的な態度を取る人間だ。

そんな私でも自分のバイオリズムが低調な時に、前向きになれる指摘を受ければ気分が上がっていく。

今回の「霊視体験」も信じるとか信じないという次元ではなく、カウンセリングだと捉えれば実に有意義だった。

ちなみに欧米諸国では普通の人達が普通にカウンセラーを活用するそうだ。日本の場合、悩みや弱みを人に見せたくないといった風潮のせいもあって、カウンセリングをうまく活用している人は少ない。

「弱い人間だと思われたくない」。男性特有の痩せ我慢体質も多分に影響しているのだろうが、いっぱしのオトナとして生きていればそんな悠長なことを言えない時だってある。

人間は弱いと開き直ったほうが賢明なんだろう。

まあ、こんなことをグダグダ書いていても仕方がない。

とりあえず、「エスパー面談」で言われた前向きな話だけを無邪気に信じて行こうと思う。

とりあえず、孤独死はしないで済むらしい。

2013年2月1日金曜日

食生活


食生活に気をつけようなどと血迷ったことを考えるようになってきた。

考えるだけで実践は出来ていないが、私の人生において革命的なことではある。

さて、ヘルシー、いやヘルスィ~な食生活とは一体何をすればいいのだろう。肝心のそこが良く分からない。

野菜を食べればいいのか。コトはそう簡単ではない。

毒みたいな農薬ブリブリの輸入野菜を、どっかの店のバイトのにいちゃんがちゃんと洗わないままサラダにしたとする。そんなものワシワシ食べたら自殺行為である。

生野菜のままだと良い成分を吸収するには膨大な量を食べなくてはならないとか、煮たり焼いたりしたら良い成分が無くなっちゃうとか、四の五の言われると野菜なんぞとは絶縁したくなる。

「野菜はマズい。」

私にとって残念ながら不変の真理である。おいしいと思えるのは、ハンバーグや酢豚に入っている脇役としてのタマネギ、トンカツを大量摂取中に中休みで食べるキャベツの千切りぐらいである。

子どもの頃よりは何でも食べられるようになったが、セロリやピーマンなんかには今だに完敗中である。不戦敗だ。まあ、あんなものに勝とうとも思わないが、天敵と言っていいだろう。

椎茸が身体にいいと聞いたからワシワシ食べようと思ったが、干し椎茸だと大量のプリン体を含むらしいから食べてはいけないものになる。実に難しい。

ひじきが健康の源だと聞いたからワシワシ食べようと思ったが、大量に摂取するとナントカヒ素とかいう発ガン性物質を多く取ることになるそうだから、そうそうバクバク食べてはいけない。実に難しい。

ゴボウが良いと聞いたから頑張って食べようと思ったが、繊維が多いだけでビタミン類などの栄養素には期待できないとか。あんなものは世界中で日本人ぐらいしか食べていないという残念な話を聞いた。実に難しい。

結局、良く分からないままだ。

なるべくなら野菜は食べたくないから、もう何年も青汁を飲んでいる。平日は毎日500mlのペットボトルをやっつけるから、かなり素晴らしい姿勢だと思う。

黒酢の錠剤も飲んでるし、シジミエキスのサプリも摂取している。最近は市販の野菜ジュースも飲むようになった。

これだけ頑張れば充分なのだろうか。充分だと思うことにする。

これ以外にも意識して変な油ギトギトなものを食べないように努力している。なんだかこう書くと、自分がかなり真面目な人間に思えてくる。

ちなみに、炭水化物は生きていく上で必要不可欠だから精一杯食べるようにしている。

ホントはただ好きだから大量に食べてしまうわけだが、これを控えめにすれば「速見もこみち」みたいにスマートになるのだろう。

でも、食べてしまう。自ら真剣に水加減を調整して炊いた白米などウマくて仕方がない。1合だけ炊いて2回に分けようと思っても、結局、一度に食べてしまう。

少しでも健康を考えて、雑穀を入れてみたり、麦を混ぜてみたり色々試している。どれもウマいから結局食べ過ぎてしまう。


この画像は調子に乗って作ってみた「特製簡単ピラフ」である。こんなものもワシワシかっ込んでしまう。だから慢性デブのままだ。

そこらへんで売っている市販のパスタソースの「和風きのこ味」だとか「あさりコンソメ味」とか、その手のオイル系パスタソースを活用する。

米は2合。パスタソースは1人前、水分が足りない分は、顆粒とかのコンソメをお湯でといてスープにして追加する。これがベースだ。

ここに塩コショウなどを下味用にまぶした適量の鶏肉のブツ切り、バター2切れ、醤油小さじ一杯ぐらいを炊飯窯にぶち込んでスイッチオン。

炊きあがったら乾燥みじん切りパセリをパラパラしながら混ぜ合わす。

たったこれだけで、かなりイケてるピラフが完成する。

鶏肉の代わりに小ぶりな海老やアサリなど魚介類を盛り合わせてぶち込むのも悪くない。見た目はそっちのほうが豪華だ。

まな板も包丁もフライパンも何も使わずアッという間に出来てしまうのがミソ。調理器具とかを拡げて台所を散らかし放題にしてウマいものが出来ても何となく嬉しくない。負けた気がする。その点、この簡単ピラフだとゴミも少ないし、洗い物も少ない。勝った気がする。オススメです。

今日は何が書きたかったんだろう・・・。