2010年7月30日金曜日

キャッチボール


中学生の頃まで野球少年だった。炎天下でヘトヘトになりながら投げたり売ったり。練習後のコーラやジュースが泣きたいほどウマかったことを今でも思い出す。

ポジションはピッチャー。中学の野球部あたりだとピッチャーは自己中心的な鼻持ちならないヤツが多い。私もそんなタイプだった。

味方がエラーすれば、平気でマウンドで怒ったりするような生意気なバカだった。中学生のクセに審判の判定に文句をつけたりもした。恥ずかしい過去だ。

大人になってから草野球を随分とやった。おかげで子ども時代の自分のアホぶりを思い知った。チーム力というか、参加している全員で楽しまなければ勝てないし、面白くない。

ある意味、大人になってからの草野球が野球の奥深さを教えてくれた。綺麗事のようだがそれが野球の真理だ。つくづく独り相撲状態で野球をしていた子どもの頃を後悔した。

我が草野球チームは、「ベースボーズ」という卓越したセンス?のチーム名だった。アトランタ・ブレーブスのユニフォームを基にした洒落たユニフォームを揃えたもののプレー内容はヘロヘロな軍団だった。

中学高校時代の友人達で結成。とはいえ、試合をしたくてもなかなかメンバーの都合が合わない。メンバーの知人、同僚、部下などが助っ人で参加するようになった。

ごった煮状態のチームになっていたのだが、部活で野球経験があるのは私以外に一人か二人。当然、勝ち負けより楽しみ優先だ。

さかんに活動したのは30代の前半から中盤ぐらいだったか。あと10年若ければもっと強かったのだろうが、大人になった分、純粋に野球が楽しめた。6チームから成るリーグ戦に加盟して春と秋は毎週のように試合をこなした。

東京ドームをリーグで借り切って真夜中に試合をしたこともある。まあ正直なところ、試合後の宴会が主目的だったような時もあった。

試合のあと、昼間からガブ飲みする生ビールはどうしてあんなにウマいのだろう。大げさではなく、あれほどウマい生ビールは今後の人生で経験することは無いと思う。

年齢のせいでケガが多くなり、メンバーの転勤なども重なってリーグ戦から脱退。なんとなく活動休止状態になってもう7,8年が経つ。

まだユニフォームは捨てていない。当時のメンバーとはよく飲むのだが、再結成の気配はない。まあ再結成してもケガ人が続出することは間違いない。

急に野球ネタを書き始めたのには理由がある。最近、自宅からクルマで5分ほど行った公園で「ボール投げ」をはじめた。キャッチボールではない。「ボール投げ」だ。テニスの壁打ちならぬ「壁投げ」だ。


いい感じの壁投げポイントを見つけたので、週末の朝、せっせと1時間ほど投げ込んでいる。思った以上に運動量もある。ただ散歩しているより楽しい。

小学生の頃、近所に学校の友達がいなかったせいで、空き地の壁に向かって毎日のようにボール投げをしていた。

壁の一部にチョークで印をつけてコントロールを磨いた。当時、人より少しばかり野球がうまくなったのは間違いなく延々と1人で熱中した壁投げのおかげ。

この歳になって壁投げをはじめるとは思わなかったが、やってみると無性に野球がしたくなる。いまさら知らないオッサンチームに混ざるのも面倒だ。やはりベースボーズ復活を企てたい。

ちなみに壁投げを黙々とこなしているとキャッチボールの尊さに気付く。

野球を少しかじった立場から言うと、キャッチボールは「たかが」であり「されど」の代表のような行為だと思う。

ただボールを投げ合う。面白くも何ともない。とはいえ、あの単調な繰り返しに色々な要素が詰まっている。

相手と呼吸を合わせて、相手が捕りやすい球を投げないといけない。自分が暴投しても拾いに行くのは相手だ。相手が暴投してもこちらが拾いに行く。相互扶助、持ちつ持たれつだ。

迷惑をかけないように丁寧に投げる。相手がちょっと失投しても難なくキャッチする気配りも必要だ。こっちがヘバっても相手がいるから勝手にやめられない。

野球の技術や経験もほんの1分もキャッチボールすれば分かる。大げさに言えば5分程度キャッチボールすれば相手の性格だって想像できる。

当たり前だが、壁投げだと相手が壁だから気遣いの心配はない。その分、通い合うものもない。やはり「ゴメン」とか「すまん、すまん」とか言いながら白球を追っかけたい。

つくづくまた野球がしたい。試合後の生ビールを浴びるように呑みたい。

2010年7月28日水曜日

Tバッカー求む

「もともと、ブラジルの先住民がアマゾン川で漁をする際にカンディルと呼ばれるナマズの一種が尿道や膣、肛門から侵入することを防止するために穿いていたふんどしのようなものが、その源流とされている」。

いきなり引用でスイマセン。ウィキペディアから抜粋してみました。

このオドロオドロしい“防御服”の話は、実は私が愛する「Tバック」の解説の一部だ。

紅茶をお手軽に飲むアレではない。女性の下着とか水着のTバックだ。

Tバック好きと広言するのは少し勇気がいる。でもTバックが嫌いな男はいないだろうから別に恥ずかしがることではない。

「私は誰が何と言ってもTバックが好きだ!」。こういうことは堂々と宣言すると何だかスッキリする。

今は亡き飯島愛が、晩年に文化人然とした様子でテレビに出ようと、40代の男性なら全員が全員「ギルガメッシュナイト」のTバック姿を脳裏に思い浮かべていたはずだ。

あの時代、その名も「T-BACKS」というセクシー路線のグループもいた。今思えば滑稽だ。異常なネーミング。そのまんまだ。変な時代だった。

パンツスタイルの女性が下着のラインを隠す目的で着用しているなどと聞くと、街を歩くパンツ姿の女性にあらぬ妄想を抱く若い頃の私であった。

その後、とある女性に「私はTバック世代じゃないから」と言われたことがある。真相は知らないが、世代によってTバックが敬遠されているとしたら由々しき事態だ。実際はどうなのだろう。私にとっては地球温暖化の動向より気になるテーマだ。

若い女性に「ワタシ、Tバック派で~す!」などと言われたら、もうダメだ。たとえ土偶や埴輪みたいな顔付きの人でも一生懸命親しくなろうと試みてしまいそうだ。

今日こんな話を書き始めたのには理由がある。先日(7月16日付)のブログで紹介した昔のフィルム整理をしていたらムフフ画像が出てきた。

マレーシアのとある小さな島で知り合った“Tバッカー”の写真だ。

お互い一人旅同士、日本人は他にいない島だったため、必然的に言葉を交わすようになり、浅瀬のサンゴ撮影の際にモデルになってもらった。

この女性、常に水着はTバック。私にとっては神だ。ブラジル人にとってのペレ、アルゼンチンの人から見たマラドーナみたいなものだ。

人も少ない寂しい離島でTバックで闊歩している姿はかなり変だ。何が目的で、はたして何者なのかが気になった。

気になったものの、なんてったってTバックモデルだ。細かなことは気にせずいっぱい写真を撮った。



まだ20代だった可愛い私は、大胆に接近撮影できず、最初のうちはあくまでサンゴがメインの真面目な写真を撮っていた。それでもなかなか貴重な体験なので萌え~!って感じだった。デジカメなどない時代だ。とにかくフィルム枚数が気になった記憶がある。

そうはいっても、翌日あたりになると途端に図々しくなって、徐々に接近撮影だ。だんだんサンゴなどどうでもよくなる。順光や逆光すら気にせず、出歯亀カメラマンに変身だ。




最後の画像なんて、一体何をしてるんだって感じだ。我ながらバカ丸出しである。

Tバックへのこだわりを文章にすると、どうしても話があられもない方向に滑っていく。いい加減にしておこう。

夏だし、暑いし、今日はこういうくだらない話でスイマセン。。。

2010年7月26日月曜日

美談 インチキ

なんとなく立派な話に聞こえるけど、ウサン臭い話が国会議員の定数削減だろう。民主党政権が比例代表の定数を80削減するという具体的数値目標を打ち出している。

「国会議員が減るイコールその分の税金が減らせる」。まあ単純にいえば悪い話ではないが、ことはそう簡単ではない。

定数削減を比例部分だけでこなそうという民主党案が実現した場合、分かりやすく言うと先の参院選での「みんなの党」の躍進は起こりえない。民意による風が吹きにくい構造になる。

80人程度の国会議員を減らしたところで、削れる税金はたかがしれている。それこそ「国会議員自ら痛みに耐えて奮闘してます」というポーズに過ぎない。ポーズにしてはインパクトがあって大衆受けする政策だが、コスト削減額は大したことはない。

「国会議員自ら痛みに耐える」という姿勢をポーズでなく本気で示すのなら政党交付金の大幅削減を打ち出すのがスジ。そこを突かれたくないばっかりに比例の定数削減でごまかそうという感じ。イヤらしい話だ。

政党交付金(政党助成金)は平成5年に小選挙区制の導入とともに実施され、国民1人あたり250円が思想信条に関係なく吸い上げられる。

国会議員数に応じて各政党に配分されるもので、これまでの15年間で5000億円以上の税金が使われている。

政党別累計額では自民党に2378億円、民主党に1358億円が振り向けられている。大政党であれば毎年100億円以上の“手取り収入”が天からふってくる。

ちなみに共産党が大嫌いな私だが、共産党だけはこれまで政党交付金を一切受け取っていない。この点だけは率直に評価したい。とはいえ、辞退した金額は国庫に入らず他の政党に配分されてしまうあたりがビミョーではある。

受け取った政党は所属議員に配分するわけだが、「政治活動」に使ったと言われれば、超高級料亭での会食だろうとキャバクラでの飲食だろうと問題にならない。実にお気楽な話。

支持政党に関係なく貴重な税金を吸い上げ、政党にバラまき、おまけにその税金が見たくもないテレビCM制作費に回されたりするわけだから、実にアホみたいな話。

企業団体献金の廃止が一種の導入条件のようなはずだったのに、そっちはそっちで相変わらず続いている。異常なまでにヌルい話。

政党交付金制度を根本的に見直すのなら国会議員の定数など増やしたっていいぐらいだ。

定数を増やす代りに、きちんと国民各階層からの代表を選ぶという意味に立ち返ってもらえれば尚結構なこと。

中堅、高所得者階層ばかりイジめる政府の社会主義的暴走に対抗するような代表者が選ばれるような仕組みもゼヒ作って欲しい。

素人の暴論だが、国会議員定数を増やす代りに、納税額別の立候補基準でも作って、税金すら納めないエセ弱者だけにおもねった選挙の在り方そのものを見直して欲しい。

変な話、その昔の貴族院議員制度なんか実にまともな発想に基づいている。高額納税者のなかから議員を選んでいたわけだから、ある意味分かりやすいスタイルだ。

“会費”を多く払った人の発言権は強くて当然。こんなことをいうと傲慢とか言われがちだが、自由主義社会なら普通のことだと思う。

2010年7月23日金曜日

5千円のやきそば

5千円のステーキ、5千円のフカヒレ姿煮。そんなに珍しい話ではない。そこが高級レストランだったらメニューを見てもギョッとはしない。場合によっては、平気な顔して注文する。

同じ5千円でも「ヤキソバ」となると事情が変わる。「5千円のヤキソバ」。ペヤングなら百数十円で買える。縁日の手作りだって500円ぐらいだ。その10倍もの値付けだ。

そんな強気なヤキソバを食べてきた。一応、富豪を名乗る以上、そんなことをわざわざテーマに取り上げること自体ちょっとダメだ。本当は「そんなもん毎週食べてます」と言いたいところだ。

まあ、5千円ヤキソバが初体験ではないという点で、かろうじて富豪っぽい(はずだ)。一応、人様に「ここのヤキソバはオススメだよ」とか語れるのだから大したものだ。



場所は、ホテルニューオータニの「トレーダーヴィックス」。トロピカル系飲食店?の元祖だ。南国っぽい造りを30年以上前から取り入れている老舗。

初めて訪れたのは中学生時代。友人の父親に連れてきてもらった。スペアリブを初めて食べたのもこの店だった。今だに私にとってワクワクする店のひとつ。

昔の日本人が喜んで食べたオーソドックスな西洋料理がメニューの中心。うなるような料理はないものの、何を頼んでも無難に美味しい。

酒を呑むことが食事の最大目的になってしまった私にとって、メニューのメインディッシュ欄が厄介な存在。前菜だけ頼んでグビグビ呑んでいたいのだが、バーコーナーではなく、レストランスペースにいる以上そうもいかない。

ドカンとステーキが来ても胸焼けしそうだし、羊だ鴨だといわれても、フォークとナイフで両手がふさがることを想像するだけで気分が乗らない。

そんなスマートではない私にとって有難い存在が「皇帝風やきそば」だ。5千円といえば大金だが、メニューのメイン料理の欄には5千円前後の料理ばかり並んでいる。だからヤキソバのアホみたいな?値段も、たまにだったら許してしまう。お箸で食べる点がまたいい。

要は、プリプリの大ぶりな海老や上等な牛ヒレ肉、ホタテ貝なんかがどさっと載っているスペシャルヤキソバだ。

量がまた多い。2人前という表現でもおかしくない。中途半端な中華料理屋で中途半端な量のヤキソバを注文することを思えば、あながち「皇帝風」は高すぎないのかもしれない。くどくなく、あっさりすぎず適度な味わい。

味がどうだとか、具材がどうしたというより、「5千円のヤキソバを食べた」という珍事がネタとして楽しい。だからつい注文してしまう。

飲み屋のママさんからお礼状をもらってもネタにはならないが、見知らぬ女性からラブレターをもらったら、私の場合、その話題で1週間は生きていける。ネタとしての有り難さはそういうことだ。

5千円のフカヒレを食べたところで、日常会話のネタにはならないが、ヤキソバだったら結構ウケる気がする。

意表を突いた高いものというジャンルで有名なのは資生堂パーラーの「1万円カレー」とか、伊勢志摩のどこかのホテルの伊勢エビカレー、アワビカレーあたりだ。1万数千円の値付けをするカレーライスだ。

まあ、率直に言って、注文する人の頭の中は、味がどうこうではなく「話のネタ」として割り切っているのではないか。そういうジャンルはもっとあってもいい。

1万円のカツ丼とかがあったらゼヒ食べてみたい。どう逆立ちしたってマズいはずはないし、おまけに話題性抜群。変な話、向こう10年はその話を大げさに自慢できる。

1個3千円の鯛焼きとか、1本3千円のソーセージとかも楽しそうだ。

インチキな寿司屋でちょろっとボラれるのは許せないくせに、ネタ的にアリなら突拍子もない値段も許してしまう。こういう感覚っておかしいのだろうか。

考えてみれば銀座のクラブでコーラだけ飲んで、いつもと変わらぬお勘定だったことがある。スーパースペシャルコーラだ。充分おかしい。結局、普段からバカみたいな私だ。

2010年7月21日水曜日

野菜


年をとったなあと痛感する瞬間が増えている。動悸、息切れ、不眠とか、物忘れ、倦怠感、あちこちが痛いとか、下半身関係の問題とか、お決まりパターンばかりだが、先日、変な場面で高齢化?を実感した。

「野菜を喜んで食べている自分」。これには我ながらビックリだ。つくづく年をとったことを痛感した。

男の子は基本的に野菜が嫌いだ。レッキとした男の子であった私は、ライオンのように肉しか食わずに成長してきた。野菜は敵とばかりに一切目もくれなかった。

若い頃親しくした女性の数は、それなりに多かった方だと思うが、その人達が今の私の食生活を見たら皆さん大げさに驚いてくれると思う。

「野菜を注文している!」、「ごぼうにお金を払ってる!」・・・。そんな感じでビックリするはずだ。ついでに「オトナになったのね」とも言ってくれるだろう。

仕事上の付き合いで会食する機会は多いが、そういう場面、すなわち無理やり会話のネタを探り合うような状況では、必ず私の野菜話になってしまう。迷惑な話だ。

これまで野菜をまったく食べないことを指摘されれば、「宗教上の理由で食べられない」とか「死んだ親の遺言で食べない」とか抗弁してきた。

今も無理して野菜を食べようとは思わない。いやいや食べたところで、それ自体がストレスになって、きっとガン細胞が生まれてしまう。

そんな私だが、なぜか時に無性に野菜を食べたくなる。身体の中の奥深くからの叫びなのかもしれない。

かといって、ピーマンにセロリだとか、インゲンだとか、オクラだとかニンジン、かぼちゃあたりは今でも許せない存在として敵視対象ではある。

野菜すべてに門戸を開いたわけではない。あくまで一部解禁である。

群馬の人からいただいた上物の下仁田ネギをすき焼きに投入した時には、肉なんか無視してネギばかり食べた。

トンカツのキャベツが無性に食べたくなって何度もオカワリしてソースまみれのウットリした時間を過ごした。

某高級串焼店で出されたトマトの串に感激して2回もオカワリした。

天ぷら屋のカウンターで椎茸と小玉葱の天ぷらが気に入って、そればかり追加注文した。

しょせん、その程度だ。でも、まごうことなき野菜だ。それを喜んで、金まで払って食べている事実は、私にとって人生の一大事ではある。

5年ほど前から「青汁」を飲むようになった。まずくもないが、うまくもない。会社に常備してあるので、平日は1日500ミリリットルほど摂取。これも立派な習慣だ。誰も誉めてくれないから自分で書いておく。「立派だ」。

青汁を飲むようになったのは、もともと野菜を断固拒否するためだ。青汁を飲んでいる以上、申し訳程度に皿に載っている野菜なんか無視しても問題ない。

出された野菜を残した時、ついつい後悔というか、罪悪感みたいな感覚にとらわれがちだ。でも、そんな時は「オレは青汁を飲んでいる」という事実を思い出してみる。すると、あっと言う間に心が晴れやかになる。青汁の効能だ。

カレーに入っている野菜も、ピラフに入っている細かな野菜も上手によけるのは簡単だ。私には何十年も培ってきた職人技がある。「蓮舫の事業仕分け」にも負けないぐらいスパッと野菜どもをやっつけることができる。

おっといけない。野菜を好んで食べる話のつもりが、いつもの野菜嫌い自慢話になってしまった。

軌道修正。

そういえば、青汁を飲んでいるにもかかわらず野菜を食べるようになったのは「おでん」に多大な責任がある。

もともと、おでん嫌いだったのに、30代後半ぐらいだったか、突然、おでん屋さんのツボにはまった。

“銀座あたりのシッポリしたおでん屋で酒を飲む”というシチュエーションに身を置きたいばかりに無理しておでん屋に通うようになった。おでんが食べたいというより、その気配を楽しみたかったわけだ。

そうはいっても、刺身と枝豆、小鉢の珍味あたりでカウンターでチビチビやっていると、そのうち板前さんがおでんダネをあれこれ勧めてくる。おでんだから当然、野菜系が中心だ。

勧められるものをそうそう断るのもイキではない。“カネがない客”だとか思われるのもシャクだ。食べたくもない野菜なんか断りたいのだが、そうもいかない。

なにしろ“シッポリとしたおでん屋でゆるりと酒を飲む余裕のあるオトナな感じ”に浸りきっている私だ。大嫌いな野菜が出てきても「おお、もうそんな季節か」と感慨深そうにポツンとつぶやかないといけない。

そんなバカげた理由で野菜のおでんをつまんでいた。初めは吐き出しそうな思いをこらえて食べていたのだが、さすがにそのうちウマく感じるものも出てきた。ちょっと屈辱的だが、一部の野菜どもの軍門に下った格好だ。

冒頭の画像で左奥に映っているのは、ごぼう巻きだ。“ごぼう”だ。土みたいなドロみたいな味がする“ごぼう”だ。それこそ20年、30年前には親のカタキぐらい憎んでいた相手だ。

いまだにごぼう自体はマズいものの代表だと確信している。それでも、おでん汁が染みたあの独特なごぼうだけはナゼかウマく感じて注文してしまう。新興宗教の洗脳みたいなものだろう。恐ろしい話だ。

今日は長文になってしまった。携帯で何気なく撮影した冒頭の画像を見ていたら、ついついダラダラ書いてしまった。

2010年7月16日金曜日

有難いオモチャ

このところ夜な夜な部屋にこもって地味な作業に没頭している。これがミョーに楽しい。近年まれに見る楽しさだ。

と、大げさに書いてみたが、昔から撮りだめていた水中写真のネガ整理がその内容。デジカメに移行して、すっかり存在価値が薄らいだようなフィルム時代の写真を総点検中。

実は、「フィルムスキャナー」というスグレモノを購入したのがきっかけ。オモチャみたいな商品なのだが、なかなか使い勝手がよい。

http://www.thanko.jp/product/pc/usb-filmscanner.html/

要は、ネガフィルムをスキャンしてメモリーカードにデータとして保存するという簡単便利な機能を持つ商品。専用カートリッジにネガフィルムをセットして、小さな画面で確認しながらスキャンする。1枚あたり2秒ぐらいで保存される。

一度にフィルム5枚分しかセットできないことと、ホコリがつきやすいのが困りものだが、自分でも忘れていたような“作品”に再会できて面白い。

保存した画像は、パソコン上で色補正すれば結構な出来映えに調整可能。その昔、プリントショップが好みの色合いでプリントしないことに泣く思いをしていたことを思うと隔世の感がある。

(画像はクリックすると拡大します)。





上から中米・ホンジュラス、フィリピン・ボホール、マレーシア・マブール、エジプト・紅海で撮影した写真。90年代前半から中盤にかけて撮ってきたもの。

フィルムの整理をしながら、その時々の旅の思い出が甦るのも楽しい。誰と一緒に行ったとか、その場所でどんな経験をしたかとか、写真の力でまざまざと忘れていた記憶が甦る。

総点検しながら、大事な写真がごそっと抜けていることにも気付いた。どうやら前の嫁さんに捨てられたらしい。仕方がない。それもまあ私の歴史だ。

その代わり、母親に探し出してもらった実家にあった20年ぐらい前のネガ群のなかから、思いがけない写真を見つけた。20年以上前に結婚寸前だった女性の写真だ。そんな写真があることすら忘れていたのでビックリ。

改めて眺めてみると随分年上だったはずなのに随分とカワイイ。そりゃそうだ。あれから20年、写真だけはあの頃のままだ。年甲斐もなくちょっとドキドキした。

話がそれた。水中写真だ。

水中写真歴20ウン年ともなれば、もっともっとプロレベルの作品があるはずなのだが、やはり、自己流で、自己満足のためだけに遊んできたので、まったく上達した形跡がない。

コンテストや作品投稿など一切興味がなかったことが自分の作品レベルにさっさと限界を作ってしまったのだろう。

自己分析すると’96年から2~3年ぐらいの間が、結構いい感じの写真が多い。きっと水中撮影に情熱たっぷりだったんだろう。




撮影している人間から出ている“気”みたいなものが確実に被写体に影響を与える。ノンビリ構えていると魚もノホホンとした表情になるが、気合い充分で気負っているととっとと逃げちゃったりする。

90年代中頃までは、私の“良い人オーラ”が魚にも通じていたような気がする。最近は、すっかりイヤミなオヤジオーラを水中でも察知され、しょっちゅう逃げられている。

女性にモテたり、モテなくなる違いと似ている。魚は女性と同じなのだろうか。

小さい魚をチマチマ狙うマクロ撮影も楽しいが、10年以上前は今よりワイドアングルの写真が好きだった。海の雄大な感じ、大らかさが漂うような写真が撮れると嬉しかった。







下から3枚目のバラクーダの群れに近づくダイバーを写した一枚は、その昔、大伸ばしパネルにして部屋に飾っていた。ドワ~って音がしそうな雰囲気が気に入っている。

いずれにせよ、フィルム時代の写真だからという理由だけで何となく見返さなくなっちゃう私の単純さは愚かだ。反省。

1万円ぐらいで買えるフィルムスキャナーのおかげでこんなことに気付いた。今後も封印されかけた写真達を夜な夜な甦らせてやることにしょう。

2010年7月14日水曜日

バター


体重だ血圧だ尿酸値だなどと、まどろっこしいテーマを抜きにムシャムシャと摂取したいものは意外に多い。

生卵かけご飯だって、卵黄を3つぐらい使って、白身は少なめにしてどんぶり飯で作ったら最高だろう。

ウニイクラ丼だったら、ウニイクラの量をどんぶりの半分ぐらいにしたら悶絶できそうだ。

コメ好き、寿司飯好きな私にとって、お寿司屋さんのシャリだけを黙々と食べることも夢のひとつだ。おひつごと抱えて、少々の醤油と白ゴマを少し加えてガっついてみたい。

仕事関係の相手と渋々出かける付き合い酒の席なんかでは、いつもそんなことを考えている。

なんか熱く語ってるオジサンの話にうなずきながら、私の脳裏では「どんぶり飯にスジコを山盛り載っけて食べてみたい」とか「脂身ばかりのトンカツはウマいのだろうか」とかそんな感じだ。

だからいつも商談はうまくいかないのだろう。

さてさて、禁断の味というと、ついつい珍味系、魚卵系ばかりが頭に浮かぶが、忘れてならないのが「バター」と「マヨネーズ」。こいつらも私を悩ませる。

どばっと小皿に盛ったマヨネーズに醤油を混ぜてかき回し、やや茶褐色ぐらいになったところで、ハムとかコンビーフにベトッと塗って食べる。

このベトベトは炊きたてのご飯にも合う。ハムやコンビーフの旨味が加わったベトベトをご飯に塗ると延々と食べられそうなほどウマい。

子どもの頃から大好きな食べ方なのだが、人様に言うと意外と認知されていない。そんなに珍しい食べ方だろうか。だれでもそうやって食べていると思っていたのだが違うらしい。

未体験の人はゼヒやってみてください。

若い頃は居酒屋でタレ味のつくねを注文すると必ずマヨネーズを小皿に用意してもらった。“タレつくねにマヨネーズべちょべちょ”。素直に美味しい。

当時、同じような味では、モスバーガーのテリヤキバーガーにはまった。あのマヨマヨした感じに中毒状態になって、一気に5個とか平気で食べていた。

お次はバター。私の場合、パンよりコメが基本なのでバターにはあまり縁がない。それでもたまに出かける西洋料理屋でパンに仕方なくバターを塗ると嬉しくなる。

ただ、私にとってバターは、あくまで居酒屋メニュー風にアレンジしたほうが嬉しい。そうすると、たちまち禁断の味になる。

鮮度の良い北寄貝をバター醤油で炒めるホッキバターなんてウキウキする。コーンバターだってあの臭いを嗅ぐだけでソワソワする。

いわば、隠し味の醤油を入れて炒めることでバターは劇的に変化を遂げるわけだ。

冒頭の写真は先日お鮨屋さんで作ってもらった「イカバター」だ。食べながら延々とうなっていたほど美味しかった。

人によってはちっとも珍しくもないイカバターだが、私自身、40年以上生きてきたのに初体験だった。

ゲソが好みじゃないので、居酒屋のゲソバターも頼んだことがない。大げさだが、いまさら初体験の味に出会えた感じで大感激。

上等な刺身用のイカをバターで炒めるわけだからそりゃウマい。バンザイだ。ツブ貝を使ったツブバターも絶品らしいので、今度頼んでみようと思う。

“バタータップリ、醤油こっそり、コショウがっつり”。こう書くだけでノドが鳴る。

そういえば、子どもの頃、家でバターライスをよく作ってもらったことを思い出した。具なんか入れないバターライスだ。何かベタついていてウマかった記憶がある。

今度腹がはち切れるほど食べてみたい。

2010年7月12日月曜日

ナゼ一票なんだ?

いまさらだが、あえて率直に書いてみよう。子ども手当はアホみたいな愚策だ。私自身、受け取っちゃった以上、あまり偉そうに書けないが変な制度だと思う。

名称自体のイメージは社会全体で子どもを育んでいくような美しさがあるが、使途に制約はない。お母ちゃんがパチンコに使おうが、オヤジが風俗に行こうがお構いなし。

しょせん、実態は選挙目当ての場当たり的なバラマキ政策だったわけだから問題ばかり。

文部科学省が、子ども手当の受給と給食費の引落しを同一口座にすべきと保護者に呼びかけるよう全国の教育委員会に通知したが、しょせん強制力はない。根強い欠陥への批判に対する一種のポーズ。

税金の悪質滞納者とか意図的に給食費を払わないような間抜けな連中に対しても借金を財源に喜んでカネをばらまいているのが実態だ。

納税という国民の義務を悪意によって果たさないことは純粋に犯罪だ。いわば犯罪者にまで国が借金してまで大盤振舞いをする制度。バカ丸出し。

すでに来年度からの満額支給はホゴにされたようだが、続いて必ず出てくるのがお金持ちにまで子ども手当をばらまくのはダメという理屈だろう。

当然、導入当初は見送られた所得制限が鳴り物入りで導入される。曖昧な理由で議論され、当たり前のような感じで来年度には高所得者は支給対象外とされるだろう。

その一方で、悪質な税金滞納者とか給食費未納者への支給の是非は問われない。つくづくいびつな話。

先週の月曜日のこのブログで書いた消費税問題にしても、中堅、高所得者層は国家から見てイジメの対象でしかない。民主党政権になってそういう傾向は強まっている。

いつから社会主義国家という体制を国民が選択したのだろう。そんなつもりがなかったにしろ、確実にそんな流れだ。

参院選の結果が政局にどう影響するかわからないが、選挙に行ってみて、つくづく思ったことがある。批判覚悟であえて書こう。

「なんでオレが一票なんだ?」。

悪意によって税金も払わないような連中や、払えるのに給食費をすっとぼける連中とどうして同じ一票しか権利がないのだろう。あんなに税金払ってるのに。

もちろん、理屈ではない。感情論だ。素朴に疑問に思う。

2010年7月9日金曜日

行間のニュアンス


「裏表がない、まっすぐ」。良いことに聞こえるが、果たしてそうだろうか。裏表あってこそのオトナの世界だと思うがどうだろう。

はるかに年上の仕事関係者と話をしていても、よくそんなテーマが出てくる。

「深みがない」、「単純すぎる」、「妙にストレートだ」・・。いろんな分野についてそんな声を聞く。

こちらが鈍化しちゃって、世の中の裏表に気付かなくなっているのだろうか、それとも、ホントに単純明快ストレートに物事が運ぶようになってきたのか、なんとなく気になる。

硬いジャンルから柔らかいジャンルまで、どんな分野でもそういう傾向があるような気がする。

政治家の言葉なんてその代表だろう。こっちが幼かったせいもあるのだろうが、その昔の「三・角・大・福・中」と称された自民党重鎮達の言葉は、今よりもはるかに重厚で難解で、ある意味不気味だった印象すらある。

オブラートに包んだような言い回し、絶妙な比喩、聞き手を煙に巻く巧みさ、すべてが普通の人とは違った。

今のおエラいさんは、良くも悪くもみんな普通の人。言葉が軽いだけでなく、発する言葉の質がどこか単純でストレート。“民主党系”はとくにそんな感じ。

彼らの話を聞いていても、眠くもならないし、かといって印象にも残らない。

話は変わって、ハヤリの歌の歌詞なんかも昔と今の違いはその点だと思う。阿久悠がアイドルに書いていた詩にしても、いま聞き返してみると結構な深みがある。

男女間のチチクリ合いの表現も直接的に言い過ぎない。間接的かつ想像力を働かせるような言い回しが多い。

当時のテレビ番組では歌われなかった2番、3番の歌詞なんかにはきわどすぎるスリリングな歌詞も折り込んでいる。巧みだ。

また話が飛ぶ。仕事関係の年輩の人達と話題になるのは、税務調査というジャンルのサジ加減だ。公明正大は行政の基本であるべきだが、そうはいっても“仁義”も大事。

税務署のイベントに半ば無理やり協力させられたタレントさんがいる。イベントは成功、広報活動に絶大な貢献。ところが、ほんの数ヶ月後に無予告で高圧的な税務調査が入ったとか。

怒った顧問税理士への役所の反応は「セクションが違う話だから仕方ない」というもの。アホな話だと思う。世の中そういうものではないと思う。

またまた話は飛ぶ。銀座のお客さんにも変化が顕著だそうだ。要は「いくら払ったらやらせるのか」みたいな浪漫の足りない御仁が増殖中らしい。

さすがにそれじゃあ単純すぎる。面白味もへったくれもない。ある意味、そんなストレートな展開に持っていくセンス?がうらやましい。そこまで図々しくなってみたい。ホントにそういう図々しさに憧れる。

でも、そんな御仁の多くが、自分の言動パターンが図々しいという認識すらないのかもしれない。意外と思ったままを言っているだけで、悪気も作為もないのかもしれない。ただ単純にストレートなんだろう。

“まどっろこしい”とか“もどかしい”とか、そんな段取りを抜きにして男女間の秘め事なんて成り立たないと思う。

もちろん、話の早い風俗営業もあるが、あれは“秘め事”というジャンルではない。ただの処理。あれはあれで充分価値があるが、別ジャンルだ。マゼコゼに捉えるものではない。

エラソーに気取ったことを書いているが、かくいう私だって、銀座界隈で親切にしてくれる素敵な女性とはネンゴロになりたいし、なんとかそういう展開にならないものかと画策だってする。でもそこで“ストレート馬鹿野郎”になっちゃったら面白くないと思う。

若い頃、原稿のダメ出しを随分喰らった。ちゃんと書けているつもりでも戻ってくる。よく言われたのが「行間のニュアンス」だ。

原稿用紙に実際に書き綴った文字と文字の間、行と行の間に、微妙に感じられる別な気配を大事にしろという意味だ。ちょっと抽象的だろうか。

「そこまで書き込んじゃあ台無しだ」、「余韻がまったく感じられない」、「“てにをは”ひとつで記事の意味は180度変わる」、「記事の書き方もレアとウェルダンを使い分けろ」等々。理数系的発想とは逆の国語的な世界だ。

男女間の秘め事にこそ“行間のニュアンス”が大事なんだと思う。

そんな気取ったことばかり考えているから、ちっとも性交、いや、成功できないのだろう。

2010年7月7日水曜日

同窓会症候群

同窓会症候群みたいな話が世の中結構あふれている。いい年して昔の同級生との再会に燃え上がってチチクリ合うみたいな話だ。

そういう人が凄く多いらしい。

なんだかなあ~って感じだ。そんな安直な発想でよいのだろうか。勝負していない感じというか、頑張ってない感じがちょっと気にいらない。もっと新しいフィールドに攻め入らないといけない気がする。

必ずしも頑張って勝負しなきゃならないわけではないが、やはり男女の関係って、もっと謎めいて、険しい道?であって欲しい。

まあ、いつも手近なところで安直な行為にふけっている私なので、そんなエラソーなことは言えない。

私だって同窓会ナントカ状態的な場面になれば、きっと安直な行動に出るような気がする。

といっても、小学校から男子校だったから、同窓会があってもオカマ同級生からディープキスを喰らうぐらいで事件は起きていない。

そんな私だが、先日なかなか楽しい会合に参加した。中学高校当時に遊んでいた女友達連合との再会だ。

20年~25年ぶりだろうか。レッキとしたオジサンとオバサンの集まりなのだが、昭和50年代、1980年代の若者に戻った気分でワイワイと騒いだ。

四半世紀ぶりに会うのに、最初から打ち解けている変な感覚がきっと冒頭で書いたような同窓会ナントカ状態につながるのだろう。分からなくはない。

当時、こちらが男子校だったので、仲良くしていたのは女子校の人々。この日久しぶりにあった女子チームはセーラー服に白いハイソックス、髪型はたいてい松田聖子だったわけだが、皆さん随分“進化”している。

まあ、腹部大膨張とか顔面大崩壊みたいな変化を遂げていたらそういう会合には出てこないだろう。そういう意味では皆様「全然OK」(?)なのだが、私としてはセーラー服にハイソックスの幻影がちらついて何となく落ち着かなかった。

逆にいえばこちらだって相手チームから同じように見られたのだろう。現在の姿形、態度なんかを当時の凛々しい詰め襟姿にダブらされたらきっと変な感じだ。

男ももちろん、20年、25年も経てばあの頃のツヤツヤ感?は消え去っている。私自身、最近は髪にも白いものが増殖中、鼻毛なんて白いものばかりだ。

加齢を渋みと読み替えてもらえれば御の字だろう。

大学生のお子さんがいるママもいた。びっくりだ。そのコが不良だったら、すぐにでも“祖母”になれる。。。ちょっと飛躍しすぎか。

たまたま私の姪っ子が彼女たちの母校に通っている。姪は高校生だから、あの頃の彼女たちとまったく同じ格好をしている。凄く不思議だし、そう考えるとやはり年月を感じる。

でも姪っ子のことを考えると、当時の彼女たちは真面目そうに見えて不良だったんだなあと実感する。自分のことを棚に上げてそう思う。

この日、夜更けまで騒ぎながら、ついついふた昔前の感覚に戻って沢山のことを思い出した。タイムマシン気分だ。

酩酊して帰宅。あのぐらい呑んだら若い頃はゲロゲロ太郎だったはずだが、新陳代謝が鈍化した今、そういう恐れはない。これもひとつの加齢的変化だ。

自分自身何も変わってないつもりが、20年、25年という時間の経過によって随分変化したのだろう。いろいろなものを積んだり下ろしたりしてきたんだなあと妙に哲学的な気分になる。

最近どうも“振り返り”が多くなってきた。いかんいかん。最晩年じゃあるまいし、こんなことではいけない。もっと前進しなければ。

また新しいフィールドに“狩り”に出ることにしよう。

2010年7月5日月曜日

インチキ消費税

なんかキナくさくなってきた。選挙前だから媚びまくった大衆迎合発言が飛び交うのは仕方ないが、首相の消費税に対する考え方は、現政権の性質を端的に示している。

正体見たりって感じ。

現政権は何だかんだ言って労働組合がバックボーンであり、旧社会党系の左寄りの勢力が大勢いる。

今更、右だ左だの議論は不毛なように見えて、経済政策に如実に反映される以上、やはり見過ごせない問題ではある。

労働組合的発想、社会主義的発想にとって、あくまで主役は労働者である。資本家や経営者は敵視の対象であって、彼らの稼いだカネは「富の再配分」という名目で収奪すべきターゲットになる。それが現実だ。

菅首相の消費税に関する考え方は、低所得者層には消費税を還付しましょうという一見温情に溢れた内容。

消費税の税率アップが既定路線として議論されるなか、例の“逆進性”とやらの対処策として低所得者へ配慮する形で導入を検討するらしい。

年収400万円あたりまでカバーするつもりだというビックリな話も出ている。バカなんだろうか?。

税率アップの際には、間違いなく、生活必需品への軽減税率とかゼロ税率が導入されるだろうが、それに加えて税額還付制度も誕生したら、まるでトンチンカンな話。アホかいな!と言いたくなる。

軽減税率やゼロ税率プラス還付制度という手厚い?施策によって、消費税という名称などインチキになる。あくまで“中堅・高所得者層狙い打ち課税”という新税にも似た制度に生まれ変わる。

そもそも逆進性という考え方自体が抽象的。単一税率だと何を買うにしても税率が均一だから、収入が低い人ほど不公平だという理屈だ。果たしてそうだろうか。

消費税導入以来、消費税批判のためだけに錦の御旗のように声高に主張されている「理屈」だろう。

同じクルマを買うにしてもロールスロイスを買う人と、壊れかけた中古の軽自動車を買う人では、税率が一緒でも税額の差はもの凄く大きい。単一税率だから不公平だとは思わない。

どんなジャンルのものを買うにしても、高級品、中級品、廉価品がそれぞれに存在する。現実社会では収入階層、クラスごとに違うものを求めている以上、必然的に公平は保たれている。

百歩譲って逆進性を考えるのなら、せいぜい生活必需品への軽減税率の導入で済む話ではなかろうか。

年収300~400万円水準にまで消費税を還付していたら単なるバラまきだ。生活保護対象世帯プラスアルファぐらいを想定しているのならまだしも、「年収400万円」という具体的発言に及んだ菅首相の性根というか、イヤらしさは特筆モノだ。

年収400万円をラインにしたら、きっと全国で半数程度の世帯がカバーされるはずだ。それだけの世帯を相手に消費税をチャラにしますよという発想は、中堅・高所得者からガッポリと吸い上げなければな成り立たない。事実、そういう考えを平気でしているわけだ。

選挙PRでさかんに「サラリーマンの息子が総理になれる国になりました」とかなんとか叫んでいるが、あれも何だかな~って印象だ。

きっと、国民みんながサラリーマンであることが理想なんだろう。突出しないでみんな平等にサラリーマン人生を謳歌しようって感じ。社長さんとか金持ちとかは排除しよう!、みんなでサラリーマンをしよう!って聞こえる。

植木等みたい。

弱者救済は政治の使命だ。そんなことは百も承知だ。ただ、弱者の線引きだってもっと真剣に考えないとマズイだろう。ぐうたら弱者、弱者もどきだってゴマンといることを忘れてはならない。

努力して高額所得者になった人を評価せず、高額納税者への感謝もせずに、エセ弱者にまで税金をバラまかれたらたまったものではない。

「金持ちケンカせず」と悠長に構えていると、どんどん逆差別は進行する。苦労して人より多くの税金を納めた人間が逆差別されるような社会は異常だ。

稼ぎたい、成功したいという上昇志向を健全に育成することもせず、横並びだけを美徳として、覇気ある人材を育てていない現実が、昨今の日本の国力衰退と密接に関係してきた。

近隣諸国に得意分野でも追い抜かれ、財政状態は末期的状態。にもかかわらず、中堅・高所得者層を上昇気流に乗せるようなバックアップ政策は皆無。そうした階層からあくまで搾り取ろうという発想で凝り固まっている。

稼いでいる人から取るのは政治的には簡単だろう。稼いでいる人にもっと稼いでもらって、もっと使ってもらうのが政治に求められるセンスじゃなかろうか。

現行のすべての制度が、稼ぐことが悪であるかのような感覚。それじゃあ国自体の力は弱まって当然。

経営者向けのわが社の新聞でも「金持ち優遇税制の必要性」を具体的にドシドシ紙面で紹介する方針だ。

“金持ち優遇”という言葉に闇雲に拒否反応を示し続けてきたのが、戦後日本のマスコミだ。大衆向けメディアとして漫然と無秩序にその呪縛は続いている。経営者向けの立ち位置で新聞を発行するわが社では、まるで別の視点で紙面展開していきたい。

2010年7月2日金曜日

E-PL1 オリンパス・ペン 水中写真 盗撮

バリ島撮影旅行の続きです。

宮崎あおいのテレビコマーシャルで知られるオリンパス・ペン(E-PL1)を水中に持ち込んでみた感想は「小さいことは良いこと」に尽きる。

オリンパス純正の防水プロテクター(ハウジング)はもっとカメラサイズに沿って小型化できそうなものだが、充分扱いやすいサイズ(OLYMPUS「PT-EP01」)。

オートフォーカスの精度、レスポンスのスピード感に今ひとつまどろっこしい感じはあるものの、やはり一眼だ。実用性は高い。オジサンダイバーはこのぐらいで満足しないといけない。





オリンパス純正レンズではないものの、単純に互換性のあるマクロレンズがいい感じ。パナソニック製のくせにわざわざ「ライカ」を名乗るこのマクロレンズは描写力に優れていて楽しい。

一昔前には考えられない小ささ、軽さでこのぐらいの実力があればバンザイだ(LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)。

もともとフィルムカメラ時代、100㎜マクロを中心に使ってきたので、この“パナライカレンズ”では最初少し戸惑った。被写体までぐいぐい寄らないといけない。逆に言えばぐいぐい寄ることが出来るわけで、マクロ撮影の楽しさを満喫できる。

まあ、変な話、多少遠目でもストロボの光が回る範囲でピントさえ合っていれば、あとはデジタル写真特有の画像処理で近接撮影風に加工することも可能なわけだからラクなものだ。20ウン年前から水中写真と格闘してきた私としてはチョット拍子抜けする。

マイクロフォーサーズ規格のオリンパス・ペンは、その小ささのせいで陸上でこそもっとバシバシ使いたかったが、同規格の望遠系のレンズがまだ不充分だったので、今回の旅行では結局キャノンのEOS・KISS・X3で陸上撮影。



夕陽を絡めた写真は、帰国前に2日ほど滞在したインターコンチネンタルリゾートで撮影。ビーチサイドのバーで撮ってみた。

これも画像処理を多少施してそれっぽい感じにしてみた。

変な話、夕陽を撮っているフリして相も変わらず出歯亀カメラマンとして人様のお尻を撮ることが目的だったりすることは秘密だ。

バリに行くといつもダイビングの後は、2日ぐらいリゾートホテルでのんびり過ごす。

バリ到着後翌日からでも1日4回のダイビングを連日こなしたりする。そんな年齢を省みない潜水病と隣り合わせの行動のせいでいつも疲労困パイだ。だから帰国前は束の間の休息。

この場合、大型のリゾートホテルを選ぶことが多い。僻地のスモールリゾートで過ごした後だけに大型リゾートの総合力は単純に魅力だ。

リゾートでマッタリといえばプールだが、隠れ家系リゾートだとプールも小さくて楽しくない。今回泊まったインターコンチネンタルはでかいプールが複数ある。暇つぶしにプールに花を浮かべて撮影機材の塩抜きを兼ねて遊んでみる。

この写真が今回の旅で一番のお気に入り。珍しい魚の写真よりも気に入っている。フランジパニ(プルメリア)の涼しげな写真だ。

いつもは花を水面に逆さに浮かべて水面下から煽るように撮影するのだが、この時はちょっと違うパターンに挑戦。片手にカメラハウジングを抱え、片手で花を水中でコントロールし、適度な角度で浮上してくるように頑張って撮影。水面のゆらぎ具合も柔らかい感じで満足。

ハイビスカスでもチャレンジしてみたが、やはり赤色がキツい。花びらもモサモサうるさい。やはりフランジパニの淡い感じが個人的には好きだ。

などと、もっともらしいことを書いたが、プールでこんな写真を撮っているのは、あくまで出歯亀カメラマンとしての本来の仕事をカモフラージュするためだ。

いかついカメラをプールに持ち込んでいると、時にドイツ人あたりが不審な顔を向けてくる。そういう時には撮影済みの上のような画像をカメラ越しに見せてやる。

するとやつらは“ゲルマン納得”みたいに喜んでくれる。そんなこんなで、そのうち私の存在はプールの中で“何か一生懸命特殊な写真を撮ってる人”に変わってくる。

ホテルスタッフなど頼んでもいないのに新しい花びらをわざわざ拾ってきてくれたりする。


そうはいいながら結局、こんなカットを撮影して喜んでいる。高いカメラやレンズを買ったのも、高い水中用機材を買ったのも、行き着く先がコレかと思うと我ながら少し切ない。

端的に言って犯罪である。パパラッチってこんな気持ちなんだろうか。

撮影旅行の話のオチがこれでいいのだろうか・・・。