2019年12月27日金曜日

駐車代4万円、歌舞伎、時代小説


 いろいろあった2019年もまもなく終わる。今年の正月は平成31年だったのに来週になれば令和2年が始まる。

職場の移転、自宅の引越しを始め、バタバタした一年だったが、今週も最後のドタバタがあった。

コイン駐車場に車を駐めたことをすっかり忘れて丸4日間も放置するという失態をやらかしてしまった。

慌てて駐車場に駆けつけたら料金は何と4万円ほど。倒れそうになった。

おまけに車の鍵を持たずに行ったから、いったん自宅に戻る。再度出直して精算しようとしたらナゼかいつも使えるはずのクレジットカードが使えない。

しかたなく近くのATMで現金をおろしてから再度コインパーキングへ。すると今度は千円札しか使えずにオッタマゲ。

またまたATMに行き直し、9千円ずつ何度も金をおろし、ヘトヘトになってようやく脱出した。

喜劇である。物忘れがヒドくなっているが、ここまで徹底しているとマヌケだ。

先日も子供たちとファミレスに行った際、車庫から車を出して信号待ちをしていたらファミレスのオジサンが凄い勢いで駆け寄ってきた。

食い逃げでもしちゃったのかと慌てたら、オジサンの手には私の財布。レジにポンと置いたまま出てきてしまったらしい。

こうなると物忘れというより、緊張感の欠如としか言えない。いつかシャレにならない大失態をしでかしそうで本気で恐い。新しい年は緊張感を高めることが目標だ。

話は変わる。今週は12月歌舞伎を見に行くことが出来た。小学校からの同級生が二人、たまたま同じ芝居の舞台に出ていたので、差し入れを持って訪ねた。




市川中車が主演、同じく同級生の中村松江も商人の役で出演していた。ふたりとも貫禄のオッサンぶりで、自分がいっぱしのオッサンであることを痛感した。

楽屋にお邪魔して彼らと話をした際も話題はどうしても自分達の年齢のことばかり。ことさら一致したのが、歳とともに馴染むものや心地良く感じるものが変わってきたという話。

若い頃には違和感だけだった歌舞伎の世界を例にとっても、太鼓や拍子木、衣擦れの音にいたるまで、漂っている気配が何となく心地良く感じた。

温故知新じゃないが、いまになって伝統文化の良さみたいなものが身体に染み入るようになったのだろう。

わが家から歌舞伎座までは歩いても行けるぐらいの距離だ。タクシーならすぐだし、来年は友人が出演していなくてもフラっと観に行こうと思う。

話はまた変わる。

年末年始の休みに向けて、時代小説をいっぱい購入した。ほぼすべて短編だ。読書体力が落ちてきたからついつい長編は避けてしまう。




今年になって急に時代小説を面白く感じるようになった。いままではまったく興味がなかったのに不思議だ。

偉人や英傑の伝記モノよりも市井の人々の人情モノみたいな話に妙に惹かれる。これもまた年齢とともに染み入るようになったのだろう。

いろいろな作家の作品がオムニバスになっている短編集を読んできた中で、素直にハマった山本一力、池波正太郎を中心にまとめ買いをした。

正月休みは9連休だ。旅行の予定もないし、外は寒いから読書ざんまいも悪くない。

というわけで、今年の更新はおしまいです。

来年は16日から再開します。今年も1年おつき合いくださり有り難うございました。

皆様にとって新しい年が充実した一年になることを祈念しております。








2019年12月25日水曜日

ヨロイヅカとかエクシブとか


このところ娘となかなか濃い時間を過ごしている。高校3年だが、いまだに父親を毛嫌いせずに何かと誘ってくれるからハッピーである。

一緒に暮らしていないから父親のデロデロな姿を見ていないことも毛嫌いされない理由だと思う。

泊まりに来れば今も同じベッドで寝るし、私の靴下だって平気で履く。なかなか良い心構えである。

冬休みに入ったし、クリスマスだし、第一希望だった大学に合格したこともあって、私としてはついついお祝いという名の甘甘ぶりを炸裂させている。

先日は真っ当なお寿司屋さんで腹一杯たべさせたからバカ高い値段になったのだが、その2日後に今度は贅沢スイーツの宴である。






京橋にある「トシ・ヨロイヅカ東京」のサロンで食べたスイーツである。私が食べたのは全部のうち3分の1ぐらいで、あとは娘の胃袋に消えた。

目の前で一品ずつ仕上げるサロンコーナーに陣取ったから妙に高いスイーツ大会となった。

大衆居酒屋なら大人が34人はヘベレケになれる値段でただただ甘味だけを食べた。贅沢な話である。こんなことは甘甘父さんと一緒だから可能なわけで、ヤツにはしっかり感謝してもらいたいと思う。

その数日後、私の母と娘と3人で山中湖に出かけた。1930年代生まれの母と60年代生まれの私、そして2000年代生まれの娘との三世代一泊旅行である。

御殿場のアウトレットで父親と祖母はアレコレと買わされた。甘甘父さんと甘甘バアサンに囲まれ娘は大喜びである。

すっかり散財してしまった私は、当然、お高いものは買えずに、やたらと格安だった部屋着や寝間着をチマチマ買う。まあ仕方ない。

泊まったのはエクシブ山中湖。エクシブのことは10年前にこのブログで書いていたからそちらをご参照。




今回は娘が主役だったから、夕飯はイタリアンにしてみた。普段はオヤジメシばかり食べているが、イタリアに行けば毎食イタリアンをしこたま食べる私である。時にはワイン片手にカタカナメニューを味わうのも悪くなかった。

すっかり少食になった母の分まで娘と私で奪い合うように食べただけでなく、コースとは別にパスタを追加注文してガツガツ食べた。



三世代の旅となると、真ん中世代の私は何かと気配り担当である。頼まれてもいないのに勝手に気遣いばかりして結構バテた。

でも、それ自体が有難いことだと思う。80を過ぎた母親が元気でいてくれて、18の娘は父親と過ごす時間を楽しんでいる。これって幸せな話だろう。

日頃から一人でいることを好み、自分の時間を侵されるのが苦手だとか言って、勝手気ままに暮らしているわけだが、そんな態度でいられるのも、親や子がいてくれればこそなんだと思う。

天涯孤独の身だったら逆にそんな生意気な感覚ではいられないかもしれない。親と子の楽しそうな顔を見て、ふとそんな殊勝な思いが頭に浮かんだ。

年の瀬になると、なんとなく日頃の行動を振り返って、ちょっとした総括みたいなことを考えてしまう。それも惰性で生きている日々にとっては大事なことだろう。

親に甘えられる時間には限りはあるし、娘に甘えてもらう時間にも限りはある。当たり前のことだが、そんな当たり前のことが幸せなんだと常に自分に言い聞かせようと思い直した。

私だって時には真面目なことも考えるというのが今日の結論だ。

2019年12月23日月曜日

トンカツと吹き出物 平田牧場


脂っぽい食べ物が続くと吹き出物が出来やすい。私の場合、決まって左アゴの下あたりにプチっと出てくる。

その昔はニキビと呼んでいたが、この歳になってそんな言い方をすると世間から怒られる。あくまで吹き出物である。

揚げ物が続くとほぼ確実にヤツは誕生する。困ったものだ。分かっているけどやめられない。

それにしても揚げ物ってなんであんなに美味しいのだろう。



ハムカツの下品なウマさ?にはバンザイ三唱したくなる。ハムという既に完成した食べ物に衣を付けて揚げちゃって、そこにソースをかけて味わう下劣さが最高だ。

近頃は単価を上げたい理由なのか、下品なイメージを払しょくするためか、厚切りハムカツなどという迷走した?メニューを目にする。やはりハムカツのハムは薄いのが正解だ。

私の場合、幼い頃からカツとかフライという言葉を聞くとヨダレが出る特異体質なので、今も時々がっつりと揚げ物を摂取しないと元気がなくなる。

フライと聞くだけで落ち着かない気分になる。野球を見ながらセンターフライ、キャッチャーフライなどと聞くだけでヨダレが出たこともある。ウソです。

さてさて、なんとなく揚げ物を食べない日がしばらく続いていたある日、「トンカツが食べた~い!」という黄色い声に促されて、揚げ物ざんまいディナーに出かけた。

出かけた先は日本橋コレドの中にある「平田牧場」。78年ぐらい前までは銀座にも路面店があったのだが、今はコレドやミッドタウンといった施設内にいくつか店舗があるようだ。

トンカツ以外のメニューも多いので、揚げ物を肴に焼酎をかっ食らうという使い方に向いている店だと思う。




特厚ロースと棒ヒレという両雄?を基本にエビフライやカキフライも注文する火加減も適度で見るだけでハッピーになる。

昔はこれに加えてメンチカツや豚ロース味噌漬け焼きなんかも頼んでいたから、随分と少食になったものである。

数多くのトンカツの人気店を食べ歩いてきた経験から言わせてもらうと、こちらの店は衣がいまひとつである。肉はウマいのに実にもったいない。

変な話、衣を半分剥がしたぐらいが中身の美味しさを感じられる。もちろん、総合的には充分ウマい部類に入る店だとは思う。じゃなきゃ行かない。

「東京とんかつ会議」に出てくるようなこだわりの名店に比べると、ちょっと衣が残念というレベルの話である。

その代わり、酒の品揃えやツマミメニューが豊富だから、ダラダラ飲みながら過ごせるという点で魅力的である。トンカツをベースにゆったり飲める店って意外に少ない。





芋焼酎をロックでチビチビやりながら、トンカツを食べると幸福感に包まれる。

トンカツといえば白ご飯と合わせるのが大原則だが、芋焼酎の肴としても抜群だ。ご飯と一緒に味わうあの絶妙な組み合わせとは別な美味しさを楽しめる。

エビフライは1本から注文できるのも有難い。これ1本で牛丼が2杯食べられる値段だが、タルタル人である私としては必ず注文する。

ホントは3本ぐらい頼みたいのだが、同行者に変人と思われることを恐れて実現していない。

レモンの絞り汁&タルタルで1本、タルタル&ソースで1本、ソースだけで1本。そんな3種類を前菜にして、その後でロース、ヒレそれぞれのトンカツをむさぼり食いたい。

最近は牛カツというジャンルが人気を集めている。チキンカツも唐揚げとともに根強い人気だ。

でも、やっぱりカツといえばトンだと思う。

さんざん飲んで食べて幸せだった翌日、お約束のように吹き出物がプチっと出来ていた。あれだけ食べれば当然の報いだろう。

2019年12月20日金曜日

歩く楽しさと靴の関係


この秋ぐらいから意識して歩くようにしている。歩いた後は身体が少しだけシャキッとする感覚があるから、健康法というより気分転換が主な目的だ。

このところ雨の日以外は徒歩通勤だ。そう書くと頑張っている感じだが、せいぜい1213分の距離だ。ちっとも大変ではない。

たったそれだけの散歩でも身体の循環が良くなった気がする。普段あまりにも身体を鍛えていないから、その程度でも充分リフレッシュになる。

ことさらジムに行ったりするのはゴメンだが、私だって大昔は運動系の少年だった。野球はピッチャーとして頑張ったし、少林寺拳法もかじったし、学校外の活動でテニスも4年ほどやった。

今は歩くぐらいだから、もっと真面目に散歩に取り組まないといけない。



自宅から徒歩2分ぐらいの場所に「靴業発祥の地」なる記念碑がある。革製の西洋靴が初めて製造された場所だとか。

革靴が大好きな私としては、自宅の至近距離にそんな場所があったことに妙に興奮する。

日本人が革靴を履き始めたのは明治時代からだ。それまでは草履やワラジ、下駄である。電車もバスもない時代にそんなものでよく歩き回っていたものだと思う。

「男十里、女九里」という言葉がある。遠距離移動の際に、1日で歩く歩数のことである。男なら140キロ、女なら36キロという計算だ。江戸時代の標準である。

にわかには信じられない。まさに健脚。道路だって舗装されているわけではない。雨が降ればグチャグチャで馬や荷車も通るからデコボコ道が普通である。

そこをワラジで歩くわけだから。私だったら5キロぐらいで熱出して倒れそうだ。40キロも歩いたら、その後の数日間は生死の境をさまようはずである。

変な話、男性機能の強さは脚力に比例するのが通説だ。江戸時代の男達はおそらくバリバリに元気野郎状態だったのだろう。

ウタマロ伝説も元をたどれば健脚にも原因があるのかも知れない。

どうして、そっち方面に話が飛んでしまうのだろう。軌道修正。

今の住まいから職場がある京橋までは、碁盤の目というほどではないが、比較的、タテヨコ整然と大通りや細い道が配置されている。

無数の路地も方向が一定だから、適当に歩いても安心だ。だから徒歩出勤の際にはいつもその日の気分で歩くコースを変える。ちょっとした発見が楽しい。

こんなところに渋い和菓子屋があったのか、この床屋は穴場っぽいなあ、などとプチ探検気分で歩く。路上喫煙の穴場にも詳しくなった。

帰りはたいていどこかで飲んだくれてしまうせいで、しっかり歩くことは少ない。それでも寒さが厳しくない時には銀座あたりから夜更けの街をふらふら歩いて帰ることもある。

ネオン街を過ぎれば、街の様子はガラッと変わる。まさに眠りについた街である。そこをトボトボ歩きながら、昼の景観との違いを眺めるのも案外楽しい。



お気に入りの靴をその日の気分によって履き分けるのは、平日のちょっとした喜びである。

出勤の際、玄関でお気に入りの靴に脚を滑り込ませた瞬間にモードが切り替わる。グダグダモードから真人間モード?に変わる私にとっては大事なアイテムが靴だ。

まとめて業者に預けてピカピカにしてもらって間もないから、最近は毎朝ワクワクしながら靴を選ぶ。

雨の日は二軍、三軍の靴になってしまうので、グダグダモードが切り替えられない。ドンヨリと仕事場に向かうことになる。

雨が10日も続けば私の気力は完全にゼロになってしまう。私がマメに天気予報をチェックするのは靴のためである。ちょっとフラチかもしれない。

何が書きたいか分からない結論になってしまった。

2019年12月18日水曜日

エロ煩悩と闘う


頭の中に浮かんでいることは若い頃とたいして変わらない。50代の中高年まっさかり世代だが、実際はそんなもんだと思う。

仕事のこと、子供のこと、はたまた自分の老後のことなど、若い頃と違った課題が頭の中で結構な割合を占めるのは確かだが、そうした課題は浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返す。

普段の頭の中はどうでもいいことばかりである。アレが食いたい、あそこに行きたい、コレが欲しい等々、煩悩ばかりである。

モテたいという感情だってこの歳になっても消えやしない。ご苦労なことである。

パリっとしたスーツを着るのも、ピカピカにした靴を履くのも、はたまたバンド活動に精を出すことだって、突き詰めればモテたい願望が根っこにあるのだろう。

若い頃と同じである。そんなことでいいのだろうか。おまけに年齢相応の相手に目を向けるならともかく、いまだに若いオネエサンとネンゴロになろうと画策するわけだからタチが悪い。



自分が若い頃、50代のオトナたちはもっと達観の境地で渋く生きているものだと思っていた。今になってそれが幻想だったと思い知ってちょっと複雑な気分だ。

煩悩に振り回されているのは私ぐらいなのかとビビっていたのだが、旧友達とのワイ談ばかりの飲み会に参加すると、似たような感覚のヤツが多くて安心する。

頼みもしないのに自分で撮ったエロ画像を自慢げに見せるバカ、パパ活の成果を得意気に語るバカ、最近読んだエロ本の中身を丁寧に解説するバカ、風俗店のおトク情報を語り合うバカ等々、百花繚乱である。

さすがに内容のエゲツなさは若い頃とは変わったが、10代の頃と同じようにゲスな話で騒ぐ。

バカバカ書いているが、私はそういう話は大好きである。そういう空気の中で騒ぐのも大好きである。だってバカだから仕方がない。

考えてみれば、30年、いや40年ぐらいに渡って喜色満面でそんな話で盛り上がってきた。男という生き物の習性なんだろう。

でも、バカも突き詰めれば一種の文化である。若い頃のゲス話より中高年になってからのゲス話のほうが愛嬌?がある。クスっと笑えるようなオチがついて回る。

いや、それはウソかも知れない。自己弁護フィルターをかけようと綺麗事をいってしまった。反省。

ゲスはゲスである。



でも、そんな話で盛り上がったり、あわよくば実践したりするのにも限界がある。あと56年もすれば還暦である。さすがに気力体力ともに厳しくなってくるはずだ。

恐ろしいのは、ゲス煩悩がいつになったら消えてくれるかということである。60代、70代になっても消えていなかったら大変である。ある意味で恐怖である。

今はまだダンディーぶったオジサマという仮面をかぶって現役みたいな行動をしていられる。事実、世の中にはナイスミドル好き?な有難いオネエサンもそれなりにいる。

でも、そろそろ最終局面は近づいている。「おじいさん」というカテゴリーが着実に迫ってきている。

「おじいさん」である。漢字で書いたら「お爺さん」である。そんな次元にカテゴライズされるわけだ。大変なことである。

適当な時期にゲスな煩悩が治まってくれないと生きていること自体が切なくなりそうだ。

先日、長いエスカレーターののぼりで、数段前に立っていた女性のミニスカートが気になってしょうがなかった。

靴ヒモを締め直すフリをすればパンチラが拝めるのかなあなどと大真面目に考えていた自分のアホバカぶりに切なくなった。

そんな自分のバカっぷりのせいで、今日はこんな話を書きたくなった。反省の日々である。






2019年12月16日月曜日

居心地と味の関係


飲食店の評価ほど難しいものはない。ネットのクチコミがすべてみたいなバカげた風潮が支配的だが、いい歳した大人があれに左右されるのはどうかと思う。

いつもセンベロ居酒屋で満足している人が客単価1万円の小料理屋に行ったら価格の面で不満だろう。ここのタピオカは最高よ、と言われてもオジサマ族にはちっとも分からない。

人によって感想や好みは違って当然だから、あくまで自分の感覚だけが頼りである。

もちろん、誰が食べてウマいものも沢山あるが、店の評価となるとまた違う観点も必要だろう。

すなわち、居心地である。大人の価値判断にとってこれは重要だ。エラそうな料理人を前に、かしづくように食べさせられる店など金をもらっても行きたくない。

平凡な味だろうと丁寧に居心地良く過ごせる店のほうがマシだ。



最近ちょくちょく訪ねるようになった新富町のお寿司屋さんでの画像だ。ここよりウマい店は他にもあるだろうが、初めてノレンをくぐった時から居心地が良い。店主の距離感が私の居心地を快適にしてくれる。お仕着せがましくない点も助かる。

オーソドックスな美味しい寿司を楽しめるが、穴子に海苔塩をふったり、時折遊び心を見せてくれて楽しい。

プチ常連になったお店と違って大常連?になっている店だと、変わったものを出してくれたり、こっちからワガママが言えるから尚更居心地は良い。



引っ越した関係で、この半年すっかりご無沙汰している目白「鮨おざき」で頼んだエビフライである。

この半年で2回目の訪問という不義理な客なのに優しい店主がタルタルソースまで準備してくれた。

生きている車海老をフライにするんだからウマいに決まっている。ホントはこれを10本ぐらい食べたい。




上モノのクジラベーコンにイバラガニの内子だ。酒のアテとして最高である。炭火の焼き台で藁で炙ってもらったカツオのタタキも絶品だった。

香箱ガニがまるごと入った茶碗蒸しも思わず無言になる美味しさだった。外子も内子も脚肉も全部が入っている。

今の時期、このカニはどこの店でも普通に出てくるから、あえて変化球勝負にしてみたそうだ。



ウニも3種類を味比べした。実に贅沢な時間だ。これ以外に刺身や特製ツナサラダもツマミで食べたから、当然、握りを食べる余力は無くなっていた。本末転倒かもしれない。

引っ越してから近所に3軒ほどプチ常連のお寿司屋さんが出来た。プチだから余計なことはあまり言わずおとなしく座っている。

そのせいか、ツマミを食べすぎることなく、いつもたいてい握りを8貫とか10貫も食べる。まあ、お寿司屋さんに行った以上は当然の流れだ。

以前は「鮨おざき」で3貫ぐらいしか食べないこともあった。いま思えば、握りに辿り着けないほどワガママなツマミを食べまくっていたことが原因だ。それはそれで問題だ。



生イクラと醬油漬けイクラを半々に盛ったミニどんぶりを食べているようでは、せっかくの握り寿司に辿り着けないのも仕方がない。

常連という立場の落とし穴みたいなものである。やはり節度をもってごく普通に過ごした方が賢明かもしれない。

お寿司屋さんのようにカウンターを挟んでプロと向き合う店は、やはり一度や二度ぐらいでは店の特徴は分からない。評価しようということ自体がトンチンカンだろう。

何度も行きたくなって、実際に何度も行って居心地が良くなったら、当然、たいていのものが美味しく感じる。

味には店の居心地が大きく関係している。人間の味覚なんてそんなものだと思う。

居心地が良い店がウマい店。実に単純だが、あくまでそういうこと。





2019年12月13日金曜日

昭和のエロ


同世代の知人とエロ談義になって、今と昔の違いをめぐる話に花を咲かせた。気づけば随分といろんなことが変わった。

昭和のエロには背徳感がつきものだった。インターネットの無い時代だから今よりもコソコソ感が強かったのだろう。

Wikipediaで「ヘアヌード」を調べてみたらなかなか興味深かった。いわく、90年代に写真集などで解禁され以前の80年代はせめぎあいの時代だったそうだ。警察と出版界の闘いである。

私が若造だった時代だ。確かに毛が見えた見えないで世の中が騒いでいた。ある意味、楽しい時代だった。

いまやネットを開けば無修正の動画がバンバン出てくる。昭和人からすれば隔世の感がある。

陰毛という言葉はすっかり「ヘアー」という呼称に変わったが、考えてみれば隠れているから陰毛なのであって、堂々と出まくっている場合は「オモテ毛」である。

70年代後半、80年代前半に思春期を過ごした男のコ達は誰もが必死にエロ本などで陰毛探しに躍起になった。

おまけに砂消しゴムや歯磨き粉を使ってゴシゴシこすれば、エロ本の黒く隠されている部分が見えるようになるといったデマも信じた。

私もゴシゴシやって大事なページがビリビリ破れちゃって慌てふためいたことを覚えている。

だいたい、エロ本というものが貴重だった。ネット通販などない時代だから普通に買うしかない。実に恥ずかしい。だから街の至る所にあったエロ本自販機を目指した。

自販機だから表紙で中身を判断するしかない。場所によっては表紙さえ見えないように目隠しされていた自販機もあったから、当たりか外れは買うまで分からなかった。

当たりは滅多になかった。そもそも今のように美人やカワイコちゃんがあられもない格好でニッコリなんてものは無かった。

たいていのエロ本に出ているのはパンチパーマが中途半端に伸びちゃった髪型のおブスちゃんか、怪しげな人相のオバチャンだった。

あれで悶々と出来たんだから若さって実に素晴らしい。

酒場のバカ話の際に「ちょうどいいブスのほうが美人より萌える」などと騒いでいるオッサンがいるが、たぶん昭和のエロ本後遺症だと思う。



背徳感と言えば昔のラブホテルの悪趣味ぶりも凄かった。照明が赤やピンクだったり鏡張りも当たり前のようだったし、回転ベッドだとか、モグラたたきゲームみたいにベッドの各所がボコボコと持ち上がるヘンテコなのもあった。

すっかりそういう場所には縁がなくなったが、あの路線は絶滅したのだろうか。今だったら逆に新鮮に感じるかもしれない。

話は変わる。昭和のエロの殿堂といえばストリップだったが、私が15歳ぐらいの頃から風向きが変わってきたような記憶がある。

のぞき部屋というジャンルが登場したことで、客席で大勢で眺めた時代から「個」の時代に移った印象がある。

恥ずかしながら高校生の頃に実際に体験した。悪友達とビビりながら出かけた。確か歌舞伎町だった。0.5畳ぐらいの個室が女性の部屋を模したステージ?の周りにたくさん配置されていた。

実に妙な世界だった。案の定、人相の悪いパンチパーマが伸びちゃったような年齢不詳の女性がBGMに合わせて服を脱いでいく。ただそれだけである。

あんなもので異様な背徳感を覚えたのだから、やはり若さって素晴らしい!いや、何ともシュールである。

でも、のぞき部屋という革命的なスタイルが、その後の個室ビデオや、はたまた個室系の漫画喫茶につながったような気がする。

ひょっとすると、近頃ハヤリの席と席の間に間仕切りがあって個室感覚で食べるラーメン屋さんのスタイルにもつながったのかも知れない。

盗聴テープという怪しいシロモノも出回っていた。男女のまぐわいらしき音だけが聞こえるカセットテープだ。いま思えば実にくだらないが、中学生の頃、友達からもらって宝物のように大事にしていた。

やはり、というか、結局、若さってマヌケである。

キリがないから適当にしよう。とりあえずまとめに入ろう。

背徳感がつきものだったエロの世界にファッショナブル?な波が押し寄せてきたのがバブル以降だろう。

かつての「よろめき」という言葉だって「NTR(寝取られ)」みたいな洒落た言葉に変わってきた。

金太の大冒険、吉田松陰の歌といった名曲を歌い継ぐ人も見かけなくなった。どことなくエロのオープン化、爽やか化が進んだのが平成だったように思える。

昭和のエロを彷彿させるのは、いまや熟女写真集の広告で皆さん見覚えがあるはずの富士出版の世界観と、知る人ぞ知るヘンリー塚本監督の描くAVぐらいだろう。

まあ、だからどうしたって話である。すいません。

2019年12月11日水曜日

ライブで感じた友の有り難さ


この週末、バンドライブが無事に終わった。想像以上に大盛況で楽しい時間が過ごせた。

このブログをきっかけにご来場された方もいらした。大恐縮である。この場をお借りして御礼申し上げます。

8年連続で人様の前でライブをしたことになる。アッという間だ。着実に歳を重ねて疲れかたが重くなったのが残念である。

ひょんなことから始めた音楽活動だが、いまや私にとって大事な趣味になった。8年前に声をかけてくれた友人のおかげである。



今年はちょっとしたハプニングも重なってライブ前日の夜の12時近くに一部演目を変更することになった。

急きょやることになった曲はオリジナル曲で再演ではあるものの今年は一度も練習していない。当日のリハで初めて合わせてみた。

腕っこきのメンバー達のおかげで、何とか良い感じに出来そうだったので、ほぼぶっつけ本番で頑張ってみた。

結果は問題なし。というか、その曲で涙を流してくれたお客さんが結構いたので、逆にこちらが感動してしまった。



これを書いているのはライブ翌日なのだが、イッチョまえに抜け殻状態である。なんだかもう今年が終わっちゃったような感覚だ。

春頃からボチボチやり始めて、最初のうちはメロメロだった演奏や歌がそれなりの形に仕上がっていく。オリジナルで作った曲はまったく何もないところから形が整っていく。
  
この過程を思い起こすと感慨深い。終わってしまったのが淋しい。無事に終わった嬉しさより終わってしまった淋しさのほうが強い。

目立ったミスもなく、特別に4曲だけ参加してくれた14歳の少年ドラマーのパフォーマンスもバッチリだった。

全部で15曲ほどやったのだが、どの曲も練習段階ではいろいろ課題があって、少しずつそれを退治しながら本番に向かう。

ライブ当日まで課題が残ってしまうことも多いのだが、それが本番アドレナリンのおかげでスムーズに出来た時はメンバーそれぞれが実に素敵な表情に変わる。

ライブ当日の緊張感だか高揚感だかよく分からない感覚を味わうのも楽しい。非日常感の極みみたいなものだ。

拍手や声援を浴びることももちろん嬉しいが、それ以前のあの変な汗が出る感覚がクセになっているのかもしれない。一種のマゾである。



今回も130人ほどにご来場いただいた。3040人ぐらいは小、中、高校の同級生だった。そうした友人達からすれば一種の同窓会である。売れっ子俳優のK君や世界一のボクシングカメラマンのF君、他にも連日の舞台の合間を縫って来てくれたベテラン歌舞伎役者や日頃多忙を極める友人達がわざわざ集まってくれた。

いろんな世界の第一線で活躍している面々が子供時代に戻ってハシャいでいた。一気に昔に戻っちゃうから不思議なものである。

高校までエスカレーターの男子校だったから付き合いは濃いほうである。ついでにいえば年齢的にマウンティングしたがるようなヤツもいないし、利害関係を持ち込むヤツもいない。ただワイワイと楽しんでくれたようだ。

何度もMCの最中にたしなめたほどだ。でも、うるさく騒いでもらえることは有難い。クラシックをやっているわけではない。シーンと静まりかえっていたら逆に困ってしまう。

歌いながら聞こえてくる騒々しい感じに妙な安心感を覚えた。同じ釜のメシを食った面々、いや、同じ巣の中で育った者同士の独特の連帯感のおかげだ。

ライブハウスでの打ち上げ宴会、その後の三次会まで大勢が付き合ってくれた。話した内容は相変わらず昔のバカ話ばかりである。

我々のライブがどうだったなんて話はこれっぽっちも出やしない。小学校時代のサッカー大会の話題のほうが一大事である。そんな空気感で過ごせる面々に見守られていたことを実感した。有難いことだと思う。



さんざん飲んで帰宅して、やたらと空腹だったことに気付く。まだウーバーイーツも頼める時間だったが、バテバテだったのでクドくないもので腹を満たしたかった。

で、家にあった袋麺の冷やし中華を2玉、具の無い状態でむさぼり食ってしまった。何だか物凄く美味しかった。

実はライブ前にちょっと体重を落とそうと頑張ったのだが、予定より2キロ多いままで当日を迎えてしまった。とはいえ、深夜の冷やし中華にもかかわらず、翌朝体重計に乗ったら前日より2キロも減っていた。手遅れだっちゅーの!ってつぶやいた。

でも完全燃焼した証だ。


備忘  演目

1、夜明けのスキャット(由紀さおり)
      ~グロリア(ZIGGY)
2、ボヘミアン(葛城ユキ)
3、雪の華(中島美嘉)
4、クリスマスフォーユー(オリジナル)
5、恋人も濡れる街角(中村雅俊)
6、泣き笑い(オリジナル)
7、ラブソースイート(嵐)
8、スパイダーリリー(オリジナル)
9、時の過ぎゆくままに(沢田研二)
10、パプリカ(子供の人々)
11、危険なふたり(沢田研二)
12、マリーゴールド(あいみょん)
13、ケサラ(憂歌団木村)
14、ああ無情(アンルイス)
15、ランナウエイ(シャネルズ)~巡恋歌(長渕剛) ~ギャランドゥ(西城秀樹)~男の勲章(嶋大輔)⭐️メドレー




2019年12月9日月曜日

銀座「惣菜」 ステキな味わい


何でもかんでも人の話に「ステキ~」と反応する女性に出会った。とりあえず素敵という言葉を乱発しておけば間違いはないという処世術なんだろう。

もちろん、上っツラの「ステキ~」はちっとも嬉しくない。小バカにされている感じだ。

「寿司屋のカウンターでまったり飲むのが好きなんだよ」

「ステキ~」

「一人でふらっと温泉に行くこともあるよ」

「ステキ~」

「昨日は8時間も寝られたよ」

「ステキ~」

どうも怪しい。何が素敵なんだかサッパリ意味不明である。こりゃあこっちの話をちっとも聞いていないと気付き始める。

「体重を少し落としたかったのになかなか落ちなかった」

「ステキ~」

Amazonで売ってるエログッズの数はハンパないね」

「ステキ~」

「鼻くそを食べちゃった時って凄く後悔するよね」

「ステキ~」


バカである。そんなヤツと楽しそうにしゃべっていた私もバカである。いっぱしの大人として係わり合う人はキチンと選ばないといけない。

さてさて、ステキ~と関連づけて書こうと思ったのが銀座にある料理屋さんだ。素敵な料理を繰り出す店だ。

このブログで9月と10月に「そうな」という店の話を書いた。ヤバいという表現がついつい口から出ちゃうニクい食べ物をアレコレ揃える店だ。


その系列店で読み方は同じで漢字表記の「惣菜」という店が銀座8丁目にある。雑居ビルの6階という立地もあって「そうな」と同じく隠れ家感が強い。

「そうな」でヤバイいヤバいと連発していたから、こちらの「惣菜」ではステキ~ステキ~と連発しようと思う。

ジャンルを問わずにオジサマ族を唸らせるようなメニューが豊富に揃っている。オジサマじゃなくてもウッシッシな顔になれるウマいものが多い。

まさに「ステキ~」という表現がピッタリだろう。






「そうな」と「惣菜」のメニューは85%ぐらいは同じだろうか。以前にこのブログで紹介したシンボータマラン状態のウニソースやトリュフソースみたいなウットリ系ももちろんある。

揚げ物も少しずつ食べられるから嬉しい。塩で食べることを勧められたトンカツも専門店と遜色ないレベル。私は普通にソースで食べたが、確かにそのままで味わっても充分楽しめるレベルだった。

カキフライのタルタルソースもウマいし、季節の香箱ガニも丁寧に処理されていて美味しかった。コロッケにイクラを載せた一品はイクラが醤油の役割になっているみたいで楽しい味がした。

お酒の品揃えの豊富さや仕上げの丁寧さもポイントだ。梅干しサワーを頼むと実に正しく仕上げてくれる。梅干しを適度に潰し、かつ炭酸が飛ばないようにキッチリ注意しながら極めて真っ当に作ってくれる。

高級なバーで熟練のバーテンさんに梅干しサワーを作ってもらったらこうなるんじゃないかと思えるような仕上がりだ。ステキ~と叫びたくなる。

場所柄、手軽な値段の店ではないが、バカ高いというほどではない。何より自分が好きなモノだけを少しづつ何種類も選んで食べられるということ自体が貴重だ。

店の都合を食べさせられるようなどうでもいいコース料理にウン万も払うなら私はこういう店のほうが快適に過ごせる。

また近いうちに出かけようと思う。