2017年12月29日金曜日

閲覧数ベスト10


ブログを始めて10年、はじめの頃は仕事絡みのSEOみたいな動機もあったが、今では単なる個人的な日記感覚で書き殴っている。

書くことのメリットは頭の整理である。着地点を決めずに書き始めたテーマでも、書いているうちにそれまで気付かなかった自分の考え方が浮き彫りになったりして結構楽しい。

そんなことを言うと、さぞ高邁な話ばかりのようだが、あくまで「とっつきやすい話」だけを書いている。

ネットの浸透によって一億総評論家時代といわれるが、素人が得意気に書く知識のひけらかしや持論のおっつけほど読んでいて退屈なものは無い。

そう言いながら、私自身も結構ウザったい持論を展開しているから、もっとケッタイな話や笑えるような話を仕入れないといけない。

ホントはもっと下ネタ寄りに舵を切りたいのだが、私の中の何かが邪魔をする。

「まっとうな人」だと思われたい邪念のせいで、突き抜けることが出来ない。つくづく“凡人の限界”を感じる。モノを書くことの難しさである。

まあ、難しいから楽しいとも言えるが・・・。

さてさて、年末に目新しいこともないので、今日は当ブログの今年のベスト10を紹介したい。

ブログの閲覧数にはそれなりの法則があって、一つの分野に特化した上で知名度の高い固有名詞を中心にするとヒット数が増加する。

このブログとは真逆である。脈略はまるでないし、固有名詞もさほど多くない。つまり、閲覧数という意味では、ちっとも頑張っていないわけだ。

それでも10年も続けていると、有難いことに読んでくれる人が結構な数にのぼる。通勤電車の中、トイレの中、寝る前のひとときなど、決まったサイクルで読んでいるという声をアチラコチラから教えてもらった。

今年も150回近くアレコレ書いたが、一番閲覧数が多かったのが「ふるさと納税」に関するものだ。

★ふるさと納税 ヘンテコだけど

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/11/blog-post_24.html

世間一般での関心が高くなる12月に入ってからヒット数が増え、また、文京区の取組みについて書いたことを関係者がシェアしたことも後押ししたようだ。

続いては、お寿司屋さんの話。

★目白 鮨 おざき

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/07/blog-post.html

これは、「固有名詞」が閲覧数を増やしたパターンだ。新規開業のお店だったから、近隣エリアの人などがネットで店名検索した際にヒットしたのだろう。

続いては待望?のエロ話である。


★暇な女子大生にエロを学ぶ

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/05/blog-post_17.html

こちらも一種の固有名詞効果だろう。「暇な女子大生」というツイートが人気を集めたから、それを検索した人達の眼に触れたようだ。

ちなみに「暇な女子大生さん」は、その後、主な発信をツイッターではなく、某Q&Aサイトに移して、今では若者の間でカリスマのようになっている。

トップ3の他は順不同で紹介する。

★女性の図太さ 工作員

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/03/blog-post_3.html


★トランプさんと資産公開

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/01/blog-post_27.html


★パパは最高なのか

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/10/blog-post_6.html


★男酒

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/06/blog-post_21.html


★クルマと色気

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/09/blog-post_13.html


★夫婦の絆

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/06/blog-post_28.html


★不倫と社会 モテない人

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2017/04/blog-post_5.html


今年は世間の関心が不倫方面に突っ走っていたから、不倫や夫婦関係の話が関心を集めたのかもしれない。

私としては、女性のお尻話やバニーガールの話などが上位に入らなかったことがちょっと残念だ。

というわけで、今年もありがとうございました。皆様にとって心穏やかな年末年始になりますよう祈念しております。

来年は1月10日から更新する予定です。

2017年12月27日水曜日

頭の悪さ


人生後半戦における大きな課題は「固定観念との戦い」だろう。

中年にもなればそれまでの経験を糧に、わずらわしい世の中を何とか渡っていけるようになる。

経験がもたらしてくれるのは余裕や自信などだが、その一方で経験に縛られちゃって頭が固くなるのが困りものである。

「こうあるべき」「こうじゃないとダメ」みたいな思い込みや先入観が無意識のうちに強まってくる。

仕事への取組み方や人付き合い、趣味のこなし方に至るまで思い込みの弊害は結構メンドーなものである。

一歩間違えたら偏屈ジジイになってしまう。気をつけないと人生が退屈になりそうだ。

かくいう私も、あらゆる分野で思い込みや固定観念に影響されている。天ぷらを「お塩でどうぞ」と言われても天つゆを使うし、靴を履くときはナゼか左足からと決めている。

変な例えになってしまった。

クルマを運転していても、近道があるのに好きな道ばかり通る。仕事で原稿を書く際も締切ギリギリになったほうが良い仕上がりになるというヘンテコな因習に縛られている。

カップ麺にお湯を入れる時も表記されている待ち時間の半分以内で食べ始める。そのほうがウマいと信じている。アルデンテ万歳である。

このスーツにはこのネクタイ、このネクタイにはこのワイシャツといった自分の中での「決まり」に疑問を感じることもない。

お洒落な人が上手に組み合わせて着回しているのを見ると、自分のセンスの無さを痛感する。いや、センスというより頭の固さが問題なんだろう。

お寿司屋さんに行っても、「最初はツマミをあれこれ食べて最後に握りを食べる」という固定観念に支配されているので、結局、握りまでたどりつけないことが多い。

つい最近になってツマミの合間に握りを食べるように努力するようになった。その程度のことですら私にとっては革命的な変化だ。

柔軟性が無いってことは、ようするに頭が悪いのと同じ意味かもしれない。残念だ。

女性と一戦交えるときは、常に臨機応変に斬新なワザや道具を駆使?できるのに、なぜ他の場面ではダメなんだろう。

ついでに言えば女性の好みに関しては、昔のようなこだわりは無くなった。細め、太め、猫顔、犬顔、何でもOKである。こればっかりは自分の固定観念や思い込みを打ち破ることに成功しているつもりだ。

単なる女好きなどと言わないでもらいたい。。。

軌道修正。

「男はこうあるべき」「家庭はこうあるべき」みたいな根拠の無い思い込みが強いせいで、結局いまの私はしがない独り者である。

なんだかなあ~と溜め息が出る。まあ、こんなことで溜め息をついちゃうこと自体が固定観念に縛られている。反省。

「再婚しないのか」「誰かと暮らす予定はないのか」と頻繁に聞かれるのもウザったい。

中高年のシングル生活を「普通ではない」と決めつけるような世間様の固定観念も何とかして欲しいものだ。

なんだかボヤキと愚痴ばかりになってしまった。

まあ、いまさら大転換するのも難しい。目玉焼きは絶対にソースで味わい、冬でも冷やし中華を愛し、お燗酒は熱々にして、ご飯を炊くときの水分量は目盛りの75%を厳守する生活スタイルは変えられない。

なんだか話がトンチンカンになってしまった。

年の瀬はなんとなく自省の心というか、1年の反省点ばかりが頭に浮かぶ。そんなことを殊勝に考える機会は今ぐらいだ。思えば懺悔したくなることばかりの1年だった。

新しい年は固定観念に縛られないよう、柔軟に、かつ真面目に過ごしたいと決意している。

2017年12月25日月曜日

う巻き わたべ 宮川


おひとりさまディナーの頻度が高い私だが、一人だと注文できないものも多い。一人ノンビリと一献傾ける時間が好きとはいえ、鍋が食べたい気分の時もある。店によっては一人鍋も用意されているが、あれは何となく違う気がする。


グロテスクな見た目だが、これはアンコウ鍋のシメにうどんを投入した画像だ。池袋の渋い居酒屋「南国ファミリー」で旧友と飲んだときの一コマだ。

この時は3人。鍋を囲むには丁度良い。旧友とバカ話で盛り上がりながら突っつく鍋は最高だ。旧友の家庭問題やイマドキのオトナのおもちゃ事情を真剣に語り合った。

女性との二人鍋だったら、やたらと気を使ったりして落ち着かないが、野郎三人での鍋ならその心配はない。こういう時間をもっと持つべきだと感じた。

やや唐突だが、一人で注文しにくいメニューといえば「う巻き」である。ウナギラバーである私にとって宝物みたいな食べ物だ。

鰻屋にも一人でふらっと出かけるが、珍味系のちょっとしたツマミに白焼き、そして鰻重というパターンが定番だ。


う巻きも食べたい。でも、たいていはデカい。これを食べちゃうと鰻重までたどり着かない。いや、たどり着いてもフードファイト状態でせっかくの鰻重が憎らしい存在になってしまう。

同行者がいれば何はさておき「う巻き」だ。店の良し悪しを見極めるバロメーターと言っても大げさではない。

上の画像は小石川にある隠れた名店「わたべ」で食べた逸品だ。この店は元々は佃煮屋さん。鰻の佃煮もある。おつまみメニューも豊富で居心地も良い。



肝焼き卵黄がけ、白焼きである。この店の白焼きは山椒を粒の状態で添えて出す。普通にワサビ醬油で食べたかったが、騙されたと思ってトライしたら口惜しいけどウマかった。

今年、ミシュランに載っちゃったそうだから今後は混雑しそうだ。定休日が水曜、木曜という使い勝手の悪さ?もあって、近所に住む私としては「近くて遠い店」である。

お次は、いにしえの三業地・大塚駅の近くにある「宮川」のう巻きだ。


この店は築地宮川の暖簾分け1号店だとか。以前、割と近くに住んでいたので何度か出かけた。

最近になって話題のブランド養殖鰻「共水うなぎ」も使い始めたが、それが無い時でも充分ウマいウナギ料理が味わえる。

この日は有難いことに同行者がいたから鰻重をがっつく前にう巻きを注文。絶妙だった

だいたい、食べるのが好きで太りやすい人は間違いなく「タマゴ」が好きである。目玉焼きはもちろん、オムライスしかり、ラーメンに入っている煮卵しかり、焼鳥屋でもウズラの卵は外せない。

そんなタマゴラバーにとって、う巻きは幸福の証明である。フンワリして甘めの卵焼きに鰻がくるまれている。身悶えするほど嬉しい。


白焼きで冷酒をひっかけ、う巻きに身悶えた後は鰻重サマの登場だ。白焼きは冷酒との相性が抜群。蒲焼きはご飯との相性がこの上なく素晴らしい。

コメ文化の国ならではのスペシャルな存在が鰻だろう。鰻を神様の使いとして崇めているどこかの村では何があっても鰻を食べないそうだ。

その村に生まれなくて良かったと思う。

2017年12月22日金曜日

パンスト問題


「下着を見てくれない人が多すぎる」。ある女性が語っていた言葉だ。なんとも深い発言である。

女性にとって下着はオシャレの重要アイテムだ。男の場合、いざ合戦という場面だろうと下着にさほど神経を使うことはない。

私も最近は裏起毛の7分丈のカッチョ悪いパンツを平気で愛用している。合戦だからといってTバックの素敵なブリーフで気合いを入れることはない。

女性の場合、成り行きで男性とそんなコトになりそうになっても、気に入らない下着を着けているという理由だけで全力で拒否することがあるらしい。

おそらく女性にとっての下着は化粧や髪型の決まり具合と同じように大事な身だしなみなんだろう。

そう考えたら大人の男としては、試合開始のゴングが鳴っても、余裕のあるフリをして相手の下着を誉めないといけない。大事なマナーである。

私の場合、単純に女性の下着が好きだから、いつまでも脱がないで欲しいと思うこともある。マナー以前に単なる変態かもしれない。

一昨日このブログで力説した脚線美に関連して、今日は女性のパンスト問題について考察してみたい。



画像はAmazonから拝借した。パンストの比較である。いまハヤリのシームレスストッキングとオーソドックスな編込み部分があるストッキングである。

個人的な意見だが、私は太ももの上の方で色の濃い部分がある編込み型が大好きである。これぞパンストって感じがする。

おそらく、私が若い頃はシームレスという小洒落たパンストを見かけなかったせいだろう。原点に惹かれる感覚だ。

「パンストの上の方」は、普段はスカートに隠れていて男達が目にすることはない。いわば神秘の世界である。

若かりし頃、女の子とムホホな展開になった時に初めて「パンストの上の方」を至近距離で目撃した。

それまで目にすることのなかった「色が濃くなっている部分」をガン見できたことがきっと嬉しかったんだと思う。

それ以来、アノ編込み部分?のファンとなってしまい、中華レストランなどで見かけるチャイナドレスのスリットからチラッと見える編込み部分に萌えるようになった。

今もコスプレを楽しむ時は、ミニチャイナドレスと編込みストッキングは、私にとってバニーガールと並ぶド定番である(ウソですよ)。

今まで何十年もの間、女性達に取材をしたが、皆さん口を揃えて編込み部分を見られることに抵抗があるそうだ。

女性が見られたくない部分、隠していたい部分だから、ついつい覗き見趣味で見たくなるのかもしれない。


覗き見したい心理も否定できないが、もっと言えば、この画像のようなガーターストッキングへの憧れみたいな気持ちも影響しているかもしれない。こちらもAmazonから拝借した。

ガーターストッキングの上の方と、編込みパンストの色の濃い部分にはどことなく共通の怪しさがある。

私が若い頃は今ほどガーターストッキングを目にすることはなかったような気がする。

今でこそゴスロリだのヘンテコなコスプレ文化が花開き、それ以外でもショートパンツやミニスカートに小洒落たガーターストッキングを合わせるようなスタイルを見かける。

30~40年ぐらい前はガーターストッキングなんて特殊商売の女性か、エロ本の中でしか見かけなかった。

思春期の頃に脳が受けた刺激は強烈だ。その後の人生にどことなく影響する。私の「パンスト論」も多感だった時代の印象に左右されているわけだ。


いまも素敵なストッキングを目にすれば、ついつい撮影したくなる。これを撮って何がしたいのか自分でも分からないが、美しいものは記録したいという芸術家?としての本能がそうさせるわけだ。

いわゆるハメ撮りばかりしている悪友がいるが、私はそっちよりも脚線美だとか着衣の中の妖艶さのほうがグっとくる。

ある意味でタチの悪いスケベかもしれない。

開けっぴろげよりもチラ見のほうが刺激的だ。そういう意味ではパンストや下着類の果たす役割は大きい。

最近は、生足に見えるパンストも一般的だ。それはそれで結構だが、なんだか直情的!過ぎて私の好みではない。


とか何とか言いながら、そんな生足風ストッキングだってお構いなしに撮らせてもらう。

要するにただのスケベである。

2017年12月20日水曜日

脚線美


脚線美。この言葉を聞いて鼻の穴が広がるようになったのは高校生の頃だったと思う。


F1レースのTVテーマ曲で知られるフュージョンバンド「THE SQUARE」が1982年に発表したアルバムタイトルが「脚線美の誘惑」である。

当時はこのジャケットを見るだけでオトナの世界への憧れを感じた。脚線美という言葉自体が持つ妖艶な感じにも惹かれた。

いまも「脚線美」という三文字がこの上なく魅力的に見える。

とりあえず脚と足は違う。足は靴を履く部分のこと。足首から下である。脚はもっと全体的な意味合いである。

足の指や足の裏に興奮するフェチもいるそうだが、私の場合は脚線美のほう専門である。ふくらはぎ、膝の裏、そしてもちろん、太ももが大好きである。


脚フェチはポドフィリアという性的倒錯の一種に分類されるらしい。ホントだろうか。単純に美しいものを愛でたくなるという意味では極めて正常だと思う。

そもそも脚のラインの魅力を女性自身が認識しているから脚を出す服装が一般的なんだろう。

ミニスカやショーパンでウェイウェイ歩いている人が多いのがその証拠だ。ミニじゃなくてもタイトスカートも脚線を見せることを想定している。

チャイナ服のスリットだって、ただ脚の美しさを見せるためだけの発想だ。

女性側がアピールポイントと思っているわけだから、それに萌える男を性的倒錯などとみなすのは大間違いだ。

みんなでジロジロ見るべきだと思う。


夜の街でこんなドレスで相手してくれる女性が横にいれば、私はそれだけで幸せである。顔や性格なんてどうでもいい。

銀座あたりの夜の女性陣はロングドレスか着物が多い。ドレスの場合、胸元をドッカンと強調している人は多いが、脚線美方面のアピールはポピュラーではない。

もし私が店をプロデュースするならスリットがセクシーなドレスの女性を大勢揃えて、やたらと店の中を歩き回らせてみたい。スリットパブ、いかがだろう。

話がそれた。

胸やお尻ももちろん素敵だが、脚線美はある特定の部位ではないトータルでの曲線が様々な表情を見せるところがドラマチックである。

「脚は裏切らない」。これが真理だ。スッピンになったら誰だか分からない人がいるように、顔は裏切る。

性格だってこっちが思っていた幻想はしょっちゅう裏切られる。その点、脚は裏切らない。素晴らしいことだ。

とある心理分析を読んでいたら、女性の脚に執着する男性は、視覚で興奮しがちな変態っぽいタイプなんだとか。

別の見方として、脚フェチ系の男は芸術家肌だという分析があった。はたしてどちらの分析が正しいのだろう。

まあ、どっちも正解かもしれない。男たるもの、女性の脚線美に何も感じないようでは生きる屍みたいなものだ。

以前、このブログで「女性の尻を愛することは男として極めて自然」だとクドクドと説明したことがある。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2015/03/blog-post_6.html

結局、お尻も脚も大好きなのが私の、いや、男の基本である。

だからこそバニーガールという絶対神のような姿に鼻の下を伸ばすわけである。


このところ年末の飲み過ぎがたたって、思考回路が迷走して、そんなことばかり考えている。

平和である。

2017年12月18日月曜日

クリスマス・エレジー



もうすぐクリスマスである。以前に比べて、クリスマスに熱くなっている世間に対してイライラしなくなった。

感度が鈍ったのか、いやいや、進歩である。

クリスマスは自殺者が一番多い日という話がある。西洋社会での話だが、あちらでは家族揃ってホノボノする日だから、家族に捨てられたりして孤独な人にとっては死ぬほどキツいらしい。

私がクリスマスをやたらと毛嫌いしていたのも、独り者の無力さや侘びしさを無意識のうちに感じていたからかもしれない。

もちろん自覚はなかったのだが、イラつく心理の裏には焦燥感というか、嫉妬や憧れみたいな感情が隠れていることもある。

家庭人だった頃は、クリスマスのようなイベントがある日は、騙し騙しとはいえ、それっぽくホノボノと過ごした。

一人で暮らすようになって、うざったいイベントから解放されたことが素直に嬉しかった。強がりではなく本心だ。

とはいえ、1年経ち、2年が過ぎるうちに、うざったいことにも意味や学ぶことがあったことに気付いた。

安易に面倒なことを避けたがる自分の腑抜けた部分を突きつけられたような気がして、ちょっと滅入った。

そんな複雑な気分のせいもあって、クリスマスに浮かれる世間を小憎らしく感じていたのかもしれない。

そんな私も昨年あたりから、以前のようなクリスマスアレルギーが薄らいできた。

どうでもよくなったと言っちゃえばそれまでだが、やはり、現状を肯定する意識が強くなったことが影響していると思う。

今更ながら、あるがまま、ありのままでいることに慣れてきたみたいだ。他の人やヨソの環境を過剰に意識せず、自然体で今を受け入れられている。

これって結構幸せなことだと思う。

もちろん、離れて暮らす子ども達との関係が非常に良い状態にあることも影響しているのだろう。一種の達観みたいな感覚だ。

独りで暮らすようになって6年。ようやく然るべき居場所に到着したような感じだ。ちょっと大げさか。

なんだか話が小難しくなってしまった。

クリスマスの話だった。

ハロウィン、バレンタイン等々、猿マネ的喧騒の最たるものがクリスマスである。私も子どもの頃はワクワクその日を待ち望んでいたのだから、やはり今になってブツクサ言うのはスマートではない。

高校生ぐらいからは「イブの日にデートする相手がいないと負け」というケッタイな呪縛に長年苦しめられてきた。

無理やり好きでもない相手とイブの日を過ごしたこともある。

どこぞのシティホテルをだいぶ前から予約して、せっせと連れていく人を探したこともある。

いま思えば小っ恥ずかしいこともやってきた。

20代の頃、半同棲していた女性を喜ばせようと、部屋中をキンキンキラキラに飾り付け、隠したプレゼントを探してもらうというアホみたいなこともやった。

海外からの仕事帰りだったその人にとってはクソ迷惑な話だったと思う。

高校生の頃は、悪友達とガールフレンドを持ち寄って?原宿かどっかの小さな喫茶店を借り切ってパーティーをした。

おませちゃんだったけど、いま思えば実に可愛らしい。あの頃は頻繁にキュンキュンしていた記憶がある。

そういえば、ファーストキスとやらを「プレゼントしてあげる」と言われたのもクリスマスだった。超絶的にキュンキュンした。

さすがに今の歳になって、あの「キュンキュン」を感じることは無くなった。実に淋しいことだ。

今では「ムホムホ」するだけである。

わずか0.5秒の幼い口づけに照れまくっていた当時の私が、変態オジサマと化した今の私に会ったら間違いなく張り倒しているはずだ。

残念。。。

2017年12月15日金曜日

焼鳥の奥深さ 蒼天


焼鳥は日本人のソウルフードの一つ。国民食と言っても大げさではない。

商店街で売っている1本70円のものから、高級店でうやうやしく出される1本700円ぐらいのものまで百花繚乱である。

もちろん、私も焼鳥が大好きだ。「今日は焼鳥じゃなきゃ絶対イヤだ」という日も結構ある。



馴染みの焼鳥屋さんもあるのだが、その店に行くと串モノではなく、一品料理ばかり食べてしまう。

豊島区の要町近くに位置する某店のササミチーズフライが私の大好物である。勝手に日本一だと信じている。

レバーの刺身を軽く炙ってポン酢で味わう一品も必ず頼む。あとは胸肉のキムチ和えなんかでお腹がいっぱいになっちゃうから、串モノをちっとも食べずに帰ることもある。

焼鳥好きを自称するにはちゃんと串モノを食べないとダメである。

ということで、久しぶりに別格の焼鳥を食べに行ってきた。4~5年前に何度か通った名店があったのだが、ナゼか忘れていた。ふと思いだして慌てて行ってみた。

やはり別格だった。抜群にウマい店なのに存在を忘れていたことが不思議だ。3年前まで住んでいた家の近くだったので引っ越しとともに頭から消えてしまっていた。

店の名前は「蒼天」。山手線の大塚駅と丸ノ内線の新大塚駅の間の住宅街にポツンとたたずむ店だ。

いつのまにか例のミシュラン本にも載ったらしい。あれだけウマければそれも当然だろう。

数年ぶりに行ったせいで、オーダーの仕方がちょっと変わっていたが、まあ大勢に影響はない。




つくね、ナンコツ、レバーである。卵黄を添えて混ぜ合わせて食べるイマドキのつくねも好きだが、この店ではそのものの味で勝負している潔さが感じられた。

ホロホロ鶏のモモ肉や手羽先もジューシーかつ旨味たっぷりで抜群だった。

酒の品揃えも良く、焼酎に関してはあらかじめ割水したものをお燗にしてもらえる。なかなかニクい。メニューには載っていないが、各部位の刺身や燻製もある。

黙々と食べたい人も酒浸りになりたい人にも良い店だと思う。


こちらは温玉そぼろ丼である。味の無い冷たいそぼろを漫然とご飯に乗せただけのダメな店が多いなか、こちらはそぼろの味付け、タレの味わい、温玉の加減が絶妙。全体を混ぜ合わせて食べると実に幸せな気分になれる。

この日は他にも白レバのパテやキンカンの燻製を食べた。全部ウマかった。野菜嫌いの私がネギまで美味しく感じたから本物だ。

職場から自宅に向かう通り道のような場所にあるから頻繁に通いたいが、一人しっぽりという雰囲気ではないのが玉にキズ。

それにしても、焼鳥は、平たく言っちゃえば鶏肉をただ焼くだけである。なのに店によって美味しさが極端に変わる。実に奥が深い。

素材の差、下処理の差、焼き加減の差、塩加減の差、他にも事細かな「差」の積み重ねがまるで別モノのような違いを生み出すわけだ。

食べる側の意識はファストフード感覚に近い。少なくとも、かしこまって高級フレンチに出かける時のような勢い込んだ感じはない。

神経を研ぎ澄まして徹底的に味を追求しようと焼鳥屋のノレンをくぐる人はいないだろう。今の時代はラーメン屋のほうが、そんなノリで訪ねる人が多いのではなかろうか。

あくまでフランクでお気楽な存在が焼鳥だ。グルメ論評のワクの外でこっそりとウマい世界を堪能させてもらいたい。

2017年12月13日水曜日

鳥取でカニを食らう

冬だからカニを食べに出かけてきた。目的地は鳥取県米子にある皆生温泉である。皆生と書いて「かいけ」と読む。

8年前にも訪れた場所だ。風光明媚な海沿いにいくつもの宿が建ち並び、塩分濃度の強い保温性の高いお湯が楽しめる。

至近距離には境港があり、冬の時期は名物・松葉ガニを堪能しながら温泉でポカポカできる。

冬の日本海はズワイガニの季節である。越前ガニ、間人ガニ、橋立ガニなど、エリアごとにネーミングされているが、山陰エリアでは松葉ガニだ。

細かい定義は知らないが、大ざっぱに言えば、こっちのエリアで特定の時期だけ水揚げされ、活ガニとして流通するまっとうなヤツのことを指す。

冬のズワイといえば、北陸のイメージが強いが、その分、上モノを食べようと思うとベラボーに高い。カニ一匹の値段で銀座のクラブで飲めちゃうレベルである。

ちなみにカニの数え方は、生きていれば「1匹、2匹」、そうでなければ「1杯、2杯」だそうだ。

15年ぐらい前に、突如カニ研究に精を出し始めた私も北陸に何度かカニ旅行に行った。美味しかったことより高かった印象のほうが強い。

その後、同じズワイでも山陰エリアのほうが値頃感があると聞いたせいで、鳥取に初めて行ったのが8年前である。

カニ攻めが目的だったが、皆生温泉の泉質が良かったので、今回も迷わず皆生の宿を選ぶ。

羽田から米子空港まで1時間程度。相変わらず貯まったマイルを使ってタダ飛び。空港からは境港がすぐそばで、皆生温泉も遠くない。

「山陰地方に出かける」と言うと、“はるばる感”があるが、実際には気軽に出かけられる場所である。


宿に入る前に、境港の「水木しげるロード」に寄り道。このエリアの定番だ。一種異様なまでの「鬼太郎推し」が境港の特徴である。通り沿いは妖怪のブロンズ像だらけ。

水木しげる記念館で目玉おやじの秘密を知る。ちょっと感動。

そんなことはどうでもいい。目的はカニである。

「菊乃家」という旅館を利用した。選んだ基準は、まっとうな松葉ガニをふんだんに楽しませてくれる料理プランがあるかどうかという一点である。

この宿には、活の松葉ガニを一人2匹以上使ったフルコースがあったのでムホムホしながら予約した。

大浴場の露天風呂が小さめだったのがやや残念だったが、部屋も綺麗で眺めも良く、全体的に接客も丁寧で快適だった。




刺身に茹でガニ、カニすき鍋である。茹でガニはさほど大きくなかったが、身入りがびっしりで食べ応え抜群だった。

なかでも最高だったのが、カニ味噌の甲羅焼き。酒のアテとして満点である。画像は撮り忘れたが、甲羅に盛られた生のカニ味噌をその場で熱して食べる。

そのままでもウマいが、刺身を絡めて良し、茹でガニの身にトッピングして良し、これぞ活松葉ガニの醍醐味という感じだった。


カニすきの後の雑炊も当たり前のように絶品で「しばらくカニは結構です」と言えるほど堪能できた。

カニはウマいだけでなく、カロリーも少ないのがエラい。無心にほじくっていると、ろくろを回しているような無心の境地に達するし、ほじくるので忙しいから酒をアホみたいに飲み過ぎずに済む。いいことづくめである。

甲殻類アレルギーじゃないことを神と親に感謝しないといけない。

ちなみに、ここまでズワイのことを誉めまくっておいて何だが、私は毛ガニのほうが好きだ。

わざわざ鳥取まで行って大枚はたいてカニざんまいしてきたのに、それが結論とは我ながらアマノジャクだと思う。

2017年12月11日月曜日

不良性感度


不良性感度という言葉がある。もともとは映画俳優向けの言葉だったようで、売れっ子になるために不可欠な要素だとか。

確かに強烈な印象を残したスターは不良性感度が強かった。石原裕次郎、勝新太郎、松田優作など例をあげればキリがない。


不良性感度などと言うと大げさだが、要するに「不良っぽさ」のことだろう。昔から人を引きつける不思議な力がある。

不良っぽさは、純粋な不良とは違う。「ぽさ」がポイントだ。あくまで社会秩序のワクの中で少しばかりもがいてみるレベルだ。

より突っ込んで定義付けすると、ただの悪者然とした感じとは違う。単純にコワモテを意味するわけでもない。怠け者やダメ男でもない。

見た目のカッコ良さもさほど重要ではない。「男はつらいよ」の寅さんや「釣りバカ日誌」のハマちゃんは「不良っぽさ」の究極だ。ニヒルだったり寡黙である必要はない。

トッポさや、反骨心、少しばかり自我が強かったり、背伸びしたい意識が強いタイプなんかも「不良っぽさ」につながる要因だろう。

見た目で不良っぽさを演出するのは簡単だが、あえて虚勢を張った格好をしなくても、根っ子に不良性があれば、自然と外見にも雰囲気が滲み出るものだと思う。

オジサン向けのファッション雑誌が、ちょっとハズした服装をチョイワルなどと称して煽っているが、あれを教科書のように信じ込むようなオジサンは、その時点で不良性ゼロだと思う。

不良に不可欠?な健全なアマノジャク精神があれば、ああいう教科書的なものを否定することから始める。

もちろん、善し悪しの話ではない。真面目にチョイワルを目指したい人を悪く言う気はない。それを否定するアマノジャク精神を闇雲に賞賛する話でもない。

あくまで「不良っぽさ」に当てはまるかどうかの話である。抽象的な表現になるが、無頼な感じ、居直った感じこそが不良っぽさの根っ子だと思う。

私自身、50歳を超えた今になって、真面目さの大事さを思い知らされているが、やはりワンパク男子のなれの果てだから、「不良っぽさ」にすり寄りたい気持ちは消えていない。

見た目に無頓着で地味に見える人でも、不良っぽさが匂ってくる何となくワクワクする。大人になるにつれ、そんな「滲み出る不良っぽさ」が格好良く思えてきた。

ことさら虚勢を張るのも程度問題だろう。若い頃ならいざ知らず、大人になったら「滲み出る」という点に意識を払いたいものだ。

私の場合、胸ポケットにチーフを挿し、ピカピカの靴を履いて一生懸命イキがっているから、さりげなく「滲み出ている人」に出会うと自分が小っ恥ずかしくなる。

もっとさりげない感じで、ほんの少しヤンチャっぽさが漂うぐらいの路線を目指したいものだ。

先日、松本人志が司会を務める「クレイジージャーニー」という番組で遺体科学の第一人者である東大の遠藤秀紀教授が取り上げられていた。



あらゆる動物の遺体解剖を通して生物の進化の神秘にメスを入れる個性的な学者さんである。

遠藤教授は実は私と同級生だ。小、中、高と同じ学校に通ったが、頭の構造がまるで違うので親しく交わったのは小学生の頃ぐらいだ。

番組の中で印象的だったのは、遠藤教授が研究室でカップ麺ばかり食べていた部分だ。

「身体に良いものだけを食べる人って馬鹿みたい」。おまけに、わざわざ昼飯を食べに外に出かけることが面倒だと語っていた。なかなか突き抜けている。

まさに無頼であり居直りである。驚くことに彼は携帯電話も持っていないそうだ。「まったく必要なし」と語る彼のそうしたブレない姿勢には、ある種の「不良性感度」が垣間見えた。

大人にとっての「不良っぽさ」って、結局は「突き抜け感」と「流されない自我」が欠かせないのだろう。

見た目ばかり気にしているような自分の薄っぺらい感じを反省する今日この頃である。

2017年12月8日金曜日

師走の徒然


なんだかんだ12月である。オッタマゲだ。

この時期、嬉しいことと言えば、テレビで「忠臣蔵」関係の番組が増えることと贈答品をいただけることである。

酒類や飲料、お茶、ハム、レトルト食品等々、お歳暮でいろいろ贈っていただいている。有難い限りだ。

このブログであれこれ書きなぐってきたせいか、生鮮食品などのシングルオジサマにとって厄介?な頂き物はほとんどない。

しがない独り者の場合、賞味期限や保存方法に気を使うようなモノをもらうと結構大変だ。

私の場合、対外的には住所を会社所在地にしている。不在がちな自宅にモノが届いても受け取れないからだ。

住民票も会社所在地にしているので、選挙の投票用紙や裁判所からの出頭命令(ウソです)など公的書類もすべて会社に届く。

というわけで、ズワイガニがどーんと届いたりすると置く場所がない。社内の冷蔵庫にそんな余裕はない。そのせいで常温保存できるものを贈ってもらうと、その相手が途端に愛しく思える。

私も誰かに贈り物を届ける際は、相手の好みだけでなく生活スタイルや生活習慣を一応は念頭におくように心がけている。

さて、日頃の散財の甲斐あって、飲み屋さん方面からの贈答品を結構いただく。これはこれで有難いのだが、荷札の送り主欄を見るたびに「プレッシャー」という言葉が頭をよぎる。

荷札そのものが「招待状」に見えるわけだ。いや、「督促状」「脅迫状」かもしれない。

気の弱い私は、贈り物をもらうとその店にすぐにでも行かないと悪い気がして、せっせと出かける。

釣り堀で釣られる魚の気分がちょっと分かるような気がする。


おまけに、年の瀬になると銀座のクラブなんかでは「パーティー」とやらの名目で営業攻勢が激しくなる。

普通、パーティーといえば、何かを記念するなど趣旨なり理由が存在するはずだ。

あの街の場合、ただ「パーティー」である。意味不明だ。要するに「売上強化月間」を翻訳しただけである。

まあ、理屈をこねるのもヤボだから、私も少しは貢献する。有難いことにわがオジサマバンドのライブにも、毎年いくつかの店から応援隊が来てくれるので、そのお礼参りも必要だ。

結局、四の五の言いながらアノ街のネットワークの片隅でちょろちょろと絡め取られている私である。

さてさて、12月だ。以前よりも「喪中ハガキ」が届く数が増えてきた。年齢的に当然かもしれない。

結婚式に呼ばれる機会が激減した代わりにお葬式に行く機会が増えたのも世代的に当然のことなのだろう。

話は変わるが、年賀状をやめることにした。とくに大げさな理由はない。プライベートで年賀状をやり取りしている相手とは、SNSなどで何だかんだと接点があって一応近況も分かっていることも理由の一つだ。

毎年のケジメとして年賀状は大事なのだろうが、儀礼的に無理矢理やり取りしている感じに少し抵抗感があって、以前から何かのタイミングでオシマイにしようと思っていた。


とりあえず、クリスマスカードにかこつけて「やめます宣言ハガキ」を作ってみた。

そんな内容を通知するのは、わざとらしい感じがしてヤボったい。かといって、黙って勝手にやめちゃうのも感じ悪い。どっちにしても気持ち悪いが、最低限の仁義のつもりで投函しようと思う。

でも、75歳ぐらいになってまだまだ元気だったら、生存確認用に勝手に復活させる可能性は大である。

2017年12月6日水曜日

エンゲル係数


家計における食費の支出割合がエンゲル係数である。私の場合、計測不能である。言うならば破綻している。

シングルオジサマの一人暮らしだから、一般的な家庭のそれとは比べられないが、食べ物コストを意識して節約したら、がっつり貯金だって出来そうな気がする。

でも出来ない。


とある週末、カキが無性に食べたくなって買い出しに出かけた。一人で家で鍋をつつくのもシャクなので、特製パスタを作ることにした。

エビとタコも買った。生パスタも買った。ついでにペペロンチーノとアーリオオーリオの出来合いの瓶詰めソースも買った。

出来合いのソースそのまんまだと負けた気がするので、両方をミックスしようと企んだわけだ。

もちろん、瓶詰めソースは全部使ったわけではない。でも、この先二度と使わずに賞味期限が切れる可能性もある。事実上の使い切りみたいなものだ。

言うまでもなく、パスタ、カキ、タコ、エビは使いきりである。

ふと気付けば、たった1回の特製パスタのためのコストとしてはアホ丸出しの金額を投下している。

エンゲル係数測定不能状態である。

こういう時、私の頭の中は自分に都合良くグルグルと回り始める。

美味しいカキのパスタを外食で味わおうとしたら、カキなんて3~4個しか入っていない。ついでに言えば、余計な前菜やメイン料理を注文して無駄に高い白ワインを頼むことになる。

もっと言えば、美味しいイタリアンに行くのなら小綺麗なオネエサンを誘い出す。そうしたら心にもないお世辞を言わねばならないし、結局は変な下心も湧いてくる。

うまくコトが運べば、そのままバーでマティーニなんかをひっかけて、ついでにムホムホ目的でホテルに行っちゃって大出費することになる。

すなわち、肝心のパスタを冷静に味わうことは不可能になり、それどころか、とんでもないコストがあっけらかんと消えてしまう。

それに比べて、一人せっせと贅沢パスタを食べるなら、邪念に惑わされることなく、行儀良くする必要もなくズビズビズズズっとただ無心に食べられて数千円である。

「数千円もかけて作ったパスタ」は、このような御都合主義的妄想気味の解釈によって正当化される。

結果、コスト意識の無さを反省することもなく、貯金がちっとも増えない生活が続く。


こちらは銀座「美らしゃぶ亭」での一コマ。私の知る限り日本で一番ウマい豚しゃぶの店である。

一番ウマいわけだから安い店ではない。「豚肉は牛肉より下」と思い込んでいる人にとっては驚きだろうが、肉類の中で豚肉が一番好きな私にとっては、時々奮発するには許容範囲である。

極上の豚肉が常時5,6種類は用意されているのだが、一番高い肉は確か1人前7千円ぐらいの値段だ。

ただし、旨味、甘味、歯応え、後味に至るまで完璧である。たまの贅沢ならアリだと思う。

この「たまに」という「言い訳」も私のエンゲル係数破壊の要因の一つである。「しょっちゅう食べるわけではない」「たまにしか食べない」という言い訳が財布のヒモを緩めてしまう。

「たまに」ではなく、ちょくちょく食べに行っちゃった時には、また別の言い訳が私の頭の中でフル回転する。

「ダイエット中は夕飯をモヤシだけで済ませた日が1ヶ月に4~5日あったから、合計して案分計算すれば大したことはない」。

いつもいつも都合の良い解釈で無理やり自分を納得させながら、気付けばピーピーしている。

バカである。

2017年12月4日月曜日

朝と夜 二重人格


10月半ばから1ヶ月間ダイエットに励んだ。それなりに成果も出たので、一応終了したのだが、それ以降、胃が小さくなったのか、あまり食べられなくなった。

由々しき事態である。これも加齢の一つだろう。筋肉の衰えと同じように、一度弱くなったら、元に戻るのに時間がかかる。

ダイエット中は、やれトンカツが食いたい、ピラフが食いたい、カレーを飲みたいなどと騒いでいたが、この2週間ばかりダイエットの続きのような食生活だ。

お寿司屋さんではちょろちょろしたツマミで満足して,、肝心の握りに行き着かない。一人だったら頑張って食べようと努力するが、同伴者がいればガンガン食べてもらって、自分は飲んでるだけでお店への義理?を果たす。

先日もクエ鍋を勇んで食べに行ったのに、カツオのタタキで満足しちゃって、鍋のクエは二切れ食べただけだった。醍醐味である雑炊もパスしてしまった。


銀座の「祢保希(ねぼけ)」に時々出かける。クエ鍋が目的だ。私にとって冬になると恋しくなる食べ物だ。

とはいえ、ここは土佐料理の店だから名物のカツオのたたきは外せない。

ニンニクスライスを添える土佐風の食べ方は、私が大学生の頃に本場で体験して以来、カツオのベストな食べ方だと信じて疑わない。

カツオって物凄く美味しい魚だと思うのだが、マグロの陰でいまひとつ脚光を浴びにくい存在だ。

どこもかしこも、それこそ山奥の旅館までバカの一つ覚えのようにマグロの刺身が出てくる。「マグロ絶対主義」のようなマインドコントロールに侵されている人は多い。

そりゃ真っ当なマグロは実に美味しいと思う。でも、どうでもいい味のマグロまで無条件にありがたがる変な風潮は考えものだ。

ウマいカツオを食べるたびに、「とりあえずマグロ」という風潮に警鐘を鳴らしたくなる。

大きなお世話でスイマセン。

食が細くなった話に戻る。


こちらは、わが家での寿司大会の一コマである。客人をもてなすために結構な量の刺身を用意して、備前の大皿と唐津のまな板皿に盛りつけてみた。

特製すし飯も作って酒を飲み飲みする宴だったのだが、私が食べたのはイクラを少々とカツオを二切れ程度。寿司飯は結局ほんの一口で終了してしまった。

さすがに胃の調子でも悪いのかと心配になったのだが、よく考えれば朝飯は平気でドカ食いしている。


ある日の朝、牛丼が無性に食べたくなって松屋の冷凍牛丼を湯煎した。ふるさと納税の返礼品としていっぱい取り寄せてあるので、ついつい2袋である。

一袋あたり135グラムだから2袋で270グラムである。かなりの量だ。店で食べる松屋の牛丼は特盛りでも肉の量は200グラム程度だ。

まさに「スーパー盛り」である。大盛りのドンブリ飯を抱えながらモノの5分程度で完食した。

別な日、これまた朝から鰻丼が食べたくなって湯煎するだけの鰻をドンブリ飯に投入した。


こちらもふるさと納税の返礼品である。鹿児島のナントカ市から送られてきたカット鰻である。悪いクセでこの日も一気に二袋を使ってしまった。上の画像は一袋分だからこの倍である。

二袋だと200グラムである。ファーストフード店の鰻丼の場合、鰻の量は70グラム程度だ。そう考えると朝からバカみたいな食べ方だが、スルスルと完食した。

間違っても胃が小さくなったとは言えない食べっぷりだが、不思議と夜になって酒を飲み始めると別人になってしまう。

昼は何も食べないので、とりあえず空腹感はちゃんとある。なのにビールをグビグビ~と飲んで、突出しを食べると、何だかそこで満足しちゃう。

なんか腑に落ちない。ロクに食べずに酒だけ飲んだら、帰宅した後にお腹が空いてペヤングなんかをウホウホ食べちゃうのが当たり前の時期もあったが、最近はそれもなくなった。

朝のドカ食いの効力が夜遅くまで持つようになってきたのだろうか。

あらゆる面で代謝が落ちてきたことを感じるが、私のヘンテコな食事リズムも代謝が鈍くなったことが原因だろうか。

だとしたらちょっと悲しい。

2017年12月1日金曜日

散歩の楽しみ 寅さん


「ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開花の音がする」

こういうリズムの日本語の面白さを初めて知ったのは小学校か中学校の教科書だった気がする。

五・七・五・七・七の短歌、七・七・七・五の都々逸(どどいつ)は、誰にとっても意識しないうちに身についているリズムだろう。

「信州信濃の新ソバよりも わたしゃお前のそばが良い」

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」

「たった一度の注射が効いて こうも逢いたくなるものか」

例をあげればキリがないが実に小気味よい。

映画・寅さんで頻繁に飛び交う啖呵売の口上もこうした言葉遊びの流れを汲む伝統芸能みたいなものだ。

都々逸の流れにつながった狂歌という分野の大家だった人が大田南畝という江戸時代の人。「蜀山人」という名前でも知られる。


「生きすぎて七十五年 喰ひつぶし かぎりしらぬ天地の恩」

晩年に呼んだ歌だそうだ。なかなか味わい深い。

先日、自宅の近くをぶらぶら散歩していた時に、大田南畝の墓があるという寺を見つけた。画像はそこにあった看板だ。

散歩の楽しみは、こういう発見にこそあるのかもしれない。もともと「蜀山人」という名前ぐらいは知っていたが、詳しくは知らなかった。

散歩の発見ついでにググってみたら、かなり興味深い人物だ。幕府の下級役人を務めながら、粋な文化プロデュ-サーとして活躍、狂歌の第一人者になるも、幕政改革のあおりを受けて、自粛暮らしになり、晩年まで左遷させられまくりの小役人を続けたらしい。

こういう人物を主人公にした人情モノの時代劇をぜひ作ってもらいたいものだ。

私が住んでいる文京区は、江戸の名残りが結構多くて、あてもなく散歩している最中に、歴史に絡む由緒書きの看板をよく目にする。

5代将軍綱吉が将軍になる前に住んでいた屋敷のそばの坂道は「御殿坂」、運河が通っていたそばの坂道は、漁師さんが網を干したから「網干坂」等々、すべて由緒書きのおかげで知った。

「八百屋お七」と「榎本武揚」と「二宮尊徳」のお墓が同じ寺にあったり、宣教師や信者を収容した「切支丹(キリシタン)屋敷」の跡地なども散歩しながら偶然見つけた。

何百年前にその場所で歴史が動いていたのかと思うと何となく感慨深い。

さて、江戸の名残りが感じられたり、古い街並を散策するのが好きな私にとって、一種の聖地が葛飾柴又である。

風情があるのはもちろん、わが師匠・寅さんの街だからただ歩いているだけでもウキウキする。


過去にも何度も散策しているが、最近になってスムーズにアクセスする方法を知ったので、今後は頻繁に出かけることになりそうだ。

地下鉄千代田線が途中からJR常磐線になってあーだのこーだのと知人に解説された。

千代田線の路線図だけ見ていると、サッパリ分からないのだが、とにかく文京区の某エリアからなら乗り換え無しでJRの「金町」に着く。そこから京成線で一駅乗れば柴又である。

週末は帝釈天の門前は大混雑である。それはそれで楽しいのだが、平日の日が暮れそうな夕方にブラブラするのが楽しそうだ。

ウナギ屋さんも普通に美味しい店はあるし、門前町で佃煮や漬け物を試食するのも楽しい。


寅さん記念館もある。何度も通って飽きちゃったのだが、それでも必ず入館する。

最近はヒマがあれば録画がたまっている寅さんを見ている。今まで全48作すべて見ている。3回以上見ている作品もある。

若い頃にはイマイチに感じた作品でも、今になって見返すと違う印象になるから面白い。

眠れぬ夜は「寅さん名言集」なんかもパラパラとめくる。



こんな話を書いているだけで、また柴又散歩、下町散歩がしたくなってきた。ウナギを肴に酒が飲みたくなってきた。

邪念ばかりである。