2012年10月31日水曜日

年齢とコスプレ

年齢の概念って昔と今では大違いだ。男女ともに妙に若い人が増えている。

大人が幼くなってしまったと嘆くのは簡単だが、そんな評論家ぶったことを言っても仕方がない。素直に「若年化」を喜んだほうがいいと思う。

「7掛け」。昔の年齢に対するイメージと比べると、ざっとそんな感じらしい。成人式は30歳ぐらいが適当だという私の感覚から見ても妙にうなずける話だ。

60歳の人が昔の40代前半。70歳なら昔の50歳程度。文字にすると違和感はあるが、世の中で元気で暴れている高齢者を見ると納得してしまう。

真に受けて自分に当てはめてみると、私はまだ30代前半ということになってしまう。それはそれで変だし、困ったものだが、精神年齢はそんな程度かもしれない。

かつての人気ドラマ「太陽にほえろ」で苦み走った中年男を演じていた石原裕次郎は、当初まだ30代であの役を演じていた。

いまだったらキムタクぐらいだ。成熟の早さというか老成というのか、昔の人は大変だったと思う。

子どもの頃に憧れた桜田淳子サマだって、たかだか二十歳ぐらいで、ブリブリアイドル路線を卒業し、大人の女優みたいな顔をしていた。

山口百恵にいたっては21歳で引退した。引退コンサートの妖艶さがハタチそこそこだったとはビックリだ。いまどきのAKBなんて20代後半でもキャッキャっとブリッ子路線で通用している。

高倉健は80歳を超えている。それだけでビックリだ。後期高齢者どころの騒ぎではないはずだが、あの人の場合、いまだに「不器用ですから」とか言いながら女性と恋をしていそうだ。

80過ぎて不器用な人も困るが・・・。

ハマちゃんこと西田敏行だって65歳だ。企業戦士だったらとっくに定年退職だが、釣り好きなダメ社員役が今でも普通にこなせそうだから恐るべしである。

「人間五十年~」とか唸っていた織田信長の時代だったら50歳代なんて長老である。


現在の「若年化」が世の中にとって良いことなのか悪いことなのかサッパリ分らない。でも、間違いなく言えることは、男盛りも女盛りも昔とは比較にならないぐらい長くなったということだろう。


先日、六本木某所で狂乱のコスプレカラオケ大会に参加した。我が社の宴会部長があらかじめ高級個室カラオケボックスに用意したセクシー衣装は10着以上あっただろうか。


それを身にまとう女性陣は5人。恐ろしいことに全員が40代である。高校生の子どもを持つ母親もいた。

昔だったら「40過ぎの母親」は、かつての人気漫画「オバタリアン」みたいな風貌でイメージされたが、時代は変わったみたいだ。

ノリノリでミニスカポリスやミニスカナースやバニーちゃんに変身して、やいのやいの歌い騒ぐ。それがまた普通に衣装を着こなしているから恐るべしである。


「無理しちゃったオバサン」という感じではなく、皆様それなりのスタイルで、遠目に?見たら充分に若者に見えなくもない。

まあ、そんなノリの宴会に参加しようって言うのだから、それなりに自負とか自信もあるのだろう。若者達に元気がない時代だからこそ、こういう中年も大事な存在かもしれない。

2,3時間も一緒に騒げば、アラが出るというか、年齢相応の「おばさん特有の図々しい天下無敵な感じ」が漂ってきて、さすがに疲れる。そうは言っても、こっちもこっちで「偉そうでワガママなおっさん」だから文句は言えない。

その日、リアルタイムでFacebookにコスプレ宴会画像をアップしてみた。中途半端なコスプレ画像だったから、「見えない」という苦情が多数寄せられてしまった。

まさに「秘すれば花」である。画像がブレブレだったから、皆さん興味シンシンになったのだろう。
実態は「熟女狂乱ナイト」だったわけだから、遠目とかピンボケぐらいが調度良い。

失礼しました。

2012年10月29日月曜日

男の作法

池波正太郎といえば、時代小説の大家であり、また食分野や映画、演劇評論などでも知られる伝説の御仁だ。

作家としての評価だけでなく、亡くなって20年以上が経った今では「粋人」としての風評を至るところで見聞きする。

イキな男になりたいと願う私にとっては、氏の膨大な著作を日夜読みふけらないといけないのだが、時代小説が苦手なせいで、まるで読んだことがない。恥ずかしいかぎり。


先日、昭和56年に発表された氏のエッセイを読む機会があった。タイトルは「男の作法」。

こういう大上段に構えたタイトルは、それこそイキではない。ちょっとシャラくせ~と思って読み始めたのだが、読み進むうちにそんな安直な印象を反省した。

さすがにイキな男のモノの見方が凝縮されていた。随想というより、編集者相手に口述している「語りおろし」のスタイルなのだが、そもそも偉そうに指南するという風情はまったくない。時に遠慮気味に「男の作法」をやわらかく諭している。

ただ、本人も指摘しているが、内容の多くは作法などという大袈裟なものではなく、「常識」であり、口はばったく言ってしまえば、いっぱしの大人だったらわきまえているべき事柄が中心だ。きっと若い大人向けに出版されたのだろう。

と、エラそうに書いたが、一連の常識をついつい疎かにしてしまうオトナは多い。私自身、読み進むうちに、「わかっちゃいるけど、それが出来ていないんだよなあ」と反省しきりだった。

酒の飲み方、服の着こなし、人付き合い等々、いろいろな場面で、正しい男の居ずまいが語られている。

昭和56年当時の本だから、当時の大人に向けて語られている。21世紀、平成の今だから、「大人の粋」が希少価値になってしまたと思っていたのだが、そんな頃から「粋人」は絶滅危惧種になっていたとは情けない話だ。

その後、バブルの時代があり、ITの時代が花開き、世の中の価値観や日本人的感性はこの本が出版された時代よりも大きく変化した。

寿司屋、天ぷら屋、蕎麦屋での振る舞い、バーとの付き合い方から恋愛観、結婚観に至るまで、今の時代だから「教科書」として読むべきズレた大人が多いような気がする。

実はこの本を「バイブル」と崇めたてている中年オヤジがいるらしい。なんともダラしない頼りないダメなオッサンだと思ったのだが、考えてみれば、この四半世紀、こういう分野の「教育」は社会が疎かにしてきたのも確かだ。今更でも、粋な姿を目指そうという姿勢は大事かもしれない。

たとえば、寿司屋で通ぶって「ムラサキ」だの「アガリ」だの符丁を乱発する愚かさ、時間を守ることの大切さ、客だからといって威張るような品の無さ、店が混んできたらスッと席を立つスマートさなどなど、当たり前のマナーにまるで無頓着な男は魅力的ではない。

当たり前なのだが、その当たり前がなし崩し的に軽視され、不作法を恥だと認識しない社会が出来上がってしまったのだろう。

氏は人間が鈍感になっていることを嘆く。気配りが出来ない男は粋人の対極だが、その原因は便利になった現代社会の生活スタイルにもあると指摘する。全自動で何でもかんでも処理できるから、昔の人のように同時にいろんなことに神経を使って作業する訓練が欠けていると説く。

昭和の頃より遙かに便利になった現在、気配りにつながる人間の感覚の鈍化は一層進んでしまっているのだろうか。

また、印象的だったのは、高度成長によって「みんな貧乏になっちまった」と語るくだりだ。

自由主義でありながら共産体制みたいな状況は、良くも悪くも「上下の無さ」に現われていると分析する。

せいぜい家にあるテレビの数や部屋数が多いか少ないかぐらいの格差しかないし、社長だろうが平社員だろうが同じものを食べている現実は、見方を変えれば総貧乏化だと指摘する。

氏は大きな意味での「男の小遣い」の大切さを強調する。美術館など日本全国にある文化的遺産の大半が、国家ではなく、実業家など個人の遺産であることを例示し、「男の小遣い」が世の中を潤すと指摘している。

堅くなるが、金融、税制など国の経済政策にもつながる視点だと思う。

なんか小難しい話になってしまった。

「食」への関心の高さ、知識の深さでも知られるが、結論から言って、氏が食の上でも「粋人」に位置付けられたのは、その「しなやかさ」に尽きるのだろうと思った。

もちろん、寿司や蕎麦などすべてに一家言持つのだが、ガッチガチに自説を押しつけるような無粋さとは無縁だったのが印象的だった。

「何がいいと決めないで、それぞれに特徴があるのだから素直に味わえばいいんですよ」

「どこそこの何でなければ、なんて決めつけるのが一番つまらない」

こんな調子で実にさりげない。もちろん、実際には自分の中で譲れないこだわりは頑として持っていたはずだ。ただ、そんな拘りを人様に吹聴することを良しとしない精神性がチラリと感じられた。

食べ物の細かい好みを題材に、熱くなって知識や好みを披瀝することなぞ極めて格好悪いことだと分っているからこその、控えめな物言いなんだと思う。

まあ、大人物を肴に四の五のどうでもいいことを書き殴ってしまった。それこそ無粋である。

とりあえず、粋人を目指す私としては、自分に言い聞かせている「戒め」を今後もブラッシュアップしないといけない。

知ったかぶらない、威張らない、自慢しない、すぐに触らない(これは違うか)、やせ我慢を心掛ける等々、まだまだ修行の道は続く。

2012年10月26日金曜日

名言

名言とか金言に意識が向くようになったのはいつ頃からだろうか。若い頃は、ちっとも響かなかった言葉がいつのまにか身に染みるようになってきた。

といいながら、座右の銘は無いし、好きな名言があるわけでもない。ふとした時に見聞きする含蓄のある言葉に深くうなずく場面が増えてきた。

先日も、くだらないことでウジウジしていた私の脳みそを心地よく刺激する名言を知った。

“The darkest hour is just before the dawn.”

夜明け前が一番暗い。すなわち、事態が好転する直前がもっとも苦しい、あと少しの辛抱だといったニュアンスだ。

文豪・吉川英治の「朝が来ない夜はない」に近い雰囲気だが、それよりも「もう少しだけ頑張れ」みたいな“あと一歩”感が強調されていてグッときた。

そんなことを書いてみるとインテリっぽいが、なんのことはない。今日は、最近あらためてハマっている「寅さん」の名言集を紹介しようと思っている。

最近、「人生に寅さんを」という洒落た本を買ってパラパラと眺めている。実に楽しく、また役に立つ。


それ以外にもどこかの評論家が書いた「へたな人生論より寅さんのひと言」という文庫本も読んだ。まさにタイトル通りの面白い話が満載されていた。

「生きてる? そらあ結構だ」

こんな「金言」に胸をうたれた。チト大げさだが、実に深いセリフだと思う。不慮の死、無念の死などという悲劇を目の当たりにしたり、自殺予備軍が増えている世相にあって大いにうなずきたくなる。

「生きてるだけで丸儲け」とか沖縄の「命どぅ宝」なんかもそうだが、元気に暮らせているなら細かいことでクヨクヨするなという考えだろう。ついつい見失いがちな人生の真理かもしれない。

「幸せのかたまりみたいなツラしやがって、
 不幸せぶるなって言ってるんだ」

これも初期の「男はつらいよ」で寅さんが放つ言葉だ。誰にでも思い当たることはあるのではないか。ちょっとしたことで落胆し、この世の終わりみたいに落ち込む時、その原因が実際には些細なことであることは珍しくない。

世界を見渡せば、あり得ないほど悲惨な不幸はいくらでも転がっている。些末なことで大げさに自分を不幸だと思うことの愚かさを痛感する。

「おてんとうさまは見ているぜ」

単純明快だが、古き良き時代の日本人の行動規範だ。いまの時代、こすっからくインチキな行動に逃げたくなる場面は多い。子どもよりも大人のほうがそんな誘惑に悩まされる。お天道様。日本古来の土着宗教のようなこういう規律性を忘れたらいけないと思う。

「理屈を言うんじゃないよ!
 大事な時に。」

これこそ寅さんの真骨頂だろう。良くも悪くも感情の赴くままに生きる寅さん。でもその心の熱さこそが正しいこともある。冒頭で紹介した寅さん評論本でも、寅さんの魅力は「非論理性」にこそあるという趣旨が書かれていた。

論理的な思考こそが絶対とされ、敵対する相手との間でも論理的な矛盾や破たんだけをあげつらって勝った負けたと一喜一憂している現代人だから、寅さんの小気味よさに拍手喝采を送りたくなるという分析だ。まさにその通り。人間、正論だの理屈だけでは生きていけない。

もう40年以上前の第1作で寅さんは金言を言い放っている。そののち「妹のさくら」と結婚する独身時代の「博」に向かって言い放つセリフだ。

「ざま見ろ、人間はね 理屈なんかじゃ動かねえんだよ」。

ある意味、寅さんは一貫している。ぶれない。だからいつの時代にも根強い支持があるのだろう。

色恋に関しても無数の名言を残している。

「男が女に惚れるのに歳なんか関係あるかい!」

以前にもこのブログで書いたことがあるが、知床を舞台にした名作でのワンシーンだ。竹下景子扮するマドンナが父親役の三船敏郎の恋心を寅さんにグチる。寅さんはキッパリこのセリフを言う。実に小気味よく、かつ真実である。

またある時はいともサラリと次のようなセリフを言う。

「貧しいね 君たちは。
 二言目にはカネだ。
 カネなんかなくたっていいじゃないか、
 美しい愛さえあれば!」

現実の社会ではそうはいかないが、それを本心から言ってのける寅さんの心意気が素晴らしい。私自身、ついつい全財産を投げ打って孤高の道を走り出したくなる(そんな財産なんて持っていないが・・・)。

「恋というものはな、長続きさせるためには、ほどほどに愛するということを覚えなきゃいけない」。

なかなか含蓄に富んだセリフだ。寅さんの場合、そんなこと言いながらちっとも本人がそれを実践できないところが良い。

支離滅裂と言ってしまえばそれまでだが、それこそ理屈ではない。人間らしく生きていれば、そうそう論理的に物事を判断できない。そんな適当な感じも寅さんの場合、ぶれずに一貫しているから潔い。

思うがままに好き勝手に、ぶれずに気楽に生きていきたいものだ。

書いていて気づいたのだが、今日の話は結局、寅さんを全肯定することで、自分のワガママさを肯定したくなっているだけだろう。

まあ、いいか。それも人間らしさだ。

2012年10月24日水曜日

金木犀と松茸

秋である。秋に生まれたせいもあって、この季節はナゼかウキウキする。金木犀の香りが漂ってくると力いっぱい深呼吸したくなる。


花の香りは、そもそも虫を誘引するためにあるらしいが、不思議なことに金木犀の香りは、虫を寄せ付けない特殊な成分があるそうだ。気高い感じがなかなかニクい。

なんか悪女を寄せ付けないように日々生きている私のようだ。

いや、加齢臭のせいで誰も寄りつかないのかもしれない。

まあ、そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば桂花陳酒の元である。中華料理屋さんで桂花陳酒を秘やかに飲んでいる女性も好きだ。

そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば、「堀内孝雄」である。

いまはすっかり演歌歌手だが、その昔のアリス時代、「君の瞳は10000ボルト」という凄まじい歌を熱唱していたのが堀内孝雄だ。


  ♪鳶色のひとみに 誘惑のかげり

   金木犀の咲く道を


   銀色の翼の馬で駆けてくる

   二十世紀のジャンヌダルクよ


   君のひとみは10000ボルト

   地上に降りた最後の天使 ♪



う~ん、すごい歌だ。1978年の年間ヒットチャート第4位だそうだ。確かにあの頃はどこでもこのメロディーが流れていた。いい時代だったんだなあ。

金木犀の話だった。

花言葉は「謙虚」とか「謙遜」とか「真実の愛」とか、そんな感じらしい。これまた実直を絵に描いた私のようだ。

なんだっけ?話がとっちらかってしまった。

秋のことを書こうと思っていたのだが、支離滅裂になってしまった。

金木犀の香りを嗅いだら、どうしても松茸の香りが恋しくなる。かなり強引だ。


秋の香りという意味では、金木犀と松茸は東西の両横綱みたいなものだ。

日が暮れれば少し寒いぐらいの気候になってきた。ホッコリした食べ物を肴に一献楽しみたくなる。

秋だから土瓶蒸しである。猪口でズルズルすすって、松茸の香りを堪能してからフガフガと味わう。至福の時間だ。

秋はこれだからタマランチンである。

気が早い店ではアンキモ様も登場し始めた。冬に向かって珍味一族が私のために戻ってくる季節だ。

絶妙にウマいカラスミも予約したし、今シーズンこそは久しぶりに日本海に冬のズワイガニを堪能しに行こうと企んでいる。

楽しみにはキリがない。四季のある国、おまけに世界一の美食の国に生まれた幸せをかみしめないといけない。

そういえば、この前の血液検査では、尿酸値、中性脂肪、コレステロール等々、芳しいデータではなかった。γGPTなぞは過去最高値をマークした。

シジミ汁だけすすって静かに暮らさないといけないのだが、それもイヤだし、せいぜい「適量」を気にして楽しむことにする。

そういえば、シジミのサプリを飲みはじめることにした。青汁、黒酢に引き続き、私を支える新しい仲間だ。

シジミサプリを活用してアルコールと上手に付き合おうと思う。

2012年10月22日月曜日

風水だの占いだの

加齢を実感する場面は、ベルトの穴を調整する時や、下半身にまで白い毛を見つけた時ばかりではない。

若い頃は気にも留めなかった占い方面に興味が湧くのもきっと年を重ねたせいだろう。

以前、銀座の街角で酔っぱらって手相占いの人に絡んでしまったことがある。

占い師いわく、

「あなは責任ある立場でお仕事されている人ですね」

「仕事や家庭の問題で結構ストレスを抱えていらっしゃる」

「思ったように計画が進んでいないようですね」


こんなコトばかり言われた。単純な私でもさすがに大笑いしてしまった。

銀座の8丁目あたりで小綺麗な恰好で飲み歩いていれば、どうしたって無責任な立場の人物であるはずが無い。それ以前に「責任のない立場の人」って世の中にそうそういないと思う。

仕事や家庭の問題でストレスを溜めていない幸福な中年男が、現代ニッポンにどれほどいるのか。誰だって大なり小なりストレスはある。

「思ったように計画が進んでいない」とやらも同じだ。子どもの勉強じゃあるまいし、大のオトナが計画通りに物事をスムーズに進められるなんて稀だと思う。

チャンチャラおかしい。

もちろん、占い師にだってスンゴイ人はいるはずだが、インチキっぽいのが多すぎる。ヒドいのになると、わが家のダウン症の息子を「直せます」と言い切った詐欺師にも会ったことがある。

その詐欺師、某大企業オーナー一族が熱烈に信じている。そっちから紹介されたもんだから、ぶっ飛ばせなくて困った記憶がある。

そんなこんなで自分自身が持っている運勢の力を信じて、これまでは、あえてその手の人々の御注進は聞かないようにしていた。

風水とか方位とか日取りとか、気にし始めたらキリがない。

とはいいながら、イッパシの大人として人生の円熟期?を迎えたいま、妙にそっち方面が気になり始めた。

クルマの納車ですら日取りを見るようになったし、引っ越しの方角も「その道の詳しい人」に見てもらった。

今住んでいる家を建てる時は、風水的な注意点はまったく気にせずに話を進めた。自分なりの設計プランがそんなことで邪魔されるのがイヤだった。

その後、いろいろな機会に家相を見てもらう機会があったが、ことごとく「大凶」だと言われた。障害児を授かった理由まで家相のせいにされた時には腹が立ったが、とにかく全体的にダメ判定ばかりだった。

コンチクショーである。

ワケあっていま引っ越し先を探し始めたのだが、いろいろ候補を絞ってあったのに、方位を見てもらったら、そっち方面は全滅だとか。

コンチクショーである。

おまけに今年のいついつまでならコッチ方向、来年のいついつまでまらアッチ方向と細かく判定されてしまった。

気にしないで進めたいのだが、聞いてしまった以上さすがの私も気になる。仕方なく、良い方向に絞って探しているのだが、なかなか難しい。

まあ、もっと真剣に探せばそれなりの物件が見つかるとは思っているのだが、こういうことは焦ってはいけないのでジックリ勝負だ。

そして、いざ候補が出てきたら「エスパー」としての能力をフルに発揮しなければならない。

とある「エスパーな人」に言われたのだが、私もわずかながらエスパー体質があるらしい。何のことはない。第六感みたいなものだ。

昔から、住むところを探す時に何度も不思議な感覚にとらわれた。ここは絶対ダメだとか、空気が合わないとか、ひどい時には、そこから瞬時に立ち去りたくなったこともある。

まあ、そんなエラそうなことを言いながら「大凶」の家に住んでいるのだから大したことはない。いや、大凶の場所から脱出しようとしている現在の状況自体が、私のエスパー感覚なのかもしれない。

ということで、今後自分の身のまわりに起こるすべての都合の悪い出来事をエスパー感覚のせいにしようと思う。

2012年10月19日金曜日

今日はエロです

変な夢を見た。なぜか私が農林水産大臣になっていて、陳情に来たのが偶然、高校の頃に私をいじめた先生で、エラくなった私なのに情け容赦なく冷酷に対応するという内容。

おまけに大臣にまでなったのに幼稚で狭量な自分を悲観して総理大臣あてに辞表を書こうとする夢だった。

意味不明だ。

気が狂っているのかもしれない。

それにしても最近はエロい夢を見なくなった。心に余裕がないからだろうか。以前は、飛び込みで入店した高級ソープランドで、友人の恋人とか奥さんが出てくる夢を見た。ギョッとしながらもムフフな気分になる夢を何度も見たのだが、すっかり縁遠くなった。

きっと、友人の恋人とか奥さんがオバアサンになってしまったから、そんな夢を見なくなったのだろう。

いったい何を書いているんだろう。何が書きたいんだろう。バカ極まるって感じだ。

仕方がないから今日は軟派な話題を突き詰めてみようと思う。エロ話が嫌いな人には申し訳ないです。そんな人はいないか。

さてさて、何をもってエロとみなすのか、これこそエロの深遠かつ哲学的な命題だろう。

週刊文春に連載されているコラム「人生エロエロ」には毎度感心する。みうらじゅん氏のエロさは紫綬褒章モノだと思う。何と言っても連載のサブタイトルが「人生の3分の2はイヤラシイことを考えてきた」である。感服する。

まあ、だれでも人生のかなりの時間をイヤラシイことの妄想や夢想や実行に費やしてきたのだろう。それでこそ人間らしさである。

話がそれた。

なにをもってエロとみなすのか、エロの奥深さはこの点が人によって違うからだと思う。

パリコレに出てくるようなスーパーモデルのヌードにドキッとする人がいる一方で、隣に住んでいる少しブサイクなおねえさんの真っ裸が覗き見えちゃったほうが興奮する人もいる。

面識のない美人女優のヌードより、一度でも二度でもいいから言葉を交わした「ヘチャムクレだけど少しだけ知り合い」のヌードのほうが萌える。そんなもんだと思う。私だけだろうか。

「無くて七癖」。よく聞くフレースだが、エロの世界においては「無くて七フェチ」だ。

多くの人が妙な部分に性的興奮を覚える。意外な身体の部位とかシチュエーションとかだ。足フェチとか腋フェチあたりが王道で、鎖骨フェチとか肘フェチもいるらしい。

うーん、奥が深い。

私の場合、部位に関するフェチ的要素はあまり無いみたいだ。強いて言えば形の良いお尻だろうか。いつか家中に形の良い女性のヒップだけを石膏ボードで固めて、ずらりと並べて暮らしてみたいと思う。バカでスイマセン。

お尻ついでに言えば、そのお尻を覆う下着とか水着にも妙な思い入れがある。

もう四半世紀以上前だろうか。今は亡き飯島愛がテレビ東京の崇高な番組「ギルガメッシュナイト」でTバックをメジャーなアイテムに昇華させた。おかげで私の人生はTバックに傾いてきたと言っても過言ではない。

世の中にはイヤラシサを競うように大事な箇所に丸く穴が開いた下着とか、大腸内視鏡検査の時に履かされるトランクスのように後ろ部分がぱっくり割れているショーツなどが存在する。

私に言わせればそんなものは邪道である。嫌いではないが・・・。いや、やはり邪道である。覆っているからこそ芸術なんだと思う。だからTバックの勝ちである。Tバックも後ろの部分がただのヒモみたいではダメだ。そこそこ幅を確保していて欲しい。

熱くなってしまった。もっとクールに考察しないといけない。反省。

水着もTバックが好きだが、あれはあれで下着のTバックとは少しニュアンスが違う。下着の場合はスカートやパンツのラインを気にするという大義名分があるが、水着だと見られる前提だ。だから私に言わせるとエロさがわざとらしい感じで減点対象だ。でも大好きだが・・・。

水着の場合、知る人ぞ知る「ブラジリアンカット」が最高だ。画像を貼るわけにもいかないので、知らない人はネットで検索して過激なブラジリアンカットを目に焼き付けて欲しい。オブリガードだ!

そう考えると、私の場合、「衣類系」に妙なフェチ心があるみたいだ。どんなセクシーランジェリーだろうと、バニーガールの衣装のほうが上だと思っている。全身網タイツなどというアダルトグッズがあるが、あれだって私に言わせれば、バニーちゃんの敵ではない。

ミニスカートでナマ足で下着が見えちゃうパターンなんかちっともエロではない。スリットから覗くパンストの上の方の色が濃くなっている部分が見えたほうが断然エロだと思う。

おかしいだろうか。

そういえば、「ハゲデブの義父」に若い嫁が抵抗できずに手籠めにされてしまうAVが好きだという女性に遭遇したことがある。実際にはそんな場面はご免こうむりたいらしいが、AV鑑賞に限ってはなぜか「義父」にシビれるのだという。あれも一種のフェチなんだろう。

誰もが普段はスマシ顔で自分の変なこだわりを隠して生きているが、ひと皮ひんめくれば、みんな結構なエロ大王だったり、エロ女王だったりする。

そんなテーマだけに話題を限定して男女10人ぐらいで朝まで酒を飲み明かす集いとかを開催したら楽しいだろうなあ。

古式ゆかしい「百物語」を怪談ではなく、エロ話だけで達成する集いだ。なかなか面白そうだ。

怪談の「百物語」では、百話が終わった時に「本当の怪」がやってくるらしいが、エロの100話が終わった時には果たして何が見えるのだろう。

2012年10月17日水曜日

貴賓室

普段、貴賓室と呼ばれるところに行く機会は滅多に無い。「全然無い」と書かないあたりが、「富豪」たるゆえん、いや、強がりだ。

そんな私が先日、伝統ある東京競馬場の貴賓室に行ってきた。「貴賓」だ。気品のカケラもない私の居場所としては場違いだが、さも慣れ親しんでいるような顔をして過ごしてみた。


ギャンブルに縁のないカタブツとして生きている私だ。競馬についてもまったく知識がない。1着、2着を決めるだけだろうと思っていたスーパー無知だったから、場違いも甚だしい。でもJRAの職員が優しく教えてくれたので無事になけなしの小遣いを失うハメになった。

貴賓室がある建物は1階の入口にガードマンが立っていて、ゴージャスかつ排他的な雰囲気。凛とした空気とチリひとつ無い高級なフロアにはバーカウンターがあったり、専用馬券販売所まである。


自動発券機の前にはJRAの女性職員が常時待機し、アホ丸出しの質問にもにこやかに答えてくれる。

テラス席からの眺めがまたいい。それこそ一般のお客さんがいる遙か下の場所が、まさに下界という感じがする。

そうはいっても、芝生の香りや疾走するサラブレッドの躍動感を感じるには貴賓スペースは高層階にありすぎる。この点は、下界のほうが絶対に楽しそうだ。


今回、こんな機会に恵まれたのは、わが社が発行する富裕層向けのフリーペーパーの愛読者企画に便乗させてもらったからだ。

「貴賓室への招待」を謳う媒体広告連動企画をJRAとタイアップした我が社の営業マンは、何を隠そう過去に大穴を当てた経験があるらしい。そういう経験が仕事につながるのならギャンブル好きも悪くない。

で、肝心の私の戦果について書かねばなるまい。燦々たる結果だった。それもそのはずだ。やはり無知な人間の我流など通用するはずもない。


この日は、今回の企画用にわざわざ競馬記者とかが専属でレース解説や予想をしてくれていた。ちゃんと聞いて参考にすればよかったのに、アマノジャッキーな私は滅茶苦茶な買い方に終始した。「まるでだめお」である。

負け惜しみ半分だが、それで良かったと思っている。秋晴れの爽やかな休日に貴賓室なんかにふんぞり返って、大勝ちしてしまったら、アホな私は自分にギャンブラーとしての才能があると勘違いしたはずだ。

負けて勝つ!。今後の人生はギャンブルで傾かないはずだから、競馬の神様に感謝だ。



この日は、全レース終了後、この企画の参加者限定で通常は入れないエリアにも案内してもらった。勝ち馬ジョッキーがインタビューを受ける場所とか、ウィナーズサークルとかパドックの中にも入れてもらった。

ウィナーズサークルあたりから見上げるスタンドの威容に結構感動した。夕暮れ迫る時間、ライトアップされたスタンドの美しさは中々のものだった。

でも、結局は小市民である私としては、一般の観客がノンビリ1日を過ごせる芝生スペースに弁当とゴザを持参してピクニック気分で出かけたいと思った。

想像していた競馬場という雰囲気とは大違いで実に爽やかな雰囲気。売店もたくさんあったし、実際に家族連れがノンビリ公園感覚で過ごしている姿が目立った。

呑気に本なんかも持ち込んで軽く一杯ひっかけながら、気が向いたら馬券を買って、日がな一日過ごすのも良さそうだ。

やかましくて空気も悪いパチンコ屋で不健康にスッカラカンになるのなら、競馬場のほうがやはり文化的だ。老後の趣味に良さそうだ。

それにしても、実際にウン万円もスッてみて良く分かったのだが、あれだけ堂々と楽しくギャンブルを楽しめる場所が日本中にあるのだから、カッコつけたり屁理屈こねたりしないで、国営カジノとかをバンバン作ればいい。

尖閣諸島なんかを一大カジノゾーンとして開発して、中国のお金持ちにわんさか来てもらえばいいと思う。

総理大臣になったら実行してみようと思う。

2012年10月15日月曜日

結婚と離婚

先日、友人達と飲んだ際に「結婚とは」を肴に盛り上がった。この日は、お見合いを乱発?して結婚したがっている男がいる一方で、二度目の離婚を目の前に突きつけられている男もいた。

そして奥さんにしたい女性像をめぐって白熱した議論に発展。ポイントは「バカがいいか、お利口さんがいいか」。

誤解のないように言えば、男は女よりバカである。その前提での議論なので女性の方々は気を悪くしないでいただきたい。

バカとか利口の定義は難しい。もちろん、お勉強の出来などではない。頭の回転という意味合いはあるがそれだけでもない。いっぱしの大人としてどうなのかということだ。

そう考えると何がバカで何が利口なのか良く分からない。要は、判断力や機転、気配りの有無、空気の読み方、洞察力、その他にも、ウソでも可愛いふりが出来るか否か、ウソでもいいから控えめな様子を見せられるか、多分ウソだろうけど男を立てる演技ができるか等々、例を挙げればキリがない。

もちろん、そんな例示も一面的でしかない。異性に惹かれる部分は十人十色だ。しゃしゃり出る奥さんが大好きな男もいるだろうし、奥さんにクソミソに怒鳴られているほうが安心するという男もいるらしい。

まあ、そういう変態の話は横に置こう。

男なんて単純なバカなんだから、女性には一枚も二枚も上手でいて欲しい。腹の中で舌を出してでも、その時々の夫の状況を察して臨機応変に向き合ってもらいたい。それができる人が本当の意味で利口な人だと思う。そんな女性が相手ならバカな男だって夫婦間の周波数を合わせようと努力したくなる。

ただただストレートに自分本位に思ったままを口にして、ストレスも溜めずにケロッとしている人がいる。本人は幸せだろうが、そういうのをバカと呼ぶ。

だいたいそうしたパターンの人間は言葉に無責任だ。ヘタな言質は命取りになる世界で生きている男にとって、「言霊の呪い」は結構大きい。私自身、ありえないような言葉を浴びせられたら根に持つタイプだ。

ウダウダ書いては見たが、結局のところバカか利口かというテーマ自体、本当は議論する意味がないのかもしれない。

「おまえバカだな~」と相手のドジを楽しくツッコミたい時もあるし、「キミのおかげで助かったよ」と相手の機転を賞賛したい時もある。

「ウチのカミさん、ああ見えてこんな技能があるんだよ」と人様に自慢したい時もあるだろうし、「ウチの女房は鼻の穴かっぽじってるだけなんだよ」と笑い飛ばしたい時だってあるだろう。

まあ、しょせん男と女なんてなかなか分かり合えないのだから、こんなことを四の五の書いていることが不毛なことかもしれない。

恋愛はともかく結婚となると、多くの夫婦が単なる惰性と世間体だけで関係を続けている。この点は西洋人のほうが合理的で、愛情が冷めればとっとと離婚するらしい。

愛情が冷めたという理由だけで簡単に別れてしまう。

日本人の場合、性格の不一致だの価値観のズレだのイッパシの言い訳を使いたがるが、要は気持ちが冷めてしまった他人とは暮らせないということでしかない

日本では、バツ1だのバツ2だの、わざわざ特殊な呼称まで付けて失敗のレッテルを貼りたがる。そんな「世間様の目線」がプレッシャーになって離婚を踏みとどまっている夫婦が大半だろう。

そうはいっても、本心とは違う現実を受入れて踏みとどまった結果、あきらめが連帯感に発展して、そこそこ円熟した夫婦関係につながることもある。こうなれば「世間様の目線」も社会秩序を維持する上で意味があるわけだ。これはこれで大事な社会の機能なんだと思う。

変な話だが、感性を鈍化させることが離婚を避ける唯一の方法かもしれない。あきらめたくない、このままではイヤだ、人様が何といおうと再出発したい等々、こんな正直(ワガママ)さを押し通せば、どうしたって離婚話につながる。

熟年離婚が増えている話は良く聞く。世間的にイメージされているのは、濡れ落ち葉になった中高年夫が元気モリモリのオバケ、いやオバサン妻に逃げられるパターンだ。

実際にはオバタリアンの逆襲ばかりが熟年離婚ではない。なかにはオッサン夫のほうからすべてを投げうってでも人生を再出発したいというパターンもある。

ナゼ今更?と他人はいさめたくなるが、実はそこがポイントだ。「ナゼ今更?」ではなく、「今だから」踏み切れることもあるのだろう。

若い時分は、納得できないことにも闇雲にぶつかっていく。自分にとって何が必要で何が不要かが見えていない。人の目も大いに気になる。

「頑張らねば」という思いは強いが、そのぶつけどころが的確に判断できていない。無意味な頑張りほど切ないものはない。

そして中年になる。経験と年齢のおかげで頑張りどころが見えてくる。信念みたいな思いも確立してくる。自分が求める世界も明確になる。周囲にも流されにくくなる。

当然、ハナからうまくいっていなかった家庭生活への疑問も爆発する。無責任だ、早まるな、冷静になれ等々の含蓄のカケラもない言葉で制止されても染みこんでこない。

世間様とやらも思ったほど気にする必要がないことに気づいているし、人様の目や便利さや惰性だけで無理やり自分を偽ってゴールに近づくのが無性に恐ろしくなる。

確かに一方的な考えだ。そんなことは百も承知だ。それでも突っ走ってしまう感覚を止められないことだってある。

何が正解かどうかなんて死ぬ時まで分らない。いや、死んでも分らないのかもしれない。

うーん、なんか妙に熱く書き殴ってしまった。

「戸籍真っ黒、お先真っ暗」にならないように頑張らねば。

2012年10月12日金曜日

やはり和食

また一つ年を重ねた。年齢とともに「おめでとう」という言葉に素直に納得できるようになった。元気でフツーに過ごせているだけで確かにめでたい。

年齢とともに顕著になったのが、和食への傾倒だろう。すっかり「非和食」が嬉しくなくなった。嬉しくないと言うより辛いことが増えてきた。

ちょっとだらしない。

脳だけが若い時のままなので、必要以上にウマいものを大量摂取してしまう。いつも後悔する。学習能力とかが欠落しているのか、胃腸に形状記憶体質がまったくないのか、本当に毎晩毎晩食べ過ぎで後悔している。

イタリアンとかフレンチとか、揚げ物ガッツリとかだと、満腹後悔大会のシンドサがハンパではない。その点、和食なら、なんとか食後2時間ぐらいで落ち着くことが可能だ。

やはり和食を食べていたほうが身体へのダメージが少ないと実感する。

で、最近ウマかった和食の話を書く。

薄ら寒くなってきたので久しぶりに新宿の玄海に行った。水炊きの老舗だ。このブログでも何度も書いたが、ここの水炊きは最初から最後まで一切野菜を入れない。ただただ鶏肉のブツ切りのみ。潔い。最高だ。


白濁スープのウマさも辛抱タマラン状態である。ペースト状に漉したニンニクをちょろっと加えてグビグビ飲む。ウンマ~イ、グヒヒと言いたくなる。

スープという液体のクセに立派に酒のツマミになる。いつもゲプゲプチャポチャポになってしまうのだが、冷酒を片手にスープを片手に持って交互に口に運ぶ作業を延々と続けてしまう。

コース料理しかないのだが、水炊き以外の料理など目もくれずにスープと鶏肉を飽きずに食べ続ける。


別注で頼むロース焼きもまた逸品だ。ジューシーな肉、パリッとした皮。「鶏を焼いて食べる」というシンプルそのもの料理だ。余計なソースを使ったり、こねくり回すような調理をしないほうが素材のウマさを引き出す典型的な逸品だ。

この日も食後に太田胃散がっつり。

さて、鶏が続くが、こちらはシュールな街・大塚にある焼鳥の名店「蒼天」。都内の有名焼鳥店には随分行ったほうだが、ここは間違いなくトップレベルだと思う。

銀座あたりで1本500円も取ってどうでもいい焼鳥を食べさせる店とは大違い。適価だし、メニューも多いし、酒にもこだわりがあるし、居心地も良い。


メニューには載っていないが、白レバをはじめとする刺身もある。うっとりちんである。画像はキンカンのスモーク。これまた酒をグングンあおる。



普通の部位も得体の知れない部位もすべて美味しい。味、食感、焼き加減ともに文句なし。近所にあったら週に3,4回は通ってしまうそうだ。

もともと、牛や豚より鶏肉が好きな私だから、水炊きや焼鳥を誉めまくっているのかもしれないが、冷静沈着に考えても上記のメニューはウマいと思う。

つくづくフランスのタイヤ屋の星がどうこうとか、グルメ本の類のくだらなさを痛感する。

続いてはウナギ。これまたちょこちょこアチコチのウナギ屋さんに出かけているのだが、今日はどこぞの店の話ではなく、最近発見した食べ方の話。

冷酒の肴コンテストで20年連続ナンバー1に輝くのがウナギの白焼きだ。まあ、私の頭の中だけのコンテストだから異論は受付けていないが、そんなスンバラシイ白焼き様にネギをトッピングすることで、新たな感動につながることを今更ながら発見した。


ネギはエライ。その一言である。あれほどの名脇役はなかなか存在しないと思う。他に何もないところで刻んだネギだけ出てきても有難くもないし、見向きもしたくないが、ヤツはトッピング相手を見つけると俄然素晴らしい存在感を発揮する。

実に素敵な生きざまだと思う。ネギをもっと誉めたくなった。

さてさてまた話は変わる。ネギといえば蕎麦だろう。ちょっと強引か。キリッとした蕎麦をちょろっと蕎麦つゆにつけてズルズルすることは、胃腸が弱ってきた大人には欠かせない健康法?である。

そんなこんだで、九段下にある某人気店に出かけた。10年ほど前に食べに行った時の感激を思い出して出かけたのだが、正直イマイチだった。



店の風情、ちょっとしたツマミの数々も心憎く、居心地はよいのだが肝心の蕎麦が味気ない。2種類食べたのだがどうにもウキウキしない。

単品で注文したどんぶり入りのトロロのほうがウマく感じてしまった。残念。

それでもヘタにギトギトした西洋料理で満腹になるより遙かに身体にはいいはずだ。

和食攻めを日課にしようと心に決めた食欲の秋である。

昨日、口とお尻からカメラを突っ込まれてきた。一年に一度の検査だ。ポリープがあったので組織検査に回された。今後もドカ食いを続けるために何もないことを祈ろう。

2012年10月10日水曜日

愛という名のもとに

秋の夜長だ。いろいろ厄介事に頭を悩ませているから、ボーッとしないでなるべく本を読んだり、映画を見たりして異次元に飛ぶようにしている。

昔読んだ筒井康隆の短編だったり、備前焼の人間国宝の伝記だったり、基本的には本棚発掘に励んでいる。買ったはいいが、読まずに放置している本が結構ある。

昨日は浅田次郎の長編「シェエラザード」の前編を読み終えた。面白い。後編に向けてワクワクだ。この本も買ってから10年近くも本棚で放ったらかしになっていた。

活字を追いたくない時は映画だ。こっちはレンタルばかりだ。放浪したいからだろうか、「寅さん」ばかり見返しているのだが、先日、昔のテレビドラマをまとめて借りてみた。画像はよそからパクってきたのでVHSだが、さすがの私もDVDで見ました。


20年前にフジテレビで放送していた「愛という名のもとに」全12話を2日かけて一気に見た。

20年前、毎週欠かさず見たドラマだ。自分と同年代の「大人になって間もない若者像」を描いたドラマだったから、結構感情移入して見ていた。

就職問題、色恋、妊娠、不倫、自殺、親父の逮捕とかゴッタゴタばかりで疫病神に取りつかれたかのような大学同期7人組をめぐるストーリーだ。

当時は、このドラマの5年ぐらい前に公開されたアメリカ青春映画の名作「セント・エルモス・ファイヤー」のパクリだと思って見始めた。まあ、そうなんだろう。そうはいっても、出てくるのは全員日本人だから、いつの間にかディープな物語にはまっていった記憶がある。

当時の最高視聴率は30%を超えていたらしい。主題歌などでタイアップしたハマショーの曲を3千万人以上が聴いたことになる。おそるべし。

♫だれもが~ うぉうおうを~♫ってやつだ。12話まとめてみると、最初と最後に必ずドカンと流れるから24回も聴くはめになった。

あの曲もこのドラマで使われるだいぶ前に発表されていたから、ハマショーファンにとっては、当時の大ヒットが「何を今更、しゃらくせ~」と思った記憶がある。

さて、20年ぶりに見た印象を一言で言うと「自分の老化に気づいた」という情けないものだった。

面白いことは面白いのだが、こちらの感性が劣化してしまったのだろう。リアルタイムで見ていた頃のドキドキ感とかハラハラする感じがちっとも無い。

純粋じゃなくなってしまったのだろうか。大人もバカだが、若者の大バカさに感情移入できなくて、淋しい気持ちがした。若者たちにイライラした。鈴木保奈美は妙な顔だし。。。

唐沢寿明演じる息子に収賄を告発されてしまう大物代議士役の竜雷太(ゴリさん)のほうに目線は行ってしまうし、7人組のアイドル的存在であるモデルと不倫している森本レオの言葉に変に納得したり、どうも勝手が違ってしまった。

7人組の設定は26~27歳ぐらいだ。そう考えれば無理もない。自分のその年齢の頃を思い返せば納得してしまう。

日々ばたばたと暮らしていると20代の頃のまま単に月日が過ぎていっただけのように感じるが、冷静に定点観測みたいに分析すれば、誰もが20年前と今とでは別な人になっているのだろう。

どっちが良いとか、そういう話ではないが、そんなことを痛感した。

それにしても、20代の後半ぐらいの頃って若さゆえの変な大変さがあるのだろう。私自身、確実に今よりも悶々とする時間が多かった気がする。

不器用だし、純粋だし、応用が効かないし、なによりすべてにおいて経験がない。ジタバタもするはずだ。今になってみればそんな若さをちっともうらやましく感じない。気の毒だと思う。同情する。頑張れ若者。

大人にもいろいろあるが、味わい深い大人になるためには、そんな年代の頃にジタバタしまくったほうがいいのだろう。

なんか感想がオジイサンみたいになってしまった。

余談をひとつ。ドラマを見て思ったのだが、20年前の若者のファッションが変チクリンだったのには驚いた。みんな肩パットもりもりでブカブカした服ばかり来ている、ネクタイの結び目は異様に小さい。女子の前髪は必ず上を向いているし、男子はサイドを刈り上げている。

流行は周期的に繰り返すらしいが、そのうち、ああいうのが復活するのだろうか。なんとなく怖い。

なんか、どうでもいい結論になってしまった。 

2012年10月5日金曜日

人は見た目

秋冬物のスーツとワイシャツをいくつか発注してしまった。仕立屋さんの口八丁手八丁に引っかかってしまった。金欠なのに頭が痛い。分割で払おうっと。

ビジネスマンにとってスーツは必要経費だろう。仕方のない出費だ。何だかんだ言って人は見た目である。みすぼらしい恰好では自分が不利になるわけだ。

オシャレなオジサンになろうとは思わないし、人にそれを求めようとも思わない。衣装ばかり意識しているオジサンも何だかなあ~って感じだ。適度にキチッとビシッとしていれば充分だろう。

見た目で人を判断してはいけないが、やはり仕事で接する人達の身なりは自然と観察してしまう。高いかどうかではない。しっかりした人間かどうかを見極めたいだけだ。

ブランドもので全身着飾るような金満オッサンは好きではないが、それでも、みすぼらしい恰好で平気なオッサンよりは立派だ。

虚勢を張っている、見栄を張っているという見方も出来るが、逆に言えば、人様に自分をどう見せたいか、自分なりの命題をしっかり持っている。男であることを終了しちゃったようなオッサンよりエネルギーを感じる。

昔のオッサンは、近所に煙草を買いに行くにも着替えて出かけたという美談を聞いたことがある。

「ヨソイキ」という言葉もすっかり聞かれなくなったが、外と内の明確な違いが身なりの中にもしっかり存在していたのだろう。

私の祖父も晩年になっても「ヨソイキ」の概念をしっかり持っていた。近所に外食に行く時でも着替えていたし、いわゆる部屋着みたいな恰好で外に出ることはなかった。

家にいる時でもキチンとした身なりをしていた。祖父が50代ぐらいの頃は、家でも肌着一枚で過ごしていたこともあったが、60代以降は常にキチッとした恰好で過ごしていた記憶がある。あれはあれで意識と努力あってこそ出来たのだろう。

私などは、トレーナーやTシャツ、スウェットみたいな部屋着で平気で近所をうろつく。正しくないと分っているのだが、そのあたりは自分に甘すぎる。反省だ。

値段に関係なく、新調したものや大事にしているものを身に付けた時の気持ちが大事なんだろう。老若男女問わず身に覚えがあるはずだ。どことなくキリッとした気分になる。

キリッとした気分は、多分に表情とか身のこなしや、はたまた頭の回転にだって好影響を与えるように思う。

逆に言えば、みすぼらしい恰好だと無意識のうちに精彩を欠くことになり、本人の力をダウンさせてしまう。もったいない話だ。

その昔の松任谷由実の名曲「DESTINY」に印象的な歌詞がある。別れた男を見返すために、いつも着飾って頑張ってきた女の歌だ。

ふいに再会した時の心情を切なく歌う。


♪ どうしてなの 今日に限って 安いサンダルはいてた ♪


なんとも厳しい情景が眼に浮かぶ。チェっ、やっちまったぜ・・・という心の声まで聞こえそうだ。

その瞬間、その場面だけを見てしまった男は、「その後、ろくな生き方してないんだな~」と女の暮らしを想像してしまうかもしれない。

まあ、男なんてものは、いちいち女性の細かい身なりまで見ていないことが多いが、それも程度問題ではある。

人の印象なんて、場合によってはその一瞬で決まる。1回会っただけでも、その時の身なりは多分にその人のイメージを左右する。

一歩外に出るのなら誰に会うか分からないし、突然の交通事故なんかに遭ってしまってもステテコ姿だったら死ぬに死ねない。

安心して交通事故に遭えるように、身なりはキチンとしていようと思う。

2012年10月3日水曜日

雑食日記

1日3回食事をするとして、あと20年は元気バリバリだと仮定すると、残りの食事の回数は21900回だ。

生きるための義務的メシを差し引いて、積極的にウマいものをたべようと企めるのはそのうち3分の1ぐらいだろう。

すると残りはあと7000回ちょっとだ。今後の人生では、血圧だの尿酸値だのコレステロールとかのせいで、厄介な制限もあるはずだ。そう考えると、何も気にせずに食べたいものをむさぼれるのは5千回だろうか、3千回だろうか。

それが多いか少ないかは分らない。でも、これまでの人生、一日3食計算で5万回以上食事をしてきたことに比べると、実に寂しい数字ではある。

ということで、頑張ってウマいものをせっせと食べることにする。

最近、ハッピーになった食べ物は「そばめし」だ。こんな大上段に書き始めたのだから、松茸だのフォアグラといった有難い系?を取り上げればいいのに「そばめし」である。


20年ぐらい前には、夜遅くの駅のホームや構内、はたまた繁華街の片隅にこんな「吐瀉物」をよく見かけた。

そんな見た目にたじろぐが、とてもウマかったこの一品は池袋の「喃風」というお好み焼屋で食べた。この店、姫路風「どろ焼き」なる得体の知れないお好み焼で人気らしい。雑居ビルの中で目立たない感じで営業しているが、かなりの繁盛店。

どろ焼きもお好み焼も食べてみた。生粋の東京人である私にとって、粉モンの味にこだわりはない。というか、よく分からない。どちらも空腹だったから美味しかった。

炭水カブラーである私としては、満腹気味になってから出てきた「そばめし」に感激した。「そばめし」なる悪フザケ以外の何ものでもない食物に出会ったのは、もう10年ぐらい前だろうか。

何度か食べてきたが、この店の一品は妙においしく感じた。多分、麺とご飯の分量の成せるワザだろう。黄金比とでも言おうか。大げさでスイマセン。

あくまで米を主役に麺を「具」と位置付けたバランスのせいで、「そばめし」特有のどっちつかずの不気味さが解消されていた。また食べたい。

「そばめし」というアンタッチャブルみたいな食べ物に文字数を費やすのも微妙なので話題を変える。

「富豪」を名乗る以上、もう少し高級路線の店を書こう。といっても池袋村だ。この街でそれなりに美味しくゆったり食事が楽しめる店はほぼ存在しないのだが、ホテルメトロポリタンにある中華料理「桂林」は評判がよい。実際に美味しい店だと思う。


広東料理だけでなく、四川系のメニューも本格的で、特製担々麺などは、ホテルレストランとしてはオキテ破りぐらいのちゃんとした辛さが楽しめる。

画像はピータン豆腐。読んで字の如く、ピータンのブツ切りと豆腐を特製ダレといっしょに味わう。酒飲みにはタマランチンである。

熱くした紹興酒と一緒に味わえば、尖閣問題でも対中融和路線に安易に乗っかりそうな気分になる。

続いては、虎ノ門というか、霞ヶ関の外れにある人気のステーキハウス「ルース・クリス」でのディナーの話。

アメリカ直輸入スタイルのステーキといえば赤坂の「ロウリーズ」が有名だ。ここも似たようなものだろうと出かけたのだが、プライムリブとかではなく、直球勝負のステーキがウリみたいだ。



席が薄暗かったので画像が変だが、上がベーシックなステーキで、下がラムチョップだ。普通に美味しかった。

全体に高級感を出そうと頑張っているのだが、随所にファミレス的雰囲気を感じる。正直言って価格とのアンバランスさが気になった。

違っていたら申し訳ないが、きっと本国では気軽なチェーン店なのだろう。肉以外のメニューの内容や、皿などの調度類を見る限り、もう少しカジュアル路線だと分りやすい。


気軽な肉食といえば、韓国料理だろう。次は新大久保にある「徳水宮」というレストランの話。すっかりコリアンタウンになってしまった異界・新大久保では老舗の部類だろうか。今では日本でもポピュラーになったデジカルビをウリにする店だ。

サンチュとミソをでっぷりつけて食べる豚カルビは牛肉よりも軽くてワッセワッセ食べられる。韓国焼酎をロックで煽りながら、「マシソヨ~」とか叫んでいると、竹島問題でも対韓融和路線に走ってしまいそうでヤバい。

やはり食は和系に限る。食べ終わって数時間後に振り返った時、心からウマかったなあ、明日も食いたいなあと思えるものがホンモノだろう。

私の場合、そう感じるのは和食の時だけだ。カルパッチョだったら、醤油とわさびで刺身にしたほうがウマいと思うし、変なフライだったら、中濃ソースとかトンカツソースが恋しくなるし、魚のムニエルだって、普通に大根おろし付きの塩焼きが勝っていると思う。

つくづくドメスティックな「ドメ男」だと思う。

2012年10月1日月曜日

旅館は文化だ

畳のある暮らしに今更ながら憧れる。いま住んでいる家にも和室を作ろうとしたのだが、和室にすべき部屋を「アジア風」にアレンジしてしまったので畳がない。

畳があるべき床にはチークの無垢材を貼った。掘りごたつにはなっているが、こたつには見えない洋テーブルを設置。床に座って酒を飲むという点では、日本的とも言えるが、やはり和室ではない。畳の匂いが時に恋しくなる。

思えば、昔住んでいた実家では、家族の誰もが寒くなると和室でこたつを囲んでいた。部屋数も多く、かなり広い家だったのだが、広いリビングダイニングではなく、狭い和室に皆が終結していた。あれが日本人の感覚だったんだろう。

温泉宿に行くと畳の部屋にホッコリする。自宅に畳がないくせに実に不思議な感覚だ。まさにDNAだ。普段慣れ親しんでいないのに妙に落ち着くわけだから身体に染みこんでいる日本人的感性の強固さに感心する。


温泉宿という存在は、そう考えると文化遺産みたいなものだ。自分が暮らす場所を選ぶ時は、ついつい洋式のカッチョイイ住まいに惹かれるくせに、いざ温泉に行けば誰もがベタベタの和式に喜ぶ。

温泉宿で洋間に通されたり、西洋料理が出てくると腹が立ったりするのだから勝手なものだ。

普段は着ることのない浴衣をごく自然に着込んで、古式ゆかしい?日本料理を楽しみ、シャンパンだのカクテルなんぞは選ばずに日本酒をクイクイあおる。


電気製品とかハイテクとかアニメなんかが日本的なものとして注目され、海外でも大人気だが、日本旅館の文化的側面についても、もっと外に向かって知らしめるべきだと思う。

最近は、モダン和風というアレンジによって現代人でも過ごしやすい旅館が増えてきた。単に洋間にしちゃうようなセンスの無さには辟易とするが、布団の代わりにローベッドにしたり、浴衣を作務衣にするなど、和の感覚を残しながらの利便性向上は歓迎だ。

日本旅館の良し悪しを左右するのが朝食の段取りだろう。そこそこの高級旅館なら部屋に朝食を用意してくれるが、旧式旅館だと、寝起きにズカズカと布団上げのオジサンが来たりしてゆったり気分が台無しになることがある。

部屋食だから仕方がないし、それを避けるには大きな二間続きの部屋を抑えるしかない。布団は敷きっぱなしにして次の間に配膳してもらう。このあたりは多少の出費を覚悟して束の間のプチ贅沢を選びたい。

宿泊している部屋とは別の個室の食事処で朝食を摂るという選択肢も悪くないが、寝起きのボケ顔で部屋から移動するのが億劫なこともある。化粧と髪型のおかげで美しく変身している女性にとっても厄介な問題だろう。

以前訪ねた北海道・登別の「滝乃家」は、そうした問題を完全にクリアしていた。これまで数えきれないほどの旅館に泊まってきたが、あの仕組みには脱帽した。


部屋にはローベッドが設置されたスペースとは別にソファが置かれたくつろぎ場があり、それとは別に完全に仕切られた食事用のスペースがあった。

秀逸な点はこの食事場所。厨房のほうからつながっていて、仲居さんは客の居室部分を通らずに出入り可能。すなわち、客がベッドでゴロゴロしていても、客とは顔を合わさずに自室の食事場所でキッチリ準備が整う仕組みだ。

お客様本意というか、客の目線で考え抜いた設計だろう。もちろん、それなりに値もはる宿だったが、関東の有名温泉場の小生意気な旅館に泊まる程度の出費を覚悟すれば、心地よい贅沢が味わえる。

さてさて、いよいよ秋がやってきた。温泉旅館に行かねばならない季節がやってきた。

今日、こんな話題を書いていたら、いても立ってもいられなくなってきた。温泉旅館が呼んでいる。

どこに行こうか、近場にしようか、函館あたりまで飛んでいこうか、九州のにごり湯も捨てがたい。うーん、もうだめだ。気づけばどこかに行ってしまうのだろう。

誰と行こうか、一人で行こうか、そんなことを考えている時が一番幸せを感じる今日この頃だ。