2010年4月30日金曜日

大好きな言葉

最近すんごく惹かれる言葉がある。この言葉を聞くと気分が明るくなる。もっともっと広まって欲しい。

「節約疲れ」。

なんとも良い響きだ。みんなが座右の銘にすればいい。

このブログ、無理やり?「富豪」を名乗っている以上、貧乏くさいことは書けない。少し贅沢なぐらいのネタを書かないといけない。

そんな私にとって、ここ数年の何でもかんでも安い方がエラい!デフレバンザイ!みたいな風潮は許せるはずもない。

「節約疲れ」という言葉がメディアに出てくるたび嬉しい気分になる。

ユニクロの売行きが鈍化、デパートの売上げ不振が下げ止まり・・等々のニュースが報じられるたびに「節約疲れ」という理由が新聞の見出しになったりする。結構なことだ。

安売り戦略大成功の象徴であるマクドナルドがなんともビミョーなトライアルを始めた。これも間違いなく、節約疲れの反動に呼応した機敏な対応だろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100426-00000022-maip-bus_all

節約は美徳でしょう。それはそれで理屈だ。立派なことだ。でもそれだけで消費社会、文明社会に生きる現役世代が納得するはずもない。

枯渇感ばかりでは心も殺伐とする。適度な贅沢は絶対に必要だと思う。貧乏なら貧乏なりの贅沢はあるし、お金持ちはお金持ちなりの贅沢がある。

いつもはカツ丼なのに、頑張ってウナ重を注文することで贅沢感を味わう人がいる。これって、ある意味メルセデスで我慢していた人がベントレーを買った時の充足感と同じだ。

張り込んだ感じ、ちょっと背を伸ばした感じ、ウッシシと口元がほころぶ感じ・・・。どんな次元に生きている人だってこういう感覚を味わう機会がないと味気ない。

戦時中のスローガンとして有名なのが「贅沢は敵だ」というもの。一説によると東京だけで15000枚のポスターが貼られたとか。

こっそり一文字書き足して「贅沢は素敵だ」と読ませるイタズラも珍しくなかったらしい。イタズラというより心の叫びだろう。

バカみたいな浪費を奨励するつもりはない。あくまで“分不相応な節約”を問題視しているつもりだ。ついでにいえば、主体性がないまま「みんな節約しているからオイラも節約しよう」みたいな「ノンポリ節約」の横行が気に入らない。

闇雲にみんながみんなノンポリ節約に励んだらどうなるか。閉そく感、大不況、人心の乱れ、飢饉で飢え死に、一揆の発生、流血の革命前夜・・・。そんな感じだ(大げさだ)。

一応、イソップの「アリとキリギリス」の話は胸に刻んでいるつもりだ。それでもやっぱり贅沢は素敵だと思う。シャレになる範囲での贅沢は迷わず実行したい。

そしていつの日か、「贅沢疲れ」という言葉を発してみたいものだ。

2010年4月28日水曜日

不自由な場所

AGAという言葉をご存じだろうか。ソ連の秘密警察とか、どっかの国の諜報機関のような響きだ。正式にはAndrogenetic Alopeciaとかいうらしい。

端的に言ってハゲのことだ。ハゲという表現は活字商売の現場では、決して使えない言葉なので、ここで堂々と書けることが私にはチョット刺激的だ。

新聞の世界では、ハゲと書くのは禁止されている。日本新聞協会が定めた記事執筆ガイドラインでは、あくまで「毛髪が不自由な人」と書き直さないといけない(ウソです)。

さて、ハゲの話を持ち出した理由は私の毛髪が厳しくなっているからではない。わが社の新聞に注目すべき記事が載ったことが原因だ。

AGA、すなわち男性型脱毛症対策として医師に処方された薬を服用するケースが増えているようだが、この薬代が税務上の医療費控除の対象になるのか否かという角度で記事が編集されていた。

あまり記事を誉めない私だが、この記事の担当記者のことは誉めておいた。結構良く書けている。キチンと取材も出来ている。

もったいつけて、ここでは結論は明かさないが、ケースによっては医療費控除が受けられる道もあるのは確かなようだ。

税金の新聞などというと、専門家向けの専門情報ばかりを難しい漢字を並べて羅列しているイメージがある。

たいていの場合、それは事実なのだが、わが社の場合には、難しい課題をいかに柔らかく消化できるかに意識を割いている。

税金の話というと特別な世界の話みたいに認識する人もいるが、さきほどのハゲ薬の話だって、購入するにはお金がかかり、そのお金の処理として税金というテーマが絡んでくるわけで、誰にでも身近な問題でもある。

さてさて、“ハゲ薬と経費処理”がうまく記事としてまとまっていた以上、編集責任者という立場の私としては引き続き続編になりうる記事を取材掲載すべしと指示を出した。


続編として取り上げるネタは“アソコが元気になる薬と経費処理”だ。衝撃的なバイアグラの登場から10年あまり。いまや続々と新しい薬が登場している。

はたして、この費用は医療費控除の対象として認められるのか否か。どのような解答が国税庁から戻ってくるのかは9割方想像つくが、どんな記事が出来上がるか楽しみだ。

ちなみに私が指示を出した担当記者の目が何か言いたげだったのが気になる。

「ハゲにしろ、アッチにしろ、アンタの常備薬じゃないか」。

彼の目にはそんな言葉が浮かんでいた。

2010年4月26日月曜日

センチュリー

精華、神威、摩周、瑞雲。これが何を意味するかを知っている人は相当なマニアだろう。私自身、最近知った。

萌え系アニメのキャラクターにも聞こえるし、旅館の部屋の名前にも聞こえるが、この仰々しい名前はクルマのボディカラーのこと。

日本が誇る“スーパーカー”であるトヨタ・センチュリーの外装色の名称だ。なんか妙に力んだ感じが良い。

http://toyota.jp/century/index.html

ブリリアントシルバーとかドルフィンメタリックとかドイツ車の外装色の名称もお洒落だが、センチュリーは日本の工芸品だ。画数の多い重厚な漢字で色を表現するという発想はアリだろう。

あえて“スーパーカー”と表現したが、何十年変わらない不変のデザイン、専用のV12気筒エンジン、専門の職人が手仕上げする造作などを考えるとやはり普通ではない。

個人的にはちっとも欲しくない。どんなに素晴らしいエンジンだろうと、自分で乗り回すような感じではない。

ドライブという楽しげな言葉が最も似合わないクルマとも言える。高級車なのに見せびらかしたりしたくなる感じとも無縁だ。

なんだか誉めてるんだかケナしてるんだか分からなくなってきた。

純粋に誉めるために書き始めた。というか、センチュリーがある国の格好良さ、日本の矜持みたいなものへの共感だ。

一説によると高度なテクノロジーが投入されたエンジンをセンチュリー専用にしていること自体が、日本のプライドだとか。

レクサスなど海外マーケット向けのクルマに安易にこのエンジン載せない理由は、「アイツラにこんなスゲエエンジンを味合わせるこたあねえよ」といった意識があるんだとか。

本当だったらなかなか面白い。

純国産で完全に国内だけを意識しているから、車内のスイッチ類も表示は日本語ばかり。室内スペースも日本人の体型を意識して、あえてだだっ広くしていないらしい。

日本的という意味では、あの突出しない感じも特筆モノ。誰が見ても存在感は感じる。かといって目立つわけでもなく、同じクルマがアチラコチラで走っている。

ロースロイスやフルサイズアメ車のようなこれみよがしな押し出し感は皆無だ。道行く人が振り返って注目することもない。

「VIPが乗っていそうな大型高級車」というカテゴリーにおいて、ちっとも目立たないという現実は、ある意味日本人が昔から大事にしてきた美意識であり、見方を変えれば「粋」な世界を体現しているように思える。

わが社にもセンチュリーがあって、私もたまに利用する。外から見た印象ほど後部座席が広々という感じではない。

特徴的なのは座面の高さ。長時間乗っていると落ち着かない感じが強まる。変な話、くつろげない。凡人をくつろがせるような設計思想はこのクルマにはないのかもしれない。

ちゃんと座ってないといけない感じ。ふんぞり返って休息するのではなく、移動中もしっかり仕事だけを考えなさいといった雰囲気が漂う。

ある意味、極めて日本的だ。居ずまいを正す窮屈な茶室のような感覚なんだろうか。

考えてみれば、座面の高さは「やんごとなき方々」の需要を考えれば必然なんだろう。ぴしっとした姿勢で外に向かって会釈するにはあの座面と窓サイズの関係に意味があるのだろう。

センチュリーに乗せられて、ホゲホゲとくつろげる人は、きっとホンモノのVIPなんだろう。私にはくつろげない。あの空間でくつろげるような人間にならないといけないと改めて思う。

まあ、そんな特殊なクルマが作り続けられているのだから、やはり日本は風流な国だ。

2010年4月23日金曜日

銀座コネクション

某日、ひさしぶりに夜の銀座を散歩。このところ少しご無沙汰していた理由に気付いた。街全体に元気がない。楽しげに闊歩している人の数が少ない。

やはり街に活気がないと気分が盛り上がらない。だから足が遠のく。まあそれだけが理由ではないが、街には楽しそうなオーラが漂っていて欲しい。

さてさて不況風による影響は飲食店には顕著だ。たいていの店がふらっと入れる。真っ当な店だったら予約しないと入れない頃もあったが、最近はその点ではラクだ。

この日の止まり木は8丁目の「さ久ら」。カウンターだけの落ち着けるお寿司屋さんだ。不摂生偏食オヤジにとっては、この店のちょっとした料理が嬉しい。

まだ若い大将の実家が八百屋さんという関係で、ちょこっと出てくる野菜が美味しい。この日も自家製の紅大根の甘酢漬けに喜ぶ。
ワカサギか何かの南蛮漬けに合わせてあったネギも妙に美味しい。

軽く炙ってもらったキンキの刺身にもご覧の通り野菜が登場。トリュフ風味の塩をつけてムシャムシャ食べた。野菜を旨いと思えるようになった自分の老化?に我ながら感心する。

焼酎のロック、山崎のハイボールをグビグビ。イカ、ボタンエビ、太刀魚の塩焼きあたりをチョロチョロもらって極楽モード。

お客さんも少なかったので大将とアレコレ無駄話をしながらホロ酔い。やはり「おひとりさま」の時間はたまには必要だ。何となく肩の力が抜ける。

殻付きのウニが登場。シャリが少しだけトッピングされている。ぐちゃぐちゃ混ぜ合わせてスプーンでチビチビすするように味わう。幸せだ。

この日、私の近くの席には仕事前のひとときを過ごす和服姿の綺麗どころの姿があった。同じく「おひとりさま」だ。

ホロ酔いスケベオヤジとしては少し気になる。でも紳士な私だ。お仕事前にちょっかい出されて嬉しい女性はいない。気にせず呑み続ける。

そんな私の紳士ぶりが影響したのか、突然、大将が私をママさんらしき女性に紹介してしまった。ホロ酔い極楽モードに加えて、あくまで紳士な私だ。一気にいい人ぶってしまう。

結果、その足でママさんの店を訪問。行かねばならぬ店があったが、ノコノコと新店開拓という展開になってしまった。

お決まりの誉め言葉を真に受けて喜ぶいつもの悪いクセ満開だ。ガハハハと楽しい時間を過ごす。

なんだかなあって感じだ。楽しかったので良しとしよう。

2010年4月21日水曜日

チェイス 国税査察官

「チェイス~国税査察官」というドラマがNHKで始まった。以前に「ハゲタカ」でヒットを飛ばした硬派系のワクとでも言おうか、それなりに骨太の番組だ。

主役は江口洋介。その昔の映画デビュー作「湘南爆走族」での“怪演”を思うと、マルサの男をシリアスに演じている姿に時代の流れを感じる。おっと、話がそれた。

税金の世界って、とかく固い言葉が飛び交い難解で専門的なイメージがつきものだが、演出の仕方によっては、エンターテイメント要素がたっぷりだ。時たま今回のようにドラマ化されることがその証しだろう。

伊丹十三監督の「マルサの女」のせいで、いまやマルサという専門用語も一般的になった。本来、マルサは国税機構の中でも特殊な1セクションなのだが、現実の世間では「税務調査」全体を指す言葉として定着している。

高額で悪質な脱税だけを検察庁に刑事告発する役割がマルサの仕事。通常の税務調査とは性格が異なる。だから普通の税務調査体験を「ウチにマルサが来た時の話だけどさあ」などと分かったような表現をするとあらぬ誤解を生む。

マルサがターゲットにするのは、相当な悪(ワル)。狙われたらその大半が刑務所行きになっているのが現実。

「マルサが来た」イコール「刑事犯」。知ったかぶって使うと「私は悪質な守銭奴です」という意味になるのでご注意を。

今回のNHKドラマではマルサの「内偵班」が重要な役割だが、このセクションの徹底した隠密主義は、税金の世界では有名な話だ。

かつて、雑誌のグラビアでマルサが特集された際にも、職場風景のカット写真に写っていたのは広報課の職員ばかり。本物のマルサは内偵の際に顔バレしたら苦労が水の泡になるため顔出しNGを貫いていた。

ところで、マルサとは別の一般の税務調査でも世の社長さんにとっては対処が難しい。調査対象は過去の決算内容。法的には7年前の分までさかのぼれるが、実際の運営はケースバイケース。普通は3年前までがチェックされる。

ごくごく些細な間違いであれば、指導ということで、それ以後の経理処理の是正を要求されて済むこともあるし、同じ内容でも、しっかり修正申告を求められることもある。

全国の国税局、税務署では税務調査の段取りにバラツキが生じないように何かと内部のルール作りが行れているが、裁量が絡む場合、その指摘内容の深さに開きが出るのはある意味仕方のない話だ。

人間が行う以上、裁量の度合いに微妙な違いが出るものだが、この部分を詐欺師などのイカサマ連中が目をつける。

「ホントなら5年前までさかのぼって修正申告させられるはずだったのをオレの力で3年分で済ませてやった」。こんな感じだ。

こういう話はチマタでよく聞く「税務署に顔がきく」ななどと自慢げに語る人々から出てくる。このセリフ自体が胡散臭いと思った方がいい。ナントカ・コンサルタントなどの肩書きがあれば尚更怪しい。

もちろん、世の中には「税務署に顔がきく」人は大勢いる。国税局や税務署出身の、いわゆるOB税理士なんかは「顔がきく」という表現はウソではない。

ただ、「顔がきく」の意味は曖昧だ。元同僚、元部下がいるだけでも当てはまる。「顔がきく」イコール無理が通るとか税金が安くなるというイメージは短絡的だ。

いまの時代、知り合いがいる、いないで税額に差が出るというベタな話が実現するとは考えにくい。基本的にはそう考えて間違いない。

そうは言っても「顔がきく」「顔が広い」ことの効果は色々な局面で発揮される。どこかの後進国のように生々しい“ズブズブ・コネ行政”はさすがに珍しいだろうが、行政上のちょっとした“ヒダ”の部分では「顔がきく」意味は存在する。

まあ少なくてもハエや蚊のように頼みもしないのに寄って来て、さも税金が安くなるみたいな話をする連中の中にはホンモノはいない。

税務調査をめぐる微妙な話はキリがないので省略するが、その辺の事情が必要ならわが社の新聞がオススメです!

単純に宣伝になってしまった・・・。

2010年4月19日月曜日

1億円の役員報酬

1億円以上の報酬を得ている上場企業役員の氏名や金額が個人ごとに公表されることになった。金融庁が音頭をとった企業内容開示策の改正で今年3月決算から適用されれる。

導入をめぐってはプライバシー問題などを理由に反発した経済界に対して亀井金融相が噛みつくなどスッタモンダしていたが、結局金融庁サイドが押し切った格好だ。

日本取締役協会という組織が数年前に調査したデータでは日本の大企業経営者の報酬水準は、欧米に比べて低く抑えられていることが浮き彫りになった。

同調査によると、アメリカの売上規模1兆円超の企業経営者の場合、その報酬は約11億1千万円。欧州では約2億7千万円が平均。

これに対し、わが国のトップ企業の経営者の平均報酬は約8千万円。欧米が絶対とはいわないが、大手企業の経済活動の規模を考えれば、決して高い水準ではない。

高い安いの基準をどこに置くかで見方は変わるが、社会的要請や公共的使命なども押しつけられるわが国トップ企業の経営者の年俸がベラボーだとはいえないだろう。

わが国の場合、報酬を決定する基盤は、いわゆる日本型サラリーマンの姿がベースだ。新卒で仲間入りして終身雇用や年功序列を前提とした組織生活を送り、勝ち抜きレースに残ったものがトップの地位に座る。

大雑把に表現すれば予定調和の中で緩やかな上昇カーブを描く感じだ。あくまで従業員の延長線上に経営者があるという考え方。

これ以外に、役員賞与や長期インセンティブ報酬などに関する税務上の扱いも影響している。これらは一定の要件を満たせば、企業の損金にできるが、それなりに経費化ヘのハードルは高く、相対的に経営者報酬を低く抑えることと無関係ではない。

極端にいえば、現状の税制が頑張って稼ぐことを悪とみなしているような仕組みであるため、欧米型の超高額報酬が出にくいわけだ。

今回の「1億円」基準も「ねたみ、そねみ」ばかりが話題になりそうだ。対象になる経営者達には堂々と胸をはって高額報酬を自慢して欲しいものだが、日本人的謙譲の美徳のせいで、なぜだか申し訳なさそうな顔でメディアを避ける姿が想像できる。

また、1億円基準で氏名が公表されるのを嫌って、フリンジベネフィットに重きを置く動きが強まることも予想される。

フリンジベネフィットは、いわば「報酬以外の役得部分」。陰の給料とでも表現した方が分かりやすいかも知れないが、社用車、社宅、交際費などなど、会社マネーを使った経営者独自の「経済的利益」の部分だ。

たとえば年俸3千万円のサラリーマンと年俸1200万円のオーナー経営者を比較すると、表面上は前者がリッチだといえるが、その実態は異なる。

リッチサラリーマンは、住宅ローンにあえぎ、クルマの月賦にも追われ、奥さんは専業主婦なら収入ゼロ。

オーナー経営者は、会社コストで住宅や自動車が用意され、奥さんは専務として夫を支えながら然るべき役員報酬を得ている。

こうやって比べると実際の可処分所得は、サラリーマンの方が断然少ない。

日本の経営者報酬が海外より安いと言っても、説明したようなフリンジベネフィット次第で、実際の待遇は大きく変わるわけだ。

今回、1億円基準を設けたにしても、そこに顔を出す経営者より基準以下の経営者のほうが遙かにリッチというケースはいくらでもあるわけだ。

結局、鳴り物入りで導入される1億円基準はその程度のものでしかない。オーナー経営者の財務的実態がピンとこない役人の発想だろう。単なるノゾキ趣味。

喜ぶのは金持ちを探しているドロボーとか誘拐犯ぐらいだったりして・・。

2010年4月16日金曜日

ウソツキは・・・。

鳩山首相の存在感が日に日に薄まっている。先日のワシントンでの核関連サミットでも当然のように存在感は示せず、オバマ大統領との首脳会談はアメリカ側から受入れてもらえなかった。

そりゃそうだ。日米関係の重要課題である沖縄の基地問題で場当たり的迷走をしている姿はアメリカにとっても理解不能だろう。

普天間移設問題では「3月末までの政府案一本化」という話があったが、鳩山首相はいとも簡単にホゴにした。この人の言語感覚というか、言葉の軽さには呆れるしかない。虚言癖といわれて当然だ。

5月末の決着というそもそもの約束事もどうせいい加減に扱われるという見方も広がってきた。政治のトップの発言が国民から信用されていない現状は異常だ。

母親からの毎月1500万円のお小遣いを「知らなかった」で通した人物だ。信用しろというのが無理な話。

オバマ大統領に対して自信満々に発した「トラスト・ミー」はブラックジョークにしか思えない。

トップの体質に象徴される言葉の軽さは、政権の政策全体への不信感にもつながっていく。マニフェスト選挙で誕生した政権だ。結果的に約束違反になりそうなテーマへの“言い訳”が気になる。

口から出てしまった言葉なら、ついうっかりという場面もあろうが、政権政策を示したマニフェストは次元が違う。こちらまで軽いものになったら世も末だ。

メロメロな鳩山政権がなんとか維持されている背景にはメディアにも理由がある。とにかく「自民党は悪」という前提で政権交代だけが正義とばかりに煽ったのがテレビや大新聞だ。

いざ政権交代が実現したら、さすがに自民党びいきは出来ないから、仕方なく政権ヨイショ報道が前提になってしまった。

幹事長の政治献金疑惑と党首の巨額脱税疑惑が同時に発生していても、メディアの追求は及び腰。これらの疑惑が自民党政権だったらどういう展開になったかは誰でも想像できる。

麻生首相がホテルのバーで酒を飲むことを批判しても、鳩山首相が夫婦でちゃらちゃらファッションショーに出ることは楽しく報道する。それが現実。

マニフェストが堂々とホゴにされても権力の監視役であるメディアがゆるゆるだったら目も当てられない。政治が単なるパフォーマンス発表会に成り下がる。

ウソやデタラメに対して無関心とか寛大であることは危険だ。約束の大事さは国民全体で注視すべき課題だろう。

2010年4月14日水曜日

ライカのレンズ DG MACRO-ELMARIT 45mm

先週末のブログで書いていた高いレンズの話。結局、とっとと買ってしまった。定価は10万円ぐらいするシロモノだが、「価格Com」で吟味してamazonで安値購入。

「LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm」がそれ。ライカと銘打っているが、パナソニックのレンズ。愛好家の間では「パナライカ」と呼ばれているらしい。マイクロフォーサーズ規格対応の接写レンズだ。

なんてったって小さい。これはエライことだと思う。防水ケースに格納して水中に持っていく際に絶対に有利だ。

私も昔はニコンF4なんかを大型ハウジングに収納して、大型の外付けストロボを2灯のばした“タカアシガニスタイル”で潜っていたが、もう疲れた。

「横着して小さいシステムでそれなりの水準の写真を撮る」これが中年ダイバーとしての今後の課題だ。

オリンパスが発売した水中ハウジング(防水プロテクター)も従来品よりコンパクトでストロボ1灯ならグリップベースも不要だ。このハウジングに冒頭で紹介したマクロレンズが収納可能。

この大きさなら水中でも楽ちんだ。片手にワイドレンズを装着したカメラハウジングを持って、こっちはなんとか首からぶら下げておけるサイズだろう。

さて、買ったばかりのレンズを色々と試してみたのだが、さすがに「ライカ」を名乗るだけあって描写力に優れている。遠距離系も良い。スナップ用のレンズとしてマクロ撮影に限らず使い倒せそうだ。


問題はオートフォーカスの性能が今ひとつという点。人物のスナップ撮影みたいな距離と被写体ならストレス無く合焦するが、肝心の超接写レベルになると心許ない。

オリンパスの防水ハウジングでこのレンズを使う場合、オートフォーカスでしか使えない。大問題だ。カメラがピント合わせに迷いまくっていると電池の消耗も非常に速い。

先週末、散歩ついでに随分このレンズを使いまくってみた。一応、AF機能の特徴的な動きというか傾向が分かったので、水中でもなんとか使えるような気がする。





自然光で撮影している分にはいいのだが、水中では必ずストロボ撮影になる。自宅で深夜、酔っぱらいついでに水中ストロボの調光テストをしてみたのだが、ここでもちょっと課題発生。

コンパクト化のために1灯だけで対応しようと考えているのだが、もともと私はマクロ撮影は2灯ストロボ主義だったので、どうも1灯撮影での写真が気に入らない。

最近ではかなり小型の高性能水中ストロボもあるらしい。結局、それも買んだろうなあ。おまけに2台も。となると別売りグリップも必要だ。

すでにカメラ本体の他にマクロ撮影の必需品である電子ビューファインダーを購入した。バッテリーの予備もあと2つは必要だ。

どうしてこんなに金がかかるんだろう。

2010年4月12日月曜日

家呑み

不況のせいで高級惣菜が売れている。変な話だが、外食を我慢する代わりにチョット高価なものを家で食べようという心理だ。

なんか切ない話。

同じような事情で「家呑み」に励む人が増えたらしい。確かにグラス一杯1千円の酒が家では100円ぐらいの原価で呑めるのだからせっせと帰宅する気分も分からなくはない。

そうは言っても、“外酒”の楽しみは自宅に持ち帰れるものではない。

男たるもの、7人の敵がいる外界でこそキチガイ水にやられないよう日々肝臓を可愛がってやりたい。

かくいう私も家呑みがキライではない。家には家の良さがある。私の場合、家だとナゼか酔いにくい。家にいる方が緊張しているのだろうか。ナゾだ。

家呑みの時は多少は贅沢にいきたい。あまり貧乏くさいのは気持ちが殺伐とする。ハイボールだって高級ウイスキーでバンバン作っちゃう。

グラスもそれっぽいバカラとかを引っ張り出す。ピーナッツを入れる豆皿だって備前の作家モノとか一点物を選ぶ。

わが家には「酒を呑むための部屋」がある。狭い部屋だが妙に落ち着く。茶室に通じる心地良さというか、おこもり感がある(2008年1月11日2008年6月24日ブログ参照)。

あえてテレビは置かなかったのだが、80インチのスクリーンを設置し、5.1chサランドのホームシアターが用意してある。

最近のお気に入りはなぜか「プリンセスプリンセス」のライブDVDだ。全盛期の頃に聴いていたわけではないのに、ここ数年この部屋で呑んでいる時に限って見るようになった。

一応、「呑み部屋」はスタイリッシュに作ったつもりなので、最初の頃は環境映像やケニーGあたりのDVDを流しながら過ごしていたのだが、すぐに飽きた。

その後、この部屋で呑む時の基本はハマショーのライブDVDになった。時にキャンディーズや桜田淳子のDVDに取って代わることもあるが、なぜか最近はプリプリだ。

ファンでもなかったのに不思議なことにプリプリは私の夢に何度も出てくる。はじめの頃はボーカルの顔しか知らなかったのに、何度も夢に登場。シチュエーションはいつも武道館コンサート。

ギターだかベースのアクシデントで急きょ私がメンバーとしてステージにあがる。夢の中の話なので、しっかり譜面も見ずにノリノリで演奏する。結構気分がよい。

最近もまた同様の夢を見た。いまはDVDのおかげでメンバーの顔が全部分かる。

ボーカル、ギター、ベースがハデハデのライオン丸みたいな格好で演奏しているのに対し、ドラムとキーボードが地味目でいい感じ。

萌え~!って感じだ。最近はほろ酔い状態で萌え系の二人のシーンばかり見ている。カワイイ。

ついでにネットで彼女たちのプロフィールを見てみた。あんなにカワイイのになんと私と同じ年だった。ちょっとビックリ。

考えてみたら1994年のライブ映像だった。もう16年も前の姿だ。仕方のないことだ。
昔付き合ったコのイメージがその年齢のままで止まっているのと同じだ。

そういえば先日、旧友から連絡があって、近いうちに大学時代によく遊んだ女子連合と20年ぶりぐらいの飲み会を開くという。

そういう会合をやるけど参加するか、という意思確認の連絡だったのだが、そんな意思確認が事前に実施されるほど女子連合は変貌を遂げたのだろうか。恐ろしくもあり凄く楽しみではある。

とか言いながら、こっちの方が「アンタ誰だっけ?」とか言われてしまうのかもしれない。

2010年4月9日金曜日

オトナのおもちゃ

今日はオトナのおもちゃの話。

「飛びっこ」とかそういうセクシャルグッズ系の話ではない。そっち系もそれなりに詳しい私だ。数時間ではあるが、ひょんなことから、その手の店で店番をした経験もある。

危ない。そっちの話になってしまいそうだ。今日はそっちではない。

カメラを買った。一眼のクセに超小型のオリンパスのPENだ。まさにオトナのおもちゃだ。

ご覧の通り、コンパクトデジカメ(コンデジ)並みのサイズだ。いま話題のマイクロフォーサーズ規格。レンズも小さい。

私の場合、水中写真を撮るためにカメラを選ぶ。一昨年、コンデジを水中に持ち込んでその便利さに納得したので、昨年ようやくフィルム一眼に別れを告げた。デジタル一眼(デジイチ)デビューはキヤノンのEOS-KISS/X3。

入門機レベルだが、充分高機能だ。SEA&SEA社のRDX-500という防水ハウジングに格納して水中に持ち込んでいるが、デジカメ自体は小型化しているのに、ハウジングが昔ながらのサイズ。使い勝手もチョット悪い(2009年11月4日付ブログ参照)。

防水ハウジングというケースにカメラを格納して外付けの水中ストロボを使うという水中撮影の宿命を考えると、マイクロフォーサーズ規格は革命的な存在だ。全体のサイズが小さくなる。

私の場合、水中撮影の際には超ワイドレンズを装着したハウジングと接写レンズを装着したハウジングを2台同時に海に持ち込むスタイルなので、ハウジングの小型化は有難い話。大げさにいえば命にも関わる部分だ。

今回オリンパスのPEN・E-PL1を入手した理由は、オリンパスが専用水中ハウジングを安価で発売したから。

http://fotopus.com/marine/impre/epl1+pt_ep01_02/index.html

レンズ部分を覆うポートの交換ができない一体型ハウジングなので、レンズの選択肢は限られる。それでも同箇所からの水没リスクも無いわけだし、接写専用機として割り切るなら画期的。この手の商品としては非常に安価な価格設定。

水中ストロボなど関連小物も私が以前から持っているパーツが随分流用できるので、便利この上ない。

最近見学に行ったダイビング用品の展示会で実際の商品を手にして使い勝手をリサーチ。充分満足できる内容だったのでさっそく手に入れた。

まさに「おもちゃ」だ。いじってると楽しくてしょうがない。

現在、カメラの機能を学習中。水中ハウジングも発注した。早く進水式を計画しないといけない。

会社の裏にある桜の名所に行って試し撮りしてみた。


カメラまかせで撮影するとかなりビビッドな感じ。簡単にアレコレ遊べる機能が付いていて、下の写真は同じ構図でアート機能の中のファンタジックフォーカスとかいう設定にしたもの。

標準のズームレンズで接写してみたが、マクロ専用ではない割りにはそこそこ撮れる。


新しいカメラはとにかく何度も手にとっていじってみるしか馴染む方法はない。しょうがないから来月あたり週末を使って沖縄にでも出かけよう。まだまだ水温は低いが頑張って新しいおもちゃで遊んでこよう。

ちなみに、付属の標準ズームレンズにクローズアップレンズを装着して接写に励むつもりだが、マイクロフォーサーズ規格のライカ製マクロ専用レンズも使用可能らしい。

そりゃ欲しい。でも9万円ぐらいするらしい。高いけどきっと買っちゃうんだろうなあ。まさにオトナのおもちゃだ。

2010年4月7日水曜日

魔物

知り合いが身内を殺めてしまった。
中年になるまで随分いろんなことを経験してきたつもりだが、さすがにこの話を聞いた時はしばし呆然。うなり声しか出なかった。

家族とのトラブルをきっかけに悲劇は起きてしまったそうだ。5年以上前からの知り合いなのだが、彼の複雑な家庭事情は知らなかった。

お互い身内の事情などなかなか話す機会はない。年に一、二度、顔を合わせる際には夜更けまで飲むような相手だったのだが、思えばプライベートの話はしてこなかった。

殺人事件など自分にはまるで関係のない世界で起きていると無意識に思っていた。そういう事件の当事者は自分とはまったく次元の違う人物だろうと無意識に思っていた。

「まさかあの人が・・」といったセリフをニュースでよく聞く。今回の事件を聞かされた時、似たような印象を持った。私が知る彼は、どちらかといえば穏やかな人物で激高するタイプには見えなかった。

人の心に潜む闇は、他人に推し量れるものではない。どんな人でも自分自身の心の闇と上手に折り合いをつけている。それでも何かの拍子に突発的な狂いが生じることがあるのだろう。

心の闇と書いてみたが、心に潜む魔物と言い換えた方が的確だろうか。誰でも魔物が暴れ出さないように抑止して生きている。

魔物が抑えきれなくなる瞬間は、それこそ巡り合わせで誰にでもやってくるのかもしれない。たいていの人は、たまたまその瞬間にぶつからずに済んでいるだけなのかもしれない。

知人が起してしまった恐ろしい事件を思うとそんな感覚にさえ陥ってしまう。そのぐらい知人は事件を起すタイプには見えなかった。魔物の怖さ、魔が射すことの恐ろしさに身体が震える思いだ。

いま、塀の中に彼の心には何が去来してるのだろう。

もの凄く単純な話になってしまうが、精神面の鍛錬の大切さを今更ながら痛感する。宗教心とか道徳という概念の大切さ、それを身に染みこませることの大切さぐらいしか思いつかない。

もちろん、罪を犯してしまった人達すべてにそういう概念が欠落していたわけではないだろう。それでも、ぎりぎりで踏みとどまるかどうかの線引きは、結局精神性でしかない。

宗教心があまり無い私だが、一応、“お天道様が見ている”とか“罰があたる”みたいな日本人特有の畏怖心のような感覚は持っている。

抽象的な感覚だが、抽象的だからこそ身に染みついているようにも思う。

日本人が大切にしてきたそうした畏怖心によって自然と臆病な心も生まれる。臆病でいることはある意味謙虚さにもつながる。

謙虚であれば不満や欲求もそれなりに抑えられる。結果、現状を肯定できる姿勢につながれば悪くない。何とか平穏でいられる。

ただ、現実の社会では、上昇志向や競争意識が無ければいわゆる負け組として痛い目にも遭う。この辺のバランスが難しい問題ではある。

理屈っぽいことを四の五の書いてしまった。あれこれと書くのは簡単だが、業のなかで生きている人間がそう簡単に完璧な理性を持ち合わせることは難しい。

何かの拍子に魔が射してしまう可能性は誰にでもあるのだろう。はたして何が分かれ目になるのか。

つくづく分からない。

今日は何が書きたかったのかも良く分からない。とっちらかった話でスイマセン。

2010年4月5日月曜日

ダメなJAL

以前、かのホリエモンが日本航空の問題を自身のブログで取り上げていた。破綻していることを隠して株主に大損させ、公的資金もムダにたれ流しそうな雲行きなのに誰も責任を取らないのはおかしいという趣旨。

ホリエモンの場合、ライブドアの株価問題について個人資産を200億円以上和解のために拠出し、一連の騒動で税金の支援があったわけでもない。おまけに彼自身の刑務所行きも確実な状況だから、怒りたくなるのも当然だろう。

こんな話を書きたくなったのは、先日利用した日本航空のダメっぷりを垣間見たから。やはり潰れた会社はメロメロだ。水に落ちた犬をたたくのは忍びないが、あんな調子じゃあ安全運行も心配になる。

成田のチェックインカウンターで地上職のベテランらしきオバサンと一悶着。普段、割と長いものには巻かれる私だ。声を荒げたり、クレーマー的言動は少ない方だと自負している。

そんな温厚な私が機内預け荷物をめぐって少しゴタゴタしたのだが、日航側の不誠実ぶりに結構熱くなってしまった。詳細は省くが、サービス業としてあり得ない対応だったと思う。

同行していたわが家の女王様、いや奥様は乗務員の訓練教官をしていた経験もある。ある種、そっち方面のプロなのだが、私よりも怒っていたから相手側の対応がマズかったのは間違いないと思う。

残念ながらそういう不快感は無意識に長時間持続してしまう。機内でもサービスの粗さに目が行ってしまう悪循環に陥る。

もともと私はどこの航空会社だろうと機内サービスには興味がない。座席が広いか狭いかだけが気になる。

機内食はしょせん機内食。そんなに旨いはずはない。気の効いたツマミや弁当を持ち込んだり、常備されているカップ麺をもらった方がマシだと思う。

たかだか数時間の移動に大げさにケアされること自体が前時代的で居心地悪いので、いつもはサービスの質など気にしない。

今回は、地上での不快感のせいで、ついつい機内サービスにも目が行ってしまった。一生懸命働いている乗務員には悪いが、搭乗前の出来事のせいで、ついイライラモード。

そんな場所でイライラするなんて実にバカげているのだが、不快な経験をしたお陰でそんな状態になってしまった。

たった一人のアホバカ対応がどれほどその会社のイメージに悪影響を及ぼすか痛感する。

まあアホバカ対応するような社員しか残っていないのか、アホバカ対応をしちゃうようなモラルハザードが進行しているのか、どっちにしろ潰れた企業に漂う空気はロクなものではないのだろう。

ちなみにJALに関して知人から聞いた話をひとつ紹介したい。一応、裏を取ったわけではないので、仁義上あくまで“噂”としておく。

客室乗員部の中間管理職、50歳代前半。早期退職に応じることにしたそうだが、受け取る退職金は3千万円だとか。

耳を疑う。潰れた会社、国の支援で税金使って再建中の会社だ。ずっこけそうになる話だ。話半分だとしても潰れた会社なんだから万々歳の金額だろう。

早期退職勧奨は言うまでもなく、割増しコストを払ってでも辞めて貰ったほうがコスト削減につながるという仕組みだ。

法外な退職金を払ってでも辞めさせた方がコスト削減になるのなら、在職者にはいったいどんな待遇がまかり通っているのだろう。

ましてや経営危機が叫ばれ始めてからもう何年も経つ。にもかかわらず、この期に及んで相変わらずの高コスト体質。

実話ではなく“噂”であることを切に願う。

2010年4月2日金曜日

“彼”の話

昔に比べてやたらとオカマが目立つような気がする。テレビのバラエティー番組もオカマの品評会みたいだ。

オカマという言葉も一応差別表現の範疇に入るみたいだが、ニューハーフという言葉だとピンとこない。ゲイとかオナベとか定義はいろいろあるようだが、あえて分かりやすくオカマという表現を使うことにする。

私は昔からオカマちゃんが苦手。若い頃は結構そっち方面の人に好かれるタイプだったらしく、学校をサボって昼寝場所にしていたポルノ映画館では随分と変なオヤジの接近遭遇を体験した。

オカマバー方面にも何度か連れて行かれたが、いつも最後には無礼なオカマに本気で腹を立てる始末。

「男ならシャキッとしやがれ」ってつい思ってしまうのだが、その考え方自体がチョット固定観念にとらわれすぎなのかもしれない。

昭和の後半に亡くなった私の祖母などは、若い時分にオカマさん達と随分交流を持っていたらしい。それこそ日本のゲイバーのはしりである銀座「青江」のママさんなんかも私の実家に遊びに来ていたそうだ。

祖母は自由な発想の持主だったので、昭和30年代当時でもその手の人達への理解があったのだろう。それに比べて私の度量の狭さは問題だ。無粋なことかもしれない。

金子みすずの詩みたいになっちゃうが、「みんな違ってみんないい」という考え方もある程度必要だろう。

わが家にやってきたダウン症ベイビーのおかげで、最近は私の中で「個性」の定義が広がっている。うちの子も健常児と比べても意味はないし、ダウン症も見方によっては「個性」とも言える。

そう考えると、世の中で活躍中のオカマちゃん達に対しても彼らの路線を単純に「個性」だと認識したほうが建設的なのかも知れない。

ウダウダと書き連ねてしまったが、ここまでは前振り。今日のテーマを書こうと思ったのは先日会った旧友がきっかけ。

およそ25年ぶりの再会。とはいえ、幼稚園から高校まで一緒だったので、さっさと少年時代モードに戻ってバカ騒ぎした。

この友人、仲間うちで“彼”と表現される。“”が付くところがポイント。単なる彼ではなく、あくまで“彼”だ。

平たく言えば「彼女」と表現したいタイプだというニュアンス。高校時代には何かのイベントの際に近隣の女子校から拝借してきたセーラー服を着てアイドル歌謡を熱唱していたような記憶がある。

男子校だったので、“彼”には独特の存在感があったが、私の場合、中性的な連中の理解者ではなかったため、どちらかといえば敬遠していたような覚えがある。

そんな“彼”もいまや立派な「先生」だ。そっち系の患者さんも多いみたいだ。思えば、“そっち系”の人々は世の中に想像以上に存在するわけで、そうした面々を理解できる先生は非常に貴重な存在だろう。

いまでこそオカマちゃんや中性的人物への理解が広まってきたようだが、それも先駆者あっての話だ。

まだまだ若作りの“彼”もいまや立派な中年なので、先駆者の一人だろう。良く分からないが、今のポジションを得るまでそれはそれで苦労もしたはずだ。

最近売れっ子の「椿姫彩菜」というそっち系のタレントがいる。確かに可愛い。正直、ちょっと萌える。

男子校出身を一種のウリにしているが、その男子校は我々の母校でもある。いわば“彼”の延長線上に彼女がいるわけだ(大げさか)。

さてさて、“彼”と騒いだ日の話。幼稚園から同窓だったメンバー数人で痛飲。4才ぐらいから18才まで一緒だった顔ぶれだ。四半世紀ぶりの再開でもすぐにワイワイガヤガヤだ。

二次会でカラオケスナックへ突入。酔うほどにキャッキャキャッキャと“彼”は“彼女”になっていく。

絵に描いたようなソッチ系のノリだ。それまでは一応紳士然としていた“彼”だが、確実に“解放”に向かっていく。熱唱するのは聖子ちゃんソングだ。

男同士の飲み会のはずが、なぜか妖艶モードも漂う。ソッチ系が苦手なはずの私も単純にはしゃぐ。自ら進んで禁断の世界を覗いてしまった。

やはり食わず嫌いではダメだ。

別な旧友の携帯画像には、私と“彼”のあられもない姿が記録されてしまった。

あの画像、一応、浮気現場の証拠写真になり得るのだろうか。だとしたら高値で買い戻さないといけない。

いくつになっても日々勉強だ。