2011年9月30日金曜日

文句ばかり言うオッサン

来週、誕生日を迎える。また年齢が一つ増えるわけだが、中年道を突っ走るいま、自分の中で中年らしさが顕著に現れているのが「ブツクサ文句を言うこと」だ。

どうも最近、いろんなことにブツクサ言っている気がする。もちろん、道行く人にいきなり大声で文句言ったり、知り合いにガミガミ言っているわけではない。

ひとりでブツブツ文句を言ったり、不平不満が脳裏をよぎる場面が増えてきた。

近頃では絶滅してしまったが、昭和の頃には「文句ばかり言ってるウザいオッサン」がそこら中にいた。電車で騒いでいる連中に「コラッ」と怒鳴るようなオッサンだ。

どうも自分がそんなウザいオッサン化している気がしてならない。

やたらと「常識」とか「道徳」とか「ルール」、「マナー」の押しつけが気に障る。

文句も言わずにおとなしく去勢されているから、世の中のマナーだの常識だのが日増しに窮屈になっているように思う。

ゴミの分別なんて最たるものだろう。アホらしい。いつのまにか、あり得ないほど細かい作業を強いられる。お構いなしにテキトーにゴミ捨てしている事実を堂々と書くわけにもいかないので、その辺は内緒だが、ほんの20年の間で大きく事情は変わった。

エコとやらが何でもかんでも大義名分としてシャシャリ出てきたことも一因だろう。実にうさん臭い。

いつの間にか節電ファッショもすっかり定着し、猛暑がすっかり終わったのにバカのひとつ覚えのようにアチコチで「節電中」を謳っている。

夜の繁華街なんか暗いまんまだ。あれじゃあ、世の中のマインドが上がるわけない。

節電に象徴されるように、世の中、端的に言って「思考停止」なんだろう。誰のために何の目的で何を考慮して、という当たり前の判断をまるでしないから、いつまで経っても「節電」に夢中になる。

エコカーもそう。エコエコ自慢したいなら、そもそもクルマなんか乗らなきゃいい。ちょっと考えればアホでも分かる。

製造者責任法が出来たあたりからだったろうか、あちこちに間抜けな注意書きがやたらと増えた。カップ麺のふたにはヤケドに注意と大書きしてある。どう見ても食べられない乾燥剤にも、食べられませんと大書きしてある。

飛行機に乗れば、背もたれを倒す際には後ろの人に気をつけましょうとか、くだらない注意書きが用意されていたり、世の中総出で国民の幼稚化に手を貸している感じだ。

一昔前には単なる当たり前だったことすら、手取り足取りお節介に御指導が繰り返される。だからみんなが思考停止。

通勤電車を例にとっても、ムシャムシャ食事する、平然と化粧する、騒ぐ子どもを叱らないでマンガを読んでいる親、等々、なんだか変。

テレビはくだらない内輪ノリの話を垂れ流し、タレントの低脳さを笑う野暮な番組が人気になる。

いかんいかん、文句が延々と続いてしまった。

文句オヤジの出来上がりだ。うるさいオヤジは嫌われると分かっているのだが、ついつい文句があふれてしまう。

道を知らないタクシーの運転手が多いのも問題だ。おまけに道を知らないことをプロとして恥と思わず、平気な顔をしている。道を熟知しているプロの運転手の名誉のためにも問題だ。

その手のタクシーにあたっちゃったら、面倒でもとっとと降りることにしている。一応、誰かと同乗する時は我慢するが、一人の際には迷わず降りる。

飲食店でも、たかだか1,2品の注文にも「ご注文繰り返します」と復唱が始まる。文句オヤジとしては、ついつい「繰り返さなくていいから」とやんわりお断りすることもある。

文句ばかり言っても仕方がない。逆手にとって何かできないだろうか。思考停止の世の中だから、やっぱり宗教とか占いとか、そっち系で商売でも考えたほうがいいのだろうか。

先日も夜の銀座の路上で、うさんくさそうな手相占いオバサン相手に、初老の紳士が熱く人生を語っていた。いかがなもんだろう。

占いと言えば、先日、わが家の鬼嫁様が、結構な値段をふっかける占い師に見てもらってきたそうだ。その占い師いわく「あなた結婚してるんですか?ご主人の影が見えません」だとか。なんともトンデモナイ占い師だ。いや、ある意味、的確に見抜かれたのだろうか!?

そういう意味不明な占い師に大枚をはたく神経が不思議だ。そのくせ、1点か2点たまたま核心を突いたことを言われただけで、見てもらった人はそれに引きずられている。アホみたいだ。

ちなみにその占い師を紹介してくれた人は、民主党政権中枢の某大物議員の奥様だ。ぞっこん心酔しているらしい。アチャチャって感じだ。

別な話だが、以前、私自身が紹介された怪しい占い師に会いに行ったことがある。いやはやインチキ極まれり。詐欺師根性丸出しな感じのオバサンで、辟易とした。紹介してくれた人は某一部上場企業のオーナー一族で、これまたみんなでそのオバサンに心酔している。

その後、そのオバサンは、天罰が下ったのか、体調をおかしくして引っ込んだそうだが、そのオーナー一族はいまだに術中にはまってるらしい。おかしな話だ。

いやあ、ここまで書いた内容を読み返してみたのだが、実に感じが悪い。われながらイヤミオヤジぶりにビックリだ。

なんか悪性のストレスでも貯め込んでいるのだろうか。

もっと明るく爽やかに健全に日々を過ごさないといけない。

それにしても、世の中の根拠なき常識やルールって気にし始めると気になって仕方ない。

なんで毎日ネクタイしてるのだろう。なんで禁煙しようとしてるのだろう。なんで野菜を食べなきゃいけないんだろう。なんでたくさん靴を買うと怒られるのだろう。なんでスマホを買わないといけないのだろう。

なんで男は男っぽくしていないとダメなんだろ。なんで忙しくもない日まで会社に居ないといけないのだろう。なんで近所の住人と喧嘩しちゃいけないのだろう。

なんでトンカツを我慢してるのだろう。なんで毎月一人で旅行しちゃいけないんだろう。なんで昼間から酔っぱらっちゃいけないんだろう。

なんでエロDVDを隠れて見るんだろう。なんで自分の性癖を内緒にするんだろう。なんで婚外恋愛は世間に認められないのだろう。

全部ナゾだ。

ダメだ。今日はウツウツしたまま書き殴ってしまった。

しょうがない。働こう。

2011年9月28日水曜日

禁煙生活

まもなく禁煙生活も2週間になる。正確に言えば、「禁・紙巻きタバコ」だ。葉巻はやめていないし、禁煙のために最近はやたらとカギタバコなるシロモノのお世話になっている。


カギタバコは、ニコチンをたっぷり包んだ紙状の小さな小袋を前歯の歯ぐきと上唇の間に挟んで、じわじわ溢れ出るタバコ味のニコチンを口から摂取する仕組みだ。

エラく身体に悪そうな感じがする。こんなものをいつまでもジュルジュルすすっていたら間違いなく、口腔ガンになりそうな気がする。

でも、食後なんかにパイポをくわえて、カギタバコをジュルジュルしていたら、タバコを我慢していることが苦ではなくなってきた。しばし続けてみよう。

先週末、中学高校の2個下の後輩が飲み会を企画してくれた。有難いことだ。いっぱしの中年になって、今更先輩風を吹かされるのもイヤだろうが、わざわざ声をかけてくれる後輩達は大したものだ。

相変わらず、忘れていたはずの少年時代の悪行の数々がフラッシュバックして、しばし困惑する。いったい、どんな高校生だったのだろう。タイムマシンがあったら、見に行きたいような、行きたくないようなそんな気分だ。

楽しい飲み会、それも6時間以上ダラダラ飲んでいたのだから、禁煙トライ中の身には尋常じゃない苦行だった。素知らぬ顔して過ごしていたが、あと1歩で煙草に手が伸びるところだった。

こういう会合でタバコに手を出さなかったことは大いに自信になる。翌日から出かけた家族との旅行でも何とか凌げた。

行先は、草津温泉。この夏は家族サービズらしきことをまったくと言っていいほどサボっていたので久々に頑張ってみた。


森林浴散策のコースを子どもの手を引いて歩いた。温泉街でアホみたいにまんじゅうの試食を繰り返す子どもにも付き合ったし、食べたくもないソフトクリームをニコニコ食べた。

食事も子ども様のペースに合わせて、ゆったりすることもなく短い時間で済ませたから、アルコールもチョこっとしか飲まなかった。

散策中、池に浮かぶ「モネの橋」なる場所を見つけた。睡蓮が浮かぶ小さい池にパリ郊外にあるモネの庭とソックリの太鼓橋がかかっていた。


7月に一人で出かけたパリ旅行で見てきた風景に似ていた。いや、パリ郊外・ジベルニーで見たホンモノのモネの庭よりも、空が高く、景色も良く、爽快な感じで気に入った。

今度は家族抜きで散策したいと思うところが私の悪いクセ?だ。いずれにしても秋の草津は快晴でも気温が15度程度で実に爽やか。露天風呂で悦楽な時間もあったので良しとしよう。


もともと、死んだ祖父が35年ほど前に別荘マンションを購入したのが、私の草津との出会いだ。毎年のように出かけている。マンション全体の管理も行き届いているし、地下にある源泉掛け流しの大浴場も改装を行って快適に保たれている。もっと使わないともったいない気がする。

今回は、連休の混雑を避けてレトロな「特急草津号」で出かけた。最寄りの駅でレンタカーを借りて、気ままに動けたので疲労感も少なくて済んだ。

日本中の温泉に出かけた上で、泉質はトップレベルだと断言できる草津の湯。こちらが年を取るに連れ、オッサンくさい温泉地に惹かれるようになってきたから、もっと健康のために?活用しようと思う。

話がそれた。禁煙がテーマだった。温泉旅行でくつろいだ場面でもタバコに手を出さなかった。これまた自信が深まった。よしよし。

今回は、別荘マンション以外に、マンションの系列ホテルのチープな貸し室を一つ押えておき、寝る時だけは私一人でそちらに移動した。部屋には大きな灰皿が鎮座していた。一人で個室、ましてや温泉上がりという状態でも、変なカギタバコで凌いだから、いよいよ禁煙達成にメドがついてきた感じだ。

もともとワガママな性格だから、何かを我慢させられること自体が嫌いだ。レストランなんかで2時間ぐらいタバコを吸わないでいることは大した問題ではないが、「強制的に禁止されている」という事実が私をイライラさせる。

不便でしょうがない。飛行機も電車もそう。「禁煙にご協力をお願いします」という言い回しも気に入らない。「禁煙です」と言われれば、「はいそうですか」と従うが、協力をお願いされたら話は別だ。

協力をお願いされると言うことは、最終決定権はこちらにあると解釈するのが日本語の読解力として妥当だろう。だから「協力しません」と言ってもよい理屈になる。

こういう屁理屈をダラダラ書くこと自体が、加齢だ。そんなことより、そういう次元の話でイライラする時間がもったいない。

こっちだって、もう残り少ない人生なんだから、タバコが吸える吸えないでガタガタ悶々としているのが残念ではある。ここ1,2ヶ月辛抱して、そういう鬱陶しいジャンルの外に脱出したいと考えているわけだ。

そうはいいながら、1箱1千円とかフザケタ増税政策を国家が押し通すようなら、私は敢然とタバコの世界に舞い戻ろうと思う。

「値上げされたからタバコを吸い始める」。富豪を自称する以上、それが最もカッチョいい話だと思う。

筒井康隆の名作短編「最後の喫煙者」を改めて読み返そうと思う秋の夜長だ。

2011年9月26日月曜日

身辺雑記

「ブロガー」として活動を始めて4年。日々、どうでもいいことも携帯で撮影したりして、身辺雑記の蓄えにする習慣がついた。

1週間ぐらい体調が悪かったので、それ以前の行動をだいぶ忘れていた。携帯に記録された数々の画像が、私のビミョーな日々を思い出させてくれた。


そういえば、高熱を出して寝込む前日は、ポールダンスを見に行ってハシャいでいた。

場所は銀座。8丁目の地下に潜む重厚な気配のバー「C」。どっしりとした革張りの椅子に腰をおろし、ほのかに照らされた照明の下、熟成を重ねた琥珀色のラムを使った絶品モヒートをあおる。

隣には綺麗どころが一人、私の下世話な話に相づちを打ってくれる。

絵に描いたような「夜の大人な感じ」だ。しっぽりと過ぎていく時間・・・のはずだったが、「C」の系列店としてポールダンスを見せる店が出来たと聞いて状況が一変した。

「行くぜ!」。Cで注文していた食べ物も移動先に運んでもらうワガママぶりを発揮して、そそくさと移動した。

ビルの底深く、まさにそんな感じの場所でポールダンスが繰り広げられていた。ウヒョヒョ。

ポールダンスといえば、フィリピンのゴーゴーバーでは何度も見ているが、そういうチンケなノリではなかった。かなりの迫力。

大会とかに出場するような女性たちが頑張っていた。エロさは全然感じない。いや、それなりにセクシーなんだろうが、私の眼が「フィリピンのゴーゴーバー基準」だったせいか、ここのポールダンスは実に芸術的だった。

なんてったって、天井のほうまでグングン上がってっちゃうんだから凄い。ショーの後に試しにトライしたが、私なんかは2センチぐらいしか身体が上昇しない。

単純明快に感心した。15人ほどのポールダンサーが在籍しているらしい。遅い時間になると結構盛り上がるみたいなので再訪しようと思う。


こちらは久しぶりに行った「かに道楽」での1枚。毛ガニ姿茹でだ。

ズワイ、タラバ、毛ガニ。なかでも私の大好物は毛ガニだ。ここしばらくホームグラウンド?である北海道に遊びに行ってないので上等な毛ガニに枯渇していた。

かに道楽も店先で生きた毛ガニをワンサカ見せている割には、姿茹でが活け茹でではないのが気に入らない。とはいえ、それなりの値付けのせいで、身の詰まり具合は悪くない。

東京、それも銀座のど真ん中で毛ガニを丸ごと食べようと言うんだから、そこそこの出費は仕方がない。

コース料理とは別に、姿茹であたりを注文しておくと、飽きるほどのカニ攻めだ。その場で炊きあげるカニ釜飯に、余っちゃった毛ガニの身をふんだんに追加したりすると極上釜飯に変身する。

薄っぺらいカニの押し寿司の上に、あまったカニ身とカニミソもトッピングしてスーパー寿司に変身させるという手もある。

もちろん、雑炊付きのコースだったら、同じように余っちゃったカニ身をこれでもか!ってぐらい突っ込めば、極上雑炊になる仕組みだ。


こちらの画像は、高田馬場の鮨源で食べた極上のフライ。揚げ物の写真は、中身が写ってないせいで、ちっとも有り難さとか珍しさが伝わらない。

この1枚も一見ただの揚げ物だが、その中身がスペシャルだ。旬のサンマ。それも寿司用の上物を揚げてもらった「特製サンマフライ」だ。

わがままついでにその場で特製タルタルソースも作ってもらい、トッピングして食べる。生きてて良かったと思うような味だ。

マックのフィレオフィッシュに100円も支払うことを思えば、「サンマフライ・タルタル和え」に10倍、20倍の出費もいとわない私だ。


ついでにもう一枚。肉系の画像。こちらも同じお寿司屋さんで食べた逸品。「馬の角煮」。馬刺し用に上等な馬肉をいくつかの部位ごとに用意してあるだけに、こんなアレンジも可能になるわけだ。

良い意味で獣っぽい風味がかすかに残り、焼酎に合わせたら絶品のツマミだ。まさに天高く馬肥ゆる季節にピッタリだ。

あれこれ書いたが、結局、ポールダンス以外は食べ物の話ばっかりだ。まあ、食べ物以外のトピックの多くが、なかなか書きにくい話だったりするので、こういうまとめ方になってしまう。

今日は何もオチがない。本当に雑文に終始してしまった。

2011年9月21日水曜日

「編集長」と「変な酋長」

何年ぶりかで激しく発熱してしまった。扁桃腺の爆発だ。忘れていた頃に突然やってくる。

体温計が40度ぐらいまでいくと、さすがにちょっとビビる。個人的な感覚では、一番シンドイのは38度代後半で、なぜか、これぐらいが最も寒気に襲われる。

真夏日にもかかわらず、自室でエアコンもつけずにフリースを着込んで、羽毛布団2枚重ねてフガフガしていた。

解熱鎮痛剤も5~6時間おきに使わないといけないので、薬が切れている時間帯が魔の刻だ。

とはいえ、薬が効き始めると、今度は2時間以上、汗がダラダラとサウナみたいに流れ続けるのでこれまた厄介。

こんなことを5日間も繰り返した。さすがにバテた。きっと60~70代になって、こんなことをしていたら死んじゃうんだと思う。

普段は「イカした編集長」を気取って活動しているのだが、熱と闘っている間は「イケニエになった変な酋長」みたいな風貌になった。

過去には何度も入院して対応していたのだが、自宅で寝込むのと比べてせいぜい一日程度しか回復するまでの時間は変わらない。今回は面倒だったので家で寝込んでいた。

入院しようが、家にいようが、痛みと腫れが喉を完全に一周するまで終わらないからジタバタしても始まらない。

いい年して5日も寝込むのなら、もっとオトナっぽい病名のほうが格好いい。「扁桃腺が腫れました」では小学生みたいだ。

「胆嚢が炎症で」とか「肝機能障害で」とか「脳の血管がつまりかけて」だったりしたら、世間様も、きっとあの人は大変なんだと判断してくれそうだ。

「喉が痛い」なんて症状だと、「きっとあの人は、飲み過ぎか歌いすぎなんだ」と思われるのがオチだ。そこが悔しい。

先日、このブログでも書いたが、最近やたらと健康状態が良いとか、プロポリスのおかげとか、気分良く書いていたのにこのザマだ。もうプロポリスもやめようと思う。

さて、当人にとってはエラく大変だったので、ただ漫然と痛い思いをしただけでは面白くも何ともない。

損して得取れ!の精神で、喉が痛かったついでに、タバコをやめてみた。

まだ5日目なので、大きなコトは言えない。でも「5日」はヘビースモーカーにとっては王選手の800号ホームランぐらい大変なことではある。いや、それは間違いなく大袈裟だ。

今までは扁桃腺が腫れたぐらいではタバコの数が減るぐらいだったが、今回は結構痛みがひどかったので、我慢せずに3日間ぐらい吸わずにいられた。

こんなチャンスは滅多にない。誰も見ていない場所で鍵をかけ忘れた現金輸送車を見つけたようなものだ。

例えが不的確だ。正しく例えるのなら、誰も入ってこない場所で、絶世の美女が全裸で眠っているようなものだ。

禁煙を漠然と考えていたヘビースモーカーにとって、苦もなく3日も吸わずにいられたという事実は、離縁、いや離煙への大きなチャンスだ。

30代の終わり頃から4年近く、禁煙に成功していた時期があった。きっかけは扁桃腺爆発で入院したことだった。今回もどうせなら、そういう副産物を手に入れないと悔しいから頑張ろうと思う。

ここに書いたことで、成功への可能性は高まったと思う。人間誰しもどこかに向かって宣言しないと踏ん張る活力が湧いてこないものだ。

ついでに書くと葉巻は別枠です。あれは吸わない。ふかす嗜好品。あくまで紙巻きタバコとオサラバする計画だ。

以前禁煙していた時も葉巻はしばしばプカプカさせていた。そういう意味では「禁煙」というより「禁タバコ」が正しい表現だ。

まんまと「禁タバコ」に成功したら何をしようか?そんなことを妄想するのも楽しい。寝台特急カシオペアなんかも全面禁煙のせいであきらめていた。全面禁煙の宿にも行ってみたい所があったし、遊びの話ばっかりだ。

先日も、Facebookに「遊んでばっかりですね」とコメントをもらったばかりだ。いかんいかん。禁煙に成功したら、苦手だった長時間会議とかも余裕でこなせそうだ。

いずれにせよ、「館ひろし」じゃあるまいし、医者に行って、破たん寸前の国民医療費をジャンジャン使って、たかだかニコチンパッチやニコチンガムを安く入手するような禁煙行動はイヤだ。

憂国の士として、禁煙ぐらい、医師に頼らず意思で解決したい。

嗚呼、まだ喉が痛い。

2011年9月16日金曜日

恩師と後輩

先日、ひょんなことで小学校時代にお世話になった先生と再会した。場所は溜池山王にある中華「美食菜舘」。旧友が営む店だ。

その日、これまたひょんなことで、母校の後輩達と知り合いになり、彼らと世間話をしながら呑んでいた。

小中高とエスカレーター式で通った学校なので、その日知り合った後輩でも話の共通点はすぐに見つかる。2学年下と8学年下の後輩だったのだが、「後輩」という割にはオジサン達だから自分の年齢が心配?になる。

そこへ小学校時代の先生が偶然登場。もともと、この「美食菜舘」には、母校の出身者がやたらと集まる。上は20年ぐらい先輩から、下はやはり20年ぐらい後輩も顔を出すそうだ。

その先生も、元生徒有志の企画による定年退職の慰労会を数年前にこの店でやった縁があるそうだ。この日はご家族と食事会だとか。

私がいたいけな小学生だった当時、母校には不思議な伝統があった。6年間一度もクラス替えがなかったことがそれ。

小学校は3クラス。全部で120人ぐらいの同窓生なので、6年も通えば、一応、全員顔見知りではある。ただ、クラス替えが6年間無いわけだから、必然的にそれぞれのクラスごとに「畑意識」みたいなものも生まれる。

中学以降の6年間は普通にクラスは毎年シャッフルされ、そんな畑意識も薄らいでいく。中学から入学してくる優秀な連中が1クラス分加わるので、自然と小学校時代の固まり方は変わっていく。

優秀な連中は優秀な人間同士で仲良くなり、バカはバカで寄り集まっていく。中学から入ってきた最初は優秀だった連中も、その多くが、ものの1,2年でバカ連合にミックスされていく。

小学生の頃は仲良かった者同士でも、東大に進むような立派な路線に向かう子どもと、女子高生の尻ばっかり追っかける路線の子どもに別れたりする。

小学生の時に仲良かった旧友が、中学、高校では縁遠くなり、その後、40代で東大教授になっていたりして驚くことがある。

そう書くと私自身が身を置いていた路線がバレバレだ。どこでどう運命が変わるのだろうか。深くて切ない?テーマだ。

そうやってシャッフルされて10代の多感期を過ごしたわけだが、原体験は不思議なもので、いまだに悪友達と集まる際には、小学校がどのクラスだったかでアホみたいな言い争いとか対抗意識の話で盛り上がる。

ちっとも進歩がない。

話が随分それてしまった。先生の話だった。

先生は、当時私の担任を受け持ったことはない。隣のクラスの担任だった。そういう場合、あまり懐かしさとか感慨は感じないが、この先生にはお世話になったので素直に再会が嬉しかった。

小学校では、毎朝の朝礼の後に全校生徒にさまざまな検査があった。ハンカチを持ってきているか、上履きは指定のものを履いているか、はたまた、爪が伸び過ぎていないか、など、随分と細かい事柄がチェックされた。

当時、先生は生活指導の担当で、この検査の元締め役だった。そして、毎朝の朝礼で全校生徒相手に検査を仕切る役目になぜか私を指名した。

私の一存で、毎朝、何を検査するか決めるわけだ。違反者は校庭を走らされたり、腕立て伏せの刑に服すわけだから、私の権限は大きい。

ハンカチを忘れてきた友人が、「今日はハンカチ以外の検査にしてくれよ」とか、朝礼の前に頼みに来たりする。「おう分かった、で、見返りは?」などと答えていた私だ。

おまけに、検査する側でエバっていた私自身は、日々平気で違反だらけだった。ヒドい話だ。

言ってみれば、小学生の分際で汚職にまみれた小役人のように利権をむさぼっていた日々だ。それもすべて先生が私を指名してくれたおかげ?だ。

一応、たまには違反者達の造反にあって、抜き打ちで身体をまさぐられ、ハンカチを持ってきていないことがバレたりして、一緒に腕立てとかをしたこともある。バカ丸出しだ。

なぜ、あの頃、私がそんな役目を担わされたか、私自身ナゾだったので、この日、せっかくだから先生に尋ねてみた。

先生も30年以上前のそんな話をよく覚えていてくださった。

「悪いヤツほど、責任を押しつけると真面目に頑張ったりするんだ」。そういう趣旨のことを言われた。ガーン!!だ。

まるでチンピラ小学生だったかのような言われ方だ。中学、高校時代はさておき、小学生の頃は、普通の可愛い子どもだったと勝手に記憶している私にとっては、なんともビミョーだ。でも先生に指摘されるのだから少しは?当たっているのだろう。

いや、当時、先生は30歳代前半だ。まだまだ若者だったから、間違った印象で私を見ていたのだろう。そういうことにする。

いま、先生は那須高原で「あかつき村」というキャンプサイトを運営されている。ほとんどを自分で作り上げていったそうで、日々、進化を続けているそうだ。

http://www.akatsukimura.com/

都会のもやしっ子に自然を体験させるにはもってこいの場所だと思う。もやしっ子のままオジサンになってしまった私としても、機会を作って出かけてみなければ。

いずれにしても、この日は、純粋無垢だった子ども時代の思いがけない話が聞けたりして、とても楽しかった。

しがらみや建前だらけの日常を過ごしていると、少年時代への郷愁が強くなるのかもしれない。

その点、童心に帰れる機会をもたらしてくれる旧友の店の存在も有難い。店選びをウマいのマズいので判断している場合ではない。

なんかそう書くとこの店の料理がマズいみたいだ。そんなことはありません。餃子もウマい、肉団子黒酢ソースもウマい、カニタマもウマいです。

ちなみに、この日、知り合った8コ下の後輩氏が、「美食菜舘」の店主つながりで、以前から私のこのブログを読んでくれていたそうだ。

実に有難い話だ。

でも、ついでにこんなことを言われた。

「もっと真面目な人が書いていると思ってました」。

ガーン!!だ。

2011年9月14日水曜日

幼稚で結構だ

大人と子どもの違いって何だろう。いきなりだが、最近よくそんなことを考えてしまう。

どこをどう切り取っても、いくら逆立ちしても40代の自分はレッキとした大人だ。そうは言いながら、自分の内面のエゲツナイほどの子供っぽさに気付いて慌てることが多い。

世の中、ひょっとすると大人なんて皆無で、みなさん「大人のフリ」をしているだけなんじゃないかと思ったりする。

思い込み、刷り込み、社会的なしきたりなどで、いつのまにか「大人」が出来上がる。

でも、誰もが内面は単なる子どものままで、それを隠しているのかもしれない。隠していることにすら気付かなかったりする。

幼い頃は少しでも成長したいと願い、年上の存在に憧れる。身体能力とか、知識なんて放っておけば簡単に年上に追いつくのに、本人は必死に背伸びしたくなる。

その繰り返しは、思春期や青年期も同じ。ある年代までは、こぞって大人になりたがる。気付けば誰もが年齢だけは勝手に大人になっていく。

社会人だって、平社員は課長さんや部長さんを目指し、部長さんはもっと上に憧れて、そのレールを喜んでなぞろうとする。

背伸びして、大きくなりたい、大人になりたい、上を目指したいと考えると、結局は「子どもっぽいこと」、「若気の至り」はすべて否定の対象になってしまう。

格好悪い、恥ずかしい等々、その手の曖昧模糊とした基準に引きずられ、いつのまにかわざわざ自分から「去勢」されていく。

気付いたら社会が求める平凡な型にまんまとはまっている。秩序とモラル、常識という名の統制のなかで「大人」が完成する。当人達もそれこそが社会性と認識して妙に納得する。

母性を持つ女性よりも男性のほうが、そういう傾向が強いと思う。世のオジサンがたが妙に子どもっぽい趣味嗜好に走りがちなのも、結局は子どもだからだろう。

意味不明なグッズの収集癖があったり、小さい書斎にこもりたがったり、怪しげな赤ちょうちんを彷徨うことだって子どもの行動だ。

スナック菓子のオマケを集める、物置や屋根裏部屋を秘密基地と名付けて悦に入る、自転車で知らない街を散策して冒険気分に浸る。

オジサンがたの行動の原点は結局子ども時代と一緒だ。

40代、50代、はたまたもっと年長になってから、急にイキイキとオヤジバンドを結成したり、趣味のサークル活動に精を出す人は多い。きっと「大人のフリ」に疲れちゃって、子ども部分が前面に出ているんだと思う。

誰もが社会の中で「大人の仮面」をかぶっていないとマズい。そうしないと給料ももらえないし、それこそ格好がつかない。当然、反動も強まる。

赤ちゃんプレイをウリにする風俗店に社会的地位の高い人が通うなんて話は、そう考えると涙無くしては聞けない?切ない話だ。

変な趣味、変な性癖が強ければ強いほど、その人は普段、一生懸命にオトナ仮面をかぶってるんだろう。私はそういう人を全面的に支持したい!!頑張れ変態!

どうも話が怪しい方向に行きそうだ。

男のエゴかも知れないが、子どもを育てることだって、女性と男性では感覚が違う。なんてったって、自分の腹を痛めたわけではない。母親とは温度差がある。

「良きお父さん」なんて別になりたいと思わない。こっちだって子どもなんだから・・・、そう考える人が増殖してもちっとも不思議ではない。

古き良き日本の美徳というか、儒教的思想とか、修身教育的発想が崩壊してしまった現代社会では、そんな無責任?オヤジが増えてしまう可能性は強いだろう。

だからこそ、イクメンとかいうオシャレっぽい言葉で世の男どもを型にはめ直そうとする空気が社会の中に自然発生的に生まれているのだと思う。

で、私はどうだろう。やはり、ひと皮ひんめくれば子どもバリバリだ。

秘密の場所が欲しくなる。気を許した人の前では一気にワガママになって、図々しくなって甘ったれる。昔のドラマに出てきた「冬彦さん」みたいに奇声も出したくなる。

会社で働く自分、家庭を持つ自分、子育て問題について建前で綺麗事を言う自分、そして、どれにも当てはまらない素の自分などなど。いろいろな自分がいる。

きっと誰もがそんなもんだろう。藤子不二雄じゃないが、AとかBなどいろいろな自分が存在するのだと思う。

まあ、こんなことをダラダラと書いていることが子どもっぽい。

いずれにせよ、あきらめたり、我慢することばかりが大人の努めだとしたら、子どもで結構だ。そういう居直りは売れないロックミュージシャンみたいで陳腐な感じだが、そんな陳腐さも大事なことだ。

子どもっぽい、青臭い、幼稚。このあたりの言葉を他人から浴びせられるぐらいになったら、きっと自分自身は最高に幸せなんだろう。

ちょっくら目指してみることにしよう。

2011年9月12日月曜日

プロポリス

どうしたことだろうか。本人の自覚に関係なく、どうやら私は健康でしょうがないらしい。めでたいことだ。

先日、胃と大腸の内視鏡検査に行った。ここ数年の中ではかなり良い状態だと言われてビックリしたのだが、その時ついでに頼んだ血液検査の結果がこれまたバツグンだった。


過去10年分ぐらいのデータをちゃんと保管している真面目な私なのだが、今回の結果は、トップレベルで良かった。いわゆる基準値を超えた数値は2つしかない。

例年5~6項目は検査結果の表に基準値から外れている赤字表記が燦然と輝いていたのだが、今年はたったの2個だ。

そのうちのひとつはγGTPの数値だ。こんなもの普通に酒を飲むオジサンなら誰だって基準値を超えるから全然問題ない。

ましてや基準値を超えた幅も大したことはなく、ここ数年の中では良いほうだ。バンザイだろう。アホみたいにグデングデンに酔わなくなったせいで、肝臓も喜んでいるみたいだ。

もうひとつの赤字表記は中性脂肪だ。これまた大した数値でもない。結構、この数字は簡単に上下に変動するから、この程度は屁のカッパだ。

ついでに頼んでおいた腫瘍マーカーの数値にも問題がなかった。

要するに「そこらへんの若者なみに健康優良状態」ということだ。

本人の感覚としては、だるさが抜けないとか、言い出せばきりがないほど問題があるつもりなのだが、医学的にそれらの症状はただの加齢だと証明?されてしまった。

さて、どうして健康状態がよいのだろう。真剣に考えてみた。


会社の財政状況が好転したのだろうか、秘密の副業が大当たりでもしたのだろうか、はたまた大恋愛が成就して心が潤って、心身共に甦ったのだろうか。

実際には「スーパー散歩」、「ハード散歩」の効果が大きいのだろう。7月のパリ旅行で、一週間、毎日6時間は歩き続け、かなり身体の循環が良くなったせいで、その後も週末を中心に結構歩き回っている。

でも、歩くだけで健康になるのも妙だ。他に何か理由があるはずだ。

とかなんとか言いながら、ちょっと思い当たるフシはある。日々の「薬物依存」のせいかもしれない。

薬物と言っても、サプリという表現が的確だろう。健康オタクのカケラもなかったはずの自分がここ数年、気付けばいろんなものを服用している。

平日は毎日、青汁を500ミリリットルは摂取している。黒酢の錠剤も毎日欠かさない。家でも結構な頻度で得体の知れない野菜ジュースを飲んでいる。

ソルマックとウコンの力は毎日のように摂取。これはあんまり関係ないか・・・。

毛髪維持対策用の飲み薬や塗り薬も日課として定着した。これも健康に全然関係ないか・・・。

これだけでも充分すぎるほど健康オタクみたいで不気味だが、今年春頃から加わった新兵器が、どうやら血液検査の結果に良い影響を与えたのかもしれない。

その名はプロポリスだ。「腕っこきのおまわりさん」みたいな名前だが、そういう話ではない。蜂蜜がどうたらこうした液体を凝縮して錠剤にしたサプリだ。

妙に高い。確か1ヶ月分で1万円ぐらいは軽く飛んでいった気がする。富豪的だ。ここまで書き並べてきたサプリ方面で毎月結構な出費を必要とする。効いていると思い込まなければ堪ったものではない。

プロポリスがどこにどう良いのか知らない。黒酢の何が良いのかも実はよく知らない、青汁が私に何をしてくれたかも知らない。

でも確実に元気でいる私に影響を与えているのだろう。そういうことにする。

その他にも、ここでは書けない薬も使ってみたことはある。男用の薬だ。ちっとも健康とは無関係だ。

まあ、あれだけは、さすがに目に見えて効果が分かっちゃうから危ない危ない・・・・。

余談です。

2011年9月9日金曜日

ノックアウト





最近、くだらない画像を見て夜中に一人で笑っている。すっかり変な人みたいだ。精神状態が不安定なのだろうか。

それにしても、この手の画像を大真面目に作成している人は心底エラいと思う。私が書いているブログよりも間違いなく世のため人のためになっている。

という話は今日のテーマと一切関係がない。強いて言えば、「ノックアウト」つながりだろうか。

これらの変な画像は私を日々ノックアウトしてくれるのだが、先日食べた「日本の洋食」に久しぶりにノックアウトされた。

われながら強引な話の運び方だ・・・。

日本の洋食といえば、オムライス、ハヤシライス、クリームコロッケなどのデブ垂涎・ヨダレもののウマいものが揃っているので、時に無性に食べたくなる。

バツグンにウマい割には、気のせいか、世間一般における地位はビミョーなポジションといえる。

大事な商談とか接待場所にその手の店が選ばれることはない。さあ今夜は一発決めるぜ!って息巻いているカップルがデート場所に選ぶことも無さそうだ。

良く分からない味の窮屈なフレンチとか、とんがったイタリアンとかのほうが、エロ系前夜祭的晩餐の場所として選ばれがちだ。

ガハハハ言いながら、「ひとつよしなに」とか「おぬしもワルやのう」という会話も、畳の上でふすまに囲まれて展開される。

男女のラブラブミーティング、オッサン達のワルワルミーティングのいずれも「カニクリームコロッケ」とか、「トロトロオムライス」だと収まりが悪いのだろう。

もったいない話だ。

先日、根岸にある「香味屋」に行った。いわずと知れた日本の洋食の老舗だ。死んだ祖父がこの店のファンだったらしいが、私自身は初訪問。

根岸に行く用事もないし、食事のためにわざわざ縁のない場所に出向くような食通でもない。祖父の好物だった「ビフカツ」の存在は気になっていたが、未体験ゾーンだった。

ニッポンの洋食的な気分の場合、麻布の「グリル満天星」とか、日本橋の「たいめいけん」あたりに行くことは何度もあった。それなりにウマい。他にも浅草あたりでも何軒も洋食屋さんに出かけ、それなりに満足していた。

とはいえ、昔、味わったような「ノックアウトされるような感動」が無かったのも事実だ。変な話、自分の舌が肥えてきちゃったのかと図々しく解釈していたのだが、今回、香味屋に出かけて久しぶりに「ノックアウト」された。

いやあ、ウマかった。あくまで個人的な主観だが、官能的、感動的だった。私が認識していた「ニッポンの洋食」という概念が根っこからひっくり返るぐらいだった。

どんなシチュエーションのどんな客の舌だって満足させそうな感じ。でも、さっき書いた「ラブラブミーティング」とか「ワルワルミーティング」には、やっぱり使って欲しくない。

邪念とともに味わうにはもったいない。ジンワリじっくり味わいたい。黙ってニンマリしながら食べ続けたい感じ。

ラブラブな男女の場合には、何度も肉体関係を交わした段階のカップルなら良いが、ハラハラドキドキしてる段階の奴らは、行っちゃダメだと思う。凄い暴論だ・・・。




上から順にエスカルゴ、カニコロッケ(小サイズ)、タンシチューだ。デミグラスソース万歳だ。コロッケに付いてきたタルタルソーズもマンセー!!

得体の知れない料理だったはずの西洋料理を日本人がウットリする作品にアレンジしちゃうわが国近代黎明期のコックさんの感性につくづく感心する。

絶品だったのはビーフカツレツ。ビフカツだ。ステーキを蔑視するつもりはないが、単なるステーキとは味の複雑さ加減が段違いだ。

料理なんてものは、良い素材になるべく手を加えずに調理するのが最高だと信じて疑わない私だが、こればかりは白旗をあげたい。


ステーキ肉に衣を軽く付けたうえで、焼き加減を自由自在に操り、特製デミソースで食べる。活字にすると、まどろっこしい感じだが、まさに絶品。バンザイ三唱だ。

80歳で亡くなるまで肉好きだった祖父が愛したのも当然だろう。浅草生まれのモボだったわけだから、この味にはノックアウトされたはずだ。

まさに文明開化、近代化の味がした。

食べ物ひとつでいろんなことを感じた。ウマいものを食べることは、やはり人間の心を豊かにする崇高な行為だ。ちょっと大袈裟か。

ひょんなことで祖父の思い出も甦ったから実に有意義な食事だった。いつか、このビフカツを墓前に供えてみたいと本気で思った。どうせなら出来たてアツアツを持っていけたら素敵だ。

そういう突飛なことを考えてばかりいる日々だ。

2011年9月7日水曜日

ベタベタな食べ物

最近、このブログとは別に内緒のブログをシコシコ書いたりしている。あくまで自分用だ。結構面白い。シャレにならない話や絶対に明かせない話や、罵詈雑言なんかも書いている。

モノを書くことは時にストレス発散になったり、自己分析になったりするからそれなりに意味がある。

昔の人達が総じて日記を残していたのもその辺が理由なんだろう。

今日は、ちょっと悪口系の話を書く。とはいえ、毎日数百人が見てくださっているこのブログで極端なことは書きにくいので、チョロっとしたテーマだ。

韓流ドラマの垂れ流しに抗議する運動が広がっている。確かに韓流韓流と騒ぎすぎだ。私も全然そちらには興味がないので、気持ちは分からなくはないが、デモまでする話だろうか。

馬鹿みたいだ。

見なければいい。私自身、アナログ放送が終わって以来、ほとんどテレビは見なくなってしまった。いや、先日終了したNHKのドロドロ向田邦子ドラマ「胡桃の部屋」だけは欠かさず見た。実に息苦しい作品だった。

話がそれた。韓流ドラマだ。

以前も、韓流ドラマや映画、あちらさんの歌手の歌ってる番組はさっさとチャンネルを変えていた。

興味がなければ無視すればいい。過剰に騒ぐのもおかしな話。韓国だから大騒ぎして、なんでアメリカ映画だらけのテレビの映画番組を批判する人がいないのか、それ自体が不自然だろう。

そうはいっても、確かにここ数年の韓流ブームをあおるマスコミの姿勢は気持ち悪い。嫌悪感を強める人が増えても仕方がない。

さて本題。韓流うんぬんよりも批判すべきものが私の頭の中に広がっている。今日はそれを書いてみたかった。

全然脈略がなくてスイマセンが、言いたいことはこれ。

「韓流バッシングするヒマがあったら、つけ麺が威張ってる変な風潮を叩け!」。

これに尽きる。

つけ麺ファンの方、すいません。あくまで主観です。暴論です。

いつからだろうか。つけ麺とやらが偉そうに真っ当な食べ物みたいな存在になってきたのは。どうにも気に入らない。

じゃあ、喰わなきゃいいだろうと言われそうだが、その通りです。でも、たまに間違って食べてしまって後悔ばかりしている。

会社の裏側、真隣につけ麺屋ができた。徒歩2秒だからさすがに行ってみた。マズいんだなあこれが。

うどんだかなんだか分からない麺と変な汁が出てきた。この汁が得体の知れない匂いと味。ベタベタ。

絶対おかしなものを混ぜて作ってるんだと思う。何かの死体とか。違ってたらスイマセン。まあ、鶏ガラだろうが、魚の出汁だろうが、死体は死体だ。

別の日、自宅から歩いて3分の所に出来たつけ麺屋に行ってみた。物凄く空腹だったので、麺大盛りで注文。

たかだかラーメン屋さんで待つこと20分ほど。出てきたのは人を小馬鹿にしたような大量のうどんのような麺とこれまた得体の知れない汁。

どぶ水を汲んできたみたいな色の汁に変な麺をつけて食べるわけだ。どぶ水を少しすすってみた。ゲって感じ。変な酸味と変な臭みと変な脂分だけで構成されている。

麺をつけて食べた。麺で中和されてもマズくて仕方がない。割スープとか言うポットがあったので、まずいドブ水を薄めてみた。

再度、麺をつけて食べた。マズい。つけ合わせのチャーシューを食べた。ベタベタベチョベチョ。こんな食べ物を平気で金取って客に出す神経が知れない。間接的な人殺しじゃないだろうか。

昔、大学の保健体育の授業で「夫を早死にさせる10ヶ条」みたいなチンケな話を教わったが、要は不健康なものを食わせてストレスを溜めさせれば、とっとと死んじゃうという話。

そう考えると、ベタベタベチョベチョした得体の知れないものを出して、客をイライラさせる店は、充分に殺意を持っているという理屈になる。ああ恐ろしい。

いつから日本のラーメンはベタベタになったんだろう。つけ麺に限らず、ラーメンもベトベトしたのが多すぎる。そっちが今は主流なんだろうか。いくら若者の味覚に合わせると言っても極端に過ぎはしないか。

良識のある中年達でベタベタ、ベトベトな麺類を排除するような国民運動が盛り上がるのなら私も喜んでデモにだって参加したい。

2011年9月5日月曜日

暴飲暴食の日々

夏バテで食欲がないという状況は私には無縁だ。昔から夏に太ることが多い。不思議だ。

最近、というか、この夏は暴飲暴食の夏だった気がする。

毎年欠かさず受けている胃と大腸の内視鏡検査を9月1日に予定していたため、8月中は何も気にせずガンガンいってみた。

その上で、検査結果がどう出るか、酷使した状態で検査されたほうが何かと建設的?だと思って過ごしてみた。

いくつか例を挙げよう。

まずは、ウナギのドカ食いからだ。たまに行きたくなる日本橋本町の「大江戸」に行った時の話。

この店の良さは、ストイックなウナギ専門店と違って、そこそこ楽しいツマミが揃っている点にある。

この日もイカとこのわたの和え物、アンキモの山椒煮、いくら、ハモの湯引きなんぞをつまみにビールから冷酒へ。アレコレ頼んでグビグビ。

その手のチョロチョロしたつまみのほかに「スーパー酒肴」として登場したのが白焼きだ。


わさび醤油でぱくっ。ウマウマだ。口に広がる脂を辛口の冷酒で流す。至福の瞬間だ。

冷酒のつまみとして私の中では昔からナンバー1の位置付け。その他の珍味達も食べているから、腹の加減もいい感じに収まってきた。

そうはいっても、肝心の鰻重を食べないとダメだろう。全裸の女性相手にAとBだけでCに至らないような話だ(隠語?が古くて誠にスイマセン)。


この日の鰻重は奮発して「極上」という最大級のものを頼んだ。鰻が3匹だ。ご飯なんかまるで見えない。おまけに鰻の端っこは折り返さないとお重に入りきらない。

食べ応えバツグンだ。タレも甘すぎず、ウナギの味わいがちゃんと引き出されている。

冷めないようにお重のフタを開け閉めしながら、鰻だけをつまんで冷酒グビグビを続行。意地汚いオヤジみたいな酒の呑み方ではある。

鰻が最後の一匹になったら、ご飯もかっ込む。鰻のタレと白米の相性は、史上最高、無敵の組み合わせだろう。

私のいけないところは、同行者が残したご飯を平然ともらってバクバク食べてしまうところだ。「ウナギタレ飯」だったらエンドレスで食べられる。

膨満感バリバリ。

続いては、ヘルシーフードとしてのイメージがある蕎麦屋での話。

この日出かけたのは、麻布十番の更科堀井。
蕎麦焼酎の蕎麦湯割りが絶品だという情報を得たので、いそいそと行ってみた。


この店もつまみが充実しているのがよい。ストイックな姿勢を貫いて蕎麦以外には味噌ぐらいしか置いていない店が珍しくないが、あの手の気取った?店は苦手な私には実に居心地がよい。

鯖のマリネ。野菜のゼリー寄せ、枝豆、そばがきをつまみにドロリとした蕎麦湯で割った焼酎をグビグビ。絶品だ。

鴨焼きも、テーブルの上で、鉄板焼き風に自分でジュージュー焼く。楽しいし、ウマい。

そして蕎麦登場。普通のもりそば(せいろ)、はかなく白い更科そば、太めの田舎そば、そして更科にシソを混ぜ込んである変わりそば。4種類が用意されていた。

結局、4種類とも食べた。食い過ぎだ。蕎麦屋で食事して、その後数時間にわたって膨満感が続くのは異常だ。

その次は、浜松町で旧友が営む「おでん国見」にて。おでんに目も暮れず、お店自慢の沖縄料理を堪能。

ニンジンシリシリをちょろっと、ゴーヤチャンプルを少し、豚足唐揚げを頬ばり、ササミキムチ和えをがっつり食べて、ササミ梅キュウリ和えもしっかり食べて、ソーキそばを半分ぐらい食べて、ソーメンチャンプルーをがっつり食べて、もずくの天ぷらも食べた。

胸焼け太郎。


そして、銀座の寿司屋「さ久ら」では、今年初モノの生イクラをつまみでブリッっと食べて、その後酢飯の小どんぶりに再度イクラをドカっと入れて味わった。


ついでに、たまたま捌いていた現場に遭遇したので、大間産本マグロを写真で写ってるブロックまるごと全部買い上げて、1時間かけて食べ尽くした。

それはさすがに大ウソです。

そして翌日、そして、胃と大腸の内視鏡検査に行った。

結果は、ここ数年の中ではもっとも良い状態だとのこと。果たしてそれでいいのだろうか。いいのだろう。この程度の食い散らかしは屁のカッパだということが証明された。

検査は午後早めに終了。朝飯抜きで空腹だったから、会社に戻る途中でホテルグランドパレスで「ノーポリープ祝勝会」だ。

生ビール片手にランチビュッフェ。スモークサーモン、ローストビーフ、酢豚、魚のフライにタルタルソースべっとり、クリームパスタにグラタンを食べる。まるでお子さまランチのような食べ合わせだ。

よせばいいのに、ビュッフェと別に名物のピラフを単品で注文。これも完食。そしてデザートは再びクリームパスタだ。

野菜のやの字も無い。胃腸に問題がない以上、それでOKだろう。

ここまで書いた内容は、8月後半のとある一週間という短いスパンで展開した食べ散らかしだ。

まだまだ頑張っている自分を誉めてやりたくなった。

そして食欲の秋が始まる・・・・。

2011年9月2日金曜日

活字の影響 人たらし

四半世紀近くにわたって活字商売をしていると、活字が及ぼす影響の大きさを思い知らされることも多い。

紙にそれっぽく活字で印刷されていると、執筆した人間の意思を超えて、意外な場面で意外な解釈なんかをされてしまうこともある。

紙だけでなく、最近ではネットの世界も同様だろう。レイアウト、見せ方がそれっぽく整っていると、闇雲にその情報を受け止めてしまったりする。

このサイト、ちょっと覗いていただきたい。

http://kyoko-np.net/2011081501.html

次のNHK大河ドラマの内容に関する「報道」だ。報道記事っぽく体裁が整えられていると信じちゃう人もいる。

私にこのサイトを教えてくれた人も素直に記事内容を信じたらしい。活字の威力おそるべしだ。

なんでこんなことを書き始めたかというと、ひょんなことで私が書いたブログの内容が一部に迷惑をかけてしまったようなので自戒と反省をせねばと思ったからだ。

7月にパリで靴を買いまくった際に、イタリアの名門・タニノクリスチーが廃業間近だという内容を書いた。あくまで現地の店員からの伝聞で、断定した記述をしたわけではないが、見る人が見れば気になる話だろう。

こんな感じだ。

http://tanino.ldblog.jp/archives/2988325.html

結論的にはグレーな部分もあるみたいだが、人騒がせだったことは確かだ。反省します。

ということで話題を変える。

活字商売をしてきたうえで、思い返せば、そこそこトラブルにもぶつかった。現場にいた頃は、記事内容に関する抗議やクレームも随分受けた。馴れない頃は胃が痛くなったが、馴れてしまうと日常的な業務のひとつみたいになった。

純粋な間違いなら素直に詫びて訂正することが肝心だし、意見の違いや、立場の違いによる食い違いなら双方で前向きに議論するしかない。

なかには一方的に強硬な抗議を繰り広げる人や団体もあるから困る。1枚に一文字づつ講義内容を書いた紙を何十枚も延々とFAXされたこともあるし、そりゃないぜって言いたくなる脅しをネチネチやられたこともある。

「注射一本でラクにしてやろうか、こら!」って言われたこともある。反則だろう。そういう言い方をされるとさすがにビビる。

面白いもので、誠実に対応しようとすると、相手をオチョくるつもりは全然無いのだが、「僕は注射が苦手なんですよ」とか答えて相手を一層怒らせてしまったりした。

ある時は、甲子園の21世紀枠での出場校を批判的に取り上げたら、猛烈な抗議を受けた。その地域でわが社の商品の不買運動をすると某団体から大真面目に言われた。

高校生のクラブ活動とはいえ、予選を勝ち抜いて出場権を得るのがルールであって、本来出られないはずの高校が得意になって出場するのは違和感があるという内容の話を書いた。

あくまで勝ち負けを知ることも教育上大切なことだという趣旨だったのだが、怒ってしまった人々を納得させるのはなかなか難しい。

近頃の小学生の運動会では、徒競走も優劣を決めずに最後はみんなで手をつないでゴールするというバカげた話もある。そういう不気味な横並びの弊害と優勝劣敗の原則を教えることも大事だろうと書いたのだが、話が全然かみ合わなかった。

別な時には、法律上の大きなトピックをすっぱ抜いた形になって、某中央省庁と大モメになったこともある。魑魅魍魎の集団だけにあの手この手でいたぶられた。

で、結局、最後は霞ヶ関に呼ばれた。威圧感丸出しの局長室に入り、どんな展開になるのかと力んで待機していたら意外な展開。

局長サマから直々に、こちらの報道内容の正しさを確認され、その後の向こうの対応について謝罪を受けた。

一見、こう書くと、さぞこっちの正義が勝ったみたいな印象を与えそうだが、実はそんな格好良い話ではない。実は相手の思うツボだったりする。

肩に力を入れてその場に臨場したのに、予想外にこっちがニッコリしちゃう対応をされた場合、人間の心理ってどうなるだろうか。

答えは簡単。安堵したついでに簡単にほだされます。ほだされちゃったら、その後は無意識のうちに相手側にトンがった対応が出来にくくなる。いわば懐柔策にはまっちゃうという流れ。

日本の官僚機構が記者クラブ制度を上手に使ってウルサイはずのマスコミを囲い込んできたのは、結局はそういう「人たらし」みたいな懐柔策の積み上げなんだろう。

野田新首相が財務省の操り人形とか言われるように、政治家が役所の代弁者になってしまうのも結局、巧妙な人たらしの成せるワザだろう。

どうせなら私も他人に対して「人たらし」の能力が発揮できる人になってみたい。得意技に出来たら色々と楽しそうだ。

そうはいっても「女たらし」ですらうまく行かないのだから、なかなかハードルは高そうだ。