2015年9月30日水曜日

イラつく


「富豪記者サンも怒ることあるんですか?」。そんなことを言われることがある。一応、穏やかなフリをして過ごしているから、私が人並み以上に短気なことはバレないことが多い。

誰かの胸ぐらを掴んだり、大声で怒鳴り散らすことは滅多にない。そんなことをしたい時もあるが、あれはあれで異様にカッチョ悪い行動なのでガマンガマンである。

女性や部下など、体力的や地位的に抵抗できない相手に怒りまくったところでみっともないだけだ。こっちのエネルギーが無駄に消費されてバカみたいである。

とはいえ、最近はイライラする場面が増えてきた。これも加齢だろうか。大声を出すわけではないが、しょっちゅう怒っている。

同じことを何度も言わせる、同じことを何度も確認する、人の話を聞いていない、空気が読めない、距離感に鈍感等々。こういう類いのバカに遭遇すると無性にイライラする。

短気は損気。ウン十年前から自分に言い聞かせているがダメである。

先日も、深夜のタクシーで、こっちの指示をいちいち復唱して「・・・でよろしいんですね?」と聞いてくる運転手に遭遇した。

「二つ目の信号を右、でよろしんですね?」と常にこちらに相づちを求める。もちろん、常識の範囲なら私だって気にしないが、その人はちょっと異常なほどしつこかった。

「今そう言ったろう?あなたバカなんですか?」とはさすがに言えない。あまりにしつこいので相づちをうたずに聞こえよがしに溜息をついてみた。

すると、その後はまったく相づちを求めてこない。溜息一発で改めるってことは本人もやましい気持ちがあるわけだろう。それがまた無性に腹が立った。

あの日のイライラで髪の毛は100本ぐらい抜けたかもしれない。たまったもんではない。

別な日、とある料理屋で一人しっぽり熱燗をグビグビしていた時のこと。板前さんとの世間話の流れで隣の席に座るオバサンと少し言葉を交わすようになった。

それはそれで珍しいことではないが、そのオバサンのお酌攻撃が尋常ではなかった。最初は板前さんにお酌しまくっていたオバサン、次なるターゲットは私だ。

自分はろくすっぽ飲んでいないのにお銚子を追加注文しまくる。板さんと私に酌をするためだけに注文している。

私だって一応、紳士である。最初のうちは低姿勢に有り難がって、返杯のお酌に励んだりした。

でも、あまりにしつこいので、「こちらはこちらのペースでやりますから・・・」とやんわりお断りしてみた。

それでもお酌攻撃をやめようとしない。そんな場所であからさまに不機嫌になってもヤボだし、結局、御勘定して店を出るしか方法はない。最悪だ。

「やんわり」が通じない人はつくづく苦手だ。違う星の人かと思う。本人は何も気にせず御機嫌なんだからタチが悪い。

顔で笑って心で怒る。思えばそんな場面がやたらと多い気がする。虫の居所が悪い日は、表面上は普通に装っていても、内面はグチャグチャで、なんでもかんでも腹を立てている。

「よろしかったですか?」「なるほどですね」などの変な日本語を聞かされると、自分のことを棚に上げてカチンと来るし、FacebookなどのSNSで感情的で中途半端な政治論なんかを読まされるとイラつく。

のろのろ運転しているクルマに腹が立つし、イヤホンだかヘッドホンつけて歩いているヤツにも腹が立つ。

凄い短いスカートを自分の意思ではいているくせにパンチラを異様に防御するヤツもイラつく。ついでにいえば私の意のままになってくれない人にも腹が立つ!?

いかんいかん、脱線しそうだ。

ネット上にあふれる泣ける話とか感動する話なんかも、ほぼ間違いなく作り話みたいなやつが多くないだろうか。道徳心や公共心のお節介な押しつけに思えちゃうとイラつく。

ここぞという場面でCMに入るテレビのあざとさもイラつくので見たい番組はすべて録画して見るし、「檀れい」が出てくると相変わらずムカつく。

50歳を迎えるにあたり、「ハーフセンチュリーですね」とか言われてニッコリ顔で「ありがとう」と返事するくせに、腹の中では「半世紀と言えばいいだろバカ!」と叫んでいたりする。

偏屈なんだろうか。もっと大らかにならないとストレスが溜まって髪も抜け落ちて老化に拍車がかかってしまう。反省反省。

ちなみに「うつ状態」が進行していく過程でイライラが爆発することがあるらしい。しょっちゅうイライラしている私も黄色信号なのだろうか。男にも更年期があるらしいからそっちの問題かもしれない。

で、グダグダ書き殴ってしまったが、オチが思いつかない。これまたイラつく。

旅にでも出ようと思う。

2015年9月28日月曜日

繊細な味 微妙な違い


和食ばかり食べている。世界中の料理が集まる東京に暮らしているのにヨソの国の料理にはあまり興味が湧かない。

昔はイタリアンでもフレンチでもエスニックでも何でも喜んで食べていたが、いつの頃からか和食一辺倒になってきた。

和食は世界遺産に登録されるほど世界的に価値のあるものである。真っ当な和食をせっせと食べることは世界遺産を日常的に身体に吸収しているわけだ。なんとも贅沢な話である。

和食の魅力は繊細さに尽きる。ダシの微妙な加減や食感一つとっても匠の技が活かされている。微妙な部分に魂が込められているのがポイントだろう。


小皿を並べた画像はイクラの醬油漬けの食感の変化を“実験”させてもらった時のもの。まさに「微妙」を体感させてもらった。

生のイクラは今の時期だけのお楽しみである。生イクラに醬油をチロっと垂らして食べるのが大好きなのだが、この日は作りたての醬油漬けイクラを味わいたい気分だった。

場所はいつもの高田馬場・鮨源。職人さんは作りたてと作り置きの微妙な違いを解説しようと時系列に4段階ほど異なるイクラの醬油漬けを用意してくれた。

面白いもので、出汁醬油に漬け込まれたイクラはどの段階のモノでも味は一緒。この「一定の味」に仕上げること自体が素人から見れば凄いことである。

問題は味ではない。食感が4段階それぞれ微妙に違う。素人の私でもその違いをしっかり認識できたほどだった。

イクラの表皮の食感が微妙に違う。職人さんが一番ダメだというイクラだって普通に美味しい。でも段階ごとに比べると、作りたてのなめらかな食感は他を圧倒する。

一緒に並べて比べなければピンとこないほど微妙な違いなのだが、その部分にこだわるところが和食の醍醐味なのだろう。

微妙な違い。この感じ方は極めて個人差が大きい。和食の店をウマいのマズいの批評するのは簡単だが、微妙な加減が大前提だから、一度食べたぐらいで店の良し悪しを決めつけちゃうのは賢明ではない。

それなりの水準の和食店でランチを一度食べたぐらいでネットで悪評を晒すのは反則だと思う。

話は変わる。先日、「初めての店探検」をしようと銀座の路地裏に佇む風流な構えの和食店に飛び込みで入ってみた。

時間は夜の9時頃である。お客さんの流れが一段落したタイミングでカウンターに陣取った。

店内の造りも凜としていて絵に描いたような「大人の食事処」である。フムフム、ウマいものが食べられそうだ。

板前さんもこちらの様子をうかがっている。私としてもそれなりに打ち解けないと息苦しいので、プロの客ならでは?の当たり障りなく、かつ、踏み込み過ぎず、出過ぎない程度の自己紹介的な世間話を繰り出す。

料理長さんは40代の真面目そうな人だ。とりあえず刺身と煮物、焼き物と酒の肴になりそうなモノを食べたい旨を伝える。

お燗酒片手に真っ当な和食屋さんのちょっぴり背筋を伸ばしたくなる空気を楽しむ。こういう時間をボケっと楽しめることが大人の幸せだ。若い時は居心地が悪いだけだった。

で、あれこれ食べてみた。もちろん、長く商売を続けている真っ当な店だからマズいはずはない。ただ、ちょっと物足りない。健康には良いのだろうが、全体的に味が弱い。

それなりに打ち解けてきた頃合いを見て料理長さんと少し無駄話を交わしたのだが、やはり酒が苦手な職人さんだった。

酒を飲まない職人さんや板前さんの味は、やはり酒を飲みながら食事を楽しみたい人間からすれば物足りない。一種の方程式だ。

もちろん、ちょっとの違いなんだと思う。それこそ「微妙な差」である。でも、その微妙な距離がとてつもなく大きな好みの差を生むのも確かだ。

別な日、銀座6丁目の「三亀」に出向く。少し前の初訪問をこのブログでも書いた。“裏を返さないのは客の恥”である。

前回と違う料理をあれこれ頼んだ。どれもとてもウマかった。鯛の兜の煮物など、見た目は真っ黒でしょっぱそうなのだが、実にいい塩梅の味付け。正しい東京料理である。

「ぜんまいの煮物」なる野菜嫌いの私にとっては気が狂ったかのような一品も注文した。前回、完璧なまでのダシの風味にノックアウトされたから、肉でも魚でもない素っ気ないぜんまいがどんな味付けで食べられるのか期待していた。

結果は大正解。ぜんまいなどという葉っぱだか茎だか分かんないヘンテコなものを物凄く美味しく感じたわけだから、和食の奥深さを思い知った感じだ。

なんだか最近はジャンク系より繊細な味付けの和食が毎晩のように食べたくなる。食欲の秋なのだろうか。いや、きっと心が繊細になっているのだろう。

さすがにそれはウソです。

2015年9月25日金曜日

飲み屋の会話


酒場で聞こえてくる隣の席の会話に聞き入ってしまうことがある。盗み聞きではないが、聞き耳を立てるという意味では趣味の良い話ではない。でも、聞こえてきちゃうんだから仕方ない。


俗に「人のふり見て~~」と言われるが、まさにその通りである。酒が入った男のクドい話やしつこい話を聞かされる方は堪ったものではない。害悪である。

部下に対してやたらとエバるアホ。小さな話を武勇伝に仕立てて自慢ばかりしているバカ、下品な口説き文句を連発するスケベ・・・等々、巷には恥ずかしい面々があふれている。

そんな書き方をすると、オレはそんなアホバカスケベじゃないぜ!って言っているみたいだが、私だって酔っぱらったら似たようなものである。

だから、一生懸命にそんな男達の会話に聞き耳を立てて反面教師にしようと思っている。

銀座あたりで耳にする綺麗なオネエサンと鼻の下を伸ばしたオッサンの会話などは実に勉強?になる。

少なくとも自分はそんな言動をしないように気を引き締めたくなる。そうは言っても酒は別名が“キチガイ水”である。思い出せない自分の言動のなかには赤面大爆発もあるのだろう。

さてさて、夜の殿方達の会話だった。

「いろんなオンナがオレを誘ってくるんだよ」

先日、ひとりで寿司屋でグダグダ飲んでいた時に聞こえてきた話だ。隣に座っていた金持ちそうなオッサン。連れの女性にグイグイ言い寄っていたのに、いきなりそんなことを言いだした。どうやら「魅力的な自分」をアピールし始めたようだ。

おいおい、それってモテ自慢か?と突っ込みたくなった。でも「中条きよし」のような雰囲気の男の発言ならともかく、その男の風貌は「太った松山千春」である。

おまけに「いろんなオンナの誘い」とは水商売方面からの「営業」のことを言っているらしい。なんともビミョーな自信過剰がイタい感じである。

オネエサン達の営業だろうと、彼にとっては関係ないみたいだ。まさに ♪それでも恋は恋♪ である。でも、なんだかんだ言って誘われない人より彼がモテているのは事実である。一人でシンミリ飲んでいた私のほうがダメである。

次。別な日、某料理屋さんのカウンターで聞こえてきた話。金沢出張の予定がある社長サンらしきオジサマ。同伴出勤相手のオネエサン相手に金沢の良さを解説。そして誘う。「一緒に行こう」としつこく誘う。

「だって平日でしょ。無理ですよ」。オネエサンは残念そうなふりをしながら答える。それに対する社長サンの返事が凄い。

「絶対に変なことしないから大丈夫だよ」。

まれにみる支離滅裂である。オネエサンは平日に休めませんと言っただけなのに、まるで無関係な切り返しである。セックスする、しないという話題ではないはずである。

ただのトンチンカンだ。頭の中が「変なこと」でいっぱいなんだろう。社長サンなりに準備していた回答を違う場面で先走って使ってしまったみたいだ。

でも、フラれるのが怖くて女性を誘わずに一人シンミリ飲んでいた私のほうがダメである。

ほかにも「キミは僕に選ばれたんだ」「キミの人生を変えてみせよう」等々、今までいろんなファンタジスタ?達の会話に聞き耳を立ててきた。

うまくコトが運んだ人はいるのだろうか。いるわけないか。


女性陣もなかなかである。「楽しい」「嬉しい」「幸せ」を連発する女性はキレ者であり策士だと思う。

「楽しい」「嬉しい」「幸せ」。これらのフレーズを笑顔で言われたら男達はウキウキしちゃう。連発されたら舞い上がるヤツだっているだろう。

「そんなこと言ってもらえて凄く幸せ~」、「〇×さんといるととっても楽しい!」。こんなことを潤んだ瞳で言われ続けたらヒヒオヤジ達はウッシシ気分になる。

大いなる勘違いが始まるわけだ。

「あのコ、ワシに気があるんちゃうやろか」

「何とかなるんちゃうやろか」

そうした「ちゃうやろかシンドローム」が日本中の夜のネオン街を覆っているわけだ。

でも、結論としては「そんなんちゃうから」である。残念ながら現実の世界は男達に冷たい。それが現実である。

「嬉しい」「楽しい」「幸せ」。残念ながら、どれも相手に対する好意を表す意味ではない。

「社長サンのこと、気になってます」。これも勘違いしやすいが、「気になる」の意味は好意とは限らない。ゴキブリが出るか出ないかが気になるという使い方だってある。

「社長サンのこと、昨日も考えてたんです」。これも言われたほうは舞い上がりそうだ。でも、社長サンの存在が面倒だと考えていただけだったりする。

こんなことばかり書いていると憂鬱になるから適当にしよう。

とはいえ、宝くじだって買わなければ当たらない。行動することは良いことである。というわけで、世の男たちは夜ごとネオン街でいろんな夢を見る。

2015年9月18日金曜日

ハマショー師匠とか永ちゃんとか


先日、敬愛するハマショー師匠がNHKの「SONGS」という番組で特集された。テレビの前で正座しながらじっくり見た。

http://news.livedoor.com/article/detail/10533371/

62歳である。もう初老である。そう考えたら充分に若々しいのだが、ファン歴36年の私から見れば、その“熟成”ぶりが妙に感慨深かった。

長渕剛や桑田佳祐もまもなく60歳を迎える。佐野元春なんかも同じ年だったはずだ。

ちなみに矢沢永吉は66歳だとか。もうすぐ70である。いまもCMで「やっちゃいな!」などと挑発的な発言をしている。

あの突っ張った存在感は好き嫌いに関係なく世の中高年にとって一種の「光り」のようなものだろう。

本人にとっては死ぬまで「永ちゃん」でいることは大変そうだが、すべての年下のオジサンのためにもブレずに踏ん張って欲しいものだ。

さて、ハマショー師匠、長渕剛、桑田佳祐が世に出たのは1976~78年である。当時、世の中を席巻していたのはピンクレディーだった。

キャンディースも現役だった。まだ百恵ちゃんが「バカにしないでよ~」って歌ってたし、あの畑中葉子がまだ清純な顔でカナダからの手紙を熱唱していた頃だ。その後は突然、清純派の仮面を脱ぎ捨てて世の中をビックリさせた。



おっと、いけない。畑中葉子物語を書きそうになってしまった。

いずれにせよ大昔である。そんな大昔から一貫してファンを心酔させる音楽を世に送り続けてきたのだからオジサマシンガー達の現役バリバリな感じは凄いことだと思う。

ハマショー師匠の音楽を中学生の頃から聴き込んでいた私だが、長年のファン歴の中で一番印象的だったのが10年前のライブだ。

私自身、CDやDVDは欠かすことなくチェックしていたが、ライブに関してはナゼか20年近くご無沙汰していた。

その20年の年月は私にとって若者から中年に至る期間だった。そのせいもあって、ステージに立つハマショー師匠を見た途端、ふいに20年分の葛藤がグワーっと押し寄せ、おまけに中学生の頃からの自分史みたいなものが走馬燈のように頭の中をよぎった。

オープニングの静かなアカペラが終わり、ノリノリの曲のイントロで会場は総立ち。当然、最前列にいた私も飛び跳ねるように立ち上がり拳をかかげてシャウトしようとしたのだが、なぜか声が出ない。

恥ずかしながら号泣していた。いい歳した大人の男なのに一人でオイオイ泣いてしまった。歌いたくてもまったく声にならず、身体の中から得体の知れない感情が沸き上がってきた。経験したことのない不思議な感覚だった。

音楽が持つ不思議な力をまざまざと実感した瞬間だった。

少年時代には少年の心に刺さる歌があり、大人になってからも、その年代ごとの心理状態に寄り添うような歌がある。

誰もが音楽に助けられたり、勇気づけられたり、慰められたりしている。意識するしないにかかわらず、そんな魔法のような力が音楽にはある。

以前、30過ぎぐらいの若い女性がアムロちゃんのライブで泣いたという話を聞いた。その人にすれば少女の頃から大人になっていく過程で常に流れていた音楽だったのだろう。

「ハマショーで号泣」というちょっと恥ずかしい体験のおかげで「アムロで号泣」という女性の心理が理解できたから良しとしよう。

人間、いくつになってもいろんな葛藤がある。私などは「不惑」といわれる40歳を迎えても惑ってばかりだった。

もうすぐ50歳の大台到達だが、今度は惑っているのか達観しているのか分からない迷走状態の中で生きている。

大人にもいろいろある。立派な大人もいればダメな大人もいる。

歌の世界は有難いもので、ダメな大人をイヤしてくれたり慰めてくれる歌が多い。

すぎもとまさとの「吾亦紅」あたりは、ダメなオッサンにとってはシビれる歌詞である。

http://kashinavi.com/song_view.html?20908

ハマショー師匠の話だったのに「すぎもとまさと」に飛んじゃうあたりがトンチンカンである。。。

さてさて、世に出た当時は若者の代弁者みたいな位置付けだったミュージシャン達も年を重ねることで表現する世界が変わる。どんどん大人向きの歌を作ってもらいたい。

いま世の中の潮流は「幼稚化」である。高齢化が進むなかで昔より若々しい中高年や老人が世の中にあふれている。

初老になると分別顔して引っ込んじゃうのが今までの社会の常識だったが、これからは中高年以降の人間の幼稚化がもっともっと進む。是か非かという次元ではなく時代の必然だ。

前半で書いてきたようなミュージシャン達を第一世代として、第二世代の人気ミュージシャン達だって40代~50代のオッサンがゴロゴロいる。

AKBとかのアイドル商法やアニソンばかりが話題になる日本の音楽シーンはちっとも面白くない。中高年以降の大人向けの音楽がもっともっと世の中を席巻してほしい。

2015年9月16日水曜日

女犯と邪淫


先週、姦通罪の話を書いたが、セクシャルなテーマを文化人類学的?に考察するのが好きな私としては、「下ネタ系の罪」をもっと掘り下げてみたくなった。

自宅にある数々の下ネタ文化系?図書はもちろん、ネット上に飛び交うさまざまな情報をせっせと読みあさってみた。

なかなか面白かった。それを知って何になるなどとヤボなことは言わないでいただきたい。

下ネタ系の罪には「はずかしめ」、すなわち恥辱刑というジャンルの罰がくだされることが多かったらしい。世界的にそうした傾向があったようだ。

わが国でも江戸時代までは「晒し(さらし)刑」があった。切られた首を晒す、いわゆる「晒し首」が究極だが、下ネタ系の場合、命を奪わない「晒し刑」も一般的だったようだ。

日本橋のど真ん中、野村證券本社の前あたりに今も窪地状の広場がある。あの場所が「晒し場」だったと知って結構ビックリした。

「たいめいけん」などに行く時に通っていた場所だ。シュールな歴史の現場だったわけだ。

確かに人前にさらす以上、人通りが多い場所じゃなければ意味はない。当時の日本橋はおそらく日本中でもっとも人通りが多かった。全国から人が集まる玄関口だから見せしめ効果は凄かったはずだ。

晒し刑の主役?は心中未遂だったらしい。当時の流行だった心中を厳しく戒めたい幕府としては、生き残りを晒し刑にすることで予防策にしたわけだ。

戒律に背いて女性と関係を持った僧侶も晒される対象だった。きっと、口の悪い江戸っ子達にさんざん罵詈雑言を浴びせられたのだろう。

だいたい、戒律を破ってまでムフフな行為に励んでいた以上、その坊さんはモテ男である。当時の江戸は日本中の武士が単身赴任していた街だから、女っ気のない武士もゴマンといたはずだ。ヒガミ根性で罵倒するヤツも多かったはずだ。

晒された坊さんはキツかっただろうなあ。モテる男として生きてきた私(ウソです)としては江戸時代の僧侶に生まれなくて良かったと心から思う。

さて、晒し刑の現場を必死に想像してしまう私の変態ぶりはさておき、実は古い時代の「言葉の迫力」こそが今日書きたかったテーマである。

姦通罪の「姦通」という文字ヅラもおどろおどろしくて凄いが、晒し刑にされた坊さん達の罪状を表す言葉が何ともエロティックだ。

「女犯」。文字だけみると何のことはない。読み方が艶っぽい。「にょぼん」と読む。ニョボンである。ニョボ~ンと叫びたくなる。

どこか淫靡な響きである。私が欲求不満なだけだろうか。「あいつ、ニョボンらしいぜ」とか人から言われたらちょっとカッコいい。

同じような意味で使われたのが「邪淫」である。これまた文字ヅラからストレートにスケベなイメージが伝わる言葉だ。

「邪」は、よこしまとか道に外れたことの意味であり、「淫」はみだらな色欲を意味する。

「道に外れたみだらな欲望」である。いやはや凄い言葉だ。「あいつ、ジャインらしいよ」とは言われたくない感じだ。

今の時代、セックスのことをエッチと呼び、行為そのものをプレイと称し、バイブレーターもバイブと略しちゃうように、そっち方面の言葉が軽くなっている。今日も冒頭で「下ネタ」などと中途半端に書いてみたが、正しくは「猥褻」である。

あまりにライトな感覚で猥褻方面を語るのは何だか少し物足りない。

文字ヅラが古めかしく、かつハード系なのに現役として使われている言葉は「乱交」「獣姦」「近親相姦」ぐらいだろうか。

個人的には「交尾」という言葉がシンプルな上にも色気をそこはかとなく感じるから好きである。

でも、「交尾してみないか?」と誘ったところで逃げられるのがオチだ。

仕方ないから、遠い目をしながら「邪淫してみないかい?」と言ってみたほうがスマートだろうか。

ただのバカだと思われそうだからヤメておこう。

2015年9月14日月曜日

数寄屋通り 三亀


「あそこに座ってるのが富豪記者よ」

「どれどれ。葉巻くわえているアイツか。ふーん、なるほどねえ」

とある夜、銀座の某クラブで、そんな会話が交わされたらしい。調子よく呑んでいる姿を見知らぬ人に観察されていたようだ。小っ恥ずかしい。

シュっとした表情で田村正和ばりにクールな雰囲気を漂わせていたのなら良いのだが、そんなはずはない。たいていはスケベ満開の顔で過ごしているから実に恥ずかしい話である。

このブログも8年目である。時々、クラブ活動の話も書くので、そっち方面の情報を探している人が割とマメに覗いてくれる。有難い限り。

飲食店からも時々、お褒めの言葉をいただく。このブログを読んだお客さんが訪ねてくることがあるそうで、ちょっとばかし「社会貢献」している気分になる。

好き勝手な雑文といえども、自分自身の行動記録という便利な側面もあって何だかんだと辞めずに続いている。

ラーメンばかり食べている友人が、食べ歩いた歴史をブログ形式にまとめている。センスの無いネーミングはさておき、本人としては、これから食べるラーメンが過去に既に食べたものかを簡単にチェックできて便利なんだとか。


確かに中年になると、自分の行動に関する記憶が日に日に薄らいでいく。記憶を勝手に美化したり、改ざんしたり、それ以前に時系列がメチャクチャになってくる。

「いつかキミをここに連れてきたかったんだよ」。あるレストランで、既に連れてきたことがある女性にそんな発言をして怒られたこともある。

いつか行きたいと思っていた店が過去に訪問済みの店だったこともある。あと10年もしたら着実にボケていそうで恐い。

さて、今日は、初めて訪ねた店の話。銀座の日本料理「三亀」である。不倫小説『失楽園』にも登場した人気のお店だ。

銀座の数寄屋通りに構える店だ。私は10年、いや20年以上前から何となくこの界隈が好きで、このブログでも7年前に「数寄屋通り」を取り上げた。


「三亀」は気軽なカウンターもあって、特別かしこまった日本料理店ではない。そんなに敷居が高いわけではなく、玄関周りの風情も入りにくい雰囲気ではない。

「モノのわかった大人がちゃんとした和食を食べたいときに肩肘張らずに使える感じの店」である。

そういう路線が大好きな私だが、なぜだか一度も入ったことがなかった。店の前はここ10年の間に数百回は通り過ぎたはずである。

で、初めて行ったみた感想は、「とっとと通えば良かった」である。居心地は良いし、お店の人の感じも良いし、食べ物はバッチリだったし、長年、素通りしてきたことが残念である。

完璧にダシの風味が活かされている煮物なんかを味わっていると、つくづく日本料理の美味しさを痛感する。居酒屋や小料理屋が頑張っても簡単には届かない境地だ。

もちろん、コストパフォーマンス的には万人ウケする店ではない。でも、ものは考えようである。よく分かんない味の西洋料理屋でよく分かんないワインを頼まされて、最後までよく分かんない気分でウン万円も払うのなら、正統派日本料理に軍配を上げたい。

とんがって気取っちゃったカッチョイイお寿司屋さんで、よく分かんないウンチクを聞かされてウン万円も払うなら、ドッシリ落ち着いた王道の日本料理を味わっているほうが嬉しい。

「三亀」でノホホンと飲み食いしている時間は、真っ当な料理旅館で美味しい夕飯を食べているような感じだった。実にホッコリした気分に浸れた。

この日は、コースではなく一品料理をあれこれ注文してみた。全部ウマかったので、コース仕立てで全部まかせるのも料理旅館の夕食みたいで悪くないだろう。

カウンターの中の店主は腰掛けているせいで客と目線の高さが同じ。その座った位置がお燗番を兼ねるポジションだから、ゆったりと湯煎する姿を眺めていると、こっちもゆったりした気分になる。

選ばせてくれるぐい呑みには、さりげなく人間国宝の作品も混ざっている。ぐい呑み集めに血眼になった時期もある私にとっては天国みたいな話だ。

ちょこちょこ通ってみたいと思った。

ついでにいえば、数寄屋通りの外れにもう一軒、これまた10年以上前から気になっていたのに訪ねたことのない料理屋さんがあるので、そっちも覗こうと決意した。

しばらくサボっていた「初めての店探検」。やはりマメに動かないと自分のいろんな感覚がなまってしまう。

そこそこ頑張ってみよう。


2015年9月11日金曜日

姦通罪


「そのうち姦通罪も復活しちゃうんじゃないか」。

なんとなく世の中が窮屈になってきたから、そんなセリフを最近何度か口にしている。世の中から大らかさが失われて息苦しくなれば、あながち姦通罪も過去の遺物ではなくなるかもしれない。

「姦通罪」。なんだか文字ヅラが凄い。大迫力である。「姦」という文字を辞書で調べると「よこしま」「女性をおかす」「正道にそむく」といった言葉が並んでいる。

「姦通」は「社会的、道徳的に容認されない不貞行為、性交渉のこと」だとか。

なんだか、そんな言われ方をすると重罪みたいである。

姦通罪を平たく言えば「結婚している人は配偶者以外とセックスすると法律違反で罰します」という話である。

大きなお世話である。そんなことまで国家が介入するのはバカげた話である。

でも、ほんの70年ぐらい前まで我が国にもずーーと姦通罪が適用されていた。現行憲法が誕生する昭和22年まで数百年間は姦通罪が存在していたわけだから、今の「自由」なんて歴史上はヨチヨチ歩きみたいなものである。

姦通罪はイスラム諸国をはじめ近隣では台湾に存在する。韓国は今年になってようやく廃止したが、これまで何度も違憲訴訟が提起されても姦通罪を合憲とする司法判断がくり返し下されてきた。

つくづく姦通罪のある国に生まれないで良かったと思う。私なんかいちいち逮捕されてしまう。ウソです。

欧米諸国に姦通罪があったら、ホワイトハウスでエッチしまくっていたケネディやクリントン、とにかくどこでもエッチしまくっていたイタリアのベルルスコーニあたりの国家元首も現役のまま逮捕されちゃう。

さて、私にとって姦通罪といえば「白仁天」である。昭和のプロ野球で活躍した韓国籍のスター選手である。

日本で引退した後、韓国プロ野球に転じ大活躍していたのだが、ある日飛び込んできたニュースが「白仁天、逮捕」というショッキングなものだった。罪状は姦通罪である。

バリバリ活躍している野球選手が投獄された。おまけに罪状はセックスである。まだ青かった私の衝撃は計り知れなかった。

私にとっては覚えたて?のセックスってそんなに危険を伴うものなのか。私の頭の中はそれ一色になった。大人になっても結婚なんてするもんかと心に誓った。

結婚したら配偶者以外と愛を交わしてはいけない。これって正しいことだが、実際にはどうなんだろう。

人生のまだ序盤戦である20代ぐらいで結婚。その後、半世紀はバリバリ元気で活動するのに、二度と配偶者以外の人と恋愛できない-。これって現実的だろうか。厳しい修行みたいな話にも思える。

そう考えること自体がダメなのだろうか。ダメと言われればダメかもしれないが、聖人君子じゃあるまいし、個人的には無理な話だと感じる。

少なくとも私は、結婚したら神に誓って他の異性には死ぬまで興味を持ちませんと断言できちゃうような人とはお友達にはなりたくない。

人間なんて煩悩あってこそ楽しいわけだし、恋愛をしたい感覚は年齢に関係ない。

姦通罪の話が不倫肯定話に飛躍してしまった。

まあ、闇雲に不倫を肯定したいわけではない。家庭は平和が一番である。なるべくヨソ見はしないほうが賢明だ。

ただ、人生いくつになっても恋心は大事だし、それを悪だとは決めつけられないという話である。

人の心なんて突然どこに転がり出すか分からないし、それを止めるべきかどうかについても正解などない。

悩んだところで結論も正解も出ない。結局はそういうことである。

どういうことだろう。。。

2015年9月9日水曜日

〇〇離れ


タバコや酒を18歳から解禁する動きがあるらしい。アホな話だ。

世の中全体が間延びした昨今、年齢の概念も変わってきている。30歳だろうが70歳だろうが、イマドキの感覚は昭和の頃の8掛けぐらいが妥当だ。

20歳の8掛けは16歳。今でもそんな若者に無制限に酒を飲ませちゃっているのだから、これ以上年齢を引き下げたら大変である。

ちなみに20歳を基準にしている今だって高校を出た18歳や19歳が飲酒喫煙で補導されることはない。昔からの暗黙の了解だ。それでいいと思う。ことさら18歳基準など設ける必要はない。

いろんな思惑があるのだろうが都合の良い時だけ若者におもねる国のいやらしい感じが気持ち悪い。


さてさて、若者といえば最近よく使われるのが「〇〇離れ」という言葉だ。活字離れ、クルマ離れといった場面で使われる。画像はネットからパクリました。すいません!

若者に言わせれば、最初から興味を持っていないのにオトナ達が安易にレッテルを貼っているだけだとか。そもそも近づいてもいないのに「離れ」とか言われて迷惑らしい。

確かにそういう側面もある。郷愁に浸りたいオトナ達が自分たちの価値観を押しつけている部分もあるのだろう。

まあ、そんなことはどうでもいい。

実際に「〇〇離れ」は若者に限らずあらゆる分野で起きている現象だ。

海外旅行離れといった嗜好に関するものから、皇族ジュニア達の学習院離れといったレアな分野まで例を挙げればキリがない。

結婚することで「婚活離れ」や「不摂生離れ」ができたり、離婚による「家庭離れ」というか「嫁離れ」のせいで「ストレス離れ」が達成できる人もいる。

私の場合、家政婦さんのおかげで「風呂掃除離れ」ができたことが近年のトピックスである。家庭離れしていなかった当時は、風呂掃除を必死にやりすぎていつも倒れそうになっていた。今は楽チンである。

さて、一般的にはゴルフ離れ、スキー離れという言葉をよく聞く。そりゃあバブルの頃に比べればレジャー人口が減ったのも当然ではある。

私も若い頃ゴルフにちょっとは首を突っ込んだ。でもとっくの昔にやめてしまった。さんざん人生を棒にふってきたので、いまさら鉄の棒を振り回すつもりはない。

ビール離れ。これは私自身にも当てはまる。真面目な話、マズい生ビールが巷に溢れていることも理由の一つだと思う。

生ビールは店のサーバーをマメに管理しているかどうかで天と地ほど味に差が出る。瓶ビールしか注文しない人が結構いるのも当然だ。

私もマズい生ビールがイヤだから、一時期はハイボールにハマった。しかし、炭酸が抜けちゃったフヌけたハイボールに遭遇することが多く、結局最近はハイボール離れにもなってしまった。

テレビ離れという風潮もある。インターネットをはじめとするメディアの多様化が理由だ。時代の必然だろう。

テレビに関しては「乳首離れ」のほうが個人的にはピンとくる言葉である。

昭和40年代あたりからテレビには「お色気」の要素が増えてきた。ホームドラマの名作「時間ですよ」は銭湯の女湯のヌードシーンがウリだったし、「11PM」でもしょっちゅうオッパイがブルンブルンしていた。

昭和の終わり頃にはエロ路線が大爆発して、20年ぐらい前までは下品な番組がたくさんあった。今では考えられないような乱れようだった。

詳しくは書かないが「ハケ水車」や「催眠術で女性を悶えさせるヤツ」などは全国ネットで放送しちゃダメなレベルだった。

興味のある人はYouTubeで探せば当時の下品番組はゴロゴロ見つかります。

あの頃、若造だった私には天国だった。「ギルガメッシュナイト」も欠かさず見ていた。私がTバックマニアになってしまったのもアノ番組のせいである。でも、子供を持つ親になってみると、あの時代のエロ番組はさすがに子供に見せたくはない。

あの頃の反動なのか今のテレビの真面目さは極端にも思える。乳首はまず映らない。映ったら放送事故などと大げさな言い方をする。

すなわち「乳首離れ」である。昔の低俗ぶりを知る世代から見れば、その豹変ぶりは滑稽である。

話がそれてしまった。

「離れ」の話である。

最近、私自身が感じているのが「執着心離れ」「緊張感離れ」である。どれも人として大事な要素なのだが、どうも最近は自分が緩んでいる気がする。

すぐに「まあいいか」という感覚に陥る。フニャフニャしているから、しょっちゅうモノを忘れるし、ポカだらけである。

これも加齢のせいだろう。良い面もあるが、やはりもっとグイグイ頑張らないといけない。ボケっとしていたら振り込め詐欺にひっかかかるような失態をやらかしかねない。

現状肯定、現状満足も大事だが、それだけだと「向上心離れ」になってしまう。ちゃんと緊張感を持って適度な上昇志向も忘れずに暮らしていこうと思う。

2015年9月7日月曜日

夜の街


「夜のお菓子」といえば「うなぎパイ」である。子供の頃、そのセクシーなキャッチフレーズに動揺した覚えがある。


「夜の〇〇」、「オトナの〇〇」といえば、どこかセクシーな響きがある。

「オトナの夜の〇〇」などと言われると赤面する準備をしたくなる。

始めから話が変な方向に行ってしまった・・・。

今日書きたかったのは「夜の街」についてである。といってもセクシーな話ではない。エロ話を期待させてスイマセン。

私にとって「夜の街」のイメージは「おでん」である。しょっちゅう行くわけではないのに「おでん屋さん=大人の夜の世界」である。


お寿司屋さんや焼鳥屋さん、はたまた大衆酒場や銀座のクラブのほうが出没率は高いのに、たまにしか行かないおでん屋さんに特別な思い入れがある。

実は私はおでんが嫌いだ。野菜が多いし、匂いも独特だし、子供の頃は実家で作られていたおでんを家族の中でただ一人食べなかったぐらい苦手である。

それなのに思い入れがあるのは、若い頃に「しっぽりしたおでん屋で静かに熱燗を楽しむ大人の男」に憧れたからだ。

おでん屋さんならどこでもいいわけではない。そこらへんの駅前にある大衆店ではダメ、洒落た造りでジャズをBGMに流すような店もダメである。

敷居が高そうに見えて、馴染んでしまえば居心地が良く、若い客は見当たらず、真っ当な料理も出すからそこそこの予算は必要・・・。そんな感じの店に憧れた。

おでん自体が嫌いなのにそんな店で一献傾ける姿に憧れたこと自体が若造独特のバカっぽさ丸出しである。でも、そんなバカっぽさの積み重ねが大事なのも事実である。

30代後半だっただろうか。青春時代は過ぎ去っていたが、中高年という分類にはちょっと早かった頃だ。

薄汚れたオッサンにはなりたくはない。かといって、「レオン」を必死で読むような若ぶったイタいオヤジになるのもゴメンだ。適度に落ち着きのあるこなれた?オジサマへの道を模索していた時代である。

勝手な思い込みなのだが、フレンチやイタリアンに詳しい大人よりも、凜とした料理屋にしっぽり溶け込んでいる大人のほうがカッコいいと感じていた。

そんな偏った発想の行き着く先が「ちょっと入りにくい銀座あたりのおでん屋」だったわけだ。

いろいろな店を覗いてきたが、いまも時々出向くのは6丁目の「おぐ羅」と7丁目の「力」だ。いずれも普通に居心地の良い店だが、知らないと敷居が高そうに感じる店構えだ。



私の場合、「おでん」は目的ではない。嫌いなんだからしょうがない。充実した一品料理をツマミにウマい酒を飲むことが目的だ。「おでん屋」というのは一種の舞台装置でしかない。

先日、久しぶりに覗いた「力」は、昭和っぽい雰囲気がプンプンの店。おでん以外のメニューも豊富なのが嬉しい。この画像はシチューでもカレーでもなく、ミソベースのタレをまとった牛すじ土手焼きである。


イカ墨をベースにした真っ黒い塩辛や大根おろしを大量に載っけたアジの炙りタタキなどをツマミに心地良く酔っ払う。

おでん屋さんでは日本酒というのが基本パターンだが、焼酎を飲みたい気分の時はそれに見合ったツマミもアレコレ揃っているから有難い。

カニの甲羅揚げやらクジラベーコンを肴にグビグビすれば、アッという間に極楽にたどりつく。



一応、おでんも注文するが、トウモロコシやタコ串あたりを選ぶ。野菜攻撃を避けるのが私流である。子供みたいである。

「凜とした空気を漂わせるこなれたオジサマ」に憧れていた私だが、この手の店で酔っぱらってくると自分がそういう人間になれたような勘違いができて実に楽しい。

鶴田浩二か高倉健にでもなったかのようなニヒルな顔を作ったりして心地良く過ごす。バカである。バカが酒を飲むと更にバカになる。でも幸せである。

なんだか意味不明なオチになってしまった。いずれにせよ、おでん屋で酒をひっかけている時の私は、ただおでんが好きで店に通っている人とは異質な高揚感を楽しんでいる。

2015年9月4日金曜日

かたせ梨乃 中条きよし


先日、酒の席でひとしきり「かたせ梨乃」の話で盛り上がった。かたせ梨乃といえばブルンブルンである。映画「極道の妻たち」シリーズではいつも胸をブルンブルンさせていた。

改めて画像を見たのだが、綺麗な人である。顔よりも胸ばかり見ていたから顔立ちの印象が全然なかった。ひどい話である。

でも、そのぐらいブルンブルンだった。唖然とするほどブルンブルンさせながら世良公則なんかと激しいベッドシーンを演じていた。

迫力満点だったから男達はビビりながら映像に見入っていた。興奮するというより珍しいものを見ちゃったような感覚だった。

最近は滅多に聞くことがなくなった「豊満」という言葉はあの頃の「かたせ梨乃」のためにあったのだと思う。

「かたせ梨乃」といえばヤクザ映画である。ヤクザ映画といえば「中条きよし」である。
まるで酔っ払いの会話のように脈略がハチャメチャだが御容赦いただきたい。

ヤクザっぽいイメージで売っている人ではないが、ヤクザ映画やそっち系のVシネマの常連だった。


実は私は昔から「中条きよし」が気になっていた。好きか?と聞かれれば別に好きなわけではない。でも嫌いでもない。ただただ気になる。

デビュー曲「うそ」が大ヒットしたのが昭和49年。何だか艶っぽいオトコが出てきたと子供心に感じた記憶がある。

若い頃から漂わせていた独特の艶っぽい感じは年齢を重ねるごとにパワーアップしていった。

艶っぽい感じなどと書くとまどろっこしいので、端的に言い換えると「スケベったらしい感じ」である。

「夜の匂いを漂わせる大人の男」。mixiにそんなタイトルで中条きよしに注目するコミュニティがあった。「夜の匂い」。彼を表すのにこれ以上完璧なフレーズはない。

なんだか妙にエロっぽい。「男の色気が漂う」とかそんな生やさしい雰囲気とは違う。一体なんなんだろう。

Mixiにも専門のコミュニティがあるぐらいだから、やはり「中条きよし」が気になってしかたがない人が世の中には大勢いるらしい。

そのコミュニティのアドレスを貼っておくので、暇な人はぜひ覗いて欲しい。たまらない画像がドッサリだ。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=88284&id=400018

いやあ、実にナマメかしい。セクシーなどという安直な表現では言い表せない雰囲気が漂う。

スケベったらしい雰囲気選手権が開催されたら間違いなくチャンピオンである。夜の匂い、夜のオトコである。見ているだけで身体の芯が熱くなってくるようだ。

午後のひとときは高級サウナにいそうな雰囲気がたまらない。

もしもサウナで偶然「中条きよし」に遭遇したら、私なんか簡単にお持ち帰りされてしまうだろう。

ホモっぽい趣味はまったくない私でもそう思う。性別を超越した不思議な引力が「中条きよし」にはあるみたいだ。

ちっとも知らない曲ばかりだが、彼の近年のシングル曲のタイトルを並べてみる。


「やっと逢えたね」

「いろいろごめん」

「あの日の嘘のつぐないに」

ドッヒャーって感じである。「中条きよし」に「いろいろごめん」と囁かれたら日本中のオバサンはすべてを許すはずだ。私も許す。

「中条きよし」の凄さは結婚を4回もしていることからもうかがえる。4回である。どんな神経なんだろう。いや、きっと純粋で正直な人なんだろう。そういうことにしておく。

来年になったら70歳である。70歳であの艶っぽさは異常だ。YouTubeで彼の動画をアレコレ見てみたのだが、今もちっとも老けこんでいない。尊敬すべき人かもしれない。スケベったらしさを理由に紫綬褒章とかを受賞して欲しい。

「中条きよし」が気になって気になってネット上をさまよっていたら、彼が酒に関してインタビューされた記事が出てきた。

「中条きよしと酒」である。どれほどのエピソードに彩られてきたのだろう。武勇伝も100や200じゃきかないはずだ。

期待して読んでみた。ちょっと引用してみる。

「いまは会食のときに飲む程度かな。その場合、少しこだわりがあって、たとえば和食だったら日本酒、洋食だったらワインといったふうに酒を楽しんでいます」。

おいおい!見事なまでに期待を裏切る内容である。そんなもの「こだわり」ではない。ごく一般的なことである。

「中条きよし」恐るべしである。

彼も芸能人だからアメブロをせっせと更新している。時々「〇〇で~~~す」みたいな書き方をする。しつこく言うが来年は70歳である。

http://ameblo.jp/nakajyo-kiyoshi/

凄いぞ「中条きよし」!。10年経っても20年経っても変わらずに「中条きよし」を維持して欲しい。

2015年9月2日水曜日

いろんな自分


人間誰しも場面に応じて様々な自分を演じ分ける。「ありのままの~」などと言ってみても、人前に出れば朝も昼も夜も何かのフリをする。

職場に行けば恐い顔した上司を演じ、エラい人の前では、忠誠心に厚い気の利いた男のフリをする。

夜の街に出れば、本来より3割増しぐらいデキるビジネスマンを演じ、色っぽいスナックのママには、奥さんに冷たくされて淋しい男のフリをする。

帰宅すれば、本当はラブラブな奥さんに接待酒がシンどかったと甘えたフリをして、朝になって子供と顔を合わせれば威厳のある父親っぽい顔を必死に作る。

大半の人が無意識のうちに、演じたり何かのフリをすることに必死になっている。極端に言えば「いい人だと思われたい」「嫌われたくない」という心理が社会を何となく安定化させている。

「女は生まれながら女優なのよ」。そんなキザったらしいセリフをよく耳にする。平たく言えばウソつき女の言い訳である。

だとしたら、男だって生まれながらの男優である。生まれながらのAV男優みたいな男だっている。

虚飾、化かし合いなどと言うと夢も希望もないが、男も女も子供も年寄りも常に何かを演じている。それこそが世の中の秩序を形作っている。

演じているからといってウソとは違う。決して悪いことでもない。TPOに応じた人格の微調整である。振れ幅が大きいからといってフェイクとも言えない。

エラい社長さんが、秘密クラブに行って「アバババ~。お尻がかゆいでちゅ~」と叫ぶ姿は彼本来の姿だし、重厚なオフィスで威厳に満ちた表情でM&Aを決断する瞬間の惚れ惚れする姿もまた彼本来の姿である。

赤ちゃんプレイに没頭する自分、辣腕ビジネスマンとしての自分。どちらもホンモノだが、その時々で演じ分けている。

いろんな自分を使い分けることは結構エネルギーが必要だ。使い分けが上手い人ほどエネルギッシュに活躍できるのだろうし、逆に使い分けが下手な人が心を病んだりする。俗に言う「切りかえ」と同じ意味合いだ。

「本当の自分」という言葉も怪しいものである。場面に応じてさまざまな「フリ」をするのが普通の人間だ。何を演じている時が心地良いのか、どんなフリをすることが多いのか、その傾向こそ「本当の自分」を表すものだと思う。

恋愛が面倒だ、セックスレスだとかいわれる若い世代は、こうした一連の使い分けを避けているのだと思う。

好かれたい、嫌われないようにしたい、意のままにしたい等々、そんな感情を達成するには、その欲望に応じて自分を様々に演出することが不可欠だ。

自分を少しでも良く見せたい、盛ってると叱られようとも大げさに自己アピールしたい。ささいなことでも相手をヨイショしまくって、ことさら相手のことばかり考えていると伝えたいーー。

そのためには当然、様々な「自分」を演じ分ける必要がある。そんな面倒なことはゴメンだと敵前逃亡?しちゃったら色恋などとは無縁になる。

色恋に限らず、こういうことを面倒くさいと感じた段階で、何事もその先の展望は開けないのが現実だと思う。

突き詰めれば「なってみたい自分」を頭に描いて演じ分けに励めばいいと思う。一種のポジティブシンキングである。

しょせん、そんな自分にはなれないのだが、「演じてみる」、「フリをする」ことで少しでも近づければ儲けものである。