2015年9月28日月曜日

繊細な味 微妙な違い


和食ばかり食べている。世界中の料理が集まる東京に暮らしているのにヨソの国の料理にはあまり興味が湧かない。

昔はイタリアンでもフレンチでもエスニックでも何でも喜んで食べていたが、いつの頃からか和食一辺倒になってきた。

和食は世界遺産に登録されるほど世界的に価値のあるものである。真っ当な和食をせっせと食べることは世界遺産を日常的に身体に吸収しているわけだ。なんとも贅沢な話である。

和食の魅力は繊細さに尽きる。ダシの微妙な加減や食感一つとっても匠の技が活かされている。微妙な部分に魂が込められているのがポイントだろう。


小皿を並べた画像はイクラの醬油漬けの食感の変化を“実験”させてもらった時のもの。まさに「微妙」を体感させてもらった。

生のイクラは今の時期だけのお楽しみである。生イクラに醬油をチロっと垂らして食べるのが大好きなのだが、この日は作りたての醬油漬けイクラを味わいたい気分だった。

場所はいつもの高田馬場・鮨源。職人さんは作りたてと作り置きの微妙な違いを解説しようと時系列に4段階ほど異なるイクラの醬油漬けを用意してくれた。

面白いもので、出汁醬油に漬け込まれたイクラはどの段階のモノでも味は一緒。この「一定の味」に仕上げること自体が素人から見れば凄いことである。

問題は味ではない。食感が4段階それぞれ微妙に違う。素人の私でもその違いをしっかり認識できたほどだった。

イクラの表皮の食感が微妙に違う。職人さんが一番ダメだというイクラだって普通に美味しい。でも段階ごとに比べると、作りたてのなめらかな食感は他を圧倒する。

一緒に並べて比べなければピンとこないほど微妙な違いなのだが、その部分にこだわるところが和食の醍醐味なのだろう。

微妙な違い。この感じ方は極めて個人差が大きい。和食の店をウマいのマズいの批評するのは簡単だが、微妙な加減が大前提だから、一度食べたぐらいで店の良し悪しを決めつけちゃうのは賢明ではない。

それなりの水準の和食店でランチを一度食べたぐらいでネットで悪評を晒すのは反則だと思う。

話は変わる。先日、「初めての店探検」をしようと銀座の路地裏に佇む風流な構えの和食店に飛び込みで入ってみた。

時間は夜の9時頃である。お客さんの流れが一段落したタイミングでカウンターに陣取った。

店内の造りも凜としていて絵に描いたような「大人の食事処」である。フムフム、ウマいものが食べられそうだ。

板前さんもこちらの様子をうかがっている。私としてもそれなりに打ち解けないと息苦しいので、プロの客ならでは?の当たり障りなく、かつ、踏み込み過ぎず、出過ぎない程度の自己紹介的な世間話を繰り出す。

料理長さんは40代の真面目そうな人だ。とりあえず刺身と煮物、焼き物と酒の肴になりそうなモノを食べたい旨を伝える。

お燗酒片手に真っ当な和食屋さんのちょっぴり背筋を伸ばしたくなる空気を楽しむ。こういう時間をボケっと楽しめることが大人の幸せだ。若い時は居心地が悪いだけだった。

で、あれこれ食べてみた。もちろん、長く商売を続けている真っ当な店だからマズいはずはない。ただ、ちょっと物足りない。健康には良いのだろうが、全体的に味が弱い。

それなりに打ち解けてきた頃合いを見て料理長さんと少し無駄話を交わしたのだが、やはり酒が苦手な職人さんだった。

酒を飲まない職人さんや板前さんの味は、やはり酒を飲みながら食事を楽しみたい人間からすれば物足りない。一種の方程式だ。

もちろん、ちょっとの違いなんだと思う。それこそ「微妙な差」である。でも、その微妙な距離がとてつもなく大きな好みの差を生むのも確かだ。

別な日、銀座6丁目の「三亀」に出向く。少し前の初訪問をこのブログでも書いた。“裏を返さないのは客の恥”である。

前回と違う料理をあれこれ頼んだ。どれもとてもウマかった。鯛の兜の煮物など、見た目は真っ黒でしょっぱそうなのだが、実にいい塩梅の味付け。正しい東京料理である。

「ぜんまいの煮物」なる野菜嫌いの私にとっては気が狂ったかのような一品も注文した。前回、完璧なまでのダシの風味にノックアウトされたから、肉でも魚でもない素っ気ないぜんまいがどんな味付けで食べられるのか期待していた。

結果は大正解。ぜんまいなどという葉っぱだか茎だか分かんないヘンテコなものを物凄く美味しく感じたわけだから、和食の奥深さを思い知った感じだ。

なんだか最近はジャンク系より繊細な味付けの和食が毎晩のように食べたくなる。食欲の秋なのだろうか。いや、きっと心が繊細になっているのだろう。

さすがにそれはウソです。

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