2026年8月17日月曜日

オヤジバンド、ヒロミゴー

 

15年の歳月といえば結構な長さだ。生まれたての子は思春期になるし、思春期の子だったら30歳の大人になっちゃうぐらいの年月だ。

 

とはいえ、60歳の私からすると15年といってもアッという間に近い感覚もある。なんなら15年前は「最近」の範囲に入る。そう考えるとここから先もアッという間に時間は過ぎて気づいたら死んじゃっているかもしれないわけだから実に不思議だ。

 

そんなことを考えたのは何となく始めたオヤジバンド活動が15年も続いていたことに気付いたから。いっぱしのベテランである。ライブを年に一度やる程度だから自分が“ミュージシャン”や“バンドマン”だと思ったことは無い。でも人様から見れば「15年もバンドを続けている人」である。我ながらビックリだ。

 

私の担当はボーカルである。МCをそこそここなれた顔でこなしているせいで中心人物みたいな立ち位置にいるが音楽的素養はない。楽器も出来ない。ちょこっと手を出したギターの基本コードのストロークがよちよち鳴らせる程度である。

 

他のメンバーは腕っこきが揃っている。ボーカル無しのインストゥルメンタルも一部の演目にあるのだが、練習の際にその音色を聴いていると大真面目に感動する。今年は「太陽にほえろ」と「名探偵コナン」のミックスアレンジバージョンを演目に予定している。その部分はただボケっと聴いているだけの私は単純にそれが一番楽しみだったりする。

 

今年も11月のライブ本番に向けてスタジオ練習がスタートした。事前に演目候補曲は決めてあったのだが、1回目の練習から皆さんしっかり精度高めの音を出していたことにビビった。ボーカルの私が最も仕上がりが遅れていた。

 



バンド活動の初期はアコースティックギター2人と私の3人編成で練習の初期段階はメロメロも通り越してヘニャヘニャだった。今ではフルバンド編成に拡大したのだが、気づけばボーカルだけが昔のヘニャヘニャのままなのが我がバンドの弱点といえる状態だ。頑張らないといけない。

 

バンド活動を通して知ったことや感じたことは結構ある。何事も勉強だと思えばこの経験は案外大きい。それこそシャレみたいなつもりで始めた活動だが、15年もやっていると私の人生になかなかのインパクトを与えてくれたと感じる。ちょっと大げさか。

 

大勢の人の前でスポットライトを受けてPAさんの助力を得てプロが使う本格的なライブハウスで熱唱するわけだから得難い体験ではある。そんな体験は日本全国、いや世界中の人の中でもかなり少数派に属するはずだ。ちょっと大げさか。

 

何だかヘンテコな書きぶりになったから話を変える。「郷ひろみ」の偉大さについて書いてみる。近年、我がバンドはお客さんのウケを狙うために誰もが知っているノリノリの楽曲のカバーを多めに演目を構成している。

 

バンドメンバーの誰もがそれぞれ演奏したい渋い曲や通っぽい曲はたくさんあるのだが、素人バンドが陥りがちなマスターベーション的演目構成を避けるために我がバンドではベタな歌謡曲も積極的に手掛ける。

 

で、ヒロミゴーのノリノリ曲「ゴールドフィンガー」も過去に何度か披露した。あの「アチチ、アチチ」と熱唱するヤツである。NHKの紅白でも郷ひろみは近年では「アチチ」か「億千万」のどちらかしか歌わなかったぐらい盛り上がる曲だ。

 

今も彼は歌番組で披露しているが、何といってもキーが高い。それを激しく踊りながら余裕で歌っている。もうすぐ70歳である。前期高齢者になってすでに5年も経っている。ただただ感心する。

 

それこそ「億千万」と叫ぶ有名曲「24千万の瞳」より遥かに高いキーである。驚かされるのは「アチチ」の歌は「億千万」の歌より15年も後に発売されている点である。すなわち、30歳の頃より高いキーの曲を45歳ぐらいになっても余裕でレコーディングして今もそのキーのまま踊りながら歌っているわけだ。

 

どうでもいい話かもしれないが、ヒロミゴーより10歳年下の私にとっては驚異的な話である。それこそ私が子供だった頃に、♪僕たち男の子~♪とくにゃくにゃ歌っていた人である。当時は子供心にブキミな男にしか思えなかったのだが、半世紀を経たいま、彼を類まれな傑物として尊敬している。

 

バンドの話のはずがヘンテコな結末になってしまった。





2026年8月14日金曜日

ダメ人間、ガス人間

 

ここ1ヵ月ぐらいダメ人間になっている。キックボクシングジムはサボってばかりだし暴飲暴食もヒドい。昨年、真面目に節制してきた自分と比べると別人のようだ。

 

理由は単純だ。同居する娘が挑戦していた某国家試験が終了したことでナゼか私のほうが気が抜けてしまった。バカみたいである。試験の結果はまだしばらく発表されないのだが一応無事に済んだみたいだから何だか妙に肩から力が抜けた感じがする。

 

私が試験を受けたわけではないのに実にマヌケな話だ。とはいえ、その試験に向けて私もかなり気を使って過ごしてきた。大げさに言えば「親としての最終ゴール」みたいな感覚に陥っていた。だから終わったことでフニャフニャしてしまった感じだ。

 

今年が終われば下の子の分の養育費も終了する。世間相場よりはるかに高額な金額をもう15年ぐらい毎月毎月1日も遅延せずに払ってきた。総額を計算したら倒れそうになる。私の貯金が妙に少ないのもそのせいである。

 

来年からは養育費分をせっせと手を付けずに老後資金用に貯めようなどと殊勝なことを考えている。いやはや、まさに人生後半戦である。総括段階に入ってきていることを実感する。

 


 

さて、先日モスバーガーをデリバリーで注文したのだが、その数は5個である。パンは半分捨てたとはいえ還暦オヤジの食べる量ではない。ユルみまくっている最近のダメ人間ぶりを象徴する話だ。

 

昔からナゼか夏に太ることが多かったので、昨今のユルユルモードのせいで昨年15キロ落とした体重もすでに5キロ以上は戻ってしまったはずだ。だいたい体重計に乗らなくなっているあたりがダメ人間である。

 

ダメ人間と書いていて思い出したのが「ガス人間」である。ネットフリックスのドラマだ。奇天烈極まりないストーリーなのだが妙に面白くて一日で全部見てしまった。

 



小難しい推理モノや立身出世モノも悪くはないが、あそこまで突き抜けた設定の話を大真面目に作り込む制作陣の本気ぶりに感動した。バカげている、アホらしいと否定する前に大真面目に鑑賞することをお勧めします。

 

さて、暴飲暴食に話を移す。一人飲みの際はお寿司屋さんあたりで歳相応のチマチマした肴で一献傾けていることも多いが、そこはダメ人間と化した私である。若者しかいないような怪しげな居酒屋でレバ刺しやハツ差し、謎のモツ炒めをバクバク食べて過ごすような日もある。

 



 若い客層に混ざって心なしか浮いている感じもあるのだが、そういうことが気にならなくなったのも加齢に伴う図々しさのおかげである。ブヒブヒとゲップを吐き出しながらホッピー片手にジャンクなメニューにニンマリすると幸せな気分になる。

 

先日は仲良しのオネエサンの付き合いで銀座の小洒落たバーに出かけた。手の込んだ料理がいろいろあったのだが、味覚と精神状態が“赤ちゃん帰り”に向かい始めている私は「カラスミ目玉焼き」をムシャムシャ食べて満足した。

 



 カラスミは挨拶程度にパラパラとかかっているだけだったが、ぐしゃっと潰した半熟卵をパンに浸して食べれば充分である。最近は手の込んだものより単純明快な一品に魅力を感じる傾向が強まった。

 

別な日、仲良しになりかけているオネエサンと日本橋の鰻屋へ。うざく、肝焼き、白焼きで冷酒をカピカピ飲んで楽しく過ごす。問題はシメの鰻重問題である。以前なら一番デカい鰻重を頼むのが男として当然のマナーだと信じて疑わなかったのに最近はボリューム的に無理になってきた。ダメ人間である。

 


 

この日もオネエサンに一番デカいのを頼んで私は下級ライン?の鰻重にする。この店のデカ鰻は下級ラインの鰻重とは使っているウナギ自体が異なる。私だって上質なほうのウナギを食べたいが量が厳しい。

 

もっとも、オネエサンがデカ鰻を完食できるはずがないと予想してそっちから一枚ぐらい分けてもらえばいいと頭の中ではこすっからい作戦を練っていた。過去にその作戦は何度も成功している。

 

しかし、しかしである。今回は予想外の展開になった。オネエサンが「食べきれない分は持ち帰っていいですか?」と言い出した。優しい紳士のふりをしている私は「オイこら、食べきれない分はオレによこせ!」と心の中で絶叫しながら当然それを口は出来ない。

 

仕方なくすました顔で「それは賢いね。タレも追加でもらってあげるから明日、温め直して細切れにしてひつまぶしにでもするといい」などとアドバイスするハメになった。私の頭の中ではナゼか嘉門タツオの名曲「なごり寿司」が鳴り響いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=iLlBWpIkLo8

 

小梅太夫みたいに「チックショー!」と叫びたいところだったが、別な場面でしっかりこの恨みを取り返すことを決意して爽やかな顔でその場をやり過ごした。

 

デカい鰻重が食えなくなったくせに狩猟本能はいまだお盛んな自分がちょっと切ない。

 

 

 

 

 

2026年8月10日月曜日

高級か大衆か

 

近年、よく言われるのが「真ん中がダメ」という話。飲食店に例えるなら、すごく高い店とすごく安い店は繁盛するけど真ん中の価格帯だと厳しいという話。

 

飲食店に限らず、世の中のあらゆる分野に浸透している考え方だろう。二極化、格差固定みたいな経済ジャンルの話題にもこういう話は出てくる。

 

さて、話が難しくなりそうだから本題に移る。日頃グルメだなんだと自慢気にSNSに映える画像を投稿している人は多い。インスタのリール動画を参考にさせてもらうこともあるから文句を言うつもりはないが、どうしても“中庸”の店が紹介されることは少ない。ちょっと残念だ。

 

まあ、SNSなんて幸福自慢みたいな側面があるから必然的にカッチョイイお店や予約困難店や妙に高価な店が中心になるのも仕方ない話だ。

 

どんなジャンルだろうと高級店と大衆店は存在する。一人5万もとるような意味不明な寿司屋が謎に繁盛する一方で、くら寿司にも行列は出来る。いきなりステーキみたいな気軽な店が人気だが、やはり一人10万ぐらい取るステーキハウスもしっかり客を掴んでいる。

 

鰻しかり、天ぷらしかり、蕎麦しかり、カレーライスやハンバーガーにも言える話だ。今どきは5千円ぐらいするハンバーガーも平気で売られているらしい。それはそれで食べてみたい気もする。

 

さてさて、ヨソの国の料理なのにひょっとしたら和食の一ジャンルかと思えるほど日本人の間に定着したのが中華料理だ。

 

実に多種多様である。丸美屋の麻婆豆腐などは普通の日本人の普通の家庭料理である。中華料理だと思って食べている子供などいないと思う。それをいったらラーメンも元は中華料理である。大勝軒のつけ麺やニ郎系ラーメンを中華料理だと思って食べている人も皆無だろう。

 

先日、市ヶ谷にある中国飯店に行く機会があった。都内にいくつかの店舗を構える高級中華料理の象徴的な老舗だ。昨今、一般化した「町中華」と呼ばれるジャンルのお店の対極みたいな路線だ。

 



 

ピータンの味の豊潤さ、チャーシューも蜂蜜っぽいソースを上手にまとわせているこだわりかたなど、いちいちさすがだと感心した。画像の他にもいろいろ食べたがどの料理も丁寧かつ繊細。高級路線の存在意義みたいなものを改めて実感した。

 


 

こちらは名物の松の実入り黒チャーハン。職人技のような食感、味付けで文句なし。大げさではなく毎日でも食べられそうな感じだった。

 

「毎日でも食べられそうな感じ」って単純にいえば誉め言葉だ。でもそれが必ずしも食における満足感を完璧に満たすわけでもない。そこが実に面白いと思う。

 

人間はワガママだから時に“猥雑な欲求”に走りたくなる。すなわちジャンク系の喜びだ。ジャンク系のウマいものって不思議なもので、その場では相当な満足感を得るのに、決して毎日でも食べたいとは思わない。それこそ猥雑な欲求である。

 

町中華で例えるなら油ギトギトのホイコーローやら臭いが気になる焼き餃子、カタ焼きそばあたりだ。独特の存在感があるラインナップだ。ナゼだか分からないが同じ中華系でも高級中華の繊細な味よりそっち系を身体が求めることは多い。

 

財布にゆとりがあるかどうかは別だ。もしサマージャンボ7億円が当たってもギトギトしたホイコーローが食べたい気分なら高級中華のフカヒレ料理より断然そっちを優先しちゃう。そんなもんだと思う。

 



 チャーハンも奥が深い。たかがチャーハン、されどチャーハンで、高級路線の店では感心するほどのパラパラな仕上がりに遭遇しがちだ。そしてそれに大いに感動する。ところが町中華でチャーハンを食べたい気分の時はパラパラ感にまったく期待していないから複雑である。

 

よく言えばしっとり、悪くいえばテキトーな炒めご飯である。でも、塩コショウの分量を間違えたような怪しげな濃い味付けに悶絶する。おまけに町中華のチャーハンに必ず付いてくる「謎スープ」がまた魅惑的だ。

 


 

飽きてきた頃にチャーハンを謎スープに浸して食べると得も言われぬ快楽が身体の中を駆け抜ける。ウーバーでチャーハンをデリバリーする場合、多くの店が謎スープを付けてこないことが今の私の最大のストレスである。チャーハンにあのスープをビシャビシャするのが醍醐味なのに実に残念である。

 



この画像はデリバリーでやってきたカタ焼きそば、天津飯、ホイコーローである。そういう気分の時にそういうメンバーが揃ったらまさに無敵だ。高級店でフカヒレの姿煮や北京ダックを出されてもこっちの気分の時なら迷わず町中華の面々を選ぶ。

 

誤解のないように書き加えるなら高級中華をディスっているわけではない。そっちはそっちで私の大好物である。あくまで2極化の両極をそれぞれ楽しめることが日々を、いや人生を充実させる大事な心がけである。大げさか。

 

SNSなどで高級店のことしか語らないようなグルメぶった人ってその点でとっても退屈な人だと思う。大きなお世話だけど…。

 

 

 

 

 

 

2026年8月7日金曜日

愛しのドーナッツ

 

時代とともに呼び方が変化するものがある。BMWなどは今でこそローマ字をそのまま発音するか「ビーエム」と略して呼ぶのが普通だ。ほんの30年ぐらい前まではたいていの人が「ベーンベー」と呼称していたことを知る人は減った。ベンツのチューニングメーカー「AMG」しかり。昔はだれもが「アーマーゲー」と呼んだ。

 

いずれも古いほうが本国の読み方を踏襲していたわけだが変われば変わるものである。高級時計の「ヴァシュロン・コンスタンタン」も昔は 「バセロン・コンスタンチン」と呼ぶのが普通だった。こちらは本国読みに戻った代表だろう。

 

スパゲッティーもいつの間にか「スパゲティー」「スパゲティ」に変わった。「ッ」一文字とはいえ今となってはその一文字を声高に叫べないような社会の“圧力”を感じる。「ッ」が入ると途端に格下になったかのような変な感覚がある。

 

さて、ここまでは前フリである。今日は「ドーナツ」の話。これまた昔は誰もが「ドーナッツ」と呼んだ。「ッ」が撤去されてしまったパターンである。でも不思議なもので話し言葉ではいまだに「ドーナッツ」と呼ぶ人が多い。高齢者だけの傾向だろうか。「ッ」を入れたほうが発音しやすい気がする。

 



さてさて、還暦も過ぎ、オジイサン世代への突入を間近に控える私だが、実はドーナッツが大好きである。アメリカ人みたいである。私の周りの同年代でドーナッツを嬉々として食べている人は見当たらない。

 

若々しいのか、子供舌なのか、味覚がヘンテコなのか、おそらく一番目の理由が正解だろう。ウマいんだからしょうがない。時おり無性に食べたくなってそういう気分の時は必ず食べる。一ヵ月に最低でも3回はガツガツ食べていると思う。

 

スタバのドーナッツは美味しくないことで定評があるが、私の場合、スタバの実店舗にいる時やデリバリーでそれしか選択肢が無い時は喜んで注文する。レンジでチンすればそこそこウマい。

 



最近は「クリスピークリームドーナツ」が世間でブイブイ言ってるイメージがある。私も時々買う。まあ、人気が出るのも分かる。悪くはない。でも私にとってはナンバー1の存在ではない。

 

私の場合、ウーバーでのデリバリーか有楽町マルイの店舗で買って帰ることが多いのだが、わりと最近、同じマルイの1階に新たなドーナツ屋が出店したので、その仁義なき戦いぶりに感心した。

 



 

「ランディーズドーナツ」というのがそれ。なかなかそそるディスプレイのせいもあっていつ見てもお客さんがレジにいる。人気があるようだ。ドーナッツ好きオヤジとしては試さないわけにはいかないので早速たくさん買ってみた。

 

まあそれなりだった。あくまで個人的な好みの問題だが、ワンフロア下に店舗を構える「クリスピークリームドーナツ」ではなくこちらを選ぶ理由は無さそうに感じた。

 

 


強いて言えば甘いクリームペーストの上に焼いたベーコンが散りばめられているドーナツは画期的な味がした。私の場合、ドーナッツを食べる際は3個も45個も食べたくなるので必然的に途中で甘さがキツくなる。ベーコントッピングという秘策がとても良いアクセントになってくれた。

 

デリバリーで頼んだことがあるドーナツショップは数多い。有名なところでは「ジャックインザドーナツ」も何度か頼んだ。他にも小規模な店から生ドーナツやら米粉のドーナツやらあれこれ頼んでいる。

 




ハヤリの生ドーナツとやらも嫌いではないが、クリーム入りの商品などは単なる菓子パンみたいでドーナツ的な満足感とはイメージが違う。まあ、甘い気分の時に食べるから四の五の言いながらムシャムシャ食べまくってしまう。

 

で、結論から言えば「ミスドは偉大だ」という絶対的真理である。「ミスタードーナツ」はもともとアメリカのチェーン店だが半世紀以上前に日本に進出。その後、日本独自の路線を歩んで今に至る。

 

ちなみにアノ名作中の名作である「ポンデリング」は日本が開発した商品だ。さすが日本人!と言いたくなる。創造性より応用力の高さを象徴している。

 



後発のいくつものアメリカ系ドーナツショップと比べるとミスドの“日本的な雰囲気”は独特だ。半世紀以上にわたる数々の企業努力のおかげで、まるで日本土着のドーナッツ屋さんみたいな現在の雰囲気に繋がっているのだろう。

 

何だかんだいってミスドのドーナツは他のショップより美味しい。個人の嗜好だが、私としては断固そう思う。食感なのか甘さの加減なのか良く分からないが総合力で他を圧倒していると思う。

 

なんだかミスドの回し者みたいになってしまったが、ここ数年、ウーバーのおかげでやたらといろんな店のドーナッツを食べまくってきたからこそ辿り着いた結論だ。

 

日本で歴史を重ねて進化した味わい。これって日本人にとっても財産だと思う。そう考えるとミスドと同じような時期に登場して昭和の頃にバチバチ競い合っていたダンキンドーナツが撤退したことは残念だ。頑張り続けてくれていれば日本っぽく進化したウマいドーナツは2巨頭状態だっただろうから妙に惜しい気がする。

 

 

 

 

 

 



2026年8月3日月曜日

いいかげん

 

「いいかげん」、「いい加減」。同じ言葉でも何となくニュアンスが違う。前者は無責任、投げやり、おおざっぱといったネガティブな意味合いだ。後者はもちろん、適度、ちょうどいいといった肯定的な響きになる。

 

「いいかげんにしろ」。相手に伝えるにしても場面や状況で意味合いは変わる。日本語の奥ゆかしく面白い部分だろう。こんなことを書き始めたのは私自身がどんどん「いいかげん」になってきているからだ。

 

そうはいっても「いいかげん」になっちゃったつもりが実は「いい加減」になっていたような展開もある。分かりにくい書き方でスイマセン。

 


 

シンコの握りだ。夏の風物詩である。寿司通を気取るならシンコのウンチクを延々語らないと始まらないほどのド定番である。30年近く前に一念発起して客としての寿司修行?を始めた私もシンコと聞くだけでアドレナリンが出ちゃう日々を長々と過ごしてきた。

 

そんな私も還暦を過ぎ、これまでやたらとこだわってきたあらゆる分野のあらゆることへの執着が徐々に薄まってきた。シンコも然りである。


ほんの23年までは56月あたりからシンコはまだかとソワソワしていた。初モノ食いをイキの極みだと信じていた江戸時代の洒落男のDNAが染みついているのかと思うぐらい頭の中がシンコ一色だったこともある。最近はそうした執着心が急速に弱まってきた。

 

良いか悪いかではなく“薄まる感覚”自体が年の功なのかもしれない。もちろん、お寿司屋さんにシンコがあれば喜んで食べる。でも、シンコ狙いでガツガツしていた頃と違い、今では半分その存在を忘れている。「そういえばシンコってあるの?」。そんなヌルい感じで店主に尋ねて無事に出てくればニンマリする。

 

こだわりが無くなっちゃたわけではないのだが肩の力が抜けたような感じだ。これこそが「いい加減」なんだと思う。

 

でも、ほんの23年前に私からシンコのうんちくを口うるさく力説された人からすれば、シンコの存在をヘタしたら忘れちゃってる今の私のヌルさは「いいかげん」そのものに映るはずだ。

 


 

こちらは東京駅そばの「平田牧場・極み」という店で食べたヒレカツだ。この日、トンカツの気分になったのに自分がいた場所から移動するのが面倒になってこの店を選んだ。

 

いつもならお気に入りのトンカツの名店までタクシーを飛ばして駆けつける。移動距離が極端に遠くなければ迷わずそうしていた私だが、この日は「いいかげん」モード発動である。

 

とはいえ、出てきたヒレカツが充分ウマかったので単純に満足。わざわざ移動して思い入れのある名店に行ったら行ったで得難い満足感を味わえるのも確かである。そういうこだわりも捨てがたいのだが時に面倒なのも事実だ。

 

「面倒くせ~」。すなわち投げやり的な「いいかげん」精神に従うのも時には必要だ。いつもいつもハッスルしてこだわりの男を演じ続けるのもツラい。こうやって適度に種々のこだわりが薄れていくことで老境という世界に突入しやすくなるのだろうか。それはそれで良いのか悪いのか判断がつかない話である。

 



こちらは銀座の土佐料理「祢保希」で食べたカツオの塩タタキだ。何の変哲もない一品だが、私にとっては革命的?である。醤油系、ポン酢系のタレ以外でカツオのタタキを食べたことが無かった。


その食べ方が絶対だと信じて疑っていないのに塩タタキなる一品を注文してしまう私の変節というか柔軟性?に我ながらビックリした。「いいかげん」になってきた証だ。

 

でもたいしてウマくなかった。やはり王道のタレ味にしておくのが賢明だと痛感した。とはいえ、こういうハズレを経験すると自分のこだわりをもっと大事にすべきだと思い直すきっかけにもなるから悪くない。

 

ちなみにカツオのタタキには醤油とポン酢のミックスが一番美味しいというのが私のこだわりだ。どちらかを多めにするかは好みの問題。私自身は5050だ。醤油とポン酢を半々で安直なタレを作る。スライスした生ニンニクとこのタレがあれば言うこと無しって感じだ。

 

話がそれた。

 

「いいかげん」と「いい加減」をめぐる私の迷走はもちろん食における店選びに限らない。それこそいろエロな場面で直面している。そもそも「加減」とは文字通り加えたり減らしたりの世界である。力の入れ具合、抜き具合も同じ。あらゆる分野でその按配が上手いか下手かが人としての器量の決め手にもなる。

 

 

 

 

 

2026年7月29日水曜日

明け渡す気持ち

 

気持ちに身体が付いていかないという現実を初体験したのは25歳ごろの頃だ。中学、高校の一時期、学校とは別のテニススクールに通ってスカしていた。元野球少年だったからテニスもそれなりにサマになっていた(はずだ)。カッコばかり気にしてスクールに通ってくる女子にモテたくてスカしていた。

 

で、スカした目的だったからスクールを卒業しちゃったらテニスとも縁遠くなった。その後、25歳ぐらいになった頃に某テニスコートで久しぶりにラケットを握る機会があった。この時が衝撃的だった。

 

気持ちと頭では飛んできた球を余裕で打ち返せるつもりで反応しているのに、あと、23歩が届かない。23歩の距離だと惜しいと言えるレベルではない。まるっきり歯が立たない感じだった。

 

たかだか25歳ぐらいで運動能力が一気に劣化していることを実感してかなりビビった。思えば、あの日を境に今に至るまで30有余年に渡って緩やかに体力低下の坂を下り続けているのだろう。

 

脳の記憶って切ないもので実際の身体機能と昔の身体機能の切り替えが苦手だ。バッティングセンターに行っても120キロぐらいのストレートが妙に速く感じる。しばらくして目が慣れるとしっかり球の軌道は見えるのに振ったバットが当たらない。昔の感覚で頭の中はイメージしているのに肝心の身体の機能から必要な俊敏さが失われているわけだ。

 

昨年、自転車で大転倒して10か月ぐらい膝の不調に悩んだのも若い頃の「チャリ脳」がそのまま甦ってしまったからだろう。肝心の腕や足の瞬発力が追いつかないことに気付かなかったのが原因だ。

 

うだうだ書いてしまったが、今日の本題は前フリとは全く関係ない「満腹になっちゃう早さ」である。一応、これも気持ちに身体が付いていかないという切ないテーマである。

 

ガンガン食うぞ!と張り切っていたのに意外にしょぼくれた量で終わった時には切実に哀しい。

 



 

先日、神保町近くの如水会館でやっていたサマービュッフェに意気揚々と乗り込んだ。運営はニッポンの洋食の本家みたいな東京會舘である。

 

ゴールデンウィーク頃に初体験した時にシャトーソース付きのピラフやらローストビーフ、舌平目のボンファムっぽいメニューなどが食べ放題だったことで興奮した。スイーツ界の重要文化財とも言えるマロンシャンテリーのミニサイスまで食べ放題である。

 




今回は残念ながらシャトーソース付きピラフなど私を狂わせる逸品たちは無かったのだが、それでも揚げたて天ぷらはぶりぶり食べられるし、タルタルソース付け放題?のエビフライもあったし、魚料理やアイスバインなんかも用意されていた。

 

いわゆるホテルカレーっぽい欧風カレーが常に潤沢にあるのも嬉しい。この日はやたらと具材がゴロゴロ入ったチキンカレーだった。実に幸せな味だった。

 



一応、画像で見るとそこそこ食べたように見えるが、前半に食べたローストビーフのせいで空腹がわりと早く収まってしまい、焼売だのエビフライをツマミに白ワインを調子に乗ってグビグビしていたらモノの30分もしないうちに満足感が押し寄せてきてしまった。

 

ビュフェに向き合う男子としては実にだらしないことだ。なんとかローストビーフをお代わりしてチキンだらけのカレーもガツガツ食べたのだが、デザートはちょっとしか食べられなかった。寿司にも蕎麦にもミニ鰻丼にも手が出ず。負けである。

 



前回ウマかった焼き立てのパンケーキにアイスクリームをのっけてシロップをぶりぶりかけるヤツも楽しみにしていたのに、まったくもってたどり着けなかった。

 

もちろん歳を考えれば普通の量なのだろうが、今までドカ食いをさんざん自慢しながら生きてきた立場上、しみったれた現状がもどかしい。

 

牛丼も特盛りではなく頭の大盛りで済ませることが増えた。定食っぽいものを食べる際に「ご飯大盛り」と言わなくなった。デリバリーでマクドナルドを食べる際、パンの大半を捨てるという暴挙に出るのだが、以前なら5個ぐらい注文していたバーガー類も今では3つ程度で収まっている。

 

ケンタッキーフライドチキンを食べる際には、鶏の皮だけでなく衣もすべて剝ぎ取って食べるというフトドキぶりを発揮するのだが、以前ならフライドチキンを単品で8個か9個取り寄せていたのが今では6個程度だ。

 

ここ12年で確実に人並みに成り下がってしまった。健康のためには良いのだろうが、半世紀近くにわたって大食漢という位置にどっかり居座っていたことを思うと、その座を去らねばならない現実が妙に切ない。

 

引退するアスリートの気持ちがつくづく理解できるようになってきた。全然違うか…。

 

 

 

 

 

 

2026年7月27日月曜日

バカは死んでも…

 

自分のバカさを自覚しているつもりだったが、思った以上のバカっぷりに哀しくなった。ヘンテコな買い物を立て続けにしてしまいちょっぴり自己嫌悪である。

 

まずは歯ブラシ要らずで歯が綺麗になるというフレコミの謎の機械である。インスタのリール動画を見ていた際に出てきた広告に興味を持って、怪しいとは思いつつポチっと購入。

 


 

その後、同じ商品がアマゾンで半額で売っていることに気付いて地団駄を踏む。ボケ老人的行動に近づいている。

 

そんなことよりこんな商品を買うこと自体が私自身のフヌケぶりを象徴している。そんなに優秀な機械なら世の中にもっと普及しているはずだ。マウスピース状のこれに歯磨きを塗って口にくわえれば全自動でブラッシングが完了するらしい。

 

一瞬でも信じた自分が切ない。届いた実物を見た瞬間、物凄い違和感だった。歯型は人によって違うからこんな定型マウスピースが万能なはずはない。

 

一応、試してみちゃった私の往生際の悪さがまた哀しい。スイッチを入れたら確かにモゾモゾ動いている。でもあくまでモゾモゾみたいな感覚だ。歯の隅々まで物凄いパワーで協力にブラッシングされるイメージとは程遠い。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレか…。

 

お次は耳掃除が革命的に楽になるらしい秘密兵器である。発想が素敵だ。ホジホジしたりグリグリするわけではない。綿棒でかえって耳垢を耳の奥に押し込んじゃう心配もない。なんてったって「強力に吸い込む」方式だから画期的である。

 



商品紹介のページを見て悩まず買っちゃう私の思慮の浅さが哀しい。日常生活すべてにおいて横着したい私の気持ちの弱さの表れである。

 

で、ウキウキしながら使ってみた。耳に突っ込んでスイッチオン、なんだかビュービューと吸い込まれる音がする。耳の中で掃除機が活躍してくれている感じ。きっと膨大な量の耳垢が吸引されるはずだと期待に胸を膨らませる。

 

で、しっかり両耳ともに吸引して耳垢回収場所をパカンと開けてみた。すると乾いた耳垢がちょこっとだけ回収されていた、2~3カケラ程度だ。ふむ、私の耳の中は普段からかなり綺麗なのかと思い、念のためいつも使っている黒い綿棒を耳に入れてみた。

 

引っこ抜いたらドッサリ耳垢が付いていた。??である。いったいあの吸引は何だったのか。あの程度の吸い込みでは耳の中に居座っている“大物”たちを吸い出すには役不足だったらしい。考えてみればそれもそうだ。耳穴の壁にしっかり付着したヤツらが爽やかな吸引程度で剝がれるはずもない。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレだ…。

 

ネット配信の映画やドラマをよく観るのだが、よほどの事情が無い限り無料で視聴できるものだけを選ぶ。こだわりをもって観たい作品など滅多にないのでわざわざ有料の作品をみることはない。

 

もちろん貴重な昔の名作や話題の最新作みたいなものなら有料で見たい人の気持ちも分かる。映画好き、ドラマ好きならそういう選択も当然だろう。

 

とはいえ、私のようなノンポリ男にとっては無料で見られる作品がいくらでもあるわけだから有料という選択肢はない。それ自体が単なる無駄遣いになってしまう。

 

で、週末のヒマな夜になんとなく見始めたのが竹内力の「欲望の街」シリーズである。竹内力扮する萬田銀次郎が活躍する「ミナミの帝王」シリーズが妙に好きだった私にとっては、その後日談かとすら思える設定やストーリーが新鮮だった。

 


 

Amazonプライムビデオで無料で視聴できたからシュールな?世界観を楽しみながら観ていた。一晩に一気に4話まで進んでしまうほどハマった。

 

が、しかし、ナゼか5話からは有料だった。ちょっとショックだ。さすがに1500円はビミョーだ。似たような世界観の映画やドラマの無料版はいくらでもある。

 

でも、B型気質のサガか、わざわざ5話以降も有料で見始めてしまった。自制心がつくづく弱い自分が残念である。その後、数千円分を「欲望の街」に投下している。

 

結局、今日ここに書いたスペシャル歯磨きマシーンとスペシャル耳掃除マシーン、そして竹内力にこの数日でウン万円の出費をしてしまった。

 

さすが富豪である…。

 

 

 

 

 

2026年7月22日水曜日

16年前

 扁桃炎になってしまい更新できなかったので過去ネタを一つ。16年前、まだ良き家庭人を演じていた頃に書いた話だ。


元嫁にあげてしまった家の靴専用小部屋ややたら広く作った玄関の画像が妙に懐かしい。


ちなみに最後に載せている2点の靴の画像だが、16年後の今も現役で活躍してくれている。時間経過の概念が狂ってきたのか、物持ちの良い粋人なのか、自分でもよく分からない。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post.html





2026年7月17日金曜日

白い毛の問題

 

還暦を迎えて半年以上が経つ。節目だからといって何かが変わるわけではないが、面白いもので還暦を迎えたあたりから体調の変化は顕著になってきた気がする。

 

まず第一に疲れが取れにくい。前からそういう傾向はあったが拍車がかかった感じだ。すなわち体力がガクンと落ちてきた感じがする。昨年アレコレ努力して退治した倦怠感とはまた違った「バテ」みたいな感覚だ。

 

5年前、10年前と比べて体力が落ちてくるのは当然だが下降カーブが急になってきた印象がある。キックボクシングジムにも何とか通っているのが救いだが、それが無かったらと思うとゾっとする。

 

こればかりは抗えない自然界の掟だから仕方ない。こうやって老人への準備が整っていくのだろう。まだコケたり階段でつまずいたりしていないからせいぜい足腰への負荷は適度に意識して過ごそうと思う。

 

それよりも心情的にイヤなのが「眉毛の白髪化」である。バテバテの現実は背筋を伸ばして見栄をはればごまかせるが、白い眉毛はストレートに老化を実感するから困りものだ。

 

考えてみれば10年以上前からヒゲの白髪化はグングン進み、鼻毛なんて半分ぐらいが白い。ようやく白髪軍団が我が眉毛の存在に気付いて狙いを定めてしまったようだ。

 

ちょこちょこ抜いてはいるが、そのうち追っつかなくなるのは間違いない。自分が村山元首相みたいな風貌に近づいていることが衝撃である。眉毛が白くなるなんてほんの5年ぐらい前までは考えたこともなければ心配したこともなかった。例外は無いはずなのに自分の身に起きることを想像していなかったわけだからそれ自体が若さだったのだろう。ちょっと切ない。

 

そういえば“下の毛”もかなりの白髪化が進んでいる。思い立った時にあられもない格好でまとめて抜く作業に励んでいるのだが、あの姿は我が人生の中でもトップレベルで恥ずかしい格好だ。

 

この歳になればもう放置しても良さそうなものだが、一応、まだ現役なので目立つ白いヤツは撤去したい気持ちもある。以前、オジサマ好きの若い女子に下の毛が白くなっていく寂寥感を嘆いてみせたのだが、帰ってきた答えは「枯れた感じで萌えるから抜くな」だった。

 

真に受けたいところだが、世の中、そんな変態指向の女性ばかりではないはずだ。いまだに何が正解か分からずヒマな夜中に涙目になりながら引っこ抜いている。諸行無常とはまさに毛の色だと感じる今日この頃である。

 

睡眠の質が変化してきたのも最近の特徴だ。寝入りは悪いのだが、いったん寝てしまえばかなりドップリと寝るようになった。2年ぐらい前までは深夜に一度はトイレに起きるのが標準だったのが最近はノンストップである。水分摂取量は変わっていないのに不思議だ。

 

でも寝るのにも体力がいるからノンストップで8時間ほど寝られちゃうのは体力が上がってきているのだろうか。体力が落ちたと書いたばかりなのに矛盾している。睡眠体力はまた違う種類のエネルギーなのだろうか。謎だ。

 

それにしても“もうすぐ老人”という現状でもハゲなかったことは我が人生における“僥倖”の最たることかもしれない。中学高校時代から髪が薄いのなんのと人様からイジられることがあったが、今も年齢相応?に毛髪は頑張ってくれている。

 



 これについては私自身の努力の賜物である。20年近く前から有効といわれる対策をサボらず励行してきた成果だ。飽きやすく気まぐれな私にしてはよく頑張ったと自分を褒めてやりたい。

 

今も鮮明に覚えているのだが、20年近く前に娘の幼稚園で撮られた親子画像に唖然とした。誰だこのハゲ親父は?と思った人物が私だった。面白いもので毎日自分の顔を鏡で見ていてもハゲの自覚が無い状態だと、無意識にハゲてなかった頃の自分の顔を投影してしまい“滅びゆく大草原”には気づきにくいらしい。

 

環境破壊や自然破壊も手遅れになってから気付くのと同じようなものだろう。現実をきわめて客観的に映し出す写真を見ることでようやくハゲ散らかし始めていた我が頭髪問題に向き合うようになったわけだ。

 

有難いことにAGA治療、すなわちハゲ治療が世界的に進化してきたタイミングだったのは幸いだった。有効性が実証されている飲み薬、塗り薬をキチンと毎日続けたことで気づけばしっかり毛髪は再生してくれた。毛根がギリギリで残っていたのだろう。

 

他にも毛髪の健康状態に良いといわれるサプリも飲み続け、シャンプーもそれっぽいヤツをあれこれと選んできた。食生活まで変えるほどの根性はなかったが、なんだかんだ言って60歳にしてはまあまあ妥当な毛量を維持しているように思う。

 

やはり20年近く前、ハゲを自覚し始めた時に某かつら業者を訪ねて手付金まで払ったのだが、思い直してキャンセルしたのも正解だった。残存毛髪に縛りつける方式のかつらだったのだが、ヅラを被ってしまったら塗り薬は使えないし頭皮環境も悪化するから急きょキャンセルした。

 

30万円の手付金はムダになったが、その後は涙ぐましい努力のおかげで何とかなったので“縛られる人生”とは無縁でいられた。思えばハゲ対策に本気になった大きなきっかけは、私の亡きあと娘の記憶に残る私の姿がハゲ親父だったらイヤだという一心だった。

 

ちゃんと家庭をもって娘を授かったからそんなふうに思えたわけで、その一点だけで私の結婚経験はムダではなかったと思える。

 

歳をとると何でもかんでもこうやって自己正当化をはかるようになる。ヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

2026年7月15日水曜日

言い換え

 ジェンダー、ジェンダーと世の中が神経質になる感じは強まるばかりだ。最近は女優という言葉さえ俳優に言い換えられるほど。女優という固有名詞が持つニュアンスまで否定されるのは何だかビミョーだ。


今日は更新が間に合わなかったから6年前にブツクサ書いた「言い換え」の話を再掲したい。今よりはまだユルかった頃だ。この先どこまで迷走?しちゃうのか興味深い。


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2026年7月13日月曜日

コースと偏屈


本屋さんに立ち寄った際にグルメ情報誌の焼鳥特集を眺めていたのだが、ちょっと驚いたのが近年登場したオシャレ系焼鳥屋さんの多くがコースだけで勝負していることだ。

 

ここ10年、いや20年ぐらいだろうかコースだけをウリにする飲食店が増えた。焼鳥までそんな風潮に呑まれ始めているわけだ。私がブツクサ言ったところで仕方ないが、これもまた世の中のマイルド化の象徴みたいな話かもしれない。

 

好き嫌いが多い私だからコース料理は昔から苦手だ。この話は最近も書いた気がする。そりゃあ格式高い西洋料理屋だったら計算され尽くしたコース料理を黙って食べる。「そういうもの」という理解が追いつく。

 

さて焼鳥だ。私はネギ間が好きじゃないし、ボン尻も皮も苦手だ。塩味で出されるレバーも嬉しくない。細かいことを言えばキリがない。コースだとこれらに遭遇してもおかしくない。

 

食べられないわけではない。逆にそこが問題だ。食べられないものならハナから同行者にあげたり素直に残せる。中途半端に食べられる以上は渋々食べる。外食先で渋々食べるという行為はストレスだ。

 

好きなものを食べに行きたいから外食に行く。なのになぜ食べたくもないもので腹を満たす必要があるのか。単に私がワガママなだけだが、カジュアルな食べ物に関してはコースはやめてもらいたいと切に願う。

 

最近、気鋭の鰻屋が私の行動範囲に鳴り物入りでオープンしたと聞いてワクワクしていたのだが、そこもコース一辺倒だったからパス。珍しい鰻の刺身も出すらしいが、私はそこに興味はない。鰻の刺身はビックリするほどウマいものでもない。

 

他にもコースだと揚げものやら箸休めだとかおそらく“鰻気分”とは無関係なものも出てくるはずだ。もはや大食漢ではない私にとっては一部の料理が苦行になってしまう。

 

お寿司さんに関しても「コースのみ」という不思議な形態は今や都市部の小洒落た外観の店ならごく普通の様式になった。時代とともに進化するのはどの世界でも常だが、寿司の世界における「コースのみ」というパターンは進化ではなく劣化だと思う。

 

これもまた私が好き嫌い大王だからとくにそう思うのかもしれない。イカ、赤貝あたりはナゼか食べないし、たいていの店でメインイベントみたいに出されるトロも苦手だ。そうなると私には実に居心地が悪い。

 

こちらとしてはシメはワサビの効いたかんぴょう巻きかたまごの握りと決めている。たまごだってナゼか今はシャリつきで出さない店ばかりだ。握りで食べてこそシメの一品にバッチリだと思うのだが時代遅れなのだろうか。かんぴょう然りである。トロたくあたりに押されてさほど人気が無い。もったいないと思う。

 



 そもそもカウンターを挟んで料理人と客が対峙するお寿司屋さんという舞台は、いわゆる「お好み」で注文すればこそ本領を発揮するしつらえである。

 

好きなペースで好きなものを好きな量。ここが大原則であり、世界にも稀なこういう客優先のシステムが確立されている。それなのに画一的なコースで済まされてしまったら意味がない。

 

たいていのイマドキのそういう店は不思議と客単価が3万だ5万だと摩訶不思議な値付けだ。だったら全席個室にして一皿一皿うやうやしく運ぶようなスタイルにしても採算が合うんじゃないかとさえ思う。

 

書き連ねると私の偏屈ぶりに拍車がかかっちゃうからテキトーにしないといけない。

 

まあ、今のようなコースのみで勝負する店が増えたことは超高齢化による働き手の不足や、“いわずもがな”の常識や気配りが世間から失われつつあることも影響している。

 

たくさんのメニューを臨機応変に提供するにはそれなりに人手が必要だ。人材不足なら店側は決まったものを順番通りに出すという流れ作業に落ち着く。


“いわずもがな”のほうは、たとえばシンコの握りだけ10貫くれとか、かっぱ巻きと酒だけで何時間も居座るとか、最低限の常識が分からないマヌケな客が増えたことを意味する。

 

店の規模によって仕入れの量や塩梅は決まっている。想定客単価も店ごとに決まっているわけだから、あまりにもシャバダバな客が増えれば商売として厳しい。だからコースのみというスタイルを防衛策にしている面もあるわけだ。したがって私ごときが批判がましく言ったところで意味はない。

 

ただ、昭和の人間に言わせれば、今のスタイルが標準になれば客と寿司職人の丁々発止も無くなり、文化としての寿司の在り方も変わっていくと思う。残念だが客も店も育たないという淋しい状況になっていくと思う。

 

私自身、30歳ぐらいから日本中のお寿司屋さんで“客としての修行”に励みさまざまなことを学んだ。その経験は財産だ。私に限らず回転寿司のなかった昔は日本中どこでも街場のお寿司屋さんでみんなが学んだ。大人はもちろん、子供たちが寿司という世界のイロハのイを自然と身につけていった。

 

全国各地のそんな小さなやり取りの集合体みたいな空気が「カウンターで寿司を食う」という一種独特な日本の食文化を作ってきたわけだ。

 

その後、回転寿司の普及が世界を大きく変えた。マナーも常識も気にしなくてよくなったから寿司の世界は大転換期を迎えた。いわば対人コミュニケーションが不要になったわけだ。そしてそこからたどり着いた先が「コースのみ」の高級寿司なのかもしれない。これは私の仮説だが、丁々発止のやり取りが不必要とされている点が回転寿司と共通している。

 

でもそれが時代の必然なら私がアーダコーダ言ったところで意味がない。なんだか“置いてけぼり”にされているようでちょっと切ない。

 

好き嫌いがまったく無いならそんなイマドキ寿司業界の軍門に下ったほうがラクチンかもしれないが、やっぱり食いたくないもので腹を満たすのはストレスだ。今後も偏屈でいようと思う。






2026年7月10日金曜日

愛しのマロリー

 

若い頃は牛肉ばかり食べていたが最近はすっかり豚派になった。ラーメン類を食べる時もチャーシューが第一目的だし、モツ焼き屋にもわりと頻繁に出かける。高級中華に行っても前菜に甘めの味付けのチャーシューがあればそればかり食べる。

 

自宅でも生姜焼きやら豚しゃぶやら味噌ダレで焼いたりと豚中心の簡単調理に励んでいる。ふるさと納税の返礼品も高級豚肉を好んで取り寄せている。

 

豚好きにとって聖なる一品と呼びたくなるのがトンカツだが、時には衣の存在が気になる。すぐ太るし血圧やコレステロールを一応は気にする私にとって衣の存在はまさに「愛憎愛半ば」みたいなものである。

 

そんな私にとって願ったり叶ったりの一品がポークステーキである。最近、店舗が増えつつある「マロリーポークステーク」に出会ったことは近年の大きなトピックスといえる。

 

世に豚料理は数々あれど素直にポークステーキを標榜する商品は少ない。これって不思議なことだ。豚派の人々にとっては間違いなく喜ばしいメニューなのに惜しいことだと思う。

 

豚肉特有のパサつきや脂部分の処理が難しいのだろうか。理由は分からないが豚肉一本勝負のステーキはもっと普及して欲しいと切に願う。

 



マロリーポークステーキに関しては独自の調理法があるらしくしっかりと肉の“シットリ感”が活かされているのが嬉しい。おまけにアホみたいに高いイキった牛肉ステーキ専門店とは違って価格も手頃だ。

 



骨こそ付いていないがいにしえのアニメ「はじめ人間ギャートルズ」に出てきたウマそうなドデカい肉塊みたいなサイズも注文できるのが有難い。お上品にチンマリ提供される高級牛肉店の肉にはガッカリするが、ここではゲンナリするほどデカい肉に出会える。

 

ソースというかタレがまた独特の味わいで感心する。焼肉のタレとも違う焼鳥のタレとも違うここの肉に妙に合う他には無い味である。ビシャビシャつけてもウマいし、チョこっとつけてもウマい。

 



日本橋にある店舗でも食べることがあるがウーバーイーツでも頼めるので面倒な時はデリバリーで楽しむ。デリバリーだとお店だったら恥ずかしいぐらいの量を注文して何度かに分けて食べるほどお気に入りだ。


さすがに余っちゃうこともあるので、そういう時のお楽しみが“マロリーチャーハン”である。自称「炒めメシの達人」である私だ。付属のソースを活用して細切れにしたポークステーキにみじん切りタマネギを加えて炒めメシを作る。

 

ソースのせいで失敗のしようがない。追加する調味料はコショウぐらいで充分かもしれない。肉をせっせとハサミで適当なサイズにカットする作業が面倒だが、それさえこなせば至高の豚肉炒めメシがアッという間に完成する。

 


 

みじん切りタマネギは既成の冷凍品が常備されているのでそれを使えば簡単。みじん切りだから解凍作業は不要。フライパンで炒めていればすぐに食べごろになる。

 

もっとも、タマネギ無しでも肉とソースの味が完ぺきなのでコメさえあれば充分に豚派が泣いて喜ぶウマい炒めメシを作ることが出来る。

 

最近はウーバーでマロリーポークステーキを頼む際には、翌日に作ることになるこの特製炒めメシこそがメインの目的になっている気がする。

 

先日、同年代のメンバー4人での飲み会でウーバーの話になったのだが、驚くべきことに私以外にはウーバーをまったく使っていなかった。ネットスーパーも使わないらしい。

 

私の横着ぶりが際立ってしまったみたいだが、私に言わせればこうした横着も一種の老後対策である。老人になった際にネット系の便利なサービスを使いこなせないと自分自身がツラいと思う。

 

ネットのサービスは日々進歩しているからちょくちょく覗いて活用していないと付いていけない日が来ちゃうかもしれない。とくにネットスーパーなんかは商品の探し方やどんなものまで頼めるかなど日頃から使いこなしていないと案外わかりにくいものだと思う。

 

膝が痛い、腰がダメだとか言い出した時にいきなりネット系のサービスを使い始めようとしてもズンズン進化している仕組みがなかなか理解できない可能性もある。そうなったら一大事である。

 

という「言い訳」を声高に主張しながら今後も無駄遣いに精を出そうと思う。

 

 

 

 

 

 

2026年7月6日月曜日

記憶力と砂糖の話

 

気づけば今年も半分が終わった。何だかビックリである。時間の流れがやたらと早く感じるのも加齢のせいらしい。こんな感じでボンヤリしているうちに寿命が尽きるのかと思うと意味もなく焦ってしまう。

 

年の瀬になるとその1年を振り返りたくなるが、記憶力が怪しくなっているから半年単位ぐらいじゃないといろんなことを忘れてしまう。

 

というわけで年末みたいな気分でこの半年をいろいろ思い返してみた。真っ先に頭に浮かんだのが「旅行に行かなかったなあ」ということ。しかし、よく考えたら2月に沖縄、3月に大阪に行っていた。

 

いよいよ私のボケっぷりも本格的になってきたようだ。このところ物忘れがかなりヒドい。記憶力が落ちているのは確かだが、それ以前に注意力そのものが劣化している気がする。

 

何ごとにおいても関心や興味、はたまた心の機微みたいなものが鈍っている。だからちょっとしたことを忘れる。忘れるというより最初から覚えていないという感覚かもしれない。惰性で生きている証拠だ。反省したほうが良さそうだ。

 

それ以外にも都合が悪いことは記憶から消し去る能力?がパワーアップしている気がする。そもそも人間は本能的にイヤな出来事や恥ずかしい失敗を記憶から消そうとするらしい。一種の防衛本能である。

 

私自身、数えきれないぐらいの恥や失敗が記憶から消えている。旧友と話している時に昔のヤバめの出来事を突然思い出すことが頻繁にあるから、きっとまだまだ膨大な数の消した記憶が脳内に潜んでいるのだろう。

 



 ヘンテコなカフェオレの画像もどこで撮ったか完全に忘れている。撮影データを見たら5月末だったから1ヵ月程度しか経っていない。一人で入ったカフェで出てきたカフェオレだったことは覚えている。

 

オッサンの一人客相手である。ラテアートを見せたいならせいぜい葉っぱの柄にして欲しいと痛切に思ったことは覚えている。ハートマークですら小っ恥ずかしいのにアンパンマンである。妙な気分になったことはしっかり覚えているのにどこの店だったかまるで思い出せない。

 

そんな程度だから旅行に出かけた記憶も無くなっちゃうのだろう。怖い怖い。

 

それはさておき、この半年を振り返ると今まで以上に自炊モドキに精を出した気がする。ウーバーイーツへの出費が毎月10万円単位にのぼるシャバダバな暮らしなのだが、簡単調理に励む頻度は増えた。

 


 

とろたま挽肉もすっかり得意になった。挽肉を炒めて味付けをした後に卵を流し込むだけなのだが、卵への火の入れかたをミスしなくなった。炒り卵のようにもう少し火入れを強めたり、逆にもっと半熟に仕上げることも自在になった。自画自賛である。

 



こちらは豚丼の具材を作った時のものだ。あまり美味しそうに撮れていないが実際には吉野家もビックリのウマさである。冷凍のカットタマネギを使うから包丁もまな板も使わず実に簡単に出来上がる。

 

卵も豚肉もそれなりに高級なものを使う。ウチメシならではの贅沢だが、やはり素材の違いはストレートに味に反映されるのは確かだ。主婦と違って私にはエンゲル係数的感覚がゼロだからこそ成立する味だ。

 

他にも決め手はある。砂糖である。どちらも参考にしたレシピよりも砂糖はかなり多め。上質なブラウンシュガーなら安い白砂糖より身体に良いらしいのでバンバン入れちゃう。その結果がはっきりと味わいに繋がっている気がする。

 

遺伝的に血糖値が高くなりにくいことをご先祖様に感謝する日々だ。

 

この半年を振り返るつもりが単なる簡単調理自慢になってしまった。スイマセン。

 

 

 

 

2026年7月3日金曜日

性欲の謎


人間の性欲ってつくづく不思議だと思う。男性の性欲の源であるテストステロンは20代の頃にもっとも血中濃度が高く、40代を過ぎると崖から落ちるがごとく減少していくらしい。

 

40代で激減するのに世の中には50代、60代、はたまた70代でもスケベ大王は大勢いる。理屈に合わない話である。

 

20代の頃と今と比べて性欲がどう変化したかを私も冷静に考えてみた。さすがに20代の頃のほうが意欲満々だったが、さりとて当時を100とする場合、今現在が5060だとは思わない。若い頃とさほど変わらないような気もする。

 



これってひょっとすると異常なのだろうか。だとしたら恐い。診療内科で治療してもらうレベルなのだろうか。いやいや、同年代の友人の中にもお盛んなヤツはゴロゴロいる。決して多数派じゃないだろうが珍しいほどではないのだろう。

 

そう考えるとテストステロンの影響力はどの程度なのか疑問だ。個人的な推理ではそんな物質の分泌量より脳の中のさまざまな記憶や妄想が性欲を支配する最大の原因じゃないかと思う。

 

大脳の発達によって人間は性行為を単なる生殖活動だけでなく娯楽的要素も加えて楽しむようになった。これって地球上の生命体では人間だけに許された“特権”だと聞いたことがある。

 

確かに50代、60代のオヤジは生殖適齢期からウン十年も過ぎているのに懲りずに性欲を発散しようと涙ぐましい努力を重ねている。私もそうだ。人間の神秘でもあり、エロ界隈?における大いなる謎である。

 

先日、ナゼか実話ナックルズという高尚な雑誌を買ってしまったのだが、中高年向きのエロ啓発記事で溢れていた。やはりテストステロンとやらが激減しても中高年のスケベ欲求は不変のようだ。

 




かつての有力政治家・山拓さんの武勇伝?を引用したエロ記事など確実に読者対象を結構な年寄りに絞っている。中高年オヤジ、いや、高齢者への叱咤激励に満ちた良い記事だった。

 

広告然りである。アッチ系の増大効果をうたうありがちな広告も訴求ターゲットはオッサンたちである。体験談を語るサクラらしき人々は皆さんかなりのご高齢だ。いかに世の中の中高年がエロ追求に躍起になっているかが分かる。

 

まあ、超高齢社会ともなればソッチ方面の現役引退年齢も当然に上昇してくる。昭和30年代頃を背景に54歳設定だったサザエさんパパ・磯野波平さんにはエロをまったく感じないが、76歳になった後期高齢者・舘ひろしには今もちゃんとエロが漂っている。

 

世の中すべての分野で「時代のせい」がキーワードだ。何らかの言い訳や何かの規制理由などすべて「時代のせい」の一言で片づけられている。ということは結構な歳になってもエロ追求に励むことも「時代のせい」である。すなわち私のエロエロ活動も誰に恥じることなく大手を振って続ければいいということだ。

 

物凄い身勝手な論理である…。

 



あれこれ力説してしまった一方で、雑誌の中高年向けエロ記事やエロ広告が目に入っても特段なにも感じなかった自分の感度の低さがちょっと気になる。真面目に熟読する意欲が無くなってきているのはマズい事態である。

 

考えてみればもうずいぶん前から週刊誌のエッチなグラビアを見てもムホムホした気持ちにならなくなった。ブサイクなオネエサンの地味な水着姿を見ただけで性欲モリモリだった昔に比べるとまるで違う人間になったのかと思うぐらいだ。スケベを自認しているのにこんなことでは問題である。

 

スケベですかと聞かれればハイと答え、女好きですかと聞かれてもハイと即答する私だが、エロエロ言っているわりに性欲はもうすっかり減退している可能性も否定できない。

 

もちろん、いまだに据え膳はすべて食べるし、ことあるごとに狩猟本能を発揮しているのだが、はたしてそれが性欲によるものなのか怪しくなってきている。少なくとも若い頃のように本能のまま頑張っている感じはない。


さんざん性欲に関して書き連ねてきたのにちゃぶ台返しみたいだが、ひょっとすると中高年は本来の性欲など既に消滅しているのではないか。あるのは「エセ性欲」に過ぎないような気がしてきた。その証拠に50や60にもなると「もうソッチは引退」とばかりにまるでエロ方面に関心を持たなくなる男性は多い。というか全体の半分以上はそっち派だ。むしろそっちが正常な高齢男子の姿なのかもしれない。


運悪くそっち派に属すことが出来なかった私としてはエロ街道の終点を目指して終わりなき旅を続けているようなものだ。なんだかこの表現、カッチョイイかもしれない…。バカですいません。

 



さて、中高年のエセ性欲、すなわち性欲がニセモノだったならいったい何が原動力なのか。おそらく「歪んだ承認欲求」だと思う。言い換えれば「現役感の確認」である。エロ展開の際に自分がちゃんと機能するのか、相手を楽しませることが出来るのか、それを無事に突破できた時の喜びのために飽きもせずに奮戦している気がする。

 

「よし、オレもまだ通用してるぜ!」「オレもまだまだ現役じゃないか!」等々、そうした確認ができると自己承認欲求が満たされるというわけだ。むしろその感覚を味わいためだけに無理をしている部分もある。つくづくご苦労なことだと思う。


その証拠に中高年にもなるとエロ展開の際に若者時代のような独善的なプレイをする人は激減するようだ。逆にいえば中高年なのに身勝手プレイに励める人はテストステロンがちゃんと残っている正常な性欲を持つ稀有な人ともいえる。

 

さてさて、物理的にテストステロンが無くなっちゃったのに性欲バリバリみたいな中高年が多いのが不思議だったのだが、きっと性欲ではなくそうした「自己肯定感の追求」が大きく影響している可能性は高い。「オジサマ、凄かったです。若いコと全然違いました…」。お世辞だろうとお構いなしにそんなセリフを女子に言わせることで満足感に浸る。純粋な性欲とはまた別の次元の欲求だ。

 

本来なら無くなっちゃった性欲をまだまだタップリ持っていると思い込み、自己肯定感をひたすら求めて腹上死の危険も顧みず奮戦するのが「高齢者エロ道」の現実だろしたら何とも切ない話である。悲しきオスのサガである。





 

 

 

 

 

 

2026年7月1日水曜日

飯田橋、九段下、神楽坂


幼稚園から高校まで通った学校は飯田橋にある。荻窪から通っていたから地下鉄を利用するときは九段下駅を使った。飯田橋のすぐ隣の神楽坂と共にこの3か所は私にとって郷愁の街である。

 

飯田橋駅直結のラムラという商業ビルも私が中学生の頃に意気揚々と?建設していた。今ではすっかり古めかしくなって斜陽ビルみたいな感じだ。時の流れの速さを痛感する。

 

最近、立て続けにこの界隈に出かけることがあった。まずは旧友との飲み会で母校の後輩が経営する神楽坂の老舗中華である龍交亭を訪ねた。

 

飲み会で使いがちな中華居酒屋だと正直ちっとも美味しくない雑な料理が出てくるのが相場だが、こちらはちゃんとしたお店だから何を頼んでもウマかった。飲み会使い?にはもったいない感じ。




 ピータンもチャーシューもまるっきり私好みだったし、妙にデカい焼き餃子の味の濃厚さにもムホムホできた。わりと大き目なお店だがかなり混雑していたからこの界隈での人気店なんだろう。次回の悪友会?もこの店に集結することに決定。

 

お次も中華料理だが、こちらは飯田橋から九段下側に少し移動したホテルメトロポリタンの中にある「南国酒家」。こちらの老舗人気店である。

 




 ここでもピータンとチャーシューにニンマリした。最近は同じようなものばかり食べがちだ。広東系中華で出てくる甘めの味付けのチャーシューが大好きだからそれっぽいチャーシューがあれば正直それとピータンだけをツマミに熱燗にした紹興酒を飲んでいれば幸せである。

 




とはいえ、同行者がいればそうもいかず、この日は北京ダックやふかひれスープ、エビチリなどアレコレと注文。本来は好きではない紹興酒がグイグイ進んじゃうお店は料理がウマい店だという真理に今更ながら気づいた。

 

それにしてもこの界隈に来るたびにホテルグランドパレスが無くなってしまったことが悲しくなる。私のソウルフードであるシャトーソースをビチャビチャかけて食べるピラフの思い出が胸を締め付ける。大げさか。

 

さて、お次は飯田橋駅に近い神楽坂下にあるウナギの老舗「志満金」だ。神楽坂周辺のウマい店開拓を10年以上サボり続けていたから今や私が知っている間違いのない店はここぐらいしか思い浮かばない。

 



都内にウマい鰻屋さんは無数にあるが、ウナギ以外にまったく一品料理を出さないことが美徳みたいな様子の名店も多い。それはそれで正しいこだわりなのかもしれないが、やはり気の利いたツマミの34つも用意しているような店のほうが個人的には好きだ。

 

修行僧のような雰囲気でただ黙って鰻が焼かれるのを延々待たされる店の鰻の味が100点だったとする。気の利いたツマミが揃っている店の鰻の味が80点だったとしても私は後者の店を選ぶ。

 

正直いってどんな料理だろうと80点を超えれば一緒である。暴論かもしれないが私には80点と100点の差は取るに足らないレベル。だったら窮屈な思いをする100点の店に行くより酒の肴や居心地に満足できる80点の店を迷わず選ぶ。

 

この店もニクい肴がいくつもある。うざく、肝煮といった定番だけでなくカラスミを始め、鯛の塩辛のとろろ和え、へしこや鴨塩焼きなどのほか、同行の女子ウケには最適?なアロエの刺身みたいな変わったものもある。

 



この日もそうしたツマミを突きながら白焼きから鰻重という王道的な流れにしたのだが、最近は私の満腹中枢がだらしなくなってきたのが残念無念である。必然的にショボショボサイズの鰻重を選ぶようになった。

 

ほんの5年ぐらい前まではどんな状況でもその店で一番デカい鰻重を頼むことにこだわっていた。それが鰻ラバーを自認する以上は最低限のマナーだと思い込んでいたほどだ。

 



時の流れは残酷である。同行者が食べる鰻重と比べると実にショボい。ショボショボしたサイズの食べ物で満足しているようではヨボヨボな姿になるのも近いようで大いに問題だと思う。

 

神楽坂下の周辺といえば、高校時代、放課後に立ち寄ったデカい餃子の店や離れでコッソリ悪さをさせてくれた甘味処などがあった。40年以上前の話である。当時、底なし沼のような胃袋を持つ大食い少年だった私も時の流れには抗えない。郷愁の街でそんな現実を痛感させられた。