2026年8月3日月曜日

いいかげん

 

「いいかげん」、「いい加減」。同じ言葉でも何となくニュアンスが違う。前者は無責任、投げやり、おおざっぱといったネガティブな意味合いだ。後者はもちろん、適度、ちょうどいいといった肯定的な響きになる。

 

「いいかげんにしろ」。相手に伝えるにしても場面や状況で意味合いは変わる。日本語の奥ゆかしく面白い部分だろう。こんなことを書き始めたのは私自身がどんどん「いいかげん」になってきているからだ。

 

そうはいっても「いいかげん」になっちゃったつもりが実は「いい加減」になっていたような展開もある。分かりにくい書き方でスイマセン。

 


 

シンコの握りだ。夏の風物詩である。寿司通を気取るならシンコのウンチクを延々語らないと始まらないほどのド定番である。30年近く前に一念発起して客としての寿司修行?を始めた私もシンコと聞くだけでアドレナリンが出ちゃう日々を長々と過ごしてきた。

 

そんな私も還暦を過ぎ、これまでやたらとこだわってきたあらゆる分野のあらゆることへの執着が徐々に薄まってきた。シンコも然りである。


ほんの23年までは56月あたりからシンコはまだかとソワソワしていた。初モノ食いをイキの極みだと信じていた江戸時代の洒落男のDNAが染みついているのかと思うぐらい頭の中がシンコ一色だったこともある。最近はそうした執着心が急速に弱まってきた。

 

良いか悪いかではなく“薄まる感覚”自体が年の功なのかもしれない。もちろん、お寿司屋さんにシンコがあれば喜んで食べる。でも、シンコ狙いでガツガツしていた頃と違い、今では半分その存在を忘れている。「そういえばシンコってあるの?」。そんなヌルい感じで店主に尋ねて無事に出てくればニンマリする。

 

こだわりが無くなっちゃたわけではないのだが肩の力が抜けたような感じだ。これこそが「いい加減」なんだと思う。

 

でも、ほんの23年前に私からシンコのうんちくを口うるさく力説された人からすれば、シンコの存在をヘタしたら忘れちゃってる今の私のヌルさは「いいかげん」そのものに映るはずだ。

 


 

こちらは東京駅そばの「平田牧場・極み」という店で食べたヒレカツだ。この日、トンカツの気分になったのに自分がいた場所から移動するのが面倒になってこの店を選んだ。

 

いつもならお気に入りのトンカツの名店までタクシーを飛ばして駆けつける。移動距離が極端に遠くなければ迷わずそうしていた私だが、この日は「いいかげん」モード発動である。

 

とはいえ、出てきたヒレカツが充分ウマかったので単純に満足。わざわざ移動して思い入れのある名店に行ったら行ったで得難い満足感を味わえるのも確かである。そういうこだわりも捨てがたいのだが時に面倒なのも事実だ。

 

「面倒くせ~」。すなわち投げやり的な「いいかげん」精神に従うのも時には必要だ。いつもいつもハッスルしてこだわりの男を演じ続けるのもツラい。こうやって適度に種々のこだわりが薄れていくことで老境という世界に突入しやすくなるのだろうか。それはそれで良いのか悪いのか判断がつかない話である。

 



こちらは銀座の土佐料理「祢保希」で食べたカツオの塩タタキだ。何の変哲もない一品だが、私にとっては革命的?である。醤油系、ポン酢系のタレ以外でカツオのタタキを食べたことが無かった。


その食べ方が絶対だと信じて疑っていないのに塩タタキなる一品を注文してしまう私の変節というか柔軟性?に我ながらビックリした。「いいかげん」になってきた証だ。

 

でもたいしてウマくなかった。やはり王道のタレ味にしておくのが賢明だと痛感した。とはいえ、こういうハズレを経験すると自分のこだわりをもっと大事にすべきだと思い直すきっかけにもなるから悪くない。

 

ちなみにカツオのタタキには醤油とポン酢のミックスが一番美味しいというのが私のこだわりだ。どちらかを多めにするかは好みの問題。私自身は5050だ。醤油とポン酢を半々で安直なタレを作る。スライスした生ニンニクとこのタレがあれば言うこと無しって感じだ。

 

話がそれた。

 

「いいかげん」と「いい加減」をめぐる私の迷走はもちろん食における店選びに限らない。それこそいろエロな場面で直面している。そもそも「加減」とは文字通り加えたり減らしたりの世界である。力の入れ具合、抜き具合も同じ。あらゆる分野でその按配が上手いか下手かが人としての器量の決め手にもなる。

 

 

 

 

 

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