2018年8月27日月曜日

鮨處やまだ 目からウロコ


某日、中学高校の2コ下の後輩から連絡をもらう。「予約が取れない寿司屋に行きましょう」とのこと。後輩は本業の社長業の他、銀座に飲食店を二つ構え、あの街で夜な夜なブイブイ言っている豪傑男である。

先約の会食があったので、夜の9時半に合流。会食の席ではその後の寿司のためにチョロチョロと肉をつまむだけにしたが、酒も入っていたし、あまり空腹ではない。

私は結構大柄なほうだが、後輩はもっとデカい。よく食う男だし、こりゃあ付き合うのが大変だと思いながらお寿司屋さんに突入する。

聞くところによると、その店は「つまみ無し、おまかせの握りだけ」というスタイルだとか。おまかせ一辺倒の寿司屋は私がもっとも苦手なパターンだ。少したじろぐ。


店の名前は「鮨處やまだ」。カウンター8席だけのお店で、40代の大将が独特な寿司を握る。熟成させた魚を使うことでも有名らしい。

特筆すべきは値段だ。おまかせ15貫で1万円。それが基本。足りない人は追加するスタイル。銀座では考えられない価格設定である。聞けば聞くほど何となく不安になる。

で、食べてみた。後輩が店の大将と親しいおかげで、気兼ねなくその場の空気に馴染ませてもらえた。まあ、その部分が私の印象を左右しているのも事実だが、感想としては「目からウロコ」である。1本取られたって感じ。



空腹ではなかったのに、15貫すべてを美味しく食べた。ただただ握りだけ。ガリすら出てこないのだが、ガリの必要性を感じないような展開だった。食後に苦しくなることもなかった。

握りが小さめという理由もあるが、単純明快にウマかったせいだろう。ツマミを並べてダラダラと酒を飲みながらシメに握りを3つ4つというパターンに慣れ過ぎた私にとっては物凄くインパクトがあった。

寿司の原点ってこういう感じなんだろう。ある意味、「銀座の寿司屋」という一種独特な世界へのアンチテーゼと言える。

ツマミと握りで一人あたり2、3万取るのがアノ街の寿司屋にとっての「普通」だ。さすがにマズい店は少ないだろうが、酒を飲みながらどうってことのない料理と特別面白くもない握りを出されて一人3万円などという世界はスットコドッコイである。

多くの人が「銀座だから仕方ない」みたいな思考停止になりがちだから、大した腕もないのに甘い商売をやっている店もある。

そういう意味では、「鮨處やまだ」の世界観?はアリだと思う。あのレベルの握りをテンポよく堪能して明朗会計で済む。純粋にお寿司が好きな人ならヘビーユーザーになるのも分かる。

大将はコワモテではないが、そこそこ個性的で、「自分が客だったらこんな店には来たくないです」と平気で言うようなタイプだ。

客に緊張を押しつけるような職人さんではない。寡黙な修行僧みたいな様子で仕事をしているわけでもなく、相応の偏屈ぶりが垣間見える程度である。

なかなかの腕だと思う。まずシャリ自体がウマい。それに加えてネタとのバランスやシャリの握り加減が抜群だった。どれをとってもネタとシャリが完璧に一体化していた。

熟成させた魚の旨味の引き出し具合をはじめ、酢締めの加減、火を入れた青魚系も握りになった時の完成度が高かったのが印象的だ。

ただし、また行きたいかといえば微妙ではある。ただただウマい握りだけを堪能したい時には最適だろうが、なかなかそんな機会はない。

あえて言えば、「寿司屋に行く」というより「ウマいメシを食う」という使い方の店なんだと思う。変な言い方だが、それがピンとくる。

寿司屋と一口に言っても、飲み屋っぽい路線や小料理屋みたいなパターン、はたまた、ある種の社交場みたいになっている店もある。

良い悪いではなく、それが歴史のなかでの進化だ。ただ、もともとは屋台で握りをポンポンと頬張って終わりというのが寿司の姿だ。

そういう意味では、四の五の言わずに握りだけを楽しませる店が一つのジャンルとして確立されるのは自然なことかも知れない。こういう路線が好きな人には良い店だと思う。

ウマい寿司を堪能した後は後輩の馴染みのクラブで深夜まで痛飲。真面目に寿司文化を語り合おうかと思ったのだが、我が母校ではアホバカ連合の直系にあたる?先輩後輩という間柄である。結局、とことんバカ話で騒ぐ。

気付けば、寿司屋もクラブ活動も後輩にゴチになってしまった。先輩として実にヤボである。反省。

イキがって寿司を語っている場合ではない・・・。

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