2022年1月24日月曜日

ムダ話、雑談、機微

 

何度目だか分からない「まん防」が出されたことでリモートがまたまた当たり前のように行われている。何だかなあ~という感想しか出てこない。


飲食店への時短要請もナントカの一つ覚えにしか思えない。酒を飲む時間、店を閉める時間を早めればウイルスが予防できるはずはない。チンプンカンプンだろう。


お上がまん防や緊急事態宣言を出せば企業や学校も無視を決め込むわけにはいかず、とりあえずリモートの実施などでお茶を濁す。お上もそうだが、従う方も言ってみれば「やってる感」のためだけに対応しているのが現実だ。




この2年間で随分と社会のありようは変わった。マスクはもはや下着と化し、リモートを実施しない人はヒエラルキー的に下位にあるかのように扱われ、世の中の空気は合理的こそ正義みたいなドライな感じが一層強まった。


呑気だった昭和の後半時代に若者だった私からすれば、今の世相を昔と比べると革命前後かと思えるぐらい激変した感覚だ。


そもそも昔よりドライになっていたのに加えてコロナ禍である。人との接触が制限されたことで世知辛さというか、世間から大らかさが失われたような傾向がある。


オジサンは家に居場所が無いからリモートに反対しがちといったヘンテコな分析がある。職場にいた方が家で虐げられるよりマシだから出社したがるという理屈だ。


確かにそういう残念な人もいるだろうが、年齢や役職が上の人ほどリモートをあまり歓迎しない理由はそんな単純なことではない。


ちょっとした機微を察することや機知に富んだやり取りはリアルな対面での人付き合いの中でこそ可能だ。事務的なやり取りだけならリモートで構わないが、人付き合いはそんなドライなものではない。


もっと言えば、ムダ話やどうでもいい雑談の効能がコロナ禍によって失われてしまったことは大きな社会的損失だと思う。


どうでもいい雑談は結局は世の中の空気を作るのに大きく影響している。古今東西、人と人が交じり合って社会を形作ってきた。それを支えたのは会話であり言葉だ。


いまやその役割は無機質な活字表示だけのSNSが主流になりつつある。実に恐いことだ。発信される内容が冗談なのか本気なのか、ウソなのか本当なのかといった基本的なことさえうかがい知ることが出来ない。


「マジで殴るぞ」という言葉を例にとってみよう。活字で読めば実に物騒だ。リアルな対面状態で笑顔で発せられた言葉なら瞬時に冗談だと分かるが、活字だったら妙に恐い。だから活字の世界では「マジで殴るぞ(笑)」などと余計な注釈が必要になる。


この(笑)の部分は(泣)や(怒)だったりと様々な心の動きを表現するために工夫されるが、しょせん活字の世界だから人間の複雑の心模様までは表現しきれない。実際に対面していれば、例え無言であっても表情や物腰で相手の様子を知ったり分かり合うことが出来る。


先日、大学共通テストの会場で高校生がナイフを持って暴れる事件があったが、あの事件も「コロナ禍での孤独」という観点から語られていた。大らかさを失った社会を象徴するような印象がある。


人と人が直接会ってやり取りすることは人間社会の基本中の基本だ。ムダ話、雑談と言われる部分も簡単に切り捨てていいはずがない。そこから生まれるもの、学ぶものはいくらでもでもある。


この2年、コロナ対策を名目に夜の街が集中的にやり玉に挙がった。見方を変えれば「どうでもいい雑談」が徹底して弾圧されたわけだ。このダメージは大きいと思う。社会にどんな悪影響を与えたのか気になるところだ。


新型コロナによる死者はこの2年間で1万8千人ほど。ちなみにヒートショックなど入浴中に亡くなる人は1年で1万9千人、誤嚥性肺炎で亡くなる人は1年で4万人にのぼる。昭和の高度成長期の交通事故死亡者数は1年で1万5千人前後だった。


コロナを正しく恐れることも大事だが、気をつけなければいけないことは他にもたくさんあるわけだ。


新型コロナの感染が広がり始めてからもう2年も経過した。当初のパニックの頃とは確実に事情が変わってきた。ゼロコロナなる非現実的な言葉を使う人もいなくなった。現実的に向き合う段階に入ったことは間違いない。


なんだか今日はとりとめもなく堅苦しい書き方に終始してしまったので、何年か前に書いた昭和人の機微?みたいな柔らかい話を貼り付けておきます。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/04/blog-post_6.html









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