2017年3月15日水曜日

野球に教わった

野球が好きでよかった。先日の「WBC・日本VSオランダ」をテレビ観戦した率直な感想だ。大熱戦が心底面白かった。あんな興奮を味わうことは滅多にない。

昨日の試合も素晴らしかったが、オランダ戦の死闘は日本の野球史に残る空前絶後の壮絶な試合だった。

先週、一次リーグ開幕戦となったキューバ戦を東京ドームに観に行ったのだが、野球の国際大会を生で観戦できたこと自体が昭和の野球少年には夢のように思えた。

このまま2次リーグを突破できなくても満足しちゃうぐらい楽しませてもらっている。いや、そんなことを言ってはいけない。やはり米国を舞台にした決勝リーグに進んで日本野球の奥深さを世界に見せつけてもらいたいものだ。

ちなみに日曜のオランダ戦の瞬間最高視聴率は32・6%だったそうだ。やはり日本人にとって野球は別格だ。5時間近い熱闘を飽きずに見ながら野球の面白さ、奥深さを改めて痛感した。

WBCという短期決戦だから野球の「質」が違う。年間150試合以上の戦績で順位を競う通常のリーグ戦とは異なり、一発勝負に近い感覚だから緊迫感が物凄い。

甲子園の高校野球が国民的行事になっているのもリーグ戦とは違う一発勝負の総力戦だからだろう。野球が持つ面白さ、恐さ、切なさ、やるせなさといった要素がより強調される。


レジェンド・長島さんが言うように野球は「人生そのもの」だと思う。大げさだとは思わない。人生の縮図というか、教訓がたくさん詰まっている。

どんなに傑出した選手だろうとチームの中では1つのポジションを占めるに過ぎない。信頼や助け合いといった相互扶助が機能していないと勝てない。

それ自体はチームスポーツであれば野球以外も同じだが、野球には野球ならではの特徴や奥深さがある。

表裏ごとに攻守が逆になる。攻めた後は守り、守った後は攻めることを9回に渡って均等に繰り返す。攻守のバランスが優れた側に軍配が上がる。まるで人生そのものである。

攻撃にも工夫が必要だ。出塁すること、チャンスを作ることが第一歩。送りバントなど自己犠牲の手法が尊ばれ、つなぐ姿勢に徹することが必要となる。

強打者と呼ばれる選手だろうと、フルスイング一辺倒ではダメ、引っ張り一辺倒でもダメ、場面ごとの状況に応じたバッティングが必要だ。

守る際もとにかく状況判断が大事になる。これが不得手な選手はまずレギュラーにはなれない。

ピッチャーとキャッチャーで状況判断に応じた配球を組み立て、それが野手陣の立ち位置まで左右する。

剛球投手だろうと、直球一本勝負ではダメで、時に変化球を交えて相手の様子をうかがう。状況によっては敬遠という策もとる。いわば“逃げるが勝ち”の精神だ。

油断していれば盗塁という被害をこうむる。集中を欠けばエラー、すなわち失策でそれまでの努力が水泡に帰す。

実力だけでなく、運やツキが勝敗を左右することも珍しくない。ちょっとした神様のイタズラで結果が変わることも受け止めるしかない。

うまく表現できないが、生きていく上での教訓みたいなことがテンコ盛りだと思う。

私自身、中学生の頃は弱小野球部でピッチャーだった。ピッチャーをやる子供はだいたいが“お山の大将”である。自分が一番だと錯覚して、変にエバって独り相撲状態に陥り、結局試合には勝てなかった。そんなものである。

独りよがりにならず、自己犠牲を厭わず、相互扶助精神を磨かないとチーム力が向上しないのは当然だが、それに気付いたのはだいぶ後のことだった。情けない限りだ。

野球少年時代の自分の愚かさは今も私の脳裏をよぎる。トラウマに近い感覚かもしれない。あの頃を反面教師にして生きていたいと思っている。

さてさて、野球の基本はキャッチボールだ。キャッチボール自体が多くの示唆に富んでいる。「たかがキャッチボール」だが「されどキャッチボール」だ。

相手の力量に応じて捕りやすい球を投げないといけない。自分が暴投しても拾いに行くのは相手だ。相手の暴投もこっちが拾いに行く。お互いがお互いの責任を負ってしまう。深い。

相手への思いやりが絶対条件になる。丁寧に投げないと迷惑をかける。相手の失投をうまくキャッチしてリカバリーする気配りも大事である。

なんだかんだと野球にはいろいろなことを教えてもらった。子供の頃に戻ってやり直してみたいことがあるとすれば、一に野球、二に勉強だろう。

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