ワイワイと騒ぐ時間も好きだが、一人しっぽり過ごす時間も好きだ。たいていの人にとって社交的な部分と内向的な部分は共存している。私も同じだ。いろんな自分がいる。人前で陽気に騒ぐ自分もいれば内向きになって何時間も無表情で過ごす自分もいる。
真面目な自分もいればフシダラ極まりない自分もいる。それが人間だろう。若者が“自分探し”などと口にするが、「自分」とはそんな簡単なものではない。死ぬまで、いや死んでも分からないままだと思う。
そんな面倒な話を書くつもりではなかった。散歩の途中で隅田川を眺めながら一人静かに味わうコーヒーが好きだという話を書こうとして脱線した。一人時間、それも無表情でボケっとする時間の話である。私にとってプチハッピー?な時間だ。
門前仲町側の永代橋のたもとに「ガムツリーコーヒー」という専門店がある。そこで買ったコーヒーを隅田川沿いの遊歩道のベンチに座って飲んでいると妙にリラックスできる。涼しくなってきたからこれからの週末はマメに通いそうな気がする。
隅田川テラスと呼ばれる川沿いの遊歩道は中央区や台東区など近隣住民にとって憩いの場だ。もちろん遠方から来ても散歩コースとしては秀逸だ。当然ながら信号も車も自転車もいない空間である。行き交う船を眺めながらノンビリするのは最高だ。
カフェモカみたいなちょっと甘味のあるコーヒーにエスプレッソショットを追加するのが私の定番だ。職場やウチで飲んでいるスティックコーヒーより100倍ウマい。スティックコーヒーと比べては専門店に失礼か…。
昔から感じているのだが、一人の時間の充実度がそれ以外の時間を楽しめるかどうかを左右するのだと思う。誰かといればどうしても気を遣うし、かといって常に一人でいるのも味気ない。人と過ごす時間はフルにエネルギーを発揮して、一人の時にノホホンと充電するー。どうやらそんなことの繰り返しで生きている気がする。
先日、某・仲良しオネエサンと銀座の和食屋さんでしっかり飲み食いした後に近くのバーに立ち寄った。バーといってもオーセンティック系ではない。賑やか系だ。昔からの付き合いがある中年ママが切り盛りする店で、ママさんの他に私と同年代のオカマちゃんや若いバーテンくんなど雑多な面々が賑やかに楽しませてくれる。
いつもは夜のクラブ活動の合間や飲み直しに一人で顔を出すのだが、この日は珍しく女性を連れていったせいでお店の面々がやけに盛り上げてくる。こっちも調子に乗って絶叫系のカラオケを連発したりして騒ぐ。
そのうち、ノリノリになったオカマちゃんがそのオネエサンを襲い始めた。素敵な時間である。画像はとりあえず白黒に加工してみた。私はこういう乱痴気騒ぎが大好物だ、男ならみんな大好物だろう。
オネエサンもアニソンを熱唱しながらオカマちゃんと戦闘状態である。この画像以上の展開についてはここには書けないが、寝取られ系フェチ度が強め?の私にとっては至福の時間だった。
こういうバカ騒ぎも時には必要だ。とくに中高年になるといろんなブレーキが作用してハジける場面がどんどん減ってくる。それが「分別」というやつなんだろうが、フンベツなんて社会秩序のために誰かが押し付けてきた根拠不明の迷信みたいなものである。
眉をひそめる人もいるだろうが、たまには眉をひそめられる側になってみるのも悪くない。あと何年ぐらい元気でいられるか分からないから機会があればバカ騒ぎの時間を確保したいものである。
思えば若い人が喜んで食べるようなファストフードをむさぼり食い、コンビニスイーツに常日頃から世話になり、ハヤリのドラマ「VIVANT」にハマり、関連するネット配信番組「悪役会議室」まで楽しみにしているように私の行動パターンには“還暦オヤジらしさ”がちょっと足りない。
若ぶっているつもりはないし、若ぶりたい願望もないのだが、ミーハーというか落ち着きがないというか、どうもドッシリ感が欠如しているようだ。バカ騒ぎを反省するどころか推奨しかねない精神構造はちょっと考えものかもしれない。
とはいえ、そんな自分もまた“正規の自分”である。生真面目で小心者な自分も正規の自分であり、倫理に嚙みつきたい自分も正規の自分である。バカ騒ぎしている時に「テキトーにしておけよ!」と脳裏で囁きながら注意してくれる心の声もまた正規の自分の声である。
要は「自分A」「自分B」「自分C」みたいにいろんな自分がいて、そのどれもが自分そのものである。当たり前だがそういうもんだろう。だからどっちかの自分が粗相しても、どっちかの自分に免じてご容赦願いたい。


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