ジェンダー、ジェンダーと世の中が神経質になる感じは強まるばかりだ。最近は女優という言葉さえ俳優に言い換えられるほど。女優という固有名詞が持つニュアンスまで否定されるのは何だかビミョーだ。
今日は更新が間に合わなかったから6年前にブツクサ書いた「言い換え」の話を再掲したい。今よりはまだユルかった頃だ。この先どこまで迷走?しちゃうのか興味深い。
https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/02/blog-post_5.html
東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜が原則だが、週2回しか更新できないことが増えている。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
ジェンダー、ジェンダーと世の中が神経質になる感じは強まるばかりだ。最近は女優という言葉さえ俳優に言い換えられるほど。女優という固有名詞が持つニュアンスまで否定されるのは何だかビミョーだ。
今日は更新が間に合わなかったから6年前にブツクサ書いた「言い換え」の話を再掲したい。今よりはまだユルかった頃だ。この先どこまで迷走?しちゃうのか興味深い。
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本屋さんに立ち寄った際にグルメ情報誌の焼鳥特集を眺めていたのだが、ちょっと驚いたのが近年登場したオシャレ系焼鳥屋さんの多くがコースだけで勝負していることだ。
ここ10年、いや20年ぐらいだろうかコースだけをウリにする飲食店が増えた。焼鳥までそんな風潮に呑まれ始めているわけだ。私がブツクサ言ったところで仕方ないが、これもまた世の中のマイルド化の象徴みたいな話かもしれない。
好き嫌いが多い私だからコース料理は昔から苦手だ。この話は最近も書いた気がする。そりゃあ格式高い西洋料理屋だったら計算され尽くしたコース料理を黙って食べる。「そういうもの」という理解が追いつく。
さて焼鳥だ。私はネギ間が好きじゃないし、ボン尻も皮も苦手だ。塩味で出されるレバーも嬉しくない。細かいことを言えばキリがない。コースだとこれらに遭遇してもおかしくない。
食べられないわけではない。逆にそこが問題だ。食べられないものならハナから同行者にあげたり素直に残せる。中途半端に食べられる以上は渋々食べる。外食先で渋々食べるという行為はストレスだ。
好きなものを食べに行きたいから外食に行く。なのになぜ食べたくもないもので腹を満たす必要があるのか。単に私がワガママなだけだが、カジュアルな食べ物に関してはコースはやめてもらいたいと切に願う。
最近、気鋭の鰻屋が私の行動範囲に鳴り物入りでオープンしたと聞いてワクワクしていたのだが、そこもコース一辺倒だったからパス。珍しい鰻の刺身も出すらしいが、私はそこに興味はない。鰻の刺身はビックリするほどウマいものでもない。
他にもコースだと揚げものやら箸休めだとかおそらく“鰻気分”とは無関係なものも出てくるはずだ。もはや大食漢ではない私にとっては一部の料理が苦行になってしまう。
お寿司さんに関しても「コースのみ」という不思議な形態は今や都市部の小洒落た外観の店ならごく普通の様式になった。時代とともに進化するのはどの世界でも常だが、寿司の世界における「コースのみ」というパターンは進化ではなく劣化だと思う。
これもまた私が好き嫌い大王だからとくにそう思うのかもしれない。イカ、赤貝あたりはナゼか食べないし、たいていの店でメインイベントみたいに出されるトロも苦手だ。そうなると私には実に居心地が悪い。
こちらとしてはシメはワサビの効いたかんぴょう巻きかたまごの握りと決めている。たまごだってナゼか今はシャリつきで出さない店ばかりだ。握りで食べてこそシメの一品にバッチリだと思うのだが時代遅れなのだろうか。かんぴょう然りである。トロたくあたりに押されてさほど人気が無い。もったいないと思う。
好きなペースで好きなものを好きな量。ここが大原則であり、世界にも稀なこういう客優先のシステムが確立されている。それなのに画一的なコースで済まされてしまったら意味がない。
たいていのイマドキのそういう店は不思議と客単価が3万だ5万だと摩訶不思議な値付けだ。だったら全席個室にして一皿一皿うやうやしく運ぶようなスタイルにしても採算が合うんじゃないかとさえ思う。
書き連ねると私の偏屈ぶりに拍車がかかっちゃうからテキトーにしないといけない。
まあ、今のようなコースのみで勝負する店が増えたことは超高齢化による働き手の不足や、“いわずもがな”の常識や気配りが世間から失われつつあることも影響している。
たくさんのメニューを臨機応変に提供するにはそれなりに人手が必要だ。人材不足なら店側は決まったものを順番通りに出すという流れ作業に落ち着く。
“いわずもがな”のほうは、たとえばシンコの握りだけ10貫くれとか、かっぱ巻きと酒だけで何時間も居座るとか、最低限の常識が分からないマヌケな客が増えたことを意味する。
店の規模によって仕入れの量や塩梅は決まっている。想定客単価も店ごとに決まっているわけだから、あまりにもシャバダバな客が増えれば商売として厳しい。だからコースのみというスタイルを防衛策にしている面もあるわけだ。したがって私ごときが批判がましく言ったところで意味はない。
ただ、昭和の人間に言わせれば、今のスタイルが標準になれば客と寿司職人の丁々発止も無くなり、文化としての寿司の在り方も変わっていくと思う。残念だが客も店も育たないという淋しい状況になっていくと思う。
私自身、30歳ぐらいから日本中のお寿司屋さんで“客としての修行”に励みさまざまなことを学んだ。その経験は財産だ。私に限らず回転寿司のなかった昔は日本中どこでも街場のお寿司屋さんでみんなが学んだ。大人はもちろん、子供たちが寿司という世界のイロハのイを自然と身につけていった。
全国各地のそんな小さなやり取りの集合体みたいな空気が「カウンターで寿司を食う」という一種独特な日本の食文化を作ってきたわけだ。
その後、回転寿司の普及が世界を大きく変えた。マナーも常識も気にしなくてよくなったから寿司の世界は大転換期を迎えた。いわば対人コミュニケーションが不要になったわけだ。そしてそこからたどり着いた先が「コースのみ」の高級寿司なのかもしれない。これは私の仮説だが、丁々発止のやり取りが不必要とされている点が回転寿司と共通している。
でもそれが時代の必然なら私がアーダコーダ言ったところで意味がない。なんだか“置いてけぼり”にされているようでちょっと切ない。
好き嫌いがまったく無いならそんなイマドキ寿司業界の軍門に下ったほうがラクチンかもしれないが、やっぱり食いたくないもので腹を満たすのはストレスだ。今後も偏屈でいようと思う。
若い頃は牛肉ばかり食べていたが最近はすっかり豚派になった。ラーメン類を食べる時もチャーシューが第一目的だし、モツ焼き屋にもわりと頻繁に出かける。高級中華に行っても前菜に甘めの味付けのチャーシューがあればそればかり食べる。
自宅でも生姜焼きやら豚しゃぶやら味噌ダレで焼いたりと豚中心の簡単調理に励んでいる。ふるさと納税の返礼品も高級豚肉を好んで取り寄せている。
豚好きにとって聖なる一品と呼びたくなるのがトンカツだが、時には衣の存在が気になる。すぐ太るし血圧やコレステロールを一応は気にする私にとって衣の存在はまさに「愛憎愛半ば」みたいなものである。
そんな私にとって願ったり叶ったりの一品がポークステーキである。最近、店舗が増えつつある「マロリーポークステーク」に出会ったことは近年の大きなトピックスといえる。
世に豚料理は数々あれど素直にポークステーキを標榜する商品は少ない。これって不思議なことだ。豚派の人々にとっては間違いなく喜ばしいメニューなのに惜しいことだと思う。
豚肉特有のパサつきや脂部分の処理が難しいのだろうか。理由は分からないが豚肉一本勝負のステーキはもっと普及して欲しいと切に願う。
マロリーポークステーキに関しては独自の調理法があるらしくしっかりと肉の“シットリ感”が活かされているのが嬉しい。おまけにアホみたいに高いイキった牛肉ステーキ専門店とは違って価格も手頃だ。
骨こそ付いていないがいにしえのアニメ「はじめ人間ギャートルズ」に出てきたウマそうなドデカい肉塊みたいなサイズも注文できるのが有難い。お上品にチンマリ提供される高級牛肉店の肉にはガッカリするが、ここではゲンナリするほどデカい肉に出会える。
ソースというかタレがまた独特の味わいで感心する。焼肉のタレとも違う焼鳥のタレとも違うここの肉に妙に合う他には無い味である。ビシャビシャつけてもウマいし、チョこっとつけてもウマい。
日本橋にある店舗でも食べることがあるがウーバーイーツでも頼めるので面倒な時はデリバリーで楽しむ。デリバリーだとお店だったら恥ずかしいぐらいの量を注文して何度かに分けて食べるほどお気に入りだ。
さすがに余っちゃうこともあるので、そういう時のお楽しみが“マロリーチャーハン”である。自称「炒めメシの達人」である私だ。付属のソースを活用して細切れにしたポークステーキにみじん切りタマネギを加えて炒めメシを作る。
ソースのせいで失敗のしようがない。追加する調味料はコショウぐらいで充分かもしれない。肉をせっせとハサミで適当なサイズにカットする作業が面倒だが、それさえこなせば至高の豚肉炒めメシがアッという間に完成する。
みじん切りタマネギは既成の冷凍品が常備されているのでそれを使えば簡単。みじん切りだから解凍作業は不要。フライパンで炒めていればすぐに食べごろになる。
もっとも、タマネギ無しでも肉とソースの味が完ぺきなのでコメさえあれば充分に豚派が泣いて喜ぶウマい炒めメシを作ることが出来る。
最近はウーバーでマロリーポークステーキを頼む際には、翌日に作ることになるこの特製炒めメシこそがメインの目的になっている気がする。
先日、同年代のメンバー4人での飲み会でウーバーの話になったのだが、驚くべきことに私以外にはウーバーをまったく使っていなかった。ネットスーパーも使わないらしい。
私の横着ぶりが際立ってしまったみたいだが、私に言わせればこうした横着も一種の老後対策である。老人になった際にネット系の便利なサービスを使いこなせないと自分自身がツラいと思う。
ネットのサービスは日々進歩しているからちょくちょく覗いて活用していないと付いていけない日が来ちゃうかもしれない。とくにネットスーパーなんかは商品の探し方やどんなものまで頼めるかなど日頃から使いこなしていないと案外わかりにくいものだと思う。
膝が痛い、腰がダメだとか言い出した時にいきなりネット系のサービスを使い始めようとしてもズンズン進化している仕組みがなかなか理解できない可能性もある。そうなったら一大事である。
という「言い訳」を声高に主張しながら今後も無駄遣いに精を出そうと思う。
気づけば今年も半分が終わった。何だかビックリである。時間の流れがやたらと早く感じるのも加齢のせいらしい。こんな感じでボンヤリしているうちに寿命が尽きるのかと思うと意味もなく焦ってしまう。
年の瀬になるとその1年を振り返りたくなるが、記憶力が怪しくなっているから半年単位ぐらいじゃないといろんなことを忘れてしまう。
というわけで年末みたいな気分でこの半年をいろいろ思い返してみた。真っ先に頭に浮かんだのが「旅行に行かなかったなあ」ということ。しかし、よく考えたら2月に沖縄、3月に大阪に行っていた。
いよいよ私のボケっぷりも本格的になってきたようだ。このところ物忘れがかなりヒドい。記憶力が落ちているのは確かだが、それ以前に注意力そのものが劣化している気がする。
何ごとにおいても関心や興味、はたまた心の機微みたいなものが鈍っている。だからちょっとしたことを忘れる。忘れるというより最初から覚えていないという感覚かもしれない。惰性で生きている証拠だ。反省したほうが良さそうだ。
それ以外にも都合が悪いことは記憶から消し去る能力?がパワーアップしている気がする。そもそも人間は本能的にイヤな出来事や恥ずかしい失敗を記憶から消そうとするらしい。一種の防衛本能である。
私自身、数えきれないぐらいの恥や失敗が記憶から消えている。旧友と話している時に昔のヤバめの出来事を突然思い出すことが頻繁にあるから、きっとまだまだ膨大な数の消した記憶が脳内に潜んでいるのだろう。
オッサンの一人客相手である。ラテアートを見せたいならせいぜい葉っぱの柄にして欲しいと痛切に思ったことは覚えている。ハートマークですら小っ恥ずかしいのにアンパンマンである。妙な気分になったことはしっかり覚えているのにどこの店だったかまるで思い出せない。
そんな程度だから旅行に出かけた記憶も無くなっちゃうのだろう。怖い怖い。
それはさておき、この半年を振り返ると今まで以上に自炊モドキに精を出した気がする。ウーバーイーツへの出費が毎月10万円単位にのぼるシャバダバな暮らしなのだが、簡単調理に励む頻度は増えた。
とろたま挽肉もすっかり得意になった。挽肉を炒めて味付けをした後に卵を流し込むだけなのだが、卵への火の入れかたをミスしなくなった。炒り卵のようにもう少し火入れを強めたり、逆にもっと半熟に仕上げることも自在になった。自画自賛である。
こちらは豚丼の具材を作った時のものだ。あまり美味しそうに撮れていないが実際には吉野家もビックリのウマさである。冷凍のカットタマネギを使うから包丁もまな板も使わず実に簡単に出来上がる。
卵も豚肉もそれなりに高級なものを使う。ウチメシならではの贅沢だが、やはり素材の違いはストレートに味に反映されるのは確かだ。主婦と違って私にはエンゲル係数的感覚がゼロだからこそ成立する味だ。
他にも決め手はある。砂糖である。どちらも参考にしたレシピよりも砂糖はかなり多め。上質なブラウンシュガーなら安い白砂糖より身体に良いらしいのでバンバン入れちゃう。その結果がはっきりと味わいに繋がっている気がする。
遺伝的に血糖値が高くなりにくいことをご先祖様に感謝する日々だ。
この半年を振り返るつもりが単なる簡単調理自慢になってしまった。スイマセン。
人間の性欲ってつくづく不思議だと思う。男性の性欲の源であるテストステロンは20代の頃にもっとも血中濃度が高く、40代を過ぎると崖から落ちるがごとく減少していくらしい。
40代で激減するのに世の中には50代、60代、はたまた70代でもスケベ大王は大勢いる。理屈に合わない話である。
20代の頃と今と比べて性欲がどう変化したかを私も冷静に考えてみた。さすがに20代の頃のほうが意欲満々だったが、さりとて当時を100とする場合、今現在が50や60だとは思わない。若い頃とさほど変わらないような気もする。
これってひょっとすると異常なのだろうか。だとしたら恐い。診療内科で治療してもらうレベルなのだろうか。いやいや、同年代の友人の中にもお盛んなヤツはゴロゴロいる。決して多数派じゃないだろうが珍しいほどではないのだろう。
そう考えるとテストステロンの影響力はどの程度なのか疑問だ。個人的な推理ではそんな物質の分泌量より脳の中のさまざまな記憶や妄想が性欲を支配する最大の原因じゃないかと思う。
大脳の発達によって人間は性行為を単なる生殖活動だけでなく娯楽的要素も加えて楽しむようになった。これって地球上の生命体では人間だけに許された“特権”だと聞いたことがある。
確かに50代、60代のオヤジは生殖適齢期からウン十年も過ぎているのに懲りずに性欲を発散しようと涙ぐましい努力を重ねている。私もそうだ。人間の神秘でもあり、エロ界隈?における大いなる謎である。
先日、ナゼか実話ナックルズという高尚な雑誌を買ってしまったのだが、中高年向きのエロ啓発記事で溢れていた。やはりテストステロンとやらが激減しても中高年のスケベ欲求は不変のようだ。
かつての有力政治家・山拓さんの武勇伝?を引用したエロ記事など確実に読者対象を結構な年寄りに絞っている。中高年オヤジ、いや、高齢者への叱咤激励に満ちた良い記事だった。
広告然りである。アッチ系の増大効果をうたうありがちな広告も訴求ターゲットはオッサンたちである。体験談を語るサクラらしき人々は皆さんかなりのご高齢だ。いかに世の中の中高年がエロ追求に躍起になっているかが分かる。
まあ、超高齢社会ともなればソッチ方面の現役引退年齢も当然に上昇してくる。昭和30年代頃を背景に54歳設定だったサザエさんパパ・磯野波平さんにはエロをまったく感じないが、76歳になった後期高齢者・舘ひろしには今もちゃんとエロが漂っている。
世の中すべての分野で「時代のせい」がキーワードだ。何らかの言い訳や何かの規制理由などすべて「時代のせい」の一言で片づけられている。ということは結構な歳になってもエロ追求に励むことも「時代のせい」である。すなわち私のエロエロ活動も誰に恥じることなく大手を振って続ければいいということだ。
物凄い身勝手な論理である…。
あれこれ力説してしまった一方で、雑誌の中高年向けエロ記事やエロ広告が目に入っても特段なにも感じなかった自分の感度の低さがちょっと気になる。真面目に熟読する意欲が無くなってきているのはマズい事態である。
考えてみればもうずいぶん前から週刊誌のエッチなグラビアを見てもムホムホした気持ちにならなくなった。ブサイクなオネエサンの地味な水着姿を見ただけで性欲モリモリだった昔に比べるとまるで違う人間になったのかと思うぐらいだ。スケベを自認しているのにこんなことでは問題である。
スケベですかと聞かれればハイと答え、女好きですかと聞かれてもハイと即答する私だが、エロエロ言っているわりに性欲はもうすっかり減退している可能性も否定できない。
もちろん、いまだに据え膳はすべて食べるし、ことあるごとに狩猟本能を発揮しているのだが、はたしてそれが性欲によるものなのか怪しくなってきている。少なくとも若い頃のように本能のまま頑張っている感じはない。
さんざん性欲に関して書き連ねてきたのにちゃぶ台返しみたいだが、ひょっとすると中高年は本来の性欲など既に消滅しているのではないか。あるのは「エセ性欲」に過ぎないような気がしてきた。その証拠に50や60にもなると「もうソッチは引退」とばかりにまるでエロ方面に関心を持たなくなる男性は多い。というか全体の半分以上はそっち派だ。むしろそっちが正常な高齢男子の姿なのかもしれない。
運悪くそっち派に属すことが出来なかった私としてはエロ街道の終点を目指して終わりなき旅を続けているようなものだ。なんだかこの表現、カッチョイイかもしれない…。バカですいません。
さて、中高年のエセ性欲、すなわち性欲がニセモノだったならいったい何が原動力なのか。おそらく「歪んだ承認欲求」だと思う。言い換えれば「現役感の確認」である。エロ展開の際に自分がちゃんと機能するのか、相手を楽しませることが出来るのか、それを無事に突破できた時の喜びのために飽きもせずに奮戦している気がする。
「よし、オレもまだ通用してるぜ!」「オレもまだまだ現役じゃないか!」等々、そうした確認ができると自己承認欲求が満たされるというわけだ。むしろその感覚を味わいためだけに無理をしている部分もある。つくづくご苦労なことだと思う。
その証拠に中高年にもなるとエロ展開の際に若者時代のような独善的なプレイをする人は激減するようだ。逆にいえば中高年なのに身勝手プレイに励める人はテストステロンがちゃんと残っている正常な性欲を持つ稀有な人ともいえる。
さてさて、物理的にテストステロンが無くなっちゃったのに性欲バリバリみたいな中高年が多いのが不思議だったのだが、きっと性欲ではなくそうした「自己肯定感の追求」が大きく影響している可能性は高い。「オジサマ、凄かったです。若いコと全然違いました…」。お世辞だろうとお構いなしにそんなセリフを女子に言わせることで満足感に浸る。純粋な性欲とはまた別の次元の欲求だ。
本来なら無くなっちゃった性欲をまだまだタップリ持っていると思い込み、自己肯定感をひたすら求めて腹上死の危険も顧みず奮戦するのが「高齢者エロ道」の現実だろしたら何とも切ない話である。悲しきオスのサガである。
幼稚園から高校まで通った学校は飯田橋にある。荻窪から通っていたから地下鉄を利用するときは九段下駅を使った。飯田橋のすぐ隣の神楽坂と共にこの3か所は私にとって郷愁の街である。
飯田橋駅直結のラムラという商業ビルも私が中学生の頃に意気揚々と?建設していた。今ではすっかり古めかしくなって斜陽ビルみたいな感じだ。時の流れの速さを痛感する。
最近、立て続けにこの界隈に出かけることがあった。まずは旧友との飲み会で母校の後輩が経営する神楽坂の老舗中華である龍交亭を訪ねた。
飲み会で使いがちな中華居酒屋だと正直ちっとも美味しくない雑な料理が出てくるのが相場だが、こちらはちゃんとしたお店だから何を頼んでもウマかった。飲み会使い?にはもったいない感じ。
お次も中華料理だが、こちらは飯田橋から九段下側に少し移動したホテルメトロポリタンの中にある「南国酒家」。こちらの老舗人気店である。
とはいえ、同行者がいればそうもいかず、この日は北京ダックやふかひれスープ、エビチリなどアレコレと注文。本来は好きではない紹興酒がグイグイ進んじゃうお店は料理がウマい店だという真理に今更ながら気づいた。
それにしてもこの界隈に来るたびにホテルグランドパレスが無くなってしまったことが悲しくなる。私のソウルフードであるシャトーソースをビチャビチャかけて食べるピラフの思い出が胸を締め付ける。大げさか。
さて、お次は飯田橋駅に近い神楽坂下にあるウナギの老舗「志満金」だ。神楽坂周辺のウマい店開拓を10年以上サボり続けていたから今や私が知っている間違いのない店はここぐらいしか思い浮かばない。
都内にウマい鰻屋さんは無数にあるが、ウナギ以外にまったく一品料理を出さないことが美徳みたいな様子の名店も多い。それはそれで正しいこだわりなのかもしれないが、やはり気の利いたツマミの3つ4つも用意しているような店のほうが個人的には好きだ。
修行僧のような雰囲気でただ黙って鰻が焼かれるのを延々待たされる店の鰻の味が100点だったとする。気の利いたツマミが揃っている店の鰻の味が80点だったとしても私は後者の店を選ぶ。
正直いってどんな料理だろうと80点を超えれば一緒である。暴論かもしれないが私には80点と100点の差は取るに足らないレベル。だったら窮屈な思いをする100点の店に行くより酒の肴や居心地に満足できる80点の店を迷わず選ぶ。
この店もニクい肴がいくつもある。うざく、肝煮といった定番だけでなくカラスミを始め、鯛の塩辛のとろろ和え、へしこや鴨塩焼きなどのほか、同行の女子ウケには最適?なアロエの刺身みたいな変わったものもある。
この日もそうしたツマミを突きながら白焼きから鰻重という王道的な流れにしたのだが、最近は私の満腹中枢がだらしなくなってきたのが残念無念である。必然的にショボショボサイズの鰻重を選ぶようになった。
ほんの5年ぐらい前まではどんな状況でもその店で一番デカい鰻重を頼むことにこだわっていた。それが鰻ラバーを自認する以上は最低限のマナーだと思い込んでいたほどだ。
時の流れは残酷である。同行者が食べる鰻重と比べると実にショボい。ショボショボしたサイズの食べ物で満足しているようではヨボヨボな姿になるのも近いようで大いに問題だと思う。
神楽坂下の周辺といえば、高校時代、放課後に立ち寄ったデカい餃子の店や離れでコッソリ悪さをさせてくれた甘味処などがあった。40年以上前の話である。当時、底なし沼のような胃袋を持つ大食い少年だった私も時の流れには抗えない。郷愁の街でそんな現実を痛感させられた。
15年ほど前に独身に戻った際、何はともあれ「ウマいコメ」の追求に励んだ。それまでは小さい子供もいる状況だったからご飯を炊く際もすべて私好みにしてもらえるわけではなかった。
専業主婦だった元嫁様に料理を任せている以上、私がアレコレ細かいことを言いにくいのもあった。独身になったら自分でやらなきゃならない代わりに100%自分の好みに出来るようになった。結果、コメ選びから炊き加減までB型気質を発揮して大真面目に向き合ってみた。
炊飯器のこともちょこっと勉強した。大雑把にいえば「圧力系」「非圧力系」に分かれるらしいのだが、もっちりした感じより粒立った感じの炊き上がりが好みなら非圧力系が適していると知り、そっち系の商品を探した。
とにかくコメを硬めに炊きたい私としてはコメの品種も真剣に調べた。たいていの日本人が好む「もっちり」「粘り」という表現が強調されている米は基本的にパスした。なんなら「サラサラ」「ゴワゴワ」ぐらいに炊き上がって欲しい。
で、硬く炊いたほうがウマいと評判の「つや姫」に辿り着き、その後は「つや姫」の派生ブランド米である「雪若丸」に落ち着いて今に至る。
そうした涙ぐましい?努力の果てに「非圧力系の炊飯器で雪若丸無洗米を水加減をかなり少な目で早炊きする」という自分流の完全無欠なパターンを確立した。
炊き立てを冷凍することもあるのだが、上手に解凍すればウマさは9割がた維持される。そこらへんのコメ自慢の料理屋よりもウマいコメを常に食べている自負はある。あくまで私の感覚だがそう断言できちゃうこと自体が幸せだ。
白米ももちろんウマいが、炒めご飯や炊き込みご飯もウマい。普通に白米として食べる時は、2合の場合、水加減を1.7合目あたりに合わせて炊く。炒めご飯用に炊く際は1.6合目ぐらいの水加減でコメの芯が残らないギリギリぐらいの硬さに炊くようにしている。
チキンライスである。前にも書いたが最近知った「パパヤソース」という京都の会社のチキンライスの素にハマったので近頃はこれ一辺倒である。
ちょっと良い鶏肉を多めに入れて、マッシュルームやタマネギみじん切りを加えて炒める。タマネギは安直に冷凍モノで済ませる。鶏肉を塩コショウと白ワインで炒めてから硬く炊いたコメとドッキングさせる。毎日でも食べたいウマさだ。
挽肉炒めメシも失敗しない一品だ。塩コショウにコンソメ、ウスターソースをベースにすることが私流の基本だが、上の画像は焼肉のタレをベースに炒めメシに仕上げた。間違いのない味だった。
炊き込みご飯もわりとよく作るのだが、炒めメシよりも簡単とはいえ、意外に炊き加減が難しい。具材から出る水分量がよめないことや早炊きモードだと高熱過ぎて具材に火が通り過ぎる問題もあるようだ。なかなか奥が深い。
ピラフ好きな私が最近知った商品が焼肉のタレで有名なモランボン製のエビピラフの素である。まさに安直の極みだ。エビを入れて炊飯器で炊くだけ。豪華にしたければ具材を追加すればいろんなパターンを楽しめる。味も極めてオーソドックスなピラフ味だ。
パスタソースを応用してピラフを炊くこともある。そこら辺のスーパーで売っている「あさりコンソメ」などのパスタソースをベースにエビやらアサリ缶詰などを追加投入して炊くだけで済む。
炊き上がったあとにバターを追加してしばし蒸らしてから混ぜ合わせれば官能的な香りと味わいにムホムホできる。水加減さえ失敗しなければ誰でも本格的なピラフが作れる。
こういう簡便調理はインスタのリール動画を見ていると飽きるほど紹介されている。便利な時代になったものだ。15年前の離婚直後の頃が今のようなインスタ最盛期だったらきっと私はズボラ調理に励んで引きこもりのような暮らしをしていたと思う。
料理ベタ、料理嫌いの人にとっては、ごくごく短い動画でズボラ調理が学べる今の時代は幸運だと思う。「自炊」と聞くと細々とした下準備やいくつもの面倒な作業を乗り越えなければならないと思い込んでいた昭和人である私にとっても有難い限りだ。
ちなみに自分好みのコメざんまいを満喫できるのは非常に幸せなことだが、その一方で外食の際に時々遭遇するマズいコメへの嫌悪感はヒートアップする一方だ。
どう考えても水加減を間違えたとしか思えないビチャビチャした食感のコメを出す店やヘンテコな匂いがするようなダメ米を出す店は何とかならないものだろうか。
コメは日本の宝である。誠意をもって愛情たっぷりに炊いてほしい。コメづくりに真摯に取り組む農家さんへの敬意と感謝を込める意味でも真面目に炊いてほしいと切に願う。
おかしな結論になってしまった…。
自堕落な食生活が続いていると本能的に「ちゃんとしたモノ」を食べなければと悔い改めたくなる。とはいえ「ちゃんとしたモノ」って何なのかさっぱり分かっていないのが困りものだ。
家庭料理っぽい芋の煮っころがしやら野菜炒めあたりが該当しそうだが、芋は基本的に嫌いだし、野菜だってちょろっと食べたところで身体に必要な栄養素を補充するのは難しい。
もちろんファストフードばかり食べるなら家庭料理っぽいもののほうがマシである。でもその差が健康状態にどのぐらいの影響を及ばすのかを考えるとビミョーだ。サプリや青汁にサポートしてもらえば充分だとも思える。
というわけで、とりあえす肉ばかり食べていないで魚をちゃんと食べようと意識するようにしている。焼き魚、煮魚は安直かつ横着な自炊モドキに励む私にはハードルが高い。仕方なく出来合いの簡便食品をふるさと納税の返礼品で取り寄せることが多い。
たいていのこういう商品は切り身が小さい。一つだと満足感には程遠いのだが、画像の2種類は一個あたりの分量がそこそこあるので悪くない。
世の中で数えきれないほど売られている“出来合いの焼き魚”に関しては切り身一つ当たりの分量を重視して選ぶことが大事だと声を大にして主張したい。
しっかりした量の簡便焼き魚を白米と漬物と一緒に食べれば「普通の人の真っ当な食事」みたいな雰囲気になるので精神衛生上もとても良い感じだ。
さてさて、魚を意識して食べようなどと思う裏には日頃の肉食中心の生活をちょろっと反省したい気持ちがあるわけだ。肉がダメだと短絡的に決めつける気はないが、年齢不相応?な怪しげなものまで嬉々として食べてしまうのが私の悪いクセである。
こういう宣伝を見てしまったらすぐに欲しくなる。わが家にはレトルトカレーのストックがたくさんあるのだが、そんなことはお構いなしである。値段も気にせずソッコーで注文しちゃう。
ちなみに1個1000円以上だった。レトルトカレーとしては破格だが“お客様の夢実現”などといわれちゃうと買わないわけにはいかない。松茸やらトリュフ味やらのペヤング焼きそばの迷走系?商品を迷わず買うのと同じ心理である。
きっとアイドルの推し活をしているオタクがさまざまなグッズをバンバン買っちゃうのと同じ感覚だろう。後先考えずに脳が買うべしと命令してくる感じだ。
画像だと分かりにくいが実際に食べてみたら確かに肉だらけだった。物事は何ごともバランスが大事だが、その点では邪道そのもの。幸せなアンバランスとでも表現したくなる肉の量だった。
大食漢だった男の子の成れの果てである私は素直にハッピーな気持ちになった。レトルトカレーといえば軽食というジャンルだが、肉だらけのおかげで満腹感も満たされた。ウマいコメと福神漬けやラッキョウがあればご馳走状態だ。
外食のどうでもいいカレーに1000円も出すのならこっちを食べたほうが嬉しい気持ちになると思う。
更新を怠ってしまったので過去ネタを一つ。15年前、自分が老け込んでいかないために必死になって書き殴っていた感じが懐かしく感じる。これを書いた時から15年、はたして今の自分はどれぐらい幼稚なのだろう?
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外食を語る際、なんとなくチェーン店はダメみたいな思い込みがある。居酒屋、ラーメン屋、寿司屋、ステーキ屋、鰻屋等々、ジャンルを問わず世の中にはそんなイメージが少なからずある。
どこか安直な選択みたいな気分になってしまうのが原因だろうか。私自身もそんな意識があるのだが、そうは言ってもロイヤルホストは何でもウマいと思うし、大好物の牛丼はチェーン店に頼るしかない。
さて、チェーン店をどことなく低く見ている私にとって嬉しい誤算のお店がある。中央区界隈に結構な店舗数を持つ「鮨とおでん&」というお店がそれだ。
何年も前だが、八丁堀近辺に住んでいた時に近くにオープンしたので訪ねたことがある。わりと何でも美味しくて、そもそも寿司とおでんの両方が楽しめるわけだから有難い店だった。
でも、なんとなく寿司やおでんに対してお店自体の“渋さ”を求めてしまうワガママな嗜好が邪魔をして何度も通うほどではなかった。
今年になって今の私の住まいの至近距離に「鮨とおでん」の新店舗が出来た。徒歩2分弱である。わが家から一番近いコンビニが徒歩2分だからそれより近い。行かないのはもったいない。
で、何度も訪ねている。渋さはまったく無いのだが以前訪ねた系列店よりも美味しさが進化している感じで毎度うならされる。
渋さだとか店内の騒がしさだとかを抜きにしたらここだけで外食は完結しちゃうと言っても大げさではない。まあ、渋さや雰囲気も店選びには欠かせないのが現実ではあるが。
おでんもキチンとウマい。寿司もちゃんとウマい。シャリが実にマトモ。おまけにアテ巻きと称する酒の肴にちょうどいい巻き物も気が利いている。玉ねぎカツオ巻きやら塩辛チーズ巻きやらブリガリ巻きなど注文せずにはいられないメニューが揃う。
おでんと寿司の他に焼鳥もちゃんとしている。この〝三大オヤジ好み〟が揃っているわけだから無双状態だろう。酒の種類も豊富だ。いつも繁盛しているのも納得だ。カウンター席が無いので一人でフラっと入れないのが残念な点である。
先日、シメの一品として「おじや」を注文してみた。いろんな種類があるなかで選んだのは明太バターおじやである。おでん鍋に残ったダシをベースにするわけだからマズく作りようがない一品だ。お店の人が作ってくれるのもラクチンで有難い。
アテ巻きをさんざん食べていたので満腹に近かったのだが、あまりのウマさに卒倒しながら茶碗3杯分ぐらいペロペロ食べてしまった。大げさだが、今年食べた数限りない食べ物の中で一番美味しかったかもしれない。
若者言葉の「ヤバい」を還暦オヤジなのに連発しちゃうほどの味と表現すれば分かってもらえるだろうか。分かるはずないか…。
ちなみに食べ過ぎが続いた日など体重調整?を意識する時は某チェーン店のモツ焼き屋に行くのが私の習慣だ。そこの一品料理類のダメダメさに半ば呆れながら過ごすのが毎度のことなのだが、それに比べると同じ「チェーン店」でも雲泥の差がある。
太りたければ「鮨とおでん」に通えばアッという間に目指す体重に到達するはずだ。いつも節制も頭に入れておでんと焼鳥のささみだけで終わりにしようと決意して出向くのだがナゼか帰宅すると腹パン状態で困ってしまう。
昨年、もろもろの節制のおかげで15キロ近く落とした体重が今年に入って3〜4キロはリバウンドしている。原因はいくつかあるが、近所に出来たこの店が少なからず影響しているのは間違いない。
今月初めのこのブログで私の靴への偏愛を書いた。もともとオシャレな人間ではないのだが、革靴だけはかなりのこだわりがある。
今では冠婚葬祭以外はナゼか茶系かボルドー系の革靴しか履かない。紐靴の内羽根、外羽根にはさほどこだわりはないが、モンクストラップだったらダブル以外は選ばなくなった。単なる好みである。
最近はサボり気味だった靴磨きもなるべく自分で頑張るようにしている。以前は専門業者さんにまとめて出してピカピカにしてもらうことも多かった。自分でやると無料なのが素晴らしい。その分の差額は老後のために貯金しよう。
さて、革靴だけにはしっかりこだわりがあるものの洋服などは割とテキトーだ。スーツはオーダーで仕立てているとはいえ、いつもまったく同じスタイルである。昔、作った時に収まりがよかった形をただただ踏襲している。
ファッションオヤジ?みたいに思われるのはイヤなので細かい注文はつけないようにしている。いまだに無頼派を気取りたい私としては、さも関心がないような顔をして仕立て屋さんに任せっきりにする。それはそれで自意識過剰である。
「オシャレには無縁だぜ、ファッションとか興味ないし」とツッパっているつもりでも、身だしなみに気を使わないのも問題である。かくいう私も一応は身だしなみに関しては一定のルールを自分に課している。
ラフな格好でも構わないような日でも職場にはスーツで出かける。スーツじゃないと革靴が履けないというヘンテコな理由も影響している。
ネクタイをしないで済む季節はそれなりに面倒だ。スリーピースのスーツにネクタイを締めていればどうやってもキチンとした人に見えるからある意味ラクチンだ。夏場はそれができない。
ネクタイをしない時期には、首元がシャバダバにならないために襟が高めのシャツを着るようにしている。俗にいうドゥエボットーニだ。私の場合、ボタンダウンで襟高は5センチ。
ネクタイが無い分、ボタンとボタンホールに色味をつける。オーダーシャツを作る際、ボタン自体やホール糸を茶系やボルドー系にすることが多い。そこに色味があるので基本は白シャツだ。
スーツの胸ポケットにはチーフを入れる。面白いものでたとえ数百円で売っているような安物でもポケットチーフを胸に挿しているだけで、人様からは「あの人は身だしなみに気を使っているちゃんとした人」だと錯覚してもらえる。
ポケチ効果とコッソリ呼んでいるのだが、今までそんな錯覚をしてくれた人は200人は下らないと思う。ポケットチーフは20枚ぐらい持っているが当然ながら高価なものは一枚もない。
さて、身だしなみで意識することは清潔感と統一感だけだ。細かいことに気を遣うよりそれだけ守っていれば一丁上がりだと思う。違ったらごめんなさい。
私が意識する統一感は革靴とベルトと腕時計のバンドの色を合わせることだ。小さなこだわりだがこれだけは常に意識している。
冒頭で書いたように革靴は茶系が中心でボルドー系がいくつかある感じだ。必然的に腰に巻くベルトも腕に巻く時計のベルトもそっち系の色に合わせる。
とりあえずそれぞれの様子を自撮りしてみた。茶系の時はごく普通だが、ボルドー系の時は色を揃えていることを人様に気付かれることも多い。「オシャレですね」とか言われて素直に喜べばいいのに「靴とベルトは同じ色じゃないとルール違反だしね」などと謎に気取った発言をしてしまう。
「小っ恥ずかしいからオシャレなことを頑張りたくない、でもファッションセンスがゼロだと思われるのも悲しい」。そういう感覚って中高年以降になると顕著になってくるような気がする。私もそうだ。とはいえ、どう凌いでいけば分からないので一応の清潔感と自分なりのスタイルみたいなものを貫くしかないと思う。
とりあえずポケチ効果と革モノの色統一だけでやり過ごしている日々だ。
家庭生活からFA宣言して15年近くが経つ。独り身になった当初は外食と出前とレトルトのみで生きていたが、その後、料理とは呼べない程度の簡単調理に手を出して今に至る。
本格化するとB型気質を際限なく発揮して凝りまくりそうだからブレーキをかける意味でも「まな板と包丁は使わない」をモットーにあくまで簡便仕様に徹している。
とはいえ、せっかく作るからには自分の好みにもこだわりたい。焼きそばだったら適度な焦げが欲しいし、炊き込みご飯なら普通より甘味が欲しい。だから湯煎やチンで食べられるレトルトだってちょこっと味を加えたりする。
最近の秘密兵器が“重り蓋である”。正式名称は知らない。通販でフライパンを買った時にオマケでついてきたガラス製の蓋状の重りである。これが思った以上に活躍してくれる。
もともと火が通りにくい鶏肉を焼くときに上から乗せることで均一に加熱する目的の道具だったと思う。実際に鶏肉を焼く時に重宝しているのだが別な使い道もある。麺に焦げ目をつけられる点だ。
焼きそばの麺は部分的にパリっと焦がしたい。そんな願いをこのグッズが叶えてくれる。画像の通り簡単に焦げ目がつく。それまでは重りになりそうなものをテキトーに使って焦げ目作りに励んでいたのだが、何を使うにしても自分でずっと押さえていないとならないのがストレスだった。
この重り蓋は結構な重量があるので載せたまましばし放置するだけだ。焦げ目がついた後に肉や野菜と混ぜて味付けすればなかなか良い感じに仕上がる。この一手間が家メシの幸福度を高めてくれている。
3か月ほど前にこのブログで私の変態的ソウルフードの話を書いた。中途半端にお湯で戻してボソボソな感じで味わう「安直ビーフン炒め」である。(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2026/03/blog-post_13.html)
相変わらず暇さえあれば40年前に亡くなった祖母を思い出しながらぼりぼり食べている。これも焦げ目をつけると味わいが一段上がる。ボリボリ感だけでなくパリパリ感が加わるから最高である。誰もこれをウマそうだと思ってはくれないだろうが私には至高の一品だ。
焦げ目の話に続いては甘味である。数十種類試した上でわずか数種類に絞られた私の好みのレトルトカレーにはすべて原材料に砂糖が表示されている。大げさに言えばたいていの食べ物は砂糖を入れれば美味しくなる。
砂糖に限らない。パルスイートでも良し、水あめでも良し、ハチミツも使い方によっては大いにアリだと感じる。先日作ってみたチキンのマヨマスタードソース味も決め手はハチミツだった。
唐揚げチェーンの「から好し」の人気メニュー「ハニーマスタード味」のパクリである。ネット上で簡単なレシピを見つけたので挑戦してみた。
ハチミツ、粒マスタード、マヨネーズ、酢などを混ぜ合わせた特製の怪しげなソースというかタレを作る。画像手前の黄色い液体である。これを火が通ったチキンに加えるだけで出来上がりである。
多めのオリーブオイルで素揚げするかのようにしっかりと鶏肉に火を通す。ここでも例の“重り蓋”を活用して鶏肉の表面がやや焦げるぐらいまで焼く。火が通ったらオリーブオイルは捨てて上記の怪しげなタレを絡める。
タレの味がかなり強めだったのでネットのレシピの2倍近い量の鶏肉を投入してみた。結果は正解。頃合いの味付けに収まった。ハチミツ感のせいでご飯のおかずにはなりにくそうだが、酒のアテなら充分アリだと感じた。
何はともあれ焦げ目と甘味である。そんなこんなで私の自炊モドキは少しづつ進化しているようだ。茶色いモノばかりだが…。
このところ何かと気ぜわしい。忙しいと書きたいところだが、毎日8時間も寝ているので多忙というほどではない。何かとバタバタしている感じだろうか。
仕事関連の真面目な分野だけではない。相も変わらず綺麗なオネエサンのお尻を追っかけてデートみたいなことにも励むし、直近では大学野球の全国大会にも何度も出かけた。
大学野球のリーグ戦が全国に26だか27もあることを知っている人は少ない。私自身、数年前までは東京六大学、東都大学、あとは関西にいくつかあるぐらいの知識だった。全国各地で春と秋にリーグ戦があるが、それぞれの春の優勝校が一堂に会するのが毎年6月の大学選手権だ。
物好きな私は東京ドームでの試合の直後に神宮球場に移動して別な試合を観戦するなどヒマ人としか思えない動き方もしてみた。お菓子をボリボリ食いながらガイドブックで知らない大学のメンバー表をチェックしながら熱心に観戦。
さて、ヒマ人のようで案外ヒマではない私だが、どうでもいいスケジュールに結構忙殺されている。そのせいか時には人様からエネルギッシュだといわれる。歳の割にはやたらと元気だと呆れられることもある。
自分ではそんなに元気だとは思わないのだが、他人の身体に乗り移ったことがないのでよく分からない。実際にはどうなんだろう。時にはどんよりダルいし何をするにも億劫な時だってある。
もし私が多少なりとも歳の割に元気だとしたらその理由を知りたい。元気でなければ楽しいことにも巡り合えないし、何より日々の暮らしの充実度が違うはずだ。
昨年、一念発起してキックボクシングに行き始め、コンビニメシをやめ、小麦の摂取も大幅に減らし倦怠感退治に努めた。結果、体重もガツンと落ちてそれ以前より元気になったのは確かだ。
今は昨年ほど気を使っていないが倦怠感もなくそこそこスッキリ日々を過ごしている。単なる体重減だけが理由ではないはずだ。マメに馬肉を食べたり鰻を食べたりしているせいなのだろうか。
馬肉も鰻も昔からドシドシ食べていたから理由としては弱い。ひょっとしたら今年の初めから飲み始めたNMNサプリの影響だろうか。飲み始めてもうすぐ半年だ。正直とくに何も変化を感じないからもうやめようかと思い始めている。
とはいえ、劇的に体調が変化するはずもないからもうちょっと様子を見ようかという気持ちもあって乙女のように心が揺らいでいるところだ。
最近、寝起きが案外スッキリしていることはNMNの影響だろうか。夜中にトイレに起きなくなったことも併せて考えると何か影響があるのかもしれない。
そのほか、ヘンテコな話だが、若い男性には当然の「朝〇ち」という生理現象がこの歳になって復活傾向にあることも最近の変化だ。そんな現象はこの20年ぐらいまったく無かった。ちょっとブキミである。
夜中にトイレに起きなくなったせいで尿意バリバリになっていることが単純な理由だとしたら少し切ない。NMN効果だと信じたい気持ちはある。安くないサプリだから何かしらの意味を感じられないとツラい。
ちなみに元も子もない話だが、元気の源は体重減でもサプリでもなく、単にネギ類ではないかと思う自分もいる。だとしたら一番手軽だからこれをもっと強化するのは簡単だ。
モツ焼き屋でレバ炒めをもらうにもネギを多めに頼むし、オニオンスライスがメニューにあれば必ず注文する。なんなら「ネギ盛り」という謎の一品を頼んでそのまま食べたり他の食べ物に混ぜたりしている。
ネギ類の強壮効果は有名だ。大衆的な飲み屋さんに行くと本能的にたくさん食べちゃうからネギ類のせいで元気になっているなら実にお手軽だ。
そしてもうひとつ、元気の源かもしれないダークホース的な存在が「エビオス」だ。昔からある有名かつ安価なサプリである。どこかのビール会社がビールの絞りカスを転用して開発したらしい。
効能は胃腸に良いという話だが、ネット上にはヘンテコな都市伝説が広まっている。「エビオスでドバドバ」という言葉はまさしく知る人ぞ知る。
胃腸を整えるために服用していた人たちの中にナゼだか男性機能が元気になったことを主張する人が多いのだという。ネットを検索するとそれっぽい話がたくさん出てくる。ちなみにエビデンスは皆無だとか。
私も3か月ぐらい前からエビオスを飲んでいる。別にソッチを期待しているわけではないのだが、最近のいろエロなことを支えてくれているのがエビオスだとしたらそれはそれでオッタマゲだと思う。