2008年9月30日火曜日

二世、三世議員のこと

たった4日で大臣が交代した麻生内閣。もともと二世、三世議員だらけの布陣だったのだが、国交相の後任にも二世議員を充当した。

これで18人の大臣のうち、11人が二世、三世議員で占めるなんとも特殊な内閣になった。

引退する小泉元首相も、後継に次男を指名し、政治の世界では、まさに世襲でなければ立候補もおぼつかない状況になってきた。

お決まりの世襲批判は今後も強まりそうだが、私は世襲議員をことさら問題視する気はない。全然問題がないとは言わないが、変なタレント議員とかのほうがよっぽどタチが悪いと思っている。

チンピラタレントよりも政治の世界を学んできただろうし、幼い頃から国政を担う意識を持ち続けていたのなら、それに役立つ勉強もしたのだろうから、選挙の洗礼を受ける以上、世襲議員自体は闇雲に否定しても仕方ない。

問題は、世襲議員が受け継ぐ「地盤」は「経済的利益」であるという点だ。

俗に選挙には「地盤」、「看板」、「カバン」の三バンが不可欠と言われる。

看板は、当人の肩書き、カバンは選挙資金を指す。もっとも重視される地盤は、同じ苗字を持つ似たような顔をした子どもが登場することで、右から左に受け継がれる。

小泉元首相の次男を例にとれば、彼はつい先日出馬表明をしたばかり。とはいえ、対立候補が、たとえ5年、10年前から準備をしていても次の選挙では圧勝する。落選するわけがない。

父親にどことなく似た風貌、地盤は盤石。多分選挙期間中ずっと寝ていても勝つと思う。

この「地盤」が持つ経済的利益って物凄いことだ。

今後はともかく、これまで安定与党の大物議員の二世は、地盤を継いで、普通に選挙に出続けるうちに10年ちょっとで当選回数もいっぱしになって、順番通りに大臣の椅子を手に入れる。

ことさら変な行動でもしないで健康でいる限り、このレールはほぼ間違いないのだから、やはり特殊な世界だ。

そう考えると、親から受け継いだ地盤は、まさに「経済的利益」であることは間違いない。

経済的利益という言葉をやたらと連発したが、この言葉、税の世界では非常に大きな意味を持つ。「税金をかけるべき対象」そのものを指す言葉だ。

地盤を引き継いだ世襲議員には、常識で考えて経済的利益が生じているわけだから、その部分に課税すべきという発想は決して馬鹿げたものだとは思わない。

もちろん、各論となると難しいのは確か。小泉家のように譲る側の親が元気バリバリのケースもあるし、小渕家のように先代の急逝で弔い出馬というパターンもある。

先代の死亡に伴う地盤引き継ぎに関しては、まさに相続税の課税対象にするのがうってつけだが、先代が健在だったら贈与税にすべきなのだろうか?

課税標準をどう見るか、評価をどう見るか、もちろん、税務の技術的な面で厄介ではある。

素人考えをすれば定額制なんていうのもアリだろう。先代の当選回数や要職歴などに応じて累進制を持たせた定額制が分かりやすいかも知れない。

まあ、法律を最終的に決めるのは、いうまでもなく国会。その構成員たる二世議員サマが“議員世襲課税”に同意するはずはないので、こんな話は妄想にしかならないが、やはり、無税で経済的利益を手にする現状は腑に落ちない。

企業経営の世襲は、中小企業では珍しくないが、そこには相続税という洗礼が待っている。

個人的な体験だが、先代の相続を経験した際に感じたのは、「会社の経営権は、お国から買わされた」という感覚。

流通性のない自社株の相続で、大層な税金を納めた。高額な税金を納めたのに自分自身の貯金が増えたわけでなく、むしろヤリクリに苦労した。

仕事や生活は変わらず、変わったのは会社の株主名簿の持株数だけ。

だから、まるで会社を国から払い下げてもらったかのような感覚があった。

近年、事業承継支援税制の必要性が叫ばれ、ひところよりは事業を継ぐ跡取りへの課税方法に、それなりに配慮が行われるようになってきた。

ひょっとすると、この流れ、自分達の無税特権がおもはゆい世襲議員連中が、企業世襲の苦しい現実に同情して打ち出している路線だったりして・・・。

2008年9月29日月曜日

鮨 池澤 銀座

最近、新しいお店の開拓を怠っている。やはり、顔なじみになった店の安心感は貴重だ。銀座方面にしても、毎晩のように出歩くわけではないし、やはり、せっかく行ったときは少しでも勝手が分かっている店を選びたくなる。

銀座の「鮨 池澤」。このブログでも何度か書いたが、2週続けてお邪魔した。平気で数ヶ月ご無沙汰してしまう私には珍しいのだが、改めて思ったのが、続けて訪ねればこそ、お店の良さが分かるということ。

8丁目の雑居ビルの2階にしっぽりたたずむ。この界隈の通りは、早めの時間だと出勤前のホステスさんや黒服が、戦闘モードに入る直前の独特の気配を漂わせている夜の銀座らしいエリア。

地味なビルの地味なエレベーターに乗って2階へ。地味ながらキリッとした引き戸を開けて店に入る。

隠れ家っぽい雰囲気が漂うものの、薄暗い感じではなく、明るく清潔感があって居心地がよい。

大将の立ち姿、二番手さんの様子それぞれがいい感じ。うまく表現できないが、“イメージ通りの感じ”とでも言おうか。

大箱でなく、ちょっと馴染みになれたら楽しそうな寿司屋を漠然と想像してみると、きっと「池澤」はイメージ通り。

肝心の食材は、銀座八丁目に店を構えるだけにたいていのものが間違いのない旨さ。

あえて変な表現をすると、特徴がないところが一種の魅力にも映る。特徴がないというと怒られそうだが、これが結構ポイント。

奇をてらったものがない、大げさな食材が威張って出てくるわけではない、やたらと種類ばかり揃えているわけでもない、食べ方を押しつけるわけでもない、メディアに露出しているわけでもない、その上で何を食べても笑顔になれる。

これって結構当たり前のようでいて難しいことだと思う。

純粋に寿司好きな人なら満足できると思う。やたらと小料理に走るタイプの店が好みなら物足りない人もいるだろうが、「池澤」のスタイルは、潔い感じがする。

誉めてばかりで、なんか回し者みたいだ。

最近食べたもので印象的だったのは、旬のカツオ。酢醤油とカラシで食べさせてもらった。カツオ大好きの私だが、この食べ方は初めて。

もちろん、大げさな話ではない。その場で酢と醤油を合わせてカラシを用意してもらっただけだから、単純といえば単純。でも、その一工夫が、客に美味しく食べさせようという店の姿勢を単純に表わしているのだと思う。

レギュラー的な存在の毛ガニも、つまみで頼むと半分にカットした甲羅にあらかじめ剥き身を詰め込んだミルフィーユ状態で供される。

剥き身と甲羅の境目、すわち剥き身を食べ終えるあたりにしっかりと芳醇なカニミソが登場するようになっている。

この仕込み、かなり厄介な作業だと思う。お店の誠実さだろう。

また回し者みたいになってしまった。

ボタンエビや茹でた車海老の質もバッチリ。穴子も丁寧、白身や貝類も間違いない。握りのシャリは赤酢でほんのり色づいており、素直に美味しい。

お酒も気のきいたラインナップが揃っていて、素直に酔っぱらえる。

素直に楽しく素直に美味しい。

だから素直に夜の街にパトロールに出かけてしまう。

パトロール隊の前線基地として実に魅力的なお店だ。

2008年9月26日金曜日

エラい人

世の中、あちこちにエラい人がいる。「麻生太郎とは友達だよ」とか「○×組の組長とはゴルフ仲間だ」などと、とかくビッグネームとの交遊を自慢したがる。

このテのエラい人は、とにかく自分が特別じゃないと気分が悪いようで、どんな場面でも、スペシャルな自分を強調したがる。

経営者が忌み嫌う税務調査でも、そんな強がりは日常茶飯事のようで、調査官達も、そうした脅しにもならないフレーズに慣れっこになっている。

それでも、然るべき人物が本当に然るべき人物と昵懇だったりすることもあるので、調査官サイドも、表面的にはエラい人を立てているのが実のところだ。

ちょっとしたエピソードをひとつ。

政治家や有名人との付き合いがあり、大物のつもりでいる某オーナー社長の会社に税務調査が入った。

当然のように、社長さんはアレコレ言い始める。「オレは自民党の誰某とは深い付き合いだ」などの余計な前振りつきで「どうしてウチに調査に来たんだ」、「おまえらみたいなチンピラが何様のつもりだ」と怒る。

調査官は、しばし、恐縮しているかのような表情を見せながら、こう答える。

「私ども税務署で役不足でしたら、明日にでも国税局から改めてお伺いすることにいたしましょうか」。

調査官の切り返しが意図することにピンとこない社長さんでも、同席している顧問税理士があわてて取りなすことになる。

だいたい、税務調査の厄介さは、然るべき人であれば理解している。国会議員のような人気商売なら、当然、自分がそこに首を突っ込んだ場合のリスクもわきまえている。

国税局や国税庁では、政界関係者からの何らかの働きかけは、基本的にすべてを記録している。

働きかけや質問、陳情類の内容、応対者などの詳細がファイルされているわけだ。ブラックな企業や事件の陰で暗躍する政治家は、軒並みリスト化されているわけで、賢いセンセイがたは、国税案件には首を突っ込みたがらない。

国税の怖さは、どこに対しても税務調査権という懐に手を突っ込む権力を行使できる点にある。いくら警察がコワモテだろうと、あくまで犯罪者ばかりを追っかけるわけで、税務署とはその部分が決定的に違う。

まっとうな業務を普通に展開している企業に警察官が乗り込んでくることはない。税務署はそれができる。この部分は大きい。不気味な怖さといえよう。

支援者の関係企業の税務調査に首を突っ込んだセンセイには、しかるべき国税幹部が、丁重に対応する。

決めゼリフは「センセイほどの方がこんな案件に深入りされますと、ヤケドなさることもありますよ」。

たとえ自分のスネにキズがないようなセンセイだって、周囲の関係者すべてに睨みをきかせられる国税当局にそんなこと言われたら、みなさん“君子”になるのも当然だろう。

税務調査で特別な助っ人が意味を持つのは、よほど解釈が微妙・複雑な案件で当局側と対立したようなケースに限定されると思った方が賢明。

こういうケースでは、顧問税理士ではなく、その分野に精通した専門家やその分野に詳しい国税OBなどに知恵を借りるケースはありえる。

世の中には、あたかも自分が中に入れば国税なんか引っ込むなどと吹聴して、怪しく動き回る人物が結構存在する。そんなのに限ってまず間違いなくインチキ。

顔がきく、着地点を上手に見つけられる、等々。確かにそういう人物がいないわけではない。ただ、たいていが、そうした技能を表立って強調することはなく、あくまで黒子のように徹している。

経営者向けの税金専門新聞を発行していると、こういう類のビミョーな話を頻繁に見聞きする。

常日頃から税の世界の知られざる話題を拾っておくには「納税通信」はオススメ。

2008年9月25日木曜日

依存症と付き合う

それなりにストレスを抱えている人には、何かしらの“依存症”は付きものだ。タバコやアルコールをはじめ、それを断つとイライラして落ち着かない、不安になる感覚があれば、充分に依存症だ。

私も今までいろいろな依存症に陥った。人に言えないような状態になった経験もある。

一応、ストレスを抱えている証拠だと思えば、何かに依存することは仕方のないことで、ある意味当たり前のことだと自分にいい聞かせている。

一般的にポピュラーなのは酒、たばこだが、それ以外にも、ギャンブル中毒、買い物中毒とか薬物中毒、はたまたセックス中毒も珍しくないらしい。

クリントン元大統領や俳優・マイケルダグラスあたりの件で、がぜん認知度が上がったセックス依存症だが、健康な人間が思うほど楽しいものではないらしい。

セックス中毒などと聞くと、確かにゾクッとしたり、グッとくる言葉だが、依存症まで行ってしまうと施設入所による治療など、それはそれで大変。

話を戻そう。知人に若くして子どもを亡くした初老のご婦人がいる。毎年、季節ごとに大量の洋服を買うのだが、多くは一度も袖を通さずに処分する。一種の依存症だろう。

どんなに体調が悪くても、パソコンをいじっていないと気分が悪くなる人がいる。携帯メールの着信を気にして、着信がないのに、着信時の振動を感じてしまう人が増えているらしい。こうした状態も中毒という意味で依存症だ。

経営者をはじめ重責に追われて仕事をしている人であれば、たいてい、変わった趣味や変わった性向がついてまわる。何のこだわりもなく、特徴的な傾向のない経営者なんて世の中に存在しないと思う。

麻生太郎首相のマンガ好きも常識で考えれば異常なことだ。70才近くの人間が暇さえあればマンガを読みふけっている構図は、普通ではないし、その精神性が疑われる。

あれも中毒という意味の依存症だと考えれば、ある程度理解できるが、そうだとするとあの人にもしっかりストレスがあったのかと逆の意味で感心する。

陶器好きな私は、10年以上前から、ぐい呑みや徳利、壺を中心にあれこれ購入してきた。収集癖自体が一種の中毒であり、依存症のようなものだが、フトコロの関係もあって、そうしょっちゅうは買えない。

しょっちゅう買えないはずなのに、ある時期、ヤバイ状況に陥ったことがある。ある時期から2年間ぐらい、とりつかれたように買い求めた。作家物、骨董品、ガラクタまでなんでもかんでも欲しくなってしまい、買わずにいられない状態になってしまった。

月に何個買ったというレベルではなく、週に何個という状態がしばしの間、続いた。オトナ買いなどという気前の良い話ではなく、一種の依存症モードに入ってしまっていたのだと思う。

陶器専門店、デパートでの個展、旅先での窯場訪問だけでなく、インターネットでのショッピングサイトやオークションサイトもマメにチェックし、とにかく買っていないと不安になる変な状態だった。

その頃、凄まじいストレスにさらされていたのなら、同情をひくような話につなげられるのだが、そんな特殊なストレスを感じている時期ではなかった。

お恥ずかしい話、異常なほどの「ぐい呑み購入依存症」は、禁煙に成功した頃から発症していた。

禁断症状と闘っていたころは大丈夫だったのだが、はっきり禁煙成功を自覚したあたりからおかしくなった。

依存症から逃れるには、他のものに依存するのが得策だとは言いたくないが、結構、依存症的な要素って、この方程式が当てはまる。

私のぐい呑み購入依存症は、ほぼ間違いなくタバコに依存していた依存心が行き場を失って、ぐい呑み集めに憑依したのが真相だ。

そして今、私はすっかりスモーカーに戻っている。2年近く前に、あるストレスをきっかけにタバコ復活。意識はまったくしていないのだが、不思議なもので、その頃からぐい呑み購入依存症は、すっかり影を潜めた。いまは、よほど欲しいモノが見つかったときしか買わない。

ちなみに、何かと喫煙者にとって不便な世の中なので、そう遠からず人生2度目の禁煙生活に入ろうと考えている。

でも、タバコへの依存心が次はどこに乗り移るのか、実はかなり心配している。

セックス中毒だけは避けたい。

2008年9月24日水曜日

情緒

プライベートの大恩人に手紙を書く機会があり、久しぶりに真面目に手紙に取り組んでみた。

相手は目上の人格者。軽い調子で書くわけにもいかず、いざ便せんに向かうとかなり難儀した。

一応、モノを書く仕事をしているくせに、かしこまった手紙ひとつ、スラスラ仕上げられないことが恥ずかしい。

このブログのような雑文なら、短い時間で結構な文字数でもこなせるが、かしこまった手紙だと、そうはいかない。

自分の文化度が低いようで少し落ち込む。

仕事柄、古い時代の資料に目を通すことがある。資料的文書などだけでなく、手紙の類を読むこともあるのだが、いつも感心するのが、ほんの数十年前の人達がやりとりしていた手紙の文章だ。

行間というか、文章の背後に、今の時代とは異なる教養が垣間見える。

以前に読んだ本からも昔の人の情緒性や教養に感服させられた経験がある。昭和の戦争で亡くなった兵士たちが家族にあてた手紙をまとめたような内容の一冊だった。

個々の手紙の内容そのものよりも、それぞれの人の情緒性、教養に目を見張った。

その本では、それぞれの手紙をしたためた人物の当時の年齢や経歴も記されていた。

なかにはエリート軍人もいたが、大学生や商売人の跡取り、農家の跡取りといった、ごくフツーの人が中心。

時候の挨拶はもちろん、自分の置かれた状況の描写、葛藤する心理面の描写、家族をいたわる心情表現等々、すべてに味わいというか個性が反映され、書き手の人間力がにじみ出ている。

なにより大半の人が20才そこそこ。40を過ぎた私が、手紙ひとつにもたついていることを思えば、いくら習慣と時代背景に違いがあるとはいえ、当時の若者の教養に驚嘆する。

精神性、情緒性と表現すると抽象的になってしまうが、まさにそうした人間の内面的な資質が厳しく鍛えられていたことがうかがえる。

もちろん、全体主義、徹底した思想統制という時代背景を考えれば、空恐ろしい時代であり賛美はできない。ただ、時代の功罪はさておき、そうした時代の副産物として培われた教養面は、素直にすごいことだと痛感する。

戦後の日本は、前の時代を否定をする以外に再スタートを切る術がなく、復興から高度経済成長という流れの中で、あえて情緒性とか精神性に対し、見て見ぬふりをしてきた部分がある。

効率性や合理性の追求こそが美徳というか時代の要請と信じ、気がつけば殺伐とした空気に支配されている。結果、昭和レトロを懐かしんで、国民みんなで涙する変な事態に陥っている。

なんだか懐古趣味的な話になってしまった。手紙ひとつ満足に仕上げられない自分の現実を時代にせいにしているようだ。反省。

でも、日々便利になる機械文明に身を置いていると、日本ならではの個性ともいえる情緒を尊ぶ空気が希薄になっていることを実感する。

うまく表現できないが、ハヤリの言葉で言うなら「もったいない」ことであり、このままでは惜しい気がする。

安直な教育論をふりかざすわけではないが、教育の分野で、この手の課題に真剣に向き合って欲しい。

2008年9月22日月曜日

銀座 三福

鶏、豚、牛が私が好む肉の順位だ。昔は毎日三食でも食べられた牛肉だが、ここ数年は興味の対象から外れてしまった。少なくとも週に1度は出かけていた焼肉屋も、今年は2,3回しか行っていない。

年齢のせいにするには若すぎるし、私の祖父などは80才でもステーキが好物だったのだから、この原因は何なんだろう。

鶏や豚の上等品が昔より身近になったことも大きな理由かも知れない。産地偽装とかブランド偽装ではなく、真正かつ上質な鶏肉や豚肉は、ひと昔前に比べて間違いなく簡単に味わえるようになった。

さて、牛だ。上等な牛肉が抜群に美味しいことぐらい分かっているつもりだ。でも、あの重い感じに少したじろぐ。一口食べて感激してもその後が続かない。飽きちゃう。

そんな私が、先日久しぶりに牛肉専門店に足を運んだ。銀座にある「三福」という店。
http://www.tokyo-calendar.tv/dining/11976.html

いわゆるA-5等級の高級和牛だけを扱うお店で、各部位を少しずつ食べさせてくれる。肝心の牛肉は串焼で1本ずつ供される。

まず最初に牛刺しが出てくる。最初の生ビールを流し込む段階で、こんな上等なお供があると幸せになる。びちゃびちゃ脂っぽい肉ではなく、健康そうな歯ごたえを感じる牛刺しは素直に美味しい。

続いて小鉢に入った少量のビーフシチューが登場。和風の味付けで、酒の肴にもなる味つけだ。シャンパンなんかにも違和感なく組み合わせられる。

串焼は、間違いのない水準の牛肉のほか、季節の野菜も出される。野菜嫌いの私でも、アスパラに薄く牛肉を巻いてある一品などは美味しく感じる。この日は頼まなかったが、前に来たときは、やたらとトマトの串が旨かった記憶がある。

一品ずつ頼むより、おまかせにしてしまった方が気軽に楽しめる。おまかせに加えて、珍しい部位の肉を追加で頼めばベストだが、アレコレ楽しくベチャクチャ喋りながら食べていると、さすがに牛肉、残念ながら腹にたまる。

結局、何も追加せず食事を終えてしまった。野菜を含めて串を7本程度食べただろうか。結構、満腹感はあった。その後、深夜に空腹を感じなかったから、やはり牛肉はヘビーだ。

カウンター中心で、ゴージャス、ムーディーとは違う世界だが、雰囲気も適度にしっかり(よく分からない表現だ)。

男同士でも、女性同士でも、気軽な接待にも使えそうな感じの店だ。親しくなりたい女性と並んで食事をしたいときにも悪くない。私が牛肉好きなら、結構頻繁に行くかも知れない。

2008年9月19日金曜日

アラフォーとプリプリ

最近やたらとアラフォーという言葉を聞く。40歳前後の世代の元気さが注目されているわけだが、私もフィフティーよりはフォーティーに近いので、その世代だ。

この世代が20年ぐらい前に聴いていた音楽なんかもリバイバル人気が高まっているようで、当時のヒット曲をよく耳にする。

先日も運転中、渋滞のイライラついでに聞いていたラジオから、プリンセスプリンセスとか、SHOW-YAあたりの和製ガールズロック特集が流れていて、懐かしく聞いていた。

当時、洋楽好きだった私は、この手の音楽は、ワンレンとかソバージュのオネエサンがたがボディコンに身を包んでカラオケで歌うための音楽だと思っていた。でも、今更聞いてみるとオヤジ心がちょっとくすぐられた。

実は、私、プリンセスプリンセスのベーシストとしてライブのステージに3度ばかり立ったことがある。

本当の話ですが、夢の中の話です。別にファンだったわけでもなく、知ってる曲は3曲ぐらいだった。ボーカル以外は顔も知らなかったが、なぜか、3回も同じ夢をみた。

それも武道館。おまけに武道館なのにステージ前には幕が下りており、開演時には小学生の学芸会のようにズリズリと幕が開いてから演奏をはじめるというベタな設定だった。

緊張感と高揚感で結構楽しい夢ではある。一番最近はほんの2~3年前にもこの夢をみた。

なんであんな夢を見たのか今でも分からない。一体どんな深層心理が私の脳や心を支配しているのか気になる。変なのだろうか。

ところで、アラフォーの話だ。

この世代の元気さが注目されるのは、単純に下の世代の元気の無さが原因であるように思う。

いま、40代の人間は、無垢な若い頃にバブルを知って、妙に楽しかった記憶が強くインプットされている。その後、一気に転がり落ちた経済状況は、あの時代を伝説にまでしてしまった。

バブル後の若者が白けていくのもある意味当然だろう。あの頃以降、時代を流れる空気に突き抜け感はない。

五木寛之氏がどこかの雑誌で書いていたが、戦後復興、経済成長からバブルまでは躁鬱でいうところの「躁」の時代で、いまは「ウツの時代」の只中にあるらしい。数十年周期の変化ゆえに、まだまだウツの時代は続くとか。

せいぜいアラフォー以上の世代が、カラ元気を出さねばなるまい。

分別オヤジぶりたい私は、いい年して、やたら無邪気だったり、弾けている人を見ると、嫌悪の対象にするのが常なのだが、思えばこんな考え方も硬直しすぎていて良くない。改めよう。

ウツの時代と付き合って行くには、ハメも外し、幼稚なこともして、そこそこ弾けてみる必要がある。

でも、そんな意気込みは、目や肩、腰の疲れにはね返ってくるから困る。

2008年9月18日木曜日

噛んじゃイヤ・・・

先日、一緒に食事をしたオジサンは、健康のため、肥満予防のため、やたらと噛む。何を食べるにも20回だか30回だか噛むようにしているそうだ。

以前にも、よく噛む男を目撃したことがある。同席していた若い男だが、健康バリバリのハツラツ君という雰囲気なのだが、彼のハツラツ感は食べる時も同様で、音が出そうなくらい何でも良く噛んでいる。

よく噛むことは正しいことであり、健康にもいいのだろうが、こういう人々は、なんでもかんでもカツカツと噛んでいる。食べるものによっては、かえってマズくなると思うのだがどうなんだろう。

私が好きな珍味類は、よく噛んで食べるようなものではない。というか、よく噛んでしまっては、味わいが失われるような気がする。

先日、アンキモと白子という最強コンビが同居したひと皿を眺めながら、珍味の味わい方について今更ながら思いを馳せた。

「噛んじゃダメ・・」。その昔、素敵な女性に言われたような気がする。そんなセリフが珍味食いにぴったりだと実感した。

そう考えると、女性と珍味はある意味、非常に似た存在なのかも知れない。

話が脱線しかけた。

私の場合、アンキモとか白子を味わう時、噛むというより、口の中で溶かすような食べ方をしている。

不気味な表現になってしまうが、舌の上に乗せた珍味サマを上の歯の裏側の歯の付け根あたりにこすりつけ、舌の上で攪拌するかのようにジンワリ食べている。

自分で書いていて、なんか不気味だが、こんな食べ方をいつもしている気がする。皆さんも同じなのだろうか、すごく気になる。

ディープキスで刺激されると嬉しい部位!?で味わうから珍味がとても旨く感じるのかも知れない。

美味しいものを「エロティックな味」と例えてしまう私の悪い癖は、このあたりにルーツがあるのだと思う。

次の写真は、自宅近所の焼鳥屋で食べた白レバの刺身。これだって「噛んじゃイヤ」、ではなく「噛んじゃダメ」な食べ物だろう。

優しく口に含んだあと、はかなげな弾力を感じながら、少しだけ歯を立てると旨味がこぼれ出てくる。舌でこねれば旨味があとからあとから溢れ出す。

ヘタなエロ小説のような表現だが、地鶏の白レバって刺身で食べると本当に官能小説のような味わいで、気のせいか身体が火照るほどだ(大げさ)。

お次は、生イクラの握り。塩漬けや醤油漬けにしていない上品な生卵のような生イクラは今の時期だけのご馳走。

私にとって秋の味覚といえば松茸などではなく、生イクラだ。醤油を少し垂らして食べるのもいいが、ただの醤油ではなく、お鮨屋さんの煮きりを少しだけポタポタしてもらう方が、より素材の味わいを感じられる。

これを食べるとき、私の脳からコレステロールという言葉は削除されている。

さて、生イクラも口に入れて乱暴に噛んでしまっては台無しだ。閉じこめられていた蜜の味が一気に爆発してしまうのはもったいない。ゆっくりゆっくり攻めることにしている。

大人なんだから、勢いだけでひと思いに攻めるような無粋なことはしてはいけない。相手のペースを見ながらゆっくり攻めねば。

また脱線しかけた。何を言っているのだろうか。

やはり官能的な食べ物を味わうことは官能的な行為とどこか共通しているように思う。

何が書きたかったんだろう。欲求不満みたいだ。

2008年9月17日水曜日

自社株相続 お役人的思考

このブログでも以前に取り上げたが、このところの税制の変化の中で大きいのが相続税に関するものだろう。

財産を贈与されても贈与税はかけずに、贈与した人が亡くなったら、死亡時に一括して相続税と合算する「相続時精算課税」が誕生したあたりから、随分と制度そのものが変化の渦の中にある。

贈与税と相続税を合算するという考え方だって、その昔には考えられなかったわけだから、近く正式にスタートする「自社株相続の特例」も見方によっては非常に画期的な話だ。

ごくごく簡単に説明すると、中小企業の上場していない自社株を相続した場合、その会社の後継者には、自社株にかかる相続税を大幅に免除してあげましょうという内容だ。

これまでも、相続財産のうち、居住用の土地であれば、相続税を一定額免除する制度があったが、この考え方を中小企業の自社株に広げたものだ。

「株式を相続した」と聞くと、確かに「財産をもらった」と同じ意味である。とはいえ、株式といえども、中小企業の自社株は、当然、流通性などない。自由に売り買いできるシロモノではないのに、税務上の評価をすると1株あたりの株価が、いっぱしの上場会社より高いというケースは珍しくない。

青息吐息の状態だろうが、資金繰りに頭を痛めていようが、昔からの工場用地とか所有資産次第では、相当高額な評価額が弾き出され、それに対して相続税がかかってくる。

こういう状況を救済する目的で、新しい制度が登場したわけだが、問題は適用条件がやたらと厳しい点だ。

まず、相続税が免除(正式には猶予)される対象は、会社の跡継ぎ1名のみ。同族関係者の中で筆頭株主であることが条件で、兄弟で事業を継ぐ場合に兄弟皆が対象になるわけではない。

それはともかく、厳しいのが「5年8割条件」。
相続の後、5年間は代表として事業を継続し続け、株式もすべて保有し続ける必要がある。おまけに雇用を最低でも8割は維持しないと特例はフイになる仕組みだ。

5年間という期間は、会社を経営している人間から見れば、かなり長期である。経済環境、社会環境が激しく様変わりする昨今、5年間もの間、変化もなく同じ形態で事業を続けることを確約できる経営者などいるのだろうか。

どんなに優秀な経営者がどんなに真面目に取り組んでも、時代に合わなくなったり、何かしらの不可抗力をともなうトラブルにでも巻き込まれたら、雇用の8割維持など簡単なことではない。

また、跡継ぎになって代表として経営に当たっても、資質の問題だってある。他の人間の方が代表者として適任であれば、トップを交代したほうが、よほど会社のためになる。

それこそ雇用の8割維持を達成するためにも、トップ人事をそのように判断するほうが賢明という事態も起こりえる。

今回の自社株相続の特例だと、5年以内に少しでも株を移動したり、上記の条件を守らなかった場合、免除されていた相続税は、利子税まで付けてただちに納めるハメに陥る。

5年もの期間に渡って、代表者の地位も雇用も変動がないようにしろという発想は、まさに役人的発想だろう。

変化もなく人事にしても予定調和の中でしか動かない役人の考えそうな条件だと思う。
民間の事情、中小企業経営の実態を理解していたら、もう少し違う形になるような気がする。

この自社株相続の特例は、あくまで、使いたい人が使える制度。使うか使わないかは、詳しい税理士などを交えて慎重に検討するほうが賢明だろう。

われわれ専門マスコミも、つい「自社株相続税が大幅に減税」みたいな表層的な取り上げ方をしてしまいがちだが、おいしい話には当然、厳しい条件がある。こうした部分にしっかり焦点をあてて報道することが大事だと思う。

2008年9月16日火曜日

銀座 九谷

「北海道」をウリにしたお寿司屋さんが銀座にあると聞いて出かけてみた。外堀通り沿いのビルの地下に構える「九谷」という店。

名前からすると北陸の魚介類を食べさせる店のようだが、系列店が札幌にあるそうで、北海道直送品がアレコレ揃っている。

店内は、妙に明るく、開放的な雰囲気。銀座の寿司屋にありがちな息苦しいような感じはまったくなく、肩肘張らずに過ごせる。

かといって、大衆的な安っぽさはなく、気軽で適度な高級店といった感じだろうか。比較的客層も若い。

若い店主は、客への目配りがしっかりしており、ボケッと座っていても、そつなく対応してくれる。

さて肝心の食材。北海道好きの人なら必ず気に入りそうなラインナップで、私のように寿司屋めぐりのためだけに北海道旅行をするような好き者には堪らない。

甘さタップリのボタンエビをつまみで頼めば、珍味好きには嬉しいエビミソが出てくるし、ウニの塩辛やイカのワタの味噌漬けなんかを出してもらえると、単純な私は、頻繁に通おうかと思ってしまう。

私の北海道寿司屋めぐりの目的は、考えてみれば寿司そのものではなく、地元ならではの珍味。この「九谷」には、その手の酒肴がいろいろありそうなので、束の間の旅気分が味わえる。

寿司屋のカニといえば、タラバかズワイが主流になっている印象があるが、この店で食べたのは毛ガニ。北海道ならではのポイントはカニミソをしっかりミックスしてくれる点だ。つまみで剥いてある毛ガニをもらっても、握りで頼んでも、冷凍物とはひと味違うカニミソがしっかりトッピングしてある。

イクラもこの時期ならではの生イクラを当然のように常備してあるし、タラコやウニも北海道直送の上質なものを使っている。素直に美味しい。


くじらの刺身やベーコンも極めてまっとうで、ある程度、店主にまかせておけば、かなり色んな種類を楽しめる。

東京では珍しい山ワサビも当然のように登場する。イカと山ワサビの巻物は、やたらと辛くて涙ボロボロだったが、つまみの刺身に常に山ワサビを頼めるのは高ポイント。

そのほか、マグロの漬けやコハダ、しめ鯖あたりの仕事系のネタもきっちりとした水準で、単に生ものしか置いていない北海道の店とは違う。

短期間に続けて2回行ってみて、私にとっては居心地が良さそうな店だと思った。お勘定も界隈の店と比べると良心的。近いうちに再訪して、じっくり珍味攻めをしてきたい。

2008年9月12日金曜日

総裁選ヨタ話

自民党お得意のメディアジャックがはじまった。総裁選に5人が立候補、おまけにそれぞれ独特な個性があるだけに、民主党の話題はしばらくの間、当然埋没する。

不偏不党、中立が建前?の私には、5人のうち、誰が勝ち残るかさほど興味はない。でもブログ的にアレコレ書きたくなったので雑感を書き殴ろう。

●本命の麻生氏。言わずと知れた大富豪だ。閨閥は天皇家にまでつながる。富豪を目指す私にとって、大富豪という事実だけは昔から気になっていた。

大昔の藤山愛一郎しかり、河本敏夫しかり、富豪経営者が総理の座を目指して政治に進出するパターンには、結局、“スッカラカンの末路”を迎えるような印象がある。

麻生氏の場合、ケタ違いの富豪だからか、スッカラカンの気配はない。凄いことだと思う。

●続いて、東大法学部出身で政策通で知られる与謝野氏。私との共通点は出身大学ぐらい(ウソです)だと思っていたが、愛煙家という点で親近感を覚える。咽頭がんにまでなったものの、克服。それでも隠れて今でもタバコを吸っているらしいから、それはそれで凄い。

総裁選出馬表明の多忙期に、わが社の「納税通信」に消費税をテーマに寄稿してもらった。先週号に掲載中。

●初の女性候補・小池氏。女性の政治家って個人的にはあまり興味がない。でも、昨年12月6日付のこのブログで「小池百合子になりたい」と書いてしまったので、その後、どんな行動を取るのか気になっている。

●石原氏。選挙区が違うという理由だけで、二世代議士、二世議員ではないと主張しているが、世間はまったく逆の見方をしている。私の実家はこの人の選挙区。その昔、プライベートでちょっとお世話になった。

●石破氏。なんとも微妙なキャラだが、総裁選関連の会見や座談会では、実にまっとうな話をしているように思う。昔カタギの職人政治家と言えなくもないが、あのキャラはやっぱり異色ではある。


東京人である私としては、東京選出の候補者に肩入れしたいが、5人中3人が東京の選挙区だし、総理大臣になったからといって、出身エリアをえこひいきするような話もあるわけないので、やっぱり総裁選の結果より、次の総選挙の方が気になる。

なんか今日は、つまらない内容になったので、一応、小ネタをひとつ。

上記の5人のうち、ある男性議員について。もう10年以上前のことだが、とある銀座の店で、その人が私の隣で飲んでいた。取り巻きも秘書らしき人も連れず、一人で赤い顔してホステスさんと盛り上がっていた。

盛り上がるというより、ただただ“ゴロにゃん状態”。まさに「僕ちゃん○×でちゅ~」という甘えん坊モードに終始していた。私にとっては結構強烈な印象だった。

政治家も変なストレスが多いのだろうと、同じ男として同情したくなった記憶がある。多かれ少なかれ男にはそういう部分はある。

でも、いま総理大臣候補として彼が語っている姿を見ると、あの夜の姿がオーバーラップして、ちょっと気持ち悪い。

2008年9月11日木曜日

正当な東京料理

「ホテルで食事」というと、値段が凄く高いとか最先端の料理とか、ちょっと特別なイメージが少なからずある。

近年増殖中の外資系高級ホテルのレストランは、確かに値段設定が「?」なところが多い。間違ってもお気軽感はない。

昔ながらのシティホテルには、いまだに適度な高級感とお気軽感が同居するレストランもあるが、世の中を飛び交っている情報は、最新のものばかりなので、この手の情報は少ない。

前振りが長くなった。今日取り上げるのは、九段下にあるホテル「グランドパレス」。
昔は、プロ野球のドラフト会議の会場として使われるなどそれなりに元気があったが、最近は、“置いてけぼり感”が否定できない存在だ。

私は、ここの1階にあるカフェレストランに時々出かける。特製ピラフが無性に食べたくなってわざわざ出かける。

幼い頃から通い続けた学校が、このホテルのそばだったため、私にとっての“ホテルめし”はここが原点。小学校の謝恩会なんかも会場はグランドパレス。親がかりの行事でよく利用した。

親が用事で学校に来たときは、帰りにここの特製ピラフを食べるのが何よりの楽しみだった。ここのピラフのファン歴は、かれこれ30年以上になる。

ピラフの種類は、チキンか貝柱か小海老。
今では、確か貝柱か小海老だけになったようだが、具材はさほど問題ではない。特筆すべきポイントはソースだ。ピラフに特製ソースをかけて食べるパターンはあまり一般的ではないが、ここのピラフにかけるソースが絶品。

表現力不足でお恥ずかしいが、味については、うまく例えが見つからない。私にとって「グランドパレスのピラフソース」は、何にも似ていない味なので、その美味しさが伝えられない。

醤油系でもない、トマト系でもない、クリーム系でもない。肉系、魚系、野菜系という分類も違う。多分それらすべてのエキスが混ざり合ったソースなんだと思う。

スッキリしながらもコッテリ感もあり、複雑な味わいでパラッと炒めたピラフに絶妙に合う。わざわざ食べに行っても後悔しない味。年月とともにほんの少しソースの味が大味になった気がするが、こればかりは、こちらの味覚の変化かも知れない。

多分、ここの特製ピラフだったら、真面目に米一升分でも食べられると思う。

先日行ったときは昼時で、ランチバイキングの時間帯。やたらと空腹だったので、バイキングの客として、アレコレ食べながら、別注でピラフをオーダーした。

ここのバイキングは、今どきのホテルがやたらと強気な価格設定をして、旨くもない食材を種類ばかり並べて、見た目勝負に終始しているのに対し、品数は少ないものの、普通に美味しい(これが難しい)。

ホテルのバイキングというイメージで出かけると拍子抜け、もしくは落胆するかも知れない食べ物のラインナップだが、それぞれ味は間違いない。

「古き良き時代のホテル洋食」がまっとうに継承されているように思う。

ちなみに系列の丸の内パレスホテルでも、1階のカフェレストランのローストビーフが名物。気取った今風のレストランのローストビーフよりはるかに美味しい。

ここで紹介したピラフにしてもローストビーフにしても、それこそ昭和の日本人が感激した洋食の味だ。

天ぷら、ウナギ、寿司・・・。東京の名物料理は数あれど、グランドパレスのピラフも極めて正当な“東京料理”のひとつだと思う。

2008年9月10日水曜日

夜の偽装


このブログを熱心に読んでくれている友人に「最近は色っぽい画像が無くてつまらない」とダメ出しされた。仕方がないので有り難い画像を放出してみた。

普通に暮らしていると、こういう服の人とは出会わない。だから夜の街で出会うと嬉しい。新宿歌舞伎町あたりの深夜には、変に露出したギャルがゴロゴロ転がっているが、そんな姿を目撃しても不思議と嬉しくない。なぜだろう。ちょっと考えてみる。


うーん、きっと、大胆な服装といえども、本人の私生活の延長だと面白くないのだろう。要は、素の姿なのかどうかという点が大きいのだと思う。

夜の蝶の場合、仕事という舞台を前にして割り切って変身している。“素”なのか“変身”した姿なのか。ここがカギを握っているように思う。

夜の蝶の変身は、言ってみれば仮装とか偽装だ。このジャンルの偽装、仮装は大歓迎だ。

話はそれるが、欲しかったモノを買いに行って、ラッピングもされずに手渡されたら興ざめだ。趣味の品、嗜好品、ましてや贈答品などは、丁寧に箱に詰めてもらったり、過剰包装をされると有り難い感じが強まる。

仮装と言ってしまっては、語弊があるが、“装飾”の大切さだろう。ときに虚飾だろうが、“飾る”という意識が大事。

街にたむろしている露出娘は、飾っているわけではないから、露出度タップリでも嬉しくない。

和服姿も同様だ。現代社会では、非日常性の最たるものだろう。もともと、ハレの日に着るわけだから、見ている側もなんとなく晴れやかな気分になる。

江戸時代にタイムスリップしたら、みんなが着物姿でちっとも有り難くないだろうが、滅多に見かけなくなった現代社会だから、和装にも惹かれる。

どこにもチラリズムがなくても、ついつい有り難い気分になる。着ている人まで素晴らしい人なのだろうと錯覚しそうになるのが困った部分ではある。

ところで、仮装、偽装、虚飾と書き連ねると、悪事のオンパレードみたいだが、夜の世界の場合、相手方、すなわち客側が、それを求めているのだから、ちっとも悪いことではない。

むしろ、あまりに“素”の姿で相手されたら、有り難くないのだから変な話だ。

客側と女性陣の関係を考えると、女性の“装飾”が微妙なオブラート、境目となって男女間に壁を作っているように思う。

突き詰めれば、偽装や仮装には、疑似恋愛を“疑似”のままでいさせる役割が潜んでいるのかもしれない。

ちなみに、私の場合、偽装度合が激しい女性にお相手してもらうと、かえって緊張しないで過ごせたりする。きっと、こちら側も夜の街では、それなりに気取ったり、格好つけたり、一種の偽装状態だから、偽装した者同士で気が楽なんだと思う。

「化かし合い」とはよく言ったもので、夜の世界に偽装はつきもの。それを理解しないとバカを見る。実際にバカを見てしまった人を随分目撃した(私のことだろうか?)。

ああだこうだと書いてみたが、それでも疑似恋愛から疑似という2文字を取り去った状態に陥りたいと思ってしまうのだからショーモナイ。

2008年9月9日火曜日

無所属ということ


この夏は、久しぶりに結構な量の本を読んだ。読書と書くと大げさだが、たいていは気軽な短編だったり、エッセイ。やはり、長編にじっくり向き合うぐらいの余裕のある時間が欲しいが、仕事したり、旅行したり、酔っぱらってばかりいるとなかなか時間が取れない。

エッセイの中で印象的だったのが、今は亡き、気骨の人・城山三郎の「無所属の時間で生きる」という一冊。

戦争体験をバックボーンに一貫して組織と人間性の在り方に厳しい批評眼を持っていた城山氏ならではの人生観が垣間見える。

さりげない日常生活の洞察のなかで「無所属の時間」の大切さが語られている。

確かに、人間の価値や豊かさを高めるためにも、どこにも属していない“素”の自分でいることは大事だろう。

定年後、年賀状がめっきり減ったことに意気消沈し、趣味もなく友人もなく寂しく漫然と過ごしている人は多い。

中高年の世界では、合言葉のように「趣味を持て」、「会社以外の交友関係を作れ」みたいなことが言われている。この風潮自体が、無所属でいることに目を向けないツケが結構重いことの証だろう。

今の社会では、属している組織そのものが、その人のすべてを代表するかのような見なされ方をする。

Aさんは、あくまで「○×商事のAさん」であり、所属する組織がモノをいう部分がある。もちろん、それ自体が社会の当然の姿ではある。でも、所属意識ばかり強すぎれば、その人が道具みたいに見えてしまう部分もある。

以前、飲み屋での常連仲間に、有名巨大企業の幹部がいた。飲み屋にいるときでさえ、自分の部下は1000人規模だとか、どうでもいい武勇伝を嬉しそうに話していた。

海外駐在時代の戦争地帯での武勇伝など話自体は興味深い。彼の語り口も話し上手で飽きさせない。飲み屋に集う常連さんたちも、一応の敬意は持って接していたが、「会社がすべて」みたいな人は彼だけだった。

常連さんのなかには、彼と同等のポジションに就いているような然るべき組織人もいたが、所属先を前面に押し出すようなことはなく、彼の突出ぶりが目立っていた。

その後、彼は想定外の小さな関連会社に片道切符で出向になった。店に姿を見せなくなった彼は、すっかり偏屈に変身して人相も変わってしまったらしい。そんな情報は、不思議なものでアッと言う間に元の飲み仲間に広まる。

すごく単純な例え話というかエピソードだが、このての寂しい話は、そこらじゅうに転がっているのだと思う。

たとえ趣味を持ったり、会社以外の交遊関係を持ったとしても、急場しのぎでは、結局ダメ。“素”の自分になりきれない人が多い。趣味の集まりなのに、自分のことを「どこそこに属している自分」と必死にアピールしてしまうクセは簡単に抜けない。男性特有の哀れな現象らしい。

無所属になれない人って、思えば、然るべき組織で相当頑張ってきた人なんだと思う。安易に非難はできない。相当頑張ったからこそ、その組織を離れると、とたんに子どものように不器用になってしまう。

私のように、わがままに、マイペースでやってきた人間にかぎって、「オイラは無所属の時間を上手に過ごせるぜ」などと威張ってみたくなる。それはそれでたちの悪い話だ。

映画・寅さんシリーズが国民的人気を得た理由は、それこそ寅さんが勝手気ままに、無所属の時間を過ごしていたから。国民は、やりたくてもできない奔放な暮らしを寅さんの姿に投影していた。

もちろん、寅さんのまわりには、コツコツと真面目に働く人々を配置し、寅さんを英雄視、絶対視しなかったから、成り立ったストーリーだ。

「オイラは無所属の時間を上手に過ごせるぜ」と言える人間ほど、案外、誉められたものではない生き方をしてきたのかもしれない。

無所属でいられる人、いられない人。どっちが立派だとは言い切れない。でも楽しく生きられるかどうかという点では、答えは簡単。「無所属の時間」が多ければ多いほど、いろんな世界が待っている。

2008年9月8日月曜日

別荘問題

セカンドハウスの発想で、自宅以外にも拠点を持とうという人が増えているそうだ。週末は郊外の自宅、平日は都市部のマンションで暮らして、通勤での労力ロスを避けようとする狙いだ。

いわゆる別荘という感覚とはちょっと違う点がポイント。高原やリゾート地での保養的意味合いの別荘ではなく、単に住まいの使い分けという発想が元になっている。

もともと面倒なことが嫌いな私は、住みたくないエリアであっても、職場に近い場所に住むことで問題を解消してきた。少なくとも災害に遭ったときに帰宅難民になるリスクは押さえられる。

別荘といえば、いつの世もステイタスの高さの象徴のように位置付けられている。最近では、なけなしの退職金をはたいて、別荘暮らしを楽しむサラリーマンOBが増えてきたため、昔よりは気軽な存在になっている。

私にとって、別荘ライフには微妙な感覚がある。旅好きな人間が旅好きである理由の一つが、知らない場所に行ってみたいということ。私も同様で、別荘を持ったら、ついそこにばかり行ってしまいそうなので少し面白くない。

こう書くと、別荘ライフを知らない者のひがみみたいに思われそうだが、私だって人並み以上に別荘体験はある。

祖父が伊豆半島の伊東に別荘を構えていたため、幼い頃はしょっちゅう長逗留した。広大な敷地に平屋建て。いわば昔のイメージ通りの別荘だった。

広大な敷地だったので、転がり回るのに適した自然の斜面があり、小さな川も流れていた。そう書くとゴージャスなイメージだが、実際は結構大変だった。別荘に入っていく山道が舗装されておらず、クルマで行っても時には上がっていけず、山の麓に駐車して、地元の作業車に頼んで運んでもらった記憶がある。

おまけに盗難被害も目の当たりにした。何ヶ月かぶりに行ってみると、電化製品がすっかり盗まれていた。昭和40年代にホームセキュリティーという考え方や専門業者などいない。家電製品も今より貴重だった時代だけに、人気のない山の別荘は格好の標的になったのだろう。

それ以外にも、到着した日は大掃除にテンヤワンヤだったのも嬉しくない思い出。都会のモヤシっ子にとって、巨大なクモの巣除去をさせられることは、その場所が苦手になるには充分な体験だ。

伊東の別荘で覚えたのは、別荘は面倒ということ。その後、別荘マンションはいくつかあったが、一戸建て物件は伊東が最後だった。

マンションといえども、やはりたまにしか行かない場所は、掃除などの管理が大変。1~2泊程度だと、掃除しに行ったような感覚になることもある。“上げ膳据え膳やりっ放し”みたいな気ままな時間にはならない。

私も、学生時代は実家が持つ別荘マンションをマメに利用した。時間があり余っている頃だったせいもあるが、宿泊代がかからず、おまけに深夜早朝でも自由に使える点は有り難かった。

松田聖子のような髪型の女の子を長距離ドライブに誘って、運転に疲れたふりや、酔っぱらったせいにして、ご休憩場所として活用した。ちょっと反省。

“オールナイターズ”みたいな人々とグループで出かけて不純に盛り上がったりもした。結構反省。

一応、今日は、オーナー企業が購入するリゾートマンションの税務上の微妙な問題を書くつもりだった。

結局、脱線したまま長くなってしまったので、本題に入らずに終わりにする。

2008年9月5日金曜日

鮎、肝、ボウモア、シガー

なんだかんだと暑い日は続いているが、秋の気配は着々と深まっている。先日も高級食材専門スーパーを探検していたら、生のスジコが神々しく光っており、元気そうな松茸も威張った顔して陳列されていた。

ソーメンやかき氷で喜べる夏と違って、さすがに実りの秋にはいろいろな楽しみが待っている。

先日も、ふとした瞬間に秋を感じた。お寿司屋さんで出された鮎がきっかけ。一瞬、「いまさら鮎でもなかろう」と思いかけたが、ほどなく大いなる自分の間違いに気付く。

子持ちの鮎でした。パンパンにはった腹の中にこれでもかというぐらいに満載された小さなつぶつぶ。一体、何尾ぶんの鮎のタマゴを食べてしまったのだろう。

タマゴ自体に特別な味があるわけではないが、酒を飲みつつ、モグモグするには良好な酒肴だ。塩加減、焼き加減が良かったので、焼酎より日本酒が飲みたかったが、連日の宿酔いのため我慢する。

この日、旧友と呑んでいたのは池袋の「鮨処やすだ」。このブログでも何度も書かせてもらったが、池袋エリアで人様を連れて行ける貴重な店だ。

この日一緒に呑んだのは小学校から同窓の男。草野球に熱を上げていたときはバッテリーの関係だったが、20年以上アホ話しかしてこなかった関係だ。

仕事の話などしたことはなかったが、ひょんな偶然もあって仕事上の連携が実現しそうな話が浮上した。部下を引き連れて私の会社まで来てくれた。

仕事上のミーティングと言っても、私にとって基本的には、その後のアルコール摂取が大きなテーマだ。

当然、設定した来社時間は遅めの夕方。用件を済ませて、二人で夜の街に消える予定だったのだが、わざわざ来てもらった以上、まともな店に行かねばなるまい。

こういう状況の時、池袋は困る。全然ダメ。その点、「鮨処やすだ」は貴重だ。この日も、釣りキンキやボタンエビ、サバ、イサキ、サンマなどを刺身でちょろちょろつまんだ。すこしづつ色々味わえるのがよい。

握りも肝をたっぷり載せたカワハギやコハダ、煮ハマグリなどが抜群だった。そのほか、酢飯と生ウニをグチャグチャに和えて、スダチを少し搾ってリゾット風に小皿に盛ってくれる一品もベリーグッド。

酢飯好き、ウニ好きな私は単純に嬉しい。

なんだか秋の気配という今日のテーマから随分それてしまった。

この日、2件目には、モルトの品揃えをウリにしながらシガーも常備するバーに行った。ボウモアを片手に、友人はCOHIBAのシグロ2、私はROMEO Y JULIETAのショートチャーチルをブカブカふかした。

色気のない数時間だったが、男子校的に過ごすひとときはなかなか良い時間だった。

2008年9月4日木曜日

おでんを食べて思ったこと

秋の気配が深まると、ぷらっと入れなくなるのが「おぐ羅」。銀座・数寄屋通りのおでん屋だ。夏場なら、予約ナシでもポツンと空いた席を確保しやすい。秋の気配が近づいてきたので、今のうちに行っておこうとソッと覗いてみる。思惑通り、すんなり入れた。

お勘定の高さでも有名だが、一年中繁盛している。カウンター中央にデンと構える大将の迫力に圧倒されるのもこの店の特徴のひとつ。

それにしても、この店の店主の目配りと采配ぶりの巧みさは特筆すべきだろう。おでんだけを2,3品頼んで居座っている客はここにはいない。

大柄な店主は、物腰低く、かといって圧倒的存在感で、おすすめの一品料理の注文を次から次に取り付ける。不思議なオーラのせいで客側もあれこれ注文してしまう。

実際、一品料理はどれも美味しい。当たり前のものがどれも高水準。刺身類にしても焼き魚にしても、奇をてらったものはないのだが、どれも上等な味わい。だからなんとなく注文してしまっても、たいてい満足。

また、ここの店主は、カウンターとテーブル席、客の人数や注文するペースなどを吟味しながら、実に巧みに客の移動も促す。このへんの采配は、まさにプロの眼力だろう。

昼時のそば屋とか定食屋が、次々に来る客の配席を指図するおばちゃんの力量ひとつで、売上げに2倍以上の違いが出ると聞いたことがある。こういう采配の積み重ねが商売成功の秘訣なんだろう。

ただ美味いものを出すだけじゃなく、店の中の空気を完全に支配してコントロールする職人技が、繁盛店を繁盛させ続けるのだと思う。

一見なんの変哲もない店構え、座席だって丸椅子で特別高級な気配があるわけでなし、特別珍しいメニューがあるわけでもない。

強いて特徴をあげれば、客に若者がいない点だろうか。全然いないわけではないが、基本的に後期高齢者ならぬ、“後期オジサン”の占有率が高い気がする。地域特性から、ホステスさんの同伴も見かけるが、あまり若い女性を見かけたことがない。この落着き感が独特な空気を醸し出している。

この日も、カウンター後ろの小さなテーブル席を、初老というか、もっと年上の女性が二人で陣取っていた。“ただモンではないオーラ”を発射していたので、タダモノではないのだろう。

やたらと身なりも良く、「婦人画報」あたりが、女系三代とかいってグラビア特集に取り上げそうな一族の“一代目”の雰囲気(よく分からない例えでスイマセン)。

いずれにしても、地に足のついた余裕のあるお客さんが多いように見える。そしてそうした落ち着いた客層の人々が、この店の路線に納得、共感している感じが興味深い。

どんな仕事でも、独自の路線とカラーが必要なのは言うまでもない。ただ、それだけでなく、路線なりカラーを維持する矜持とか、共鳴者作りの大切さを痛感する。

何を書きたかったのか分からなくなってきたので、この辺で。

2008年9月3日水曜日

不快な話

首相経験者には、基本的に退任後いつまでもSPがつく。確か議員を辞めても死ぬまで2名のSPが配置される。

なんとなく担がれて、理念もなく首相の座につき、イヤになったから投げ出すような人物に対しても同様。税金の使い道としてなんとも間抜けだ。

最近のようにコロコロと首相が変わると、そのうち、SP要員が足りなくなるかもしれないと変な心配をしたくなる。

それにしても安倍、福田と続いた政権投げ出しリレーは首相ポストを徹底的に軽いものにした。

議員内閣制である以上、首相の座をほっぽり出しても、議員センセイの地位は変わらず、下手をすれば議場の最後列で、大物顔でふんぞり返っている。

各委員会で国政に関する議論を活発に展開するわけでもなく、悠然とエラい人として過ごす。

民間企業に例えるなら、苦難に直面し、会社をグチャグチャにしたうえで経営をほっぽり出しても、名誉会長とかにとどまって収入も地位も絶対的なものとして保証されるようなもの。

なんとも甘い構図だ。政治の世界だけでリーダーごっこをしているのならともかく、そんな甘ちゃんが、国全体のリーダーとして位置付けられているのだから国民は堪ったものではない。

政治の世界では「身を賭して」とか「退路を断って」とか「火だるまになってでも」とか「命懸けで」などの言葉が気前よく使われる。あれらの言葉は、逆にそんな気がさらさらないからこそ口をついて出るのだろうか。イヤミではなく本気でそう思う。

自分の命までも担保にして仕事をしている中小企業オーナーの間から、そうした大げさな言葉は滅多に聞かない。そんな言葉を口にするような状態だったら、そんなことを口にする暇もなく打開策に専念しているからだろう。

中小企業の場合、大げさではなく、経営トップは全身全霊を傾けている。にもかかわらず「同族会社」とか「オーナー企業」という言葉のイメージは、内部牽制機能が働かない、経営者が好き勝手なことをしているといった“放漫”イメージがついて回る。

確かに一面的にはそうした指摘も誤りではないだろうが、いざ、会社がピンチに陥ったときのプレッシャーは、そのポジションにいる人間にしか分からない過酷なもの。

福田首相の辞任理由は、突き詰めれば、「みんなに嫌われた」、「自分の考えが通せない」、「ズタボロになってから辞めたら格好悪い」・・・。こんなところだ。

オーナー経営者から見れば、実に幼いお粗末な理由に見える。本来なら、とてつもなく大きなものを背負っているはずなのだが、結局、その自覚が無かったことの証だ。自覚がないから放り出せる。

世の中では、今回の騒動を「あ然」とか「驚愕」という捉え方をしている。マスコミ的にはそれでいいのだろうが、然るべき責任とともに生きている市井の人々の印象はちょっと違うように思う。

ひと言で言うなら「不快」。この言葉以外にピンとくるものはない。

2008年9月2日火曜日

カニまみれ


北海道旅行の続きです。定山渓をあとにして向かったのはニセコ。私自身はじめて訪れる場所だ。

旅館メシが続くのもどうかと思い、ニセコでは「ノーザンリゾート・アンヌプリ」というホテルに宿泊。日航ホテルが撤退した後を引き受けたホテルだ。一応、寝室とリビングがわかれたスイートタイプの部屋にした。家族旅行だと広めの部屋を予約しないといけないのが厄介だ。

全面ガラス張りのバスルームがベッドルームに隣接している。家族旅行にはあまり意味のないエロっ気だ。

天候に恵まれず、おまけに寒すぎる。気温が14度まで下がっているらしい。ホテル近くの日帰り温泉で露天風呂に浸かっていたが、いつまでも入っていられるほど外気が冷たい。

とくに面白いこともなかったので、連泊予定を1泊で切り上げ、登別温泉に向かう。

急きょ手配したのは、登別一番の老舗で巨大浴場の存在で知られる「第一滝本館」。評判の大浴場はまあまあの水準。室内風呂のバリエーションは豊富だが、露天風呂が今ひとつ。

食事は北海道の大型ホテルにありがちなバイキング。何を食べても不思議なぐらいにマズい。ここまではっきり書いたらいけないのだろうが、他に表現が見あたらない。

温泉の泉質が素晴らしいので、充分にお客さんは来るのだろう。大浴場でバスタオル使い放題だし、温泉自体は確かに快適だった。

翌日からは予定していたこちらも大型旅館の「まほろば」へ。大衆路線のわいわいガヤガヤ系だが、私のお気に入り。展望源泉風呂付きの和洋室だと広々快適でおすすめ。

この宿はなんといっても大浴場が圧巻。これでもかというぐらいに浴槽がいっぱいあり、露天風呂もかなり巨大。そこに登別の各種の源泉が豊富にあふれており、極楽モードに浸れる。

アジア系、ロシア系団体客に遭遇してしまうこともあるが、なにより異常に広い大浴場なので気にせず過ごせる。

連泊だったので、夕食はバイキングと個室での懐石コースにした。バイキングも前日よりはまともで、何気に楽しくドカ食い。食べ放題のカニもあったが、さすがに食べ放題用のカニは感動とはほど遠い味。それでも雰囲気のせいで結構食べられる。嬉しい。

翌日の食事処での夕食だが、あらかじめ献立を尋ねると、毛ガニは一人に半杯だという。旅行終盤だったので、別注でもう一杯活毛ガニの姿ゆでを頼む。

さて、その夕食の際、ちょっとした事件発生。冒頭の写真が事件の様子だが、私の説明不足で、なぜか別注の毛ガニが2杯も出てきた。一人につき半杯の毛ガニも子どもの分まであるし、テーブルの上はカニだらけになった。おまけにそれぞれ小型ではなく、大型に近い中型サイズ。そのほかにも当然、刺身とか肉とかアワビとかが出てくる。ちょっと困った。

余計に運ばれてきちゃったことを伝えようかと思ったが、そこは毛ガニ好きな私だ。全部やっつけることにする。

延々毛ガニむしりタイムが続く。生きていた毛ガニのミソは冷凍物と違って色も黄金色に輝き、味わいも格段に甘くクリーミーだ。病気になるぐらい食べた。子どもにも気前よく少しあげた。

もちろん、甲羅に包丁は入っているが、ホジホジする手間も結構かかる。他の料理に見向きもせずにカニと戯れる。北陸あたりのズワイは別格だが、タラバなんかと比べたら、やはり毛ガニは飽きずに結構な量を食べられる。

冷酒を片手にミソを舐め舐め、カニに夢中になっていたら、家族旅行だということを一時的に忘れていた。家族の食事はとっくに終わり、私だけが取り残されている。カニはまだまだ大量にある。ちょっと困った。だから家族旅行は疲れる。やはり私はわがままなのだろう。

結局、仲居さんに小どんぶりをもらい、スーパーカニ丼を作ることにした。小型サイズだったら、ほぼ一杯分に相当するカニ身を結構な量のミソとともに混ぜ合わせ、暖かいご飯の上にどーんと載せてみた。載せるというか積むという感覚だった。

ご飯より具材の方がはるかに多いスーパーカニ丼ができあがった。醤油を少し垂らしてかっ込む。

あれだけカニばかり食べていたのに、ご飯と少量の醤油のせいで、また別な1品になっていた。味をとやかく説明するより、幸せな気分が全開になった。カニまみれだ。毛ガニに呪われそうな気がする。

今回の北海道旅行、気のきいた旅行記でも書こうと思ったが、結局、ウニとカニの話に終始してしまった。

2008年9月1日月曜日

ウニまみれ

家族旅行で北海道に行ってきた。定山渓とニセコと登別を回った。結局、ただ温泉に浸かってきただけのような気がする。

定山渓では、定山渓第一寶亭留翠山亭という宿に泊まった。翠山亭というフロアは、限定客室となっており、一応VIP待遇。よくあるシティホテルのクラブフロアを模倣したようで、チェックインや簡単な飲み物サービスが専用フロアで受けられる。

そんなとってつけたようなサービスよりも良かったのが客室。10畳の和室とツインのベッドルームが広めの入口まわりを中心に振り分けられており、おまけにゆったりした半露天の客室風呂には、しっかりと温泉が湧いている。

食事は専用の個室で食べられるため、部屋ではかなりノンビリできた。家族連れの連泊だったので、この広さは大事なポイント。お値段も首都圏近郊の同等レベルの旅館に比べれば充分経済的だった。

食事は普通だったと思う。別注で活毛ガニを茹でてもらって、黄金のミソを舐めてばかりいたので、その印象が強い。でも連泊でも変化がついた晩餐だったような気がするので、充分合格点だと思う。

肝心の大浴場は、あまり動線が良くなく、開放感にも欠けるが、サウナがあったので甘めに評価して及第点レベル。

この宿に泊まる場合、やはり「翠山亭」指定じゃないとあまり意味はなさそうだ。

定山渓に連泊している合間には、クルマで小一時間の小樽を散策してきた。普段の気ままなひとり旅ならば、珍味狙いの寿司屋攻めに命をかけるところだが、なにしろ今回は家族連れ。いつものようなチャレンジは難しい。カウンターではなく、小上がりかお座敷でお決まりメニューを堪能せねばなるまい。

かといって、最大限努力したい私としては、近くのコンビニの雑誌コーナーで情報収集。「ムック本掲載店に美味い店ナシ」などとも言っていられず、なんとか貴重な一食をムダにしないよう嗅覚をとんがらせる。

狙いをつけた店は、「ふじ鮨」。見るからに観光客相手の大型店だが、本店が積丹にあるとのことで、“積丹料理”と看板にもうたっている。積丹料理と言われても何のことだかサッパリだが、この季節、積丹といえばウニでしょう。運良くその知識だけあったので、「ウニばっか食べれば間違いない」と判断して、お昼時に入店。お座敷へ。

生ビールのつまみに生ウニをもらい、カニの内子、鰊の切り込みなど北海道お馴染みの珍味とともに味わう。うに最高!。

旬の握りというお決まり握りも頼んだが、やはり、あらかじめ全貫握られてくる握りは、カウンターでマイペースで注文する握りに比べて、なんとなく一段も二段も劣る気がする。

私が頼んだ“メイン”は、積丹生ウニちらし。8月までの期間限定で、3千円を切る値段で堪能できる。ウニの品質はとても良かったので北海道の観光相場からすると決して高くない。

函館朝市あたりでも、このレベルの上質なウニ丼をこのぐらいテンコ盛りで味わおうとしたら、もっと高くつくはずだ。

つまみでも食べ、ウニ丼も食べ、家族たちが残したウニも食べた。上等な生ウニを残したいと思ったことはかつてない経験だった。ただただウニまみれ。ウニに呪われそうな気がした。