2013年9月30日月曜日

旅のススメ


いまどきの若者は旅に出ないらしい。なんとも残念な話だ。若いときの鋭敏な感性で旅先でアレコレ吸収するのは人間形成上大きな意味があると思う。
もったいない。スマホをピコピコいじってるより得るものは大きいはずだ。

オッと、いきなり説教じみてしまった。

旅の効用って何だろう。ふとそんなことを考えてみた。

非日常の世界で刺激を受けること。まあ、一言で言えばそんな感じだ。変化のない日々が続けば人間の五感は鈍ってくる。五感をよどませないためにも旅に出ることは良いことだ。

お仕着せの団体パック旅行でも、友人との乱痴気騒ぎ旅行でも、はたまた新婚旅行、フルムーン旅行でも、知らない場所、馴染みのない場所に身を置けば、いろんな発見がある。その分、脳だって活性化する。

一人旅なら尚更、五感は刺激される。知らない場所で、「何者でもない自分」と対峙するのも悪くない。

肩書きや立場もなく、依存する相手もいない状態で旅をしていると、いやでも五感は鋭敏になる。

別にカッコ良い話ではなく、これ食っても平気かな?、この路地はヤバそうかな?、あと一杯でやめとこうかな等々、どんな場面でも普段より頭が動きだす。

油断しない感覚。これって意外に大事だと思う。

日々の暮らしが平穏にこなせるのは油断する場面がたくさんあるからだ。油断イコール快適である。快適な場面が多い日常こそ幸せだが、それだけでは味気ないのも事実だ。

幸せボケ、快適ボケが過ぎると、いわゆるフヌケになる。フヌケになると本来持っていたはずの五感、すなわちすべての感性がフニャフニャになっていく。

一人で旅に出ると、気ままさにウキウキする一方で、生き物が本能的に持っている適度な緊張感が甦ってくる。視覚、聴覚、嗅覚。すべてが明らかに普段と違うことに気付く。

だから楽しいし、色々なことに気付かされる。そして正しく疲れるから、泥のように眠れることも多い。

大げさに言えば、自分が再生されるような気分も味わえる。私の日常は、煩悩や後悔や懺悔ばかりだから、しょっちゅう再生が必要だ。だから一人で旅に行きたくなるのだろう。
おお、なんかカッチョいいことを書いている感じになってきた。

まあ、再生とか気取ってみても、私の場合、リセット後にまた一から煩悩と後悔と懺悔ばかりの日々を始めるのだから始末が悪い。

さてさて、この秋に予定しているヨーロッパ旅行の計画が徐々に固まってきた。スペインではバルセロナのほか、アンダルシアの名所であるグラナダ周辺に3~4日する予定だ。

アルハンブラ宮殿のオーラに圧倒されて、アラブ街をさまようのが目的だ。異国情緒ドップリの世界で五感を磨き直そうと思う。

きっかけは何のことはない。先日、暇つぶしに観た昔の「火曜サスペンス劇場」に刺激されたせいだ。

謎めいていた主人公の過去が、クライマックスシーンのアルハンブラ宮殿で明らかになって、船越英一郎が大げさにウルウルする展開だった。夕暮れのアルハンブラが美しくて、とにかく行きたくなった。

私の「再生ごっこ」の舞台としては、なんとも贅沢な場所だと思う。

2013年9月27日金曜日

串銀座 卵の誘惑


「串銀座」という焼き鳥屋さんがある。文字通りに銀座にある。凄いネーミングだ。
銀座にあるソバ屋さんが「蕎麦銀座」、北京ダック専門店が「ダック銀座」と名付けるだろうか。なかなか思い切った命名ぶりだ。

結構な高級路線で、上質な鶏肉がアレコレ用意してある。レバ刺しもあるから私にとっては有り難い店。

日本酒の品揃えが凄いことで定評がある店だが、私の場合、レバ刺しだの焼鳥に合うのは焼酎だと思うので、訪ねる時は芋ロックをグビグビ飲んでいる。

「上質な鳥料理と豊富な日本酒」。この店を訪ねる客の目当ては間違いなくそれだが、私の目当ては別にある。


「温泉卵」である。「日本一のこだわり温泉卵」なる仰々しい名前でメニューに華々しく載っている。

実にエロティックな味わいだ。温泉宿で出てくる生に近い状態の温泉卵も好きだが、この店の場合、もう少し火が通っている。

黄身が流れ出て行ってしまう切なさとも無縁だし、適度に固形な感じが酒のアテにもってこいだ。白身の固まり具合とダシ汁との絡み合いもバッチリ。官能的で興奮する。

なんでも普通の卵に比べてコレステロールは20分の1で、ビタミンEは50倍だという触れ込みだ。随分大きく出たものだ。

本当だろうか。いや、そんなはずはあるまい。事実だったら予算に糸目をかけずに個人的に仕入れて毎日ワンサカ食べてみたい。

卵は1日2個までなら健康に問題ないと聞いたことがある。それが本当なら、この卵は1日40個食べてもOKという話になる。

1日3回、この卵を5~6個使った生卵かけご飯をドンブリ飯で食べても、通常の卵を1日1個食べただけのコレステロール摂取量だという理屈だ。事実ならソク実行したい。

さすがにそんなはずはないと思っていた方が安全だろう。

私自身、この店に行くとありきたりのツマミや前菜など注文しないで、温泉卵だけ何個も頼んで酒を飲みたい衝動にかられる。

でも、勇気がないから実現していない。せいぜい、シメに「温玉乗せそぼろ飯」を注文するぐらいで我慢している。


コレステロールだ尿酸値だといった、成人ならではの指標を気にし始めると「卵問題」は人生にとって悩ましい問題になる。

摂り過ぎは禁物!と言われると、なんかモヤモヤする。「半沢直樹」の最終回を見たときと同様のモヤモヤだ。

ラーメンの麺にだって、パンにだって、アイスクリームにだって、ハンバーグにだって、その他、気付かないものにも卵はやたらと投入されている。

それらをすべてカウントしたら毎日それなりに卵を食べていることになる。実に悩ましい。

とはいえ、近年では、「卵の摂り過ぎ」がさほど身体に害はないという研究結果が定着しているのも一面の事実である。

1日、1個や2個程度なら、コレステロール値に影響はなく、逆に脳の活性化、ボケ防止、抗酸化作用、風邪予防などの利益の方が大きいという説だ。

地獄に仏みたいな話?だ。

そうは言っても「卵いっぱい食ってもヘッチャラだぜ説」は、健康体の人に対する指針だと思った方がいいらしい。

日頃からコレステロール値が高い人なんんかは、そんなヤンチャなことを鵜呑みにしない方が無難みたいだ。

まあ、このへんの解釈?は私自身の判断なので、「大量卵無害説」を信奉する人は信じる道を突き進んでいただきたい。そして、1年ぐらい経ったらその結果をコソッと教えて欲しい。

卵ファンにとって厄介なのは、イクラとかタラコ、カラスミなどの「数え切れないほどの卵の粒々集合体」についてである。

「イクラの一粒一粒が鶏卵一粒と同じようなコレステロール値である」というオッソロシイ話を聞かされることがある。

それってことは、タラコをパクッと食った日にゃあ、生卵数百個を一気に食らったような話になっちまう。

トレーニング中に生卵を大量にジョッキで飲み干したロッキーも真っ青なトンデモナイ話である。

さすがにそんなことはないらしい。そりゃそうだ。朝飯にタラコ、昼飯に子持ちのカレイの煮付けなんか食って、夜に子持ち昆布をツマミに一杯やって、腹の膨らんだ鮎の塩焼きを食べたりしたら、即死してしまう。

まあ、用心に越したことはないが、過剰に意識するのも馬鹿馬鹿しい。結局は、日頃食べている他のものとのバランスと適度に身体を動かす健康な日常さえ維持していれば良いという結論にしよう。


今の時期、気の利いたお寿司屋さんに顔を出すと、この季節ならではの「生イクラ」が私に挨拶しに来てくれる。

礼節を重んじる私としては、生イクラさん達一人一人にまんべんなく愛を注ぐ。一粒も残すことなくニコニコと食べさせてもらう。週に何度もそんなことをしている。

秋真っ盛りである。

2013年9月25日水曜日

秋の味


秋である。土瓶蒸しだ。今年は早くから松茸が出回っていたが、さすがに土瓶蒸しは涼しい風が吹き始めないと食べる気にならない。

これぞ秋の味である。ジンワリする。

そもそも松茸はホッペタが落ちるほどウマいものではない。その証拠に松茸大好き!と叫ぶ子供はいない。冷静に味わえば何のことはない。キノコである。気分で味わう代表的な食べ物だろう。

土瓶蒸しだって松茸以外の投入物がアノ旨みタップリのダシ汁を作り上げているわけで、松茸はいわば、官僚機構の上に乗っかっている名誉職の大臣みたいな位置付けだ。

そんなアマノジャクなことを書いていると感じ悪いので、適当にしておこう。でも、あの食感と香りは秋の風物詩である。


秋といえばサケである。酒ではない。鮭だ。秋は産卵のためにワンサカやってくる季節だ。腹の中にはイクラがタップリである。

今の時期に採れるイクラが、塩漬けや醤油漬けにされて、冷凍保存されたうえで、日本中で365日活躍してくれる。有り難い限りだ。

で、今の時期は「生のイクラ」を味わえる貴重な時期だ。何事も「ナマ」は嬉しい。最高だ。なんてったって気持ちいい。間違えた。何よりフレッシュな感じが堪らない。

いつもの高田馬場「鮨源」でおいしく戴いた。醤油をちょろっと垂らして味わえば、究極の生卵かけごはんになる。ウットリである。


生イクラだけをツマミに酒を飲んで、その後、小鉢にシャリを盛ってもらい、生イクラをドバっと載せてもらうミニ丼も堪能する。

コレステローラーである。

秋はこれだから素敵である。

さてさて、秋の味といえばサンマも忘れてはならない。

私の場合、若い頃は極端に偏った食生活を送っていた。肉偏重だったので魚はあまり食べなかった。食べるとしても骨のない切り身がせいぜいだった。

そのせいで、旬のサンマの塩焼きのアホみたいなウマさを実感したのは、恥ずかしながら結構な大人になってからである。

30代半ばぐらいだっただろうか、オトナっぽい酒の飲み方に憧れて、アチコチの渋い飲み屋や割烹に足繁く通った。

秋になると大半の店がサンマの塩焼きを勧めてくる。心の中でチェッと舌打ちしながら顔で笑って「いいですね~」とか言って喜ぶフリをしていた。

骨との闘いだった。お育ちが良かった?せいでサンマに慣れ親しんでいなかったことを悔やんだ。子供の頃は住み込みの執事が魚の骨をすべて取り除いてくれた(大ウソです)のでラクチンだったが、大人になって執事を連れて歩くわけにも行かない。

オトナっぽい自分を演じたい私としては、綺麗に平らげないとカッチョ悪い。だから必死に食べた。小骨が刺さりまくって泣きそうだったが、そんなことはオクビにも出さず食べた。

今では、相当こなれてきたから、無理をしないでも綺麗にやっつける。チョチョチョのチョイだ。

初めのうちは美しく食べることばかり考えて味わっている余裕がなかったが、そのうち、あのウマさにとことんハマった。ハラワタなんて最高の酒肴だ。

先日、とある割烹のカウンターでしっぽり飲んでいた時のこと、無性にサンマが食べたくなって黙々と骨の髄まで食べ尽くした。

小骨の間の身も逃すまいと変質者のように集中して味わった。ホジホジしながら、カッコつけてサンマと格闘してきた若い日々の記憶が甦った。

見栄を張ってホジホジする行為が、オトナになってからの私を育ててきたような気がした。妙に感慨深かった。

オッサンバリバリでブイブイ言っている今の私を形成してきたのはサンマとの格闘だったわけだ。

いくつになろうとも男が男であるためには、若い時のような背伸びしたい気持ちが大事だ。悪アガキと言われようとアガかないよりはマシである。

カッコつけたい、こなれたヤツだと思われたい、粋な男と呼ばれたい等々、そんな馬鹿みたいな思い込みが男として現役でいられる源だと思う。

逆に言えば、そういう一生懸命さを怠り始めたら現役生活ともオサラバという結末になる。

ちょっと面倒くさい。

いや、そんなことではイカン。悪あがきはまだまだ続けねばならない。

サンマをオトナっぽく食べられるようになると同時に、カニの身を殻からほぐす技術も達人レベル?になってきた。

今、いっぱしの大人として偉そうに振舞っている私だが、そのルーツは血みどろになりながらのホジホジという行為である。

草食系と呼ばれる若者達に足りないのはきっと「血みどろホジホジ」である。彼らも血みどろホジホジの鍛錬を必死になってするべきである。そのうち、男の何たるかが見えてくるはずだ!?。

松茸の話がどうしてここまでぶっ飛んでしまったのだろう。

錯乱してるのかしらん・・・。

2013年9月20日金曜日

哀愁のヨーロッパ


サンタナの名曲「哀愁のヨーロッパ」である。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%93%80%E6%84%81%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91&tid=49a698707c7a9890f09f47a0d77b5bfd&ei=UTF-8&rkf=2


よく考えたら意味不明なタイトルだ。何が言いたいのかサッパリわからん。日本側の関係者が投げやりに邦題をつけたのだろう。でも名曲である。

ということで、ヨーロッパである。秋も深まる哀愁漂う季節に行ってくるつもりだ。

マイルが物凄く貯まっているので、無料航空券で効率よく出かける予定だ。

主目的は「スペインでぶらぶらしながら酒を飲む」である。

だいぶ前から構想は練っていたのだが、あれこれ調べているうちに、「イタリアで靴屋に行く」という目的も加わってしまった。

私が行きたい場所には日本からの直行便がない。どこかで乗り継ぐわけだから乗り継ぐ都市での散歩も楽しみたい。

イタリアは、ボローニャだけで済ませる予定だから、ボローニャに行きやすい都市を経由する計画だ。

まず、オーストリア航空でウイーンに飛んで翌日ボローニャに入る。ウイーンからボローニャへは1時間ちょっとの飛行時間だ。出発日にそのまま乗り継ぐことも出来るが、せっかくだから翌日の夜便までウイーンに滞在しようと思う。

ウイーンなどという高尚?な場所にはちっとも興味がないのだが、「哀愁のヨーロッパ」である。1日ぐらい滞在してみよう。「寅さん」唯一の海外ロケ地でもある。マニアとしては素通りはマズいからブラブラ散歩するつもりだ。

モーツァルトの魂とかが乗り移って今更ピアノがギンギンに演奏できるようになったら、わがバンド活動の未来も明るい。

イタリア・ボローニャは「スパゲティ・ボロネーゼ」の本場である。スパゲティというより本場では平たい麺のタリアテッレとかフェットチーネで食すのがボロネーゼの標準形だとか。想像するだけでウマそうである。きっと毎日食べるのだろう。

そういえば、セクシーランジェリーの「ラ・ペルラ」発祥の地でもある。勇気を出してニタニタしながら覗いてこようか。いや、逮捕されそうだからやめておこう。

ボローニャでは、とある靴屋を訪ねることが目的なのだが、巨大観光都市とは違った趣があるそうなので、アマノジャッキーである私としてはアテもなくブラブラする街歩きも楽しみだ。

その昔、トスカーナ方面に旅行したときも、ディーズニーランドのように観光客であふれるフィレンツエより、郊外のシエナが気に入った。中世にタイムスリップしたかのような魅力的な街だった。

今回もボローニャを起点に近郊のパルマあたりに足を伸ばすぐらいにして、しっとりと秋の哀愁を感じてこようと企んでいる。

その後のスペインだが、特典航空券だと、いわゆる「途中降機」は2回までという条件がある。帰国便の前の日もどこかで一泊したいから、そっちの予約が優先だ。したがって、イタリアからスペインへの移動は陸路か何かで適当にこなすことにする。

帰国便もスペインから日本への直行便はないため、バルセロナからドイツ・フランクフルトへ飛び、1泊してから翌日ルフトハンザで成田に帰るパターンにした。残念ながら空きがあったのは新世代ジャンボ「747-8」ではなかったのが残念だが、そんなことまでこだわっていても仕方がない。ゆったり寝られれば充分である。

フランクフルトには世界中のスケベ達が集まるウルトラ官能スペシャルサウナがたくさんあるようだが、旅の最終日にそこに行くパワーが残っているかはビミョーである。

それだけ乗らせてもらってもヨーロッパ1都市単純往復と同じマイル数でチケットが手に入る。ANAのマイルだとスターアライアンスのどの航空会社でも特典航空券を使えるから実に便利だ。

というわけで、ボローニャに入ってから1週間後にバルセロナにいればいいわけで、その間のスケジュールを検討中だ。

旅行の楽しみって、この部分かもしれない。アレコレ悩んでるのが妙に楽しい。

ボロ―ニャだけでなく他のイタリアの都市に行ってみるか、それとも、ボローニャからパリに飛んで、本場のオランジーナを飲んでフランス靴を見てからスペインに入るか、はたまたさっさとスペインに渡って巡礼の道でも歩いてみるか、妄想は広がる。

スペインに行きたい理由は自分でもよく分からない。なんとなく、としか言いようがない。行ったことがないから知識もないし、特別スペイン料理が好きなわけでもない。

強いて言えば、中学生の頃によく聴いていた佐野元春の「バルセロナの夜」を現地で聴いてみたいと思ったからかもしれない。いや、たぶん違う。

適当に読みあさってきた紀行本とか旅の雑誌のせいで、漠然とスペインの酒場に身を置きたくなった。カヴァをグビグビ飲みながらチマチマとタパスを食べたいぐらいで、大した理由はない。

せっかくだからマドリッドのプラド美術館にも行きたいが、どちらかといえば、バルセロナとかバレンシアといった海側の都市でブラブラしたい。バルセロナといえば、ガウディの建築物が名物だが、ちっとも興味がない。ヘンテコな建物を見るなら路地をあてもなく散策した方が楽しそうだ。きっと、ただブラブラして終わりそうだ。

スペイン語はサッパリ、英語は1歳児レベル、いや犬の遠吠えレベルだから、厄介な移動は避けたい。あまりアチコチ動き回ってもせわしないからバルセロナを起点に海沿いの街に足を伸ばすぐらいで終わるのだろうか。まあそれもいいかもしれない。

今回も一人旅である。寒くなり始めている季節だ。まさに「哀愁のヨーロッパ」である。

実際は哀愁どころか、靴屋のハシゴで忙しく動き回っているはずである。

本場のパエリアも楽しみだが、あれは日本の鍋料理と同じで、一人で食べるものではない。この点が一番の課題である。

まあ、結局は2人前を一人でワシワシ食べることになるはずだ。

2013年9月18日水曜日

石が出た


ひとり深夜にのたうちまわった「尿路結石悶絶事件」が無事終了した。
ポロッと石が出た。実にめでたい。ほっと一安心である。

♫月が~出た、出~た、月が~出た~、ア~ヨイヨイ♫

「月」の部分を「石」に変えて、ご機嫌で叫ぶ日々が続いている。そのぐらい嬉しい。
ここ最近の自分の人生の澱(おり)みたいなものまで石になって出て行った気がする。

スッキリした。生まれ変わった気分だ。

気絶寸前の事件勃発からしばらくは、時々襲ってくるズキズキする痛みのせいでションボリした日々を過ごした。悪友達と行くはずだった狂乱のバンコク旅行も、コトがコトだけにキャンセルするハメになった。残念無念である。

悶々と過ごしていたある日のこと。ウジウジイジイジしていることに疲れ、痛み止めを手にパーッと飲みに出かけた。

とにかく大量の水分を摂取して尿から石を出すしかないから、どんよりイジケていても仕方ない。

石を動かすためには歩き回るのも有効だ。いっぱい歩いていっぱい飲んだ。

夜更けに帰宅してトイレへ。オヨ?という感じで何かが出た感覚があった。よく見れば石のようなものを発見したので回収してみた。

大きさは3ミリちょっと。大したサイズではないが、尖っているし、固いし、どうやら「犯人」である。

さっそく医者に行って確認してもらった。「コイツが犯人に間違いない」とのこと。成分検査に出してもらう。石の成分が分かると原因や今後の予防策が立てやすいとのこと。

石が出た日は、まだ脇腹が痛かったので、石はその辺りに潜伏中だと思っていた。ところが、ドクターによると石が尿道付近まで移動してきても、あくまで痛みは脇腹で感じるそうだ。

まだ脇腹近辺に潜んでいるはずとタカをくくって、ムフフな行為とかに励まないで良かったと思う。ひょんな時にひょんな場所で激痛に見舞われたら、SMプレイなどと洒落ているわけにはいかない。石を発射される相手だって困るはずだ。危ない危ない。

というわけで、「犯人の自首」によって、人生初の七転八倒事件はとりあえず幕を閉じることになった。

でも再発率50%だという。実に恐ろしい。

わがオヤジバンドの仲間は4回も経験したそうだ。そのうち1度は本当に気絶して入院したらしい。

じぇじぇじぇ、である。

自分なりに人生初の石体験について理由を考えてみた。この1年ぐらいの生活習慣の変化を思い返してみる。

サプリに目覚めて7~8種類を毎日摂取するようになった。どうもこれが怪しいと思い、それぞれのサプリごとに結石との関係性を調査してみた。

結果、だいたいが問題なし。いや、結石予防に効果があるサプリも複数あった。どういうことだろう。

まるでサプリが無意味だったということか?だとしたらドンヨリする。

毎月配送定期コースに申し込んでいるのに、そんな結論は哀しすぎるので、サプリのせいで石が小粒で済んだと都合良く解釈することにした。おまけに人づてに聞いた石対策にも有効だというサプリまで新たに常備し始めてしまった。


では、やっぱり原因は食生活か?まあ、誉められたものではないが、以前に比べて変化したわけではない。それなりに動物性タンパク質の摂取が増えたとは思うが、劇的に変化したわけでもない。

ストレスか?そんなもの誰にだってあるし、かつては今より100倍ぐらいストレスがかかっていた時期もある。

で、自分なりの結論が出た。

「青汁犯人説」である。

といっても青汁の成分が悪いわけではない。青汁を飲まねばならないせいで、青汁以外の水分が全体的に不足していたという推測だ。

青汁はマズい。マズいから喉が渇くまでなかなか飲まない。飲んだとしてもマズいからグビグビ一気に大量には飲めない。

喉がかなり渇いていても、ほんのコップ一杯分ぐらいで満足してしまう。

美味しい水や美味しい麦茶だったら1回で300~400㎖ぐらい飲むところを青汁だと200㎖でやめてしまう。そんな感じ。それが1日何度も繰り返される。

この積み重ねが、総体的な水分不足を招いていたような気がする。石の成分分析が判明するまで真相は不明だが、きっとそんな原因だろう。

青汁が犯人ではないが、犯人は青汁である。

変な言い方だが、そういうことだと思う。

ちなみに、私が素敵な女性を口説き倒すのは私のせいではない。その女性が素敵だからであって、原因はあくまでその女性である。

それと似ている。わかってもらえるだろうか?無理か・・・。なんか変な理屈か?

そうは言っても、「青汁ちゃん」とは5年以上の付き合いだ。いまさらサラバというわけにもいかない。

青汁ちゃんに対して操を守ってきたが、これからは麦茶ちゃんとか水さんとかとも仲良く組んずほぐれつの生活を強いられる。

それ以外には、救急車で運ばれた病院で「尿酸値の高さ」を指摘された。尿酸系の石である可能性も高い。

ウニばかり食べてきたここ数ヶ月のフシダラな暮らしも要因の一つかもしれない。

まあ、犯人捜しはキリがない。きっと、思い当たることすべてが複合的に絡み合って事件に発展したんだと思う。

おかげで、結石に関する知識は物凄く豊富になったし、無意識に食生活に今まで以上に注意する気分になってきた。

結果的に、健康の大切を痛感したことは収穫だった。

東京オリンピックに参加するためにも、あらためて元気でいようと決心した。

2013年9月13日金曜日

語学と後悔


今更ながら語学に真面目に取り組まなかった若い頃を悔やんでいる。先日のオリンピック招致プレゼンを眺めながら痛感した。

とくにフランス語だ。私が通った学校では幼稚園からフランス語を習わされた。おかげで今でもフランス国家をさらっと歌えるのだが、肝心の会話はサッパリである。

オリンピック・プレゼンの高円宮妃殿下と滝川クリステルのフランス語スピーチを一生懸命聴いてみた。でも理解できたのは「メルシー」と「オ・モ・テ・ナ・シ」ぐらいだ。

小学校時代は学校の授業について行くため、6年間ずっとフランス語の家庭教師がついていた。そのせいもあって、苦手意識もなくそれなりの成績を残せていた。

小学校6年の頃にはフランス語で1から100まで普通に数えられたし、唱歌のようなものも無数に歌えた。多分、2歳児くらいの会話能力もあったと思う。

中学になり、英語も勉強しなければならなくなり、世間で耳にすることのないフランス語が二の次になった。先生も嫌いだったし、小学生時代の努力はすっかり水の泡になった。

高校では英語かフランス語を第一外国語に選ばされるのだが、ここで完全にフランス語を捨ててしまった。

第一外国語にフランス語を選んだ連中は、その後の大学受験でも優秀な結果を残した。敵が少ないのだから英語より有利だったのだろう。

高校の卒業式にはナゼかフランス大使が来賓でやってきて、四の五のスピーチするのだが、フランス語組の連中は、通訳が訳す前にうなずいたり、笑ったりしていた。

そんな光景を見て、自分の刺激にすれば良かったのに、ただムカついていただけだった。若さイコール間抜けである。

十代のあの時点で既に人生の選択肢?を間違えていたような気がする。

小学校から同じ学校に通った俳優の香川照之はフランス語組の秀才だったから、カンヌ映画祭の壇上でもフランス語でスピーチしてヤンヤの喝采を浴びたらしい。

身近すぎて価値に気付かなかったフランス語がオッサンになった時に武器になるとは。。。子供の頃にそれを知っていれば私の人生も違ったものになっていたのかもしれない。

まいった、まいった。

以前、パリに靴を買いに行ったときも、道を尋ねる程度のごく簡単な質問を怪しげなフランス語で投げかけてみたのだが、返ってくる答えも当然フランス語である。チンプンカンプンである。しかたなく「メルスィ~、ボック~」とひきつった笑顔を見せるしかなかった。

いまからでも必死に勉強すれば5年後ぐらいには簡単な会話ぐらい出来るはずだ。ブツクサ言わずにやればいいのに、ここでウジウジしているだけだからダメだ。

20代の頃、メキシコのリゾートにはまって何度も出かけた。あそこはスペン語圏である。スペイン語のリズム感とか、フランス語より発音しやすい独特な音感が気にいって、勉強しようかと真剣に考えた。

あの時、実行していれば人生に彩りが加わっていたはずだ。後悔先に立たずである。そんなのばっかりである。

その後もバリ島にハマったせいで、インドネシア語会話を習おうと、一念発起して、留学生を家庭教師として派遣するよう某大学に相談したことがある。あの時も都合の合う相手が見つからず流れてしまった。

実にツメが甘い。真剣味が足りない。私の人生そのもの?である。

人生も後半戦に入って、悔いばかり頭に浮かぶ。いや、そんなヒマがあったら新しいことにトライすべきなのに、何も始めていない。

ダメダメである。

いかんいかん。書いていて何だか憂鬱になってきた。

そういえば、陶芸家になろうと密かに決意したのは10年前だったし、沖縄の三線を本格的に始めようと決意したのは15年前である。

どれも真面目に始めていれば結構なキャリアを積んでいたはずなのに、妄想しただけで今を迎えてしまった。

困った困った。

仕方がないから、東京オリンピックに照準を合わせて何かを始めるとしようか。審判とか審査員で潜り込めそうな競技はないだろうか。

そんなフシダラなことを考えているから進歩がないのだろう。

そんなこんなで漫然と日々は過ぎ、来月になればまた一つ年を重ねる。

困った困った。散歩でもしてこようっと。

2013年9月11日水曜日

モノの価値


俗に「失われた20年」などと言われるように、近年の経済事情は良くも悪くもこの国の消費の在り方を大きく変えた。

キーワードは言うまでもなくデフレ。モノの値段はすべての分野で下方修正され、「安さこそ正義」みたいな感覚が無条件で信奉されるようになった。

消費者にとっては、安値競争は有り難い話である。身銭を切るなら安い方がいい。極めて当然のことだ。

その大前提は大前提として、「安さこそ正義」によって置き去りにされてしまったこともある。「本当に良いモノが安いはずはない」という真理だろう。

限界まで来た安値競争は、商品なりサービスに無理を生じさせる。「安物買いの銭失い」という一面の真実を突きつけられる場面も多い。

先日、わがオヤジバンドの練習中、2本のアコースティックギターを漠然と聴いていた。楽器に縁のない私でも片方のギターの音色がもう片方のギターより遙かに優れていたのが分かった。値段を尋ねてみたら雲泥の差だという。

なんか抽象的な例えだが、そういうことだ。大げさな話ではなく、身の回りにいくらでもそんな例は見つかる。

安値絶対主義がもたらしたことの一つが「節約疲れ」である。モノの本質を二の次にして値段だけを価値基準にしてきた結果、虚しさのような寂しい風が心の中に吹き抜ける。

心の豊かさとは対極のギスギス感ばかりが目立ってしまうことになる。

豊かさと言っても、不必要な贅沢を意味するわけではない。商品やサービスに対する安心、信頼、充足感といった感覚が満たされるだけで豊かな気分になれる。

当たり前と言えば当たり前だが、その当たり前の大事さに改めて気付いたことで、すべての分野で「本物志向も大事」という風潮が広がりつつある。

マックが1000円バーガーを登場させたり、スタバも高級路線の店舗を開設したり、安さがウリだった寿司チェーンが価格帯を高めに設定した別路線の店を出したり。そんな話がしょっちゅう聞かれるようになった。

老舗洋食器メーカーが安値競争に背を向けて実用品よりも美術品路線を重視するとか、ランドセルも高級志向が人気を呼んでいるとか、他にもビールや家電製品も「本格化」の名の下に高級商品が開発されている。

コンビニのプライベートブランドだって安さより質を重視する商品が増えてきた。

見かけ倒しのインチキ高級品はゴメンだが、然るべきものの然るべき高級化は大いに結構なことだと思う。

安さをとことん追い求めることも必要だ。それを否定する気はないが、ホンモノがホンモノとして存在し続けることは何より大事だ。

職人技に代表される伝統や、はたまた文化を守るという意味でもこの部分を忘れてはいけないと思う。

正当な高級路線は低価格需要とは別個に評価されるべき。衣食住すべてのジャンルにおいて、文化的、芸術的な要素が絡めば、闇雲な安値競争は質の低下を招くだけだ。

四の五の書いてきたが、言いたいことはここから先にまとめてみる。

文化芸術の分野で必要なのは、いわゆるお大尽である。古今東西、お金持ちの支援が後世に残る文化や芸術の源になった。

「本当に良いモノ」を大事に育てるにはお金持ちへのリスペクトが前提になる。稼ぐこと、お金持ちでいることが悪であるかのような風潮に支配される税制・財政政策の盲点はここにある。

無思想な横並び絶対主義や成功者の足を引っ張る卑屈なやっかみ社会の行末は暗い。社会の活性化において、メリハリは欠かせない要素だ。

極めて単純な理屈だと思う。

2013年9月9日月曜日

一人暮らしエレジー


今のマンション暮らしは間もなく1年。秋が来れば一通りの季節を過ごしたことになる。

若い頃以来の一人暮らしだ。寂しさも時々は感じるが、年とともにワガママになってきた私にとっては気ままな暮らしは快適だ。

「しがないヤモメ暮らし」、「優雅な独身貴族」。同じ境遇でも表現の仕方によって随分イメージは違う。まあ、どっちも正解だろう。

先日、暇つぶしにネットのニュースサイトを見ていたら「一人暮らしが寂しく感じる時」みたいな特集記事を見つけた。

「病気で寝込んでいる時」が、寂しさナンバー1だとか。そりゃそうだ。至極普通のことだろう。先週突然見舞われた「尿路結石七転八倒事件」の際には、救急車を呼ぶまでの数時間、独り身の怖さを痛感した。

心底、一人暮らしの怖さを知った気になって、性懲りもなくまた家庭を持ちたいなどと思ったりした。

我ながら実に単純な思考回路に呆れる。

そうはいっても、不仲な相手と暮らしていると、病気で寝込んでも不快な顔をされたり、迷惑そうな態度をされる悲劇もある。

これはキツい。つくづく一人になりたいと思う。それを思えば、重度の病気とかならともかく、普通の発熱レベルなら一人でウンウン唸っているほうがマシかもしれない。

「一人で食事をしている時」。これも多くの人が寂しさを実感する場面だとか。そんなもんだろうか。私自身、これはまったく抵抗ない。偏屈なのだろうか。

常にひとりメシでは確かに気が滅入るだろうが、時々、誰かと楽しく外食する機会が持てるようなら問題なし。一人気ままな家メシも誰にも気を使わない点で悪くない。不仲な相手とドンヨリ食卓をともにするのなら一人でドンブリをかっこんでいたほうが快適だ。

「映画やドラマを見ても感動を共有する相手がいない」。これも寂しさを感じる場面らしい。

まあ、わからなくもないが、そんなことぐらいで寂しさを感じるようじゃ甘い甘い。
不仲な相手と殺意を伴うチャンネル争い?を展開することに比べればケッケッケである。

そう書いてくると、結局、「不仲な相手」が問題なのであって、「仲良し」と一緒だったら、ひとりより二人が楽しいのが真理なんだろう。いや、それはそれで人間誰しも一人になりたい時間は欲しいし、私の場合には、現在の「お一人様生活」は身の丈?にあっている。

さて、私の場合、どういう時に一人暮らしを寂しく感じるか、よくよく考えてみた。

で、ひとつ思い当たることを発見した。

「カギを忘れて家に入れなくなった時」。

まあ、滅多に起きることではないが、先日、思い切りやらかしてしまった。寂しさを感じるというより憂鬱になったという表現のほうが的確かもしれない。

深夜1時過ぎ、自宅マンション前でタクシーを降りる。酔っ払い完成済みだ。眠い。ポケットを探ってもカギがない。

じぇじぇじぇ!である。

不思議なもので、ああいうハプニングに遭遇すると人間はおかしな行動に走る。着ているものを半分脱ぐほどの勢いで、ひとりで全身をバタバタまさぐってカギを探す。

パンツの中に落ちていないか、靴下の中に挟まっていないか、まさにそんなマヌケな動きだ。

無いものは無い。どうやら会社に忘れてきたようだ。会社のカギも家の中だ。

これまでの人生で通算10年ほど一人暮らしをしているが、家に入れない事態に陥ったのは初めてである。

さてどうするべか。

しばし沈思黙考である。

いや、仮死状態みたいなものだ。眠いし、酔ってるし、絶望?だし・・・。

深夜1時半頃になって、誰かに助けを求めるのもマズい。この辺は紳士である。

というか、誰かの家に転がり込むにしても、ペコペコしなきゃならないし、そこから世間話したり、アレコレするのも面倒である。

で、近所にある某シティーホテルにタクシーで向かう。カプセルホテルやサウナでもいいのだが、それだとチト侘びしそうだから普通のホテルにする。このあたりは富豪?である。

そしてチェックイン手続き。

じぇじぇじぇ!

禁煙の部屋しか空いてないという。そんなのウソだろ?と毒づいたが徒労に終わる。冷静に睡魔とタバコを秤にかける。10秒ほど真剣に悩む。

結果はタバコに軍配。またまたタクシーを飛ばして別なホテルへ。深夜2時過ぎにようやくチェックイン。

シャワーを浴びて一服しながら横になる。自分のアホさにイライラしながら、妙な寂しさとウツウツ感に襲われた。孤立感、疎外感みたいな感じ。地球上のすべてからソッポをむかれた感覚だ。

ガラにもなくセンチな感傷に浸りかけたが、ものの5分で爆睡モードに切り替わって、おセンチモード終了。睡魔に救われた。

というわけで、翌日から自宅マンションのカギの予備を財布に忍ばせるようになった。もう安心である。

ところが、その翌日、帰宅途中に食事に寄ろうとしたところで会社に財布を置いてきたことに気付いた。

じぇじぇじぇ!である。

家のカギは持っていたので、会社に戻るのもかったるいからそのまま真っ直ぐ帰宅。

バカである。

若い頃と違って中年になると変に緊張感が足りない。これからますますマヌケな行動に拍車がかかる年齢だろう。

先日も会社にスマホを置いたまま帰宅しちゃったので、会社にそれを伝える電話をかけようとスマホを家の中で探すというブサイクな行動に走ってしまった。自分のアホンンダラぶりに絶望しかけた。

もう少し緊張感を持って暮らしていかないとヤバいと思う。







2013年9月6日金曜日

貞子になって救急車を呼んだ夜


救急搬送。なんだか大げさだが、今週初めに人生初の救急車体験をしてきた。

子供の頃、自転車で走行中、バキュームカーにはねられたことがある。よりによってバキュームカーだ。運転していた人は私への見舞いにバキュームカーのミニカーを持ってきた。ビミョーかつシュールな思い出である。

いきなり話がそれた。

バキュームカー事件の際はパトカーで病院に連れて行かれたので、先日の救急車は初めての経験である。ブロガーとして記念に写メを撮りまくりたかったが、実際はそんな余裕はカケラもなく、ただただ七転八倒、のたうちまわっていた。

原因は「石」。尿路だか尿管に迷走中の石があって、ありえないほどの痛みを誘発してドタバタしてしまった。

夜の11時頃から急にお腹の調子がおかしくなり、食あたりか何かかとタカをくくっていたが、そのうち吐き気も強まり、自分の身に何が起きたかしばし悩む。

12時ぐらいから唸り声が出始め、深夜1時ぐらいに、いよいよヤバい感じになり、フラフラしながらネットで症状を調べたら、どうも結石の可能性が高い。

結石経験者に聞いていた話とも似ているし、以前、前の嫁が深夜に「ホラー映画の貞子みたいな状態」でうなっていたのも結石だったから、いよいよ自分もストーンズファミリー?の仲間入りだと確信する。


前の嫁に「うるせーな、どうせ食あたりだからおとなしく寝てろ」と冷たく対応したことを思い出し、因果応報という言葉を思い出す。

それにしても痛い。自分では割と痛みに強い方だと思っていたが、まったくダメである。不思議なもので、ひとり寂しくのたうちまわっていると、ネガティブシンキングの塊になる。

「結石じゃなくて、突発性の重度の難病だったらどうしよう」、「痛みがどんどん強まってショック状態になったら誰が発見してくれるだろう」。おまけに「死んじゃったら部屋にあるヤバいものを隠せない」、「遺言を書いておいて良かった」などと悶々とする。

それでも我慢を続けてみる。吐くと一瞬ラクになったように錯覚するから、そのうち良くなるだろうと解釈する。でも痛みは増すばかり。白目半分みたい状態でゾンビみたいな状態になる。ちょっと我慢しすぎた気がする。我慢は無意味だった。

で、2時過ぎに救急車を呼ぶ。周囲の目も気になるし、それこそ這いつくばりながらマンションの玄関まで出て行く。ほとんど「貞子状態」である。

救急車はさっさと出発してくれずに、しばしあれこれ聞かれる。血圧は200突破。やばいやばい。痛みのせいで過呼吸になって、手足もしびれ始める。どこの病院に行くか、救急隊の人と相談。そんなこと聞かれたって判断できない。

で、東京女子医大病院に運ばれた。私のジイさんやバアさんが最期を迎えた病院である。ちょっとビビる。

看護婦さんにさっさと痛み止めの処置をしてくれと頼んでも、いろいろ調べてからじゃないとダメだと言われる。ほぼ泣く。あちこち叩いたり蹴ったりしてみる。そんなことしても痛みは減らない。過呼吸も加わってボーッとしてくる。

必死にエロいことを考えたり妄想してみたが、ちっとも気は散らない。っていうか、エロ妄想も瞬時に消えていくほど痛くてしょうがない。

エコー検査やレントゲンを撮ったのだが、そのことはほとんど覚えていない。妊婦の呼吸法みたいに「ヒッ、ヒッ、フー」って感じの呼吸を繰り返す。そのあたりでようやく若い看護婦さんが私のお尻の穴に坐薬を挿入してくれた。不思議とその時のことははっきり覚えている。目の可愛らしい女性だった。声も出てしまった。さすが私だ。

坐薬のお陰で少しラクになってきた頃、CT検査もやってもらって、ようやく激痛の原因が石だと確定。大きな病院だと、深夜でも明け方だろうとCTまでやってくれるから大したものだ。

救急対応だから、一応痛みが収まったらおしまいだ。でも、いろいろな検査の結果を丁寧に説明してくれて、原因も判明したので、かなり長い時間拘束されていたのも意味があったと思う。

救急対応の場合、痛み止めとかも薬も1~2日分しか出してくれないらしく、帰宅して一休みしたあと、ヘロヘロになった身体で近場の泌尿器科に行く。坐薬がいっぱい手元にないと不安だ。

結局、大きな石じゃないみたいだから、自然に流れ出るのを待つしか方法がない。お医者さんにかかるといっても、経過をチェックしてもらったり、薬を処方してもらうしか対応策はない。

その泌尿器科でもエコーやレントゲンなどの段取りを踏んで、いっぱい痛み止めの薬を処方してもらった。石が出るまでまだまだ不自由な場面はありそうだが、強力な坐薬や内服の痛み止めもたくさん手に入れた。もう七転八倒しないで済みそうだから気楽に構えるしかない。

まだ不快感や痛みは時々襲ってくる。痛み止めを飲めば何とか収まる感じだが、スッキリするのはいつになるだろう。

基本的に水分を意識して多く取るしか対処法はない。ドクターによると、夏の終わりは、それまでの水分不足のせいで結石で苦しむ人が多いらしい。

「お酒?、旅行?、セックス?どれも別に結石に影響するもんじゃないですよ。急に生活パターン変えたって大して意味はないですよ。気楽にどうぞ」。

ドクターは実に有難い言葉をかけてくれた。

名医だと思う。

でもちょっとシンドイ。自然に排出されないと結構恐ろしい処置が待っているらしい。

頑張らねば。

2013年9月4日水曜日

最後の一食を選ぶ


このブログで頻繁に食べ物の話を載せているせいで、私のことを美食家のように思っている人がいるが正しくない。

食い道楽と呼べるほど脇目もふらずウマいものを食べに行くほど凝り性ではない。とはいえ、マズいものを食べるのはイヤだ。

元来マメじゃないから自分の行動範囲の中でしか食事しないし、コンビニ弁当もしょっちゅう食べている。ヘンテコな菓子パンも密かに好きだったりする。

「生きるための食事」と「楽しむための食事」、「お付き合いで食べる食事」。食事を分類すると大体この3種類に分けられる。

グルメだ、美食家だというほどではないが、私の場合、強いて言えば「楽しむための食事」の頻度が高い方だろう。

ウマいものを食べたときの、カッと見開いた目がグルグル回っちゃうような嬉しさは、人間の数ある快楽の中でもナンバー1だと思う。


赤坂にある中華料理の名店「維新號」で食べたフカヒレの姿煮だ。何度か食べに行った銀座の維新號でもフカヒレに悶絶したが、ここ赤坂店がグループのフラッグシップ店である。

心して味わってみた。身体に染み入るウマさとでも言おうか。うなずくばかりで声を発することなく食べ進みたくなる。たまにはこうした“神髄”にノックアウトされるのも悪くない。

マックの100円バーガーを100人にご馳走できるぐらいの値段だ。滅多にありつけないご馳走だが、脳ミソを直撃した嬉しくホワホワした気持ちは10年ぐらい残りそうだから良しとしよう。

名のある高級店の存在意義は「アノ店のアレを食っちゃったもんね」という心理的な満足感にもあるのだろう。隠れ家とか、知る人ぞ知る穴場っていう路線も楽しいが、古典的王道の店の地力はさすがだ。

古典的な王道の店といえば、先日、六本木の「サバティーニ」に行く機会があった。

メンバーは6人。ありきありのコース料理だったから特に期待もしていなかったが、出てきた料理はどれも極々普通。


仕事メシという退屈さが多分に影響しているから、つい辛口評価になってしまうのだろう。まあ、あれはあれで「それっぽい雰囲気」に身を置くことに意味がある店だと思う。

個室の雰囲気も重厚感があって、サービスもキチッとしている。味より雰囲気、お座敷よりテーブルという路線の“おめかし会食”に利用するなら悪くない。

人の味覚なんてものは、結局、その時の気分に左右されるから、ウマいのマズいのと必死に解説したところで意味はない。

食べた人それぞれがその時どう感じたか、こればかりは十人十色である。

あまりツマミを食べずに酒ばかり飲んで帰宅して、ほっと一息入れて空腹に気付く。そんな深夜に食べるお茶漬けやカップラーメンのウマさは驚天動地だ。

大好きな人とウキウキした気分で出かける電車旅で並んで食べる駅弁の美味しさはオッパッピーである。ミシュランなんて屁のかっぱである。

最高の料理人が最高の素材で作った最高の料理を前にしても、破産宣告を受けた直後とか、遊びのつもりだった相手から妊娠を告げられたら、味なんてデロデロバーだろう。

ついでに言えば、「それを食べたい気分なのか」というモチベーション?もウマいマズいを決める大事な要素である。

ウナギを食べたくてウナギのことばかり頭に浮かんでいるのに、カルボナーラとかタコスが出てきたら空腹でもゲンナリするはずだ。

なんだか話が迷走してきた。

最近、私がしみじみウマいな~と涙を流して喜んでいるのが、実は「生卵かけご飯」である。

死ぬ前に食べる最後の一食を選べと言われたら、少し迷ったあげく結局はこれを選ぶと思う。

自分好みに硬めに炊いた白米に極上の生卵をぶちかけてかっこむ幸せは何物にも代えがたい。

先日も1コ500円もする生卵を買ってきた。バカである。普通の常識がある人なら買わない卵だが、それはそれは別格の味わいだった。

考えてみたら「松屋の牛メシ特盛り」だって500円ぐらいしたはずだ。スペシャルな生卵かけご飯にそのぐらいの予算を投入したってバチは当たらない。

新鮮な醤油でも良し、生卵かけご飯用に売られている専用ダレも悪くない。慎重に卵を割り、痰壺デロデロみたいな部分だけを捨て去り(ここがポイント!)、湯気を立てて待ちかねているご飯の中央部分に穴をこじ開け、“黄金汁”を流し込む。

ワンダフォ~ベリーマッチ!オーマイガッ、ベリ~マッチ!である。

書いているだけでヨダレが出てきた。

明日の朝食も決まりだ。

2013年9月2日月曜日

夏が終わる


8月が終わった。夏の終わりだ。猛暑がキツかったから誰だってバンザイ三唱したいはずなのに、なぜか少し切ない。
切ないというか、切ない気持ちになりたがると言ったほうが的確かもしれない。

晩夏の寂寥感。実に不思議だ。

秋は素敵な季節だからワクワクすべきなのに、夏の終わりの寂しさの方にばかり意識が向きがちだ。

もしかすると国民全員の心に刻み込まれている「夏休みが終わってしまう残念な気持ち」が元凶ではないだろうか。

確かに子供の頃は8月も後半になると、ただただ寂しく感じた。セミの声も変わり、雲の形、夕方の風の匂いも変わっていく。

甲子園の決勝戦が終わり、閉会式で「雲は湧~き、光あふれて~」と大会歌が合唱されると、どんより気分になったことを覚えている。

そして8月も後半になると、「もう遊んでられないぜ」という意識が、夏の終わりを特別なものに感じさせるのだろう。

「ひと夏の恋」という言葉がある。概念というより実際に多い現象だとか。

花火や海水浴といった非日常的イベントがドーパミン放出の元となって、軽いトランス状態のせいで開放的になるのが科学的な原因らしい。

お説ごもっともだが、簡単に言えば、子供の頃に心に刻まれた「今の時期は遊んでていいですよ」という刷り込みが根っこにあるはずだ。

だから、「ひと秋の恋」は成り立たない。「夏休みが終わったのにまだ遊んでんのかボケ」と叱られそうだから、ついつい読みもしない本を広げて読書の秋だなどとうそぶく。

一種の刷り込みの怖さだろう。

秋は実りの季節であり、気候も穏やかだから、どんどん恋をして陽気に過ごしたいものだ。「ひと秋の恋・普及促進実行委員会」を結成したいぐらいだ。

せっかく神様が、人間には発情期を決めないでくれたのだから、夏に限らず秋も冬もそんなことを考えていた方が生産的?である。

秋や冬なら汗ビチョビチョの場面も減るし、人肌が恋しくなるから恋するにはもってこいだ。つくづく秋が恋の季節にならないのが不思議だ。

やはり、夏に終わる恋の疲れのせいだろうか。脳ミソが小休止すべしと指示するタイミングが秋なのだろうか。

思い返せば、私自身、恋を始めたり、恋を終了したのは確かに夏が多かった。ひと夏の恋とかも年齢相応に経験した。

始めるのも終わるのもエネルギーが必要だから、自然界すべてにエネルギーが満ちあふれる季節に人間も恋愛活力を活性化させるのだろう。

そして、エネルギーが少しづつ確実に弱っていく夏の終わりの切なさに、束の間の恋愛行動の終止符を重ね合わせたくなるのかもしれない。

人間は時におセンチな感情を好ましく感じる生き物だ。終わりかけの男女関係なら、罵りあいや殴り合いより、切ない空気に持っていったほうが賢明だ。

「切ない自分」に酔う自己愛にも似た感覚に陥るとマヌケだが、そうでなくても無意識のうちに夏の終わりの寂寥感に自分の切なさをトレースしたくなるのだろう。

小田和正が率いたオフコースの昭和50年代前半の作品に「夏の終わり」という曲がある。

♪ 夏は冬に憧れて 冬は夏に帰りたい
  ~  ~  ~  ~
駆け抜けてゆく 夏の終わりは
薄れてゆく あなたの匂い  ♪

まさに「薄れていく」という部分がカギかもしれない。

夏の特徴は、日差しや虫の声、草木の匂いなどすべてが強力だ。季節が変わる頃にはそれらはすべて弱まり薄くなっていく。

「薄れてゆく」感じが寂しさにつながる。
「薄くならないでくれ~」と叫んでも思い出は薄くなっていく。

髪の毛に問題がある人なら凄く良くわかる切ない感覚だ。

夏の終わりを歌った名曲は数々あれど、これまた昭和の頃、爆風スランプが絶叫していた「リゾ・ラバ」も印象的だ。


♪ 全部嘘さ そんなもんさ 
夏の恋は まぼろし

季節変わりは 
ちょっとね 身悶える ♪


よくわからないが、夏が終わる頃になると身悶えるわけだ。「季節変わりは、身悶える」・・・。ウマい表現を思いついたものだ。

確かに秋の終わりや春の終わりには身悶えない。夏の終わりだけが、ザワザワした気分になりやすい。

まあ脱皮するときにもゴソゴソ悶えながら殻を破るわけだから、季節が変わって新しく動き出すのは、脱皮する感覚に近いのかもしれない。

私の場合、自分が秋に生まれたせいもあって、夏の終わりの寂しさに身悶えるより、自分の季節の到来が素直に喜ばしい。

夏の終わりの切なさに浸ってるヒマがあったら、秋の爽やかさを楽しむほうが建設的だろう。

なんてったって、もう暑いのはウンザリだ。クーラーに疲れた身体を温泉にでも行って癒やしたい。さっさと涼しくなってもらいたい。

ちなみに、そろそろスーパーの店頭から冷やし中華が撤退を始める。忘れずに買いだめしないといけない。

秋の虫の声に包まれ、山下達郎の「さよなら夏の日」でも聴きながら、少しセンチな気分でズルズルかっこむ冷やし中華。

これが夏の終わりを実感する私の秘やかな楽しみである。