東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2016年8月15日月曜日
障害者殺傷事件に思う
あまり触れたくない話題だったのだが、今になってもモヤモヤが収まらないので、今日は少し真面目な話を書く。
「障害者なんて生きている価値がない。死んでしまえばいい」。相模原で起きた障害者施設殺傷事件の犯人の言い分だ。
犯人の異常性はともなく、こんなふざけた思想に共感する声がインターネットなどで広がっている現実が非常に無気味だ。
ネット特有の匿名性という、いわば安全地帯からの発言である。取るに足らない雑言と一蹴することも出来るが、匿名だからこそ本音が浮き彫りになるのも事実だろう。
障害者の存在意義、障害者の価値等々、そういう表現自体が既に哀しい言い回しである。健常な人にはハナから使われない概念だ。
私自身、ダウン症の子供を持つ立場になってから10年近く様々なことを考えてきた。まだ10年だから日々感じ方も考え方も揺れる。
情けないことだが、最初の頃は「いなくなって欲しい」と思ったこともある。それでもヒットラーと同様の間違った優生思想やそれに共鳴する人々の声には単純に恐ろしさを感じる。
誰が何を思い、何を感じるかは自由だ。障害者に対する見方や意見だって人それぞれであり、一方的に決めつけたり強制は出来ない。
障害を持つ人と関わりたくないと思う人もいる。それはそれで現実だ。私自身、今の立場になる前はそんな感覚を否定できなかった。今だってさほど変わっていないかもしれない。
ただ、そう思う気持ちと異常なまでの排斥主義はまったく別モノである。
そもそも障害、健常を問わず、人間の存在意義や価値などという大上段に構えた言葉にどれほどの意味があるのだろう。
乱暴に言ってしまえば、優秀で高度な専門知識を持って活躍している人がある日突然消えたとしても、世の中は前の日と何も変わらず動いていく。「余人をもって代えがたし」と社会全体が思える人など99%存在しない。
人の価値なんて身内や身近な人にしか分からない。誰かに大事に思われ、誰かに愛おしく思われている存在だったら、それだけで価値はある。
家族や身近な人の集まりという小さな単位が社会を構成する基本である。そう考えれば自ずと障害者だろうが健常者だろうが存在意義や価値という枠で軽重を語ることは無意味だ。
障害者問題の難しさは端的に言って世の中に漂うちょっとした窮屈さにも原因があると思う。
「障害者は無条件で助けねばならない」「障害者にはとにかく優しくすべき」等々、いわゆる「ねば・べき」の画一的な押しつけへの違和感だ。
他人に優しくできない、手助けするのもイヤだと思うタイプの人は少なからずいる。性格的なものだからそれ自体は悪とはいえないし責めることもできない。
そういった感性の人々にとっては「ねば・べき」の押しつけ、すなわち「窮屈で息苦しい感じの善行の強制」が厄介なのは確かだ。
普通の人からみても「ねば・べき」があまり強くなると、たとえ親切にしたくても何となくそれが「特別な行動」のように思えて、ちょっとした気配りさえもハードルが高くなってしまう。
そうなると一歩目が出ない自分が面白くない。面倒で厄介な感覚に陥る。面倒や厄介が高じれば、その対象である障害者に対するイメージも面倒や厄介になる。結果、自己正当化の意味も含めて差別感情や偏見につながっていく。
そんな悪循環が厳然と存在するのだと思う。
それ以前に人間の基本的な「業」もある。どんなに綺麗事を言おうと、しょせん人間は優越感と劣等感のバランスの中で生きている。
「あの人がうらやましい」、「アイツみたいにはなりたくない」等々、人間の行動のほとんどがそういった「業」に支配されていると言っても大げさではない。
自分より劣るものへの優越感が相手への思いやりにつながれば理想的だが、未成熟な社会だと中々そうはいかない。自分より劣る相手を卑下したり差別したくなる感情を完全に消し去ることは難しい。
そんなことをつらつら考えれば、差別や差別感情がなくならないことは残念ながら世の中の必然のようにも思える。
ただ、問題はその先だろう。ストレートに「差別をなくせ!」とか押しつけ的な綺麗事も無意味だとは思わないが、それにも増して大事なのは「少しの理解」を広げることだと思う。
差別感情や偏見、嫌悪感の根っこには、知らないこと、分からないことへの抵抗感がある。「まったく知らない」と「何となく知っている」ことの差は物凄く大きい。
障害を持つ人や周囲の状況について、些細なことでも「へえ~そうなんだ」と知ってもらえることは大きな意味を持つ。
障害を持つ人達にとって力になるのは、同情よりもそうした理解だと思う。
可哀想だとか不幸なんだろうという前提の「同情」と実際のアレコレを知ってもらう「理解」では意味合いがまるで違う。
もちろん、人によって違うだろうが「障害イコール不幸」という短絡的な決めつけもどこか違和感がある。
誰もが歳を取れば障害を持つ。視力も弱まり耳も遠くなり、歩行困難になる。障害が不幸なら世の中のすべてのお年寄りを不幸だと決めつけるようなものだ。
元気ハツラツな若者だって一瞬の事故で障害を抱えるケースはいくらでもある。誰もが障害と隣り合わせで生きている。要は先天性か後発的かという違いだけなのかもしれない。
差別主義者からは障害者は生産性が無いと非難されることもある。生産性でいえば、働けるのに働かず生活保護を騙し取ってパチンコに通うヤカラはごろごろいるし、三食昼寝付きの刑務所を本拠にする極悪犯罪人もゴマンといる。
生産性などという尺度で殺伐とした排斥思想を語る人には、周囲の人に光りを与えている障害者が大勢いることを知ってもらいたいと思う。
なんだか話がまとまらなくなってきた。
このところ、夏休みなのでダウン症の息子と遊ぶ機会が増えた。泊まりに来る回数も以前より増えた。相変わらずノロノロ運転のような発育にため息も出るが、着実にいろいろなことを学んでいる。
健常者の世界しか知らない私からみれば不憫に感じることもあるが、彼自身が不幸かといえば決してそんなことはない。
ある意味、私にとっては社会を映す鏡みたいな部分もあるし、15歳の姉の人格形成にも大きく影響している。学ばされているのは周囲の人間なんだと思う。
最後にネット上で評判になっている投稿を紹介したい。私がここでウダウダと愚痴を書いているより、この投稿を少しでも多くの人に紹介したほうが意味がありそうだ。
http://snjpn.net/archives/7687
今まで感じていたモヤモヤ感がすっきりしました。小さな子を持つ父親として、子供は無性に愛しい存在です。国家にとって、あるいは人類にとって「余人を持っても替えがたい」人物などほとんどいない。でも家族にとってかけがえのない存在は多々いて、だからこそ存在意義があるんですね。その大切な存在が幸せだったら、自分も生きてて良かったなと感じます。今日、Yahoo ニュースを見てなるほどなと思いました。http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20161013-00000074-nnn-soci
返信削除コメントありがとうございます!
返信削除確かに誰かにとってかけがえのない人であれば、存在価値などという範疇で語ったりすること自体が不適切ですよね。
このニュースは非常に明快にダウン症の人達自身の実情を表していると感じました。