2017年4月12日水曜日

桜、そして新緑


桜前線が北上中だ。東京の見頃は終わったが、今年もホノボノした気分にさせてもらった。自然の営みに感謝だ。


桜は日本文化の象徴である。事実上の国花といえる。桜に心を動かされない人は皆無と言ってもいいだろう。

個人的には桜より梅のほうが好きだが、それでも見頃を迎えると、あの特別な美しさに魅了される。

4月新年度のわが国では、桜は一種の節目の役割を持つ。私自身、毎年この時期になると、なんとなくリセットされるような気分になる。

満開の桜を眺めていると、先に逝ってしまった人、二度と会う機会がなくなった人のことを思い浮かべる。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

いつもそんな心境になる。来年はどこで誰と眺めるのだろう。10年後はどこでどんな気持ちで眺めるのだろう。ボンヤリとそんなことを考える。

などと、情緒あふれる?書きぶりだが、実際には桜見物を当て込んだ屋台の焼そばに目が行ってしまうのが世俗のアカにまみれた私の基本パターンでもある。


桜の木の下には死体が埋まっているそうだから、やはり夜桜より春の日射しを浴びている桜のほうが断然美しい。

いくらライトアップしようが、青空に映える桜にはかなわない。撮ってどうする?と自問自答しながらついつい綺麗な桜にはスマホを向けて撮影する。


いずれも会社から徒歩2分の隠れた名所で撮影。今年は焼そばの屋台が出ちゃって情緒が薄れてしまったが、古いお寺の境内に桜並木が続く。門とコラボする桜の風情が美しい。

香りの点、はかなげな点で桜より優れている梅をヒイキしたくなる私だが、さすがに梅の季節は寒い。

「うららかな日射し」とか「ひねもすのたりのたりかな」といった雰囲気にはならない。夜桜をマネして夜梅見物などしたら凍えてしまう。

「梅VS桜」論争自体が無意味なんだろう。これからはもっと素直に桜を愛そうと思う。


これは3月後半ぐらいになると見かける気の早い桜だ。2月の閑散期で困窮した銀座のクラブはこぞって3月には桜祭りと称して集客に励む。

花盗っ人から仕入れるのか、専門の栽培業者がいるのかは知らないが、アチコチの店で窮屈そうに桜が咲いている。

綺麗といえば綺麗だが、鳥かごに入っている野鳥、もしくは標本にされちゃった蝶みたいな不自然さが漂う。

胸元やら太股やらうなじといった美しい鑑賞対象が勢揃いしているから、不自然な桜をじっくり眺める客はいない。ちょっと不憫である


こちらは杉並区某所にある私の実家での花見の会だ。私の兄が主催してほぼ毎年開催している。私も2回に1回ぐらいは顔を出す。

世知辛い時代を反映してか、以前、近所からの苦情があったそうで、今年はやや小規模にして騒音が出ないように配慮していた。

実家自体は建て直ししているので、私自身の思い出や思い入れは無い。でも、庭に咲く桜の大木は私が生まれた頃からそこにある。

私が赤ん坊の頃を知る桜だ。樹齢はもう70年を遙かに超えるらしい。私が子供だった頃より2倍ぐらいに大きくなったように感じる。

平均的な樹齢を考えると、ここまで大きくなってしまった桜の木がいつまで元気でいてくれるかが気になる。

有名な小説「最後の一葉」ではないが、私が生きている間は毎年毎年花を咲かせて欲しいものだ。

さてさて、東京の桜は今年は終わり。桜が散った後に入れ替わるように出てくる新緑の芽がこれまた愛おしい。

道端に散らばる桜の花びらが片付いた頃には、アッという間に木々は緑の葉に覆われる。新緑の力強い美しさもまた心を揺さぶってくれる。

昔はちっとも目に入らなかったが、歳を重ねてくると、つややかな若葉の輝きにやたらと目を奪われる。物凄く魅力的だ。

こんな感覚も加齢が原因だろう。でも、季節の移り変わりを楽しめる国に生まれたからには、そんな変化を楽しまないともったいない。

加齢も大いに結構だ。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。楽しく拝見しております。富豪記者様とは趣味嗜好が重なるところが多々あり
    思わず書き込んでしまいました。どこかでお会いしているかと思われます。当方は加齢とともに嗜好品は軽めにシフトしています。full bodyの物は元気な時だけにしています。若葉の芽吹きのトッピクとはまさにいとおかしですね。

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  2. コメントありがとうございます!
    嗜好品が軽めの方向に行くのはちょっと残念ですが、それもそれで新しい発見にもつながりますよね。新緑を見習ってまだまだ青々と生きていたいものです!

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