東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2017年9月22日金曜日
我が輩はセミである
先日、台風一過の暑かった日、おそらく近所で最後のセミの声を聞いた。真夏日だったから生き残っていたセミが必死に叫んでいたのだろう。
セミはオスだけが鳴くらしい。何年も地中深くで暮らし、地上に出てきて一週間程度の命を交尾のためだけに鳴き続ける。
なんとも切ない話だ。どこの世界でもオスは切ない。カマキリなんか交尾中にメスがオスを頭から食い尽くしちゃうんだから堪ったものではない。
先日の暑い日に鳴いていた季節外れのセミの切なさも男として涙なしでは語れないほどである。
セミ業界が今年のシーズンを終え、メスだってもう残っていないのに、相手を見つけられなかったオスが必死になって交尾を求めて絶叫していたわけだ。
まるで婚期を逃した中年男が、相手なんて見つからないのにせっせと婚活に励んで入るみたいである。
私のことではない!
オスがメスを求める本能ほど、生きているなかで厄介なものはない。古今東西、そんな次元の揉め事が数々の事件を巻き起こしてきた。
四十にして惑わず。孔子の言葉である。「不惑」の語源だが、これって、40歳になったら様々なことが分かってきて自分の生き方に迷いが無くなるという意味である。
不惑だからもう惑わされないとか、不動心みたいな単純な意味ではない。
私自身、40歳になって様々なことが分かってきたからこそ、結局自分は今後も女性にたぶらかされながら生きていくのだと達観している。
ある意味、女性を追いかけ続けることに迷いが無くなったわけである。これも立派な不惑である。
なんかヘンテコだが、それが真理である。
夏は暑いからさておき、秋や冬になると人肌恋しくなる。幼い頃、親にくっつきたがった感覚が、今も柔肌?を求めてさまよう悪いクセにつながっているのだろうか。
50歳を過ぎてもそんなことを言っているのは、寂しがり屋なのか、単なるスケベなのかビミョーなところだ。一応、世間的には前者を理由にしておこう。
まあ、中高年の誰しもが「このまま自分はしおれていくのか」という焦燥感のようなものを抱えて生きている。
男女ともに同じだろう。男の場合、自分が現役であることを実感したいがためにオスの部分を強調したくなって若い女性相手に奮闘する。
妙に張り切っている美魔女などと称されるオバサマも似たようなものだ。まだまだ女として現役だと世間一般にうったえたくてアピールに励む。
男も女も行き過ぎると痛々しい感じになってしまうが、必ずしも悪いことではない。
男であること、女であることを捨てちゃって、出がらしみたいな顔をして生きている中高年よりも人間として魅力的だという見方もできる。
いわば、あの痛々しさこそが、ひょっとすると人生の醍醐味であり、今を生きている証のようなものかもしれない。
世界にも例を見ない超高齢化社会に突入したわが国では、“中高年のハッスル”は大いに意義深いテーマだと思う。枯れちゃった中高年ばかりでは社会の活力は生まれない。
中高年の色恋沙汰や肉欲のなかには、もちろん、純粋な恋心もあるだろう。年齢による焦燥感などに関係なく、ごく普通に恋愛に走る中高年も少なくない。
そうはいっても、そんな綺麗な話ばかりでない。やはり、現役感の確認や焦りから来る征服欲みたいなものに駆られて奮闘している男は多い。
まあ、それはそれで本能みたいなものだから他人がとやかく言うことではないのだろう。
理性だ社会秩序だモラルなどと言っても、しょせんは人様が都合良く作ってきたものだ。
若い時代を過ぎ、人生後半戦を迎えた「悪あがき世代」ともなれば、そんな呪縛にとらわれず好き勝手に行動したくなるのも仕方がない。
悪意を持って人を騙したり傷つけたりしなければ、女性とネンゴロになるために必死になるのは結構なことだろう。
というわけで、私も結局は夏の終わりのセミのように、なりふり構わず叫び続けていこうと思う。
>女性を追いかけ続けることに迷いが無くなったわけである
返信削除異議なし!! 女を追いかけない男なんて、つまらん奴に決まっている。
全ての男は消耗品である。by 村上龍
ポテ珍3号サマ
返信削除いつもありがとうございます!
「すべての男は消耗品」。深く染みいる言葉ですね!