今更ながら今年の干支は犬である。最近は猫派に押され気味だが、私は昔から犬派だ。猫はどことなくアザとい感じがする。
子犬と子猫だったら断然、子犬のほうが可愛いと思う。猫好きの人には申し訳ない。あくまで個人的な意見です。
私がまだ幼い頃、家に大型犬がいた。コリーだったと思う。名前はペッグである。「ローマの休日」のグレゴリー・ペッグが命名理由。
いつもベロをゼーゼー出し入れしている姿が印象的だったから、グレゴリー・ペッグみたいに格好良くはなかった。
その後も犬を飼いたいと思ったことはあったが、ちゃんと世話をする自信がなかったから飼えずじまい。結局、インコや亀ぐらいしかペット経験が無い。
私のように思い立った時に旅行に生きたがるようでは、なかなか犬は飼えない。旅に出る意欲が衰えた老後になったら考えよう。
一応、犬好きだと自認しているのだが、SNSなんかで怪獣にしか見えないような人様の飼い犬のアップ写真を見せつけられるとオヨヨな気分になる。
そんな偏屈オヤジみたいなことは書いてはいけない・・・。
「犬も歩けば棒に当たる」。かるたでもお馴染みのことわざだ。もともとは、余計なことをすると災難に遭うという意味だが、今では逆の解釈でも使われる。
すなわち、積極的に行動すれば思わぬ幸運に恵まれるというニュアンスだ。捉え方がポジティブに変わっていくことは悪くない。
犬といえば、今でこそ飼い主との絆や癒しの部分がイメージされるが、わが国にペット文化が定着するまでは、役立たずな厄介モノという位置付けだった。
5代将軍綱吉が例のアホバカ法令によって犬を過剰に保護した一時期を除き、犬の地位は今のように高くなかったわけだ。
罪人のおでこに「犬」という入れ墨が入れられたという話を聞いたこともある。ホントだとしたら凄い話だ。
考えてみれば入れ墨を刑罰に利用するのは今の時代だって大いにアリかもしれない。
再犯性犯罪者なんか世の中に放置したら危なっかしいから、おでこに「淫」とか「痴」といった入れ墨を入れちゃえばいいと思う。
話がそれた。犬がディスられていた話だった。まあ、野犬だらけだった時代背景を考えればそれも当然だろう。
実際に犬食文化は日本でも珍しくなかったようだし、牛や馬みたいに農作業の役に立つわけではなかったから、犬は小馬鹿にされる存在だったわけだ。
「犬畜生」、「犬死に」、「負け犬」、「犬も食わぬ」といった言い回しを始め、「獄」、「厭」、「哭」、「獣」など単独の文字にしてもマイナスイメージのものがいくつもある。
今とは大違いである。ちょっと大げさかもしれないが、そう考えると、世の中の常識や価値観の脆さを象徴しているのが犬のイメージなのかもしれない。
新年の1月。誰もが新たな気持ちで前向きな変化に期待を寄せる時だ。変化を邪魔するのは凝り固まった価値観だ。それが停滞を招く元凶になる。
犬の1年は人間の7年に相当するらしい。そう考えると、変化を恐れて停滞することは実にもったいない。
と、犬をマクラに柔軟に変化することが大事だと説教くさいことを書いてしまった。ちょっと強引な論法で失礼しました。
そういえば、うさん臭い人々が得意になって使っていた「ドッグイヤー」という言葉も今ではすっかり使われなくなった。
怪しげなカタカナ言葉を得意になって使うと薄っぺらい印象しか残らないわけだ。
なんだか今日はまとまりのない話に終始してしまった。
体調不良の後遺症かもしれない。
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