東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2018年2月28日水曜日
おかあさんの歌の話
「狭量」。このところ、こんな言葉が頭に浮かぶ。狭量とは度量が狭いこと。要するに、考えが凝り固まって他の意見を受け入れられないという意味だ。
匿名で好き勝手なことが書き殴れるネット社会では、どーでもいい話に目くじらを立てたり、単なるあげあし取りが正義のように扱われる。
それに反応しちゃうこと自体が、かえって話をドロドロにして、逆に世の中に窮屈さを広めてしまう結果を招く。
なんだかヘンテコだ。
最近、「あたしおかあさんだから」という歌が“炎上”した。歌詞を載せると長くなってしまうので、文末に貼り付けさせてもらう。
おかあさんになったことで、独身時代に楽しかったことが何一つできなくなったということを具体例を並べて嘆いている?歌だ。
もちろん、ただ嘆くだけではなく、歌の最後では「でも子どもに出会えて最高に幸せだ」というオチで締めくくられている。
要はオチに持っていくための導入として「おかあさんはこんなに我慢している」という事例をたくさん並べているわけだ。
そうした我慢だらけの歌詞表現が、息苦しいとか、押しつけがましいだの、自己犠牲を強いているといった批判を浴びる結果になった。
私自身、初めて聴かされたときは、メロディーのトーンも相まって「純粋な母親応援歌」だと感じた。嫌悪感も違和感もなかった。少しジーンとなったほどである。
まあ、そう感じること自体が時代遅れだとか、昭和の人間ならではと言われてしまえば仕方ない。でも、この程度で炎上騒ぎになる世間の「ただならぬ空気」がブキミに思える。
歌詞に出てくる母親の我慢は率直に言って現実だ。そういうものだろう。驚くような内容ではない。父親だって似たようなものだ。
父親が歌の中に出てこないことを批判する声まであったらしいが、それこそ「言わずもがな」の世界である。だいたい、母親への応援歌として作られた以上、父親が出てこないことにイチャモンつけられたら作詞者としては堪ったものではない。
作詞した人やこれを歌った「だいすけお兄さん」まで謝罪に追い込まれたと聞いてちょっとビックリである。気の毒のひと言だ。
謝罪させた人々は、その謝罪によって何かを得たのだろうか。溜飲を下げて幸福な気分になったのだろうか。
昭和の大ヒット曲に「関白宣言」がある。さだまさしの代表曲と言ってもいい。一方的に夫が嫁さんに夫婦のルールを押しつける内容だ。
俺より先に寝てはいけない。メシはうまく作れ。いつも綺麗でいろ。俺より先に死んではいけない等々、男がゴリゴリと主張している。
あの時も世の中で論争を呼んだが、謝罪ウンヌンという話にはならなかった。炎上した「あたしおかあさんだから」との違いはどこにあるのだろう。
時代が違うというひと言で片付けるのは簡単だが、私としては「オチまでの長さ」が理由に思えてならない。
「関白宣言」の場合、一番の歌詞の中盤から後半にかけて嫁さんへのフォローをしっかり盛り込んでいる。
三番まである歌詞の最後の最後まで男の一方的な主張を続けられたらウンザリだろうが、早い段階でしっかりとフォローがあったから楽しく聴いていられる。
それに対して「あたしおかあさんだから」は最後の最後にホロっとさせる歌詞が出てくるまでは、これでもかっていうぐらい、母親の我慢ばかりが延々と羅列されている。
単純なことだが、この差がポイントなんだろう。
母親の我慢を4つ5つ並べたあたりで、「でも幸せ」という趣旨の言葉がチラリと入っていれば、聴き手側の心理も大きく変わっていたと思う。
大オチの前に小さいオチを入れておけば炎上しなかったように思える。作詞者が最後のオチを強調したかったのも分かるが、そこまで引っ張ろうとした戦略が裏目に出ちゃったわけだ。
まあ私がそんな分析をしたところで屁の突っ張りにもならない。
いずれにせよ、親の我慢なんて子育てにおいては当たり前のこと。程度問題とはいえ、我慢自体を否定しているかのような炎上騒動は気持ち悪い。
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「あたしおかあさんだから」
一人暮らししてたの おかあさんになる前
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって強がってた
今は爪切るわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの
あたし おかあさんだから
新幹線の名前覚えるの
あたし おかあさんだから
あたしよりあなたのことばかり
あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから
痩せてたのよ おかあさんになる前
好きなことして 好きなもの買って
考えるのは自分のことばかり
今は服もご飯も 全部子供ばっかり
甘いカレーライス作って
テレビも子供がみたいもの
あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから
苦手なお料理頑張るの
あたし おかあさんだから
こんなに怒れるの
あたし おかあさんだから
いいおかあさんでいようって頑張るの
あたし おかあさんだから
あたしよりあなたのことばかり
あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから
もしも おかあさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブに行くの 自分のために服買うの
それ ぜーんぶやめて
いま あたしおかあさん
それ全部より おかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
だってあなたにあえたから
こんばんは、チャトラと申します。
返信削除こういう歌があることを初めて知りました。
何というかこの歌詞には気持ち悪さというか(笑)不自然さを感じます。
世のおかあさんは歌詞にある「〜すること」をその度毎に「おかあさんだから」と意識してしているわけではないと思うのです。
子供への責任と愛情が土台にあり、そんなこと意識せずともごく自然にそうなるのじゃないのかなぁ…と思うのです。
それなので「あたしおかあさんだから」という箇所にはとても不自然さを感じます。当たり前なことではなく「おかあさん」を意識しないとできないということと歌詞の最後の部分に矛盾を感じますし、本当はこの歌の主人公は「おかあさん」にはなりたくなかったのかな、とさえ思えます。
そもそもこの歌の作詞者は実際に「おかあさん」なのでしょうか?(そうかも知れないけど)自分にはとてもそうは思えない、本当に「おかあさん」ならこのような詩にはならないんじゃないだろうか、そう思うのです…。
ブログの主旨とは関係ないこと、そして長文失礼しました。
チャトラさま
削除コメントありがとうございます。
なるほど。確かに世のおかあさんがたは、歌のようなことを意識してるヒマもないほど、日々のことをこなしているのでしょうね。
実際のおかあさん目線での的確なご意見をありがとうございます!
再び登場こんにちは^^
削除この歌詞があまりにも?だったのでつい書き込みしてしまいましたが、私はおかあさんではありません^^;
友人知人や諸々から得た知識と以前飼っていた猫のことを思い出しながら書きました(笑)
それでは失礼します〜!
PS富豪記者さんのきちんとした文章が好きです^^今後も楽しみにおります。
チャトラさま
返信削除失礼しました!
でも貴重なご意見をありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします。