東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2018年10月24日水曜日
沢田研二の艶
沢田研二が何かと話題だ。ワイドショーが騒いだおかげで、ライブチケットや過去の楽曲が売れているらしい。良いことだ。
昭和のエンターテイナーとして抜群の存在感を放っていたのが沢田研二だ。若い人の中には知らない人もいる。なんとも残念だ。
今の時代、YouTubeを開けば簡単に過去の映像が見られるから、一世を風靡していた頃のジュリーをゼヒ見てもらいたいものだ。
そういえば、ジュリーという愛称の語源は知らない。何なんだろう。まあいいか。
とくにファンだったというわけではない。それでも、テレビで歌う姿を見るとつい見入ってしまった。そんなスターだった。
♪
聞き分けのない女の頬を
ひとつふたつ 張り倒して
背中を向けてタバコを吸えば
それで何も言うことはない ♪
「カサブランカダンディー」の歌い出しだ。今の時代、そんなことを歌ったら、すぐにDVだのモラハラだのと糾弾されそうだが、当時はかなりヒットした。
歌詞が乱暴だろうと沢田研二が歌うと、まわりから四の五の言わせないようなカッチョ良さがあった。大らかな時代だった。
♪
片手にピストル 心に花束
唇に血の酒 背中に人生を
(略)
男は誰でも不幸なサムライ
花園で眠れぬこともあるんだよ ♪
1978年(40年前!)のヒット曲「サムライ」である。こんな歌詞を違和感なく歌いこなせたのは沢田研二ならではだ。
当時、沢田研二は30歳である。いまの30代の歌手が歌ってもサマにならない。松潤や山Pがどんなに頑張っても絵にならない。当時、表現力には定評があった西城秀樹でも厳しかっただろう。
ジュリーの「艶」はそのぐらい独特だった。
歌唱力の良さはもちろんだが、表現力や見せ方という点で時代の先端を走っていた。
ついでにいえば、新幹線の中で暴力沙汰を起こしたり、離婚の際にドッカンと慰謝料を払ったり、歌以外でも話題は多かった。
「寅さん」に出演したときは気弱な青年を上手に演じていた。競演した田中裕子と不倫、再婚という騒動を起こしたあたりから、あまり表舞台に出てこなくなったみたいだ。
数年前、私が衝動的にギターを買ってヨタヨタと練習を始めた頃、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」を課題曲に選んだことがある。昭和の哀愁たっぷりで間違いなく名曲だ。
彼の代表曲「勝手にしやがれ」は、私がボーカルのオジサマバンド活動でも何度も披露した。いわば“オハコ”だ。会場も盛り上がるし、単純明快に名曲だと思う。
「勝手にしやがれ」が大ヒットした当時、私は小学校6年生ぐらいだった。確か石川さゆりの「津軽海峡冬景色」も同じ頃に大ヒットした。日本中でその2曲ばかり流れていたような印象がある。
「勝手にしやがれ」は言うまでもなく別れの歌である。出て行く女を素直に見送れない男の心情を描いた歌だ。
♪
壁ぎわに寝がえりうって
背中できいている
やっぱりお前は出て行くんだな
悪いことばかりじゃないと
思い出かき集め
鞄につめこむ気配がしてる
行ったきりならしあわせになるがいい 戻る気になりゃいつでもおいでよ
せめて少しはカッコつけさせてくれ
寝たふりしてる間に出て行ってくれ
♪
この歌詞、バンド活動やカラオケで歌うたびに思うのだが、結婚する娘を送り出す父親の気持ちではないだろうか。まさにそんな感じである。
いつか娘が嫁ぐときは、披露宴の席で熱唱してやろうと思う。
とくに「戻る気になりゃいつでもおいでよ」を強調して歌いたい。
何が書きたかったのかサッパリ分からないオチになってしまった。
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