2014年6月4日水曜日

疑心暗鬼


疑心暗鬼。疑わしく感じると何でもないことまで怖がったり、あらぬ妄想を抱いてしまうことの例えだ。

真っ暗闇の中にいるだけで、鬼が潜んでいるように感じてしまうという意味合いである。

先月、都心で少し強めの地震が2度ほどあった。いずれも「巨大地震との関連性は無い」とその道の権威が語っていたが、どうにも安心できない。

地震予知などまともに当たったためしがないし、そもそも「お上」周辺から発信される情報を信用しようという気にならない。

深刻な前兆だったとしても、「国民を不安に陥れないため」「パニックを予防するため」という名目で真相は隠されているのではないか。

「ああ言ってるけど、本当は違うんだろうな」。まさに疑心暗鬼である。

昔は、それっぽい人がそれっぽく語っていたら、何となく信じて済ませていた。多くの日本人がそうだったと思う。でも最近は、ノホホンとそれっぽい話を信じられなくなった。

3年前の3月11日を境にこんな心境に陥る人が確実に増えた。

「お上」からの情報の信用はかつてないほど地に墜ちているのが今の世相だろう。

大震災後のアノ原発事故に関連する情報の迷走、その後のあらゆる風評の中で、何を信じればいいのかサッパリ分からなくなった。もはや信頼はどこにもないというべきか。

人気漫画「美味しんぼ」での原発問題の描かれ方が世間を騒がせた。

風評被害を拡大させるという批判意見がやたらと目についた。普通に暮らしたい、以前のように活動したいと願う現地の人の気持ちを思えばもっともな批判ではある。

とはいえ、風評被害という言葉が言論統制に向けた一種の「錦の御旗」になりつつある現状が無性に怖い。気持ち悪さ、不気味さを感じる。

ごく当たり前の不安とか心配を口にするだけでも「風評被害」と言われかねない。どうにも窮屈な雰囲気が漂ってはいないだろうか。

素人が常識で考えて「ヤバい」と感じることですら、科学的根拠や実証データが無いという理由で、ただのデマや風評として一蹴される。

一般大衆側も、自分たちにとって都合が悪い話を聞きたくないし、イヤな想像はしたくない。出来れば楽観的に過ごしたい、大したことないと思い込みたい。そんな心理が働く。これもクセモノだろう。そんな大衆心理も「魔の手」に利用される。

結果、声高に問題を指摘すること自体が偏った主義主張と決めつけられ、ヘタをするとイデオロギー的行動というレッテルを貼られる。

結果、大半の人が”触らぬ神にタタリなし”とばかりに問題から目をそらし、無関心の連鎖が拡がっていく。

「触らぬ神」ではなく「触らぬ”お上”」と表現した方が適切だろうか。専門的な研究をしたわけではない一般国民にとって、放射性物質の害など具体的に分かるはずはない。

それを逆手に難解な言葉、専門用語のオンパレードで、「とりあえず心配はいらない」と押し切られる。

枝野官房長官(当時)が流行?させた「ただちに影響はない」というフレーズ。インチキの極みみたいなブサイクでおぞましい言い回しだったが、あれから3年が過ぎた。

「ただちに」と言えるような時間はとっくに過ぎた。いわば、あのデタラメ発言にも免罪符が与えられたわけだ。

子どもの甲状腺ガンなど、福島の健康被害には深刻なデータも出ているが、この問題も風評被害という錦の御旗が絡むことで、本当の姿がよく見えない状態になっている。

大量の放射性物質が放出され続けている現状を考えれば、事故現場に近いところとそうでないところとでは、人間の生息環境に違いが生じるのは、残念ながら当たり前の話だ。

高濃度汚染水が海に垂れ流され、廃炉まで40年はかかると言われる福島第一原発での作業が「アンダー・コントロール」などと安易に言い切れないことは誰もが分かっている事実だ。

事実、これまでも福島、茨城、栃木、岩手、千葉などの農産物や水産物が現実に出荷制限の憂き目に遭っている。すなわち「食べたら危険」という宣告である。

今後もそうした規制が緩くなることは考えにくい。そのぐらいの重大事故が発生し、あげくに現在も進行中だということを忘れるわけにはいかない。

震災直後、放射能汚染をセンセーショナルに報じたメディアが世間から袋叩きに遭った事実を覚えているだろうか。

事故対策に命がけで頑張る人々に対して不謹慎だとか、ネガティブな報道は風評被害を招くだけだとか、そんな雰囲気に支配された世論が、結果的に正しい情報伝達を阻害していなかっただろうか。

希望的観測だけで現実から顔を背けようとした世間の雰囲気は今も根強い。単なる疑心暗鬼であればよいが、ことはそう簡単ではない。

正しく怖がること、冷静になって心配することは決して間違いではない。

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