もう夏バテだ。ダルくてしょうがない。オフィスの冷房と外のアホみたいな熱気で、さすがに体調がスッキリしない。
夏バテに効く食べ物といえばウナギだ。日頃ウナギは散々食べまくっているから、夏バテに効くという話はウソだろう。ウナギで元気になった自覚など無い。
いや、ひょっとしたらウナギをマメに摂取しているからこの程度で済んでいるのかもしれない。ウナギを食べまくっていなかったら今頃死んでいたかもしれない。そういうことにしておこう。
俗にネバネバ系食品が、夏バテ防止や元気促進に効果があるといわれる。ウナギもネバネバ系の一種だ。
真相は分らないが、確かにネバネバは身体に良さそうだ。食べた後に善行を施した気分になる。
納豆、オクラ、とろろを「ネバネバ3兄弟」と呼ぶらしい。私の場合、納豆は嫌い、オクラにも殺意を覚えるので、とろろしか仲間がいない。
他にもネバネバ一家には、モロヘイヤとかメカブとか、ナメコとか、海草類なんかが名を連ねる。
函館に旅行する際には、しょっちゅうガゴメ昆布というネバトロベロンチョって感じの昆布を買うのだが、あの昆布も癌まで退治しちゃうスーパー食品だという噂を聞いたことがある。
ネバネバしていれば何でもOKなら、変な話、鼻水とか痰とかも吐き出さずに身体に貯め込めばいいのかと思うが、さすがにそっちは食品ではないからダメだろう。
話がそれた。
ネバネバの元は、糖とタンパク質が結合して出来たムチンという成分らしい。「ムチン」だ。なんか言葉の響きだけでも強力そうだ。ムチン、ムチン、ムチン!!。
ムチンには血糖値を抑制する作用や、コレステロール値を低下させる作用があるそうだ。凄いぞムチン。
おまけに胃の粘膜保護に抜群の働きがあるらしい。胃潰瘍とか胃炎の予防効果もあるのだという。逆流性食道炎だけでなく、最近しょっちゅう胃の調子が悪い私にとっては最高の物質だ。エラいぞムチン。
ケタ外れにムチンが多いのが納豆だとか。私は子どもの頃から納豆が嫌いで、いまだに納豆巻きを作った職人さんに寿司を握ってもらうのに抵抗があるぐらいヤツが苦手だ。
実家の家族はみんな喜々として食べていたが、なぜか私だけ納豆が嫌い。きっと生まれながらにして上品過ぎる人間なんだろう。
仕方がないから「とろろ」と共に生きていこうと決意している。麦飯にとろろをぶっかけてかっ込むのも好きだし、ウナギと合わせて良し、マグロに合わせても良し、なかなか素敵な食べ物だ。
ここだけの話だが、とろろと言えば、子どもの頃にコッソリ見た官能漫画を思い出す。裸にされて縛られた女性が悪者からとろろ攻めにあって身悶えるというトンデモない設定だった。
そのせいか?、とろろを食べる時は自分が裸じゃないことを確認する。とくに下半身がむき出しになっていないか要注意だ。
冗談はさておき、口の周りが痒くならないように細心の注意を払って食べる。結局、すぼめた口で一気に流し込むように食べることが多くなった。食べるというより飲むと言った方が的確かもしれない。
居酒屋に行っても、山かけなんかを頼まずに「とろろだけ貰えますか」とオーダーしてみる。あまりに貧しい感じだから、一応、卵黄だけ落としてもらうバーションが多い。
ネバネバ系の特徴は、身体に良いだけでなく、精力増強、いわゆる強壮作用にもあるらしい。私の場合、そんな実感は特にない。そっちがへばってる自覚など無い?のであくまで夏バテ防止だ。
いや、ウナギとかとろろとか牡蠣とかを一切食べていなかったら、きっと男として大変な事態なのかもしれない・・・。
もとい。
先日、高田馬場・鮨源で、わがままオーダーをしてみた。山かけが用意できるはずだから、当然、単品とろろも貰えるはずだと長年通っていたのに初めて気づいた。
「とろろが飲みたい」。別に変な食べ物ではないが、お寿司屋さんで注文するのは変かもしれない。おまけに、皿じゃなくてグラスに注いでくれと無茶な頼み方をした。
生卵の黄身だけトッピングして貰って、ジョッキにたっぷり「とろろ大盛り」だ。見た目はミルクセーキみたいだ。マドラーまで借りて混ぜ混ぜして醤油を加えて出来上がり。
グビグビと飲む。隣に座っていたほろ酔い状態の見知らぬオジサンが目を丸くして私を宇宙人でも見るような顔で見ている。
うまい!身体が喜ぶ味だ。エネルギーが湧いてくるような錯覚に陥る。
変テコなオーダーではあるが、私から見れば、あの不気味な納豆を巻物にして食べるという神をも恐れぬ行為自体がよほど変テコだと思っている。ただ単にとろろを飲む行為など極めて正常な行動だと思う。
コレステロールを抑えて、胃の粘膜を保護してくれて、おまけに男性機能のサポーターまで買って出てくれるなんて有難いったらありゃしない。
そんなわけで、とろろに夢中だ。例えて言うなら、身近すぎて気づかなかった幼なじみの魅力に突然気づいて激しい恋に落ちちゃったような感じだ。
長く付き合っていきたい。
東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2012年7月27日金曜日
いつかの夏
子どもの頃に比べて都会の夏は蝉の声が少なくなった気がする。
8月も半ばになればミンミン、ジージーと賑やかになるので、少なくなったというよりは、鳴き始める時期が遅くなったのだろうか。
30度を超える猛暑日でも、まだまだ騒々しい蝉の声は聞こえない。うるさい鳴き声が暑さを助長する側面もあるが、やはり夏は、あの音色が無ければ始まらない。
もちろん、7月の今でも、うっそうと木々が茂っているところでは蝉の合唱は聞こえる。記憶違いかもしれないが、子供の頃は夏休みに入る頃には既にセミが賑やかだった覚えがある。
遠い日の思い出は美化されがちなので、「夏休みイコール蝉の声」という方程式が頭の中で固まってしまってそう思うのだろうか。
ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、ヒグラシ。とにかくこの3種類が私にとっての「正しい蝉」?である。姿形はどうでもよく、あくまでその泣き声が私の耳を喜ばせてくれる。
あれほど季節感を感じさせる自然界の音は、他には無いのではないか。目を閉じてあの鳴き声をイメージした途端に、一気に灼熱の太陽と水がきらめく情景が浮かぶ。
虫取り網、麦わら帽子、スイカ、かき氷・・・、氷を浮かべてキラキラ輝くガラスの器や、汗を拭い続けて袖だけクシャクシャになったTシャツとか、時間を忘れて遊んでいた夏のイメージには必ず蝉の声があった。
急な夕立に冷やされて匂い立つ緑、蚊取り線香のはかなげな煙や切なげな香り、団扇に運ばれるお香みたいなおばあちゃんの香り・・・、そんな夏の思い出にも、夕暮れに響くヒグラシの音色が付きものだった。
日本人は遙か昔から蝉の姿に「もののあはれ」を重ねてきた。もともと抜け殻を意味する「空蝉」という言葉はその代表だろう。
強烈な日射しや生き物が躍動する季節にもかかわらず、空蝉に哀愁や情緒を見出した先人の感性はとても素敵だと思う。
夏を待つ春にも増して、秋が控える夏にしみじみとした情感を感じ取った大和ごころの風雅さに今更ながらグッと来てしまう。
へばるような暑さの中だからこそ、あえて風流人を目指したいと思う。そうは言いながら、先日も炎天下での風鈴の取り付けが上手くいかずにキレまくってしまった私だ。まだまだ修行が足りない。
ところで、何事かを懐かしく思い返す時、不思議と夏のことばかり思い出すような気がする。私だけだろうか。ボケッと思い出す昔の思い出は不思議と夏にかかわるものばかりだ。
そのどれもが蝉の鳴き声とともに脳裏をよぎる。
大磯ロングビーチに連れて行ってもらってドデカいプールに圧倒されたこととか、親戚に連れて行かれた高原の保養地で可愛い女の子にドキドキしたこととか、中学の野球部の練習で通った深大寺グランドの帰り道で浴びるほど飲んだファンタの美味しさとか、思い出すのは夏の出来事ばかり。
未成年の分際で伊豆高原のペンションとやらに女の子連れで出かけたのも夏だったし、どこぞの富豪令嬢の別荘で大勢で乱痴気騒ぎしたのも夏だった。
いたいけな少年の頃、色気づいていた若造の頃、そして大人になってからも、ふと思い出す印象的な出来事はみんな夏の出来事であり、思い返すたびにその情景と一緒に蝉の音色が聞こえてくる。
ある夏の日、猛暑続きなのに鄙びた温泉に出かけたことがある。思いを寄せていた女性とともに汗をかきかき電車を乗り継いで出かけた。
閑散とした宿だった。通された部屋の庭には半露天の風呂があり、涼しい風が吹き始めた夕暮れにゆったりと身を沈めてみた。
風呂の屋根に何匹もの蝉が陣取っていたようで、近くから迫ってくる蝉時雨に圧倒された。庭の木々にいる蝉の合唱も相まって金属音かと思うほどの強烈な音色に前後左右から包まれ、めまいにも似た感覚に陥った。
異次元に迷い込んだような、幽玄の世界に身を預けたような不思議な時間だった。
蝉時雨には人の心を攪乱する不思議な力が宿っているような気がした。
とても懐かしく大事な思い出だ。
誰にでも強烈な印象をともなう夏の思い出はいくつもあるのだろう。そんな思い出を毎年毎年増やしていければ幸せだ。
今年もいよいよ夏まっ盛り。今年の夏が、将来懐かしく思い出す「いつかの夏」になるように充実した時間を過ごしたい。
8月も半ばになればミンミン、ジージーと賑やかになるので、少なくなったというよりは、鳴き始める時期が遅くなったのだろうか。
30度を超える猛暑日でも、まだまだ騒々しい蝉の声は聞こえない。うるさい鳴き声が暑さを助長する側面もあるが、やはり夏は、あの音色が無ければ始まらない。
もちろん、7月の今でも、うっそうと木々が茂っているところでは蝉の合唱は聞こえる。記憶違いかもしれないが、子供の頃は夏休みに入る頃には既にセミが賑やかだった覚えがある。
遠い日の思い出は美化されがちなので、「夏休みイコール蝉の声」という方程式が頭の中で固まってしまってそう思うのだろうか。
ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、ヒグラシ。とにかくこの3種類が私にとっての「正しい蝉」?である。姿形はどうでもよく、あくまでその泣き声が私の耳を喜ばせてくれる。
あれほど季節感を感じさせる自然界の音は、他には無いのではないか。目を閉じてあの鳴き声をイメージした途端に、一気に灼熱の太陽と水がきらめく情景が浮かぶ。
虫取り網、麦わら帽子、スイカ、かき氷・・・、氷を浮かべてキラキラ輝くガラスの器や、汗を拭い続けて袖だけクシャクシャになったTシャツとか、時間を忘れて遊んでいた夏のイメージには必ず蝉の声があった。
急な夕立に冷やされて匂い立つ緑、蚊取り線香のはかなげな煙や切なげな香り、団扇に運ばれるお香みたいなおばあちゃんの香り・・・、そんな夏の思い出にも、夕暮れに響くヒグラシの音色が付きものだった。
日本人は遙か昔から蝉の姿に「もののあはれ」を重ねてきた。もともと抜け殻を意味する「空蝉」という言葉はその代表だろう。
強烈な日射しや生き物が躍動する季節にもかかわらず、空蝉に哀愁や情緒を見出した先人の感性はとても素敵だと思う。
夏を待つ春にも増して、秋が控える夏にしみじみとした情感を感じ取った大和ごころの風雅さに今更ながらグッと来てしまう。
へばるような暑さの中だからこそ、あえて風流人を目指したいと思う。そうは言いながら、先日も炎天下での風鈴の取り付けが上手くいかずにキレまくってしまった私だ。まだまだ修行が足りない。
ところで、何事かを懐かしく思い返す時、不思議と夏のことばかり思い出すような気がする。私だけだろうか。ボケッと思い出す昔の思い出は不思議と夏にかかわるものばかりだ。
そのどれもが蝉の鳴き声とともに脳裏をよぎる。
大磯ロングビーチに連れて行ってもらってドデカいプールに圧倒されたこととか、親戚に連れて行かれた高原の保養地で可愛い女の子にドキドキしたこととか、中学の野球部の練習で通った深大寺グランドの帰り道で浴びるほど飲んだファンタの美味しさとか、思い出すのは夏の出来事ばかり。
未成年の分際で伊豆高原のペンションとやらに女の子連れで出かけたのも夏だったし、どこぞの富豪令嬢の別荘で大勢で乱痴気騒ぎしたのも夏だった。
いたいけな少年の頃、色気づいていた若造の頃、そして大人になってからも、ふと思い出す印象的な出来事はみんな夏の出来事であり、思い返すたびにその情景と一緒に蝉の音色が聞こえてくる。
ある夏の日、猛暑続きなのに鄙びた温泉に出かけたことがある。思いを寄せていた女性とともに汗をかきかき電車を乗り継いで出かけた。
閑散とした宿だった。通された部屋の庭には半露天の風呂があり、涼しい風が吹き始めた夕暮れにゆったりと身を沈めてみた。
風呂の屋根に何匹もの蝉が陣取っていたようで、近くから迫ってくる蝉時雨に圧倒された。庭の木々にいる蝉の合唱も相まって金属音かと思うほどの強烈な音色に前後左右から包まれ、めまいにも似た感覚に陥った。
異次元に迷い込んだような、幽玄の世界に身を預けたような不思議な時間だった。
蝉時雨には人の心を攪乱する不思議な力が宿っているような気がした。
とても懐かしく大事な思い出だ。
誰にでも強烈な印象をともなう夏の思い出はいくつもあるのだろう。そんな思い出を毎年毎年増やしていければ幸せだ。
今年もいよいよ夏まっ盛り。今年の夏が、将来懐かしく思い出す「いつかの夏」になるように充実した時間を過ごしたい。
2012年7月25日水曜日
浜松 ウナギ
ウナギばかり食べている。何事もホドホドじゃないといけないのだが、ついついウナギの香りが頭の中を支配する。
食べ過ぎると胆石になるという噂を耳にしたが、正確には胆石を患った人が食べるには適さないという話のようだ。
気になるので、ウナギの食べ過ぎはどのような弊害があるのか調べてみた。見つかった答えは「カロリーオーバー」だ。
ヤバいことである。せめてご飯は少なめにしないといけない。
稚魚の不漁によってうなぎの値段は高騰中だ。メニューを見て、アッと驚くタメゴローみたいな価格に慌てることも増えてきた。都内某店では、鰻重の一番高いやつが7千円を超えていた。危機的状況である。
ウナギ屋さんが悪いわけではない。今こそ、伝統文化と職人技を保持してもらうために苦況のウナギ屋さんを助けに足繁く通わないとなるまい。
で、浜松まで行ってきた。ちょっと飛躍しすぎだ。
東京にいくらでもウマい店はあるのだが、ときどき無性に「浜松でウナギを食べる」ことに燃える。
10代の頃、親に連れられていった浜松で、それまで自宅で食べていたレトルトウナギとは異質の超絶的美味ウナギを食べたことがきっかけで、いまだに「浜松」という文字を見ると「ウナギ」というフリガナを充てたくなる。
白焼きを初めて体験したのも浜松だったし、ご飯の間に蒲焼きが挟まっていた2段重を体験したのも浜松だった。
浜松に行く時は、舘山寺温泉に泊まる習性?があるので、1泊で出かける場合には、初日の昼と翌日の昼がウナギ攻めの時間になる。
舘山寺温泉での夜飯にもウナギを注文することもあるのだが、今回はカロリーオーバーを恐れてそれはパスしておいた。
初日の昼、浜松駅北口にある「中ノ庄」という比較的新しい店を訪ねた。モダンで綺麗な内装で、風情だとか渋さとは無縁だ。
蒸さない関西風ウナギはあまり好きではないのだが、モノは試しとトライしてみた。浜松は関東風、関西風の店が混在する街だから、東京の名店とは違う味を楽しむのも旅の面白さだ。
まずは白焼きから。初めての感覚だった。サクサクしている。サクサクした後にジュワーとウナギの味が口に拡がる。これはこれで悪くない。
わさび醤油で食べる白焼きと冷酒の組み合わせが無敵だと信じて疑わない私だが、こちらの白焼きはビールにもバッチリ合う感じ。関東風ウナギのエロさ?とは異なる健康的で爽やかな青年みたいな雰囲気だった(意味不明でスイマセン)。
この店の名物は「固焼き鰻重」だ。じっくり時間をかけて焼くらしい。外側のカリカリ感が独特。中はそこそこふっくらしている。でも、どことなくクドい。タレのせいか、調理法のせいかは分らないが、軽やかさとは違うドッシリ感が強い。一種独特だった。
膨満感ブリブリのまま、レンタカーをかっ飛ばして舘山寺温泉へ。ホテル九重に到着。舘山寺といえばこの宿だろう。今回は展望風呂付きの部屋にしてみた。
にごり湯の温泉を部屋にいながら味わえるのは有難い。浜名湖を眺めながらぬるめの湯に浸かってホゲホゲしながら消化促進。
この宿は大浴場も趣向を凝らしてあって楽しい。タオルも脱衣所にふんだんに用意されているし、浴場内にも冷たい水が常備されサウナラバーにも優しい。湖畔の眺めに癒される。
夕飯はヒラメの活け作りとかアジのタタキとか、鮑の踊り焼きとかサッパリ系が多かったので、食い過ぎ男としては助かった感じ。
翌日、のろのろとチェックアウトして、クルマで少し移動して鍾乳洞見学。相当なモノらしいが、私はあの手の閉そく感を感じる場所では、圧迫感のせいで気分が悪くなるので、速攻で出口に向かいボケッとソフトクリームを舐めて過ごす。
鍾乳洞のことより頭の中はすっかりウナギだ。
旅館の朝飯を軽く済ませていたため、浜松駅のほうに戻ってきたら、全身ウナギ欲求モードになっていた。
駅南口に近い「うな炭亭」に行ってみた。有名人のサイン色紙を自慢気に置いてあるセンスにたじろぐ。でも、天下の小澤征爾のサイン色紙を見て、ある意味安心する。期待が持てそうだ。
石ちゃんとか彦麻呂あたりの色紙だったら、微妙だが、「年老いた文化人枠」お墨付き?とあれば大丈夫だろう。
白焼き丼と鰻重を注文。この店も関西風と聞いていたが、少しは蒸しているのだろうか。いい感じにふっくらだ。ただの直焼きとは違うように感じた。
あちらこちらでウナギを食べているが、この店は相当おいしかったです。前日の膨満感のせいで普通サイズを注文したことを、その後3日間ぐらい後悔したほどウマかった。
香り、食感、タレの味、すべてのバランスが抜群。悶絶したくなる味だった。職場や家の近所にあったら毎日通ってしまうかもしれない。
白焼き丼も格別の味がした。ご飯には普通の鰻重用のたれがすこしまぶしてある。乗っかっている白焼きにはわさび醤油を垂らしながら味わう。相容れないような組み合わせだが、これが中々ウマい。ネギと海苔もトッピングして実に画期的な味わいを楽しめた。
今日、こんな話を書いているだけで、またもやウナギが食べたくなってしまった。中毒性があるのだろうか。
実は、この拙文を書いている途中に無性にウナギが食べたくなって、急きょ職場からタクシーを飛ばして江戸川橋の「はし本」で鰻重をかっ込んできた。
昼だから満腹にならないように普通の鰻重をおとなしく一人前だけささっと食べてきた。総所要時間1時間弱で職場に戻って来られた。バッチグーだ。
どうもこのところのウナギへの偏愛ぶりは病的だ。何かが乗り移ったのだろうか。ちょっと心配だ。
そろそろウナギ供養をウリにしている寺にお参りに行こうかと思っている。
食べ過ぎると胆石になるという噂を耳にしたが、正確には胆石を患った人が食べるには適さないという話のようだ。
気になるので、ウナギの食べ過ぎはどのような弊害があるのか調べてみた。見つかった答えは「カロリーオーバー」だ。
ヤバいことである。せめてご飯は少なめにしないといけない。
稚魚の不漁によってうなぎの値段は高騰中だ。メニューを見て、アッと驚くタメゴローみたいな価格に慌てることも増えてきた。都内某店では、鰻重の一番高いやつが7千円を超えていた。危機的状況である。
ウナギ屋さんが悪いわけではない。今こそ、伝統文化と職人技を保持してもらうために苦況のウナギ屋さんを助けに足繁く通わないとなるまい。
で、浜松まで行ってきた。ちょっと飛躍しすぎだ。
東京にいくらでもウマい店はあるのだが、ときどき無性に「浜松でウナギを食べる」ことに燃える。
10代の頃、親に連れられていった浜松で、それまで自宅で食べていたレトルトウナギとは異質の超絶的美味ウナギを食べたことがきっかけで、いまだに「浜松」という文字を見ると「ウナギ」というフリガナを充てたくなる。
白焼きを初めて体験したのも浜松だったし、ご飯の間に蒲焼きが挟まっていた2段重を体験したのも浜松だった。
浜松に行く時は、舘山寺温泉に泊まる習性?があるので、1泊で出かける場合には、初日の昼と翌日の昼がウナギ攻めの時間になる。
舘山寺温泉での夜飯にもウナギを注文することもあるのだが、今回はカロリーオーバーを恐れてそれはパスしておいた。
初日の昼、浜松駅北口にある「中ノ庄」という比較的新しい店を訪ねた。モダンで綺麗な内装で、風情だとか渋さとは無縁だ。
蒸さない関西風ウナギはあまり好きではないのだが、モノは試しとトライしてみた。浜松は関東風、関西風の店が混在する街だから、東京の名店とは違う味を楽しむのも旅の面白さだ。
まずは白焼きから。初めての感覚だった。サクサクしている。サクサクした後にジュワーとウナギの味が口に拡がる。これはこれで悪くない。
わさび醤油で食べる白焼きと冷酒の組み合わせが無敵だと信じて疑わない私だが、こちらの白焼きはビールにもバッチリ合う感じ。関東風ウナギのエロさ?とは異なる健康的で爽やかな青年みたいな雰囲気だった(意味不明でスイマセン)。
この店の名物は「固焼き鰻重」だ。じっくり時間をかけて焼くらしい。外側のカリカリ感が独特。中はそこそこふっくらしている。でも、どことなくクドい。タレのせいか、調理法のせいかは分らないが、軽やかさとは違うドッシリ感が強い。一種独特だった。
膨満感ブリブリのまま、レンタカーをかっ飛ばして舘山寺温泉へ。ホテル九重に到着。舘山寺といえばこの宿だろう。今回は展望風呂付きの部屋にしてみた。
にごり湯の温泉を部屋にいながら味わえるのは有難い。浜名湖を眺めながらぬるめの湯に浸かってホゲホゲしながら消化促進。
この宿は大浴場も趣向を凝らしてあって楽しい。タオルも脱衣所にふんだんに用意されているし、浴場内にも冷たい水が常備されサウナラバーにも優しい。湖畔の眺めに癒される。
夕飯はヒラメの活け作りとかアジのタタキとか、鮑の踊り焼きとかサッパリ系が多かったので、食い過ぎ男としては助かった感じ。
翌日、のろのろとチェックアウトして、クルマで少し移動して鍾乳洞見学。相当なモノらしいが、私はあの手の閉そく感を感じる場所では、圧迫感のせいで気分が悪くなるので、速攻で出口に向かいボケッとソフトクリームを舐めて過ごす。
鍾乳洞のことより頭の中はすっかりウナギだ。
旅館の朝飯を軽く済ませていたため、浜松駅のほうに戻ってきたら、全身ウナギ欲求モードになっていた。
駅南口に近い「うな炭亭」に行ってみた。有名人のサイン色紙を自慢気に置いてあるセンスにたじろぐ。でも、天下の小澤征爾のサイン色紙を見て、ある意味安心する。期待が持てそうだ。
石ちゃんとか彦麻呂あたりの色紙だったら、微妙だが、「年老いた文化人枠」お墨付き?とあれば大丈夫だろう。
白焼き丼と鰻重を注文。この店も関西風と聞いていたが、少しは蒸しているのだろうか。いい感じにふっくらだ。ただの直焼きとは違うように感じた。
あちらこちらでウナギを食べているが、この店は相当おいしかったです。前日の膨満感のせいで普通サイズを注文したことを、その後3日間ぐらい後悔したほどウマかった。
香り、食感、タレの味、すべてのバランスが抜群。悶絶したくなる味だった。職場や家の近所にあったら毎日通ってしまうかもしれない。
白焼き丼も格別の味がした。ご飯には普通の鰻重用のたれがすこしまぶしてある。乗っかっている白焼きにはわさび醤油を垂らしながら味わう。相容れないような組み合わせだが、これが中々ウマい。ネギと海苔もトッピングして実に画期的な味わいを楽しめた。
今日、こんな話を書いているだけで、またもやウナギが食べたくなってしまった。中毒性があるのだろうか。
実は、この拙文を書いている途中に無性にウナギが食べたくなって、急きょ職場からタクシーを飛ばして江戸川橋の「はし本」で鰻重をかっ込んできた。
昼だから満腹にならないように普通の鰻重をおとなしく一人前だけささっと食べてきた。総所要時間1時間弱で職場に戻って来られた。バッチグーだ。
どうもこのところのウナギへの偏愛ぶりは病的だ。何かが乗り移ったのだろうか。ちょっと心配だ。
そろそろウナギ供養をウリにしている寺にお参りに行こうかと思っている。
2012年7月23日月曜日
本を読んで絵を見る
読書と絵画鑑賞などというと、ありきたりな釣書に書いてありそうな感じだが、一応、私も読書と絵画鑑賞が好きである。
などと書くと大げさだが、寝る前の読書と暇つぶし?の絵画鑑賞は日常の中で一服の清涼剤になる。
読書といっても、肩の凝らない短編小説とかルポとかをパラパラすることが多い。長編小説は、読み切らずに間が開くとすっかり読んだ部分を忘れちゃうから、一気に読めそうな時だけ手にする。
で、先日読んだ長編小説に魂が震えた話を書く。
長編といっても複数の人物の人生が交錯するオムニバス的な要素もあったので短編を気軽に読み進むような感覚で楽しめた。
楽しめたと書いてみたが、途中からゾッとしたり、うるうるしたり、呆然としたり、何かと心の動きが忙しくなった。
浅田次郎の「降霊会の夜」という作品だ。オカルトとかファンタジーとか、そういうジャンル分けに収まらない人間の葛藤を描いた実に深い内容だった。
本の紹介コピーには「至高の恋愛小説であり、一級の戦争文学であり、極めつきの現代怪異譚――。まさに浅田文学の真骨頂!」とある。
そう言われても分りにくいが、まさにそういうこと。
中年の男がひょんなことから謎めいた女性に連れられて半信半疑で降霊の儀式に臨む。そして男が忘れようとしていた人間達の魂が次から次に男の知らなかった葛藤を語りはじめるというストーリー。
降霊とか霊魂などと書くと一気にありきたりのホラー系、オカルト系を連想させるが、作者の力量のせいで、そんな超自然的な素材でも違和感なく心に染みるストーリーに仕上がっている。
実に面白かった。いや、面白かったという表現は的確ではない。読んでいる最中から、高揚感とか感動とか、そんな普通の感覚では説明しきれない「魂が震えるような感じ」に包まれた。大げさだが、私にとってはそんな印象が強かった。
読み終えた後、深夜なのに部屋で体操してしまった。そうでもしないと何者かに押し潰されそうな変な感覚があった。実に力のある小説だと思った。
「鉄道員(ぽっぽや)」はもちろん、「壬生義士伝」とか「天切り松」とか、ジャンルを問わずに卓越したストーリーテラーぶりを発揮する著者の力量に改めて驚愕の思いだ。
この人の作品のせいで、小説家になりたいという淡い夢をあっさり諦めた人は多いんだろうなあと思う。プロの力量は凄まじい。
本の世界がもたらす一時的なトリップ感覚は麻薬みたいなものだ。自分好みの作品に出会うと純粋にその世界に入り込める。束の間の非日常感は少なからず自分の感性を刺激してくれる。
さて、絵画鑑賞に話題を移す。エラそうに書いているが、芸術的感性などカケラも持ち合わせていないから、絵に関する難しいことはサッパリ分らない。
それでも自分の眼が引き寄せられる作品に出会うと、読書と同じで束の間だが異次元にトリップできる。
前衛絵画はサッパリだし、宗教画も興味ない私としては、ただ単純に分りやすくさりげないトーンの絵が好きだ。
光の明暗を繊細に描いているような作品にはついつい目が向く。昨年パリに行った際にガラにもなく美術館をあれこれめぐったのだが、どうしても光彩の微妙なタッチにばかり興味を持った。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/07/blog-post_20.html
そんな私だから、職場から徒歩5分の所で開催されていたフェルメールの作品展はとても有難かった。この暑い中、遠方まで絵を見に行くのも億劫だし、休日の大混雑もイヤだ。ものぐさ太郎としては平日にちょろっと見に行けたことが何より。
フェルメールの作品展は、昨年秋に京都に行った際に見る機会があった。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/10/blog-post_19.html
今回見た作品群は、「リ・クリエイト」だそうだ。模造、模倣でもなく、洗浄や修復でもないと謳っていたが、あくまでホンモノではない。
最新のデジタル技術を駆使して画家の思いが宿った細部までを表現し直したものだという。なんだかよく分からないが、そういうことらしい。
確かに微妙な色彩や、光の表現が実に美しく感じられた。経年劣化そのものを絵の味わいだと思う人にはダメだろうが、素人である私はこれでもOKだ。
会場での作品解説もiPodが用意されていた。日本でいえば江戸時代の画家の作品が、デジタルの恩恵でイキイキと輝いていた感じ。
何もないキャンバスにあれほど精緻に光の神秘を描いた作品はボケッと見ていても飽きない。白い壁を微妙な白色で描く繊細さも凄いと思う。
2枚目の画像の耳を飾る真珠の光具合も圧巻だ。劣化した絵とは違うデジタル再生ならではの面白さだろう。
ちなみに光にこだわった画家としてはフェルメールよりもレンブラントのほうが印象が強い。奇しくも同じ17世紀オランダで活動していたという共通項がある。
以前、カリブ海からヨーロッパに飛ぶ旅行をした際に、1日だけ立ち寄ったアムステルダムで、眠い目をこすりながらレンブラントの「夜警」を見に行ったことがある。
「明暗の魔術師」が残した想像以上に大きな作品に圧倒された。吸い込まれそうな感覚に陥ったことを覚えている。
小ぶりな作品の中で静かに光線を操ったフェルメール、ドラマチックな作品の中で光と影を描いたレンブラント。それぞれの面白さを気軽に堪能できる現代に生きていることは幸運なのかもしれない。
電気のない時代に生きた二人には、ネオンきらめく現代文明の光がどのように映るのかなどと考えながら見てみるのも楽しい。
なんか陳腐な評論もどきになってしまった。すいません。
いずれにしても、本と絵は、楽しむ上で何も準備も要らず、段取りも不要な手軽なツールであり、束の間でも乾いた日常に潤いを与えてくれる。もっと積極的に楽しまないともったいない気がした。
などと書くと大げさだが、寝る前の読書と暇つぶし?の絵画鑑賞は日常の中で一服の清涼剤になる。
読書といっても、肩の凝らない短編小説とかルポとかをパラパラすることが多い。長編小説は、読み切らずに間が開くとすっかり読んだ部分を忘れちゃうから、一気に読めそうな時だけ手にする。
で、先日読んだ長編小説に魂が震えた話を書く。
長編といっても複数の人物の人生が交錯するオムニバス的な要素もあったので短編を気軽に読み進むような感覚で楽しめた。
楽しめたと書いてみたが、途中からゾッとしたり、うるうるしたり、呆然としたり、何かと心の動きが忙しくなった。
浅田次郎の「降霊会の夜」という作品だ。オカルトとかファンタジーとか、そういうジャンル分けに収まらない人間の葛藤を描いた実に深い内容だった。
本の紹介コピーには「至高の恋愛小説であり、一級の戦争文学であり、極めつきの現代怪異譚――。まさに浅田文学の真骨頂!」とある。
そう言われても分りにくいが、まさにそういうこと。
中年の男がひょんなことから謎めいた女性に連れられて半信半疑で降霊の儀式に臨む。そして男が忘れようとしていた人間達の魂が次から次に男の知らなかった葛藤を語りはじめるというストーリー。
降霊とか霊魂などと書くと一気にありきたりのホラー系、オカルト系を連想させるが、作者の力量のせいで、そんな超自然的な素材でも違和感なく心に染みるストーリーに仕上がっている。
実に面白かった。いや、面白かったという表現は的確ではない。読んでいる最中から、高揚感とか感動とか、そんな普通の感覚では説明しきれない「魂が震えるような感じ」に包まれた。大げさだが、私にとってはそんな印象が強かった。
読み終えた後、深夜なのに部屋で体操してしまった。そうでもしないと何者かに押し潰されそうな変な感覚があった。実に力のある小説だと思った。
「鉄道員(ぽっぽや)」はもちろん、「壬生義士伝」とか「天切り松」とか、ジャンルを問わずに卓越したストーリーテラーぶりを発揮する著者の力量に改めて驚愕の思いだ。
この人の作品のせいで、小説家になりたいという淡い夢をあっさり諦めた人は多いんだろうなあと思う。プロの力量は凄まじい。
本の世界がもたらす一時的なトリップ感覚は麻薬みたいなものだ。自分好みの作品に出会うと純粋にその世界に入り込める。束の間の非日常感は少なからず自分の感性を刺激してくれる。
さて、絵画鑑賞に話題を移す。エラそうに書いているが、芸術的感性などカケラも持ち合わせていないから、絵に関する難しいことはサッパリ分らない。
それでも自分の眼が引き寄せられる作品に出会うと、読書と同じで束の間だが異次元にトリップできる。
前衛絵画はサッパリだし、宗教画も興味ない私としては、ただ単純に分りやすくさりげないトーンの絵が好きだ。
光の明暗を繊細に描いているような作品にはついつい目が向く。昨年パリに行った際にガラにもなく美術館をあれこれめぐったのだが、どうしても光彩の微妙なタッチにばかり興味を持った。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/07/blog-post_20.html
そんな私だから、職場から徒歩5分の所で開催されていたフェルメールの作品展はとても有難かった。この暑い中、遠方まで絵を見に行くのも億劫だし、休日の大混雑もイヤだ。ものぐさ太郎としては平日にちょろっと見に行けたことが何より。
フェルメールの作品展は、昨年秋に京都に行った際に見る機会があった。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/10/blog-post_19.html
今回見た作品群は、「リ・クリエイト」だそうだ。模造、模倣でもなく、洗浄や修復でもないと謳っていたが、あくまでホンモノではない。
最新のデジタル技術を駆使して画家の思いが宿った細部までを表現し直したものだという。なんだかよく分からないが、そういうことらしい。
確かに微妙な色彩や、光の表現が実に美しく感じられた。経年劣化そのものを絵の味わいだと思う人にはダメだろうが、素人である私はこれでもOKだ。
会場での作品解説もiPodが用意されていた。日本でいえば江戸時代の画家の作品が、デジタルの恩恵でイキイキと輝いていた感じ。
何もないキャンバスにあれほど精緻に光の神秘を描いた作品はボケッと見ていても飽きない。白い壁を微妙な白色で描く繊細さも凄いと思う。
2枚目の画像の耳を飾る真珠の光具合も圧巻だ。劣化した絵とは違うデジタル再生ならではの面白さだろう。
ちなみに光にこだわった画家としてはフェルメールよりもレンブラントのほうが印象が強い。奇しくも同じ17世紀オランダで活動していたという共通項がある。
以前、カリブ海からヨーロッパに飛ぶ旅行をした際に、1日だけ立ち寄ったアムステルダムで、眠い目をこすりながらレンブラントの「夜警」を見に行ったことがある。
「明暗の魔術師」が残した想像以上に大きな作品に圧倒された。吸い込まれそうな感覚に陥ったことを覚えている。
小ぶりな作品の中で静かに光線を操ったフェルメール、ドラマチックな作品の中で光と影を描いたレンブラント。それぞれの面白さを気軽に堪能できる現代に生きていることは幸運なのかもしれない。
電気のない時代に生きた二人には、ネオンきらめく現代文明の光がどのように映るのかなどと考えながら見てみるのも楽しい。
なんか陳腐な評論もどきになってしまった。すいません。
いずれにしても、本と絵は、楽しむ上で何も準備も要らず、段取りも不要な手軽なツールであり、束の間でも乾いた日常に潤いを与えてくれる。もっと積極的に楽しまないともったいない気がした。
2012年7月20日金曜日
作詞
アコースティックバンド、略してアコギバンドの練習を少しずつ重ねている。練習といっても、私は演奏するわけではないので、せっせと天使のような美声に磨きをかけるだけだ。
練習のたびにギターを自由自在に奏でる友人の姿を羨ましく感じる。コードを確認したり、ちょっとしたテクニックを確認し合ったり、私の知らない専門用語で語り合っている姿を見ると「仲間に入りてえよ~」とつくづく思う。
中学2年の頃、ギターを始めようと思い立って3日間ぐらいフォークギターを抱えた。独学でやろうと思ったのだが、肝心の調弦っていうのか、いわゆるチューニングが分らない。
そこをすっ飛ばしてかき鳴らしてみても意味はないわけで、文字通り三日坊主で終わった。
今ではギターに取り付けるオートチューナーなる器具があって、簡単に私が挫折した段階をクリアできるらしい。うーん、悔しい。あの頃、そんな便利グッズがあれば今頃は「印税ガッポガポ生活」だったはずだ。
後悔しても仕方がない。こっそりギターを始めてみようかと思案中だ。どこかに私を速攻で上達させてくれる先生はいないだろうか。
プライベートでマンツーマンで1日数時間みっちり何度もレッスンしてくれる優しい先生はいないだろうか。謝礼は弾むつもりだ。
できればエマニエル夫人みたいな人がいい。
いるわけないか。
さて、アコギバンドの話だ。
9月の本番で実際に採用するかどうかは未定だが、オリジナル曲も準備中だ。一応、作詞は不肖この私だ。
子どもの頃ではあるが、作詞家になりたいと淡い夢を描いたこともあったから、よせばいいのにホロ酔いついでに3曲分も作詞してみた。
高校生の頃にも即興バンド用に作詞したことがあるから、エラそうに言えばまったく初めてではない。
ただ、この年になってトライしてみると、韻を踏もうかとか、1番と2番で完璧に言葉数を合わせてみようとか、季節感をどうしようとか、中途半端な大人っぽい?邪念がよぎる。
情熱や勢いでサラサラ~って書き上げたほうがいいのだろうが、さすがに無理な相談だ。なんとか出来あがったが、何となくグっと刺さらない。
何百回、何千回とのたうち回って書けば、そのうちそれっぽくなるかもしれない。
まあ、楽しい作業だったから良しとしよう。
素人作詞を楽しめたのも、あくまでアコギバンドをやると決めて日程も決めて練習回数も限られる状況だからである。
ただ漠然と作詞をしようと思っても無理な相談である。そういう意味では、ひょんなことで始めた「オヤジバンドの効能」に今更ながら驚く。
あせあせと過ぎていく日常の中で、普段とはまったく違う取組みに集中できることは意外に大事だと思う。頭の切り替え、気持ちの切り替えは精神状態の健康さを保つためにも必要だ。
「詩を書く」などというと大げさだが、言葉を選んだり、言葉数を揃えたり、イメージを頭で膨らませたりする作業は、なかなか楽しいマスターベーションの世界である。ボケ防止?にも役立つだろう。
書いてみた3作の詩は、都内某所の坂の名前をタイトルにしたラブソングと、まだまだ枯れちゃいかんと大人の男を激励する詩と、もうひとつが「スパイダーリリー」というタイトルだ。
小っ恥ずかしいから、中身は書かないが、自分としてはイメージした内容に近づいた。
スパイダーリリーとは、南の島でよく見かける妖艶な花で、その姿形と独特な名前が印象的だ。可憐と言うよりどこか怪しげ。
この花をモチーフにエロ系?の歌詞にしてみた。まあ端的に言えば、朝までベッドで情熱的に過ごし、翌日は夜を待てずにまた一戦交えるという内容だ。
もったいぶった感じになってしまったから、恥を忍んで一部だけ抜き出して公開してみる。
♪・・・・
ガムランの響き
風に漂う
甘噛みに肩が染まる
吐息に濡れる夜
つかの間のハイダウェイ
刹那に微笑む共犯者たち
ミスキャストはいらない
溺れていたい
ロータスの花が開くまで
・・・♪
うーん、カタカナばかりのJポップの詩が好きではない私なのだが、結局カタカナが多い。中途半端に媚びているようでダメだ。
エロさも足りない。やはり、まだまだ及び腰だ。ハジけていない。素人特有のヌルい出来だ。
ここで自己分析してみて改めてそう感じる。
正直に言うと、これよりも他の2つの歌詞のほうが自己満足度が高い。なかなかウマく書けたと思う。表現したいことがある程度反映できた。
でも凄く恥ずかしいから内緒にしておく。
いずれにしても、詩を書くことも人様の前で演奏して歌うことも、それ自体が壮大なマスターベーションではある。ならば楽しんだもん勝ちの世界だろう。
バンド名はまだ決まっていないが、候補として浮上したのが「Z’Z」だ。「ジーズ」と読む。いや正確に発音すれば「ジイズ」である。
なんのことはない。語源は「自慰」である。
失礼しました。
練習のたびにギターを自由自在に奏でる友人の姿を羨ましく感じる。コードを確認したり、ちょっとしたテクニックを確認し合ったり、私の知らない専門用語で語り合っている姿を見ると「仲間に入りてえよ~」とつくづく思う。
中学2年の頃、ギターを始めようと思い立って3日間ぐらいフォークギターを抱えた。独学でやろうと思ったのだが、肝心の調弦っていうのか、いわゆるチューニングが分らない。
そこをすっ飛ばしてかき鳴らしてみても意味はないわけで、文字通り三日坊主で終わった。
今ではギターに取り付けるオートチューナーなる器具があって、簡単に私が挫折した段階をクリアできるらしい。うーん、悔しい。あの頃、そんな便利グッズがあれば今頃は「印税ガッポガポ生活」だったはずだ。
後悔しても仕方がない。こっそりギターを始めてみようかと思案中だ。どこかに私を速攻で上達させてくれる先生はいないだろうか。
プライベートでマンツーマンで1日数時間みっちり何度もレッスンしてくれる優しい先生はいないだろうか。謝礼は弾むつもりだ。
できればエマニエル夫人みたいな人がいい。
いるわけないか。
さて、アコギバンドの話だ。
9月の本番で実際に採用するかどうかは未定だが、オリジナル曲も準備中だ。一応、作詞は不肖この私だ。
子どもの頃ではあるが、作詞家になりたいと淡い夢を描いたこともあったから、よせばいいのにホロ酔いついでに3曲分も作詞してみた。
高校生の頃にも即興バンド用に作詞したことがあるから、エラそうに言えばまったく初めてではない。
ただ、この年になってトライしてみると、韻を踏もうかとか、1番と2番で完璧に言葉数を合わせてみようとか、季節感をどうしようとか、中途半端な大人っぽい?邪念がよぎる。
情熱や勢いでサラサラ~って書き上げたほうがいいのだろうが、さすがに無理な相談だ。なんとか出来あがったが、何となくグっと刺さらない。
何百回、何千回とのたうち回って書けば、そのうちそれっぽくなるかもしれない。
まあ、楽しい作業だったから良しとしよう。
素人作詞を楽しめたのも、あくまでアコギバンドをやると決めて日程も決めて練習回数も限られる状況だからである。
ただ漠然と作詞をしようと思っても無理な相談である。そういう意味では、ひょんなことで始めた「オヤジバンドの効能」に今更ながら驚く。
あせあせと過ぎていく日常の中で、普段とはまったく違う取組みに集中できることは意外に大事だと思う。頭の切り替え、気持ちの切り替えは精神状態の健康さを保つためにも必要だ。
「詩を書く」などというと大げさだが、言葉を選んだり、言葉数を揃えたり、イメージを頭で膨らませたりする作業は、なかなか楽しいマスターベーションの世界である。ボケ防止?にも役立つだろう。
書いてみた3作の詩は、都内某所の坂の名前をタイトルにしたラブソングと、まだまだ枯れちゃいかんと大人の男を激励する詩と、もうひとつが「スパイダーリリー」というタイトルだ。
小っ恥ずかしいから、中身は書かないが、自分としてはイメージした内容に近づいた。
スパイダーリリーとは、南の島でよく見かける妖艶な花で、その姿形と独特な名前が印象的だ。可憐と言うよりどこか怪しげ。
この花をモチーフにエロ系?の歌詞にしてみた。まあ端的に言えば、朝までベッドで情熱的に過ごし、翌日は夜を待てずにまた一戦交えるという内容だ。
もったいぶった感じになってしまったから、恥を忍んで一部だけ抜き出して公開してみる。
♪・・・・
ガムランの響き
風に漂う
甘噛みに肩が染まる
吐息に濡れる夜
つかの間のハイダウェイ
刹那に微笑む共犯者たち
ミスキャストはいらない
溺れていたい
ロータスの花が開くまで
・・・♪
うーん、カタカナばかりのJポップの詩が好きではない私なのだが、結局カタカナが多い。中途半端に媚びているようでダメだ。
エロさも足りない。やはり、まだまだ及び腰だ。ハジけていない。素人特有のヌルい出来だ。
ここで自己分析してみて改めてそう感じる。
正直に言うと、これよりも他の2つの歌詞のほうが自己満足度が高い。なかなかウマく書けたと思う。表現したいことがある程度反映できた。
でも凄く恥ずかしいから内緒にしておく。
いずれにしても、詩を書くことも人様の前で演奏して歌うことも、それ自体が壮大なマスターベーションではある。ならば楽しんだもん勝ちの世界だろう。
バンド名はまだ決まっていないが、候補として浮上したのが「Z’Z」だ。「ジーズ」と読む。いや正確に発音すれば「ジイズ」である。
なんのことはない。語源は「自慰」である。
失礼しました。
2012年7月18日水曜日
愚痴です。愚痴。
自分が偏屈になったのか、世の中がおかしいのか、最近どうも気にいらないことが多い。
先日、ぶらぶら歩いていたらカラオケ屋の呼び込みが声をかけてきた。
「カラオケ大丈夫ですか~」。
何じゃそりゃ。初対面の相手からいきなりそんなことを言われて結構たじろいだ。答えようがない。「大丈夫じゃないです」って答えないとイカンのだろうか。
日本語としてどうなのだろう。私の理解を超えている。イマドキの日本語はそういう言い回しが普通なのだろうか。
そのうち、繁華街の風俗の呼び込みも「オッパイとか大丈夫ですか~」って聞いてくるようになるのだろうか。頭が痛い。
コンビニや飲食店店員のわけの分らん変な日本語遣いには随分なれてきたが、そうやって言葉は変わっていくのだろうか。
言葉遣いだけでなく、どうも世の中の「思考停止」が気になる場面も多い。判断力が無いとうか、自分で判断する習慣が無いというか、いっぱしの大人のバカな態度に驚くことが多い。
節電と言われれば、死にかけるまで暑さを我慢したり、必要な灯りの区別もつかずにただただスイッチを消していく。
レストランでも1~2品しか頼んでないのに、「ご注文繰り返します」とか言って高らかに反復される。「ハイ、間違いございません。よく覚えましたね、ブラボー!」とか言わないといけないのだろうか。
臨機応変っていう感覚が世の中から消えていっているのだろうか。先日もFacebookを見ていたら、倒れていた人を見つけて、クルマを止めて救助した人に対して、駐車違反の反則切符が切られたという話を聞いた。バカは楽でいいだろうが、バカのせいで世の中が殺伐としてしまう。
他にもいろいろある。
少しばかり自分よりエライ人の言葉を無条件に信じる。怪しい権威を絶対的なものとして疑わない。
特売だセールだと言われれば要らないモノまで買って喜ぶ。韓流スターなら誰でも構わないオバサン。AKBがすべった転んだで人生を傾ける若者。
うん?話がそれてきたか。
全然話は変わるが、先日もいっぱしの大人のダメさにあきれた。
某レストランでの話。普段は愛煙家に優しい店なのだが、一定の時間は禁煙になる。当然、それを守って過ごしていたのだが、閉店間際になって他の客が全部帰ったタイミングで灰皿を持ってきてくれるように頼んだ。
その店員さん、これが判断できない。誰かに確認に走る。考える習慣がないのだろうか。誰かに聞かないと何も出来ない。昨日今日働き始めた人ならともかく、結構な大人だったから、ありゃダメだろう。
関西電力が原発を稼動させた代わりに火力発電を停止させたらしい。アホじゃなかろうか。いや純粋なアホだ。あれも一種の思考停止だろう。
調子づいてる野田さんは、次期衆院選マニフェストに消費税増税を改めて盛り込むそうだ。それに同意しない議員はマニフェストを守れないヤツとして公認しないそうだ。
自らマニフェストを無視しまっくてきたクセに、いまさらマニフェスト原理主義ぶっている。喜劇を通り越して悲劇だな。
大阪の橋下さん人気も熱病みたいなものだろう。是々非々という判断力を働かせて彼の言動を見ている人がどれだけいるのだろう。
閉そく感打破のために期待が集まるのは無理もないが、全面的無条件完全支持みたいな空気はいかがなもんだろう。
パンダの赤ちゃんが死んでしまった。悲しい話だけど日本中で大騒ぎする話だろうか。それを言うなら動物園で飼うことや親善の道具として海外にまで出稼ぎさせることは問題ないのだろうか。
イヤミみたいになっちゃうが、個人的には新潟のトキの繁殖のほうが気になる。パンダに比べてトキは顔がブサイクだから騒いでもらえないのだろうか。
いかんいかん、こんなコトばかり書くとこのブログも荒れてしまうかも。
そういえばネットの世界での「荒らし」なるものも不気味だ。鬼の首でもとったように個人の考えや意見が全否定される。もちろん、極端に非人道的な主張は非難されるべきだが、集団ヒステリーみたいに熱気を帯びると気持ち悪い。
最大公約数的かつ無難な落としどころで結論づける大新聞やテレビの報道と同様に、ネット社会の言論まで荒らしを恐れるあまりに当たり障りのないものになっていくのだろうか。面白くない。
世の中、すべて表と裏があって、立ち位置によって見方や解釈の仕方は違って当然だ。だからこそ個性的な意見や少数意見が抹殺されることは危険なことだと思う。
テレビをつければ相変わらずしょうもないバラエティー番組ばかり。需要があるなら別に構わないが、あまりにも多過ぎると思う。本当に面白いと思って見ている人はどれだけいるのだろう。
ただ漫然と何の気ナシに見ている人ばかりなら、それこそ節電のためにヤメちまえばいいと思う。
私自身がいまだにスマホを持っていないから、半分ヤッカミ?で言うのだが、いっぱしのオジサンがあんな機械に魂を奪われたみたいにニラメッコしながらゴッツイ手でちょちょろイジリまわしている姿は、それこそスマートではない。
着メロとかに凝りすぎる大人の男も気持ち悪い。近頃の男性の中世化を象徴しているように思う。
男性の中世化は、子どもの学校行事に命懸け?で駆け付ける働き盛りのお父さんの多さを見ればよく分かる。
運動会や参観日ぐらいは参加するのが普通だろうが、どうでもいい細かい行事にまで仕事を休んで参加する。おまけに率先して皆さんの前で持論を展開して喜んでいたりする。そんなにお母さん役を担いたいのだろうか。
こんなこと書いている私のほうが時代からズレまくっているのだろうか。時々妙に不安になる。
全然話は違うのだが、いつだったか、製造者責任法、いわゆるPL法が出来てから、世の中すべてが手取り足取りお節介になっていったような記憶がある。カップ麺のフタにいちいち「やけどに注意」とか書かれるようになったのもPL法がきっかけだった。
便利になった分、一生懸命考えなくても何でもかんでもシステマチックに進むようになってきたのかもしれない。良いことなのかどうなのか微妙な感じだ。
いやあ、それにしても結論のない話をダラダラ書き殴ってしまった。まったくもってスイマセンです。あくまで個人的な愚痴ですので悪しからず。
先日、ぶらぶら歩いていたらカラオケ屋の呼び込みが声をかけてきた。
「カラオケ大丈夫ですか~」。
何じゃそりゃ。初対面の相手からいきなりそんなことを言われて結構たじろいだ。答えようがない。「大丈夫じゃないです」って答えないとイカンのだろうか。
日本語としてどうなのだろう。私の理解を超えている。イマドキの日本語はそういう言い回しが普通なのだろうか。
そのうち、繁華街の風俗の呼び込みも「オッパイとか大丈夫ですか~」って聞いてくるようになるのだろうか。頭が痛い。
コンビニや飲食店店員のわけの分らん変な日本語遣いには随分なれてきたが、そうやって言葉は変わっていくのだろうか。
言葉遣いだけでなく、どうも世の中の「思考停止」が気になる場面も多い。判断力が無いとうか、自分で判断する習慣が無いというか、いっぱしの大人のバカな態度に驚くことが多い。
節電と言われれば、死にかけるまで暑さを我慢したり、必要な灯りの区別もつかずにただただスイッチを消していく。
レストランでも1~2品しか頼んでないのに、「ご注文繰り返します」とか言って高らかに反復される。「ハイ、間違いございません。よく覚えましたね、ブラボー!」とか言わないといけないのだろうか。
臨機応変っていう感覚が世の中から消えていっているのだろうか。先日もFacebookを見ていたら、倒れていた人を見つけて、クルマを止めて救助した人に対して、駐車違反の反則切符が切られたという話を聞いた。バカは楽でいいだろうが、バカのせいで世の中が殺伐としてしまう。
他にもいろいろある。
少しばかり自分よりエライ人の言葉を無条件に信じる。怪しい権威を絶対的なものとして疑わない。
特売だセールだと言われれば要らないモノまで買って喜ぶ。韓流スターなら誰でも構わないオバサン。AKBがすべった転んだで人生を傾ける若者。
うん?話がそれてきたか。
全然話は変わるが、先日もいっぱしの大人のダメさにあきれた。
某レストランでの話。普段は愛煙家に優しい店なのだが、一定の時間は禁煙になる。当然、それを守って過ごしていたのだが、閉店間際になって他の客が全部帰ったタイミングで灰皿を持ってきてくれるように頼んだ。
その店員さん、これが判断できない。誰かに確認に走る。考える習慣がないのだろうか。誰かに聞かないと何も出来ない。昨日今日働き始めた人ならともかく、結構な大人だったから、ありゃダメだろう。
関西電力が原発を稼動させた代わりに火力発電を停止させたらしい。アホじゃなかろうか。いや純粋なアホだ。あれも一種の思考停止だろう。
調子づいてる野田さんは、次期衆院選マニフェストに消費税増税を改めて盛り込むそうだ。それに同意しない議員はマニフェストを守れないヤツとして公認しないそうだ。
自らマニフェストを無視しまっくてきたクセに、いまさらマニフェスト原理主義ぶっている。喜劇を通り越して悲劇だな。
大阪の橋下さん人気も熱病みたいなものだろう。是々非々という判断力を働かせて彼の言動を見ている人がどれだけいるのだろう。
閉そく感打破のために期待が集まるのは無理もないが、全面的無条件完全支持みたいな空気はいかがなもんだろう。
パンダの赤ちゃんが死んでしまった。悲しい話だけど日本中で大騒ぎする話だろうか。それを言うなら動物園で飼うことや親善の道具として海外にまで出稼ぎさせることは問題ないのだろうか。
イヤミみたいになっちゃうが、個人的には新潟のトキの繁殖のほうが気になる。パンダに比べてトキは顔がブサイクだから騒いでもらえないのだろうか。
いかんいかん、こんなコトばかり書くとこのブログも荒れてしまうかも。
そういえばネットの世界での「荒らし」なるものも不気味だ。鬼の首でもとったように個人の考えや意見が全否定される。もちろん、極端に非人道的な主張は非難されるべきだが、集団ヒステリーみたいに熱気を帯びると気持ち悪い。
最大公約数的かつ無難な落としどころで結論づける大新聞やテレビの報道と同様に、ネット社会の言論まで荒らしを恐れるあまりに当たり障りのないものになっていくのだろうか。面白くない。
世の中、すべて表と裏があって、立ち位置によって見方や解釈の仕方は違って当然だ。だからこそ個性的な意見や少数意見が抹殺されることは危険なことだと思う。
テレビをつければ相変わらずしょうもないバラエティー番組ばかり。需要があるなら別に構わないが、あまりにも多過ぎると思う。本当に面白いと思って見ている人はどれだけいるのだろう。
ただ漫然と何の気ナシに見ている人ばかりなら、それこそ節電のためにヤメちまえばいいと思う。
私自身がいまだにスマホを持っていないから、半分ヤッカミ?で言うのだが、いっぱしのオジサンがあんな機械に魂を奪われたみたいにニラメッコしながらゴッツイ手でちょちょろイジリまわしている姿は、それこそスマートではない。
着メロとかに凝りすぎる大人の男も気持ち悪い。近頃の男性の中世化を象徴しているように思う。
男性の中世化は、子どもの学校行事に命懸け?で駆け付ける働き盛りのお父さんの多さを見ればよく分かる。
運動会や参観日ぐらいは参加するのが普通だろうが、どうでもいい細かい行事にまで仕事を休んで参加する。おまけに率先して皆さんの前で持論を展開して喜んでいたりする。そんなにお母さん役を担いたいのだろうか。
こんなこと書いている私のほうが時代からズレまくっているのだろうか。時々妙に不安になる。
全然話は違うのだが、いつだったか、製造者責任法、いわゆるPL法が出来てから、世の中すべてが手取り足取りお節介になっていったような記憶がある。カップ麺のフタにいちいち「やけどに注意」とか書かれるようになったのもPL法がきっかけだった。
便利になった分、一生懸命考えなくても何でもかんでもシステマチックに進むようになってきたのかもしれない。良いことなのかどうなのか微妙な感じだ。
いやあ、それにしても結論のない話をダラダラ書き殴ってしまった。まったくもってスイマセンです。あくまで個人的な愚痴ですので悪しからず。
2012年7月13日金曜日
ジャンク万歳
ジャンクフードの定義はよく分からないが、端的に言って、テキトーな素材をそれっぽく、かつ安く食べさせるものだろう。
言ってみればフツーの人がフツーに日常食べているものの多くがジャンク系だと言うことも出来る。
高名な料理評論家とかレストラン批評家などもジャンクフードを食べているのだろうが、やれペヤングがウマいとか、やれフィレオフィッシュのタルタルソースは最高だか、生卵かけご飯は生卵のデロデロ部分を捨てるべきだという話を一向に聞かない。不思議だ。
私もジャンク系は大好きだ。コンビニで売っている得体の知れない肉を使っていそうなフランクフルトとかも喜んで買うし、マックのポテトをバニラシェイクと混ぜて食べたりもする。
あまったソーメンを油で炒めてウスターソースをかけて食べるのも大好きだ。
ジャンクというには少し気の毒だが、ビアガーデンのつまみなんかも安っぽい味がすればするほど不思議とワクワクする。
先日、銀座7丁目の「文化財」であるサッポロライオンにビールを飲みに行った時もついつい余計なモノをたくさん注文した。
場所柄と伝統のせいもあってイマドキの格安居酒屋よりはよほど高いのだが、グルメ評論なんかとは無縁という意味では、ジャンクに近い位置付けだろう。
上から紙カツ、チキンライス、塩焼きそばだ。それ以外にはソーセージとか枝豆とか定番系もワシワシ食べた。ローストビーフも価格を抑える意味もあってか、ちっとも脂っぽくない。かえってオッサンには好都合だった。
ビールを飲みたいオヤジを唸らせる昭和ジャンクの殿堂みたいなメニューがやたら楽しい。
スーパーモデルのヌードよりも隣に住んでるオネエサンのパンチラのほうがワクワクするのと似ている。
気取ったレストランで、平たく言えばカツのくせして得体の知れないソースが勿体ぶってかかっている料理より、ウスター、中濃、トンカツソースを好き放題使える店のほうが有難い。
フツーの偉大さとでも言おうか。スーパーモデルの脚線美より、電車で向かい側に座っているお姉さんの太もものほうがイタズラしたくなる心理とでも言おうか。
そんな感じだ。
さて話は変わる。
ジャンクの世界では見かけない「上質な素材」に出会うためには、それなりの路線の店に行く必要がある。素材そのものをストレートに楽しむような料理なら、それなりの出費も伴う。
先日ふらっと立ち寄った赤坂の肉料理店は、希少な肉の部位をあれこれ揃える面白い店だった。
店の名前は「金舌」。結構な人気店のようだ。偶然入ったのだが、肉をやたらと自慢気に出してくる。
正直、ぶっ飛ぶほど凄い肉を出しているとは思わなかったが、さすがに全部ウマかった。
カイノミ、トモサンカクに続いてはハツだ。
最初の2品は、脇の下だとかモモの中のどこかだとか言われた気がする。
味付けは基本的に塩だけ。韓国系焼肉屋のようにタレ風味を楽しませる路線とは違って肉そのものを堪能させる感じ。
前菜代わりの牛タンの刺身てっさ風もウマかったし、ユッケ三種盛りも良かった。ひとつは生卵の黄身ではなく生ウニがトッピングされており、ユッケと混ぜ合わせると中々官能的な味わいだった
熟成したタンを茹でた一品もホロホロとした食感がよかった。
ハイライトはレバだ。レバ刺しと書いてもいいのだろうが、一応、時節柄、石焼用に熱した石が別途用意される。メニューの上では「レバ焼き」だ。
禁止になるまで大好評だったレバ刺しと同様のものだそうだ。まさに「焼け石にナントカ」みたいな説明を受ける。
要は表面を焼いて食えという趣旨だが、上質なレバーを良く焼くのもバカらしい。軽く炙るか、炙る真似事をして食べればいいだけの話だ。自己責任だ。
で、自分流に食べてみた。久々にウマいレバ刺しを食った気がした。
このお店、なかなかの価格設定だが、結構お客さんは入っていた。確かに焼肉屋とかステーキ屋でどかんと肉を出されるより、ちょこちょこと珍しい部位を少しづつ食べられるから、胃腸の疲れたオトナには使い勝手がいいのだろう。
まあ、そうは言っても、レバとかハツとか、タンとか、そのほかハラミなんかもそうだが、その手の部位はしょせんは高値で取引される高級肉とは違って内臓系である。
いわば肉業界?におけるジャンクだ。あんまり仰々しく食べるものでもないと思う。
と、偉そうに書いてみたが、ジャンク系内臓モノのほうが高価な肉より美味しく感じてしまう私であった。
ジャンク万歳である。
言ってみればフツーの人がフツーに日常食べているものの多くがジャンク系だと言うことも出来る。
高名な料理評論家とかレストラン批評家などもジャンクフードを食べているのだろうが、やれペヤングがウマいとか、やれフィレオフィッシュのタルタルソースは最高だか、生卵かけご飯は生卵のデロデロ部分を捨てるべきだという話を一向に聞かない。不思議だ。
私もジャンク系は大好きだ。コンビニで売っている得体の知れない肉を使っていそうなフランクフルトとかも喜んで買うし、マックのポテトをバニラシェイクと混ぜて食べたりもする。
あまったソーメンを油で炒めてウスターソースをかけて食べるのも大好きだ。
ジャンクというには少し気の毒だが、ビアガーデンのつまみなんかも安っぽい味がすればするほど不思議とワクワクする。
先日、銀座7丁目の「文化財」であるサッポロライオンにビールを飲みに行った時もついつい余計なモノをたくさん注文した。
場所柄と伝統のせいもあってイマドキの格安居酒屋よりはよほど高いのだが、グルメ評論なんかとは無縁という意味では、ジャンクに近い位置付けだろう。
上から紙カツ、チキンライス、塩焼きそばだ。それ以外にはソーセージとか枝豆とか定番系もワシワシ食べた。ローストビーフも価格を抑える意味もあってか、ちっとも脂っぽくない。かえってオッサンには好都合だった。
ビールを飲みたいオヤジを唸らせる昭和ジャンクの殿堂みたいなメニューがやたら楽しい。
スーパーモデルのヌードよりも隣に住んでるオネエサンのパンチラのほうがワクワクするのと似ている。
気取ったレストランで、平たく言えばカツのくせして得体の知れないソースが勿体ぶってかかっている料理より、ウスター、中濃、トンカツソースを好き放題使える店のほうが有難い。
フツーの偉大さとでも言おうか。スーパーモデルの脚線美より、電車で向かい側に座っているお姉さんの太もものほうがイタズラしたくなる心理とでも言おうか。
そんな感じだ。
さて話は変わる。
ジャンクの世界では見かけない「上質な素材」に出会うためには、それなりの路線の店に行く必要がある。素材そのものをストレートに楽しむような料理なら、それなりの出費も伴う。
先日ふらっと立ち寄った赤坂の肉料理店は、希少な肉の部位をあれこれ揃える面白い店だった。
店の名前は「金舌」。結構な人気店のようだ。偶然入ったのだが、肉をやたらと自慢気に出してくる。
正直、ぶっ飛ぶほど凄い肉を出しているとは思わなかったが、さすがに全部ウマかった。
カイノミ、トモサンカクに続いてはハツだ。
最初の2品は、脇の下だとかモモの中のどこかだとか言われた気がする。
味付けは基本的に塩だけ。韓国系焼肉屋のようにタレ風味を楽しませる路線とは違って肉そのものを堪能させる感じ。
前菜代わりの牛タンの刺身てっさ風もウマかったし、ユッケ三種盛りも良かった。ひとつは生卵の黄身ではなく生ウニがトッピングされており、ユッケと混ぜ合わせると中々官能的な味わいだった
熟成したタンを茹でた一品もホロホロとした食感がよかった。
ハイライトはレバだ。レバ刺しと書いてもいいのだろうが、一応、時節柄、石焼用に熱した石が別途用意される。メニューの上では「レバ焼き」だ。
禁止になるまで大好評だったレバ刺しと同様のものだそうだ。まさに「焼け石にナントカ」みたいな説明を受ける。
要は表面を焼いて食えという趣旨だが、上質なレバーを良く焼くのもバカらしい。軽く炙るか、炙る真似事をして食べればいいだけの話だ。自己責任だ。
で、自分流に食べてみた。久々にウマいレバ刺しを食った気がした。
このお店、なかなかの価格設定だが、結構お客さんは入っていた。確かに焼肉屋とかステーキ屋でどかんと肉を出されるより、ちょこちょこと珍しい部位を少しづつ食べられるから、胃腸の疲れたオトナには使い勝手がいいのだろう。
まあ、そうは言っても、レバとかハツとか、タンとか、そのほかハラミなんかもそうだが、その手の部位はしょせんは高値で取引される高級肉とは違って内臓系である。
いわば肉業界?におけるジャンクだ。あんまり仰々しく食べるものでもないと思う。
と、偉そうに書いてみたが、ジャンク系内臓モノのほうが高価な肉より美味しく感じてしまう私であった。
ジャンク万歳である。
2012年7月11日水曜日
脳ミソは大丈夫か
20代の頃、そんなに長い期間ではなかったが、物凄く仕事が忙しかった時期があった。平日は深夜まで働き、週末も出社してシコシコと追いつかない作業に励んでいた。
謙遜でも何でもなく、能力の無さ、経験の無さが多分に影響していた。ただ、あの頃のおかげで、早い時期に要領とか効率性を覚えることが出来たと思う。
がむしゃらさと要領。どちらが尊いとは一概に言えないが、適度に両方をミックスできれば間違いないのだろう。
多忙だった頃、自分の頭の中には仕事のことしかなかった。プライベートの友人と会っても話題に乏しかった。仕事人間なんてちっとも格好いいと思わなかったから、自分のその現実がイヤでたまらなかった。
将来は引き出しの多い、多趣味で味わいのあるオッサンになりたいと心から願っていた。
そして20年ぐらい経ったいま、ちっとも仕事の話をしなくなってしまった。これまた極端である。いかがなものかと最近ちょっと苦悶中だ。
このブログを、何の気ナシに読み返していたら、仕事の話題なんてありゃしない。遊んでばかりだ。少し自己嫌悪だ。
まあ、ブログというエンタメ?の世界だから仕事の話題はあえて避けているのだが、もうちょっと堅いことも取り上げるべきではなかろうか。
いや、それはそれで違う場所で表現すればいいだろうとか、どうでもいいことを考えている。
憧れていた「引き出しの多い味わい深い男」になれたとは到底思えない。年々、偏屈さだけが積み重なり、自分の殻の中で凝り固まった観念だけがすべての基準になってしまっている。
新しい世界を覗く好奇心とか冒険心が足りない。これってスマートな男と意固地な男を分ける大事な境界線だと思う。
さて、ここまで書いてきて、一体何を書きたいのか分からなくなってきた。
最近、どうも脳ミソの調子がよろしくない。人と喋っていても、ああだのこうだの言った後に話の着地点がまるでピント外れになっていたりする。
いよいよ錯乱が始まったのだろうか。
肉体疲労とか精神的な疲れとか、そういう感覚ではない。何となく脳ミソが疲れている感じとでも言おうか。
きっと頭が良すぎるんだろうなあ!?。だからグルグルと脳が動き回り、変な疲れにつながるのだろう。いや、バカすぎて不必要なことを考えすぎているだけだろう。
寝ている時も変な夢、それも決まってアセアセしたりハラハラするような夢を見る。困ったものだ。脳ミソ更年期なんだろうか。
先日、子どもの関連で心理療法士と面談するハメになった。あの手のカウンセリングみたいなものは、自発的にそれを求めてこそ意味がある。一応あれこれ話してみたが、正直、無意味な時間だった。
お相手には悪いが、そこで話すことの意味をしつこく尋ねたり、その時間を割いたこと自体が腹立たしいという話ばかり繰り返して帰ってきてしまった。
友達でもない人にシタリ顔でいろいろ言われるのは誰だって苦手だろう。いくら私がドMだからといってもちっとも楽しくなかった。
寝ている間も含めて40何年も動かし続けてきたら、そりゃあ脳ミソだってくたびれる。
おまけに日頃から上手にウソをついたり、その上塗りのために辻褄を合わせる作業に24時間態勢でフル回転だ。
アインシュタイン並みの私の脳ミソもさすがにバテるのだろう。ご苦労なことだ。
ちなみに、ボーっとする時間が好きで、南の島に行ったりすると海を見ながらボーっと過ごしたりする。
この場合の「ボーっ」は自らの意思で積極的に展開する「ボーっ」だからリフレッシュに効果的だ。
自発的な「ボーっ」であれば問題はないのだが、最近はちょっとニュアンスが異なる「ボケっ」とする場面が増えてきた。
気付けば「ボケっ」と過ごしている。運転していても信号待ちの先頭で、束の間、異次元に飛んでいる。後ろのクルマからクラクションを鳴らされて現世?に戻ることもしばしばだ。
「ボケっ」というより「ポカン」と表現したほうがいいかもしれない。一対一で話していても相手の話を聞き返すことも増えた。ちょっとマズい。
何か活字にしてみると深刻みたいだが、きっとクーラー病か、ただの寝不足だろう。そういうことにしておく。
いずれにしても、どうでもいいことでクヨクヨしたり、どうにもならないことを考えすぎたり、そんなちょっとしたことから精神が壊れたり、ウツっぽくなっていくんだろうなあ。
まあ、そんな分析をダラダラ書いているようなら極めて健康だろう。屁のカッパだ。
謙遜でも何でもなく、能力の無さ、経験の無さが多分に影響していた。ただ、あの頃のおかげで、早い時期に要領とか効率性を覚えることが出来たと思う。
がむしゃらさと要領。どちらが尊いとは一概に言えないが、適度に両方をミックスできれば間違いないのだろう。
多忙だった頃、自分の頭の中には仕事のことしかなかった。プライベートの友人と会っても話題に乏しかった。仕事人間なんてちっとも格好いいと思わなかったから、自分のその現実がイヤでたまらなかった。
将来は引き出しの多い、多趣味で味わいのあるオッサンになりたいと心から願っていた。
そして20年ぐらい経ったいま、ちっとも仕事の話をしなくなってしまった。これまた極端である。いかがなものかと最近ちょっと苦悶中だ。
このブログを、何の気ナシに読み返していたら、仕事の話題なんてありゃしない。遊んでばかりだ。少し自己嫌悪だ。
まあ、ブログというエンタメ?の世界だから仕事の話題はあえて避けているのだが、もうちょっと堅いことも取り上げるべきではなかろうか。
いや、それはそれで違う場所で表現すればいいだろうとか、どうでもいいことを考えている。
憧れていた「引き出しの多い味わい深い男」になれたとは到底思えない。年々、偏屈さだけが積み重なり、自分の殻の中で凝り固まった観念だけがすべての基準になってしまっている。
新しい世界を覗く好奇心とか冒険心が足りない。これってスマートな男と意固地な男を分ける大事な境界線だと思う。
さて、ここまで書いてきて、一体何を書きたいのか分からなくなってきた。
最近、どうも脳ミソの調子がよろしくない。人と喋っていても、ああだのこうだの言った後に話の着地点がまるでピント外れになっていたりする。
いよいよ錯乱が始まったのだろうか。
肉体疲労とか精神的な疲れとか、そういう感覚ではない。何となく脳ミソが疲れている感じとでも言おうか。
きっと頭が良すぎるんだろうなあ!?。だからグルグルと脳が動き回り、変な疲れにつながるのだろう。いや、バカすぎて不必要なことを考えすぎているだけだろう。
寝ている時も変な夢、それも決まってアセアセしたりハラハラするような夢を見る。困ったものだ。脳ミソ更年期なんだろうか。
先日、子どもの関連で心理療法士と面談するハメになった。あの手のカウンセリングみたいなものは、自発的にそれを求めてこそ意味がある。一応あれこれ話してみたが、正直、無意味な時間だった。
お相手には悪いが、そこで話すことの意味をしつこく尋ねたり、その時間を割いたこと自体が腹立たしいという話ばかり繰り返して帰ってきてしまった。
友達でもない人にシタリ顔でいろいろ言われるのは誰だって苦手だろう。いくら私がドMだからといってもちっとも楽しくなかった。
寝ている間も含めて40何年も動かし続けてきたら、そりゃあ脳ミソだってくたびれる。
おまけに日頃から上手にウソをついたり、その上塗りのために辻褄を合わせる作業に24時間態勢でフル回転だ。
アインシュタイン並みの私の脳ミソもさすがにバテるのだろう。ご苦労なことだ。
ちなみに、ボーっとする時間が好きで、南の島に行ったりすると海を見ながらボーっと過ごしたりする。
この場合の「ボーっ」は自らの意思で積極的に展開する「ボーっ」だからリフレッシュに効果的だ。
自発的な「ボーっ」であれば問題はないのだが、最近はちょっとニュアンスが異なる「ボケっ」とする場面が増えてきた。
気付けば「ボケっ」と過ごしている。運転していても信号待ちの先頭で、束の間、異次元に飛んでいる。後ろのクルマからクラクションを鳴らされて現世?に戻ることもしばしばだ。
「ボケっ」というより「ポカン」と表現したほうがいいかもしれない。一対一で話していても相手の話を聞き返すことも増えた。ちょっとマズい。
何か活字にしてみると深刻みたいだが、きっとクーラー病か、ただの寝不足だろう。そういうことにしておく。
いずれにしても、どうでもいいことでクヨクヨしたり、どうにもならないことを考えすぎたり、そんなちょっとしたことから精神が壊れたり、ウツっぽくなっていくんだろうなあ。
まあ、そんな分析をダラダラ書いているようなら極めて健康だろう。屁のカッパだ。
2012年7月9日月曜日
初物食い
俗に言う「初物食い」に躍起になるのは東京人の習慣だと聞いたことがある。本当だろうか。
初物食いと言っても、エッチなことを想像してはいけない(誰も想像してないか)。なかには、そっち方面に血眼になっている御仁もいるが、私にはそんな趣味はない。イタイケな少女なんてメンドーだし、ちっとも楽しくない。
おっと、話が最初からそれてしまった。
食べ物の話を書くつもりだった。
江戸時代、江戸っ子気質のせいであらゆる初物食いがエンターテイメント化?したそうだ。
初鰹のバカ騒ぎを筆頭に、茄子などの野菜、新蕎麦とか出始めの松茸、はたまた新茶や新海苔などなど、いちいち我先を争って食べたそうだ。
大阪あたりでは、江戸のような狂騒曲はなかったそうで、江戸っ子のせっかちな感じと見栄っ張りを反映しているようで面白い。
かくいう私も生粋の東京人だ。躍起になるほどではないが、初物には確かにビビッと反応してしまう。
もっとも、宗教上の理由で野菜は食べてはいけないので、もっぱら目が向くのは魚介類だ。
寒い時期のスターである白子とかアンキモあたりと疎遠になる季節が来ると、初物食いが楽しみになる。
この時期のシンコ、その後に出てくる新イカ、夏の盛りから後半に出てくる生のイクラなども出回り始めるとヤイノヤイノ言いながら食べている。
コハダの子どもであるシンコは、その食感がすべてだろう。赤ちゃんの肌を連想させる。未成熟なモノを食べてしまう背徳感がまたいい。
つくづく残酷だと思うが、仕方あるまい。シンコが出てくる季節のコハダも大ぶりになってウマい。細切りにしてガリと大葉なんかと混ぜ合わせると爽やかな酒肴になる。
シンコの画像は、高田馬場・鮨源でウホウホ食べた時のもの。上の画像は6月の終わり頃。シンコが小さすぎて握り1貫につき6~7枚付けだったが、10日ほど経った下の画像では4枚付けになっていた。
小さすぎると食感を楽しむほどではない。純粋に初物を喜ぶことだけが目的みたいな感じ。3~4枚付けのサイズになるとシンコ独特のあの舌触り、あの罪悪感を楽しめる。
これから、ずんずん大きくなっていくから、四の五の言ったり書いたりしている暇があったら、黙々とお寿司屋さん通いに勤しむべきだろう。そうすることにする。
流通事情や養殖事情が進化したせいで、季節感とか旬が曖昧になっているのが、いまどきの食事情の特徴だろう。
偉そうに書いている私自身、旬が分かっていないものがたくさんある。まあ、実際生産地が変われば旬が異なることもある。かたくなに昔からの定説ばかりを信じ込んでもスマートではない。
それでも、シンコとか新イカみたいな季節限定品というか、生き物の生殖サイクルの神秘がもたらす初物には妙にアンテナが反応してしまう。
初物食いは寿命が延びるという言い伝えもあるから、日頃不摂生の塊である私としては、せっせと「江戸っ子の見栄っ張り」に精を出すとしよう。
初物食いと言っても、エッチなことを想像してはいけない(誰も想像してないか)。なかには、そっち方面に血眼になっている御仁もいるが、私にはそんな趣味はない。イタイケな少女なんてメンドーだし、ちっとも楽しくない。
おっと、話が最初からそれてしまった。
食べ物の話を書くつもりだった。
江戸時代、江戸っ子気質のせいであらゆる初物食いがエンターテイメント化?したそうだ。
初鰹のバカ騒ぎを筆頭に、茄子などの野菜、新蕎麦とか出始めの松茸、はたまた新茶や新海苔などなど、いちいち我先を争って食べたそうだ。
大阪あたりでは、江戸のような狂騒曲はなかったそうで、江戸っ子のせっかちな感じと見栄っ張りを反映しているようで面白い。
かくいう私も生粋の東京人だ。躍起になるほどではないが、初物には確かにビビッと反応してしまう。
もっとも、宗教上の理由で野菜は食べてはいけないので、もっぱら目が向くのは魚介類だ。
寒い時期のスターである白子とかアンキモあたりと疎遠になる季節が来ると、初物食いが楽しみになる。
この時期のシンコ、その後に出てくる新イカ、夏の盛りから後半に出てくる生のイクラなども出回り始めるとヤイノヤイノ言いながら食べている。
コハダの子どもであるシンコは、その食感がすべてだろう。赤ちゃんの肌を連想させる。未成熟なモノを食べてしまう背徳感がまたいい。
つくづく残酷だと思うが、仕方あるまい。シンコが出てくる季節のコハダも大ぶりになってウマい。細切りにしてガリと大葉なんかと混ぜ合わせると爽やかな酒肴になる。
シンコの画像は、高田馬場・鮨源でウホウホ食べた時のもの。上の画像は6月の終わり頃。シンコが小さすぎて握り1貫につき6~7枚付けだったが、10日ほど経った下の画像では4枚付けになっていた。
小さすぎると食感を楽しむほどではない。純粋に初物を喜ぶことだけが目的みたいな感じ。3~4枚付けのサイズになるとシンコ独特のあの舌触り、あの罪悪感を楽しめる。
これから、ずんずん大きくなっていくから、四の五の言ったり書いたりしている暇があったら、黙々とお寿司屋さん通いに勤しむべきだろう。そうすることにする。
流通事情や養殖事情が進化したせいで、季節感とか旬が曖昧になっているのが、いまどきの食事情の特徴だろう。
偉そうに書いている私自身、旬が分かっていないものがたくさんある。まあ、実際生産地が変われば旬が異なることもある。かたくなに昔からの定説ばかりを信じ込んでもスマートではない。
それでも、シンコとか新イカみたいな季節限定品というか、生き物の生殖サイクルの神秘がもたらす初物には妙にアンテナが反応してしまう。
初物食いは寿命が延びるという言い伝えもあるから、日頃不摂生の塊である私としては、せっせと「江戸っ子の見栄っ張り」に精を出すとしよう。
2012年7月6日金曜日
エセグルメ道を生きる
このブログでもそうだが、Facebookでも頻繁に食べたものの画像をアップしているせいで、世の中には、私を結構な美食家と思い込んでいる人がいる。
大いなる誤解である。
強いて言えばマズいものは食べたくないが、そんなことは誰もが思っていることである。
ウマいものがあれば例え遠距離でもせっせと通って食すようなマメさは微塵もない。あくまで自分の行動半径の中で、その時々に無性に食べたくなったものを頬ばるだけである。
大のオトナがコンビニ飯を食ってはいかんという声がある。至極ごもっともだし、時には私も会社の部下にそんなことを言う。
そのくせ、週に2度3度と昼時に会社の隣にあるサンクスで変なものを買ってウホウホ食べてしまう。非常階段の踊り場にある私専用の「書斎」という名のアウトドアチェアに座って人目を忍んで食べている。
それにしても、なぜここまでマズいんだと叫びたくなるのが出来合いのお好み焼の類だ。分かっているのに、3ヶ月に一度ぐらい買ってしまう。そして一人でイラつく。
レンジでチンしたお好み焼がウマいわけない。なのに持ち前のソースマン根性でつい食べる。学習能力がないのだろうか。
他には手巻き寿司のマヨ系を買ってしまう。ツナとかエビマヨとか。空腹だとウマい。精神状態がまともな時は普通のいなり寿司を選ぶ。味が強すぎるから揚げの部分は半分ぐらい捨てて食べるのがコツだ。
大のオトナがカップ麺なぞを喜んで食ってはいかんという声がある。至極ごもっともだし、時には私も会社の部下にそんなことを言う。
そうは言っても、実は私はカップ麺ラバーでもある。時々どうしても食べたくなる。昨年のフランス旅行では、美食の街とか言われるパリで、日本から持参した10個近くのカップ麺をすべて食べた。
いま、カップ焼きそばの革命児である「俺の塩」のたらこ味にはまっている。正直言えば毎日食べてもいい。ペヤングソース焼きそばは私の中でカップ麺の殿堂入りを果たしているが、「俺の塩・たらこ味」も少なくとも名球会入りは確実な感じだ。
そんなことばかり書いていても情けないので、最近食べたウマかったものを並べてみよう。
銀座・維新號で食べたフカヒレの姿煮だ。問答無用のウマさだ。旨味溢れる味付けで誰でも幸福になる感じ。どっさり入ったフカヒレの食感に黄金ソースがまとわりつき、カニをほじくっている時のようについつい無言になってしまう。
高いけど、こればかりは仕方がない。たまの贅沢ならこういうものを選びたい。ヘタなフレンチでお仕着せの得体の知れないコース料理を一方的に出されて、コースの価格帯に合わせて大して飲みたくもない高いワインを開けされることを考えれば、大ぶりなフカヒレをがっついて頬ばる方がどれだけ幸せなことかと思う。
お次はウナギ様だ。何かと話題の「ウナギ危機」のさなか、腹一杯ウナギを食べると心身共に満ち足りる。
上は神田の老舗「きくかわ」の二尾付け、下は杉並にある名店「うな藤」の特上だ。
「きくかわ」は、名店と呼ばれる割には気軽な感じで洒落っ気もないし、素直にウマいウナギをがっつきたい時には使いやすい店だと思う。
ホタルイカの沖漬けとか、ウナギハムなんかをつまみにビールをグビグビしながら白焼きを待つ。割とさっさと出てきちゃったから白焼きに不安を感じたものの、食べてみればモーマンタイ。冷酒がクイっクイって進む。
鰻重のタレが甘めだが、これも東京の味だ。ウナギは歯応えが適度にあって、ただグチャグチャと柔らかいだけのウナギとは一線を画す。ご飯も固めで最高だった。
杉並区の荻窪からかなり外れた青梅街道沿いにある「うな藤」は、立地のせいもあって都心部の名店に比べれば格安で上質なウナギが味わえる。
日本酒の品揃えも豊富で、これまた白焼きを楽しむには最適な環境だ。実家の近くにある店なのだが、私が実家に引きこもる事態にでもなれば週に2,3度は通うはずだ。そういう事態にならないように気をつけないといけない。
恥じらうようにピンクの断面を見せているのは神楽坂「あげづき」の特ヒレカツだ。健康状態が許せば毎日朝からトンカツを食べたいと思う私だ。ウマいトンカツ屋に遭遇すると何度でも行きたくなる。
神楽坂のこの店は、トンカツ以外にもメンチやエビフライも頼まずにはいられないほどウマい。行けば行ったで必ず食べ過ぎる。気をつけていても膨満感で破裂しそうになる。
こうやって並べてみると、結局自分が食べたいものしか食べていない気がする。これに寿司を加えて、冒頭でアレコレ書いたジャンクフードをミックスすれば、私の食生活は完結する。
実に単純明快である。これがエセグルメとしての実態だ。
大いなる誤解である。
強いて言えばマズいものは食べたくないが、そんなことは誰もが思っていることである。
ウマいものがあれば例え遠距離でもせっせと通って食すようなマメさは微塵もない。あくまで自分の行動半径の中で、その時々に無性に食べたくなったものを頬ばるだけである。
大のオトナがコンビニ飯を食ってはいかんという声がある。至極ごもっともだし、時には私も会社の部下にそんなことを言う。
そのくせ、週に2度3度と昼時に会社の隣にあるサンクスで変なものを買ってウホウホ食べてしまう。非常階段の踊り場にある私専用の「書斎」という名のアウトドアチェアに座って人目を忍んで食べている。
それにしても、なぜここまでマズいんだと叫びたくなるのが出来合いのお好み焼の類だ。分かっているのに、3ヶ月に一度ぐらい買ってしまう。そして一人でイラつく。
レンジでチンしたお好み焼がウマいわけない。なのに持ち前のソースマン根性でつい食べる。学習能力がないのだろうか。
他には手巻き寿司のマヨ系を買ってしまう。ツナとかエビマヨとか。空腹だとウマい。精神状態がまともな時は普通のいなり寿司を選ぶ。味が強すぎるから揚げの部分は半分ぐらい捨てて食べるのがコツだ。
大のオトナがカップ麺なぞを喜んで食ってはいかんという声がある。至極ごもっともだし、時には私も会社の部下にそんなことを言う。
そうは言っても、実は私はカップ麺ラバーでもある。時々どうしても食べたくなる。昨年のフランス旅行では、美食の街とか言われるパリで、日本から持参した10個近くのカップ麺をすべて食べた。
いま、カップ焼きそばの革命児である「俺の塩」のたらこ味にはまっている。正直言えば毎日食べてもいい。ペヤングソース焼きそばは私の中でカップ麺の殿堂入りを果たしているが、「俺の塩・たらこ味」も少なくとも名球会入りは確実な感じだ。
そんなことばかり書いていても情けないので、最近食べたウマかったものを並べてみよう。
銀座・維新號で食べたフカヒレの姿煮だ。問答無用のウマさだ。旨味溢れる味付けで誰でも幸福になる感じ。どっさり入ったフカヒレの食感に黄金ソースがまとわりつき、カニをほじくっている時のようについつい無言になってしまう。
高いけど、こればかりは仕方がない。たまの贅沢ならこういうものを選びたい。ヘタなフレンチでお仕着せの得体の知れないコース料理を一方的に出されて、コースの価格帯に合わせて大して飲みたくもない高いワインを開けされることを考えれば、大ぶりなフカヒレをがっついて頬ばる方がどれだけ幸せなことかと思う。
お次はウナギ様だ。何かと話題の「ウナギ危機」のさなか、腹一杯ウナギを食べると心身共に満ち足りる。
上は神田の老舗「きくかわ」の二尾付け、下は杉並にある名店「うな藤」の特上だ。
「きくかわ」は、名店と呼ばれる割には気軽な感じで洒落っ気もないし、素直にウマいウナギをがっつきたい時には使いやすい店だと思う。
ホタルイカの沖漬けとか、ウナギハムなんかをつまみにビールをグビグビしながら白焼きを待つ。割とさっさと出てきちゃったから白焼きに不安を感じたものの、食べてみればモーマンタイ。冷酒がクイっクイって進む。
鰻重のタレが甘めだが、これも東京の味だ。ウナギは歯応えが適度にあって、ただグチャグチャと柔らかいだけのウナギとは一線を画す。ご飯も固めで最高だった。
杉並区の荻窪からかなり外れた青梅街道沿いにある「うな藤」は、立地のせいもあって都心部の名店に比べれば格安で上質なウナギが味わえる。
日本酒の品揃えも豊富で、これまた白焼きを楽しむには最適な環境だ。実家の近くにある店なのだが、私が実家に引きこもる事態にでもなれば週に2,3度は通うはずだ。そういう事態にならないように気をつけないといけない。
恥じらうようにピンクの断面を見せているのは神楽坂「あげづき」の特ヒレカツだ。健康状態が許せば毎日朝からトンカツを食べたいと思う私だ。ウマいトンカツ屋に遭遇すると何度でも行きたくなる。
神楽坂のこの店は、トンカツ以外にもメンチやエビフライも頼まずにはいられないほどウマい。行けば行ったで必ず食べ過ぎる。気をつけていても膨満感で破裂しそうになる。
こうやって並べてみると、結局自分が食べたいものしか食べていない気がする。これに寿司を加えて、冒頭でアレコレ書いたジャンクフードをミックスすれば、私の食生活は完結する。
実に単純明快である。これがエセグルメとしての実態だ。
2012年7月4日水曜日
初夏が好き
初夏の頃が好きだ。初夏といっても5月か6月か7月かその定義は微妙だ。私の場合、6月中旬から7月中旬ぐらいまでが初夏のイメージだ。
曇り空やうっとおしい雨も、冬や秋のそれとは違い、さほど淋しさを感じない。来るべき夏への気分の高まりのせいだろうか。
時々、カラッと晴れる青空が気持ちを爽快にさせる。命が輝く季節だと言えば大げさだが、やはりエネルギーに溢れる夏を目の前にするとシャキッとした気持ちになる。
感覚的な話になるが、初夏に咲く花も、どこか力強さを感じる。紫陽花、紫露草、北の方ではラベンダーなどが見頃だが、春の花のようなポワポワした風情ではなく、シュっと咲いている印象がある。
薔薇も初夏に咲き誇る種類が多いようだが、あれこそガッツリ系だろう。蓮の花だって「どうだ~」っていう勢いがあるし、これから出てくる向日葵だって力強さの象徴みたいな感じだ。
本来、はかなげな和花が好きな私でも、これからの季節の花にはついつい目が行く。勢いにあやかりたいような気分になる。
初夏の話に戻る。
初夏といえば何といってもホタルだろう。虫の分際で実に神秘的で風流だ。ホタルと聞いただけで初夏の水場の香りが頭に浮かぶ。存在そのものが季語みたいだ。
都会育ちのせいで、身近にホタルがいたことはない。わざわざ見に行く憧れの存在だった。大人になってからもわざわざ山梨とか群馬まで出かけてホタル鑑賞を楽しんだ。
清流の水が匂い立つような湿度の高い夜ほどホタルは乱舞する。見ているだけで泣きたくなる。理由もなく誰かと心中したくなる。ちょっと例えが変か。
そのぐらい魂が揺さぶられる。老後は庭の渓流にホタルが遊びにくるような風流な家に住みたいとつくづく思う。京都・詩仙堂を作った道楽オヤジである石川丈山を見習いたい。
花にホタルとくれば、次は浴衣の女性だろう。最近は、ギャル時代にへんてこな着方を覚えた若い女性がへんてこな感じで浴衣を身にまとっているが、あれはイヤだ。オーソドックスなものはオーソドックスなまま変わらないでいてもらいたい。
ついでにいうと、銀座あたりの飲み屋さんの浴衣デーとか浴衣祭とやらも勘弁して欲しい。あの手の空間にそもそも浴衣は馴染まないし、ギトギト系のメイクだと、わざとらしいし、あざとい印象しか残らない。
あんなことをするなら、純粋にホステスさん全員が着物を着る日とかを作ってもらったほうがよほど楽しい。
話が飛んだ。浴衣の女性とのひとときを妄想してみる。
淡い色合いの麻の浴衣を着た女性にウチワで扇いでもらいながら、とりとめのない話を交わす。ウヒョウヒョだ。
浴衣には朝顔の模様があって、ウチワには小さく金魚なんかが描かれていて、草履からのぞく愛らしい足の指にドキッとしたりする。そんな場面に遭遇したら10年は寿命が伸びそうな気がする。
さてさて、そんな女性とだったら、やっぱりかき氷をご一緒したい。ホントは練乳イチゴが食べたくても、大人だから我慢してみぞれにする。半透明なやつだ。
お相手が注文した冷やししるこの白玉を横取りしてすねられたりするのもいい。うーん、これまた寿命が10年は延びそうだ。
そして軒先の風鈴が、夕方の風に吹かれてちりんちろんと響いたりする。何とも艶めかしく心が洗われる情景だ。
夏まっさかり直前の初夏を思うと、ついついこんな妄想に浸りたくなる。一年で一番好きな季節かもしれない。
春夏秋冬、季節を人生に例える表現をよく見聞きするが、初夏はさしずめ青春の頃だろう。青臭い頃だし酸っぱい思い出がいっぱいあるから、初夏をイメージするとどこか切ない気分になるのだろうか。
自分の年齢を季節に例えたら、どう逆立ちしても夏は過ぎ、秋の頃にいる。だから切ない初夏に惹かれてしまうのかもしれない。
なんかそう書くと寂しい感じだ。いかんいかん。
人生秋の頃、いわば「紅葉期」だ。紅葉などと表現すると寂しいから、「高揚期」だと言い換えてみることにする。
まだまだ高揚しまくって日々を過ごしたい。冬を迎えるのはご免こうむりたいから、長い長い秋を楽しんで暮らしていこう。
曇り空やうっとおしい雨も、冬や秋のそれとは違い、さほど淋しさを感じない。来るべき夏への気分の高まりのせいだろうか。
時々、カラッと晴れる青空が気持ちを爽快にさせる。命が輝く季節だと言えば大げさだが、やはりエネルギーに溢れる夏を目の前にするとシャキッとした気持ちになる。
感覚的な話になるが、初夏に咲く花も、どこか力強さを感じる。紫陽花、紫露草、北の方ではラベンダーなどが見頃だが、春の花のようなポワポワした風情ではなく、シュっと咲いている印象がある。
薔薇も初夏に咲き誇る種類が多いようだが、あれこそガッツリ系だろう。蓮の花だって「どうだ~」っていう勢いがあるし、これから出てくる向日葵だって力強さの象徴みたいな感じだ。
本来、はかなげな和花が好きな私でも、これからの季節の花にはついつい目が行く。勢いにあやかりたいような気分になる。
初夏の話に戻る。
初夏といえば何といってもホタルだろう。虫の分際で実に神秘的で風流だ。ホタルと聞いただけで初夏の水場の香りが頭に浮かぶ。存在そのものが季語みたいだ。
都会育ちのせいで、身近にホタルがいたことはない。わざわざ見に行く憧れの存在だった。大人になってからもわざわざ山梨とか群馬まで出かけてホタル鑑賞を楽しんだ。
清流の水が匂い立つような湿度の高い夜ほどホタルは乱舞する。見ているだけで泣きたくなる。理由もなく誰かと心中したくなる。ちょっと例えが変か。
そのぐらい魂が揺さぶられる。老後は庭の渓流にホタルが遊びにくるような風流な家に住みたいとつくづく思う。京都・詩仙堂を作った道楽オヤジである石川丈山を見習いたい。
花にホタルとくれば、次は浴衣の女性だろう。最近は、ギャル時代にへんてこな着方を覚えた若い女性がへんてこな感じで浴衣を身にまとっているが、あれはイヤだ。オーソドックスなものはオーソドックスなまま変わらないでいてもらいたい。
ついでにいうと、銀座あたりの飲み屋さんの浴衣デーとか浴衣祭とやらも勘弁して欲しい。あの手の空間にそもそも浴衣は馴染まないし、ギトギト系のメイクだと、わざとらしいし、あざとい印象しか残らない。
あんなことをするなら、純粋にホステスさん全員が着物を着る日とかを作ってもらったほうがよほど楽しい。
話が飛んだ。浴衣の女性とのひとときを妄想してみる。
淡い色合いの麻の浴衣を着た女性にウチワで扇いでもらいながら、とりとめのない話を交わす。ウヒョウヒョだ。
浴衣には朝顔の模様があって、ウチワには小さく金魚なんかが描かれていて、草履からのぞく愛らしい足の指にドキッとしたりする。そんな場面に遭遇したら10年は寿命が伸びそうな気がする。
さてさて、そんな女性とだったら、やっぱりかき氷をご一緒したい。ホントは練乳イチゴが食べたくても、大人だから我慢してみぞれにする。半透明なやつだ。
お相手が注文した冷やししるこの白玉を横取りしてすねられたりするのもいい。うーん、これまた寿命が10年は延びそうだ。
そして軒先の風鈴が、夕方の風に吹かれてちりんちろんと響いたりする。何とも艶めかしく心が洗われる情景だ。
夏まっさかり直前の初夏を思うと、ついついこんな妄想に浸りたくなる。一年で一番好きな季節かもしれない。
春夏秋冬、季節を人生に例える表現をよく見聞きするが、初夏はさしずめ青春の頃だろう。青臭い頃だし酸っぱい思い出がいっぱいあるから、初夏をイメージするとどこか切ない気分になるのだろうか。
自分の年齢を季節に例えたら、どう逆立ちしても夏は過ぎ、秋の頃にいる。だから切ない初夏に惹かれてしまうのかもしれない。
なんかそう書くと寂しい感じだ。いかんいかん。
人生秋の頃、いわば「紅葉期」だ。紅葉などと表現すると寂しいから、「高揚期」だと言い換えてみることにする。
まだまだ高揚しまくって日々を過ごしたい。冬を迎えるのはご免こうむりたいから、長い長い秋を楽しんで暮らしていこう。
2012年7月2日月曜日
消費税増税をきっかけに
消費税の増税が本決まりになった。先週、衆院本会議を通過した修正法案にまとまるまでの経緯は、国会の委員会などを無視した、いわゆる国対的な密室談合との声もある。
本会議で採決される直前の特別委員会でも何ら法案に手が加えられることもなく、野党案丸飲みの3党合意による法案がスンナリ可決された。
当初案に盛り込まれていた所得税、相続税の改正は完全に棚上げされ、単に消費税を闇雲に引き上げる改正が実施されることになる。
経緯や内容への賛否とか民主党内の造反の話はさておき、今回の法案採決が与党の独断専行にならなかった点は注目に値する。
野党とケンケンゴウゴウの協議をしたというより単に野党の言いなりになった政権与党のズッコケぶりだけが目立った格好だが、それでも数の力で強引に増税に突き進むよりは幅広い意見が反映されたという見方も出来る。
民主党では、当初、消費税について複数税率を採用しない方針を決めていた。低所得者対策にはバラマキ型の給付で対応しようという姿勢を鮮明にしていた。
その後の修正協議では、野党案を受入れる中で複数税率導入に道を開いた。順当な成り行きだ。バラマキ型の給付制度よりも真摯な発想だと思う。
今回の改正は、日本の税制が消費税中心に転換していくことを意味する。見方によっては高所得者層への課税の在り方を見直す機会になり得るわけで、複数税率化による「メリハリ」に期待したい。
これまでの基幹税であった所得税の特徴は、収入に応じて税率が上がっていく累進制だ。稼げば稼ぐほど税率を高くするわけで、言ってみれば罰金的発想に支配されている。
経済が右肩上がりだった時代とは違い、最近は収入が上昇カーブを描いて順調に増えていく人など少数派だろう。
前年はまったく稼げなかった、来年は大赤字になりそうだ等の事情があっても、その年にたまたま結構な稼ぎがあったらドカンと税金を持っていかれる。それが現実だ。
そんな所得税の累進税率よりも贅沢品に高率課税する複数税率化された消費税のほうがメリハリがあって単純明快だ。
高額な税金を負担するにも納税者自らの消費行動の選択が伴う。たとえば、軽自動車とスーパーカーの消費税率に大きな違いがあれば、必然的に富裕層であれば自分の意思で高額納税を選択することになる。
逆も同じで、消費税を忌み嫌うならば、納税者の意思で高税率分野の商品を買わないという選択も可能だ。今よりも納得しやすいと思う。
稼ぐことを罪悪視するかのような累進税制より、基本の税率はフラットで、納税者の意思による贅沢に見合った高負担を求めるほうが理に叶っている。
すべてではないとはいえ、高所得者層の人々は、人より頑張って知恵を出して辛い思いをして必死に稼いでいる人だろう。その人達のモチベーションは、決して国に税金を払うことではない。ましてや弱者救済のために一生懸命働いているわけでもない。
経済を牽引するそうした階層の人々から罰金的に徴税することは愚策以外の何ものでもない。日本マネー及び優秀な人材の海外流出が加速するだけだ。
むしろ、そうした階層をヨイショしてより幅広い消費活動に精を出してもらうほうが賢明だろう。将来的な税源育成という意味でも、場当たり的な「取れるところから収奪する」政策は見直す必要がある。
当たり前のことだが大事な視点だ。
本会議で採決される直前の特別委員会でも何ら法案に手が加えられることもなく、野党案丸飲みの3党合意による法案がスンナリ可決された。
当初案に盛り込まれていた所得税、相続税の改正は完全に棚上げされ、単に消費税を闇雲に引き上げる改正が実施されることになる。
経緯や内容への賛否とか民主党内の造反の話はさておき、今回の法案採決が与党の独断専行にならなかった点は注目に値する。
野党とケンケンゴウゴウの協議をしたというより単に野党の言いなりになった政権与党のズッコケぶりだけが目立った格好だが、それでも数の力で強引に増税に突き進むよりは幅広い意見が反映されたという見方も出来る。
民主党では、当初、消費税について複数税率を採用しない方針を決めていた。低所得者対策にはバラマキ型の給付で対応しようという姿勢を鮮明にしていた。
その後の修正協議では、野党案を受入れる中で複数税率導入に道を開いた。順当な成り行きだ。バラマキ型の給付制度よりも真摯な発想だと思う。
今回の改正は、日本の税制が消費税中心に転換していくことを意味する。見方によっては高所得者層への課税の在り方を見直す機会になり得るわけで、複数税率化による「メリハリ」に期待したい。
これまでの基幹税であった所得税の特徴は、収入に応じて税率が上がっていく累進制だ。稼げば稼ぐほど税率を高くするわけで、言ってみれば罰金的発想に支配されている。
経済が右肩上がりだった時代とは違い、最近は収入が上昇カーブを描いて順調に増えていく人など少数派だろう。
前年はまったく稼げなかった、来年は大赤字になりそうだ等の事情があっても、その年にたまたま結構な稼ぎがあったらドカンと税金を持っていかれる。それが現実だ。
そんな所得税の累進税率よりも贅沢品に高率課税する複数税率化された消費税のほうがメリハリがあって単純明快だ。
高額な税金を負担するにも納税者自らの消費行動の選択が伴う。たとえば、軽自動車とスーパーカーの消費税率に大きな違いがあれば、必然的に富裕層であれば自分の意思で高額納税を選択することになる。
逆も同じで、消費税を忌み嫌うならば、納税者の意思で高税率分野の商品を買わないという選択も可能だ。今よりも納得しやすいと思う。
稼ぐことを罪悪視するかのような累進税制より、基本の税率はフラットで、納税者の意思による贅沢に見合った高負担を求めるほうが理に叶っている。
すべてではないとはいえ、高所得者層の人々は、人より頑張って知恵を出して辛い思いをして必死に稼いでいる人だろう。その人達のモチベーションは、決して国に税金を払うことではない。ましてや弱者救済のために一生懸命働いているわけでもない。
経済を牽引するそうした階層の人々から罰金的に徴税することは愚策以外の何ものでもない。日本マネー及び優秀な人材の海外流出が加速するだけだ。
むしろ、そうした階層をヨイショしてより幅広い消費活動に精を出してもらうほうが賢明だろう。将来的な税源育成という意味でも、場当たり的な「取れるところから収奪する」政策は見直す必要がある。
当たり前のことだが大事な視点だ。