東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2015年10月30日金曜日
なんとなく仏像
いよいよ仏像である。オッサンくさい趣味と言われそうだが、ここ1~2年、どうにも仏像が気になって仕方がない。
気になっているくせにまったく知識が無い。大人の常識として問題である。少しだけでも勉強することにした。
勉強といっても大げさな話ではない。入門用みたいな気軽な本を読み始めただけである。
なぜ仏像なのか。改めて自問自答してみた。その答えは「表情」に尽きる。あの穏やかな顔立ちに心が安らぐ。
思えば、ここ数年、自分の周りにいる人や関わり合いになる人達の「人相」がやたらと気になるようになった。これまた人相学という次元ではなく、私自身の直感的な印象の話である。
安倍首相の人相が日に日に悪くなってきているように人の顔付きは簡単に変化する。
安定的に人相の良い人は心が平穏な状態なのだろう。逆に人相が悪くなる人は心が荒れているわけだ。
どうせなら穏やかな人相の人に囲まれて暮らしたいものである。
で、仏像である。穏やかな表情という意味では最上級である。さすがにホトケ様である。柔和な表情は見ていて飽きない。
如来と菩薩の違いすらまったく知らなかった私である。怖い顔をした仏像、哲学的な表情の仏像もたくさんあるが、やはり私が親しみたいのは柔和な表情の仏像である。
超初心者として仏像に興味を持ち始めたことで、日々知らなかったことをフムフムうなずいて感心できるのも楽しい。
薄い衣一枚しか羽織っていないことや手の向きや形、持ち物からパンチパーマみたいな髪型などすべてに意味があるわけで、そんなイロハのイから研修中?である。
ただ、年齢のせいか吸収した知識をすぐに忘れてしまうことが問題である。京都、奈良、鎌倉あたりで現地視察に励む必要があると思う。老後の趣味にするのも悪くない。
ちなみに、老後の趣味候補としては、以前から「日本の城めぐり」を課題にしているのだが、全然実践できていない。熱しやすいけど冷めやすい性格だとは思わないのだが。
仏像と城。どっちでもいいから人並み以上に詳しい爺さんになってみたいものである。
少し話が飛ぶが、ヨーロッパを旅していると、何百年もの歴史を持つ壮麗な教会がゴロゴロある。それはそれは立派で、宗教イコール権力だという現実が垣間見えて興味深い。
建築物そのものの豪華さには溜息が出るし、荘厳な様子にたじろぐことすらある。でも、そんな西洋文明の象徴なような場所を見れば見るほど、日本の古い寺が持つ「わびさび」的な美意識の独自性や面白さを逆に痛感する。
人々の心の拠り所である宗教施設の様子を見比べることは、文明や歴史、世界観の違いを体感するうえで一番手っ取り早いことかもしれない。
偶像崇拝を厳しく禁止してきたキリスト教の場合、教会がどれだけ立派だろうと、日本の寺のような「ご本尊」はない。あくまで神をイメージさせる場所、祈りの場としての教会があるだけだ。
日本的?な感覚だと祭壇の周りをキョロキョロしながら立派な御本尊を探したくなるが、ここが大きな違いである。
日本の由緒ある寺では、本尊である仏像そのものが信仰の対象というケースが多い。当然、仏像自体の来歴や逸話も多く、作り手である仏師の社会的地位も高かった。
まあ、そんなゴタクを並べるまでもない。日本人の魂というか、DNA的な宗教心をベースに精魂込めて作られた仏像の一級品は、表情や顔立ちの素晴らしさが圧倒的である。
ボンヤリとご尊顔を眺めていると吸い込まれそうな錯覚すら覚える。画像はネットでパクリました。スイマセン。
怖い顔をした仏像を見ていると自分の心の醜さを見抜かれたような気まずさを感じる。その反面、穏やかな仏像の表情はこちらのダメっぷりを肯定してくれたかのような安らぎを感じる。
日常の生活も似たようなものだ。穏やかな人相の人と一緒にいると自分まで気分が穏やかになる。とはいえ、現実社会では悪相に囲まれてばかりで辟易とすることが多い。疲れる。
そんな疲れた気分が仏像の表情に引き寄せられる原因なのかもしれない。何かと弱っている人が宗教に引き寄せられてしまう感覚と似ているのかもしれない。
数年後、自宅が仏像だらけになったらどうしよう・・・。
2015年10月28日水曜日
金沢に詣でる
この前の週末、金沢に行ってきた。カニを食べに行ったわけでもなく、北陸新幹線に乗りたかったからでもない。
「参拝」である。
私にとっての神?であるハマショー師匠のライブのために出かけてきた。ファンクラブ先行予約の抽選で当たったのが金沢公演だったわけだ。
今年で63歳になるハマショー師匠の健在ぶりを目の当たりにして感激の時間だった。
オヤジバンド活動を始めてからは初めて参加したライブだったので、大いに刺激を受けたし、まだまだ老け込んではいけないと決意も新たである。
ライブ中はギリギリ泣かずに過ごしたが、「花火」から「五月の絵画」へと続いた師匠のニクい構成にウルっときたことは内緒だ。
コアなファンの人にしか分からない話でスイマセン。要は「家を出て行ったものの、残してきた子ども達を思って切なくなっているオヤジの歌」と「家を出て行ったオヤジが何年か経った後に美しく成長した娘と再会して感慨にふける歌」を連発されてウルっとしたわけだ。
さてさて、今回はネット上であらかじめセットリスト、すなわち曲順などをチェックしておいた。そのせいもあって最後の最後まで聞かずに引き上げることにした。
「J-BOY」が終わったところですでに2時間半。あと2曲ほどやるようだったが、この曲でシメるのも悪くはない。
50歳になっても「J-BOY」で拳を振り上げている自分が嬉しい。それにしても30年も同じ曲でライブ会場が一体化するのだから、私が『参拝』と表現するのも大げさではない。
師匠にはいつまでもカッコよく現役でいてもらいたいものだ。
そんなこんなで、少し早めにライブを切り上げ街に出た。気分は寿司である。事前にリサーチをしてこなかったのでキャバクラばかりの繁華街を挙動不審な人のようにさまよう。
絶対にアタリだと確信できる風情の店を見つけたが残念ながら満席。待つのもイヤなので、そこそこ立派な門構えの別の店を見つけて入ってみた。
金澤玉寿司本店という店。なんだか能舞台を模したような造りで職人さん達の装束もちょっと凝っている。ビミョーといえばビミョーだが、旅先ではこのぐらいの“演出”はかえって心地良かったりする。
それなりの規模の店なので一品メニューも豊富でゆっくり酒を飲みながらダラダラすることに決める。
北陸の冬の醍醐味であるカニの解禁には2週間ほど早かったのだが、香箱カニが用意されていたので迷わず注文。聞けば新潟からわざわざ取り寄せているそうだ。
観光客需要を考慮したこの手の店のこうした小細工というかサービス精神は率直に評価したい。新潟産だろうが何だろうが、「金沢で香箱」という初冬の風物詩を堪能できたわけだから有難かった。
職人さんと無駄話を交わしながら地モノを中心にあれこれ食べる。ハタハタを煮付けで食べてみたり、ブリの若魚や定番のノドグロ、はたまたコノワタなんかで熱燗をキュッキュキュッキュと飲み続けた。
握りもいくつか食べたが、鯛の蒸し寿司が印象的だった。出し汁の餡の味わいが上品で酩酊気味の身体の奥の方がジンワリした。
御勘定も思ったより安くて満足しながらフラフラ歩いてホテルに戻る。温泉付きのアパホテルである。とっとと寝たかったが、温泉に入らなければアパホテルを選んだ意味が無い。フラフラしながら屋上の露天風呂に浸かって月を眺めて鼻歌。大好きなはずのサウナに入らなかったから、やはり飲み過ぎていたようだ。
翌日、定番の兼六園とひがし茶屋街を散策した。ほんのりと色づき始めた紅葉も見ることが出来て実に気持ちよい散歩が出来た。
ついでに北陸新幹線にも触れておこう。今まで数え切れないほど金沢方面は訪ねてきたが、初めての電車旅である。初体験を記念してグランクラスとやらに乗ってみた。グリーン車の発展系だと思っていたのだがグリーン車はグリーン車で用意されていたので、グランクラスは一応『別格』扱いらしい。
アルコールを含む飲み物や軽食が無料で提供され、座席も独特な形状の最新式だとか。
今回はヒモを引っ張れば熱々ホッカホカになるという画期的なウナギ弁当を持ち込んでいたので軽食はパス。したがって内容は不明である。
椅子は飛行機の座席のようにリクライニングしても後ろに背もたれが倒れないシェル型。とはいえ、リクライニングの角度は中途半端。それよりも座席幅のゆとりの無さのほうが気になった。
長時間乗るわけではないので、飛行機と比べること自体が正しくないのだろう。東京から金沢までわずか2時間半。充分快適だった。
ただ、グリーン車のほうが空いていたし、アテンダントのサービスがいちいち煩わしい人にとってはグリーン車のほうが快適かもしれない。
ひょんなことから楽しい小旅行ができた。これもひとえにハマショー師匠のおかげである。もっと帰依しようと思う。
2015年10月26日月曜日
色恋の価値
アチコチから反感を買いそうな話だが、コストパフォーマンスという言葉が嫌いだ。何かの価値を単純に経済的な尺度だけで測ることはあまり意味が無いと思う。
そりゃあ、吉野家の牛丼が300円で松屋の牛丼が800円なら、コストパフォーマンスを考えて選ぶのは当然だが、そういう単純な話は別だ。
若者が恋愛や結婚をしない理由の多くが「コストパフォーマンスが悪いから」だとか。
なんとも淋しい話である。
恋愛、色恋といった人間関係の基本みたいな部分にコストパフォーマンスという考え方を持ち込まれるとイラッとくる。
若者なんて後先考えずに異性に興味を持って熱くなっているのが正しい姿である。生き物としてそれが自然だ。
恋愛の価値って若造どもが経済的に割に合わないと思うほど低下しているのだろうか。なんともモッタイナイ話である。
すぐに恋をしちゃう寅さんが聞いたら、頭を抱えて嘆くはずだ。
その人のことを想うと夜も眠れない、目に入る美しいもの、聞こえてくる心地良い音、かぐわしい香り等々、五感のすべてが敏感になって、その人と共有したいと思い、許されるなら食べちゃいたいぐらい?に相手のことが愛おしくなる感覚。
そんな感覚になれるだけで大儲け、丸儲けみたいな話である。両思いならもちろん、片思いだって、そんな気持ちになれるだけで大脳が発達した人間に生まれて良かったと思うべきである。
そりゃあ、色恋に励めば、色恋に無縁な時よりお金はかかるだろう。自分の身だしなみだって気になるし、相手を喜ばそうと奮発してプレゼントを選んだり、滅多に行かないような店に食事にも出かける。
それをコスパのひと言で斬って捨てるのは愚かだし、情けないし、無粋である。相手が喜んでくれるのは自分の喜びである。
だいたい、人間がお金の使い方のなかで最も充実感を感じるのは「人のために使う」ことである。古今東西、いろんな調査でそういう結果が出ている。
「寄付こそ最高の贅沢」という考え方もある。
愛という言葉が的確かどうかは分からないが、「人を想うことイコール自己犠牲」だから、そこそこ散財したって仕方ない。ある意味、それを喜びに感じるぐらいじゃないとダメなのだろう。
女性を喜ばせようとあれこれとお金をかけても結果がともなわないこともある。それはそれ。負けである。早めに気付かなかった自分の間抜けさを反省すべきだ。
「お前のためにいくら使ったと思ってるんだ」などと逆ギレする男もいるが、そんな発言を平気でしちゃうようだからコトがうまく運ばないわけだ。
まあ、純粋な色恋と、ただ単に気に入った女性を攻略したいという欲求は別モノなのも事実である。
後者のほうは「遊び」の範疇だから、成功(性交?)しなかった時にコスパが気になるのも分からなくはない。
それでもカネのかからない遊びなどない。ゴルフするにも旅行するにも趣味に没頭するのもお金はかかる。女遊びだって同じ。ましてや純愛じゃない遊びならコストパフォーマンスは悪くて当たり前である。
遊びたいなあと思えるような女性はたいていが魔物である!?。
突進すべきか撤収すべきかの判断を間違えればコストパフォーマンスは際限なく悪化する。魔物の罠は男が思っているほど甘くはない。怖い怖い。ギャンブルと同じだ。
まっとうなギャンブラーはギャンブルそのものに恨み言など言わない。負けて当然という潔さが身についている。わかった上でなおギャンブルを愛するわけだ。
オンナ遊びがしたい人は、正しいギャンブラー精神を旨に頑張らないといけない。負けて当然だと思ったほうがいい。
ギャンブルと違うのは「大穴」は狙わないという点だけである。
下品でスイマセン。
さて遊びじゃない色恋の話に戻る。
自分の気持ちが浮き立って、いろいろな感度が鋭敏になって、充実感すら覚えるのが恋愛である。この感覚って無理して作り出せるものではない。
そんな状態に陥ったら儲けものである。贅沢な時間と言っていいだろう。
これをコスパが悪いといって逃げてしまうのは「贅沢」と「無駄遣い」が混同されているからだと思う。
「贅沢」には高揚感や充実感がともなう。自らの活力源、エネルギー源になる。
無駄遣いは文字通りムダである。心が疲れる。後悔でいっぱいになる。
言うまでもなく、同じ散財するにしても大きな違いがある。ここを勘違いしてはいけない。
粗末な服を着ている時より、自分が気に入ったパリっとしたものを身につけている時のほうが姿勢や表情が良くなる。もちろんモチベーションがまったく変わる。
そんな服を買うことは無駄遣いではない。必要な贅沢である。例え安くても粗末な服を買うほうが自分の気持ちをドンヨリさせるなら単なる無駄遣いである。
なんだかまとまりがなくなってきた。
無駄遣いなのか、建設的な贅沢なのか。色恋に向けるエネルギーや労力は後者だと思う。
2015年10月23日金曜日
オジサマ達の思春期
やたらと遊びたがる中年。私の周りにも結構いる。いや、私だって人のことを言えないか・・・。
いえいえ、私のように中途半端ではなく、異常なほどエネルギー全開で弾けているオジサマがやたらと目につく。
家庭を持っている人、家庭を持っていた人。タイプはそれぞれだ。元気な中高年という意味では大いに結構だが、そういう次元ではない。何かに追いかけられているように必死に遊んでいる。
今日は「狂い咲き中高年」について考えてみたい。
一般的に中年になると、人生後半戦ということで誰もが多少なりとも悶々とする。男も女も同じだ。
自分の人生はこんなものだったのか、これでいいのか、まだまだ軌道修正したい等々、若い時とは違った葛藤が生まれる。
もちろん、そんなこと気にせず淡々と日々を過ごす人も大勢いるが、どこか満たされない想いを持つ人は「悶々派」に所属?することになる。
考えてみれば思春期と似たようなものだ。あの時代だって、淡々と学業に励んで大過なく青春時代を過ごす若者もいれば、必要以上にセンシティブになって熱く暴れるヤツもいる。
尾崎豊の「15の夜」の世界みたいな世界だ。
♪ 誰にも縛られたくないと 逃げ込んだ
「誰にも縛られたくない」。熱くなっていた若者の基本姿勢?である。そんなこと言いながら、その後、大人になるにつれ、縛られてばかりである。
この夜に 自由になれた気がした
15の夜 ♪
仕事に縛られ、恋人や奥さんに縛られ、子供に縛られ、常識に縛られ、世間様にガッチガチに縛られて生きているのが普通の人である。
それ自体は普通のことであり、縛られているからこその安定も否定できない。
でも、中には「15の夜」ならぬ「50の夜」みたいな感じで熱くなっちゃう中高年もいるのだろう。
そのエネルギーを仕事に向ければいいのに、ついついギラギラ遊ぶ。青臭い若造がエネルギーを学業に向けられなかったのと一緒だ。
♪ 自由になれた気がした 50の夜 ♪
弾けて遊ぶことで、そんな感じになれるのだろうか。
なんだか、そう解釈すると、必死に遊んでいる中高年がちょっと愛おしくなる。
若い頃、冷めたヤツより熱いヤツのほうが魅力的だったのと同じだ。
ふてくされたような顔ですべてがわかったような雰囲気でしらけちゃってるオッサンよりも、ギンギンギラギラ遊んでるオジサンのほうがステキだと思う。
いい歳してバカみたいと批判するのは簡単だが、人生半世紀も経つと仲間が亡くなったり、身近に大病している人もいる。元気に弾けられるなら弾けておけばいいと思う。
そういう自分はどうなんだろう。エラそうに分かったようなことを書き殴っているが、どんな心理状態で遊ぶことと向き合っているのだろう。
冷静に考察してみると、焦燥感と欠乏感、枯渇感みたいな要素は多分にあると思う。そんなものは誰もが同じだろうが、結局はそこに辿りつく。
どこか満たされていない、何かが足りない。今の状態でいいのか。将来はどうなるのか。誰かに必要とされたい、誰かを求めたい等々、そんな欲求みたいなものが行動を支配しているような気もする。
いわゆる煩悩みたいなものだろうか。
まあ、こんな感覚自体が思春期の少年みたいでカッチョ悪いが、ひょっとすると今の私ぐらいの年頃は人生の第二思春期なのかもしれない。
「赤ちゃん返り」という言葉がある。高齢者の言動や態度が徐々に幼い子供のようになっていくことだ。
赤ちゃんから子供になって思春期を経て大人になって老人になっていくサイクルが、その後、どこかで反転して、また赤ちゃん時代に向かって戻っていくのなら、時間の流れの上では、50歳前後の中高年は思春期の段階だろう。
うん、なかなか面白い解釈?である。がむしゃらに遊びたがる中高年、何か満たされない想いの中でもがく中高年、すべてこれで説明がつく。思春期のやり直しみたいな感覚なのかもしれない。
今日は若い女性を年甲斐もなく追いかけるオジサマの醜態を書こうと思っていたのだが、途中から考えが変わった。
オジサマ達はどんどん女性のお尻を追いかければいい。思春期だったらガマンしたって制御は効かない。
「思春期イコール醜態」である。それなら開き直って弾けたほうが世の中がよっぽど明るくなる。
暴論になってしまった・・・。
2015年10月21日水曜日
ウィンナーシュニッツェル、ザッハトルテ
旅行ネタを4回も続けてしまって恐縮ですが、今回は最終回・ウィーン編です。
ウィーンと聞くと何となく高尚な響きに感じる。ベートーベンみたいな髪型をした人がウロウロしていそうな雰囲気だ。
帰国便がウィーン発だったので、せっかくだから帰国する前の日はマドリッドを朝っぱらに発って午前中にウィーン入り。せっせと散策してみた。
とはいえ、小雨模様の薄ら寒い天気だったし、さすがに旅の疲れも溜まっていたので、中心地を散歩した程度でアレコレ語れるほどではない。
でも、なんとなくキッチリとした感じが強かったし、日本人が思い描くヨーロッパの雰囲気そのものだったから根強い人気があるのも理解できた。
ホテルは「シュタインゲンベルガー」。ドイツの名門である。ウィーンでは高級ビジネスホテルといった位置付けだったようで、割と安く手配できた。可も無く不可も無くごく普通。
ランチでさっそくウィンナーシュニッツェルを食べに行った。ウィーンのトンカツである。
肉であり、揚げ物である以上、男子ならウホウホ言って食べまくりたいところだが、私ももう50を過ぎた分別のある大人の男である。
「トンカツ食わせるならソースだろ!ボケッ!」。
そんなセリフは胸の内にひっそり収めてレモンをぎゅぎゅぎゅっと搾って薄っぺらいトンカツを味わってみた。
マズくもないけどウマくもない。一般的には美味しいのだろうが、根っからソースマンとして生きてきた私としては「トンカツをレモンで食べる」という行為がダメである。
海外旅行には欠かさず持っていく「ソースの小瓶」はこの日の朝、マドリッドのホテルを出る際に処分してしまった。一歩早まってしまった。大失態である。
一緒に味わった郷土料理のナンチャラがたっぷり入ったコンソメスープもごく普通の味だったので、私の中のオーストリア料理はこれにて完結である。実にテキトーで安直である。オーストリアの人、すいません。
で、一生懸命に散歩に励んで夜に向けて消化を促進する。旅行の最後の晩である。まっとうな店で旅が無事に終わることへの祝杯を挙げたい。
寿司、焼き鳥、おでん、それ以外にもカウンターでの食文化が世界で一番発達している日本で暮らしていると、ヨーロッパを旅している際の「お一人様ディナー」に不便を感じることは少なくない。
カフェみたいな店やファストフード系の店、はたまたホテルのルームサービスなどで済ませることもあるが、時には真っ当なレストランにも行きたい。
この日も、一応、そういう固定観念が頭に浮かんだのだが、そこは50歳である。世界的に見ても50歳である。若造みたいに遠慮する必要などない年齢である。
気になった店には遠慮せず入ってみようと決意する。そんな気持ちになって街中を歩き回るとやたらと洒落たレストランが目に入る。
イタリアンが思った以上に多い。気軽な店から高級そうなリストランテまでアチコチで見かける。
で、イタリアンを最後の晩餐にすることに決定。とはいえ、店選びは失敗したくない。数件に絞った候補の店の様子を外からうかがいながら空腹待ちの散歩を続ける。
夜も更けてきて私自身がしっかり空腹になった頃、行きたい店を決めた。確か「Danieli」という名前の店だった。
かなり繁盛している。地元客が多いみたいだ。ボーイさん達もキチッとしているし、店の雰囲気が良い。
前菜に出てきた薄切りハムのトンナートソース、続いてパスタ、そしてメインの鶏肉料理である。
パスタはタコとトマト、バジル、ガーリック、鷹の爪である。オイルソースとクリームソースの中間ぐらいに仕上げられていて絶品だった。
メインのチキン料理は鶏が食べたいというより、メニューに書いてあった「リゾット添え」のひと言に惹かれてオーダーした。風味の強いキノコとパルメザンチーズがたっぷりのリゾットが絶品だった。
いい店だった。
で、気分良くなったので、あえてレストランでデザートは食べずに本家本元の「ザッハトルテ」を食べてみようとテクテク歩いて名門ホテル「ザッハー」に向かう。夜11時ぐらいまでカフェで味わえるらしい。
私は元々チョコレートケーキがあまり好きではない。そんな私がアーダコーダと論評してはいけないのだが、ちっとも感心しなかった。ウリは何なんだろう?
付け合わせのクリームの味も??だし、ケーキ自体の甘味に関する感度にも??である。
帰国便のオーストリア航空の機内で出されたチョコレートケーキが美味しかったから、「名物にウマいもの無し」という格言通りなのだろうか。ファンの人、すいません。
でも、土産に買って帰ったこの店のザッハトルテを食べた中学生の娘が絶賛していたので、私の味覚がズレているのかもしれない。
ということで、今回の旅行話はオシマイです。
ちなみに、最後の夜のレストランでメニューの小さな文字が読めなかった。いや見えなかった。いよいよ老眼鏡が手放せなくなったことが今回の旅の一番のトピックである。
2015年10月19日月曜日
マドリッドぶらぶら
トレドが目的地だった今回の旅。中継地である首都マドリッドを素通りするのも面白くない。ということで、今日は都合3泊滞在したマドリッドの話を書く。
2年前にバルセロナに出かけた際、スペインは地域ごとの特徴が思った以上に色濃いことを知った。東京人と大阪人みたいな次元ではない。だからサッカーの試合にあんなに熱くなるのだろう。
さて、マドリッドである。どことなく下町っぽい雰囲気を感じるアトーチャ駅に近いエリアの中級のホテルに滞在した。節約である。
「Catalonia Atocha」がそれ。中の上といったクラスだが、設備は最新で全体に清潔だった。広いテラスを持つ部屋があるという理由で選んだのだが、大正解だった。
葉巻をプカプカしたり、時にはカップ麺をすすりながら、心地良い風にあたる時間は非常に快適だった。
今回の旅では往路と帰路にそれぞれフランクフルトとウィーンに丸1日ずつ滞在したのだが、個人的にはドイツ、オーストリアといったどこか格調高く?キッチリした感じの国よりも、どことなくヌルい雰囲気が漂っているスペインやイタリアでウロウロするのが好きみたいだ。
コメも普通に食べられるし、バカでかい人も少ないし、なんとなくシックリくる。勝手な印象かもしれないが、全体的に陽気である。単純に気分が上がる。
さて、スペインといえばフラメンコである。観光客向けのショーも盛んだ。オノボリさん的なものを毛嫌いする傾向があった私だが、人生50年を数えるにあたり、くだらない拘りを捨てていそいそ出かけてみた。
結果は楽しかった。今後は世界中どこに行っても素直にオノボリさん的行動に励もうと思う。オノボリさんが集まる場所には集まるだけの理由があるわけだ。真理である。
フラメンコを見ながら飲んだり食べたりする店をタブラオと呼ぶ。私が出かけたのはシケたタブラオだったから、凄いレベルの高い演者が出てくるはずもないのだが、それでも充分迫力があった。ギターも踊りも歌も飽きずに堪能できた。
食事付きだったので、選べるメニューの中からパエリアを選ぶ。想像通りにインチキ?パエリア登場である。観光客用のタブラオで本格的な料理が出てくるとは思わなかったが、ここまで安直だと逆に感心する。
具が無い。画像に写っている小さな貝がすべてである。おまけに冷めている。作り置きだとしても、せめて熱い状態で持ってきて欲しいものである。
コメ大好き男だから嬉々として食べたが、西洋人の皆様には理解不能の一品だったかもしれない。
コメ大好き男としては真っ当なパエリアが食べたい。スペインにいる以上、絶対に外せない課題である。
日本では滅多に食べないのにパエリアへの欲求が妙に高まる。で、別な日、ホテルから歩いて行ける距離の店で食べたのがタコのパエリアである。
海老や貝類、チキンなどが具としては一般的だ。そういう無難な一品を頼めば良かったのに、つい「タコ」を選んだ。この選択は残念ながら失敗。
タコはとても柔らかくてウマい。でも、野菜がアホみたいに入っている。野菜嫌いの私にとってこれはダメである。
コメの硬さ、味は良かったのに実に残念。
というわけで、別な日にリベンジを果たしに行った時に注文したのは「イカ墨のパエリア」である。これなら野菜の心配はない。
翌日、トイレに行った際に、自分の身体に何が起きたのか一瞬錯乱しそうになったが、それも御愛敬である。
パスタのパエリアも現地ではポピュラーである。たいていはマヨネーズ風味が定番だから、ジャパニーズ・デブであれば、誰もが気に入るはずだ。
このパエリアは乾麺のパスタを適度な長さに折って使う。固い部分と柔らかい部分が混在して食感が楽しい。
パエリア以外に非常にウマかったのは「イカの揚げたやつ」。イカの切り身ではなく、ホタルイカよりも小ぶりなイカが丸まる揚がっている。レモンを搾ってバクバク食べた。ビールにも合うし、白ワインにも合うし、シンプルだけど一番印象に残っている。
定番のエビのアヒージョの画像である。タコパエリアの店で頼んだ一品だが、単純明快に海老がマズかったので、汁にパンを浸して食べた。パンのカケラの即席アヒージョである。固くてマズいパンが一気に生き返って実にウマかった。
軽くて爽やか、悪くいえば安っぽくて水っぽい白ワインをグビグビ飲んでいる時の最高の相棒になってくれた。固くてモソモソのパンを使うのがポイントかもしれない。
アラブ文化の影響を受けているスペインでは、イスラム圏で普及している水タバコを出す店をちょくちょく見かける。
20年前にエジプトを旅した際に、水タバコに完ぺきにはまって道具一式を手持ちで持ち帰ろうとした私である。今も見かければ必ずブカブカしたくなる。
2年前に行ったアンダルシア地方のグラナダほどではないが、さすがに首都・マドリッドである。水タバコが楽しめる“喫茶店”はそこかしこで見かけた。
紙巻きタバコを3か月ほど「休養」している私だ。相変わらず愛している葉巻は吸い込むものではない。ということで、久々の吸い込み系?を夜ごと堪能してきた。
こちらは食後酒に出された謎の液体である。おそらくグラッパのスペイン版だろう。度数は強いがトロリと甘く普通に美味しい。
ブドウの絞りかすを蒸溜して作るこの手の酒は、スペインではオルホと呼ばれるが、ラベルを必死に解読しようにも、そんな言葉は見当たらない。
「Aguardiente」という言葉には「サトウキビから作った蒸留酒」という意味もあるそうだから、まあ、いずれにせよそっち系の酒だ。
ボトルごと持ってこられると、飲み口が良いからつい2杯、3杯とかっ込んでしまう。サービスで出されたものを飲みまくるのもヤボだがウマかったからしょうがない。
おかげで毎晩、ホロ酔いでご機嫌だった。
常に酒かっくらって煙をブカブカしていたわけではなく、ちゃんと?美術鑑賞にも励んでみた。
一応、こんな私だって、パリに行けば必ず複数の美術館に行くし、フランクフルトでのわずかな滞在時間にシュテーデル美術館に足を運ぶ。アムステルダムでもレンブラントをわざわざ見に行ったし、今回も少しはアカデミックに過ごした。
今回はプラド美術館とティッセン・ボルネミッサ美術館を足が棒になるまで見学した。宗教画は意味も分からないし、疲れちゃうので、今回も結局感動することはなく、ありがちな印象派の絵を眺めてホッとしていた。
トレドに行く前に予習のつもりでしっかり鑑賞したエル・グレコの絵も「顔色の悪いオッサンばかり」という情けない感想しか思い浮かばなかった。
昭和のコメディアン・三木のり平そっくりな肖像画に出会えたことを収穫だったと思うあたりが私の鑑賞眼の限界である。
ということで話があちこち飛んだマドリッドの話はこのあたりでオシマイです。
2015年10月16日金曜日
ファーストクラスの人
スペイン旅行の第二弾です。
ひたすら真摯な?気分で散策したトレドの他に首都・マドリッドにも都合3泊してぷらぷらしてきた。
でも、今日はマドリッド探訪の話ではなく、富豪?らしい飛行機ネタを書いてみたい。
実は、行きの飛行機はファーストクラスに乗ってしまった。我ながらビックリである。
もちろん、有料ではない。そんな資金があったら現地でさんざん靴を買ったほうが嬉しい。あくまで貯まりまくったマイレージのおかげである。
マイレージの無料航空券だからとはいえ、わざわざファーストクラスを選ぶのもバカみたいである。必要となるマイル数もデカい。
しかし、今回は私が希望していた出発日にヨーロッパ行きの無料航空券枠の空席がなかなか見つからず、なぜかルフトハンザ航空のフランクフルト行きに空席を発見。しかし、ビジネスクラスではなくファーストクラスである。
聞くところによると、ファーストの無料枠は直前になってわずかな席数だけ解放されるらしい。狙っていたわけではないが、成り行き上これを押さえちゃたほうが希望の日程がスムーズに組めるから、思い切って予約した。
巣鴨の居酒屋でホッピーを飲む話を書くより「ファーストクラスでキャビアを食べた話」のほうが“富豪”っぽい。このブログもたまにはこういうネタを繰り出さないと名前負けである。
で、キャビアである。もちろん、セコビッチ男爵である私としては、サーブされる時に「もっと盛ってくれ」と図々しくお願いした。
ホントはイクラとかタラコとかカラスミのほうが好きなのだが、そこは「ファーストクラスの人」である。「キャビアなんか毎日のようにオヤツで食ってるもんね」と言いそうな表情を無理やり作ってみた。
運が良いのか悪いのか、ファーストでは日本人乗務員を一度も見かけなかったので、何事もドイツのオバサマが相手だ。
妙齢の日本人女性よりドイツのオバサマのほうがドギマギしないで済む。言葉も通じないからかえって気楽だ。
「こらっ!キャビア、もっと盛らんかい!」という私の要求だって、ごく普通に日本語で言ってみたら普通に通じた。ウッシシである。
座席を横から撮影するとこんな感じである。ぱっと見た感じは一般的なビジネスクラスより少し余裕があるぐらいに見えるだけだ。
しかし、実際には画像では伝わらない「ゆとり」が特筆すべきレベルだった。まずは座席の横幅が格段に広い。そのうえ、フルフラットにした時の圧迫感の無さがさすがだった。
適当なタイミングで乗務員さんがシーツをセットしてくれる。こんな経験は初めてである。ちなみにこの乗務員さん、身長が180㎝ぐらいあったから、実際のシート(ベッド?)はもっと大きく感じる。
そういえば、もう20年以上前の話になるが、当時親しくしていた某航空会社の乗務員の女性がズルしてくれて、格安エコノミーチケットで乗り込んだ私をファーストクラスに移してくれたことがあった。
のどかで良い時代だった。でも、当時、シーツまでセットするようなサービスはなかったし、ファーストと言っても、ただスペース的に余裕があるだけだった印象がある。なによりも今ほど個室的環境を意識したサービスではなかった。
で、エラそうに横になった私の画像である。
寝間着感覚で持ち込んだスウェット着用中である。大柄な私でこんな感じだから横幅のゆとりは相当なものだと思う。
変な話、熱々カップルなら二人でくっついて横になって結構本格的なプレイ?が可能になるぐらいのゆとりがある。
困ったのがモニターの画面サイズである。座っている時ならともかく、ごろんと横になると遠すぎて見えない。これって贅沢な話である。
仕方ないから、映画を見る際は、あぐらをかいて前のほうに座ってみたり、毛布や枕を背中側にたくさん積んで壁を厚くしてモニターを見やすくしたり、変なところで苦労した。
いろいろな映画がズラッと用意されているなか、私が選んだのはこれだ。「Biri Gyaru」である。
はじめはインドの映画かなにかだと思ったが日本語である。こんなタイトルをローマ字表記して何の意味があるのだろう。ドイツ人が「ビリギャル」って読めたところでどうにもならない。
有村架純ちゃん主演の最近の映画である。劣等生が一念発起して慶応大学に合格する話だ。
ファーストクラスでキャビアにシャンパン、そしてビリギャルである。実に自由!である。
ちなみに、ビリギャルを見て結構本気で泣いてしまったことは恥ずかしいから内緒だ。
食事もいうまでもなく、ちゃんとした皿に盛られた本格的なものだった。正直、飛行機のなかで食べるものに期待などしていないが、焼きたてみたいなパンは出てくるし、肉料理だって相当ハイレベルに感じた。
さすがにヨーロッパの親玉・ドイツのエアラインである。
12時間の長時間フライトもこんな快適なスペースで過ごせればあっと言う間である。ちっとも疲れなかったし、不都合なことがまったく無かった。
眠りたくなれば、一輪挿しに向けられたスポットライトだけを灯し、マッタリ気分になっていればストンと眠りに落ちる。
ついでにいえば、この機材である「747-800」は室内の静かさに定評があるらしい。まさに至れり尽くせりだった。
結論としては「知らなきゃ良かった」。この一言に尽きる。
知ってしまったら、またいつかそれを求めたくなってしまう。まさに「知ってしまった悲しみ」である。
ちなみに帰国便はオーストリア航空のビジネスクラスだった。各航空会社のビジネスクラスのなかでも快適性やサービスの良さで定評がある。コーヒーなんか8種類から選ばせてくれるサービスまであった。
充分に快適だったし、文句もない。でも、行きのファーストクラスを思い返すと違いはある。座席はフルフラットになるから素直に喜ぶべきなのに、横幅が狭く寝返りがうてないなどと飛行機という環境を忘れたかのような贅沢な思いが頭をよぎる。
ファーストクラス体験、かつてなく快適だったから、この先ずっと自慢話にしたいところだが、早く記憶から消したほうが賢明かもしれない。忘れちゃったほうが自分のためだ。
でも、頑張ってエラくなって毎度毎度ファーストクラスに乗るのが普通になるように向上心を持つことも大事だ。
う~ん、さすがにそれは厳しい。やっぱり忘れちゃうほうが簡単そうである。