年末年始の休みが長かったせいでダラケモードが消えない。休みの長さって程度問題だとつくづく感じる。長過ぎると逆に疲れる。10億当たると信じて疑わなかった年末ジャンボが大惨敗だったせいもある。
休み中はウニやイクラや豚肉やドーナツをやたらと食べて過ごした。ほとんど家の中にいた。遊びに来た息子と散歩に行ったのと、箱根駅伝の最終10区の激走ぶりを歩いて見に行ったぐらいでダラダラしていた。
ダラダラしていると当然ながら夜の寝付きが悪くなる。ほぼ毎日睡眠薬のお世話になった。クセになっちゃった感じだ。遠からず着実にボケそうな予感がする。
さて、寝付けない夜の時間は沈思黙考の時間でもある。私はナゼか昔から沈思黙考という言葉が好きだ。深い意味はないが、ざわざわした日常の対局みたいな気がする。
せわしない日頃の暮らしの中で黙っていろんなことに思いを馳せる時間って案外と少ない。ただ、あまり考えすぎるとネガティブ思考に陥ってしまうのが人間のサガだ。ウツウツしちゃいがち。
そんな「沈思黙考タイム」だが、やはり楽しいこと、前向きなこと、はたまたスケベなことなどもテーマにしたい。そういう「ポジティブ沈思黙考」は脳の活性化にも良い影響があるはずだ。
暮れも押し迫ったとある夜に日本橋界隈を一人で散歩した。夜の10時ぐらいなのに見事に人がいない。ちょっと独特の景色が広がっていた。お江戸日本橋のド真ん中である。わずか2,3日後には箱根駅伝の見物客で立錐の余地もなくなる日本橋や中央通りにまったく人がいなかった。
こんな光景の中をのんびり歩いたり佇んだりすると頭の中にいろんなことが浮かぶ。ジャンルを問わず自分にかかわるヨモヤマ事がドシドシ押し寄せてくる。必然的に頭の中を整理する良い機会になった。脳内リフレッシュ効果は意外にあったと感じる。
さてさて話が変わる。寝付けない夜が多くなってきたから私のプチ宝物の置き場所を移動してみた。今までは書斎スペースのデスクの上に置いていた仏像のフィギュアをベッドサイドに持ってきた。
国宝第一号いうことでも知られる京都・広隆寺の弥勒菩薩のフィギュアだ。何年か前に実物を間近で見てファンになった。その後も何度かわざわざ見物に行っている。
この簡易なミニチュアは都内の某フィギュア店で衝動買いをした。優美な指先のラインがなかなか忠実に再現されている点に一目惚れした。
広隆寺にあるホンモノに比べると表情はさすがに冴えないが、それなりに“菩薩チック”な柔和さを感じられて悪くない。そんなことよりキモになる指先の優美さが素敵だ。ついつい見とれてしまう。
寝室に持ってきた理由は、寝つく前に点けている間接照明の前に置きたくなったから。優美な指先のシルエットが暗くした部屋の中で魅惑的な存在感を発揮することに期待したわけだ。
で、こんな感じになった。なかなか良い。何となく心が安らぐような気がしないでもない。これをしばし眺めることで気持ちが沈静化してスヤスヤ寝られるはずだ。
と思ったのだが、結局は毎晩のように弥勒菩薩の位置を微妙にズラして悩んでいる。1センチ2センチの角度の違いで優美な指先のラインの見え方が変わる。ベストポジションを求めてそれこそ右往左往している。
で、せっかく眠気がやってきても指先問題が気になるとモソモソ動き回って気づいたら目が覚めているという悪循環に陥っている。バカである。
やはり神頼みには期待しないほうがいい。昨年は本厄なのに厄払いをサボってしまった。一応今年は後厄だから厄払いに行こうかと思ったのだが、昨年がとても良い一年だったから縁起を担いで初詣もろともサボることにした。
無宗教ながら“神サマ”的な存在への畏怖の気持ちは人並み以上に持っているつもりだ。だったらちゃんとお参りに行けばいいのにナゼかサボりがちだ。
でも、そんなユルい宗教心がこれまで60年もの間、大過なく過ごせてきたバックボーンになっているのも事実だ。逆に今さらマメマメしく参拝だのお参りだのに躍起になったら逆に不自然な気もする。
という単なる言い訳をもっともらしく語りながら今年も暮らしていこうと思う。

