飲み屋のカウンターで隣に座っていた大人の男が「自分探し」とか言っているのを聞いた。青臭いというかお子ちゃま的と呼ぶべきか、一体なんなんだろう。
「自分」などというものは物心がついた時には出来上がっている。少なくとも高校生ぐらいの頃の自分と現在の自分を比べても、両極端の人間になっているような人は稀だろう。
賢くなったとか、ずるくなったとか、要領が良くなったとか、社交的になったとか、スケベになった、図々しくなった等々、それなりに変化はあるが、心の底にある感性みたいなものは大して変わっていない。
「自分探し」。こんな言葉をのたまうのは、集中すべきことから逃れたいとか、ブラブラしていたいという怠惰への言い訳だ。百歩譲って、現状を打破したい欲求とも言えるが、それですら、単なる逃避だったりする。
まあ、若者特有のカッコ付けのための言葉に過ぎないのだろうが、一応もっともらしく聞こえるからタチが悪い。
本心からそんなことを思うなら、見知らぬ飲み屋のカウンターに一人陣取って1時間ぐらい黙って座っていれば済む話だ。それを一週間に3回ぐらいやれば、アホでも自分の状態は理解できるだろう。夜行列車の旅なんかに出なくても自分の姿ぐらい分かる。
もちろん、自分自身のことを理解できていても、それを肯定してやるか、嫌悪するかで心の在り方は大きく変わる。
私の場合、甘やかしかもしれないが、最近、自分のことを以前よりも肯定する気になってきた。「自分探し」ならぬ「自分癒し」みたいなもんだ。
自分に対して文句を言いたい点は山ほどある。自己嫌悪する部分もたくさんある。懺悔とか無念みたいな感覚だらけだ。それはそれで棚に上げて、ちょっとは自分をいたわって?やりたい気分になることが増えた。
これって、開き直りというか、自分に都合の良い話ではある。その通りである。開き直って自分勝手なワガママを押し通すわけだからカッチョ悪い。でも仕方ない。
しょせんは弱っちい人間なんだから、理想論みたいな綺麗事ばかりを是とすればウツウツしてしまう。ウツウツしてしまったら全てが悪循環になる。だったら自分をヨイショして前向きなエネルギーを生むようにしたほうが良い。
まあ言ってみれば、自分で自分をおだてたり、騙してやった方が生産的だと思うから、「自己肯定」をモットーにしてみようと企んでいる。
自己愛などというと大げさだが、ある意味、それもまた大事だろう。誰も愛してくれないのなら自分で愛してやらなきゃしょうがない。
うん、だいぶ強引な論法になってきてしまった。
世の中のオッチャン、オバチャンが有り得ないほど図々しい生き物に進化していくのはこういう心理面の変化がきっかけなのだろうか。
エラソーに書き綴ってみたが、要は、自分の情けないダメぶりがいよいよ正視できなくなって、自己正当化のために四の五の言いたくなっただけかもしれない。
いや、威勢良く書いてはみたが、そういう風に出来ないから活字にして自分に言い聞かせている部分もある。
多分、そんなところだ。
一人で暮らし始めて4ヶ月ぐらいになる。さすがに自分を俯瞰する機会が増えた。ふむふむ、オレってこんな部分もあったんだと感心したり、呆れたり、結構面白い。
寂しいかと聞かれたら、そりゃ寂しいが、ツラくて困っちゃうほどではない。人間、生まれる時も一人、死ぬ時も一人だ。割り切ってアッケラカンとしていたほうが幸せだろう。
なんだか今日は単なるグチばかり書いてしまっている。こういう日は、職場の近くにある樹齢600年のイチョウの大木でも眺めに行く必要がありそうだ。
その大木を見ていると自分のウジウジした気分がいかにもチッポケに思えるので時々散歩がてら見に行く。そんな気分転換も必要だろう。
●「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。
鴨長明先輩が語った通りである。
●「諸行無常」。
釈迦先輩が語った通りである。
●「ぽっぽぽぽぽぽ、ぽっぽ~」
ねずみ先輩が語った通りだろう。
まあ、なんとか楽しくやっていこう。