東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2018年1月31日水曜日
クルマ社会の忖度(そんたく)
先日の大雪のあと、しばらくスタッドレスタイヤを装着したコンパクトカーを借りていた。一昔前の日産ティーダである。主に雑用に使われている会社のクルマだ。
地方でレンタカーを借りる際も小ぶりなクルマを選ぶ。昔と違って国産のコンパクトカーは実に快適だ。
室内も結構広く窮屈な感じはあまりない。嗜好性の強いクルマが持つ「官能の世界」は皆無だが、ツールとしては最高だと思う。
あと10年、いや20年ぐらい経って、私の邪気が無くなったら国産コンパクトカーが欲しくなるのだろう。
便利さ、手軽さでは無敵なコンパクトカーだが、困った弱点もある。世間からの扱いだ。割り込みはさせてもらえないし、煽られたりもする。かなりシビアである。
俗にいう高級車との違いは明白だ。一言でいえば世間が“忖度(そんたく)”してくれない。ヘタすると小バカにされたような気がする。
高級車といってもデカいベンツや派手派手のフェラーリなどに限らず、そこそこ押出しの効いたデザインの国産車だって、わがティーダ君よりは、世間が配慮してくれる。
配慮とまでいかなくても、一応、道路上でその存在を意識してもらえる感じがある。それに比べて、一昔前のティーダなんてまったく無視されている。
真面目な話、これって安全面を考えると由々しき問題である。危ないったらありゃしない。
私の普段の愛車は、それなりに押出しの効いた顔付きをしている。別にエバって運転しているわけではないが、ティーダ君に比べると、割り込みや片側通行の譲り合いの際に親切にしてもらえる。
見た目の効用って意外に大事だ。動体視力や反射神経が弱ってきた中高年は、クルマ自体のパッと見のインパクトを重視して選んだ方が安全だろう。
道路上で繰り広げられる馬鹿みたいだが厳然と存在するビミョーなサヤ当ては、安全面に絡むほどの影響がある。頻繁に運転している人なら理解できると思う。
私自身、自分の前に割り込みたがっているクルマがご立派なベンツだったら、無意識のうちに譲っている。これがオンボロのコンパクトカーだったらウィンカーを出されても無視しちゃうこともある。
チンケな人みたいで情けないが、それが現実だろう。
いままで、随分とクルマを乗り換えてきた。ガラにもなく、キャデラックやSクラスのベンツに乗っていたこともある。いま思えば車線変更がやたらラクだったのだが、世間からの忖度のおかげだった。
その一方で、コインパーキングに一晩泊めていたら、ボンネット、トランク、ドア4枚すべてにウン〇の絵をギザギザに刻まれた事件もあった。
他のクルマに乗っていた時も開けていた窓越しに火のついたタバコを投げ込まれたこともある。
パッと見がエラそうな印象のクルマだと、一応そういうリスクもある。まあ、そんな珍事はいずれも若い頃の話だ。今よりも私の行動がガサツだったから被害に遭ったのだろう。
今ではすっかり牙を抜かれたようにノソノソと上品に運転しているから、世間様から攻撃されることはないはずだ。
考えてみれば、高級車と呼ばれるクルマがエラそうにブイブイ走っているのは実にみっともない。野暮の極みだと思う。
見た目だけでそれなりにアピールできているのだから、これみよがしにウェイウェイするのは相当カッチョ悪い。お里が知れるという言葉を思いだす。
などとエラそうに書いてしまったが、実際の私はまだまだ成熟していない。ノロノロ走っているポルシェなんかが前にいると、「ノロマならそんなクルマ乗るなよ、ボケ!」などと、お下品なセリフを一人で叫んでいる。
2018年1月29日月曜日
祭りのあと 女呼んでブギ
サザンオールスターズが今年でデビュー40周年なんだとか。40年って物凄い話である。あのインベーダーゲームも今年で誕生40年だ。そのぐらい昔から人気を維持している。
それだけ長期間にわたって、一線で活躍しているわけだから、まさに希有な存在だ。
あの美空ひばりだって、40年ぐらい第一線で活躍したが、世代を問わず幅広く支持されているという点では、やはりサザンは歴史的なバンドだ。
サザンがデビューした頃、私はまだ小学生気分が抜けない年頃だった。「勝手にシンドバッド」というデビュー曲のタイトルに子供なりにぶっ飛んだ覚えがある。
沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」を合体させた意味不明のタイトルである。当時、サザンをコミックバンドだと思った大人が多かったのも当然だ。
そして、翌年になって大ヒットしたのが「愛しのエリー」である。その落差の激しさというか、天衣無縫ぶりに世の中が圧倒された。
と、わかったように書いているが、私はサザンのファンではない。若い頃にCDを買った覚えもないしカラオケで熱唱することもない。
とはいえ、世代的にいつもサザンの曲が身近にあったのは確かだ。
最近、よく聴くようになったのが「祭りのあと」という桑田佳祐のソロ曲。メロディーラインの心地良さに加えて歌詞も泣かせる。
https://www.youtube.com/watch?v=NTH7We3tS_w
♪ 野暮でイナたい人生を
照れることなく語ろう
悪さしながら男なら
粋で優しい馬鹿でいろ
底無しの海に
沈めた愛もある
酔い潰れて夜更けに独り
月明かりのWINDOW
悲しみの果てに おぼえた歌もある
胸に残る祭りのあとで
花火は燃え尽きた ♪
とても素敵な詩だと思う。「粋で優しい馬鹿でいろ」の部分が格好良いが、人生を「野暮でイナたい」と表現するところが凄い。
長く一線で活躍するロックバンドやミュージシャンの多くが、教条的というか“硬質”な詩の世界をウリにしている。
サザンや桑田佳祐に対する世間のイメージは、どちらかといえば、歌詞ありきというより、パフォーマンスや曲のパンチ力にあるように勝手に思っていたのだが違ったみたいだ。
そういえば、不倫を描いたサザンの名曲「LOVE AFFAIR 〜秘密のデート」にも何とも言えない絶妙な歌詞表現がある。
♪ 愛の雫が果てた後でも
何故にこれほど優しくできる ♪
この感覚は禁断の恋に身を焦がした男であれば、激しく大きくうなずいてしまうはずだ。実にグッとくるフレーズだ。
恥ずかしながら、わがオジサマバンドにも不倫をテーマにしたオリジナル曲がある。昨年のライブでも披露したのだが、作詞は不肖ワタクシである。
あーだこーだと言葉を盛りまくってそれっぽい世界を描いたつもりだが、上で紹介した桑田サンのわずか2行の言葉に比べれば稚拙そのものである。
まあ、比べること自体が図々しいのだが。
今年も新たなオリジナル曲を披露しようと頭をひねっているのだが、大人の男の哀感をテーマにしたくても、冒頭で紹介した「祭りのあと」の歌詞を思うと、自分の凡人ぶりが哀しくなる。
やはり詩の世界にも天性の才能が必要なんだろう。
桑田サンの詩といえば、彼が若い頃に作った「女呼んでブギ」が秀逸である。当時は単なる悪ふざけにしか聴こえなかったが、酸いも甘いも噛み分けた今になって思えば、こんな詩がかける人は純粋に天才なんだと思う。
♪ 女呼んで もんで 抱いて
いい気持ち ♪
真理である。これを歌にしちゃった感性が、40年も活躍できる源だと思う。
2018年1月26日金曜日
セックスミネラル
強壮効果のある食べ物を意識するようになったのはいつ頃からだろう。健康を考えるというより、“精がつく”ことを重視してしまう。オッサン街道まっしぐらである。
精がつくといっても、アッチのことばかり考えているわけではない。でも、そっち方面に良ければ必然的に生活全般に好影響である。
目覚めがスッキリする、疲れが取れやすい等々、そういう状態でいられることが大事である。あくまでそれが目的である。本当だ。
もちろん、アッチへの相乗効果につながれば尚更嬉しい。でも、そんな場面は毎日あるわけではない。あくまで日常をスッキリさせることが狙いだ。
馬肉ざんまいである。馬肉は低カロリー高タンパクでスタミナの代名詞みたいなものだ。江戸の頃には吉原通いの前に馬肉の鍋を突っつくのが定番だった。
これは銀座にある「馬春楼」の馬刺しの盛り合わせ。この日は刺身の他に鍋や馬肉メンチカツなどを食べた。
精がつく料理は数々あれど効果を実感することはまずない。翌朝、変なトコが変に反応することもない。
ホントに効いているのか疑問である。まあ、何かを食べたところで効果を実感するほど私の肉体は若くはない。
以前、すっぽんのフルコースに招かれ、生き血までコップで飲まされたが、翌朝になってもアイツはウンともスンともいわず、いつものように惰眠をむさぼっていた。
そうはいっても、目に見えない部分で身体に良い効果が生じていると信じたい。逆にスタミナや強壮効果に期待できない食べ物ばかり食べていたら、グダグダ、ダラダラ、デロデロの日々を過ごしているのかもしれない。
朝の生体反応?がなくたって、大事な局面になればヤツは今も暴れん坊、いや、「暴れん棒」になっているから、やはり日頃の食べ物に意味はあるのだろう。
私がこの世で一番好きな食べ物がウナギだ。こちらもビタミン類や亜鉛が豊富で、精がつく食べ物だ。まだまだ現役生活を続けたい私にとって一石二鳥である。画像は日本橋「大江戸」の鰻重。
亜鉛のことを俗に「セックスミネラル」と呼ぶそうだ。凄い言葉だと思う。亜鉛が豊富な食べ物を喜んで食べるのが恥ずかしくなる。
以前、何かの本に「結婚とは夫婦がセックスパートナーであることを社会に認めさせる制度」と書いてあったが、それと同じぐらい短絡的かつ的確?な表現だ。
亜鉛といえばカキだ。まさにセックスミネラルフードである。そう考えると女性を連れてオイスターバーに行くことは、なかなかエッチな状況に思える。
私自身、疲れている時に無性にカキが食べたくなってテキトーにカキをメインにしたパスタを作ることがある。150グラムほどのパスタに対してカキを10個以上投入してムホムホ食べる。元気の源になっているのかもしれない。
ちょっと調べてみたら、亜鉛はカニやカツオ、カラスミなどにも多く含まれているそうだ。私が好きなモノばかりだ。
プリン体が多いという問題点もあるが、悪い部分を気にするより素敵なギンギン効果、ビンビン効果に意識を向けた方がオトナとしては楽しい。
カラスミなんて身体に悪いと思ってちょこちょこツマミにしていたのだが、これからはドシドシ頬張ってみようと思う。こちらは、銀座「さ久ら」での一コマ。
ゴマも亜鉛が多く含まれている食品だ。夏場のそうめんにはアホみたいにスリゴマを投入するが、冬場はなかなか食べる機会がない。
特製ゴマだれの話はこちら。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2015/04/blog-post_24.html
とはいえ、ゴマをベースにしたセサミンというサプリを5年以上欠かさず飲んでいるから良しとしよう。
ちなみに、スタミナ食の代表が肉である。肉を食べるようになってから日本人の寿命が飛躍的に伸びたという説もある。
ただし、身体に良いのは赤身だけだ。脂が多い部分や油で揚げてしまうと、逆に消化に労力を要して内臓疲労を招くらしい。
肉の中でも、強壮効果という点では鶏肉がとくに良いそうだ。ウソかホントか「鶏肉好きは精子が多い」というオッタマゲな統計もあるんだとか。
いまさら精子の数を増やしても私の人生が変化するわけではない。でも、パワーの源になるのなら鶏肉をもっとワシワシ食べようと決意したくなる。
鶏のレバーは、各種ビタミン類の含有量が全食品!の中でもトップクラスだという。
おまけに鉄分や亜鉛も多く、アッチ方面も強力にサポートしてくれる。画像は私の秘密基地である某焼鳥屋さん「T」のレバ炙りポン酢である。
なんだかアレコレ書いてきたが、私が日頃好きで食べているものは、強壮効果、いわばアッチ方面に貢献している優等生ばかりである。
偶然なのか必然なのかよく分からない。きっと偶然だ。いずれにせよ、そんなものばかり食べ続ければ、「生涯現役」という壮大な?目標も達成できるかもしれない。
2018年1月24日水曜日
寂しさと侘びしさ
寂しくないですか?とよく聞かれる。単身世帯が凄い勢いで増えているのに、世の中では「一人暮らしイコール寂しい」というイメージが根強い。
体調不良で寝込んでいれば、心細くなるが、心細いと寂しいは別モノだろう。そもそも「寂しい」という定義が難しい。
一人で見知らぬ土地を旅して、夕陽を眺めていると寂しい気持ちになる。とはいえ、あの寂しい気持ちは旅情を味わえる醍醐味でもある。
寂しいことは悪いことではない。大衆酒場のカウンターで一人ポツンと燗酒をすすっている寂しさは、むしろ心地良い。安堵に近い感覚とでも言おうか。
寂しさよりも「侘びしさ」のほうが厄介だと思う。寂しいと侘びしいの厳密な違いはよく分からないが、「侘びしい」には“情けない”“切ない”といった一種の自虐的ニュアンスが含まれているように思う。
いい歳した大人のシングルライフは、寂しさよりも侘びしさとの闘いである。パリッとしたスーツでキメているくせに、帰宅途中に長ネギがハミ出たレジ袋をぶら下げていると「侘びしいな~」という気分になる。
一人になって今年で6年目になる。最初の頃は家事全般に慣れてないせいで、侘びしい気分になることが多かった。
ふとんカバーの交換がうまく出来なかったり、洗濯物を取り込むのに手間取ったりするたび、侘びしさが襲ってきた。
その後、家政婦さんを頼み始めたことでメンドーな作業から解放された。おかげで一気に侘びしさからも解放された。
家政婦さんサマサマである。
頻度は週に一度。それで充分である。私が出勤している間に、全体の掃除の他にシーツやふとんカバー、足元マット類などの洗濯、交換をやってもらう。
それ以外にも、頼んでいるわけでもないのに換気扇周りの掃除やベランダまで綺麗にしてくれる。
おかげで、一時期は恋人みたいな存在だったロボット掃除機・ルンバも使わなくなり、結局、人にあげてしまった。
私自身が整理整頓をする習慣がついたことも大きい。あまり散らかっていると家政婦さんに入ってもらうのに気がひける。そんな見栄?もあって普段から割とキチンとするようになった。
怪しいグッズは、絶対に見つからない引き出しの奥底にしまうし、エロ動画しか見ないパソコンも念のため閲覧履歴を消去している。
涙ぐましい努力である。でも、こういうところで頭を使わないとボケちゃうから一種の脳トレみたいで悪くない。
侘びしさを感じないで済んでいるのは、家政婦さんのおかげだけではない。洗濯物はマンションの受付に持っていけば業者さんとのやり取りを代行してもらえるし、面倒な買物はネットスーパーで済む。
所帯じみた行動を避けたがるのが古い体質の男の特徴だろう。“男子厨房に入らず”は極端だとしても、家事全般への抵抗感は私にも少なからずある。
今の時代、そんな昭和的思考ではダメだと分かっているが、染みついちゃってる感覚だから仕方ない。
家事全般を得意気にこなす男性を内心ではカッチョイイと思っている。でも、自分のことになると、ついつい昔の男っぽさを気取りたくなる。
でも、侘びしさと家事を関連づけちゃうことがホントは不自然なんだろう。逆に「家事エキスパート爺さん」を目指したほうが建設的かもしれない。
船越さんの元嫁が「マツイ棒」なる掃除グッズで一財産を築いたことは有名だ。これからの時代、シングルオジサンやシングル爺さんは増える一方だから、そういう人達をターゲットにした便利グッズも開発して億万長者を目指すのも悪くない。
そんな呑気なことばかりホザいてるわけだから、つくづく平和である。
2018年1月22日月曜日
タラコに恋してる
寝ても覚めてもタラコのことを考えている。
ウソです。
でも、そう言いたくなるぐらいタラコが好きだ。明太子に押されて昔より地位?が低下した印象があるタラコだが、昭和の東京では明太子より断然タラコが優勢だった。
昔は流通の関係もあってか、今のようなフレッシュな生タラコより、火が通ってボソボソになったタラコが多かった。あれはあんまり美味しくない。
生のままだったり、軽く炙ってレア状態のタラコこそ私が愛するタラコだ。そのままで良し、酢に付けて食べるのもウマい。
酢に付ける食べ方は、子どもの頃に祖母をマネしてクセになった。炊きたてご飯の共にすると最高なのだが、人に勧めてもたいていは共感してもらえない。そんなに変だろうか。
近代ニッポンの大発明の一つがタラコスパゲッティである。日本独自のパスタ料理だ。日本人の食に対する卓越したセンスを象徴する一品だと思う。
私にとってタラコスパゲッティは、おふくろの味の一つである。子どもの頃の大好物だった。パスタなどという呼び方が普及していなかった40年ぐらい前の話だ。
ミートソースとナポリタンしか見当たらなかった時代だから、我が家は割とハイカラだったのかもしれない。
タラコスパゲッティの元祖は「壁の穴」というレストランだとか。私も高校生時代、渋谷の店に何度も行った。でも、家で食べるほうが何となくシックリきた。子どもの頃に感激した味はやはり無敵である。
冷凍パスタがビックリするぐらい美味しくなった最近でも、タラコスパゲッティに関しては私を悶絶させる商品はない。
そこそこウマいのは確かだが、何かが物足りなく感じて、いつも別途に生タラコをいっぱい混ぜ合わせて自分流にアレンジして食べている。
タラコの思い出は他にもある。高校時代、人の弁当を勝手に早弁するという極悪非道なことをしていた。ヒドい話である。
我が子のために頑張って作った弁当がヨソの子に食べられちゃうわけだから友人の母親からすればブチ切れる話だろう。
私がお気に入りだったのは某友人の弁当。いつ食べても美味しい。ある日、おかずの一つにあったのが「しらたきのタラコあえ」。
ダシの味も効いてタラコとしらたきが混ざり合う食感もいい感じで素晴らしかった。その後、私の報告?を受けた我が家でも定番料理になったほどだ。
今もその友人とは時々飲んだりするのだが、話題はいつも「しらたきのタラコあえ」である。
話は変わる。先日、「タラコ焼きおにぎり」をムホムホ言いながら食べた。目白にある「鮨おざき」でのこと。
寿司飯を使った焼きおにぎりは、ほのかなシャリの酸味がアクセントになって単純明快に美味しい。
この日はタラコをシャリにまぶしてもらった。画像は醬油を塗ったバージョンとプレーンのバージョンである。どっちもウマかった。
酢飯とタラコという抜群のコンビを焼きおにぎりにするわけだからマズくなるはずがない。
マグロだカツオだ鯛だヒラメだと上等な魚が揃っているのに、それらには目もくれず、タラコ焼きおにぎりにやたらと感激してしまった。
子どもみたいだ。
2018年1月19日金曜日
上海ガニでフニャフニャする
相も変わらずカニが好きだ。ズワイ、タラバ、毛ガニが三大ガニと呼ばれるが、マトモなカニならどれだってウマい。
カニのための旅だって何度もしてきた。北海道、北陸、山陰、佐賀の有明海沿いまでワタリガニを食べるためだけに出かけたこともある。
個人的には毛ガニが一番好きだが、カニと名が付けば沢ガニだってワタリガニだってヤシガニだって手を出す。
この画像は、12月末に那覇の居酒屋で食べたヤシガニだ。そこそこの味だと知っているのに、メニューにあれば高値でも注文しちゃう。
「そこそこ」なのに、ちゃんとしたフカヒレの姿煮が食べられるほどのコストを払っちゃうのだから物好きである。
ちなみに、私の体温は平熱が36度2~3分である。やや低めだ。一般的にカニは身体を冷やす食べ物だといわれるが、私の平熱問題もひょっとするとカニが原因かもしれない。
さて、今日はカニの中でも中華料理屋さん専属?の上海ガニの話だ。
基本的に淡水系のカニだから味自体は淡白でどうってことない。ミソや白子、内子といったオトナ好みのパーツこそがウリである。
そして、料理王国・中国だけに、俗に酔っ払いガニと称する紹興酒や老酒に漬け込んだ一品は、やはりタダモノではない。
冬のお楽しみである。それこそ温めた紹興酒とセットで味わえばフニャフニャした気分になれる。
ミソやら白子やらが酒の味をまとって口の中を幸せにしてくれる。ジュジュジュワ~ンって感じ。
この日、訪ねたのは神保町にある「全家福」。上海ガニをさまざまなアレンジで楽しませてくれる店だ。
酔っ払いガニの応用編のような「山椒、白酒漬け」や「にんにく塩漬け」といった珍しい食べ方も楽しめるので、少しずつアレコレ注文するのが正解だろう。姿蒸しもほぐしてくれるからラクチンだ。
この時期は上海ガニコースもいろいろ用意されているが、私の場合、野菜炒めみたいな余計なモノが出てくると興ざめなので、単品でちょろちょろ頼みたくなる。
この日、とくに感激したのが「上海ガニミソチャーハン」だった。しっかりカニ味噌のコクが感じられてウマ味たっぷり。パラパラ加減もバッチリだった。
カニ好きであり、ミソなどの珍味を愛し、かつまた生粋の”タンスイカブラー”である私にとっては、金銀財宝を頬張っているような感覚である。
こういうものを食べて太るのなら、ペヤングを食べて太るよりも、何となく、いや確実に罪が軽いように思える。
ちなみにこの店の黒酢の酢豚も非常に美味しい。単純明快にウマいだけではない。何が嬉しいって野菜類が一切入っていない。これはファンタスティックなことだ。
彩りのためだけにウマくもないピーマンやニンジン、ヘタするとパイナップルまで混ざっている酢豚に敵意を剥き出しにしてしまう私にとっては、神対応に思える。
結局、カニの話のはずが単なる野菜嫌いのワガママ話になってしまった。
2018年1月17日水曜日
悩めるお年頃
男性にも更年期障害がある話は聞いているが、潜在患者数は600万人にものぼるらしい。
年明けからずっと体調がイマイチだから、ついつい余計な心配をしてしまう。辛気くさい話でスイマセン。
年末から風邪っぽく、年明けから咽頭炎と扁桃腺炎でぶっ倒れ、ようやく快復したと思ったら、この前の週末は突然の胃腸炎でまたしても寝込んだ。
長々と調子が悪いと、つい考えたくなるのが加齢問題である。80歳、90歳でも元気ハツラツの爺さん婆さんが闊歩するのが今の時代である。
50歳そこそこでグダグダ言うのもシャクだが、そうは言っても人生には何度かの身体の変革期があるのも確かだ。加齢の階段である。
おそらく、今の私は「中高年」というジャンルの「中年」から「高年」に移り変わる端境期にあるのだろう。
昨年あたりに実感したのが視力の衰えと白髪の増え方である。両方とも何年も前から始まっていたが、ここ1年ぐらいで加速度的に進んでいる。
なんとなく身体の奥の方から「いいかげんに自覚しやがれ」とサインを送られているような感覚がある。
胃腸炎なんて今までなったことはなかったし、風邪っぽい感じも若い頃より長引くようになった。
きっと身体はこれまでもあれこれとサインを発してきたのだろうが、鈍感な私が気付いていないことが多いのだろう。そのせいで、身体からのサインが強力になったのかもしれない。
先日、ネット上で見かけた男性更年期障害を診断するページを試してみた。数多くの項目が用意されており、それぞれ5段階ずつ自分の状況を選び、トータルのポイントで重症度を測るというシロモノだ。
残念ながら結果は「重度の恐れアリ」と出やがった。まあ、ああいう診断は不安を煽って何かに誘導するのが狙いだから、真に受けてもしょうがない。でもちょっとシャクである。
大事なのは改善策や予防策である。「ストレスを貯めない」とか「適度な運動」とか猿でも分かるような話ばかりで面白くなかったが、参考にしたくなる予防策もあった。
「女性と腕を組んで歩く」のが良いらしい。要はドキドキすることが男性ホルモンを刺激するんだとか。
腕を組まれたぐらいでドキドキはしないが、ワクワクぐらいは感じる。美女達に両方の腕を左右から組んでもらえばドキドキして私の男性ホルモンは活性化するはずだ。
頑張らないといけない。
いや、ドキドキすることが大事なら、腕組みよりも“実戦”だろう。スケールアップしたドキドキを実現するためには、自分を律して心を鬼にして、超絶的な変態プレイに励んだほうが手っ取り早いだろう。
軌道修正。
腕組みと共に更年期対策として紹介されていたのが「カラオケ」である。歌うことが身体に良いという話ではない。あくまで「人前で歌う」「拍手を浴びる」といった体験がホルモンを活性化させるそうだ。
だから一人カラオケではダメである。見知らぬ人もいるカラオケスナックあたりが効果的だろう。
そう考えると、わがオジサマバンド活動は更年期対策にもってこいという理屈になる。
人前で歌うわけだし、拍手どころかヤジや紙テープまで飛んでくる。きっとあの瞬間の私のホルモンは煮えたぎっているはずだ。モツ煮みたいだ。
昨年のライブでオリジナル曲を披露したことで調子に乗って、友人と新たな曲作りの構想を練っている。
ド演歌的情念の世界を描いた詩を書くのが私の夢だが、いざ挑戦しても薄っぺらい言葉しか出てこないのが悩みである。
捨てられた女性の恨み節として「死んでくれたらいいのに」というフレーズをサビに盛り込んだ詩を作っているのだが、前後の言葉がなかなかつながらない。
まあ、こんなことで悩んでいられるうちは更年期障害の心配はないのだろう。
2018年1月15日月曜日
犬の話
今更ながら今年の干支は犬である。最近は猫派に押され気味だが、私は昔から犬派だ。猫はどことなくアザとい感じがする。
子犬と子猫だったら断然、子犬のほうが可愛いと思う。猫好きの人には申し訳ない。あくまで個人的な意見です。
私がまだ幼い頃、家に大型犬がいた。コリーだったと思う。名前はペッグである。「ローマの休日」のグレゴリー・ペッグが命名理由。
いつもベロをゼーゼー出し入れしている姿が印象的だったから、グレゴリー・ペッグみたいに格好良くはなかった。
その後も犬を飼いたいと思ったことはあったが、ちゃんと世話をする自信がなかったから飼えずじまい。結局、インコや亀ぐらいしかペット経験が無い。
私のように思い立った時に旅行に生きたがるようでは、なかなか犬は飼えない。旅に出る意欲が衰えた老後になったら考えよう。
一応、犬好きだと自認しているのだが、SNSなんかで怪獣にしか見えないような人様の飼い犬のアップ写真を見せつけられるとオヨヨな気分になる。
そんな偏屈オヤジみたいなことは書いてはいけない・・・。
「犬も歩けば棒に当たる」。かるたでもお馴染みのことわざだ。もともとは、余計なことをすると災難に遭うという意味だが、今では逆の解釈でも使われる。
すなわち、積極的に行動すれば思わぬ幸運に恵まれるというニュアンスだ。捉え方がポジティブに変わっていくことは悪くない。
犬といえば、今でこそ飼い主との絆や癒しの部分がイメージされるが、わが国にペット文化が定着するまでは、役立たずな厄介モノという位置付けだった。
5代将軍綱吉が例のアホバカ法令によって犬を過剰に保護した一時期を除き、犬の地位は今のように高くなかったわけだ。
罪人のおでこに「犬」という入れ墨が入れられたという話を聞いたこともある。ホントだとしたら凄い話だ。
考えてみれば入れ墨を刑罰に利用するのは今の時代だって大いにアリかもしれない。
再犯性犯罪者なんか世の中に放置したら危なっかしいから、おでこに「淫」とか「痴」といった入れ墨を入れちゃえばいいと思う。
話がそれた。犬がディスられていた話だった。まあ、野犬だらけだった時代背景を考えればそれも当然だろう。
実際に犬食文化は日本でも珍しくなかったようだし、牛や馬みたいに農作業の役に立つわけではなかったから、犬は小馬鹿にされる存在だったわけだ。
「犬畜生」、「犬死に」、「負け犬」、「犬も食わぬ」といった言い回しを始め、「獄」、「厭」、「哭」、「獣」など単独の文字にしてもマイナスイメージのものがいくつもある。
今とは大違いである。ちょっと大げさかもしれないが、そう考えると、世の中の常識や価値観の脆さを象徴しているのが犬のイメージなのかもしれない。
新年の1月。誰もが新たな気持ちで前向きな変化に期待を寄せる時だ。変化を邪魔するのは凝り固まった価値観だ。それが停滞を招く元凶になる。
犬の1年は人間の7年に相当するらしい。そう考えると、変化を恐れて停滞することは実にもったいない。
と、犬をマクラに柔軟に変化することが大事だと説教くさいことを書いてしまった。ちょっと強引な論法で失礼しました。
そういえば、うさん臭い人々が得意になって使っていた「ドッグイヤー」という言葉も今ではすっかり使われなくなった。
怪しげなカタカナ言葉を得意になって使うと薄っぺらい印象しか残らないわけだ。
なんだか今日はまとまりのない話に終始してしまった。
体調不良の後遺症かもしれない。
2018年1月12日金曜日
沖縄そばの魔力
「そば」と言いながらラーメンやうどんに似た独特の麺が特徴なのが沖縄そば。
以前からネット通販で取り寄せたり、物産展で購入したりと私の中では割と身近な食べ物である。
とはいえ、私にとっての沖縄そばは、あくまでソーキ(豚のアバラ肉)が主役。正直、トッピングの無い状態で食べたいとは思わない。
沖縄に行ってもワガママが言えそうな場合には、ソーキを大盛りにしてもらう。紅ショウガもたっぷり入れて、ジャンクな“肉麺”として味わう。
唐辛子を泡盛につけ込んだ調味料「コーレーグース」もドバドバ投入する。繊細な味にこだわる人には申し訳ないが、そんな食べ方だから、どこで食べても似たような味になる。
だからハズレがないという見方もできる。名店のこだわりスープを飲んでも、コーレーグースの入れすぎで味がよく分からないのが問題である。
年末に目的もなく沖縄に行った。予定がないから陶器の店を覗くか、散歩するか、酒を飲むか、ソーキそばを食べていた。
「琉球麺屋かりゆしそば」という店で食べたソーキそばである。ウマそうなそばが運ばれてきたのだが、カウンターにお決まりの紅ショウガが無い。これは事件である。慌てる。
よく見ると大きなボトルに普通のおろしショウガがてんこ盛りに用意されていた。いくら取り放題といえども「ソーキそばには紅ショウガ」と決めつけている私にとってはビミョーだ。
しかし、食べてビックリ。おろしショウガが妙にウマい。ソーキにも合うし麺にもスープにも合う。ドバドバ入れてしまった。
最後のほうは辛くて大変だったが、考えてみれば、紅ショウガが合うものなら“紅”じゃなくても構わないはずだ。
今度、牛丼や冷やし中華でも試してみようと思う。
この画像、人の家ではない。「すーまぬめぇ」という大人気そば屋の店先である。那覇の繁華街から遠く離れた住宅街にある。いそいそと行ってみた。
画像が上手に撮れなかったのが残念だが、人気店だけあって絶品だった。コーレーグースをあまり使わなかったから実に完成度の高い味だったのだろう。
ソーキとてびち(豚足)に三枚肉が載っている一品を頼んだが、どの肉も味付けが優しかった。スープも旨味タップリで全体に丁寧に作られている印象だった。
つけあわせにヨモギの葉っぱが別皿に盛られてくるのだが、野菜嫌いの私がちぎりちぎりトッピングしたぐらいだから健康志向の人にもオススメの店だった。
ソーキそばばかり食べていたので、ちょっと目先を変えてみようと試してみたのが「焼きそば」である。
縮れ麺の沖縄そばを使った焼きそばは麺の食感が独特でウマい。正統派沖縄そば店には置いていないから、ジャンルで言えば確実に定食屋系ジャンク料理である。
今回訪ねたのは壺屋にある「丸安そば」。乱雑でディープな店である。デートで使われることはないと思われる店。タクシーの運転手さんに人気があるらしい。
いやあ、なんとも素晴らしい一品だった。ウマいマズイという論評の外に存在するかのような輝かしい一品だ。
半熟卵をつぶして麺と絡めると濃いめの味が中和されて何ともウマい。男なら大好きな味だと思う。
混沌とした公設市場を抜けて、東南アジアの鄙びた路地のようなエリアの先にある店なのだが、味わいもそんな感じ。
オシャレに紹介されがちなガイドブックとは別次元の沖縄がそこにあった。那覇に行ったら立ち寄りたい店がまた一つ増えた。
2018年1月10日水曜日
星野さん 欅坂46
そこそこ長く生きていると、ひょんな場所で著名人とすれ違うことがある。
芸能人、スポーツ選手、政治家などジャンルはさまざまだが、強く印象に残るのは、すれ違いざまに感じた「風圧」である。
香港でジャッキーチェンと偶然すれ違った時の風圧は強烈だった。大柄なボディガードに左右を囲まれていたのに、小柄なジャッキーが発するオーラはパワフルだった。
それと同じような「風圧」を感じたのが、先日亡くなった星野仙一さんだ。かれこれ30年近く前だろうか、評論家時代だったと思う。
なぜか代々木駅近くの道端ですれ違った。別に肩で風切って歩いていたわけでもなく、睨まれたわけでもないのに、すれ違いざまに目が合った時の「風圧」は強烈だった。
エネルギーの塊みたいな人。そんな印象だった。彼が40代前半ぐらいの頃の話だ。
別な時、元巨人の江川となぜか目白の外れの住宅街の路地ですれ違ったことがある。同じように彼が40代前半の頃だ。星野さんとはまったく逆の印象だった。
もちろん、たまたま一瞬すれ違っただけだから、人様の印象をどうこう言えるわけもない。江川はこっそり不倫相手の家から出てきたところだったのかもしれない。
それにしても星野さんの追悼番組が名古屋や大阪でしかやらないことが不思議かつ残念でならない。
話は変わる。
実は年末から10日間も酒を飲まなかった。こんなことは中学生の頃以来の珍事である。
年末に沖縄に出かけてホゲホゲしていたのだが、旅の途中で風邪っぽい感じになり、大晦日に帰宅した際もダルさが抜けずにビールすら飲まずに寝た。
元日に頑張って実家に顔を出したが、クルマだから飲まず、帰宅後から熱が出始めて、2日、3日ともに寝たきり。
4日から大発熱。5日にインフル検査で陰性と判定されるも、扁桃腺炎と咽頭炎がダブルで襲ってきた感じで完全ダウン。
予防接種もしてあったから、インフルエンザのほうがよっぽどラクだったと断言できるほどヘロヘロになった。
結局、5日の仕事始めに出社できず、その後の3連休もうなりっ放し。連休明けの9日の昼にようやく出社する始末。
アルコールを抜いたものの、ずっといろいろな薬を飲み続けたから私の肝臓はきっとヘロヘロになったのだろう。
解熱剤が効いている時間帯はテレビばかり見ていた。溜まりまくっていた録画番組を見尽くす。
BSで3日連続で放送されていたゴッドファーザー3部作をぶっ続けて見られたことは悪くなかった。
ビタミンC、プロポリスをはじめとする数多くのサプリを飲み、毎朝欠かさずクソまずい野菜ジュースを飲み、青汁も欠かすことなく飲み続けた結果がこの始末である。
サプリも青汁もぜんぶ辞めてやろうかと思っている。
いや、あいつらのせいで、この程度の症状で済んだのかも、、という情けない考えも頭に浮かぶ。
いやいや、何だかんだいって10日間も連続で体調不良が続いたことは、さすがに記憶に無い。
今年の厄落としとなったのだろうか、それとも暗黒の年になる予兆なのだろうか。
ひとり高熱と闘いながら「僕はイヤだ!」と欅坂46のように叫んでいた。
平成最後の正月の哀しい話である。
ということで今年もよろしくお願いいたします。