2020年4月27日月曜日

いまこそ綺麗事


自粛疲れというより「ビビリ疲れ」でちょっと困っている。出勤してもエレベーターのボタンを押すたびに手指消毒に励む。

トイレのドアに触れれば同じく消毒。宅配を受け取れば箱を消毒。打ち合わせするにもマスクを忘れれば仕切り直し。参考資料を持ち回りで回覧すれば手指消毒。ビビッってばかりで実に厄介だ。

コンビニに行ってもレジ袋が気になって消毒スプレーを噴射し、プロントに行ってもコーヒーカップや灰皿を触れば消毒だ。いちいち神経質になってバテる。



キリがないから適当にしようと思っても、自分が感染源になれば職場を消毒するハメになるし、打ち合わせに同席した面々も自宅待機になってしまう。そんな想像でまたタメ息である。

気疲れも加わって気分も上がらない。悪循環である。

世の中、そんな理由でイライラしている人は多い。SNSを眺めても攻撃的な批判や文句がやたらと目につく。

敵は未知のウイルスだから、究極的にはアーダコーダ行ったところで、結局誰も正解は分からない。

政府の経済政策もブレブレだ。ごく限られた人への30万給付がさんざん叩かれたら、全員への10万円給付に変わった。

予算を組み替えてまで政策を変更することは異例のことだが、今はすべてが異例の中にあるのだから、異例は当然だし、異例なことはある意味大歓迎だ。

賛否両論が飛び交う現金給付だって、当初の30万のほうが有難かった人もいるわけで、何をやろうが批判や文句はついて回る。でも、やらないよりはマシなことは確かだ。

いま世の中に必要なのは、決めつけない大らかさだろう。考えの違いをことさら否定するのではなく、それはそれという受け止め方をする意識が大事だと思う。

もちろん、ピントがずれた政府の対策や判断の遅れはどんどん叩くべきだ。非常時だから政府への批判をやめようという意見もあるみたいだが、それは筋が違う。非常時だからこそ声を上げないとマズいことは多い。

問題はそうした声ではなく、個人的な行動や考えを短絡的に攻撃したがる昨今の困った風潮である。あげあし取りやアラ探しみたいな批判や“正義厨”みたいに闇雲に他人を叩くことに専念するような連中だ。

徳島名物の阿波踊りが今年の中止を決めた。8月のイベントを今の時点で中止するのはバカげているという批判もある。

確かにそうかもしれないが、あれだけのイベントだから準備期間を考えれば仕方ないという声もある。それももっともだ。

そんなもんだろう。誰も正解が分からない以上、どちら一方に決めつけて、もう一方を攻撃までしちゃうのは感心しない。

もともと、日本人は中庸とか不完全なものを良しとする精神性がある。言い換えれば柔軟性にもつながる感覚だ。

たとえば、庭園造りを例に取ると、左右均等のシンメトリーの美を求めるのが西洋の感性だ。枯山水に不完全な自然の美を求める日本人の感性は独特だと思う。

器の世界にしても西洋食器は均一化された美しさを求めるが、日本ではいびつな歪みにも美を見いだし、取り合わせの妙を楽しむ。

ちょっと飛躍的な見方だが、こうした違いは「決めつける文化」と「決めつけない文化」の違いのようにも思える。

決めつけないという感覚は、曖昧さという意味でもあるが、時には曖昧さが武器になることだってある。

決めつけない、すなわち曖昧でいることは共存や理解につながる。それに比べて決めつけることは、排除や対立を招く。

排除や対立からは進歩はない。ギスギスするだけで遺恨が残って前向き話につながらない。

SNSなどで見かける乱暴で攻撃的な話を目にするたびに空恐ろしい気分になる。

そう書いたところで綺麗事に過ぎないのだが、今みたいなヘンテコな世の中だからこそ、あえて綺麗事を行動指針にするのもアリだと思う。










2020年4月24日金曜日

笑っていたい


職場と家の往復ぐらいしか活動していないから、さすがに書くネタが無くなってきた。

退屈なのは嫌いではないが、このブログを続ける上ではなかなか厄介である。

テレビやネットのお世話になっている時間がやたらと増えたが、気のせいか、最近のSNSは殺伐とした投稿が目立つ。

皆さんストレスが貯まっているからそれも当然だろう。イライラすれば楽しいことよりも何かへの文句を言いたくなる。

免疫力アップには笑うことが効果的らしいから、やはり今の時期は意識して「志村けん」に没頭するのが賢明だ。



改めてあの人のお笑いの奥深さを感じる。楽屋オチ、内輪ネタではなく、誰かを攻撃することもなく、王道のコントを徹底してやり続けた点は凄いと思う。

YouTubeの専用チャンネルは開設数日でアッという間に300万だか400万の視聴数を記録したらしい。

幅広い年齢層に支持され、亡くなった後も笑いを提供しているわけだから偉人だろう。国民栄誉賞の議論が出てこないのが不自然なぐらいだ。

さて、今日は5年ほど前にアップした過去ネタを一番最後に載せてみた。短文を書くことは難しいから、ツイッターのような「つぶやき」もまた難しいという話。

文句や批判も大事だが、そんな「つぶやき」ばかりでは世の中がドンヨリする。

他にも“頑張ろう”“我慢しよう”みたいな教科書的押しつけみたいなのも鬱陶しい。

言われなくても誰もが頑張っているし、キチンと注意して過ごしているのだから、今更押しつけがましい「つぶやき」も見たくない。

馬鹿げた話やクスっと笑えるような「つぶやき」がバンバン溢れるような世の中であって欲しいと願っている。


2020年4月22日水曜日

混乱しちゃう


「世の中、バカが多くて疲れません?」。その昔、話題になったセリフだ。桃井かおりがけだるそうに語りかける印象的なCMで覚えている人も多いはずだ。


結局、世の中のバカからクレームが殺到して放送中止になってしまった。バカの力は怖いなあと痛感した記憶がある。

私も結構なバカだが、世の中には厄介なバカが思った以上に多い。可愛いバカや愉快なバカなら歓迎だが、うっとうしいバカは困る。

アノ高須先生が客のいない店でうどんを食べた話をツイッターにアップしたら、外出自粛なのにケシカランといった批判が寄せられたそうだ。

ガラガラの店で一人で食事をしたことで批難されちゃうわけだから、高須先生も困惑したようだ。そりゃそうだ。意味不明である。

正義感ぶったバカ。今の世の中に溢れかえっている。何がバカかといえば、判断力や想像力無しに物事の断面しか見えていない点だ。

外出自粛すべし。家にいない人は悪。そんな公式に囚われてそこから外れたら許せないと感じるのだろう。

外出を自粛すべきという目的は何か。人との接触、人との集まりを減らすという話だ。それだけである。ガラガラの店で一人メシを食うことまで叩くことではない。



近所のラーメン屋さんの画像だ。私も食べに行く際はガラガラかどうかを見計らって食べに行く。こんな行動すらバッシングしたがる人がいるのなら実にメンドーだ。

在宅ではなく通勤している人をとやかく言う風潮も気になる。通勤風景に顔をしかめる識者の様子がテレビに流れれば、通勤している人が悪者のように思われかねない。

その人たちの中には医療関係者もいるだろうし、食品関連、物流関連の人たちもいるはずだ。今の大変な社会を支えている人たちが大勢いるはずだ。

そういうライフラインを支えている人たちが必要な作業のために出勤しているとしたら、むしろ感謝すべきだ。短絡的に批判するのはどうかと思う。

つい先日、社内で諸々の雑用をこなしていたら夜の8時を過ぎてしまった。お腹も空いたし、一杯引っかけたい気分だったが、大半の店は8時までの営業、酒類提供は7時までというスタイルである。

仕方なく帰ろうとしたら、職場のそばに灯りがついている中華料理屋さんを見つけた。聞けば通常通りの営業だとか。普通にアルコールも出している。

時節柄、お客さんは私の他にもう一組だけ。それも5メートル以上は離れている。ガラガラである。まさに“グリーンゾーン状態”だ。

当然、普通に飲み食いさせてもらった。酒類は7時まで、営業は8時までという話には強制力は無い。ただ、協力金がもらえるか否かの分かれ目ではあるので多くのお店が守っているのが実情だ。

もちろん、混雑防止のための要請である。混雑するような状況なら飲食店もそんなルールを受け入れるべきだが、ガラガラ状態でも闇雲にその通りにする必要はないだろう。

この日の私の行動と店の営業姿勢は世間から批判されるべきものなのだろうか。

確かに“同調圧力”を無視して通常営業を続けたら、その店に客が集中して三密状態を作り出してしまう可能性もある。

そういう点では、時に横並び意識が必要なことは理解できる。それでも、店の立地など周囲の環境や夜間人口などその時々の状況に応じて臨機応変に対応することは悪いことだとは思わない。

例外を作ったらズルズルと悪い方向に流れるという危険性も分かる。でも学校の校則じゃあるまいし、大人達が常識で判断できる次元の話だとも思う。

営業時間などに関して、一定の目安はあったほうが店側も助かるはずだが、それが鉄の掟みたいに一人歩きしちゃうのは何ともビミョーな気がする。

なんだかウジウジと書き殴ってしまったが、今は非常時だから四の五の言わずに長いものに巻かれているほうが良いのだろうか。

何を言おうが書こうが、感染してしまえば日頃の行動がダメだったという話にしかならない。改めて気を引き締めて行動しようと思う。

なんだかサッパリ分からなくなってきた。私の考えを不快に思われる人がいたらゴメンナサイ。

でも、週末の吉祥寺に用も無いのに遊びに行くようなバカなことはしていないのでご容赦を。

2020年4月20日月曜日

レトルトで美味しいパスタ


 今の時期は家メシを極めたいものである。そうはいってもマメに料理をするのも面倒だから、安直にレトルトなんかを極めたくなる。

レトルトのカレーについては過去にもアレコレ書いてきた。たかがレトルト、されどレトルトという感じで奥が深い。



個人的にカレーに関してはもはやレトルトで充分満足である。自分好みを見つけたら下手な専門店に行くより満足する。

話は逸れるが、先日始めて「なか卯」のカレーを食べて感激した。なか卯といえば和風牛丼や親子丼が人気だが、個人的にはカレーが一押しになった。

辛さはさほどでもないのだが、最近は辛くないカレーの旨味に喜びを感じるので、個人的にはドンピシャの味だ。

以前はレトルトもあったようなのだ、ネットで探しまくっても見つからない。無くなったようだ。無念だ。

さて、レトルトの世界でまだまだ頑張って欲しいのがパスタソースである。これまで随分と試してみたが、なかなか自分好みの商品に出会わない。

たらこ系などは悲惨な感じすら漂う。ミートソース系は味の濃さで何とか食べられるというイメージだ。

もっと単価が上がってもいいから本気の逸品が出てきて欲しいと願っている。



そんななか、かなり満足できるレトルトパスタソースを発見した。高級スーパー「成城石井」のオリジナルだ。

通販でも買えるようなので有難い。数種類ラインナップされているのだが、私がとくに気に入ったのがウニクリームソースだ。

深みのある味わいでしょっぱいだけのソースとは一線を画している。これが湯煎するだけで味わえるなら大いにアリだ。

先日は、ふるさと納税で取り寄せていくつも貯まってしまった瓶詰めウニをしっかりトッピングして混ぜ合わせて食べたのだが、かなり贅沢でウマい家メシが楽しめた。



パスタ麺を茹でて、ソースを湯煎するだけだから超簡単だ。ポイントは麺とソースをあおり気味に和えることで乳化を意識することだろう。まあ、気分の問題でもある。

乾麺のパスタは茹でるのにやたらと時間がかかるのが面倒だが、ママーが出しているパレットというシリーズは、さっさと茹で上がって本格的な味わいが楽しめるから便利だ。



標準茹で時間は5分だ。すなわち4分で充分である。3分半だってヘッチャラだ。そのぐらいのほうが美味しい。

デカい鍋を引っ張り出してきて、大量の水を入れて沸騰させるのにやたらと時間をかけて、そのくせ「10分」とか表示されている標準茹で時間を守ってデロデロなパスタを完成させるのに30分以上もかけるなら、こっちのほうが簡単で良い。

小鍋で数分でそれなりにウマいパスタが出来上がる。横着オジサマにはお勧めである。

ウダウダと書いてみたが、結局はお湯を沸騰させるだけで出来ちゃう。安直の極みだ。

冷凍食品もそうだが、レトルトがどんどん進化してくれれば、私のような呑気な独り者にとっては極楽である。

2020年4月17日金曜日

道路ウォッチング


どこもかしこも閉店している今、私の憩いの場所が職場からすぐの距離にあるプロントである。屋外席はタバコが吸えるので毎日のように利用している。

いつも空いているから三密の心配はない。喫茶店に限らず、いま営業している店はランチタイムの一瞬を除けばガラガラだ。



この画像は新富町にある焼鳥屋さん「義常」。普段は大賑わいで一人でふらっと訪ねても入れないことが珍しくない。

夕方の6時ぐらいにこの状況だ。これだけ空いていれば感染対策上まったく問題ないからホゲホゲ過ごせる。

とはいえ、酒類の提供は19時まで、閉店は20時という行政の要請を守っているのでダラダラするわけにはいかない。

なんとなく、急いで酒をかっくらう感じになるから変に酔いが回る。なんだかなあって感じだ。

ガラガラな時は酒の提供時間を厳密に守る必要なんか無さそうだが、そこはさすがに日本人の美徳みたいなものである。渋々“要請”に従っているお店の姿勢には頭が下がる。

話は変わる。夜、一人で家にいることが増えたから退屈しのぎに始めてみたのが「道路ウォッチング」である。



今の住まいは幹線道路沿いのマンションの5階だ。窓から見える通りを見下ろして、道行く人を眺めるだけなのだが、案外これが面白い。

吉野家やコンビニがある関係で遅い時間でもポツポツ人は行き来している。どう見ても喧嘩しながら歩いている夫婦や、絵に描いたような千鳥足で歩く酔っ払いを見ていると飽きない。

5階からの距離だと、目にする人の性別やおおよその年代は分かるが顔や表情まではよく見えない。そこが妄想をかき立てて面白い。

吉野家から出てきたオジサンの人生を想像してみたり、今のご時世に深夜に34人で歩いている若者の姿に腹を立てたり、早足で歩く女性の仕事を想像したり、バカみたいだが結構楽しい。

向かいのマンションから深夜に出てきた紳士が一人、タクシーを待っている姿を見れば、不倫相手の部屋から帰るような物語を想像する。

暇つぶしには悪くない。のぞき趣味がある人の気持ちがちょっと分かる気がする。なんだか根暗な少年みたいな行動だが、今の時期はそんなことでもしないと退屈だから仕方ない。

明るい時間より深夜のほうが何となく興味深い。きっと明るい時間は街行く人々もどことなく世間の目を意識しているのに対し、深夜は極端に人が少ない分、“素”の空気が漂っているからだろう。

そんなことを分析したところで意味はないが、あれこれ妄想したり空想しながら人間ウォッチングをするのもボケ防止になるかもしれない。

2020年4月15日水曜日

黒糖コーヒー YouTube 安倍さん


さすがに家にいる時間が増えた。仕事柄、すべて在宅勤務というわけにもいかず出勤もするのだが、仕事終わりに寄り道をする機会も激減したし、週末はちゃんと引きこもっている。

こういう非常時はシングルライフの気楽さは有難い。誰かと暮らしていれば心配や気遣いなどでバテちゃいそうだ。ストレスが溜まりやすい状態なら一人でいるほうがマシだ。

コンビニは普通に開いているし、ウーバーイーツは何でも運んできてくれる。AmazonプライムビデオやNetflixで暇つぶしも出来る。



ウーバーイーツでは食べ物だけでなく、コンビニから雑貨やスイーツも持ってきてくれるし、コーヒーだって簡単に頼める。

スタバが休業しているいま、私のお気に入りが上島珈琲の「黒糖ミルクコーヒー」だ。黒糖の甘さが妙にホッコリする。休日は複数頼む。冷めたらレンジでチンである。

何年か前に買ったドルチェグストも最近は活躍の頻度が上がった。ネットスーパーで各種のカートリッジが注文できるし、近頃はスタバのキャラメルマキアートもラインナップされている。



私はコーヒー党ではないので、コーヒーを飲みたくなるのはちょっと甘いものが欲しい時ぐらいだ。そういう場面ではウーバーイーツとかドルチェグストといったイマドキの文明の進化!が役に立っている。

話は変わる。近頃の若い人はテレビを見ないらしい。みなさんYouTubeで好みのコンテンツを楽しんでいる。

そんな風潮に乗っかるわけではないが、最近は私もYouTubeを見る機会が増えた。確かに自分が興味のあるコンテンツだけを自分の都合で楽しめるわけだから飽きない。

その昔、YouTubeが流行り始めた頃より遙かにラインナップが充実している。あれじゃあ若者がテレビを見なくなるのも仕方ない。

ハプニング動画を集めたヤツとか、ブルース・リーのドキュメントみたいなヤツ、昔のテレビコマーシャル集や昔の格闘技の名勝負、志村けんのコントなどなど、つい長時間見入ってしまう。



野球モノが豊富なのも嬉しい。いにしえの名選手の話や映像にワクワクしてしまう。私が野球少年の頃にYouTubeがあったら、技術面の解説動画をむさぼり見たはずだ。

そうしたらあの頃より1020倍はレベルの高い野球が出来て今とは違う人生を歩んでいたのでは、などと妄想してしまう。

YouTuberと呼ばれる人々がどんなコンテンツを流しているのかも少しずつ分かってきた。

まさに百花繚乱である。面白く参考になるモノもあるが、世の中をオチョくったようなのも多い。

警察官を挑発したりするタチの悪い動画も結構な数が出回っていた。弱虫の遠吠えみたいで悪趣味なのだが、そういう動画も何十万もの視聴歴がある。

あんなもので稼げてしまうのなら、なんだかヘンテコな話である。今の社会の奇妙なところだろう。

そういえば、私が楽しみにしていた元近鉄・金村義明の野球裏話モノが一斉に削除された。

彼が有料サイトで話している内容が無断で再編集されてYouTubeに定期的にアップされていたらしく、私が楽しみにしていたのはそれだったというわけ。

そりゃあ金村さんが怒るのも無理はない。すっかりファンになった私も本家の有料サイトの会員になろうと思ったのだが、やり方が分からなくて結局そのままだ。

オジサン世代はこうやって少しづつ情報弱者のほうにシフトしていくのだろう。コワいコワイい。

さてさて、まとめに入ろう。星野源の弾き語り動画に合わせていろんな人がコラボ動画をアップする「うちで踊ろう」シリーズ。私が一番気に入ったのは八代亜紀バージョンだ。吐息が何ともいえない味わいである。



醜悪でゾっとしたのは言うまでもなく安倍首相バージョン。アノ人のピントのズレ方は深刻だ。政権の長期化で“王様状態”になり、もはやコトの是非すら判断できない次元なんだろう。

コワいコワい。



2020年4月13日月曜日

コロナ離婚


コロナ離婚という言葉が広まっている。在宅時間が長くなった夫とそれに違和感を覚える妻が不仲になるケースが増えているらしい。

生活スタイルが変化すれば軋轢は生まれるから、さもありなんという感じだ。夫は外にいるものという概念が強いと、そうじゃない状態は不自然だから衝突も増える。

その結果、こんな人だとは思わなかった等等の愚痴が飛躍して離婚したいという話になる。

ぶっちゃけ、とっとと離婚すればいいと思う。離婚する気も無いのに夫婦仲の良くないことを聞かされたりアピールされるのは実にウザったい。

本気の離婚相談だったら、私も持てる知識をフル稼働してアドバイス可能だ。なんてったって「戸籍真っ黒、お先真っ暗」な私である。そっち方面は結構詳しい。

ちっとも自慢にはならないが・・・。

夫婦の基本は他人である。これは大きい。うまくいく方が難しいというぐらいの心構えがないと大変だと思う。

結婚生活の基本は忍耐と我慢と妥協である。新婚時代はともかく、それを過ぎれば現実は甘くない。

時間をかけてそれをクリア出来たら同志的連帯感みたいな関係が築かれるわけで、そこにたどり着くのは簡単ではない。

多くの夫婦が惰性と世間体だけで関係を続けている。残念ながらこればかりは仕方ない。

そんな状況でも、うまくいけば時間の蓄積によって何となくお互いがいないと不安になってしまうような関係性に行き着く。こうなればきっちり添え遂げられるはずだ。

お互いが単に我慢と我慢を隠しているだけなら限界が来るのは当然だ。若い頃なら結婚生活を頑張ろうという気合いも入れられるが、1020年経ってくるとエネルギーも弱まる。

イヤな言い方になるが、人から離婚問題を相談されたら「離婚できるもんならしてみな」と答えるようにしている。

離婚するには相当なエネルギーや経済的損失を覚悟しないとならない。それを踏まえた上で、なお離婚したいなら結論は簡単だ。

離婚できない理由をあれこれと言い募っているうちは、本気で離婚する覚悟が固まっていないわけだ。そうしたあれこれを一つづつクリアする努力をしているかどうかが本気度のバロメーターだろう。

もちろん、とことん悩んで逡巡すればいいと思う。10年単位で家庭生活をしていればシガラミは相当なものだ。右から左にというわけにはいかない。

逡巡しているうちにコトが収まる人もいる。あきらめでも達観でもそれでコトが収まるなら現状維持もアリだろう。波風をさんざんたてながらもウン十年経ったら仲良し夫婦になった人もいる。

熟年の仲良し夫婦の中にはもともと相性が良かったという奇跡的なケースもあるが、長年の努力で中高年になってから仲良くなったというパターンもある。

そんな努力型の夫婦は素晴らしいと思う。素直に尊敬する。人生の中でそういう関係を築けることは崇高なことだろう。

チマタに溢れるコロナ離婚予備軍にもいろいろな夫婦がいるだろう。なんとか踏みとどまっていつか仲良し夫婦になれるなら今の試練も必要なことなのかもしれない。

一番厄介なのが、離婚を踏みとどまっても、結局死ぬまで不仲なままのパターンだ。

そういう人生はイヤだ。少なくとも私はそのパターンにならなかっただけでハッピーである。

2020年4月10日金曜日

異常という恐ろしさ


アッという間に世の中が変わってしまった。恐い話である。ほんの3ヶ月前の正月の頃、今の状況を想像していた人はいない。

まあ、ドンヨリしているだけでは仕方ないから、なるべく楽しい気分になるような前向きな気持ちは忘れてはいけない。

7年前の震災の後も世の中にドンヨリした空気が漂った。震災関連の映像を見過ぎて体調を崩す人が続出した。今も似たような状況だ。

ニュースは暗くて厳しい話ばかり。正しく知識を得ることは大事だが、悲観的な観測ばかりに意識を向けることは避けたい。ウツウツしたところでウイルスは消えて無くならない。



当然ながら夜の街もすっかり人が減った。どこの店もガラガラである。密集状態にはほど遠い店に入って、一人ぼんやり飲み食いする機会ばかりである。

公務員や大企業のサラリーマンはいざしらず、飲食業や一般の零細企業にとっては補償なき休業というのは廃業や倒産を意味する。

コロナ禍が長引けば、3ヶ月後、半年後に恐慌状態になるのは目に見えている。休みたくても休めない人は膨大な数だろう。

それと同時にマズいことになるのが、これから起きるであろう「自粛していない人バッシング」だ。ある意味で社会の分断が進みそうだ。

無責任に遊び回る若者が非難、糾弾されるのは当然だが、仕方なく外に出ている人までひとまとめにして社会の敵のように扱いかねない風潮が恐い。

SNSの広がりが生んだ正義感の押し売りのような窮屈な社会の風潮は今回のコロナ問題で暴走しかねない怖さがある。

ちょっとした間違いだとしても針小棒大に叩きたがるのが昨今の世相だ。誰かを攻撃することを正義だと勘違いしている連中はハイエナのようにターゲットを探している。

「志村けんを殺したのは中国人だ」。こんなヘイトスピーチが簡単に広まるのが今の社会の姿だ。緊急事態宣言で暮らしが窮屈になれば、根拠のない悪意に満ちた中傷やデマが溢れることは間違いない。

「誰もが誰かにとってかけがえのない存在」。教科書的な話になるが、やはり、他者への配慮を心がけることは大事だ。

配慮に値しないヤカラがいるのが困りものだが、攻撃する意識ばかりでは世の中がギスギスするだけだろう。

それにしても、マスク二枚だとか、緊急事態宣言のもったい付け方だとか、安倍政権への「?」は強まるばかりである。

「世界に一つだけの花」ならぬ「世帯に2枚だけのマスク」については、謎という言葉しか出ない。

安倍さんに赤っ恥をかかせて“安倍おろし”につなげたい勢力が仕掛けたという説を耳にした。

そんな笑っちゃいそうな話を聞いて逆に納得してしまったほどだ。そのぐらいピントのズレ方が尋常ではない。

もしマスク2枚という“英断”のウラにそんな思惑も何もなく、単に国民に支持されると考えていたとしたら逆に恐ろしい話だ。

誰かが言い出したあの話を誰も疑問に感じず、おまけに誰も止めずに一国の総理大臣に発表させたのなら、政権中枢が機能不全に陥っていると言えるのではないか。

普通の人が普通に考える常識が通用しなくなっているとしたら危険極まりない。






2020年4月8日水曜日

一律現金支給のウソ


3月の段階から都知事が得意になって語っていたのが「首都封鎖」や「ロックダウン」という言葉だ。



インパクトがある響きだけにイメージが一人歩きしていたが、日本の場合、法令上そんな権限が国や自治体にも無いことがようやく浸透した。

言葉の持つイメージは使い方を間違えると無用の混乱を招きかねないわけだ。

「現金一律支給」。この言葉も世間に期待を持って広まっていたが、これまたビックリ。いま固まっている内容は一律現金支給などと呼べるようなシロモノではない。

一部の低所得者だけを対象にした制度に過ぎず、全世帯のうち6分の1程度だけが恩恵を受ける仕組みになる見込みだ。

その場合、対象になるのは1000万世帯程度。30万円の支給に必要なのは3兆円ということになる。

108兆円の経済対策をやるぞ!と安部首相が胸を張っていたが、その規模に比べると実にビミョーな話に過ぎない。

当初はせいぜい所得制限が実施されるだけで、年収1千万円を超えるような人じゃなければ現金給付が行われるというイメージが先行していた。

詳細が判明してきた今でも、まだそう思い込んでいる人が少なくない。これが一人歩きしてしまった言葉のイメージの怖さだろう。今後の議論でもう少しマトモな制度になることに期待したい。

政治は弱者を救うものだという考え方がある。もちろんそれは正しい。ただ、いまのような非常事態の中では弱者の定義が難しい。低所得者限定の政策の実効性には疑問もある。

ついでに言わせてもらえば、税金を払っていない階層だけを救済するわけで、真面目にしっかり高い税金を払っている側が腹を立てるのは極めて当然だと思う。

もっとも、政策の評価は全体像で判断すべきで、一部を引っ張り出して批判するのは簡単なのも確かだ。

つまり108兆円の経済対策が国民の生活をどう支えてくれるかが大事になってくる。本当に必要なところに救済の手が伸びるかがカギを握っている。

問題になるのは使い道だろう。いくら予算が潤沢にあったとしても分けの分からないところに浪費されたら無意味である。

東日本大震災の復興予算を例に取ると、あとになって次々と意味不明な予算の流用が明るみになった。

反捕鯨団体の活動に対抗するための予算、外国人向けの標識の設置予算、税務署の補修工事など、それって復興予算なの?と目を疑うものに税金が使われた。

それぞれ屁理屈みたいな理由はついていたが、普通の人の普通の感覚からすれば単なる流用だろう。

税金の使い道をチェックするのは会計検査院だが、厳しい検査は行われるものの、ムダ遣いを見つけても国会への報告や是正要求が出来るだけで機能は限定的だ。

それ以前に組織の規模からしてすべての税金の使い道をチェックするのは難しいという現実がある。

今回の緊急経済対策みたいな特別な予算に関しては特別なプロジェクトを編成して、フラチな火事場泥棒みたいな所業を厳しく監視して欲しいと願う。



2020年4月6日月曜日

ストレスと遺言


何かとストレスが貯まる今日この頃。ストレスが増えると太る。これは自然の摂理?である。私もストレス食いに走ることが多くなったから何となく体が重い。




大衆酒場に出かけても梅キュウや枝豆をツマミにすればいいのに、マカロニサラダやポテトサラダに目が行く。ラーメン屋に行けば気が狂ったような量のチャーシューにニンマリする。

恐いから体重計に乗っていない。これが一番ダメなパターンだろう。現実から逃げてはいけない。ちょっと節制して体重計にもマメに乗ろうと思う。

さて、話は変わる。ストレスが貯まったせいでもなく、コロナに感染しているわけでもないのだが、つい先日、遺言書を書き換えてみた。

遺言などというと、大げさな話に聞こえるが、中小企業経営者にとっては割と身近な存在だ。

いわゆる自社株問題だ。上場していない株式を持っている場合、相続が起きると厄介な話になる。

額面金額がたいしたことなくても、相続税の取り扱いでは、会社が持っている不動産などの価値が反映されて妙に高い金額で評価されてしまう。

赤字続きで潰れかけている会社でも都心に小さな工場でも持っていれば、その不動産価格が株価に跳ね返ってくるわけだ。

おまけにそんな高値の価値があるものが会社経営に関係ない遺族にまで継承されてしまうわけだからトラブルの元になる。

私自身、離婚などでスッカラカンになったから財産らしい財産は無い。遺言を書く必要は無さそうなものだが、会社の株をずいぶん持っているので、その行方は明確にしておく必要がある。

だから以前から簡単な遺言を作ってあったが、最近、生命保険の内容を見直して信託契約も組み入れたりしたので、全体を書き直したわけだ。

公正証書にするのが一番確実だが、大それた内容ではないし、そんなものにお金をかけるのもシャクだから、いわゆる自筆証書遺言だ。

法的に有効にするための決まりはあるが、とくに難しいことはない。書いていて面白くないのは、私自身の気持ちなんかは書いたところで効力はないという点だ。

兄弟仲良く暮らせとか、ちゃんと供養してくれないと化けて出るぞといった願望や精神論みたいな話は遺言に書いても意味がない。あくまで具体的な資産の配分みたいな話を書くのが普通である。

一時期流行ったエンディングノートは、そういう部分に配慮が行き届いているから根強い人気がある。

感謝の言葉とか伝えておきたい事柄とかをつらつら書くのがメインだから気持ちを伝えるには有効だろう。

私も今回、遺言書とは別な紙にそんな情緒的なことを書いておこうかと思ったのだが、いざそういうことを考えると簡単に書けるものでもない。

というか、そういうシンミリしたことを書き始めると、もうすぐ自分が死んじゃうような気がしちゃう。

で、必要な事務的なことだけを書いて終わったのだが、いつか自分が死んじゃう時にはアレもコレも書いておけば良かったと後悔するのだろうか。

そうならないために思っていることは常にしっかり言葉にして伝えないといけないと肝に銘じた。

というわけで、遺言を書く作業って、普段なら思ってもいないような自分の深層心理みたいなものに気付かされる機会になるから案外面白い。

外出自粛で退屈でしょうがない人は遺言と向き合ってみるのも悪くないと思う。

2020年4月3日金曜日

絶品!お子様ランチ


10年以上このブログを続けているが、閲覧履歴をチェックするとかなり古い過去の投稿にもいまだに多くのアクセスがある。

レストラン関係では日本橋たいめいけんの2階席の話が多くの人に読んでいただいている。


言わずと知れた人気店だ。日本橋の本店はカジュアルな1階席と高級路線の2階席に分かれているのだが、富豪を目指している私としては、あくまで2階席に陣取る。

武士は食わねどナンチャラの精神だ。1階席に比べて当然2階席は空いている。座席の感覚もゆったりしている。

新型コロナ対策としてはバッチリである。我が身を守るため、いや、人様に迷惑をかけないためにも2階席は捨てがたい。

 

ナイフでかっさばくとトロトロオムレツがブワァ~っと広がる名物のオムライスである。これも1階と2階では千円ぐらい価格差がある。

カニクリームコロッケやコキールなどベシャメルソースの美味しさが堪能できる料理も高値設定だ。まあ、たまにしか行かないのなら贅沢気分に浸るのも悪くない。




先日は娘と息子も一緒だったので、アレコレ注文できてハッピーだった。なかでも未知の一品に出会えたことに感激した。

普段なら食べることの出来ない「禁断の味」である。息子のおかげだ。本来なら小学生以下の限定である「お子様ランチ」にありつくことができた。

ここでも何度も書いてきたが、ダウン症の息子はすでに中学生である。ただ、一般の中学生よりは幼く見えるので、一応お店の人に断りを入れたうえでお子様ランチを注文した。

何のことはない。私が食べたかったのが真相だ。ウッシシである。

昭和の子供にとってお子様ランチは御馳走だった。デパートの食堂で出てきた幸せテンコ盛りの一皿は今思い出しても興奮する。



高級路線のたいめいけんの2階席にそんなメニューがあったことに気づいた以上、どうしたって食べたい。食べねばならない!

他のメニューはいつだって食べられる。お子様ランチにありつける機会はなかなか無い。

本来の注文主である息子には別注文したスパゲティなどを食べさせ、還暦にもそう遠くない年齢の私がお子様ランチを堪能した。

エビフライ、コロッケ、ドリアなど全部ウマい。大人も注文可能なら頻繁にこれを食べに通ってしまいそうだ。

2600円ぐらいの値付けだったかと思う。牛丼を78人に御馳走できる金額だ。なのにお子様ランチだ。ドMである私はそんな背景に興奮する。

得体の知れない皿が何ともステキである。旗もしっかり立っている。お子様ランチという非日常のための演出もバッチリだ。

つくづくウマい食事と気分は密接不可分の関係だと痛感した。

思えば、いわゆるニッポンの洋食というジャンルの料理は子供の頃に愛した味の延長線にあるものばかりだ。

洋食屋さんにノレンをくぐった段階で、私の気分は子ども時代に戻っているのだろう。

これまでウン十年に渡って様々なウマいものを食べてきたが、結局は“お子ちゃま的味覚“に従うのが間違いないと思う。

2020年4月1日水曜日

「首都封鎖」という言い回し


新型コロナをめぐってネットにはさまざまな情報が飛び交っている。こういう問題こそ情報弱者になってはいけないから、マメにチェックしているのだが、怪しげな話もあるから困る。

どこかの国では当初は感染者が少ないことを祈りと規則正しい生活習慣のおかげだと政府関係者が公式に発言していた。ハチャメチャである。

解熱作用のあるイブプロフェンがコロナには逆効果だという話が広まりWHOが火消しに回る一幕があった。

そんな話が出れば、常備薬として買いに行く解熱鎮痛剤選びにも慎重になってしまう。

どこかで高濃度ビタミンCが有効だという話を聞いたので、単純な私も影響されてしまい、娘のニキビ対策のために定期的に取り寄せているその種のバカ高い商品を多めに買ってしまった。

たとえデマだろうとビタミンCならムダにならないから、マヌケと言われるほどではないだろう。

ロシアで外出禁止を守らせるため、街中に800頭のライオンとトラが放たれたというフェイクニュースが広まったそうだ。



バカみたいな話だが、信じちゃう人もいたようで政府が「ライオンじゃなくてクマを放った」と冗談でデマを否定するハメになったとか。

問題は信じた人がいたという点だ。情報の洪水の中で生きているとデマやフェイクに惑わされるのが一番怖い。

オレオレ詐欺を始めとする詐欺にしても信じちゃう人が膨大にいるから成立するわけで、ウソ、デマの類いは実に厄介だ。

「まず疑う」。残念ながらこれが大切だろう。ひねくれ者みたいだが、結局それが自衛策の第一歩だ。

志村けんさんの訃報を聞いた時もフェイクニュースかと疑ってみたのだが、残念ながらテレビ各局がこぞって報道している以上、信じるしかなかった。

私もドリフに熱中していた世代だからショックだった。ヘビースモーカーで手術歴もある70歳という点で重症化する可能性は高かったのだろう。

67歳で糖尿病という基礎疾患があるトム・ハンクスが元気に復活したことで、何となく勇気づけられた人にとっては、新型コロナの怖さを改めて思い知らされた感じだ。

いま一人歩きしている言葉が「首都封鎖」だ。言葉のインパクトのせいで多くの人が戦々恐々である。法制度上、首都封鎖などという権限は国にも都にも無い。ところが、勝手に広まるこの言葉の効果によってそれが普通に実施できるような空気が広まっている。

近いうちに出そうな緊急事態宣言では外出自粛要請が行われることになるが、外出者を取り締まったり、交通機関を遮断する権限はお上には無い。

都営の交通機関は都の判断で止めることは可能だろうが、私鉄に命令したり企業に休業を強制できる法令もない。

もちろん、だからといって要請を無視していいという話ではない。実際にはすべてがストップするわけではないから、むやみやたらにすべての活動を止めるのが当然みたいな空気が広まるのは怖いことだと思う。

すでに飲食業やエンタメ業などは青息吐息の状況だが、ここにきて今度は営業を続けていることを非難する声まで一部から出てきた。感情的に非難するのは無責任だと思う。黙って破産しろと言われているのと同じだ。

一種のヒステリーだろう。そうしたヒステリーが強まれば、飲食業界などに限らず、リモートワークが出来ないような職種や休業出来ない一般中小企業まで批判の声が及ぶことも予想される。

補償も無いまま漫然と休業する発想は企業には無い。潰れてしまっては元も子もないし、それこそ雇用維持どころではない。

公務員や巨大資本を持つ大企業の関係者の感覚とそれ以外の事業者との感覚は天と地ほどの開きがある。

また、メディアの視点も個人の日常ばかりに向けられ「事業」の維持継続という社会基盤の大事な部分に向けられることが少ないことが気になる。

自粛を「要請」ではなく「強制」だと言いたげな識者のかたがたは、補償や救済策も無いまま強制的にすべてをストップさせたら物凄い数の事業崩壊だけでなく、大量の自殺者が出かねないことを念頭に置いて語っているのだろうか。

繰り返しになるが、自粛という方向性に反対と言っているわけではない。安易な行動は無責任であり、おとなしくしている必要性は理解している。それでも、どうしても状況に応じた予防や対策しか出来ない現実があることは忘れてはならない。

外出禁止や企業活動の停止などヨソの国が行っているような強制力を持った制限は日本では断行出来ない。過去の反省によって国に強大な権力を持たせない法体系になっていることが影響している。

この思想が新型コロナという敵を前にして吉と出るか凶と出るかは歴史の審判を待つしかない。