自粛疲れというより「ビビリ疲れ」でちょっと困っている。出勤してもエレベーターのボタンを押すたびに手指消毒に励む。
トイレのドアに触れれば同じく消毒。宅配を受け取れば箱を消毒。打ち合わせするにもマスクを忘れれば仕切り直し。参考資料を持ち回りで回覧すれば手指消毒。ビビッってばかりで実に厄介だ。
コンビニに行ってもレジ袋が気になって消毒スプレーを噴射し、プロントに行ってもコーヒーカップや灰皿を触れば消毒だ。いちいち神経質になってバテる。
キリがないから適当にしようと思っても、自分が感染源になれば職場を消毒するハメになるし、打ち合わせに同席した面々も自宅待機になってしまう。そんな想像でまたタメ息である。
気疲れも加わって気分も上がらない。悪循環である。
世の中、そんな理由でイライラしている人は多い。SNSを眺めても攻撃的な批判や文句がやたらと目につく。
敵は未知のウイルスだから、究極的にはアーダコーダ行ったところで、結局誰も正解は分からない。
政府の経済政策もブレブレだ。ごく限られた人への30万給付がさんざん叩かれたら、全員への10万円給付に変わった。
予算を組み替えてまで政策を変更することは異例のことだが、今はすべてが異例の中にあるのだから、異例は当然だし、異例なことはある意味大歓迎だ。
賛否両論が飛び交う現金給付だって、当初の30万のほうが有難かった人もいるわけで、何をやろうが批判や文句はついて回る。でも、やらないよりはマシなことは確かだ。
いま世の中に必要なのは、決めつけない大らかさだろう。考えの違いをことさら否定するのではなく、それはそれという受け止め方をする意識が大事だと思う。
もちろん、ピントがずれた政府の対策や判断の遅れはどんどん叩くべきだ。非常時だから政府への批判をやめようという意見もあるみたいだが、それは筋が違う。非常時だからこそ声を上げないとマズいことは多い。
問題はそうした声ではなく、個人的な行動や考えを短絡的に攻撃したがる昨今の困った風潮である。あげあし取りやアラ探しみたいな批判や“正義厨”みたいに闇雲に他人を叩くことに専念するような連中だ。
徳島名物の阿波踊りが今年の中止を決めた。8月のイベントを今の時点で中止するのはバカげているという批判もある。
確かにそうかもしれないが、あれだけのイベントだから準備期間を考えれば仕方ないという声もある。それももっともだ。
そんなもんだろう。誰も正解が分からない以上、どちら一方に決めつけて、もう一方を攻撃までしちゃうのは感心しない。
もともと、日本人は中庸とか不完全なものを良しとする精神性がある。言い換えれば柔軟性にもつながる感覚だ。
たとえば、庭園造りを例に取ると、左右均等のシンメトリーの美を求めるのが西洋の感性だ。枯山水に不完全な自然の美を求める日本人の感性は独特だと思う。
器の世界にしても西洋食器は均一化された美しさを求めるが、日本ではいびつな歪みにも美を見いだし、取り合わせの妙を楽しむ。
ちょっと飛躍的な見方だが、こうした違いは「決めつける文化」と「決めつけない文化」の違いのようにも思える。
決めつけないという感覚は、曖昧さという意味でもあるが、時には曖昧さが武器になることだってある。
決めつけない、すなわち曖昧でいることは共存や理解につながる。それに比べて決めつけることは、排除や対立を招く。
排除や対立からは進歩はない。ギスギスするだけで遺恨が残って前向き話につながらない。
SNSなどで見かける乱暴で攻撃的な話を目にするたびに空恐ろしい気分になる。
そう書いたところで綺麗事に過ぎないのだが、今みたいなヘンテコな世の中だからこそ、あえて綺麗事を行動指針にするのもアリだと思う。