2024年5月29日水曜日

タルタル、そしてエロ

今日も過去ネタを2つ。タルタルソースってなんであんなに美味しいのだろう。いつかドンブリに入れてたんまりと食べ続けてみたいと思う。もう一つは冒頭で使用したイラストが大好きだったからこれをベースに書いてみた話。


タルタル人

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変態街道

富豪記者ブログ: 変態街道 (fugoh-kisya.blogspot.com)








2024年5月27日月曜日

アーカイブ

 久しぶりにヨーロッパ方面に出かけているので更新をサボります。お詫びにアーカイブを2つ載せます。最初は私のクセともいえる「オノマトペ」について。二番目は懲りずに愛するタバコについて。


ムホムホ

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ラーク

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2024年5月24日金曜日

居酒屋エレジー


 

このブログではいっぱしの店でウマいものをシコタマ食べている書きぶりだが、大衆酒場も私にとっては憩いの場所だ。ホッピーとモツ焼きなどはオヤジ晩酌の殿堂入りメニューだと思う。

 

居酒屋に行けば居酒屋的なものが欲しくなる。オニオンスライスや梅きゅうといった野菜だって勢いで食べる。冷や奴もウチで食べる気にならないのに居酒屋だと美味しく感じる

 

マカロニサラダもあれば必ず注文したくなる。不思議なものでオッサンならみんな大好きなのに普通のレストランでメニューに用意されていることはない。居酒屋ならではの一品といえよう。

 

先日、ふらっと人形町の某人気モツ焼き屋に出かけた。目的はその店の妙にウマいマカロニサラダだったのだが、何とその日は品切れだった。途方に暮れた。仕方なくモツ焼きをそそくさと食べてホッピーをガブ飲みして30分ほどで出た。

 

居酒屋は気軽な分、あまりドカドカと飯を食べないのが普通だ。ちょろちょろとツマミを楽しんでホロ酔いになって終わり。問題はその後でやたらと空腹を覚えることだ。酒を飲んだ後は肝臓が忙しく働き始めるから脳みそが空腹状態だと錯覚するらしい。

 

飲んだ後にラーメン屋に入りたくなるのは人として当然の行動というわけだ。満腹中枢がおかしくなっているからラーメン大盛りだって食べられちゃう。私の場合、牛丼屋で特盛プラス牛皿という勇ましい注文を平気でしてしまう。

 

これは由々しき問題だと思う。私にとっても「ホロ酔い後の空腹」は今後の人生を健康で暮らせるかどうかの大きな問題である。何らかの解決策を考えないといけない。

 

で、無い知恵を絞って考えてみたのだが、バカな私の結論は実に単純だった。「居酒屋でしっかり食べる」。当たり前だが、ついついおろそかにしてきたそんな行動に励めば酔った後の大食いは避けられるはずである。

 

「居酒屋でメシをしっかり食べる」。これって一定年齢以上の中高年には案外ピンとこない話だ。思い当たる人は多いはずだ。酒をあまり飲まない若者だと居酒屋でも場違いのようにガツガツ食べるが、古い世代はツマミはちょろっとで酒が中心になる。

 

最近、友人との飲み会がいくつかあったのだが、やはり習慣とは怖いもので一軒目の居酒屋ではツマミをちょこちょこ食べるだけで終わってしまった。というわけで2件目の居酒屋で心を入れ替えて頑張ってみた。

 



某日、この日のメンバーは3人。八重洲某所の居酒屋でチャーハンを2種類と焼きそばを頼んでみた。アッという間に食べた。やはり“オッサン症候群”で一軒目はたいして食べていなかったせいである。

 

考えてみれば2軒目で炭水化物攻めをするなら、シメのラーメンを食べたのと同じだ。でも、2軒目でもいつものように枝豆だのポテトだので終わらせたらきっと3軒目としてラーメン屋か牛丼屋に入っただろうからこれはこれで正解である。

 

別な日、今度は4人での飲み会。人形町の魚のウマい居酒屋でしっかり飲む。刺し身をはじめそこそこ注文してしっかり飲む。繁盛店だったから時間制限があって追い出されて2軒目を探す。喫煙者に優しい店を思い出したのでそこに直行。

 

「肉十八番屋」という店がそこ。一服しながら飲み直し。ここでまた軽いツマミだけで済ますのは危険だからしっかりアレコレとオーダーした。

 



肉をウリにする居酒屋だから盛り合わせの肉を注文。ホロ酔いの2軒目としては見た目はちょっと重い。でも還暦が近いおっさん4人で何となく食べ切る。

 

肝心なのはその後のラーメン屋防止作戦である。というわけで、この店で肉盛り合わせ以外にソース焼きそばと塩焼きそばとガーリック肉チャーハンなるヘビーな締めメニューを注文してみた。

 

客層の中心は当然我々より若い層が中心だ。だから出てくる料理は良くも悪くもアブラギッシュ系が多い。焼きそばもチャーハンも油をしっかり使った仕上がりだった。

 



思えば30年ぐらい前ならどんなに油っぽい料理が出てこようが美味しくむさぼった。油っぽいということをネガティブに意識したことなど皆無だった。今では皆すっかり歳を取って出てくる料理の油にブツブツ言ってしまう。

 

端的にいえば焼きそばもチャーハンも「アヒージョ」みたいだった。でも酔っているせいでブツクサいいながら残すことなく食べきった。隣の席の客が食べていたタコライスがとてもウマそうに見えたが、さすがにそれを追加注文するほどのパワーはなかった。

 

で、楽しくワイワイと騒いで終了となったわけだが、“アヒージョ的炭水化物効果”でその後にラーメン屋に向かうことはなかった。でも帰宅後には太田胃散を大盛りで飲むハメになった。

 

やはりシメをしっかり食べるとしてもお茶漬けや焼きおにぎりみたいな王道を選択すべきだったのだろうか。理屈ではそうすべきと分かっているのだが、そんなシメだと結局は最後に余計なラーメン屋に足が向かいそうな気もする。

 

とりあえず今後も居酒屋では最後の「重いシメ」に重点を置いて過ごしてみようと思う。

 

 

 

 

 

2024年5月22日水曜日

神宮球場 古典の世界


 


かのベーブルースがプレーした野球場は世界に4つしか残っていないそうだ。その一つが神宮球場である。世界的な野球の聖地と言える存在だが、残念ながら再開発によって取り壊されることが決まっている。

 

べーブルースはもちろん、長嶋茂雄が青春を爆発させたのも神宮球場である。野球ファンならヤクルトスワローズの本拠地というよりも東京六大学野球のための球場というイメージが強い。

 

事実、六大学野球のために建設されたといってもおかしくない歴史を誇る。完成当時はまだプロ野球は誕生しておらず文字通りアマチュア野球の聖地だった。

 

ベーブルースを中心したアメリカチームが来日した際も神聖な球場を使わせるなと右翼団体が暴れたそうだ。明治神宮が管理運営しているという点からも今の時代からは想像できないほど神聖視されていたわけだ。

 

今ももちろん六大学野といえば神宮球場である。ひょんなことからこの春のリーグ戦を5週続けて観戦した。凝り性な私らしくハマってしまった感じだ。マメに足を運んだことで今更ながら球場が取り壊されることが残念で仕方がない。

 



今のラグビー場跡地にモダンな新球場が作られるそうだが、私はもともとモダンよりレトロが好きだ。六大学野球モダンな野球場で行われるなんて興冷めでしかない。

 

各大学の応援団が団旗を掲げて校歌を歌い、敵にエールを送りあうあの光景がモダンな球場で行わることは想像ができない。何事も永遠はないとは分かっているが何だかとっても淋しい。

 

大学生時代、神宮で野球観戦をしたのは3回か4回ぐらいだったろうか。急にハマっちゃったことで春のリーグ戦観戦だけで当時の回数を上回ってしまった。秋のリーグ戦も毎週通ってみようと思う。平日開催の東都大学野球も未体験だからぜひ時間を作って観戦したい。

 

この歳になるとどこの大学を応援するかというより若者たちの一生懸命なプレーを観ることが単純に楽しい。一応は母校を応援するが、母校とは無関係の試合も楽しく観戦している。

 



プロ注目の選手をチェックしてその動きを興味深く観察したり、ガイドブックで出場選手の出身高校などを見てアレコレ想像したり結構忙しく観戦している。

 

先日の慶應戦では昨夏の甲子園優勝メンバーで一気にアイドルみたいな人気を得た丸田選手が1年生ながら先発していたし、4番はあの清原ジュニアである。見応えがある。

 

今年初めの侍ジャパンの欧州代表との試合には大学生が3人選出された。日本代表の将来を担うことになりそうな有望株だが、唯一の野手として選ばれた明治の宗山選手だ。イケメンで打撃も守備もハイレベル。

 

この春のリーグ戦では体調不良で欠場が続いたが、当初の出場試合では私の目を釘付けにした。オーラが違うし、動き自体が他の大学生とは別格という印象があった。すっかりファンになってしまた。

 

神宮での大学野球観戦の楽しさはマメに席を移動していろんな角度から試合を観られることだ。プロの試合じゃないから基本的には空いている。バックネット裏付近も普通に座れる。

 



スタンドの傾斜のおかげでちょっと後ろに下がった席のほうが試合全体の動きが良く見えるが、バックネットやその周辺のネットに間近い席だとミットの音や打球音、ベンチからの声も聞こえて臨場感たっぷりで楽しい。

 

今頃になって楽しさに気づいた私だが、熱心なファンも多いみたいだ。若い女性のグループはもちろん、ソロ活女子も結構いる。絵に書いたような「野球好きなオッサン」も多い。一人黙々とスコアブックをつけながら観戦しているオバサンも目撃した。

 

プロ野球と違ってダラダラとプレーしないのも良い。テキパキとした動きで試合進行もスピーディーだ。面白い内容の試合だと2千円のチケット代は安く感じる。

 



学生応援席の賑やかさも一興だ。チャンスや得点時の盛り上がりはお決まりの応援歌や校歌も相まって結構迫力がある。昔から変わらぬ様式美みたいなもので、これが神宮球場という傑出したレトロの現場を彩る大きな要素になっている。

 

時代が変わっても昔から変わらないものは尊い。選手のユニフォームも然り。昔と同じデザインのままだ。応援席の様子も然り。野球界というか、日本のスポーツ界において大事に守り続けたい古典の世界だと感じる。

 



神宮球場が正式にいつ取り壊されるかはまだ不明だが、それまでは春と秋はマメに足を運んで「聖地での古典」を堪能したいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

2024年5月20日月曜日

私とカニの歴史

 

10年以上前は気が狂ったようにカニばかり食べていた気がする。今ではそんなに食べる機会はない。飽きたわけではないが、その昔、食べ過ぎるとコップの水が溢れる原理でアレルギーになって二度と食べられなくなると聞いてから控えるようにした。

 

意識して控えているうちに狂信的カニ食い男みたいな行動はしなくなった。これも加齢による執着心の薄まりだろうか。

 

もともとカニ好きだったわけではない。30代後半ぐらいになって目覚めた記憶がある。きっかけは「カニの壁」だった。その頃の私は必死に寿司修行に励んでいた。修行といっても客としての修行である。

 

オッサンになる頃にはいっぱしの寿司通になりたいと一念発起して、それこそ週に4,5回もお寿司屋さんに通って諸々の知識を吸収しようと奮闘していた。そんな修行もある程度進んだ頃に「カニの壁」にぶち当たった。

 

お寿司屋さんではカニはレギュラーメンバーではない。「今日はたまたま△◯ガニが入ったから食べます?」。そんな感じで勧められることが多いイメージがある。

 

当時、そんな場面が何度も続いたのだが、△◯ガニも◯☓ガニも私はよく分かっていなかった。ズワイだ、毛ガニだ、タラバだ、はたまたクリガニだのワタリガニだのと言われても知識の乏しさ故に真っ当な反応が出来なかった。カニの壁である。

 

とくにズワイガニの場合、越前ガニや松葉ガニや間人ガニなど産地によって呼び名が変わる。おまけにメスは香箱ガニだのセイコガニだのネーミングがいちいち違ったりする。

 

知識がなかった私はそれらの固有名詞もそれぞれが別個の種類のカニなのかと思いひたすら混乱していた。寿司屋の大将に勧められても真っ当な対応が出来ない自分が悔しくて、寿司修行の派生パターンとしてカニ修行にも励むことにした。

 

それ以来、ウマいカニを実体験することで急激にカニファンになり、わざわざカニのために旅をすることも何度もあった。このブログでも15年ぐらい前にそんな話を書いている。

 

カニと温泉と私

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/01/blog-post.html

 

カニで冷える

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/01/blog-post_08.html

 

その後、寒い海のカニをある程度理解したことで、それまで興味のなかったワタリガニまで研究しようと九州まで出かけたこともある。頭の中がカニだらけだった。

 

竹崎ガニ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/05/blog-post_11.html

 

その後も折に触れてカニの話を熱弁してきた。家庭人だった頃には自宅で生きた毛ガニを茹でたりもした。自ら体験したことで茹でたカニが時間の経過でどのように味が落ちていくのかも勉強できた。

 

上海ガニでフニャフニャ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/01/blog-post_19.html

 

鳥取でカニを食らう

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/12/blog-post_13.html

 

なごりガニ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/03/blog-post_17.html

 

そんなこんなで気づけばいつの間にかそれなりにカニに詳しくなった。きっと修行を終えたつもりになって食べる頻度が減ったのかもしれない。


いまカニの修行を始めたいと思っている人が一連のこの過去話を熟読したら一気にカニに詳しくなるのは間違いない。無料教材である。でも自分で身銭を切らないと体感出来ないのも確かである。

 

カニ修行に励んだ結果、私がもっとも好きなのは毛ガニだ。毛ガニもサイズ次第で微妙に味が違ったりミソが多い少ないが変わるので難しい面もある。

 

アレコレ書いてきたが、カニ修行の結果、私がたどり着いたのは世の中に「カニ」という名前がつくカニは存在しないという摩訶不思議な事実である。これについても以前このブログで書いた。

 

カニなのか、ガニなのか

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/04/blog-post_16.html

 

なんだかすっかり昔話ばかりになってしまったが、今日こんな話を書いたのは、久しぶりにカニメインの食事をしたことがきっかけだ。

 

日本橋にある「かに福」でホッコリした気分になった。この店は「御かにめし」をウリにする気軽に入れる店だ。「御かにめし」は何年か前に初体験したが、出汁茶漬けにして食べると、まさにホッコリという言葉がぴったりな気分になる。

 




平たくいえばカニのほぐし身をご飯に敷き詰めただけの一品だが、そのまま食べた後で出汁茶漬けにすれば2回楽しめるのが嬉しい。「御かにめし」には「普通」と「上」があるが、カニ身が多い「上」で決まりだろう。

 

もちろん、これだけ食べるのもアリだが、やはりアレコレとカニ絡みの一品モノを肴にして一杯やってからのシメで食べるのが幸せだ。

 

この日はズワイの刺し身、カニクリームコロッケ、カニすき、タラバのウニ焼きをシメの前に注文した。合わせた酒はヒレ酒ならぬ「つめ酒」である。これもまたホッコリジンワリハッピーな味がする。

 







先週金曜にこのブログで「ニッポンのウマいもの」がいかに私を幸福にさせているかを熱く書き連ねた。この日のカニ三昧もまた世界に誇れる我が国ならではの文化みたいなものだろう。

 

また冬が来たらカニ目的の旅でもしようと改めて決意した次第である。

 

 

 

 

 

 

2024年5月17日金曜日

ニッポンに生まれて

 

日本の食べ物はウマい。自分が日本人だからそう感じるのかと以前は思っていた。激増した外国人旅行者は口々に日本の食べ物を褒めまくっているから、どうやら日本の美食は地球レベルで真実みたいだ。

 

これまで出かけた国や地域は40ぐらいになる。すべて旅行でちょろっと覗いたぐらいだが、食べ物に感激する機会は多くなかった。どちらかといえば首をひねることのほうが多かった。

 

「親ガチャ」みたいな言い方をすれば、こと食べ物に関しては日本に生まれたことは「国ガチャ」における勝ち組である。どんなジャンルの料理も豊富に揃いそれがまた高いレベルだ。これって幸せなことだと思う。

 

日本に生まれたのが幸運と書いたが、50100年単位で早く生まれていたら今のような百花繚乱状態は楽しめない。飢饉に苦しむ時代に生まれたら行き倒れになった人の死体を齧っていたかもしれない。

 

逆に今と同じ時代にまったく別の場所で生まれていたら事情はまったく変わる。アフリカあたりの未開の国だったら今の私のように食を楽しむという発想すら無かっただろう。

 

世界に冠たるアメリカだって多くが田舎だ。毎日、豆とパンと決まった味の硬い肉ぐらいしか食べていない人も多い。そう考えると今現在の東京に暮らすことは「国ガチャ」どころかトンデモないレベルの凄い宝くじに当たったぐらいの幸せだと思う。

 

ちょっと大袈裟な書きぶりだが、先日、久しぶりに極上の水炊きとスープを堪能したので、ふとそんな感慨にふけってしまった。

 

新宿の市ヶ谷寄りにある「水炊き・玄海」は昔から鶏好きな大人たちを喜ばせてきた店だ。私が最初に体験したのはもう30年以上前になる。仕事の付き合いで連れて行かれたのだが、美味しくてビックリした。

 




この店の水炊きは何といっても野菜をいっさい入れていない点が素晴らしい。野菜のせいで薄まらず野菜の香りが邪魔になることもない。スープの旨味にほっこりする。

 

自分で行くようになってからはおそらく鍋のスープをおかわりしなかったことは一度もない。液体なのに酒の肴にもなるほどひたすら味わっていたい美味しさだ。

 

肝心の鶏肉も締まった肉質で旨味も強い。何切れだろうとエンドレスで食べていられる。コースしかない店だからいつも一番安いコースを注文して鍋の鶏肉とスープを追加注文するのが私のパターンだ。

 


 

コースだからちょこちょこ料理も出てくるが、いつもそちらのことは忘れてしまう。ただただスープと鶏肉をお腹がプカプカ鳴り出すまで堪能し続けるのが幸せだ。

 

店員さんによると外国人客も増えているそうだ。はたしてこの店の滋味あふれる水炊きをどう感じるのだろう。これぞニッポンの味とも言える。シンプルだけど深みがとてつもないこの味が理解できれば正しい味覚の持ち主だと認めよう。

 

妙に上から目線の書き方である(笑)

 

話は変わる。日本蕎麦の美味しさも外国人に理解できるのか気になるところだ。ラーメンなら油っぽいし小麦粉麺だから通用するのは当然だが、蕎麦は独特だ。食べ方だってよく考えればちょっとヘンテコだ。

 

わざわざ小さなおちょこに蕎麦をちょろっとつけてズルズルすするわけだから蕎麦文化に無縁の国の人からすれば一種異様な世界だろう。

 

同じ日本人でも明治維新後にエバって東京にやってきた薩摩の下級武士なんかは江戸前の蕎麦の食べ方がわからなかったらしい。ザルに載った蕎麦につゆを上からかけ回してしまい卓の上をつゆまみれにした失敗談を何かで読んだことがある。

 



先日、築地の「さらしなの里」で普段は注文しない変わり蕎麦を食べてみた。ゆず、よもぎなど季節ごとに変わり蕎麦は用意されているが、今の時期は茶そば。本格蕎麦屋がわざわざ作る茶そばに興味が湧いた。

 

茶そばを好んで食べたことはない。たいてい何かの付け合せ的な存在で茶の香りも風味もたいして感じた覚えがない。色だけ付いたテキトーな一品というイメージだ。

 

嬉しいことにこの日の茶そばは私のそんな思い込みを軽く吹き飛ばしてくれた。お茶の風味をしっかり感じた。色も妙に美しい。こんなレベルの茶そばなら普段からちょくちょく食べたいと思った。

 


鴨や蕎麦がき、天ぷらを肴に蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを楽しみ、せいろ、さらしな、そして茶そばを堪能した。どっからどう転んでも「ザ・ニッポン」である。若い頃とは違う中高年ならではの幸せを満喫した。

 

 

 

 

 

2024年5月15日水曜日

騙す女、貢ぐ男

 

新宿のタワマンに住む25歳の女性を刺殺したとして50代の男が逮捕された事件。なんだか哀愁を感じる話である。さんざん貢がされたのにソデにされた恨みで殺しちゃったわけだ。50代の男のバカさと哀れさにメディアはこぞって大騒ぎだ。

 

貢ぐために消費者金融から金を借り、趣味のクルマやバイクも売払い必死になって人生最後の結婚のチャンスに賭けたらしい。男女の距離感が分からない中年男の危なさを象徴する話だ。

 

先月は「頂き女子・りりちゃん」こと25歳の女が複数のオッサンたちから総額15千万円以上を騙し取ったとして懲役9年の実刑を食らった。こちらの案件ではオッサン達を騙して金をむしり取るマニュアルまで販売して荒稼ぎしていたが、新宿の事件後にそのマニュアルが“評価”されるヘンテコな事態になっている。

 

マニュアルには「趣味がないオッサンを狙え」という趣旨の内容があったそうで、新宿の事件もその点を守っていれば安全?だったという理屈だ。要は大事な趣味まで捨て去って貢ぐような男はあとが怖いという意味合いだ。

 

なんだかバカげているというか、マトを射ているようなビミョーな話である。いずれにせよ前後不覚になったオッサンの破れかぶれの行動ほど危なっかしいものはない。世相も相まってこういう洒落にならない事件は今後もどんどん増えるだろう。


若いオネエチャンが金満ジイサンをたらし込むといえば、かの「紀州のドンファン事件」を思い出す。いずれはあの事件が「騙されるオッサン文化」という現代病?の出発点として歴史に記憶されるような気がする。

 

そんな事件が増える背景は単純だ。結婚しない、結婚できない人が増えているのはデータ上も明らか。その多くが対人関係の作り方が苦手で、引きこもり気味な人も少なくない。今の時代、SNSを代表とするネットの世界やゲームに一人で没頭することで世間の現実を学ばないままオッサンになる人は多い。

 

昔でいうオタクっぽい人々ともちょっと違う。昔のオタクはオタクでコミュニティを作ったりして案外明るく人生を楽しむ人も多かったが、今の時代は根暗な被害妄想の中に生きる陰湿なタイプが増殖している。

 

やつあたり的な妙な復讐心みたいな動機で通り魔的事件を起こすような厄介な連中が増加していることは近年の諸々の事件を見れば明らかだ。いっぱしの年齢になっても冷静な判断、常識的な見極めが出来ない連中が物凄い勢いで増えているようだ。そんな連中を百戦錬磨の詐欺師が騙すのは簡単なことなのかもしれない。

 



かたやパパ活という言葉に象徴されるように若い女性がお小遣い付きでオッサンに付き合う文化?がすっかり定着した。しょせんはお金ありきのキツネとタヌキの化かし合いだから手練れの女子はニブいおっさんを簡単に手玉に取る。

 

「頂き女子・りりちゃん」が9年もの実刑判決を受けたのも、チマタに横行する詐欺女による被害が思った以上に甚大だから一種の見せしめ効果を狙ったものという考えるのが妥当だ。

 

格差社会、貧困の固定化によって若い女性のカジュアル売春が珍しくなくなった。それを支えるSNSは日増しに便利になり、SNSを舞台にした怪しい詐欺も横行する。そんな危なっかしい世界にもかかわらず居場所を求めて男達が誘蛾灯に群がるように集まる。


社会性の欠けた大人の増加や結婚できない男性の増加という時代の特性を考えると、SNSを入口にした「騙され事件」が減ることはない。今この瞬間もどこかで誰かが騙されてむしられるのが「普通のこと」になっているのだろう。

 

思えば、昔から水商売などの女性に騙されて身を滅ぼす話は珍しくない。松本清張の作品の世界もそうした“業”や“サガ”のオンパレードだ。今の時代はSNSの普及で素人とプロの線引が曖昧になったからトラブルの広がり方も際限がない。清張先生が生きていたらどんな作品に仕上げてくれたか興味深い。

 

ちょっと軌道修正。


しょせんオッサンと若いオネエサンの組み合わせは大半が「カネがすべて」だ。その基本原則を忘れるからトラブルになる。冷静さを失って舞い上がっちゃうオッサンがシャレにならない被害を受ける。

 

ある意味、女子の気を引くために小遣いを武器にするのはオッサンの特権?でもある。それ自体は世の中の潤滑油としてアリだと思う。需要と供給の話だ。ただ、前提として「常識的な金額に留める」という暗黙のルールは存在するべきだ。そこがすべてのカギだろう。

 

ギャンブルだろうが、女遊びだろうが、趣味の世界だろうがこの基本的な前提は非常に大事だ。人によって経済レベルは違うが、誰にだって「絶対防衛ライン」はある。そこを守れないのは単なるバカで、水原一平サンやナントカ製紙の元会長サンという奇特な?世界の話になってしまう。

 



お人好しの私だってこれまでの人生でずいぶんオネエサンたちにタカられた。当然、下心の見返りにタカりに応じてきたところもある。それでも自分の中で金額の線引きは当たり前にある。だから地団駄踏んで悔しがるような騙され方をしたことはない。

 

逆に言えばそんなチマチマした考え方だから豪放磊落なり無頼漢になるなんて無理だったわけだ。あくまで自分の凡人ぶりを実感する。たった一度の人生、突き抜けちゃった人をちょっとだけ羨ましく感じたりもする。

 

話を戻す。

 

おカネありきの男女関係と聞くと眉をひそめる人も多いが、一概にそんな悪いことばかりでもない。たいした金額ではなくても「カネが前提」という部分を男側も一種の壁にして相手との距離感を適度に保てるという効果もある。

 

男女の仲について勘違いをするのは何も男だけではない。女性だって勘違いをして必要以上に距離を縮めてくることがある。その防波堤になるのがおカネの存在だ。その壁のおかげで適度な距離を維持できるのも確かだろう。

 

私自身、これまで何度もインチキ臭いタカり話を体験してきた。やれ親の入院費だ、やれ弟の学費だ、はたまた整形費用を騙されて自己破産しそうだ等々、当たり前のように私には無関係なテーマだ。知ったこっちゃない。当然、すべて断った。もう少し信じたくなるようなマトモな作り話を考えろと言いたくなる。

 

財布を落としちゃったから2万円ほど口座に送金してくれという寸借詐欺みたいな話もあった。よほど親しければ別だがそんな相手ではないから断った。でも、2万じゃなくて2千円でいいと言われたら信用したかもしれない。案外そんなものだろう。

 

一応、私はレッキとした独身だから今も若い女性たちと付き合いもある。交通費名目で小遣いも渡す。でも「もっとちょうだい」みたいな空気を感じたら残念ながら終了である。もっと渡せるにしても、いや、目的完遂?のためにもっと渡したくても、一度応じたら必ずそれがクセになるのが人間だ。後ろ髪を引かれてもオサラバしたほうが賢明だ。

 

一種のヤセ我慢みたいな部分もある。でもそこさえブレなければ変な詐欺には遭わずに済む。人間って不思議なものでタカったりせびったりしてこない相手には逆にこちらからサービスしたくなる。どうせならそういうノリでおカネを渡したいものだ。

 

実際、そんな流れで高い服を買ってあげたり、結構な金額を渡してしまったことは何度もある。もともと私はどちらかといえば太っ腹なほうだから、上手く取り入ってきた女性には割と財布のヒモが緩くなってしまう。

 

もちろん、常に「程度問題」という意識は維持しているが、数を重ねれば結構な出費になる。結局はアレコレと強がったところで無駄に散在してきたのは事実だ。

 

でも騙されたとは思っていない。そう信じたい()

 

何だか話がまとまらずに終わってしまった。


 

 

 

 

 

2024年5月13日月曜日

野菜はコーラか?


テレビを見ていたら野菜だらけのマズそうな中華丼を食っていたオヤジが「野菜不足を感じたから今日はこれです」と得意げに語っていた。はて、野菜不足を感じるとは一体どういうことなのだろうか?

 

来年還暦を迎えるぐらい長く生きてきた私である。物心ついてからは野菜を天敵とみなして毛嫌いしてきた。いくつかの野菜は年齢とともに食べられるようになったが基本的に野菜は嫌いだ。実際に食べない。でも野菜不足を感じたことなどない。

 

トンカツに付属してくるキャベツや鍋に入っているネギなんかは一応食べることもあるが、ハンバーグやステーキに添えられた人参やインゲンなんかに手を出したことはない。

 

添え物野菜は手を付けなければ次のお客さんにも使えるだろうから綺麗なまま触れずに残している。気遣いバッチリである。かろうじて蕎麦に欠かせないネギみたいな薬味や生姜焼きに付属する玉ねぎや大根おろしなどは苦手ではない。むしろ好きだ。でもいわゆる緑黄色野菜と呼ばれる連中はすべて嫌いだ。

 

自慢気に書くことではないが、あと10年ぐらいこんな食生活のままでいられたら「野菜なんか気にしなくても大丈夫ですよ」という実体験を全世界に発信しようと考えている。

 

これまで半世紀以上も野菜無しで健康で過ごしてきた。大病もしていない。膵臓がんのリスクのせいで昨年は細かくチェックしてもらったが、あれも食生活は関係ないと専門医に言われた。

 

持病といえば時々、扁桃腺が暴れるぐらいであれも野菜うんぬんの症状ではない。高血圧、高コレステロールは野菜不足も原因かもしれないが、そんなものはクスリでコントロールしているから問題はない。野菜をちゃんと食べていたって中高年にもなれば血圧やコレステロールが高くなるのは珍しくない。

 

一応、青汁やサプリは結構真面目に接種している。10年以上そんなものに頼っているが、普通に元気でいられる原因がそれだとしたら苦手な野菜を吐きそうになりながら食べる必要はないという理屈になる。

 

ツラく苦しい思いをして苦手な食べ物にトライするのは相当な忍耐が必要だ。そんなことを繰り返していたらきっとストレスで癌になってしまうと真面目に感じる。

 



ネットで見つけた「野菜を食べないとどうなる?」というページでは野菜不足によって起こる8つの症状が羅列されていた。画像の通りだが、私にはほぼ当てはまらない。

 

便秘もしない、肌も荒れない、肩はこらない、貧血にもならない、イライラもしない。強いていえば生活習慣病になりやすい点が一応合致するぐらいである。このサイトを見たことで逆に何も心配はないみたいだと変に納得してしまった。

 

「コーラを飲みすぎると骨が溶ける」。まことしやかにそう言われて育った世代だが、周りを見渡しても骨が溶けたやつは皆無である。「野菜を食べないとウンヌン」という話もそれに近い迷信みたいな話じゃないかと思い始めている。

 

もちろん、青汁様やサプリ様あっての私の健康状態だとしたら、さすがに「野菜全否定」は出来ない。一応はサプリなどの助っ人を真面目に頼ることを前提にすることで成り立つ考え方かもしれない。

 





最近の自作ライナップである。相変わらず野菜は無い。冷やし中華は沖縄そばバージョンである。ふるさと納税で取り寄せた「東江そば」という人気店の逸品だ。

 

コシの強い太めの沖縄そばの麺がバツグンで付属の豚バラ肉も沖縄感を盛り上げてくれる。麺の完成度が高いから彩りのためだろうと決してキュウリなんか入れてはダメだと思った。

 

ドライカレーは市販の素を使って味を微調整しただけ。具材として追加したのは鶏肉とマッシュルーム、玉ねぎだ。玉ねぎもみじん切りになっている冷凍モノを使っているから簡単調理の極みだ。ウスターソースを隠し味として追加すると味が広がる。

 

パスタの具材はツナとエリンギとしめじだ。もちろん野菜は出番なし。これも「まぐろのガーリック醤油」というレトルトパスタソースにツナ缶ときのこ類を追加投入して仕上げに粉末のバジルなどで味を微調整しただけ。

 

家で作るのもこんなラインナップである。外食に行けばウナギか寿司屋、トンカツ屋あたりが中心だ。野菜とはまるで無縁である。大好きな洋食屋さんに出かけてもクリームコロッケやオムライスみたいなメニューを選ぶし、シチューを頼んでも人参や芋は残す。

 

大衆酒場に行っても焼きとんや焼鳥あたりが基本で冷奴やマカロニサラダ、もっといえば赤いウインナーを嬉々として食べる。野菜とは縁がないまま今の今まで来てしまった感じである。

 

結論。青汁やサプリってエラい、そして凄い。それしか言いようがない。




2024年5月10日金曜日

世代間ギャップと鰻

 

 いつの間にか自分が旧人類になっていることに時折ビックリする。若い世代に通じない言葉が増えてきた。「ズック」とか「トックリのセーター」とかを口にしようものなら「何ですのん?それは?」と返される。

 

先日はカルピスをめぐって驚いたことがあった。水で薄めて飲むのがカルピスの基本だということを若い世代は知らないらしい。思えばカルピスウォーターなる“完成品”が世に出たのは随分前の話だ。

 

カルピスウォーターを初めて飲んだ時に「妙に薄いな」と感じたと同時にこれが正しい水とカルピスのバランスだったのかと感心したことを覚えている。育ちが良い?私は贅沢にも家でカルピスを濃い目に作っていたわけだ。

 

当時、お歳暮などで家に届くカルピスは宝物に見えた。ぶどう味みたいなイレギュラーなやつが混ざっているとかなり興奮した。割る時の水加減に気を配るのもいま思えば楽しい時間だった気がする。

 

話は変わる。真っ当な専門店のウナギを食べたことがない若者も多いみたいだ。10年ぐらい前から稚魚の不漁を理由に価格が高騰したことで若者が手を出せる食べ物ではなくなったのは確かだ。

 

昔ならハレの日に家族でウナギを食べるような文化があったが「失われた30年」という貧困志向も相まってそんな贅沢も激減したのだろう。

 

食べるにしてもせいぜいスーパーで売っているウナギか牛丼屋が期間限定で提供する鰻丼ぐらいになり、専門店で職人が手掛けたウナギを口にしたことがない若者ばかりになったのも頷ける話だ。

 

先日、高校生の息子と散歩ついでに吉野家に入った。ダウン症の息子は体質的に太りやすいので普段は食べ過ぎないように母親がわりと厳しく管理している。私と会うのは月に1度か2度程度だからその際はドカ食いをさせている。息子にとっては至福の時間だと思う。

 



この日は牛丼特盛に加え唐揚げ丼に鰻重、親子丼を注文。私が食べたのはトータルで1人前ぐらいだったから息子は3人前ぐらいを余裕で平らげたわけだ。牛丼がウマいのは当然だが、ちょっと驚いたのが鰻重の進化だ。

 

牛丼屋の鰻重はマズい。私は長年そう思ってきた。マニアックに老舗のウナギ専門店に出かけている私の口がおごっているのも確かだが、数年前に何度か食べた時の記憶が最悪だった。小骨だらけで臭みも感じた。こんなものを食べて育つ子供はウナギが嫌いになるだろうと心配していたほどだ。

 

ところが久しぶりに食べてみた吉野家の牛丼は見違えるように進化していた。並盛で1200円、二枚盛り2千円である。コスパ的に充分合格と言えそうだ。もちろん、老舗の専門店と比べるほどではないが、子供が食べてもウナギを嫌いにならないぐらいにはちゃんとしていた。

 

「あれれ?案外ウマいんじゃないか!?」。その日は少ししか食べなかったから確認したくなって後日ウーバーで注文してみた。過去に何度かウーバーで牛丼屋の鰻重を注文してその都度後悔していた。ちょっと勇気を出して再トライしたわけだ。

 



ふむふむ。やはり以前に比べると格段に進化している。エラそうな書きぶりで申しわけないが結構満足した。食後に変な味が口に残るようなこともなかった。身も厚いしタレもベトベトではなかったしヘタな和食屋で食べるよりマトモかもしれない。二枚盛りだったらかなり贅沢な気分に浸れるはずだ。

 

ニッポンの企業のたゆまぬ努力の賜物だと感心した。中国のウナギ養殖場も日本企業の指導で昔とは様子が変わっているらしい。逆に言えば数年前のあのマズさは何だったんだろう。よくあんなレベルで商品展開したものだと逆に気になってしまった。吉野家以外にもウナギを出す他の牛丼チェーンも同じように進化しているのだろうか。

 

ついでにウナギのネタをもう一つ。今まで「まあまあ」だと思っていた鰻屋さんの鰻重が妙に美味しくて嬉しかった話である。お店は神楽坂にある「志満金」。過去に何度も食べに行ったことがある店だ。

 



雰囲気も渋めでお気に入りの店の一つではあったが、ナゼかこの日は今までよりも遥かに美味しく感じた。今年食べた鰻重の中で一番美味しく感じた。ちょっと首をひねっちゃうほどウマかった。

 

老舗だからそうそう味が変わるはずはない。私の味覚に異変が起きたのか、それともよほど機嫌が良くて体調も良かったのか、はたまたたまたま一番の腕っこきの職人さんが手掛けた鰻重だったのだろうか。

 



吉野家の鰻重みたいに確認のために再トライしようかと思っている。最近は職場や家の近くでしか外食しなくなってしまったから今回みたいな刺激は新鮮だ。

 

ここ5年ぐらいですっかり開拓精神が希薄になり、ジャンルを問わず決まった店にしか足を運ばなくなった。この悪い癖?のせいで老け込んでしまわないためにもマメにいろんな場所に行ってみようと思う。

 

 

 

 

 

 

2024年5月8日水曜日

クリームシチュー問題

 

「クリームシチューをご飯にかけるか問題」は結構広い範囲で議論のマトになっているらしい。要はパンとともに食べるのか、カレーライスみたいにご飯とセットで食べるのかという話である。

 

人の好みだからどっちだって良いのだが、私は断然ご飯にかける派だ。理由はない。ただ子供の頃からそうしていたからだ。ついでに言えばパンは朝しか食べないから必然的にそうなる。

 

逆にパンじゃなきゃイヤだという人がそれなりに多いことに驚く。カレーのルーを前にパンを出されたら私は気を失うはずだが、それに近い感覚だ。ビーフシチューしかり、液体系のものはご飯にかけて食べたい。

 

今までレトルトカレーやレトルトハヤシの研究に励んできたことはこのブログでも何度も書いた。

 

ハヤシ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2023/12/blog-post_29.html

 

カレー

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/100.html

 

イマドキのレトルトはかなり本格的な商品も多く、昔の感覚のままで食べずにいるのは実にもったいない。というわけで、最近はクリームシチューのレトルトをせっせと研究している。

 

クリームシチューのレトルトはスーパーでは地味な存在だ。レトルトカレーはあってもシチューは無いケースが基本だろう。あってもハウス食品の定番品がポツンと置かれているぐらいだ。

 

定番のレトルトクリームシチューは私が苦手な野菜が主役みたいな感じだ。人参や芋が存在感バリバリのサイズで入っている。シチュー自体が食べたい私は敬遠しがちだ。

 

それ以前に世の中にはクリームシチューのレトルト自体が少ない。ネットでせっせと調べたがかなり限られた商品しか見つからない。レトルトカレーが100としたらレトルトハヤシが25ぐらいでレトルトクリームシチューは5ぐらいの割合でしか存在していない感じ。スーパーに置かれないのも仕方ない。

 



大きめのちょっと高級路線のスーパーだと「新宿中村屋・濃厚クリームシチュー」を見かけることがある。入手しやすいだけで有難いが、こちらも人参や芋が威張っているから個人的には下位ランクだ。でもシチュー自体はかなり美味しいので野菜が平気な人にはオススメだ。

 




ネットで取り寄せた「たいめいけん・チキンクリームシチュー」もシチューの味がとても良かった。ご飯との相性が良いのはこれが一番だったかもしれない。野菜は小さめだったからドカすのがラクなのも良かった。

 

お次もネットで取り寄せた「三笠会館・クリームシチュー」。洋食界の老舗のものだけに期待したのだが、個人的には低評価。ちょっと味にクセを感じた。レトルトっぽさが強い感じか。



どうしても「野菜問題」がクリームシチューの壁になっているのは確かだが、ネットであれこれと口コミを見ていたら「野菜がほとんど入っていない」という悪評?のある商品を見つけた。それなら私には悪評どころか朗報である。コスモ食品という会社の「ごろっとチキンのクリームシチュー」である。

 


生クリーム感が強いのでパンに合わせて開発されたような雰囲気だが、ご飯派の私は普通に白米をお供に食べている。何が素晴らしいかといえば人参がいっさい入っていない点である。芋も小さなカケラがちょこっと入っているだけでチキンは多め。上の商品画像は追加で具を入れた際のものだろう。下の画像が実態だ。

 


 

ネット上の商品ページには「お好みの具材を入れて楽しんでください」と書いてあったから野菜好きが後から好きなものを追加することを想定しているわけだ。野菜嫌いの私にとっては実に素晴らしい商品コンセプトである。潔いぐらいシチュールーだけである。リピート確定だ。

 

他にもいくつものレトルトクリームシチューを取り寄せてみた。どれもそれなりにウマいが「コスモ食品バンザイ」は変わらない。人参が入っていない商品は他にはまだ見つかっていない。

 




こんな偏った論評を書いても誰かの参考になるとは思えないが、レトルトクリームシチューは世の中であまり注目されていないから、まずはそこから改革を始めて欲しいと切に願う。

 

私の場合、主に朝ごはんの際に面倒だからレトルトを利用するのだが、カレーやハヤシだとちょっと重いと感じる時もある。その点、優しい味のクリームシチューなら朝向けだと思う。正直こっちも朝からクドいのだが、色が茶色や黒じゃなくて白っぽいから何となく朝向きだと信じ込むようにしている。

 

理想の朝シチューを求める私のレトルト探求は今後も続きそうだ。

 

 

 

 

 

 

2024年5月1日水曜日

幻の沖縄そば

 

ふと食べたくなるのが沖縄そばだ。「そば」とは名ばかりで東京人がイメージする蕎麦とはまるで別物だが一応「そば」である。コロナ前には沖縄そばだけ食べていたような旅もした。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/01/blog-post.html

 製法的にはラーメンと同じだ。沖縄は古い時代には琉球王国として独自に中国と交易していた。その流れで生まれた麺だからラーメンっぽいわけだ。

 

余談だが、沖縄が昭和40年代に本土復帰を果たした際に「沖縄そば」の名称をめぐって一悶着あったらしい。公正取引委員会だかどこかの役所から「製法や原料が違うのだから“そば”と名乗ることは許さん」とイチャモンがついたとか。

 

結果的には地元の人達の頑張りでどうにかこうにか無事に名称利用が認められたのだが、もしダメ判定のままだったら今頃は沖縄ラーメンと呼ばれていたかもしれない。

 

そんなエピソードひとつとっても沖縄の人の戦後は想像を絶する苦労があったことが偲ばれる。本土の人間の傲慢さに悔しい思いをしたのだろう。ボクシングのレジェンド・具志堅さんも上京後はアパートひとつ借りるのにも差別されて大変だったらしい。

 

いま沖縄はどんどん発展しているが、いろんな特区に指定してでもバンバン繁栄してもらうのが日本国としての責任だと感じる。

 

話がそれた。沖縄ラーメンより沖縄そばのほうが何となく情緒がある。やはり名称って大事だ。今更ながら当時の沖縄の人々の頑張りに敬意を評したい。

 

大学生の頃、ダイビングで頻繁に沖縄を訪ねた。もう40年近く前になる。当時は東京に気軽に入れる沖縄料理屋は無かったから現地で初めて食べた沖縄そばに衝撃を受けた。

 

正直、マズいと思った。そばだと聞いていたのに謎の麺に薄いスープ、おまけに当時は苦手だった紅生姜まで乗っている。トッピングのソーキがウマかったので何とか食べたが、第一印象は最悪だった。

 

その後、何度も仕方なく食べた。ダイビングの昼休憩に選ばれる店が沖縄そば屋ばかりだったので気づけば結構慣れ親しんできて美味しさが理解できるようになった。その後、沖縄には20回以上は旅をしたから今では大ファンである。

 


 

有楽町の交通会館の地下にカジュアルな沖縄そば専門店がある。ちょくちょく立ち寄る。ソーキが別注出来るのが魅力でいつも2000円近いコストをかけて豪勢に食べる。このあたりは富豪級である。

 

肉を食べに行ったのか麺を食べたのか分からないような感じだ。今では紅生姜も店から注意されそうなほどドバドバと何度も入れてしまう。ラーメンにしても必ずチャーシューを多めに食べたい私にとってソーキをぶりぶり投入する沖縄そばは至高の一品だ。

 

有楽町付近には沖縄物産展みたいなショップがいくつかある。立ち寄るとついつい沖縄そばや調理済みのソーキなどをまとめ買いする。自宅で手軽にソーキを多めに入れて楽しむことになる。

 


 

時には沖縄そばの麺を使って自家製焼きそばを作ることもある。縮れた平打ち麺を使うと普段の焼きそばとは違った焼きそばが出来る。なかなかオススメです。

 

過去に現地で何度か沖縄焼きそばを食べて感激したことがあるので再現を試みるのだが、私が使う市販の焼きそばソースだと何だかんだ言って味は単なるソース焼きそばに落ち着いてしまうことがちょっと残念ではある。

 



沖縄そばにも細麺や太麺、平打ち麺などいろいろあるが、やはり沖縄っぽさを一番感じるのは平打ち縮れ麺だろう。この麺にはちょっとした思い出もある。

 

20年以上前のとある沖縄旅行の際、帰りの那覇発の飛行機で食べた機内食の話だ。確かJALだったと思う。平打ちの縮れ麺を使った冷やし中華風の沖縄そばの和え麺が出てきた。ごま醤油風のタレが麺に絡んで卒倒するほどウマかった記憶がある。

 

あれから沖縄に行くたびに沖縄そば屋や沖縄料理屋で似たようなメニューがないかと常にチェックしているのだが、それっぽいものを見つけたことはない。きっと機内食業者が苦し紛れ?に作った思いつきメニューだったのかもしれない。

 

私にとっては死ぬまでにもう一度食べてみたい幻の一品である。